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形象の逆説
推薦図書

形象の力

G. Boehm, Studien zur Perspektivität. Philosophie und Kunst in der Frühen Neuzeit, Carl Winter: Heidelberg 1969. (ベーム『遠近法研究 ―― 初期近代における哲学と芸術』)

 ドイツの60年代の成果。本邦ではいまだにパノフスキー止まりの「遠近法論」が多いが、本書はそうしたことはすでに織り込み済みのうえで、近代知が成立する経緯と遠近法とを結びつけるのみならず、そこに現象学的な知の成立史までをも組み込もうとしている。しかもその分析が、教科書的な解説にとどまっていないことは、本書の一つの要が中世末期の思想家クザーヌスの解釈にあるといった周到さを見ても分かるだろう。フッサール、ハイデガー、ヨルクという現象学の基底層を浚いながら、その議論の流れがクザーヌスに逢着するという経緯はいま読んでも唸らされる。しかもこの著作、50年代に出ていたバルトルシャイティス『アナモルフォーズ』やホッケ『迷宮としての世界』をも「学問的に」取り入れながら展開されている辺り、その懐の深さに改めて驚かされる。哲学的・論理的に議論を徹底する方向と、そうした厳密さから逸れて行くマニエリスム的な感性がバランスを取っている稀有な例。(追ってこの著者の現代の活動も紹介したい。)


蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社出版 2000年)

 一見すると混乱した色彩の乱舞にしか見えない図柄を、ある特定の視点から見るか、あるいはある特殊な光学機器(シリンダーと呼ばれる円柱状の鏡)に映すと見事に何らかの絵が浮かびあがる「騙し絵」をアナモルフォーズという。本書は、そうした複数の観点から見る多視点的な見方をモデルとして、複雑なエリザベス朝演劇の諸相を鮮やかに読み解いてみせる。アナモルフォーズのように多様な視点を許容しながら、そのどの視点をも絶対化することのない読解は、現実をその複雑さのままに演劇化するエリザベス演劇の豊かさを巧みに浮き上がらせる手法だと言えるだろう。マーロウの読解における階層を異にする聴衆、『モルフィ侯爵夫人』における演出法への洞察など、通常のテクストの読解のみからは思いも寄らない解釈が呈示され、各章ごとに眼から鱗の落ちる仕掛けが仕込んである。とりわけ、最初に分析の素材となったマーロウの『ファウストゥス博士』の分析は印象的。その対象となった、O lente lente currite noctis equi! というラテン文が耳について離れなくなる。

 Will-iam Shake-speareやGrace、Greeneといった語に秘められた言葉の「騙し絵」も、通例なら単なる言葉遊びに見えてしまうところが、影と実体の流動化などの根本的な議論を経由したかたちで導入されるために、きわめて示唆に富んだ解釈として、読むものの眼を奪う。後書きで、著者がヴァールブルク研究所に寵った経験をもつということが書かれているが、まさに「細部に宿った神」から全体の精髄を映し出この著作は、それ自体がホログラムのような、視線を惑わせ、隠れていた真実に想到させる煌びやかな輝きを放っている。このような読解によって浮かびあがったエリザベス朝演劇に較べると、自然主義的な額縁演劇がいかに一つの視点を観客に対して強いてくるものかということまでが逆に照らし出されてくるようだ。 

 全体を記述している文体は平易で、それほど凝ったものではない。読みやすさという点では大きな長所だが、内容が内容だけに、文章自体にもそれに見合った絢爛さを求めたくもなってくる。もうすこし文章そのものに意匠を凝らせば、立派に「作品」たりえたものだろうと思える。「研究書」以上、「作品」一歩手前というところに落ち着いてしまったのがやや惜しい。


川崎寿彦『鏡のマニエリスム ―― ルネッサンス想像力の側面』(研究社出版)1978年

 鏡のメタファーを通じて、ルネサンスからバロック期への文学・思想の歴史を「観念史的」に分析する。同じく鏡のモデルを中心に据えたローティ『哲学と自然の鏡』が1979年公刊なので、その不思議な符合に驚かされる。『鏡のマニエリスム』は、ニコルソンの学統に傾倒する著者の真骨頂とも言えるもので、文学と科学の境界などはあたかも初めから存在しなかったかのよう。新書版ながら、その内容はいたって充実している。ただ現在はこの著作は、古書店でも入手が難しくなっているのは残念。またこの川崎寿彦では、名著『庭のイングランド ―― 風景の記号学と英国近代史』(名古屋大学出版会)、その内容をコンパクトにした『楽園と庭』(中公新書)もいい。また大著『マーヴェルの庭』(研究社出版)も傑作だが、現在ではかなり入手困難だろう。


ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社)
  ―― 視覚のパースペクティヴから見事に整理された近代論 ――

 「世界像の時代」(ハイデガー)や「表象」としての世界(フーコー)ということが取り沙汰されるように、近代が視覚優位の時代であるとはよく語られることではある。しかしその内実を確認しようと思うと、そこには多くの場合、相当に曖昧で雑多な要素が含まれていることに気づかされる。本書は、近代と視覚をめぐる多様で錯綜した論点を、五本の論文を中心に、簡潔にして充分なかたちで纏め上げた好著である。本書に論文を寄せている五人の錚々たる論客は、視覚や身体といったものは、それ自体が歴史的に構成された産物であるという共通の認識にもとづきながら、それぞれ独自の視覚論を展開している。さらに、ここで論じられる「視覚」とは、一つの身体能力であるにとどまらず、近代を形作る主観・客観図式や、認識主観の特権性といったものを表す特権的メタファーでもあるという理解も、五人の著者の共有するところである。

 冒頭のマーティン・ジェイの論考は、とりわけ視覚をめぐる議論を腑分けして、要を得た見取り図を描くものとなっている。ここで前提となっているのは、アルパース『描写の芸術』(ありな書房)やビシュ=グリュックスマン『見ることの狂気』(ありな書房)などのきわめて現代的な論点である。そのためにジェイの議論は、それらの書物に関する格好の案内ともなっている。それは、続くクレーリーの論考にも言えることであり、その論文は、著者自身の『観察者の系譜』(十月堂)のエッセンスとなっている。

 クラウスとローズは、リオタールやラカンを踏まえながら、視覚とセクシャリティ、あるいは視覚と身体といった論点を縦横に論じ、ブライソンは西谷啓治や水墨画を手掛かりに、視覚の脱中心化を模索するなど、その議論は実に多岐にわたっている。また本書は、シンポジウムの記録が核になったものであるため、各論考についての質疑応答と全体討議の模様を収録しているというのも特色の一つである。それぞれ分量的には短いものではあるが、論文という形態とは違った生の議論に立ち会えるという意味で貴重な資料である。それぞれの論考が孕んでいる問題点や発展の可能性がそこでの討論によって炙り出されてくるばかりか、近代の視覚中心性に対する五人の論者それぞれの態度の微妙なずれが垣間見えてくる。

 こうした特色ゆえに、本書は、従来の議論の総括であると同時に、今後の多様な議論を紡ぎ出すための出発点であり、またそれらの議論にある程度の見通しを与えるナヴィゲーターとしての役割をも担っている。その意味で、繰り返し参照し、再読するに足る一冊であろう。200頁あまりの小著ではあるが、これが持っている意味は計り知れない。しかもその記述の簡潔さのお陰で、錯綜した議論に対する透徹した「視界」が得られるというのも、本書の大きな魅力である。それを考えると、本書の小ささは逆に大きな利点なのである。翻訳および訳者解説も実に優れている。


エンブレムとアレゴリー

W. Schneiders, Hoffnung auf Vernunf, Meiner: Hamburg 1990.
(シュナイダース『理性への希望』)

 近代の哲学書の図像学。ルネサンスくらいまでの図像は随分と見ることができるようになったが、18世紀のものとなるとまだかなり珍しいだろう。しかも時代は「啓蒙主義」の世である。近代的合理性などを謳いながら、その実まだバロック的な寓意表現が当然のように用いられているのにまずは驚愕する。しかしここで分析されるのは、そうした寓意表現がどこで最終的に息の根を止められたかという経緯のほうである。想い起こしてみよう。バウムガルテンの『美学』の扉には確かに図像があしらわれている。ではカントの『純粋理性批判』(1781年)の扉に図像があっただろうか。そう、やはりカントのきわめて概念的なディスクール近辺が一つの分岐点を成しているらしいのだ。そしてこの場所は同時に、近代的理性が本格的に起動する地点でもある。それはまた、ヴィーコのアナクロニズムの感性をもってしては押し留めることのできない流れだったのだ。


小黒康正『黙示録を夢みるとき ―― トーマス・マンとアレゴリー』(鳥影社 2001年)

 「黙示録的アレゴリー」という概念を提示し、それによってトーマス・マン文学の全体像を描こうとする試み。博士論文を公刊したものだが、学位論文にありがちな無駄な繰り返しや、過剰な引用などがなく、書物として実に完成度の高いものになっている。フィオーレのヨアキムの影響を元にドイツ文学における黙示録を論じ、ベンヤミンに見られるアレゴリー復権を敷衍する前半では、きわめて水準の高い記述が展開される。二つの大戦を挟んで展開されるマンの文学活動を、この黙示録のアレゴリー的展開として読み解く後半も、無駄がなく、読み手を飽きさせない。最終的に、『ヨゼフとその兄弟たち』と『ファウストゥス博士』の文学世界は、「20世紀において聖書が語り直されたもの」、しかもそれは救済が与えられることのない失敗した再現、「聖書のパロディー」とする結論もなかなか見事。
 そういった意味で、書きぶりも立派な好著なのだが、マン文学をアレゴリー概念によって整理するというその基本的発想には、やはり抵抗を感じざるをえない。黙示録的世界観や聖書の語り直しという論点には異論がないが、マンの作品そのものをアレゴリーと結びつける作業は、作品自体のもっている質感を棚上げして、理論的操作としてなされているような印象が最後まで拭いきれない。ベンヤミンによるアレゴリー論というフィルターを通してアレゴリーの理論的条件を抽象し、それをマンにも当てはめているようなところが多分に感じられる。『魔の山』や『ファウストゥス博士』に頻出する数象徴や名前の象徴が強調されるが、こうした特徴をもって直ちにその作品をアレゴリーと言い切るには無理がある。マンの「神話を再び生きる」といったような感覚や、ライト・モチーフ的な技法を果たしてアレゴリーと言えるものかどうかは疑問である。もしこの著者の論をそのまま使うなら、ヴァーグナーの『ニーベルンクの指環』もアレゴリー的作品ということになってしまうだろうが、そこまでの概念の拡張は俄かには肯定しがたい。

言語・逆説・思弁

Chr.ビュシ=グリュックスマン『見ることの狂気 ―― バロック美学と眼差しのアルケオロジー(ありな書房)

 合理的な視覚中心的な近代の知性がその裏面として孕んでいる狂気の眼差しについての、それ自体がバロック的な論考。幾何学的・アルベルティ的遠近法に代表される合理的な眼差しを覆すバロック的驚異をつぶさにマイム (身振り)してみせるそのテクストは、近代=視覚=幾何学的遠近法といった安直な図式をいとも易々と付き抜けてしまう(フォスター『視覚論』 を参照)。谷川渥の訳文がまた見事にそれをトレースする。同じくありな書房のマイオリーノ『コルヌコピアの精神 ―― 芸術のバロック的統合』でもそうなのだが、ここでもその背景に控えているのは16世紀のジョルダーノ・ブルーノである。ブルーノはまだまだ未開拓の宝庫のようだ。


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