I. Ahion, et al.(eds.), Gods and Heroes of Classical Antiquity. Flammarion Iconographic Guids,
Flammarion 1994
(『古典古代における神々と英雄 ―― フラマリオン・図像学案内』)
図像学関係で、神々と英雄に限定した古代の図像事典。原本はフランス語で、比較的定評のあるものらしい。各頁3点から5点くらいのペースで図像資料が紹介されているので、それなりの情報量ではある。しかし図版の選択が魅力に乏しく、期待外れの項目も多い。オルフェウスやピグマリオンといった有名なもの(エピソードの派手なもの)にその傾向が顕著で、こういったものに付された図像がなぜが不思議と陳腐。ついついもう少し他の図像はなかったのかと思ってしまうことがしばし。
A. Henkel, A. Schöne (Hgg.), Emblemata. Handbuch zur Sinnbildkunst des XVI. und XVII. Jahrhunderts,
J. B. Metzler 1996
(ヘンケル・シェーネ編『エンブレム集 ―― 十六・十七世紀の図像芸術の手引き』)
1976年に初版が出て、この分野では有名な著作。しかしかなり高価だったために手が出なかったが、ありがたいことにTaschenbuch版が出た。1800頁にわたって、各頁に図版が2点から3点掲載されている。16/17世紀の38人の著者による47のエンブレム・ブックから4000点の図像が取られ、そのうちの2250点は初版から図像を復刻したとのこと。とはいえ図版そのものが小さく、物によっては黒く潰れてしまっているという難点はあるが、これだけ大部のエンブレム辞典は実にありがたい。索引は、エンブレムに付されたモットーの索引、図像の索引、意味(象徴内容)の索引といった三本立て。こうでないとエンブレム辞典は役に立たない。Taschenbuch(ポケット版)とはいっても、厚紙表紙で、判型もA5版2000頁、紙質もアート紙なので、かなり重たいのが欠点。
木村三郎『名画を読み解くアトリビュート』(淡交社 2002年)
日本語で読めるエンブレム辞典。「アトリビュート」とは、寓意画の中に用いられる道具立て。「天秤」は「公正」を表し、「砂時計」は「時間」を表すといった具合。それほど大部のものではないが、索引の付け方などは本格的だし、図版の印刷も綺麗なうえ、何よりも参考文献表が素晴らしい。
W. Schneiders, Hoffnung
auf Vernunf, Meiner: Hamburg 1990.
(シュナイダース『理性への希望』)
近代の哲学書の図像学。ルネサンスくらいまでの図像は随分と見ることができるようになったが、18世紀のものとなるとまだかなり珍しいだろう。しかも時代は「啓蒙主義」の世である。近代的合理性などを謳いながら、その実まだバロック的な寓意表現が当然のように用いられているのにまずは驚愕する。しかしここで分析されるのは、そうした寓意表現がどこで最終的に息の根を止められたかという経緯のほうである。想い起こしてみよう。バウムガルテンの『美学』の扉には確かに図像があしらわれている。ではカントの『純粋理性批判』(1781年)の扉に図像があっただろうか。そう、やはりカントのきわめて概念的なディスクール近辺が一つの分岐点を成しているらしいのだ。そしてこの場所は同時に、近代的理性が本格的に起動する地点でもある。それはまた、ヴィーコのアナクロニズムの感性をもってしては押し留めることのできない流れだったのだ。
小黒康正『黙示録を夢みるとき
――
トーマス・マンとアレゴリー』(鳥影社
2001年)
「黙示録的アレゴリー」という概念を提示し、それによってトーマス・マン文学の全体像を描こうとする試み。博士論文を公刊したものだが、学位論文にありがちな無駄な繰り返しや、過剰な引用などがなく、書物として実に完成度の高いものになっている。フィオーレのヨアキムの影響を元にドイツ文学における黙示録を論じ、ベンヤミンに見られるアレゴリー復権を敷衍する前半では、きわめて水準の高い記述が展開される。二つの大戦を挟んで展開されるマンの文学活動を、この黙示録のアレゴリー的展開として読み解く後半も、無駄がなく、読み手を飽きさせない。最終的に、『ヨゼフとその兄弟たち』と『ファウストゥス博士』の文学世界は、「20世紀において聖書が語り直されたもの」、しかもそれは救済が与えられることのない失敗した再現、「聖書のパロディー」とする結論もなかなか見事。
そういった意味で、書きぶりも立派な好著なのだが、マン文学をアレゴリー概念によって整理するというその基本的発想には、やはり抵抗を感じざるをえない。黙示録的世界観や聖書の語り直しという論点には異論がないが、マンの作品そのものをアレゴリーと結びつける作業は、作品自体のもっている質感を棚上げして、理論的操作としてなされているような印象が最後まで拭いきれない。ベンヤミンによるアレゴリー論というフィルターを通してアレゴリーの理論的条件を抽象し、それをマンにも当てはめているようなところが多分に感じられる。『魔の山』や『ファウストゥス博士』に頻出する数象徴や名前の象徴が強調されるが、こうした特徴をもって直ちにその作品をアレゴリーと言い切るには無理がある。マンの「神話を再び生きる」といったような感覚や、ライト・モチーフ的な技法を果たしてアレゴリーと言えるものかどうかは疑問である。もしこの著者の論をそのまま使うなら、ヴァーグナーの『ニーベルンクの指環』もアレゴリー的作品ということになってしまうだろうが、そこまでの概念の拡張は俄かには肯定しがたい。
E・ヴィント『シンボルの修辞学』秋庭史典・加藤哲弘・金澤百枝・蜷川順子・松根伸治訳(晶文社 2007年)
『芸術と狂気』や『ルネサンスの異教秘義』で知られるヴィントの歿後に編まれた論文集。ヒュー・ロイド・ジョージによる「ヴィントの生涯」という50頁ほどの、短いが充実した伝記が付されている。この伝記からも、ヴィントがドイツ語圏、英語圏両方の文化に深く関わり、両者の潮流を見据えた仕事を展開したさまが伺える。ここで触れられる固有名詞群がまた実に魅力的。フッサールやヴィラモーヴィッツ=メレンドルフの講義、ドヴォルジャークのゼミに参加し、ハンブルクでカッシーラに学び、パノフスキーの最初の弟子になっている。「フッサールの講義は、ヴィントにとって面白いものではなかった。彼もまた、フッサールの哲学よりは、フッサール晩年のあまりに高名な弟子マルティン・ハイデッガーのスキー・パーティのほうが好きだったのである」(17頁)。美術史のうえで、ヴィントはブルクハルト、ヴァールブルクに与することになり、リーグル、ヴェルフリン、あるいはその発想の元にあるモレッリと対立するといった大きな構図の中、ヴィントの活動が描かれる。ナチス政権下、ヴァールブルク文庫を護り、ロンドンに移すのに最も功績があったのもこのヴィント。ヴァールブルク関連の文献としても、この伝記は面白い。
本文のヴィントの論文もよく選ばれていて、プラトン主義の美学的影響の変遷史を語る冒頭の論文から、ロンドンへ移ったヴァールブルク文庫の旗揚げ的講演、オリゲネス、エラスムスなどを図像学絡みで論じる論考、ゴンブリッジの『ヴァールブルクの生涯』に対する匿名で発表された強烈な批判的書評など、最後まで楽しめる。訳註や各論文に対する解説も丁寧。主題に関連するその後の研究や、日本語の文献までが指摘されているのは立派。巻末の解説もなかなか充実している。ただ、訳文そのものはもう一工夫あっても良かったような気がする。さらには、活字の組み方はもう少し密度をあげたほうがかえって読みやすかったのではないかとも思う。しかし全体としては、刺激的な翻訳。
中野美代子『綺想迷画大全』(飛鳥新社 2007年)
飛鳥新社というのは聞かない出版社だが、これは実に良い。中国学の中野美代子が、いかにも好みのバロック的・マニエリスム的図像を、ヨーロッパ、中国、イスラーム圏を含め、エセーとして連載していたものをまとめた一書。その点では、田中優子『江戸百夢』(朝日新聞社)と似たような成立事情で、本文の軽さも似ているが、こちらのほうが文章としての読み応えはある。何よりも本書は図版の取り方が卓抜。細部を執拗に描き込んだ図像が大半を占めるが、その全体像を見せたうえで、さらにクローズアップで部分だけを拡大した図版を随所に挟むという方式は、この種の図像にはきわめて効果的。細かい部分をさらに拡大することで、さらにそこに書き込まれた膨大な細部が見えてくるため、二度驚くことができる。有名なアルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」なども、下3分の1の戦闘場面を拡大することで、そこを埋め尽くして戦う無数の兵士たちが克明に描き込まれていることが確認できて、驚きを新たにする。こうしたやり方は、大著J. Cray, Romanticism(クレイ『ロマン主義』)でも、ユベール・ロベールなどの絵画に適応されていて、ずいぶんと愉しんだものだが、本書はさらに主題の面白さも相俟って、画集としても愉しいものになっている。多くの図像を踏まえたこの種の書物が各分野で増えてきたことも時代の現れだろう。
尾崎彰宏『レンブラントのコレクション ―― 自己成型への挑戦』(三元社 2004年)
商業都市アムステルダムで画業によって財を成したレンブラントは、絵画コレクションのみならず、初期近代のヴンダーカマーを思わせるコレクションを蒐集した。レンブラントの破産後、それらのコレクションは競売にかけられ散逸したが、本書はそうしたレンブラントのコレクションの痕跡を、彼自身の絵画(とりわけその自我像)に見られる自己意識と平行して論じていく。標題にも「自己成型」という語が用いられているように、グリーンブラット『ルネサンスの自己成型』を念頭において、作品や自己表現を通じて、個人が社会的自己イメージを形成する過程を、コレクションと自我像という二つの表現に重ねていく。そのような論旨の点で、実に興味深い書物になっている。
ネーデルラント美術を牽引するマンデルのアカデミーの成立史から始めて、「ダナエ」の分析を通して、女性像の変遷を辿り、レンブラントの自我像に近代的なメランコリーの痕跡を見届ける。後半が、何といっても魅力的な、レンブラントのコレクションにまつわる議論の中で、東洋幻想(オリエンタリズム)の論点をも巻き込んでいく。
元々は個別の論文として書かれた論文集だが、その一点一点が実によく描けている。データの渉猟はもちろんのこと、単に歴史的な事実確認に終わらず、背景の文脈への言及なども適切で、その遠近感が素晴らしい。書物としても実に丁寧に造られていて、特に美術論では欠かせない図版が、本文の議論のすぐそばに配列されていて、ストレスを感じない。かなりの点数の図版の挿入も、単調にならないように工夫されており、相当の手間がかかっただろうと想像される。ただし、やはり論文集という制約が残る点は触れておかないといけない。折角、自我像とコレクションという二つの主題が絡み合う場を作りながら、その肝心の接点そのものの議論が結局なされていないからである。この点がもう一歩深められていたら、第一級の名著になっていただろうに。もちろんいまのままでも、群を抜いた秀作にはちがいないのだが。
田中優子『江戸百夢』(朝日新聞社 2000年)
江戸学におけるiconic turnの現れともいえる江戸の図像学。すべての図版がカラーということもあって、目を楽しませてくれる。元は『朝日ジャーナル』のコラムとして書かれたものなので、一篇一篇の文章はかなり短い(見開きで完結)。気楽な読み物としては肩が凝らないともいえるが、それにしてもそれほど密度の高い文章でもないうえに分量が少ないので、欲求不満が残る。江戸のバロック的感覚という印象からか、突如ベルニーニに一回を割いてみたり、フェルメールが使われたり、連想の飛び方としては理解はできるが、あまりにも説明がなさすぎる。iconic turn、あるいはBildwissenschaft(形象学)は、創造的な連想を育む反面、方法的な意識が欠落した場合は、いたずらに主観的な印象批評に近づいてしまう。
藤田實・入子文子編『図像のちからと言葉のちから ―― イギリス・ルネサンスとアメリカ・ルネサンス』(大阪大学出版会 2007年)
エンブレムやイコノロジーを中心に、イギリスとアメリカを出会わせる興味深い試み。文学におけるイコノロジーの展開は、エリザベス朝研究者の独占市場かと思いきや、それがアメリカ文学にも飛び火して、創造的な論集に結集した。『シェイクスピアのイコノロジー』(三省堂 1994年)の岩崎宗治や、去年ここでも触れた『第三帝国のR・シュトラウス』(世界思想社 2004年)の山田由美子などが参集している。論文集というものは、どうしても雑多な印象を与えてしまうものだが、これは「科学研究費補助金」の「報告書」という、滅多に面白いものにはならない「文書」を元に、「公開促進補助費」を取って大阪大学出版会から出版されながら、エンブレムやイコノロジーという長い伝統のある背景に共通点を求めているために、一定のまとまりを獲得している。 >
和光大学総合文化研究所・松枝到編『象徴図像研究 ―― 動物と象徴』(言叢社 2006年)
エンブレム・象徴という観点からの論文集だが、こちらは30編と論考も多く、地域もヨーロッパに限らず、中東・アジアなど多方面にわたっているので、どうしても雑然とした印象を受ける。10年以上続いた象徴図像研究会というものの集大成となった論集らしい。元となった論集も冊子のかたちで10冊以上出ているようだ(未見)。松枝氏は『ヴァールブルク学派』(平凡社)の編訳者でもある。この種の図像関係の議論というものもすっかり定着した感がある
酒井健『絵画と現代思想』(新書館 2003年)
バタイユ研究者の著者が、絵画作品と現代哲学との接点に関して書いたエセーをまとめた。主題としてはなかなか魅力的だし、カンディンスキーとその甥のコジェーヴとのやり取りなどはなかなか面白いのだが、全体的には、一つ一つの主題の掘り下げ方が足りずに不満が残る。
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