観念の結合術


推薦図書

思想と美の婚姻

 

E.アウエルバッハ『ミメーシス ヨーロッパ文学における現実描写』<(筑摩書房〔旧版:筑摩叢書、現行版:ちくま学芸文庫〕)

 ホメロスからヴァージニア・ウルフに至るまで具体的なテクストに即した分析が冴え渡る。各章の冒頭に古典的な文学作品からの数頁程度の引用があり、それについての博引傍証を究めた精緻な解釈が展開される。テクストの微視的箇所に徹することによって、作品の全体像どころか、総体としての「ヨーロッパ文学」が姿を現す恐るべき書物。古典と呼ばれて誰もが知っているが誰も読まない著作たちを知識の死蔵から救い出し、「死後の生」を生きさせるその手腕は見事と言うほかない。しかもこの『ミメーシス』は、ナチスに追われイスタンブールで研究生活を送っていた時代に書かれている。後書きには、「完備した図書館もないので、現代の専門的研究はおろか、校訂版さえ見ることができなかった」旨が記されている。この発言が「専門的な」文学研究にとってどういう意味を持っているのか、心して受けとめなければならないだろう。

 同じくアウエルバハは『世界文学の文献学』(みすず書房)も落とせない。名論文「フィグーラ」はもとより、巻頭の「聖書の通俗的な言葉」なども思わず目を見開かされる着想に富んでいる。またアウエルバハはヴィーコのドイツ語訳者でもあるのだが、彼がヴィーコに惹かれる理由は、この『世界文学の文献学』によりはっきりと現れている。  同種の記念碑名著に、クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』(みすず書房)があるが、こちらはどちらかという書きぶりが羅列的。好みの分かれるところだろうが、アウエルバハとクルツィウスという対比は、プラーツとバルトルシャイティスという対比と似ているかもしれない。


M. Treml, K. Barck (Hgg.), Erich Auerbach. Geschichte und Aktualität eines europäischen Philologen, Kultur verlag Kadmos: Berlin, 2007
(トレメル/バルク『エーリヒ・アウエルバハ ―― ヨーロッパ文献学の歴史と現代性』)

 アウエルバハと言えば、あの名著『ミメーシス』を、イスタンブールでの亡命生活中に「満足な図書館も使えない」状態で書きあげたというだけでも恐るべき人物。2007年は、クルツィウスと並んで、20世紀の汎ヨーロッパ的文学史(「世界文学の文献学」)を構想したこのアウエルバハ(1892-1957)の歿後50年だった。本書はそれを記念して公刊された論文集。ギンズブルグ、ジェフリー・ハートマンを始め、20名を越える執筆者が寄稿している。ダンテとヴィーコから始まるアウエルバハの出発点を論じる第一部、レーヴィットやクルツィウス、ベンヤミン、クラカウアーなどとと比較して論じる第二部、アウエルバハの亡命を扱う第三部、figuraやミメーシスといった基本概念をめぐる考察をまとめた第四部、ポストコロニアル批評などへの影響史を論じる第五部といった、考えられた構成になっている。付録として、講演、手紙などの資料が約100頁付されている。何よりも、CDが一枚付録になっていて、アウエルバハの肉声の残る唯一の講演(1948年、ペンシルヴァニア大学のダンテ講演)が聴ける(テクストも付録部分に収録)。最初の紹介者のスピーチ部分はかなり録音状態が悪いが、アウエルバハ自身の講演の部分は音質良好。やや甲高く、外国人らしく、聴き取りやすい英語。彼自身によるダンテのイタリア語原詩の朗読も聞き所。
 サイードによる言及を通して、アウエルバハの名前は一旦甦りはしただろうが、はたしてその意味がどれほど浸透したかははなはだ疑問である。サイード自身が『さまざまな始まり』でヴィーコを理論的支柱としたのも、このアウエルバハ抜きでは考えられないはずだが、ポストコロニアル批評に入れ揚げる人々がその辺についての事情を射程に収めているとは到底思えない。


W.サイファー『ルネサンス様式の四段階』(河出書房新社)

 美術・文学・思想を縦横に論じきったその手腕にまず脱帽。『ロココからキュービズムへ』(河出書房新社)、『現代文学と美術における自我の喪失』(河出書房新社)、そして長らく入手困難な『文学とテクノロジー』(研究社出版)という一連の流れにある著作。雄大でありながら緻密な分析が堪能できる。芸術・思想をトータルに見ようというその試みは、いわゆる専門家からはすこぶる評判が悪いらしい。


高山宏『メデューサの知』(青土社)

 多くの著書のなかから敢えて一冊を選ぶとすれば、これか『目のなかの劇場』(青土社)。それぞれ「アリス狩り」シリーズの一冊 (アリス狩り****『綺想の饗宴』のみ四六版で小振り)だが、いずれも質・量ともに圧巻。図版、組版、造本とどれをとっても群を抜いている。巻末の陶酔的な文献表も痺れさせる。その後堰を切ったように続々と公刊された著書群の基本的な見取り図は、この著作辺りでできあがったいたようなところがある。しかもこの頃の文章は、まだまだ緊張感漲る素晴らしいものだった。これを知っている者にとっては、最近の『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ)は少し哀しくなるほど。もちろんこの英文学講義にしてから、愚直な学徒の心胆寒からしめた由良君美『椿説泰西浪漫派文学談義』(青土社)の衣鉢を継ぐ名著ではあるのだが。


鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社)

 ベンヤミンという著作家は、第一級の批評家であり、かつ「二流の」思想家である。ベンヤミンを論じるときにはまずこのことをしっかりと根抵に据えてかからないと、あらゆる評価の距離感が狂ってしまう。現代では(日本でもドイツでも)、ベンヤミンを大文字の「哲学者」であるかのように遇して、哲学史の中に組み入れようとするかのような神話化が進行中であるが、そのような所作はどこかバランスを欠いているところがある。第一そのような扱いは、ベンヤミン自身にとって大いに迷惑なことだろう。

 鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』は、そうした神話化の弊害から免れている数少ないベンヤミン論の一つだろう。その最大の理由は、著者がベンヤミンに共感している部分の、ある種の瑣末さにあると言えるかもしれない。推察するに、鹿島氏がベンヤミンに惹き付けられているのは、その思想の深遠さやアクチュアリティのためではなく、むしろ一コレクターとしてのベンヤミンに、(19世紀パリ文献の蒐集家として知られる)鹿島氏本人の感性と響き合う点を認めているためではないだろうか。そうした、いわゆる「哲学」の議論には乗らないような局所的なものに対する感覚は、ベンヤミンに接するには実に相応しい姿勢なのである。

 19世紀パリについての引用と断片からなる、巨大で未完結の著作『パサージュ論』について、蒐集家の感性が捉えたその全体像は実に鮮やかである。まさに喝破するというに相応しい語気で、著者はこう言い切ってみせる。「『パサージュ論』は偉大なる書物蒐集家が残した特殊な形態のブック・コレクションの売り立て目録である」(p. 35)。あるいはもっと簡単に、「これはベンヤミンという特異なコレクターの残したオークション・カタログではないか」(p.38)。なぜことさらに「蒐集」が問題なのか。これに応えて、『パサージュ論』からの引用がなされる。「蒐集というアートにおいて決定的なことは、蒐集の対象となる事物から、当初もっていたあらゆる機能を奪い去り、すでに蒐集された他の事物とできる限り密接な関係を結ぶようにすることである。この関係は、有用性とは真っ向から対立するものであり、完全性という注目すべきカテゴリーに従っている」。

 蒐集による文脈はずしと、蒐集されたものの新たな関連づけ、いわばそれまでに存在しなかった新たなジャンルの創設というところに、蒐集という「アート」のすべてが掛かっている。こうした視点から、とりわけ「集団の夢」という、『パサージュ論』の分かりにくい発想が、実感というところのに近いところにまで読みほぐされていく。大上段に構えた議論によっては得られることのできない、読解の醍醐味である。因みに著者は、『パサージュ論』を「20世紀最大の思想的課題を秘めたゲーム・ブック、あるいは本の形を取ったロール・プレイング・ゲームのようなもの」だと言い、自分はその「攻略本」を書こうと思ったということを語っている。文学のほうで20世紀最大のゲーム・ブックはジョイスの『ユリシーズ』だろうが、そのように見るなら、都市を経巡るこの二つの作品は、互いに意外と近いところに位置しているのかもしれない。


M. Serres, La legende des anges, Flammarion 1993.
(セール『天使の伝説』)

 先ごろ法政大学出版局より翻訳の出た『天使の伝説』の原著。邦訳はテクストのみが公刊されたが、実はこの原著、画集と見まがうばかりに美しいカラー図版に彩られた大冊。惚れ惚れするような造本と図版が見事。この種のものを見せつけられると、本造りに関する環境の違いに圧倒される。


Athenäum: Jahrbuch für Romantik, Ferdinad Schöningh 2002
(『アテーネウム:ロマン主義年報』)

 シュレーゲルらが1797年に初めたロマン主義の雑誌タイトルをそのまま取ったロマン主義の研究年報。創刊時から付き合っているが、今回で第11巻目。この論集の良いところは、書評にかなりの分量を割いている点。今回も全体300頁のうち、後半三分の一くらいが書評に当てられている。なかなかに食指の動く文献あり。編集者は、シュレーゲル研究者E・ベーラー、ロマン主義と現代哲学のM・フランク、ヘーリッシュなど。今回は、すでに物故したベーラーの「ニーチェとフーコーに対する初期ロマン派言語論の影響」などという論考が掲載されている。しかし、以前から感じていることだが、このベーラーという研究者は発想がかなり平板なので、ロマン主義とそれほど相性が良いとは思えない。


R. Gooding-Williams, Zarathustra's Dionysian Modernism, Stanford U. Pr. 2001.
(グッディング=ウィリアムズ『ツァラトゥストラのディオニュソス的モダニズム』)

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』を哲学的ノヴェルとして読み直すことを通じて、近代にとってのツァラトゥストラの意味を探る。ポープ『人間論』、ディドロ『ラモーの甥』、トーマス・マン『魔の山』などと並ぶ哲学的フィクションとして『ツァラトゥストラ』を読解する視点は、哲学と文学が分離しがちな私たちの環境からすると、最も必要な観点かもしれない。


今泉文子『ロマン主義の誕生 ―― ノヴァーリスとイェーナの前衛たち』(平凡社 1999年)

 初期ロマン派の誕生を、ノヴァーリスを中心として、人間関係の側面から描き出したもの。この書物の一番の特徴はその叙述スタイルである。実際の手紙・著作などを用いながら、それらを自由に翻案しながら、一遍の「物語」として、ノヴァーリスの周辺のシュレーゲル、ヴァッケンローダー、ティーク、シュレーゲル兄弟を取り巻く女性たちが小説風に活き活きと描き出されている。そうした叙述スタイルのため、一気に読めてしまう。そうしたスタイルを考慮して註などは一切ついていない。ただ、やはり一つ一つの引用の具体的出典の指示なども欲しかったような思える。正確を期してというよりは、著者がどのような翻案の手腕を発揮しているのかを確認するという別の楽しみのために、原典を参照できるとより楽しみが膨らんだかもしれないというないものねだりではあるのだが。


L. Lipking (ed.), High Romantic Argument. Essays for M. H. Abrams, Cornell U. Pr. 1983.
(リプキング〔編〕『ロマン主義論考 ―― エイブラムズ論文集』) 

 名著『鏡とランプ』(研究社)や『自然と超自然』(平凡社)で有名なロマン主義研究者エイブラムズをめぐる論文集。執筆者が、W・ブース、J・カラー、J・ハートマンと、豪華な顔ぶれ。巻末にはエイブラムズのBibliographyが付されていて嬉しい。


E. Auerbach, Romance Languages and Literature: Latin/French/Frovencal/Italian/Spanish, Capricon Books 1961
(アウエルバッハ『ロマンス諸語と文学』)

 かのアウエルバッハが、イスタンブールでの亡命生活の中、トルコの学生たちのために行った講義の内容。原書はフランス語だが、入手はやや難しい。本書の英訳も、簡単なペイパー版ではあるが、いままでなかなか見つからなかったものを無事入手。


薗田宗人『ニーチェと言語 ―― 詩と思索のあいだ』(創文社 1997年)

 副題にあるように、ニーチェの思考とその表現としての詩的言語のありようを、一方をどちらかに還元してしまうのではなく、あくまで「あいだ」に徹して論じようとする試み。ニーチェをいたずらに文学化したり、一方的に形而上学的に読むのではなく、思考と表現のあいだの往還に取り組もうとしている点で共感がもてる。そのような読解の姿勢が幸いして、本書の第二部では、『ツァラトゥストラ』第三部の終結部での「声なき声」(沈黙)をめぐる解釈がとりわけ優れたものになっている。ただ、全体的に哲学的な「思索」の部分にもう少し踏み込んでもらいたいという印象は残る。


ヴァインリヒ『<忘却>の文学史』(白水社 1999)

 「歴史上存在しなかっただけでなく、理論的にもありえない学問分野」という「お題」の下に、かのエーコが「忘却術」(ars oblivionalis)という答えを出したそうだが、本書はその遊びを受けて書かれたものだそうだ。文学・思想の領域で「忘却」に関する言及を集めた、いわば「<忘却>の<忘備録>」(帯のコピーに使えそう)。諍いを起こして閑を出した従僕ランペのことを忘れるために、「ランペのことは忘れよう」と「忘備録」に書きとめるカントなど、逸話も満載。ヴォルテールに忘却と記憶をめぐる寓意小説『メモリア夫人の冒険』なるものがあることを知る。これはちょっと探してみたい。


C. G. Jung, Jung's Seminar on Nietzsche's Zarathustra, Abridged edition, edited and abridged by James L. Jarret, Bollingen series XCIX, Princeton U. Pr. 1998.

(ユング『セミナー:ニーチェ<ツァラトゥストラ>(縮約版)』)
 オリジナルは1988年に公刊された二巻本の大著だが、本書はそれをおよそ半分程度に圧縮したいわばダイジェスト版。とはいっても、これ自体が400頁近くはあるのだが。1934-39にかけて行われたセミナーの記録。書名の記載を見ればわかるように、これは「ボーリンゲン財団」を支援者として公刊された「ボーリンゲン叢書」の一冊。アメリカのメロン銀行を基盤に設立されたこの財団は、ユングゆかりのエラノスの経済的支援を行い、ケレーニィ、アウエルバハなど、多くの研究者のパトロンとなり、「ボーリンゲン叢書」という大規模な出版活動を支え続けた。シングルトン翻訳・註解のダンテ『神曲』もこの「ボーリンゲン叢書」のもの。この財団の活動は、エラノス叢書別巻『エラノスへの招待』
(平凡社)で、高山宏「すべてはエラノスに発す ―― エラノス会議、そしてボーリンゲン財団」に縷説されている。


高山宏『<表象>の芸術工学』(工作舎 2002年)
高山宏『エクスタシー』
(松柏社 2002年)
高山宏『殺す・集める・読む
―― 推理小説特殊講義(創元ライブラリー 2002年)

 最近の高山宏のものは、一まとめにしてしまって良いかと思えてしまうところが少々悲しい。『<表象>の芸術工学』は、神戸芸術工科大学での集中講義を起こしたもの。後者二冊も既出のものを編集して一緒としたもの。『エクスタシー』は、以前の『ブック・カーニバル』(自由国民社)の系譜に位置づけられている。どれももちろんそれなりに面白いのだが、やはり繰返しと自己宣伝が目に付いて、新味には乏しいし、新しいジャンルを切り開こうとしていたかつての気迫はなくなっている。それにしても『エクスタシー』は、図版もないのに、アート紙で500頁に及ぶので、とにかく重たい。建石修志の装幀は素晴らしいし、扉はとりわけ素敵だが、この重さだけは勘弁してもらいたい。上述の話題との関連で一つ触れておくと、「変換文化と翻訳」という文章では、法政大学出版局の叢書「ウニベルシタス」の話題を枕に、エラノス=ボーリンゲン財団のことが語られている(しかも翻訳文化という主題の展開で、トレドの翻訳学院までが触れられているのはなかなかご愛嬌)。


Athenäum. Jahrbuch für Romantik. 2002, Ferdinand Schonig 2002.
(『アテーネウム ―― ロマン主義年報』)

 ロマン派研究の年報の新刊。フランクの「<自己感情> ―― 18世紀における先反省的自己意識」、ミュラー=フォルマーの「『精神現象学』における言語論」、ザネッティ[カントの真理理解」、レーメ=イッフェルト「Fr. シュレーゲルにおける開放・愛・婚姻」などなど、この年報はますます哲学色を強めてきているようだ。


  中村鐡太郎『西脇順三郎、永遠に舌を濡らして』(書肆山田 2004年)

 さまざまな象徴や寓意、言及に満ちた西脇順三郎の作品を読み解きながら、多くの論者が足をすくわれがちな穿鑿などをあっさりと無視して、真っ直ぐに詩の核心に切り込んでいく爽快な西脇論。Ambarvaliaの「古代編」の後半「拉典哀歌」に関してこんなふうに語られている。「…<拉典哀歌>の四篇は、カトゥルスやティブルスを高速で解体し結合する……。むろんそれは翻訳という、イデア(原典)の流出過程を曖昧にたどりなおそうとするものではない。超越的なテクストという中心からの距離を均質に計測するのではなく、むしろ翻訳ということそのものについての超越論的な註釈をあらわしながら世界のあり方を揺り動かす方法と考えてもいいくらいだ」(p. 64)。これほど高度なことを一気に語る詩論は稀有のものだろうが、これになぞらえるなら実は、本書の西脇論そのものが、「詩そのものについての超越論的な註釈をあらわしながら世界のあり方を揺り動かす」ことを目指しているといっても良いかもしれない。前著『詩について ―― 蒙昧一撃』(書肆山田 1998年)の冒頭に置かれた「序 ―― 蒙昧一撃」が、本書の『方法序説』となっているので、そちらとの併読もお薦め。


中平耀『マンデリシュターム読本』(群像社 2002年)

   スターリン時代に「粛清」された詩人マンデリシュタームの伝記を中核としながら、その間に詩作の具体例、評論などを差し挟み、一面でアンソロジーのような性格をもあわせもつ。何よりも、「詩の質は速度と決意とによって決定される」と宣言するばかりか、それ自体が猛烈な速度で『神曲』を切り裂いていくダンテ論の白眉「ダンテとの会話」が収められている。G・シュタイナー絶賛の詩論である。翻訳もその速度と密度に付き添って見事。見本にその離れ業の一端を。「力をこめてダンテを読むとき、詩的物質の活動の場に完全に移住するとき、穴だらけの、揺れ動く意味表面に絶えず生起するオーケストラの音群と主旋律群との響き合いに結びついて、自己の調音をそれらと対比するとき、形態音の灰色の水晶鉱石の内部に浸透しているまだら模様、すなわち当の水晶鉱石によってもはや詩的理性ではなく地質学的理性だと言い渡されたわたり音や余計な思いつきを、その水晶鉱石全体に感知し始めるとき、 ―― そのとき、純粋な音声上の調音的でリズミカルな働きが一層力強い調和を促す活動に ―― つまり指揮に変わり、音声が主導している空間の上で、その空間を引き裂く指揮棒の指導権が、ちょうど三次元から更に複雑な数学的次元が張り出してくるように音声から張り出しながら、効力を発揮するのである」(p. 335)。破綻寸前の緊張感が良い。


大熊昭信『ブレイクの詩霊 ―― 脱構築する想像力』(八潮出版社 1988年)

 ブレイクのイメジャリ‐の総体はなかなか全貌が掴みがたい。「ブレイクの詩と挿画の迷宮への本格的なチチェローネたろうとする」と謳っている本書は、思想的な体系を軸に、ブレイクの個人神話を整理し、挿画を読み解こうとしている点で手引きとして有用だろう。


ギルマン『ニーチェとパロディ』(青土社 1997年)

 ニーチェのテクストは大体がパロディや当てこすりが大量に盛り込まれているが、これはそうしたニーチェのエクリチュール上の特質を浮彫りにした良書。『メッシーナ牧歌』や『プリンツ・フォーゲルフライの歌』などのパロディ精神の横溢した作品も、これまでかならずしも正面から論じられてきた訳ではないので、この辺りからニーチェのテクストの「表面」を今一度眺め渡してみるというのも、大きな課題になるだろう。
 本書自体はきわめて読みやすいもので、訳者の「あとがき」なども充実しているが、残念なことに註での出典表記がムザリオン版の全集、および英訳の頁数になっている。ニーチェの「文章」が問題になっている以上、やはり原典なり邦訳本文に遡りたい読者もいることだろうから、本書での出典表記は個々の著作タイトルと章・節番号に戻すというくらいの配慮が欲しかった。ドイツ語ができる読者にしても、ニーチェ全集を買うのに、いまどきムザリオン版をわざわざ手に入れる奇特な人も少ないだろうし。


ニーチェ『如是説法ツァラトゥストラー』登張竹風訳(昭和10年 山本書店)
 日本におけるニーチェの最初の紹介者登張竹風による『ツァラトゥストラ』の訳は、手を加えられて数種類公刊されている。これはその最も流布した版だろう。1921年に最初に訳されたときのタイトルは、『如是経序品 光炎菩薩大獅子吼経』である。ツァラトゥストラ=ゾロアスター(拝火教の祖)が「光炎菩薩」。仏典を意識し、「永劫回帰」を「輪廻」と重ねようとする目論見である。この光炎菩薩のほうも、いずれ入手したい。因みに、しばらく前にここに掲げた登張信一郎『新式獨和大辭典』
(大倉書店 明治45年)はこの同じ著者によるもの。こちらは日本初の独和辞典であった。


岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎 ―― 彼はいかにして或る種の本を書いたか』(国書刊行会 1998年)

 日本語で書き下ろされた数少ないルーセル論。さまざまな機会に書かれたものを集めたという面があって、繰り返しも多いが、それなりに愉しめる。副題は、ルーセル自身の遺著(死後公開の著作)『私はいかにして或る種の本を書いたか』を踏まえている。それにしても、ブルトンら、シュールレアリストから熱い尊敬を受けながら、彼自身はひたすらオペレッタに入れ揚げ、崇拝する作家といえばジュール・ヴェルヌという、そのアンバランスさが何よりも面白い。自意識過剰な現代文学の中の清涼剤のようだが、それによって生み出された作品が、『ロクス・ソルス』や『アフリカの印象』であるのが、また不思議である。ちなみに、外界に無関心なルーセルの逸話としてこんなことが紹介されていた。「彼は晩年、特殊なキャンピング・カーを作らせ、それに乗ってあちこち旅したが、……風景には何の関心も示さず、火除けを下ろしたまま、車内でひたすら読書を続けたという」(P. 232)。まさにルーセルの面目躍如といったところ。


岡田温司『芸術(アルス)と生政治(ビオス) ―― 現代思想の問題圏』(平凡社 2006年)

 美術史・現代思想の分野で、翻訳・著述と大活躍の岡田氏の新刊。フーコーの「生政治」の議論を核として、近代初頭の美学上の議論を政治・医学との平行関係の中で論じていく刺戟的な論考集。絵画の修復が身体の治療との平行で、観相学における議論が、芸術における身体と法学(とりわけ犯罪学)における身体との平行で論じられる。観相学は、性格の表現として、美学の中の人物描写に用いられると同時に、精神の正常・異常を弁別するための解剖学、あるいは人種の判別のための手段として用いられるさまが一繋がりに見えてくる。観相学が建築のファサードの記述に用いられるという指摘は予想外だった。芸術を「有機体」として語る、まさに生と芸術の共謀をかたどる言説に関しても、その歴史的変遷とともに検証がなされて興味深い。著者は現在の「オートポイエーシス」の議論などに、ふたたび有機体のメタファーが復権しているさまを見ている一方で、有機的な結合を拒むベンヤミンなどへの共感も伺えて、その両義性が魅力的。さまざまな主題を一挙に理論化してしまわずに両義性のままに留めおくというのがこの著者の特質のように思える。ただそれが時とすると、事実の列挙に流れて叙述が単調になる部分があるのが、欠点といえば欠点だろうか。


麻生建・黒崎政男・小田部胤久・山内志朗『羅独ー独羅学術語語彙辞典』(哲学書房 1989年)
 近世初期のラテン語とドイツ語の哲学用語を対比した貴重な辞典。明治期の日本人がヨーロッパの学術用語を翻訳し、場合によっては漢語の造語を作っていったのと同様のことが、17・18世紀のドイツでなされていた。ドイツ語はラテン系の言語ではないので、ラテン語を簡単に自国語と対照できるフランス語やイタリア語とは違った苦労があったわけだ。この辞典はそうしたラテン語ードイツ語の対応を双方から検索できるようにした労作。例えば、intelligibile(可知的)というラテン語一つにも、ドイツ語ではbegreiflich(概念把握可能), immateriell(非物質的), verständlich(理解可能)など、複数の訳語が並ぶ。いま、近世初頭に関する翻訳作業をしているので、思い立って入手した。古書店で手に入れたのだが、これにはなんと献本のスリットが入っていた。曰く、「謹呈 廣松渉先生 ―― 黒崎政男・山内志朗」。廣松渉旧蔵本が遺族によって売りに出されたのだろう。ちなみに使われた形跡は一切なく、ほぼ新本の状態だった。

G. Naumann, Zarathustra-Commentar, Verlag von H. Haessel 1899-1901 (4 Tl.).

(ナウマン『ツァラトゥストラ註解』)

 ソルトレーク・シティの古書店からABEを通して入手。ずいぶん長いこと探していたが、ようやく入手できて、久しぶりに達成感がある。一年ほど前に、ボン大学の除籍本でE. F. Podach, Friedrich Nietzsches Werke des Zusammenbruchs(ポーダッハ『精神崩壊期におけるニーチェの著作』)を手に入れたときも嬉しかったが、今回の『註解』は大学図書館での収蔵も少なく、かなり前から内外の古書店に問い合わせをしていただけに、喜びもひとしお。A. Messer, Erläuterungen zu Nietzsches Zarathustra(メッサー『ニーチ・ツァラトゥストラ解説』も随分前に入手していたが、これはほんの小冊子なので、あまり参考にならない。その点、ナウマンの註解は、これ以降、これを凌駕するものが出ていないので、ぜひとも見ておきたかった。この本、『ツァラトゥストラはこう語った』の各部ごとのある程度逐語的な註解なので、全体が『ツァラトゥストラはこう語った』の構成と同じ四部に分かれている。それぞれ1898, 1900, 1900, 1901と年号を打った扉が付いているとことを見ると、元々分冊で出されたものが完成後に合本されたのだろう。それにしても、この出版年もまさにニーチェの死を挟んでいるわけで、なかなか意味深長である。
 かなり入手困難になった書物と言えるはずなのだが、購入の値段は$45というお手ごろな値段。見返しを見ると、250の文字が消され、$95と直され、最終的な売値は$45になったという寸法。確かに、最初の$250というのは、妥当な評価だと思う。しかし、ソルクレイト・シティで亀の子文字のドイツ語本は荷厄介だったのだろうか。状態はほぼ問題がないが、序文の最初のページにだけ、前の著者の鉛筆書きの書き込みが。unvollendetの上の行間にunfinished、erwähntの上にmentionsといった具合。そうとうドイツ語のできない学生が四苦八苦して読み始めて、最初の半頁で投げ出してしまった模様。売り払ってくれてありがとう。


山田由美子『第三帝国のR. シュトラウス ―― 音楽家の<喜劇的>闘争』(世界思想社 2004)

 ナチス時代のリヒャルト・シュトラウスの活動、とりわけオペラ『無口な女』をめぐる弾圧事件を核に晩年のシュトラウスを追う。ナチスの帝国音楽局総裁を務めたシュトラウスが、表向きナチスになびきながら、いかに抵抗を試みていたかを鮮やかに描いてみせる。「ユダヤ人」ツヴァイクを台本作者にしたために上演禁止となった『無口な女』自体は、政治色をもたない他愛のない喜劇だった。それにもかかわらず、シュトラウスは最後までこの作品にこだわり続けたのはなぜであるのか、オペラ・ブッファの伝統をも辿りながら、語り口も巧みに叙述する。ツヴァイク宛のシュトラウスの手紙がゲシュタポに押さえられた降りから説き起こし、サスペンス・ドラマのように語っていく叙述も上手いし、最晩年のシュトラウスとヒトラーの関わりを同時並行的に追っていく辺りは映画的でもある。
 著者は、イエイツ『ヴァロワ・タピスリーの謎』(平凡社)の訳者であり、元々はベン・ジョンソンなどの研究者。ツヴァイクによる『無口な女』の台本はベン・ジョンソンの原作の翻案であることも、著者には有利に働いているのだろう。言及される対象のそれぞれが付け焼き刃でない共感をもって扱われているのは、そのためだと思う。同じ著者の『ベン・ジョンソンとセルバンテス』も読んでみたいと思う。
 同じく名著である岡田暁生『<バラの騎士>の夢』(春秋社)が対象とした時期以降のシュトラウスを扱い、主題も異なるが、続けざまにシュトラウス関係の良書が現れたのは偶然だろうか。本書では、オペラ・ブッファというジャンルに焦点を当てることで、「『バラの騎士』=オペラの終焉」という岡田氏の図式とはまた違った光景が見えてくる。いずれにしても、ヴァーグナーの重苦しさや生真面目さとは違った、シュトラウスの多面的で韜晦的な作品が理解されるメンタリティの成熟というのもあるように感じられる。(つまらないことだが、二度ほど触れられる「調整の欠如」(26頁)や「調整を破る」(30頁)は、共に「調性」の変換ミスだろう。また161頁の最後にある『ニーベルンクの指環』は『パルジファル』の間違い。そうでないと話が通じない。)


巌谷國士監修・文『澁澤龍彦・幻想美術館』(平凡社 2007)

 澁澤龍彦を彼好みの図版を通してサーヴェイしようという、これまでもいくつか出された企画の一つだが、本書は造りが良い。元々は同名の展覧会のカタログということもあって、図版の発色やサイズも手頃で、図版選択もヴァラエティーに富んでいて飽きない。巻末には、澁澤が好んで言及する作家・芸術家の人名録のようなもの(30頁ほどある)、そして年表や著作データが主な著作の書影入りでついているのも嬉しい。作り手の思い入れをそれなりに感じる仕上がりになっていて、いまどき2500円程度という値段設定もお買い得感あり。
 今年は澁澤歿後20年ということで、『ユリイカ』でも特集が組まれ、NHKテレビの「こだわり人物伝」でも取り上げられる(11/6から放映:このテクスト・ブックも発売中)。少しまとめて振り返ってみるのに良い機会になりそう。
 ちなみに『ユリイカ』特集号で、本書をめぐってなされた対談から、巌谷氏の発言を。「澁澤さんはある意味ですごく幸運な人でしたね。編集者に恵まれていたということ。実際、編集者によって作られた澁澤龍彦というものもある。美術だったら美術出版社に雲野良平さんがいて、『夢の宇宙誌』なんて美術作品のことはほとんど書いていないのに、図版を入れて美術書にしちゃった。だから澁澤さんの知らない図版まで入っているんだけど」(50頁)。同じ感性の人たちがある中心に向かって集まってくるというのは、おそらくどこの世界にでもあることなのだろう。


K.-H. Voklmann-Schluck, Von der Wahrheit der Dichtung, Känigshausen und Neumann 1984.
(フォルクマン=シュルック『詩作の真理について』)

 哲学研究者である著者が、『ハムレット』からカフカにいたるまで、文学・芸術を論じたエセーを蒐めたもの。「芸術と人間 ―― シラーの美的教育についての書簡」、「ノヴァーリスの魔術的観念論」、「ニーベルンクの指環 ―― 意識の危機」など。『ニーベルンクの指環』の解釈は多少図式的な印象も受けるが、ノヴァーリス論などは、フィヒテやカントとの関係を論じてなかなかに本格的。日本の外国文学研究はひたすら実証的になるか、一挙に実存的になるかという極端に走るような気味があって、なかなかこうした議論が十分に展開しずらい恨みがあるような気がする。文学を思考の事柄として捉える感性はなかなか根づきにくいのだろうか。


O. Mandelstam, Gespräch über Dante, russisch und deutsch, Gustav Kiepenheuer Verlag 1984.
(マンデリシュターム『ダンテについての対話』)
 この著者のことについては、ロシア産まれのモダニズムの詩人ということ以外、まったく知らない。ただ、G.スタイナーが『言葉への情熱』(法政大学出版局)の「普通でない読者」の最後で、理想の「創造的読書」として、ハイデガーのソフォクレス論と並んで、「マンデリシュタームのダンテ論」が挙げられていたので興味を持って入手。果たしてスタイナーが言っているのが、手に入れたこの本のことなのかどうかも自信がないのだが。本書は見開きでロシア語とドイツ語の対訳になっている。ロシア語は皆目分からないが、こういうかたちで出版されているほどだから、十分にその価値が評価されている著作なのだろう。


加藤龍太郎『コウルリジの言語哲学』(荒竹出版 1981年)

 ドイツのシュレーゲルもそうだが、ロマン主義の詩人・文学者たちは同時に相当な思弁的知性の持ち主であることが多い。このコールリッジなどはイギリスでのその種の知性の代表格だろう。『文学評伝』(法政大学出版局)などは、評論でありながら、それ自体17世紀的な「解剖」(anatomia)の伝統に棹差す奇書と言ってもいいくらい。シュレーゲルも晩年は言語哲学を展開しているように、むしろ正統的な哲学の中では主題になりにくかった問題を、彼らが集中して取り上げているような節がある。
 因みに、私が入手した『コウルリジの言語哲学』には、ペイターの翻訳者で名高い工藤好美宛ての献辞があった。


K. Peter, Friedrich Schlegels Ästhetischer Intellektualismus. Studien über die pradoxe Einhiet von Philosophie und Kunst in den Jahren vor 1800, (diss.) Frankfurt a.M.
(ペーター『フリードリヒ・シュレーゲルの美的知性論 ―― 1800年以前の哲学と芸術の逆説的統一に関する研究』)

 ドイツ・ロマン派研究で有名になったクラウス・ペーターの学位論文なので、それらしくタイトルは矢鱈に長い。学位論文はなかなか入手が難しいが、たまにはネット洋古書店にも転がっていたりする。対象となっているのは、ドイツ・ロマン派という文学運動の主導者でありながら、文学作品と言えるものは小説『ルツィンデ』くらいしか書かずに、ひたすら理論に没頭して行ったシュレーゲル(弟)。この論文の各章の表題を拾うと、シュレーゲルはわれわれの同時代人なのかと思えてくる。「イロニー」「自己反省」「関心」「アレゴリー」「断片」「愛」「神話」。まるでベンヤミンである。ドイツ観念論が抱えていた問題を、より先鋭なかたちで表現しているような趣もある。ドイツ観念論イコール体系という古臭い感覚に囚われなければ、ここに挙げられたキーワードでシェリングを読み解くくらいは訳のないことだろう。
 この論文で扱われているのは1800年までのシュレーゲルだが、後年のシュレーゲルは、歴史哲学や言語哲学をめぐって集中的に講義を行っている。いまになってわざわざ大騒ぎをするまでもなく、ディコンストラクションの問題などは、ここではとっくに取り上げられている。現代的な意味での蘇生が有望な著者の一人だろう。


C. Brauers, Perspektiven des Unendlichen. Friedrich Schlegels ästhetische Vermittlungstheorie, Erich Schmidt Verlag 1995.
(ブラウアース『無限なるものの多様な遠近法 ―― フリードリヒ・シュレーゲルの美的媒介の理論』)

 同時に注文したシュレーゲル文献。上述のペーターが、シュレーゲルを現代に接合するものだとすると、こちらのほうはむしろ超越思考の強い中世に繋がりそうな論点で攻めている。だいたい、『無限なるものの多様な遠近法』という標題自体、クザーヌスの研究書のタイトルとしても可笑しくない。実際、その逆説的な思考形態といい、無限をめぐる遠近法主義的思想といい、シュレーゲルは近代版クザーヌスと言えるような側面を多分にもっているように思える。この両者が、凡百の浅薄な「遠近法主義」と一線を画する点は、何よりもその「無限性」の理解の内に求めることができるだろう。


岡田暁生『<バラの騎士>の夢 ―― リヒャルト・シュトラウスとオペラの変容』(春秋社 1997年;第二刷 2003年)

 リヒャルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』という一つの作品に徹底して寄り添うことで、19世紀末から20世紀初頭にかけての音楽史・文化史を描ききった名著。サントリー学芸賞を受賞した『オペラの運命』(中公新書)とも主題が重なる部分があるが、本書の方がより本格的で、叙述も生彩に富んでいる。まずはワーグナー以降のオペラの可能性という大文脈の中に『薔薇の騎士』を置き入れ、音楽史上・文化史上の位置づけを確認した後、『薔薇の騎士』そのものの詳細な分析に入っていく。そのために前半が文化史、後半が作品分析というかたちで大きく分かれてはいるのだが、本書を通して読んでも、その両者の落差が気になるようなことはない。後半は譜例なども用いて、個々のモチーフなどもかなり詳しく論じているので、本当ならばそこだけが浮き上がって見えるはずなのだが、不思議なほどにそうした違和感がない。作品分析と実演や作品創作上のエピソードなどが実に巧みに織り合わされているので、まったく飽きることがないのである。ポスト・ワーグナーの問題を、「〔リヒャルト・〕シュトラウスは、ヨハン・シュトラウスによってモーツァルトとワーグナーを結びつけるという、奇想天外なやり方でもって解決したのである」(p. 232)という結論も実に説得力をもって説かれている。
 しかもここには、オペラを劇場と不可分のものとして社会史的に見る視点(『オペラの運命』はこれを全面的に展開したもの)が盛り込まれ、18世紀的な宮廷貴族社会を母体として成立したオペラが、有産市民階級に移り、そのスノビズムを満足させるものとなっていった流れが押さえられている。すでに貴族社会に根ざした社交界が消滅した後、市民階級はある種のブランド志向をもってオペラ座に集うことになるが、そうした彼らの高級志向をくすぐり、かつ彼らの通俗的な音楽の好みを満足させるものとして、『薔薇の騎士』は前代未聞の大当たりを取ったというのである。リヒャルト・シュトラウスは、観客が望んでいたことを素早く察知し、作品に仕上げていく点で、天才的な技倆を示した。しかしこれ以降、オペラを支えるそうした聴衆が変質し、今後『薔薇の騎士』のような、本来の意味でのオペラらしいオペラは成立しえなくなる。「リヒャルト・シュトラウスとともに、西洋音楽史の何かが永久に姿を消した、そしてその<何か>は実は、1945年〔第二次世界大戦の終結〕と言わず、すでに1911年の『バラの騎士』でもってもう終わっていたのだ」(p. 168s.)。ベートーヴェンの作品111をもって、ピアノ・ソナタの歴史そのものが幕を降ろすと言い切ったトーマス・マン『ファウストゥス博士』のクレッチュマー講演を思わせる胸のすく結論。
 それにしても、かなり複雑な事情をもったこうしたオペラ史・文化史の転換期を、一気に読ませてしまう著者の技倆は並大抵のものではない。著者は、遺族の下に残されているリヒャルト・シュトラウスのスケッチ帳をも調査し、作品の成立史にまで踏み込んだ叙述を行っているのだが、そうした実証的な研究のもつ瑣末さを感じさせないような料理の仕方を心得ているようだ。図版の使い方も巧みで、キャプションの文章などによって、より立体的な印象を与えている。本書は、著者の博士論文を下敷きにしているものらしいが、恰も初めから単行本として企画されたような仕上がりの高さを見せている。やはり博士論文を「書物」として公刊する場合には、書物としてこれくらいのものに完成させていくだけの意識の高さがほしい。博士論文を右から左に公刊してしまうケースの多い昨今の出版状況に対して、とりわけ強くそれを感じる。


松枝到編『ヴァールブルク学派 ―― 文化科学の革新』(平凡社)

 ヴァールブルク学派周辺についての基本的な資料集。この研究所の紀要の内容を網羅した文献表が圧巻。また、ヴァールブルクの葬儀(1929年)でカッシーラーが読んだ追悼文は本当に感動的。ここでカッシーラーは、ヴァールブルクをジョルダーノ・ブルーノになぞらえ、『英雄的狂気について』の一節をもって締めくくっている。「それ〔ヴァールブルクの一生〕は、人生の実りをかかえて我が家へ帰ったあとで、平和のなかで死ぬことを許された単なる学者や研究者の姿ではありません。そうではなく戦士と英雄の姿なのです。その武器は、死がその者から武器を解いたときでも、刃こぼれもせず欠けてもおらず、彼の精神のなかの生きるための戦いにおいて、終始変わりなく強く、鋭く、純粋でありつづけたのです」。人文学の復興に取り憑かれた人間の一生を飾るに相応しい弔辞だろう。


宮下誠『20世紀絵画 ―― モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書 2005年)

 新書での20世紀美術史入門という体裁を取っているが、その内容はかなり野心的。抽象絵画のみならず、とりわけ東独の具象画が、20世紀美術の動向の中で論じられるのが新鮮。すでに触れた『迷走する音楽』と同一の著者だが、認識を改めた。「抽象」を論じる視点にしても、ヨーロッパ以外の文化(イスラム、ビザンツ、ロシア、エジプト)にとってはむしろ「抽象」という思考の方が優位にあり、ヨーロッパ絵画はその中では、古代ギリシアに発した「人間性」とキリスト教(人間=神)に依拠することできわめて特殊なポジションを占めているのだといった発想(150ページ)は、目から鱗が落ちるようなところがある。タイトルだけで売ろうとする、週刊誌の中吊り広告のような箸にも棒に掛からない新書が飛躍的に増大する一方で、新書に身をやつしたこうした野心的な試みが含まれているのも、いまの出版のシーンの特徴なのかもしれない。「選書」という古典的な入れ物が四苦八苦するなか、その出口が新書に向いているような気もする。


渡辺裕『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波書店:岩波現代文庫 2004)

 『文化史の中のマーラー』(筑摩書房 1990)の改題・再版。マーラーを世紀末の同時代環境の中から捉えようとする試み。いまとなってはそれほどの新鮮味はなく、一つ一つの主題もさほど掘り下げてあるわけではないので、マーラーの音楽をキッチュとして捉える本書の理解も、今となってはなかば常道化した感があり、特に目新しいことはない。しかし、従来の音楽伝統を縛っていたソナタ形式などの形態からマーラーがいかに逸脱しているかという問題を具体的に検証した最後の数章は興味深い。著者はそれを「音楽の論理の解体」、あるいは音楽の「ポスト・モダン」と呼ぶのだが、確かに交響曲第三番の第一楽章など、学生歌が朗々と鳴り響く主題となったり、途中で軍楽隊が通り過ぎたりと、相当に悪ふざけがひどい。カフカは朗読会で自作を読みながら爆笑していたというが、マーラーも大笑いしながらこんな曲を書いていたのではないだろうか。そんな破綻ぶりを、テンポの振幅という面から細かく追った最終章「ワルター神話を超えて」は一読の価値あり。交響曲第四番に関して、20種類くらいの演奏の各部分のテンポを一覧表にして比較するという力業。そんな単純な比較の中から、マーラー演奏のスタンダードと言われるワルターの演奏が、その実かなり古典的で伝統的な音楽観によっている「単調な」ものであり、テンポを大きく揺らして、悪い意味でロマン主義的と言われるメンゲルベルクがむしろマーラーの作品に忠実であるという点、さらに現代のインバルは、メンゲルベルクふうのロマン主義とは別の意図でまた大きくテンポを弄っているというような経緯が、かなり鮮やかに浮かび上がってくる。インバルのマーラー全集が欲しくなってくる。


『ボルヘスのイギリス文学講義』(国書刊行会〔ボルヘス・コレクション〕)

 「ボルヘス+英文学」ときては読まずにはおれないとばかりに、タイトルだけ見てネット書店で注文したものが到着。しかし残念ながら期待したようなものではなかった。本文はバラッと組んだ150頁ほどのものなので、30分もあれば読めてしまう。今しがた手に取って、次に置いたときには読み終わっていた。その程度の内容。特別に悪くはないが、ごくごく一般的でしかも簡潔すぎる英文学史。ボルヘスらしさというような特色も捜し出すのに苦労するほど。「ボルヘス」の名前がなければ出版されたかどうか。英文学の常識的で簡単な通覧という意味では悪くはないが、それなら他にもっといいものが沢山ある。似たようなスタイルのものでいうなら、われらが西脇順三郎の『近世英文学史』(『西脇順三郎全集』第9巻、筑摩書房)はこれに優に優っている。ラフカディオ・ハーンが東大でやった講義『英文学史』(『ラフカディオ・ハーン著作集』第11/12巻、恒文社)なども、『ベーオウルフ』が渡辺綱の鬼退治と比べられていたり、読み物としても面白いし、優れた教育者ハーンの一面が窺える(本当に血肉の通った英文学講義)。また同じくメタ・ノヴェル的作家の文学講義ということなら、イタロ・カルヴィーノの傑作講義『カルヴィーノの文学講義』(朝日新聞社)をお薦めしたい(これはいずれ「推薦書目」へ)
 ただし、このボルヘスの『イギリス文学講義』は、本としての作りは丁寧で、国書刊行会独自の例の別刷り「翻訳書誌」が付いていたり、訳者が長文の解説めいた文章を寄せたりと、それなりの誠実さが窺える。この訳者の文章はそこそこ面白く、特にボルヘスとクィンシーとの関係への言及などは嬉しくなるが、ボルヘスのこの講義そのものとは直接にはまったく関係がない。ボルヘスの文章そのものに関しては、既刊分も含めボルヘス・コレクションの他の巻に期待したい。


レーダー『ワーズワースと現代詩の始まり』(松柏社)

 現代詩の基本的主題は意識分析であると規定したうえで、その出発点にワーズワースを置く。確かに言われてみれば、彼の『序曲』(The Prelude, 1850)は、その副題にGrowth of a Poet's Mindとあるように、 要するに詩的精神の系譜学、あるいは自己意識の発生論といったところか。訳文は平明で読みやすいが、固有名詞表記などには若干の問題あり。開巻早々に、ピーター・ロンバート、セント・ビクトールのリチャード、フローレンス会議と英語読み珍名さんが連打される(それぞれ「ペトルス・ロンバルドゥス、サン=ヴィクトルのリカルドゥス、フィレンツェ<公>会議」)。また、この自己意識論という枠組で論じられているなら、Self-presenceは、「自己存在」(p.314)ではなく、「自己現前」ではないか(「自己」は「存在するもの」ではなく、「自己の自己にとっての<現れ>」だというところは、外せないポイントのはず)。さらに終わり近くに、「レヴィ=ストラウス」が登場して、しかもその著書Tristes tropiquesは欧文のままで投げ出してある。レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(『悲しき南回帰線』という邦訳タイトルでも出ていた)を、この手の本を訳す人が知らないとは思えないので、どうにも腑に落ちない。いっそのことジーンズメーカーと取り違えてくれているのなら、素直に笑えるのだが。
 この松柏社という出版社、良い書目を揃えていて、大いに注目されていい
(したがって今後も触れていきたい)のだが、仕事の詰めが少々甘いところがあるのかもしれない。実を言うと、「推薦書目」で持ち上げたファマトン『文化の詩学』も、いかにも引用されそうな一節に誤植があるのは返す返すも残念(「ポストモダンの現代にあって、私たちはとりわけ断片的なものや不連属性〔 → 不連続性〕、あるいはナオミ・ショアが<細部重視>と呼んだものに敏感である」p.26)。たまたま目に触れたものにそうした不注意を含むものが多かっただけであることを願う。


『ニーチェ全集』生田長江訳(全12巻、日本評論社、昭和11年)
 きわめて早い時期のニーチェの個人訳全集。第12巻は全巻にわたる事項総索引になっているなど、本としての作りもなかなか良心的。このなかではやはり『ツァラトゥストラ』の文語訳が特徴的だろうか。「日に十度
(とたび)、汝は笑ひて快活ならざるべからず。しかざれば夜かの、憂悶の父なる胃腑汝をなやまさむ。……我にして我が隣人の婢に垂涎せむか。これらのこと総て皆、よき眠と相協(かな)はざるなり」といった具合。この全集については、日夏耿之介が以下のように評している。「ニイチェ全集は明治文化史上に永久の残る好い記念だ。翻訳も氏の訳案中ではあれが一番よい。もっと広く深く読まるべき古典だ」(「生田長江氏」、『輓近三代文學品題』所収)


A. W. Schlegel, Kritische Schriften und Briefe, Bd. 1: Sprache und Poetik, Stuttgart 1962; Bd. 2: Die Kunstlehre, Stuttgart 1963
(シュレーゲル『批判的著作と書簡』第1巻「言語と詩学」、第2巻「芸術論」)
 シュレーゲル(兄)の理論的な論文はこの二冊でおおむねまかなえるので便利な論集。現在入手不能だが、フライブルクの古書店にて。


P. Parker, G. Harman (eds.), Shakespeare & The Question of Theory, Routledge 1993 (1st ed. 1985)
(パーカー/ハートマン『シェイクスピアと理論の問題』)
 現代の批評理論によるシェイクスピア論の論文集。全体の部立てが、「第一部:言語・修辞学・脱構築」「第二部:女性の役割」「第三部:政治・経済・歴史」「第五部:ハムレットの問題」となっているなど、その問題設定からしていかにもいまふう。新歴史学のグリーンブラットなども論考を寄せている。


D. P. Haney, The Challenge of Coleridge. Ethics and Interpretation in Romanticism and Modern Philosopy, The Pennsylvania U. Pr. 2001.
(ヘイニー『コールリッジの挑戦 ―― ロマン主義と近代哲学における倫理学と解釈)
 ガダマーの解釈学、レヴィナスの他者論、リクールの自我論、ヴァッティーモのニーチェ読解などに依拠しながら、コールリッジの思想を解釈するという気宇壮大な試み。ロマン主義はもっと哲学として読まれて良いと思っているので、呼び水としては歓迎すべき試みだろう。もちろん、あまりに理論的な枠組に頼りすぎてしまうと、解釈としての強引さを産んでしまうことにはなるだろうが。


V. Gerhardt (Hg.), Friedrich Nietzsche, Also Sprach Zarathustra, Akademie Verlag 2000.
(ゲルハルト編『ニーチェ<ツァラトゥストラ>』)

 ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』に特化した論文集が、ニーチェの歿後100年に公刊されていた。「古典解釈叢書」(Klassiker Auslegen)の一冊。遅まきながら入手。ニーチェの文献は大量にあるなかで、ツァラトゥストラに限定した研究なり論集は意外なほど少ない。その点で、この論文集のもつ意味はなかなか大きいだろう。執筆陣も、編者のGerhardtを始め、Salaquarda, Pieper, Nehamas, J. Simon, Reschke, E. Behlerなど、豪華な布陣(うち二人はすでに亡くなっている)。論文集なので、どうしてもある主題に限定して論じるということにはなってしまうが、それでも『ツァラトゥストラはこう語った』の全体をなるべく視野に収めるという方向をできるだけ打ち出そうとしている様子が窺える(Ottmannの「<ツァラトゥストラ>の構成の問題」などがそうした関心を顕著に示している)。この「古典解釈叢書」は、カントの『永久平和』や『純粋理性批判』、ヘーゲル『法哲学』、アリストテレス『形而上学』、プラトン『国家』など、すでに20点を越えている。研究レベルの入門書として悪くない企画だと思う。


『トマス・ド・クインシー著作集』野島秀勝他訳(全四巻、国書刊行会 1995-2002年)
 かつて、平井呈一氏を中心に、牧神社で作品集成が企画されたものの、実現を見ずに平井氏も亡くなってしまった。その後、由良君美氏が企画自体を引き継ぐかたちで進められていたが、その由良氏も他界したのちに、ようやく形を取った。英語のエセーとして評判の高い「イギリスの郵便馬車」や、これまた有名なマクベス論「門口のノックについて」、ゴシック小説「悪魔の骰子」、などなど。『阿片吸引者の告白』など、随所にラテン語、ギリシア語が紛れ込み、トマス・ブラウン『医師の信仰』
Religio Mediciの十九世紀版の赴き。著作の種類も何とも雑多である。文学者・思想家・評論家のどの名称を当てても常にずれが生じる複雑なクインシーは、いささか古風な意味での「文人」といったところだろうか。思想的にも、イギリス人でありながら、ドイツ思想に共鳴した混淆(ハイブリッド)の人として、個人的に思い入れがある。そんなこともあって、現在の定本であるマッソン版の14巻ものの全集が、私のところには二組ある(一組は原装、もう一組は改装されたモロッコ皮装)。
 今回の日本語版著作集はまさに慶賀すべき事業。代表的なものはこれで日本語で読めるようになった。ただし、『阿片吸引者の告白』は、後の増補改訂版ではなく、分量的にはその三分の一の初出時のもの。またクインシーには『修辞学』、『文体論』などの、言語・文学論があるが、それは今回は収められていない。『カントの最後の日々』が収録されたのは嬉しい。形態の上では、本体は一巻一巻が大きいうえに(約
500頁)、本文用紙が固く、開き具合が悪いのが少々気になる。本文中の欧文フォントは何ともいただけない。ギリシア文字のフォントは妙に綺麗なのだが、気息記号というものがきちんと理解されていないらしく、その辺の処理はいい加減。


宮下誠『迷走する音楽』(法律文化社 2004年)
 現代音楽を論考とレコード批評を取り混ぜながら扱った一冊。法律文化社という、この手の書物としては珍しい版元から出たが、装幀がいかにも現代芸術的な雰囲気を漂わせていて、なかなか素敵。ただし書物としては、頁が開きにくかったり若干難がある。内容も丁度そういった感覚で、評論なのか、論考なのか、レコード批評なのかが判然とせず、読者としては戸惑ってしまう。現代音楽においては「大きな物語」が失効して、音そのものへと関心が集中するようになるというが大筋の流れ。「<遅い>演奏は基本的に<クレンペラー>と<非クレンペラー>という二つのカテゴリーに分けることができる」(p. 120)というのには笑ったが、言わんとすることは分からないでもない。あるいは音楽批評の中ではほとんど主題として扱われないティンパニの表現だけで一章を組んでみるなど、その野心は分かるのだが、叙述がいかにも散漫。これも「物語の死」(まさに「迷走する音楽」)の一つの表現というつもりかもしれないが、やはり書物の作りとしては納得しにくい。特にレコード批評の部分がゴチックで組んであるので、これがまた読みづらい。趣旨は共感できるので、同じ著者の『逸脱する絵画』は買い控えて、かわりに新書本でも読んでみようかと思う。

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