観念の結合術


推薦図書

思弁のマニエリスム


J.=L. ナンシー『ヘーゲル ―― 否定的なものの不安』大河内泰樹・西山雄二・村田憲郎訳(現代企画室 2003年)

 完結して閉じた全体と思われているものを、その内側から解体して開かれたものへと転換していくのが、「脱構築」流行の現在では一般的な傾向となっている。同一性に代わって非同一性を、自己に代わって他者を、存在に代わって無を強調するというのが、そこで見られるある種の定型的思考である。閉じた思考の極限と言えるヘーゲルの解釈も例外ではなく、最近でも高山守『ヘーゲル哲学と無の論理』(東京大学出版会)などが、存在の現前の思考という従来のヘーゲル理解に対して、「無」の思想家ヘーゲルという解釈を提示している。しかし、実のところ、ヘーゲルの体系は、『論理学』の最初の有名な個所にも示されているように、一般的な意味での「存在」と「無」の対比が無意味になるような場面で展開されているため、ヘーゲルが「存在」を語っているのか「無」を語っているのかというのは、それほど大きな問題ではない。ヘーゲルが「存在」の思想家であるか、「無」の思想家であるかという問題は、体系上の理論的問題ではなく、解釈上の文脈の問題なのである。理論的に言えば、ヘーゲルはその両方でもあるし、そのどちらでもないというのが正確な答えなのであって、それ以上そこに拘泥する必要はない。

 しかし、「否定」や「動揺」、そして「不安」をキー・ワードとする本書でのナンシーの議論は、ヘーゲルの理論の核心に関わる問題である。ヘーゲルの体系の中で、否定性や運動が問題になるというは当然のことである。生成する生きた論理こそ、ヘーゲルが「主体=実体」や弁証法という思想を通じて提示しようとしたものだからである。しかし分裂や生成だけでは「知」にはならないので、動揺に晒された生きた運動がいかにして「知」という同一性を回復するかというのが、ヘーゲルの中心的な問題であった。そのため、「否定」や「不安」は、体系が完成する最後の段階では解消され、同一性が樹立されるというのが、通常のヘーゲル理解だろう。ナンシーが展開するのは、まさにこの最後の完成の部分で、「否定性」が本当に解消されるのかという議論である。

 こうしたナンシーの議論をその最も緊張感の高いところで受け取るために、頻出する「否定」や「他者」を、実在に対する「否定」や、自己に対する「他者」という意味で理解しないことが肝心である。最も重要なのは、弁証法が進展する過程において現れる「否定」や、知の運動が同一性を確保する途中で経験する「他者」ではなく、体系が閉ざされるまさにその場所で働いている「否定性」や「他者性」である。「否定性は所与の他者を解消するのだが、それはこの他者をまさしく即自的に亀裂の生じているような一つの自己へと帰着させるためではなく、この他者を所与でない他者とするためである。つまり、私の他者として、私の内で、自己自身の無限の他性である他者、すなわち即自的に自己の無限なる他性化である他者とするためである。私の真理が他者の内にあるのは、新たな即自あるいは新たな自我の内に放置〔脱措定〕されるためでも、共同的な自己の内に放置〔脱措定〕されるためでもないのである」(p. 107s.)。つまり、ここで言われる「他者」とは、けっして何らかの事実として遭遇するような現実の「他人」のことではない。かといって、単なる抽象的な「他なるもの」でもない。ここで問われているのは、意識が他性によって覚醒させられることで私の自己意識となり、さらにその自己意識が欲望を通じて他者と出会うことで精神となっていく過程である。「<私>の具体的な目覚めとは、世界への世界による<私>の目覚め ―― 他者性一般という世界への、他者性一般という世界による目覚めである。目覚めとはまさしく、生起する他者の経験なのだ。こうして他者は、それがそこへと生起する物あるいは者として、私を私自身において発見するのである」(p. 111)。

 しかし、これまでのことは ―― かなり鋭い要約ではあるが ―― 所詮はヘーゲルが語っていることの祖述にすぎないとも言えるだろう。ナンシーの議論が刺激的で独自のものとなるのは、こうしたヘーゲルの叙述を可能にしている視点そのものが問われる場面である。ヘーゲルの議論にとことん付き従いながら、最後の地点で疑義を呈するという仕方でしか、ヘーゲルの生産的な読解はありえない。つまり、『精神現象学』で言えば、体系の叙述そのものを可能にしている絶対知の視点の中に入り込んでくる「否定性」が、最後の最後で問題にならなくてはならない。通常は、現象する経験的意識とそれを叙述する絶対知の視点の差異が、『精神現象学』の運動全体を起動させていると考えられるが、ナンシーが最後に問題とするのは、その叙述の視点である「われわれ」の内部の否定性である。体系を叙述する視点はなぜ「われわれ」と呼ばれるのか。おそらくヘーゲルは、個的な「私」の視点に解消されない普遍性という意味で「われわれ」という語を選んだのだろうが、ナンシーが着目するのは、むしろ「われわれ」という複数形の語の複数性、あるいは複数性を可能にしている内部分裂そのものである。ナンシーの思考に従えば、この複数的な「われわれ」の領域こそが、「共同性」や「自由」といったものが開ける場所なのである。

 自由は通常考えられるような即自的な否定ではない。つまりナンシーの語る自由とは、「〜への自由」や「〜からの自由」というようなかたちで、対象との関係で論じられるような自由とは次元を異にする。『精神現象学』が最後に到達する「われわれ」をめぐる自由とは、そうした即自的な自由に対する否定、つまり「否定の否定」である。「自由はある主体の独立でも、自立でも、自由意志でもなく」、「〜との自由」(「共-自由」)なのである。(p. 127)。こうしてナンシーは、通常ヘーゲルの体系が最終的に閉ざされるとみなされている地点に穴を穿ち、そこから新たな共同性や自由の理解に向かおうとする。これはヘーゲルの否定ではない。むしろヘーゲルは、体系を「閉ざす」といったときに、その「閉じる」ことの意味合いをも変えてしまったのだと言ったほうが、ナンシーの理解に即しているのかもしれない。

 本文は150頁に満たない、見かけは小ぶりな著書だが、実に読み応えのある論考である。ナンシーの手になるヘーゲルのテクストのアンソロジーも付されていて、本文での議論を、読者が原テクストによって検証することもできる。翻訳もそれに見合うだけの水準に達しており、訳註も充実している。何よりも、共訳者三人がそれぞれに解説を書いているのも興味深い。それぞれの視点からの解釈になっている。始めの大河内氏のものが、通常のヘーゲル理解に即しながら、ナンシーの読解の独自性を示し、続く二つがそれぞれの視点から議論をサポートしている。これら三つの解説の配列も良い。本気になって取り組もうと思えば、かなり長いあいだ楽しめる一冊である。


M. Sommer, Identitat im Ubergang: Kant, Suhrkamp 1988.
(ゾンマー『過程における自己同一性)

 自己同一性を実体の同一性としてではなく、プロセスとして捉えるという理解は、現代において定着した流れになってきた。第二章は、「理性的原理としての自己保存」として「弁証論」を扱い、第三章では、「成年」(Mundigkeit) ―― 『啓蒙とは何か』のキーワード ―― をめぐるメタファー論になっており、なかなかセンスがよさそう。


新田義弘・山口一郎・河本英夫他『媒体性の現象学』(青土社 2002年)

 日本の現象学がきわめて高い水準で活動することを可能にした最大の功労者とも言える新田義弘氏に捧げられた記念論文集(そのため巻末に新田氏の業績一覧などが付されている)。海外からの寄稿も多く、実に読み応えのある内容になっている。現象学のもっている可能性を、フッサール一人にとどまらず、ハイデガー、レヴィナス、オート・ポイエーシスなど、さまざまな局面から照射する。現代の現象学を、高水準でサーヴェイするには、恰好の論文集だろう。ここ数年は、現象学誕生100年(正確には『論理学研究』公刊100年)ということもあって、現象学関係の企画が相継いだ。『思想』2000年10月号『現象学の100年』、『現代思想』2001年12月臨時増刊『現象学 ―― 知と生命』などもその一連の流れだが、これらもまた本書『媒体性の現象学』と連動する議論として理解することができる。執筆者なども部分的に重なっていて、議論の展開の様子を窺い知ることができる。


J. Neubauer, Bifocal Vision. Novalis' Philosophy of Nature and disease, U. of North Carolina Press 1971.
(J・ノイバウアー『二重焦点のヴィジョン ―― ノヴァーリスとの自然と疾病の哲学』)
 
Symbolismus und Symbolische Logik(『象徴主義と記号論理学』〔邦訳は『アルス・コンビナトリア』ありな書房〕)の著者のノヴァーリス論。自然哲学の文脈の中でノヴァーリスを理解しようとするものであり、関連付けられる思想家も医学・自然学関係の人々、医学者ジョン・ブラウン、自然哲学者バーダー、シェリングなどである。この種の傾向の書物としては、日本でもその後中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想 ―― 自然学から詩学へ』(創文社 1998年)が出た。この書物も、情報量が多いうえに読みやすい良書だったが、その文献表の中でも、当然このノイバウアーは挙がっている。


大川勇『可能性感覚 ―― 中欧におけるもうひとつの精神史(松籟社 2003年)
 ムージル論として、『特性のない男』の「可能性感覚」を論じた450頁あまりの大冊。副題にある通り、ムージル論という枠組をはるかに越えて、ライプニッツの「可能世界論」から18世紀のユートピア小説群、20世紀のオーストリア思想、ハンガリー思想(要するに、著者のいうところの「中欧」精神史)、とりわけマッハの感覚論から、マイノングの「対象論」、最後はマンハイムの『イデオロギーとユートピア』とぐあいに、とにかく扱っている範囲が広大。それも文学から、哲学、社会学へと跨っていて、一見すると破綻しそうに豊富な材料ではあるが、著者の書きぶりはなかなかに見事で、ある種強引な「結合術」をさほどの抵抗なく読ませてしまう。どの現実にもコミットせずに、複数の可能性の中での宙吊りに耐え続けようとする「可能性感覚」の思想的背景と可能性を追った議論として、内容的にもきわめて刺戟的。名著と言って良いだろう。巻末の文献表も食欲をそそる


カッチャーリ『必要なる天使』住本元彦訳・岡田温司解説(人文書院 2002年)

 中世哲学以来、その位置づけが難しい「天使」であるが、この中間的で曖昧なありかたが、現代の思想の中でにわかに関心を呼びつつあるようだ。その着想源はベンヤミンということになるが、本書はただ流行のトピックスを追いかけたようなものではなく、キリスト教思想のみならず、イスラム思想にまで目を配りながら、「天使」という問題群を浮彫りにしてみせる。それはいってみれば、どの領域にも属さないながら、それぞれの領域を仲立ちする「媒介」という問題である。キリスト教の中でその「仲立ち」の役割は何と言ってもキリスト(文字通り「仲保者」と呼ばれる)だが、そのような救いの確実性をもたらすキリスト以上に、現在では「天使」という曖昧な存在が、媒介の問題をよりリアルに見せてくれるようだ。そのために、著者カッチャーリは、救い自体の反復を意味するオリゲネスの「アポカタスタシス」の問題なども視野に収めている。小著であるが、ここからさまざまに着想が伸びて行きそうなエネルギーに満ちている。翻訳のほかに長文の「解説」を付した作りも丁寧。


岡田温司『イタリア現代思想への招待』(講談社 2008年)

 なんとも評価しにくい書物。著者の岡田氏は、アガンベン『スタンツェ』『開かれ』やテヴォー『不実なる鏡』、マイオリーノ『コルヌコピアの精神』など、現代思想・美学の翻訳(ほとんどが共訳であるが)や、『芸術と生政治』などの著書、さらには中公新書の数冊によって、その実力は疑う余地がない。しかし、期待が大きかっただけに、本書はいささか当てが外れたような思いが強くなる。情報量は圧倒的で、その位置づけも的確なのだが、肝心の思想的な意味が掘り下げられていない憾みがある。紙幅の制約というよりは、やはり書き振りの問題だろう。個々の問題や思想を矢印やラインだけで結んだ剥き出しのチャートを見せられているような味気なさがある。データが豊富なので、通読するよりカタログとして利用すべきなのかもしれないが、それにしては文献表も索引も付されていない(この種の書物としては大きな欠陥と言わざるをえない)。大量に紹介される書目も、読書欲を掻き立てることなく、淡々と流れて行ってしまう。これだけ美味しい(はずの)書目が列挙されていても、すぐに注文しようという気が起こらないのはどうにも不思議である。著者には、カッチャーリ『必要なる天使』やアガンベン『中身のない人間』に見事な「あとがき」があるので、むしろ直前に取り上げた梅木達郎『支配なき公共性』のように、「あとがき」類をまとめたうえで加筆し、それに例えば本書の第一章のような見取図を加えるかたちで編集されたら、もう少しメリハリのある紹介になったように思える。
 かつて、近藤恒一『ルネサンス論の試み』(創文社 1985)に、イタリア哲学の紹介があったが、日本語ではなかなかイタリア哲学のまとまったものが書かれることがない。それを踏まえて、クローチェ、ジェンティーレ辺りから、もう少し大文脈を造ったうえで、現代思想の紹介がなされないものだろうか。


梅木達郎『支配なき公共性 ―― デリダ・灰・複数性』(洛北出版 2005年)

 著者歿後にまとめられた論集。著者が翻訳した書物の「訳者あとがき」を前半に、後半に『現代思想』などに発表した論考が配されている。前半に収められた、ドゥギー編『崇高とは何か』、ドゥギー『尽き果てることなきものへ』、デリダ『火ここになき灰』の「訳者あとがき」は、それぞれ「論文」として通用する充実したもの。やはり訳者たるもの、当の書物を自分の中でどのように位置づけ、どういう意味で紹介するのかを明確にする「あとがき」を付けるのは、なかば義務のようなものだと思う。それを煩く感じる読者もいるだろうが、それは読まなければよいだけの話なので、個人的な成立事情やら(ひどいものになると)弁明でお茶を濁すような訳者は許しがたい。その点、本書を見ると、著者がいかに自分の翻訳の仕事を選び、日本語にしていったかが窺えて、頼もしい思いがする。「訳者あとがき」を一書にまとめることで、それが個々の翻訳書をパーツとして含むメタ書物のようなものとなるのは、一種の理想かもしれない。本書は、著者自身の意思の及ばない歿後の編集だが、結果的にそうしたメタ書物を部分的に実現することになった。
 著者が訳した書物同士を繋ぐ隠れた問題系は、「反弁証法」である。フランスでかつて流行した「崇高論」や、デリダの議論、ドゥギーの「喪」の思想が、「終わることなき脱構築」の論理として、一貫して見えてくる。さらに後半の共同性をめぐるハイデガー、アーレントの議論もまた、一なる支配の共同体に組み込まれることのない、「反弁証法的な」共同体論として理解することができる。


上田閑照『経験と場所』(岩波現代文庫 2007年)

 エラノスの関係者でもある上田閑照のコレクションの一冊で、西田幾多郎をめぐる論考を集めた巻。最近『私とは何か』(岩波書店 2008)が出たこともあり、振り返ってみた。宗教哲学を正面に掲げるタイプというのはいささか苦手なので、エックハルト論以外、実はあまり本気で読んだことがなかったのだが、本書に収められた「経験と自覚」は圧巻。『私とは何か』は内容的にこの論考に言い尽くされていると言ってもよい。「純粋経験」という一点に絞って、「純粋経験の事実」と「純粋経験に対する反省」との区別を執拗に追跡する。経験の基盤とされる純粋経験は、時として俗流解釈にあるように、無自覚の経験のことではない。無自覚といっても、そこに通常の意味での経験が成り立つ限り、それは「純粋」経験とは言えないのである。上田氏は、この経験以前の経験とも言うべき「純粋経験」を、西田後期の「場所」論とも接合しながら、「始まり」「始源」ということの意味をかなり高度な反省を踏まえて論じていく。

 ドイツ哲学や現象学の用語などはほとんど用いられることなく、稀に触れられるのは唯一ハイデガーくらいだが、ここに展開されているのは、紛れもなく、ドイツ哲学正嫡の超越論哲学である。しかも後期フィヒテなどが考えていた超越論的反省そのものの限界に触れるようなきわめて高度の考察が開陳されている。「われは、われならずして、われなり」という西田の文章を踏まえて次のように語られる。「それは、<われ>と<われなし>との質的な差異が<われ>にほかならないということです。あるいは自己定立と自己解脱との交通そのものが<われ>にほかならないということです」(109頁)。  また「純粋経験即<是>」という表現を踏まえ、この「是」に対して「是れ何ぞ」と問われるとしたら、その「何」は哲学的「何性」(quidditas)以前の「何」と言われ、次のように述べられる。「このような<是れ何ぞ>はそれが発せられる現発動としては意識の言葉とはいえません。意識が打撃されて無 – 意識となり、無 – 意識の意識として意識と無 – 意識との間が震動するその震動の ―― というよりここに間となるその動的な間の直接表現です。しかも、何と何とのあいだではなく、すべてのものの<於ある場所>である開けの震動です。……<是=何>は、現前によって言葉世界が破られる原音であるとともに、そのように言葉世界を破る現前が言葉になる原始語であると」(136頁)。日本語による高次の超越論哲学の可能性を感じさせる。


井筒俊彦『意識の形而上学 ―― 『大乗起信論』の哲学』(中公文庫Biblio 2001年)

 『大乗起信論』の根本構造を、とりわけ唯識と対比しながら論じた好著。いつもながら、神秘思想を「明晰に」論じ切ってみせるというところから、著者の力量が推し量れる。「いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、……その全体を構造的に捉えなおすこと ―― そこにこそ形而上学の本旨が存する。そしていま、『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとするのである」(22頁以下)。こう述べられる姿勢は、『大乗起信論』のみならず、それを論じる著者の態度でもある。
 『大乗起信論』の興味深いところは、阿頼耶識が絶対無区別の真実在への通路であると同時に、分節された経験的世界への下降でもあるといったダイナミズムをもって論じられる点である。その点で、この阿頼耶識は、イメージが消失する零点へ向かうと同時に、そこから一切のイメージが湧出する源泉でもある。いわば意識論と存在論の接点にこの阿頼耶識が位置していることになる。問題は、無差別の一者からなぜ分節が起こるのかという点だが、それについては、「心、心を見ざれば相として得べきなし」と語られる。自己反省による分節化という点で、プロティノス『エンネアデス』で、一者が一者を振り返ることによってヌースが生じると語られるのと同じ事態が指摘されているようである。「三細六麁」と呼ばれる意識のメカニズムは現象学とも通じる要素を多分にもっている。この意識の展開を支えるのが、「薫習」(移り香)と「逆薫習」の論理であり、それはまさに発生論的現象学の「連合」などをも思わせる。

 ちなみに中公文庫Biblioは、カバーの材質などが良くて、心地よい。本書のカバー・デザインも、「薫習」を図式化した本文の図表が上手く組み合わせられていて、なかなか素敵なデザイン。


永井晋『現象学の転回 ―― <顕現しないもの>に向けて』(知泉書館 2007年)

 後期フッサール研究や、マリオンらのフランスでの現象学の新展開(いわゆる「神学的転回」)を踏まえながら、現象学の独自の転回を模索する新鮮な試み。良い意味でも悪い意味でも、「研究書」という枠に収まらない大胆な展開がなされている。ここでは、フッサール的な志向性モデルの延長にとどまらない現象性の次元(志向的対象を現象性の規範とする限りでは、「顕現しないもの」=「目立たないもの)がアンリの「反還元」「実質的現象学」やマリオンの「顕現しないもの」に即して論じられるばかりか、何よりもユダヤ神秘思想、イスラーム神秘思想の知見を導入して、これまでにない現象学=形而上学=神学の路線が追求される。そして著者自身が十分に自覚しているように、それはハイデガーの言う「存在=神論」や素朴な形而上学の後退や、特定の実定宗教への帰依とは徹底して区別されなければならない。著者の狙いは、フッサール現象学が本来目指していた現象性の根拠を、あくまでも「現象学」として解明することに尽きる。

 「不可視性」や「顕現しないもの」という次元が、いわゆる「脱構築」を通じて、形而上学的思考によっては表現しえないものとして示唆されるというのは、従来の現象学の議論の中でも行われてきた。これに対して、この著作では、その「顕現しえないもの」を、そのものとして表現する「像化」の動向が模索されている。そこで導入されるのが、井筒俊彦によって創造的に解釈されたイスラーム神秘思想(イルファーン)であり、井筒もしばしば言及していたアンリ・コルバンである。イコン性や現代美術の動向(とりわけキーファーの「新表現主義」)を通じて、顕現しえないものの顕現が論究されるその見事な一節。「<見えるもの>はまなざしによって≪見られたもの>、構造的に地平として<見えないもの>をはらんで、それに支えられて初めて成立する<見えるもの>であることをやめ、完全に現れ切ったもの、現れるためにまなざしに見られ、地平に媒介される必要はなく、おのれ自身から顕になるものと化す」(200頁)

 第1章「内在領野の開示」は理論的な展望の提示という点で過不足なく、第8章「絵画の終焉と像の救済」は上述のキーファー論も含む卓越した論考。差し当たりこの2編で、大方の骨子は掴めるだろう。最終章の「神と妖怪の現象学」は、本書に加えなくても良かったかも知れない。難点を言うなら、現象学とユダヤ性ということを通路として、互いに異なった文脈に属している議論が、あまりにたやすく接合されてしまっている点が挙げられる(悪い意味で、研究書でないという面)。像の理解に関しても、ユダヤ的という繋がりだけで、ベンヤミンのアレゴリー論などがユダヤ神秘思想の「ツィムツィム」(退去)と並べられているが、その関連の議論はさほど容易なものではないだろう。そうした課題を残しながらも、果敢な試みは十分評価に値すると思う。


E. Przywara, Analogia Entis. Metaphysik: Ur-Struktur und All-Rhythmus, Johannes Verlag: Einsiedeln 1962
(プシュヴァーラ『存在の類比 ―― 形而上学:原構造と万有のリズム)
L. Bruno Puntel, Analogie und Geschichtlichkeit I: Philosophiegeschichtlich-kritischer Versuch Über das Grundproblem der Metaphysik, Herder: Freiburg/Basel/Wien 1969
(プンテル『類比と歴史性』)

 40年ほど前の著作(前者はこれ自体がリプリントで、初版は1932年)だが、「存在の類比」を主題にして、プロテスタント的=否定神学的な否定性と飛躍の思考に対して、ある種の肯定性と連続性を救い出そうとしたもの。この否定神学的な状況は、現代の脱構築的な思考にも通じるものである。あまりにも断片化した思考を再び構築的な方向へと向けるのに、「存在の類比」の理解は見直されてもいいのではないか。最近、スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』高山宏訳(産業図書, 2006)でもプシュヴァーラの名前を眼にして、あらためてその感を強くする(ちなみに、このスタフォードの訳書では、類比の二種類が「述語構造」と「均衡」と訳されているが[p. 123]、これは「述定」と「比例」のこと。また繰り返される「参加」participationは、「分有」でなければ意図が伝わらないはず)。スタフォードの書物では、ティリッヒについての文献を元に論じられているが、その大元の著作がおそらくこの『存在の類比』だろう。
 『存在の類比』の後半では、「万有のリズム」として、「像論」、「象徴論」、「神の似姿」の議論が展開されているし、プンテルの『類比と歴史性』では、さらにプシュヴァーラを下敷きにして、その方向をハイデガーにまで拡張しようとする。考えてみれば、1960年代は、現代思想の転換期であるのみならず、第二バチカン公会議を含めて、カトリックがきわめて精力的だった時期でもある。ドイツのラーナーやフランスのド・リュバクなど、神学者や研究者も生産的な仕事を展開している。その点で、この時期には、同時代のハイデガー哲学に対するトミスト側からの生産的な応答も多数見られた。「キリスト教と現代思想の60年代」などという主題は、これだけで結構面白い論集が組めるほどではないだろうか。この辺りは、まだ十分に開拓の余地のある問題に思える。


M・ジェイ『暴力の屈折――記憶と視覚の力学』谷徹・谷優訳(岩波書店 2004年)

 「エセー」というものの可能性を存分に活用したかのような感がある優れた論文集。過去の出来事、とりわけ戦争といった災禍に関して、象徴的な完結や物語的な全体化を拒み続ける冒頭の「慰めはいらない」は、ベンヤミンを中心に論じて、全体の基調をなす見解を提示している卓抜な論考。最近ドイツでホロコーストの記念碑が完成したというニュースと合わせると、フランス・スペインの国境で自害し、その墓所さえわからないベンヤミンは、まさに象徴的・記念碑的行為を拒絶し続けているようである。最後に収められた「恐怖のシンメトリー」は、著者がチリのある人物にから語られたことをもとに9/11の意味を語る。チリにとってはその同じ9/11は、アメリカの支援の下で流血のクーデターが起こった記念日でもあるということから、「世界史に残る9/11はひとつだけではない」という印象的な結論に至る。そうした時事的論考以外にも、ブルーメンベルクを使いながら、「傍観者」という思想史的問題を考察した「難破船へ潜る」、光速の確定によって、それまで瞬間的に思われていた視覚現象の中に時間差が介在するようになるという事態を思想史的に辿った「天文学的な事後見分」、「正義」の図像がしばしば目隠しをして描かれることの意味を図像学的に追った「正義は盲目でなくてはならないのか」など、アイディア満載。本書は、ジェイと訳者との対応のなかで生まれたということだが、訳文もセンスが良いし、訳者の功績が大。ただし、ブルーメンベルク関連の翻訳データが脱落している。『見物人のいる沈没船』とぎこちなく訳されているものは、『難破船』の邦題で翻訳あり。ちなみにSchiffbruch mit dem Zuschauerは、より正確には、「鑑賞者のいる難波」という意味と、「観照者の破綻」という二つの意味がかけられている。私なら、『破綻の観照者、あるいは観照者の破綻』とでも訳すだろう。


K. Hammacher, A. Mues (Hgg.), Erneuerung der Transzendentalphilosophie: im Anschluss an Kant und Fichte. Reinhard Lauth zum 60. Geburtstag, Frommann-Holzboog 1979
(ハマッヒャー、ミューズ編『超越論哲学の刷新 ―― フィヒテを継承して(ラウト還暦記念論文集)』)

 フィヒテ研究で著名なラウトの60歳記念論文集。60年代から80年代は、大物研究者の記念論文集というものが、研究の一つの里程標になっていたような観がある。この論文集そのものはさほどではないが、例えば、ヘンリヒ還暦論文集、クラーマー還暦論文集などは、一時代を画するような決定的な論文が収められていた。クラーマー記念論文集Subjektivität und Metaphysik, Vittorio Klostermann 1966(『主観性と形而上学』)には、ヘンリヒのFichtes ursprüngliche Einsicht(「フィヒテの根源的洞察」)(法政大学出版局に邦訳あり)が収められていたし、その当のヘンリヒの記念論文集Theorie der Subjektivität, Suhrkamp 1987(『主観性の理論』)は、自己意識論ということで、ドイツ系の伝統的意識論から、ストローソン、カスタネーダという英米圏の議論まで包括した立派な論集だった。今見ても惚れ惚れするようなこれらの論文集に「学統」というものを感じたものだ。


デリダ『雄羊 ―― 途切れない対話:二つの無限のあいだの、詩』林好雄訳(ちくま学芸文庫 2006年)

 デリダ生前の最後の著作の邦訳。1981年に行われたデリダのガダマーとのコロキウムでは、期待されたような生産的な対話は行われず、一般には失敗したものと理解された。その失敗の思想的な意味をデリダ自身があらためて展開したもの。デリダと解釈学との距離がいかに大きく、「対話」というもの、とりわけ「ディアロゴス」として弁証法的に総合される「生産的な対話」がなぜ脱構築されなければならないかを、ツェランの詩の読解を通じて遂行的に示している。それはまた、ハイデガーがもっている解釈学的な方向を脱構築し、「差異」の思想へと導いていく脱=存在論、脱=世界論に繋がっていく。小さな論考だが、訳註と訳者解説が丁寧。


新田義弘『世界と生命 ―― 媒体性の現象学へ』(青土社 2001年)

 フッサール・ハイデガーそれぞれの後期思想を十分に血肉にしたうえで展開される現象学的思索。現代の日本の哲学における最高峰の成果とも言ってもいいだろう。四六版で260頁程度なので、外見は簡単に読めてしまいそうだが、この内容の集中力は生半可なものではないので、読み通すには相当の努力を要する。何よりも、著者自身のこれまでの『現象学』(岩波書店)や『現象学とは何か』(紀伊國屋書店)、『現象学と近代哲学』(岩波書店)、『現代哲学 ―― 現象学と解釈学』(白菁社)といった、それ自体きわめて密度の濃い著書の議論が前提とされており、本書を理解するにはとりわけ後者の二著作の繙読が不可欠になる。しかし、そうした前提を踏まえた読者にとっては、本書は文献的な煩瑣な裏づけを介さずにいきなり事柄の本質に向かっているという点で、論の見通しが得やすいものとなっている。全篇がとにかく緊張感溢れる議論で満ちている。本編の最後の一節を引用しておく。「他者経験は、その最も奥深い次元で、その非性のゆえに、<不在の現前>のゆえに、死の経験にあい通じている。だが他者経験の場合、生きられた非性であるがゆえに、生命の共感(相互触発による共振)が起きることは否定できない。これに反して死はまったく生と断絶する出来事であり、一切の存在理解の可能性を阻む<絶対的退去性>(フィンク)の出来事である。それは個体の消滅であり、個体を介して出現する世界の現象そのものの<消え>である。ここでは他者との関係もすべて死において無と化する。だがまさにここにおいてこそ、個体の個体性が成り立っている。媒体性のとしての知の作動を担う個体がまさにこの死の出来事に見舞われ、生滅する運命にあることにこそ、媒体の非性の深さが読み取られるである」。この最後の一節まで議論を追い続けた読者には、これが現代の日本語の哲学的散文の頂点であることが分かるはずである。因みに、本書本編の最後の章の註では、山下志朗『天使の記号学』(岩波書店)が共感をもって参照されている。


ヘンリヒ/ペゲラー他『続・ヘーゲル読本』(法政大学出版局 1997年)

 本書が「続」となっているのは、すでに日本人研究者たちの手になる『ヘーゲル読本』が出ているため。しかし、『ヘーゲル読本』のほうは一遍一遍の論文の割り当て枚数が少ないためどうにも物足りない。それに比べてこの『続・ヘーゲル読本』は、代表的なヘーゲル研究者の論文を分量的にたっぷりと収録しているので、充実感がある。値段的にもお買い得感あり(定価2800円)。現在、ヘーゲルは、ヘーゲル・アルヒーフの全集の進行に連れて、その全体像を換えつつある。今となっては、うかつにヘーゲルの「体系」などと言うことを口にすることも憚られるほどである。「体系の完成者」ヘーゲルというかつてのイメージから、体系を求めながらも紆余曲折を経る「生成するヘーゲル」に焦点がずれつつあるようだ。しかし、哲学という観念の構築物の性格から考えると、あまり「生成」や成立史といった事実に拘泥すると、逆に見えなくなってしまう本質的なこともあるだろう。この辺のバランス感覚はなかなか難しいところかもしれない。


清水高志『セール、創造のモナド ―― ライプニッツから西田まで』(冬弓舎 2004年)

 新興出版社・冬弓舎よりの公刊。ライプニッツ論を中心に、ミシェル・セールの思想を論じた実に水準の高い書物。セールのライプニッツ論を対比項にすることで、逆に伝統的なドイツ流のライプニッツ解釈が際立って見えてくるという特徴もある。カッシーラー、ベンヤミンというようなラインを補助線として用いることによって、ライプニッツ的なるものが、ドイツ・ロマン派を通じて、いかに現代の思想にまで浸透しているかということが示される。そうしたドイツ的ライプニッツとは異なったライプニッツ解釈を示すことで、セールの思想の独自性を明らかにしたうえで、そのラインをさらに西田幾多郎にまで延長するというのが、本書で取られた手続き。一見するとかなり強引な図式に思えるが、論の進展はきわめて緻密で示唆に富む。文献的にはいろいろと批判もあるだろうが、「思考をする」というのはこういうことだという見本とも言える。きわめて抽象度の高い次元で、それぞれの思想家を比較しているために、とりわけ「専門家」は眉を顰めるかもしれないが、本書の著者が従っているのは、明らかに思想の正しい作法である。
 中沢新一氏が序文を寄せているが(もちろん営業上の理由だろう)、これは不要だった。著者の思考は中沢氏とはまったく違ったタイプであるばかりか、思考の品格はむしろ中沢氏よりも高いくらいなのだから、自ら序文を書いてほしかった。


 H. Seubert (Hg.), Heideggers Zwiegespräch mit dem deutschen Idealismus (Collegium Hermeneuticum 7), Böhlau 2003.
(ゾイベルト『ハイデガーとドイツ観念論の対話』)

 リーデルやグロンダン、マックリールなど、すっかり代表格とみなされるようになった論者たちを中心に、ドイツ観念論とハイデガーとの関係を論じた論文集。シェリング講義のみならず、ヘーゲル『精神現象学』講義やフィヒテ『知識学』講義など、ハイデガー全集の進行に連れて、ハイデガーが行っていたドイツ観念論関係の講義録が次々と公刊され、現在ではおおむねそれが出揃った趨勢からすると当然の企画だろう。『ヘーゲルの否定性』講義の編者シュースラーも論文を寄せている。この状況だと、あとは全集の中で残されたトマス講義などが出ると、『ハイデガーと中世』といったような論集も組まれることだろう。しかし、特にドイツ観念論とハイデガーとの関係は、そうしたテクスト上の問題に尽きない大きな射程をもっているはず。その辺りを積極的に掬い上げる内容的な議論が欲しいところ。


ドゥルーズ『無人島 1953-1964宇野邦一他訳(河出書房新社 2003年)

 インタビューやシンポジウム記録、他の書物への序文など、ドゥルーズの比較的短い文章を蒐めたもの。邦訳は二分冊で公刊された。短めの文章の集成とはいえ、きわめて読み応えがある。邦訳第一巻のこの巻は、ベルグソン論からカント論、『差異と反復』、そしてニーチェ論や『意味の論理学』に至る時代の文章が収められており、それぞれが、そうした個々の著作と響き合うかたちになっている。「カント美学における発生の問題」なども良い。ドゥルーズにとっても、カントは何よりも『判断力批判』の著者である。「『判断力批判』においてカントは、諸能力の自由な根本的一致のなかでそれら諸能力の発生の問題を提起している。その際にカントは、他の二つの<批判>に依然として欠けていた究極の根拠を見出すのである。<批判>一般は、たんなる条件づけであることをやめて、一つの超越論的<形成>、一つの超越論的<開化>、一つの超越論的<発生>へと生成変化するのである」(p. 127)

 こうした着想を受けている「ドラマ化の方法」も面白い。概念の使用である哲学を「ドラマ」と捉えて、次ぎのように語られる。「私たちがドラマと呼んでいるものは、とりわけカントの〔『純粋理性批判』の〕「図式」に似ています。というのも、カントによる図式は、まさに概念に対応するものとしての空間と時間とのアプリオリな規定であるからです。たとえば、<最短>とは、ドラマであり、夢であり、あるいはむしろ直線の悪夢であります。それはまさに、線の概念を直線と曲線との概念に分割する力動なのです」(p. 207)。図式とはまさに「行為」なのである。

 ニーチェ論もコンパクトながら、濃密なもの。一度ではなかなか汲み尽くせないくらい、内容の濃い論集。ここには、おそらく注文によって書かれた、他の著作に対する序文なども含まれているが、訳者の言うように、「ドゥルーズほどこうした文章を、深く重要な哲学的テクストとして提出し得た人はいない」のかもしれない。たまたま与えられた機会を存分に使っているという点では、日本でいうと、ちょうど西田幾多郎にもそんなところがある。


ガタリ『カオスモーズ』宮林寛・小沢秋広訳(河出書房新社 2003年)

 実存主義的な「決断する主体」でも、構造主義的な主体の還元論でもなく、新たな「主体感」を模索する提言。「部分的で、人格以前にあり、多声音楽的に浸され、集合的で機械状を呈する主体感」(p. 39)を創造することは、芸術家の創造、経済活動、精神分析などなどを貫いて、それぞれの「宇宙」で過程として遂行される。これらの主体感の創造は「審美的なパラダイム」に属すると言われ、美や芸術が、新たな主体感の創造の場面とされるの興味深い。カントで言えば、『純粋理性批判』でも『実践理性批判』でもなく、『判断力批判』の主題である。 現代は第三批判の時代らしい。
 ここでは、生成を重視する存在理解が提示されるが、かといってそれは、ヘーゲル的な「主体
=実体」ではない。「言表行為の非言説的次元と、複雑性とカオスのあいだを連結する必要性を把握することで私たちは、流れ、機械性系統流、価値宇宙、実存的領土を横断する存在論的生地というエレメントとして、対象化以前の実体という概念を提案することになりました」(p. 199)
 それにしても、こうしたガダリの文章は、文体的にも内容的にもグレッグ・イーガン『祈りの海』
(ハヤカワ文庫)などの最近のSFを髣髴とさせる。『祈りの海』所収の「ぼくになることを」などは、脳のバックアップを作成した場合、「主体感」はどこに(あるいは、いかに)作られるのかという主題が扱われている。


『フィヒテ全集 19 ―― ベルリン大学哲学講義』藤澤賢一郎訳(晢書房 1995年)

 以前原典を読んで、実に苦労した思い出だけが残る「意識の事実」(1810)が翻訳されている。1812年の「知識学」も収録されているので、哲学的な関心が強い人にとっては、最も「買い」の一巻(かなり値は張るが)。とりわけフィヒテ後期の「像」理論にとっては欠かせない著作。しかも、両者とも、I. H. フィヒテ(哲学者フィヒテの息子)が編集した全集の補巻というかたちでしか入手できないので、その意味でも貴重な一巻。1812年の知識学は、「像についての像の像」やら、「現象は、自己に対して現象するとして、自己に対して現象する」といった再帰的用法がこれでもかとばかり押し寄せて、まさしくドイツ観念論の醍醐味が存分に味わえる。
 この邦訳フィヒテ全集は、まだ完結は相当先になるだろう。この巻の訳者である藤澤氏も、これを出したあと、若くして亡くなられてしまった。ちなみに、この出版社、ネット古書店などでときどき「書房」と表記されていることがあるが、正しくは「書房」。版元「晢書房」、販売「理想社」となっているが、これは出版社が取次ぎに卸す時の「掛け率」が関係しているらしく、不利な新興出版社は、既存の出版社に相乗りするかたちを取るものらしい。


アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎訳(平凡社 2004年)

 小著ながら実に刺激的。「開かれ」というハイデガー的な概念を主題にしながら、それを微妙にスライドさせていくところに本書の論の運びの見所がある。「どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから……分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである」(p. 31)という問題設定に立つ本書は、動物と人間との境界が築かれるその「あいだ」を論じるといったフーコー的な「生=政治」的な関心に貫かれている。ユクスキュルの環境世界論と、それを使ったハイデガーの1929/30年の講義を見ることによって、世界を開示する人間と世界を欠いた動物というハイデガー風の対比が、実はハイデガーその人の議論の中でも揺らいでいることを検証する。具体的に問題になるのが、動物の世界欠如性と人間の根本気分としての「退屈」との通底である。そこからアガンベンは、人間と動物のあいだの境界線が引かれるその中間領域を「剥き出しの生」として炙り出そうとする。「人間と動物を ―― 人間のうちで ―― 分割する断絶を見せてやること、この空虚に身を晒すこと、つまり宙吊りの宙吊り、人間と動物の無為に身を晒すこと」(p. 138)が最後の地点で提唱される。

 随所に行われる発想の飛躍や、意外な文脈への接続など、論証的に緻密な文章とは一味違った楽しみがある。翻訳も良くできているし、訳註も模範的。単に人名事典を引き写したようなものではなく、本文のなかでその人名や引用がどのような意味を持つかを的確に示し、さらにはそこから他の連想を拡げることを示唆する立派な訳註となっている。改題も岡田氏と多賀氏が性格の異なるものを別々に書いており、それも読み応えがある。詩集のように瀟洒な装幀(間村俊一装幀)も含めて快挙。


M. Heidegger, Nietzsche: Seminar 1937 und 1944, Gesamtausgabe Bd. 87, V. Klostermann 2004.
(ハイデガー『ニーチェ:ゼミナール1937; 1944年』)

 ハイデガー全集の最新巻。メモ類や講義草稿類を集めた第四部が公刊され始めた(第85巻の「言語の本質」も既刊)。1937年のゼミナールの主題は、「ニーチェの形而上学の根本概念 ―― 存在と仮象」。「仮象」概念を、シラーをも参照しながら検討している。おそらくこの「仮象」の概念は、ニーチェの遠近法主義的解釈学と、ハイデガー的現象学とを繋ぐ接点となるものだろう。本巻は講義メモなので、ニーチェからの引用個所の羅列や、語句の列挙が多いが、ある程度思考の経緯も伺える点では貴重だろう。拾い読みをしても結構面白い。
 例えば ―― 「仮象<として>認識された仮象 ―― これはどのようなものであるべきか。ここで衝動ということを問題にするならショーペンハウアー的。形而上学と虚偽への衝動。ニーチェは構想力の力を根本的には洞察していない。なぜなら彼は、<真理と虚偽>、白と黒のあいだを純粋に存在者的にあれこれとみつもっているにすぎないからである。存在と根源的仮象のまったき本質が、ニーチェには見えていない。それゆえに、まずは未知のパラドクスへと遡行しなければならない。もちろん存在と仮象の本質に関するそうした認識は容易なことではない。……現‐存在の深淵
(Ab-grund)が初めて開かれる。世界と大地。現象と自己隠蔽」(S. 83)。ここには、「形而上学の完成者」というステレオタイプとは違ったニーチェ批判が現れている。微妙な仕方で問題となるのが、やはり「構想力」(『判断力批判』!)である。
 ついでにもう一つ。「存在の中への生成 ―― 仮象によって ―― 転回
(Um-kehrung)。顕現と仮現。最初の始源を通じて ―― 外化され、純粋な創造とそれに応じた脱我有化(Enteignung)への最高度の遡及」(S. 174)。ハイデガー的な言いまわしに慣れていないと単なるうわ言のように聞こえるかもしれないが、多少ハイデガーに親しんだ者にとっては、いろいろと思い当たるところがある。


C. F. Gethmann, Verstehen und Auslegung. Das Methodenproblem in der Philosophie Martin Heideggers, Bourvier Verlag 1974.
(『了解と解釈 ―― ハイデガー哲学における方法論の問題』)

 ハイデガーの『存在と時間』を「方法論」という観点から、一貫して読み解いた古典的研究書。400頁を越す大著。以前図書館で全文をコピーして愛読したが、当時すでに入手困難だった。ドイツ語圏でハイデガーがまだ「実存主義」として「内容的に」読まれていた時期に、方法という「形式」にこだわって解釈していった点に大いに共感をもった。そのような点では、O. Pugliese, Vermittlung und Kehre.Grundzüge des Geschichtsdenkens bei Martin Heidegger, Alber 1986(『媒介と転回 ―― ハイデガーの歴史思想の基本的性格』)なども、少しあとのものだが好きな研究書。ゲートマンのものは、現物が欲しいと思って長いこと捜していたが、今回ネット書店で落手。この種の地味な研究書は、カタログ販売の古書店ではなかなか目録に載らないので、これまで手に入らなかったが、ネットだとこのようなものも探し出せるのが嬉しい。
 ちなみに今回手に入れたこの版には、タイプ打ちの紙片が二枚貼り込まれている。この書物は元々は博士論文なのだが、その貼り込まれた一枚には、博士論文の口頭試問の日程(1971年6月8日、主査ハラルト・ホルツ、副査オットー・ペゲラーとなっている
〔どちらも有名人〕)が記され、もう一枚には、著者ゲートマンのギムナジウム卒業時点からの履歴が書かれている。これはもしかすると、「その筋」に配られたコピーなのかもしれない。


杉橋陽一『ユダヤ的想像力の行方 ―― ベンヤミン、アドルノ論集』(世界書院 1992年)
N. Bolz, W. van Reijen (Hg.), Ruinen des Denkens . Denken in Ruinen, Suhrkamp1996
(ボルツ/レイエン『思考の廃墟。廃墟の思考』)

 ともにベンヤミン関連。前者のメインとなっているのは、ベンヤミンのカール・クラウス論についての論考。後者は、いまをときめくメディア美学の旗手ボルツらによる編集で、直接にベンヤミンだけを主題としたものではないが、標題からして露骨にベンヤミンを匂わせている。しかし一方では、こういう主題を論じるのに、ベンヤミン・ブームを俟たなくてはならなかったドイツ論壇の田舎臭さというのも感じざるをえない。ここ10年ばかり、ボルツらを中心にズールカンプは矢鱈にこの手の論集を出している。


Reinhard Lauth, Die transzendentale Naturlehre Fichtes nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre, Felix Meiner Verlag 1984.
(ラウト『フィヒテの超越論的自然理論 ―― 知識学の原理による』)

Hans-Juergen Mueller, Subjektivität als symbolisches und schematisches Bild des Absoluten. Theorie der Subjektivität und Religionsphilosophie in der wissenschaftslehre Fichtes, Forum Academicum (Anton Hain Meisenheim) 1980.
(ミュラー『主観性 ―― 絶対者の象徴的・図式的像。フィヒテ「知識学」における主観性理論と宗教哲学」)

 ともにフィヒテの研究書。前者はフィヒテ研究の大御所ラウトによるカントの自然哲学とフィヒテの知識学との対応関係について。フィヒテの場合によく分からない「構想力」の問題が、カントの「反省的判断力」との関係で扱われている。後者はフィヒテのいわゆる「像」(Bild)論をめぐって。両者とも、議論を総括した何やら複雑なダイヤグラムのようなものがついている。ロマン派関係の人々(およびその研究者)は結構こういうことが好きらしい。


Karin de Boer, Thinking in the Light of Time. Heidegger's Encounter with Hegel, State U. of  New York Pr. 2000.
(ドゥ・ベーア『思索 ―― 時間の光の下で。ヘーゲルに出会うハイデガー』)

 この研究書や、ロックモア『ハイデガー、ドイツ観念論、新カント主義』(T. Rockmore (ed.), Heidegger, Germean Idealism & Neo-Kantianism, Humanity Press 2000)など、最近は英語圏でも、ハイデガーとドイツ観念論という問題設定が見られるようになってきた。流石にファリアス以来の「ハイデガーと政治」というどんちゃん騒ぎにも飽きたのだろうが(いまだに騒いでいるのは誰?)、英語で論じられるドイツ観念論はいまひとつ迫力に欠ける。


A. Negri, Subversive Spinoza , ed. T. S. Murphy, Manchester U. Pr. 2004.
(ネグリ『破壊するスピノザ』)
――, The Savage Anomaly: The Power of Spinoza’s Metaphysics and Politics, tr. by M. Hardt, U. of Mennesota Pr. 2003 (3rd. ed.).
(ネグリ『野生の特異性』

 『帝国』と『マルチチュード』で有名になったネグリの原点ともいうべきスピノザ論。ホッブズールソーカントという一種の超越論的思考に真っ向から対立するものとして、強力なスピノザ像を打ち出す。媒介を介さずに無限と有限を直接に結び付けようとする過激な思考をえぐり出してみせる。『野生の特異性』は、洗練された媒介形式を重視する近代的思考に対して、「野生」のスピノザを対置する。『破壊するスピノザ』の方は論文集。特に、『神学・政治論』および『国家論』の関係を鮮やかに論じた論考が収められていて、全体を概観するには便利な論文集となっている。いずれにしても、デカルト・スピノザ・ライプニッツというまとめがなされる「大陸合理論」という括りがいかに無理のあるものであるかは、こうしたことからも分かってくる。一時期、スピノザとヘーゲルとの関係なども議論されたが(マシュレ『ヘーゲルかスピノザか』新評論)、ネグリはさらにスピノザ自身の「特異性」を明らかにしようとしている。


デリダ『名を救う ―― 否定神学をめぐる複数の声』小林康夫(?)・西山雄二訳(未来社 2005年)

 否定神学に関するデリダのテクスト。否定神学の複数化ということから、このテクストそのものが疑似対話風に書かれている。しかし、ディオニュシオス・アレオパギテスやクザーヌスのテクスト、トマスの『神名論註解』を一度でも覗いたことのある人には、何の新味もないだろう。否定神学は一つの学説として総称できるものではなく、そこに複数のあり方が響きあっており、言語表現の可能性の限界を精査しようとしているのだといったことは、彼らの考えていることそのままで、解釈とも言えない。そもそも、複数的で体系化しえないものだから対話篇にする、あるいは言語的に表しえないから×印をつける(ハイデガーの「存在」の×印)などは、およそ哲学的訓練を受けたとは思えない幼稚さである。むしろ、ディオニュシオスとその註解を行ったトマス、さらにその影響を受けながら「知ある無知」という否定神学の特殊ヴァージョンを構想したクザーヌスなどを、「体系的」かつ「概念的」に語っていくことのほうが、よほど意味があると思えるのだが。ただしそうした点では、訳者のひとり西山雄二氏が書いた解説は立派。それに比べて、本書の翻訳に関しては自分は何もしておらず、「名だけ救われた」などとくだらないことを書いている小林康夫氏は情けない。


M. Heidegger, Geschichte der Philosophie von Thomas von Aquin bis Kant, (Gesamtausgabe Bd. 23) Klostermann 2006
(ハイデガー『哲学史 ―― トマス・アクィナスからカントまで』)
 マールブルク時代の講義で唯一未公刊だったものがついに全集23巻として公刊された。1926/27年という、まさに『存在と時間』を書いていた時期の講義で、しかも中世哲学を扱っているという点で、何が語られたのかと期待していたが、なんのことはない、ごく普通の「哲学史」だった。大学教師として、こういう普通の講義もやっていましたという感じ。細かく言い出せば、ハイデガーらしいところも見つかるが、全体像を塗り替えるようなものではない。やはりさすがに、『哲学への寄与』も出て、新資料の公刊といっても落ち穂拾いのような時期に入ってきたのかもしれない。
『西田幾多郎全集』第17・18巻(岩波書店 2005年)

 新版『西田幾多郎全集』も先が見えてきた。後半に入ってのこの二巻は「日記」。新版全集は、文字遣いを現代風に改め、出典註・校訂を加えた点を特徴としている。正直なところ、これだけだとあまり大きな魅力とは言いにくいが、この「日記」の巻は、巻末に膨大な人名解説がついた。西田の「日記」に登場する人物に関する相当に詳しい解説的索引で、この部分だけで80頁以上に及ぶ。『物語 京都学派』の著者である竹田篤司氏ならではの仕事ぶり。竹田氏が17巻公刊の後に亡くなられたのは残念(しかし、18巻の作業もおおむね終わっていたらしく、18巻も同様の人名註が付されている)。


M. Brelage, Studien zur Transzendentalphilosophie, de Gruyter 1965
(ブレラーゲ『超越論哲学研究』)

 現象学・解釈学の議論が展開されていた時期に比較的よく言及されていながら、図書館などにも意外と収蔵されていなかったので、現物を見たことがなかった。時期はずれになって、今ごろになってようやく入手。ハイデガーと超越論哲学という問題をかなり早い時期に提起していた。それと並んで、ヘーニクスヴァルト、ハルトマンと超越論哲学という、現在ではやや忘れられている思想家が主題となっているのも、興味深い。カッセルの造形芸術大学の放出本。


E. Lask, Gesammelte Schriften, 3 Bde., J. C. B. Mohr: Tübingen 1923
(ラスク『著作集』全3巻)

 新カント学派のラスクの著作集を古書で入手。ボン大学の除籍本だった。一巻目に「フィヒテの観念論と歴史」を収める。ハイデガーがフィヒテに馴染んだのは、ラスクのこの著作を通してだったのではないかという指摘がなされていたりするので、そうした方向からも関心がある。ドイツ観念論を歴史哲学という線で見ようとする観点には、文化科学を構想した新カント学派の発想が明確に現れている。ラスク自身の思想としては、超越論哲学と論理性というものの関係を徹底しようとしていたところがあるので、これはこれで読み直す値打ちがありそう。


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