R.P. ハリスン『森の記憶 ――
ヨーロッパ文明史の影』金利光訳(工作舎 1996年)
才気溢れる著者の書きぶりに圧倒される。ヴィーコの『新しい学』で提起された、文明の循環理論(「始めに森、次に小屋、そして村、さらに都市を経て、最後にアカデミー」)を出発点として、「森」というキーワードでヨーロッパの思想史を読み解いていく。「環境問題」に関する凡百の著作がたばになっても敵わないような力量をもっている。「森」に象徴される「環境」とはまさしく人間にとっての文明の一部分であり、「環境問題」というものも、「自然」の保護などという単純な話ではなく、人類が文明を築き上げる過程で影のように寄り添いながら、けっして離れることがない文明の要素であるというところから考えられなければならない。そうしたごく当たり前のことを、鮮やかな手並みで見せつけてくれる。扱われている著者や著作はほぼ古典的なものばかりなのだが、その解釈が実に斬新で目を見開かされる思いを幾度も味わう。とりわけニーチェ、ダンテ、アリオスト辺りの記述が良い。さすがに中盤のワーズワース、ソーロー『ウォールデン』を扱った部分は、主題からしても目新しくなりようがないので、中だるみの感があるが、最後のフランク・ロイド・ライト辺りでまた盛り返してくる。フランク・ロイド・ライトの「落水荘」についての記述は、ハイデガーの『芸術作品の根源』の現代版のよう。全体として、「ヴィーコ」という装置を、「ハイデガー」という強力なエンジンで回しているかのような趣がある。文章が実に良いし、それを実感させる翻訳がまた素晴らしい。巻末のエッセー風文献表も楽しめるし、ほぼ申し分のない仕上がりになっている。このハリスンは『ベアトリーチェの身体』(法政大学出版局)の著者で、以前こちらも読んだが、そのときには、ここまでの力量の書き手とは思わなかった。改めて読みなおしてみたくなる。
H.
Blumenberg, Ein mögliches Selbstverständnis,
Reclam 1997.
(ブルーメンベルク『自己理解の可能性』)
ブルーメンベルクの遺稿論文集(相変わらず標題の翻訳一つで躓いてしまう)。なかで真っ先に興味を引かれたのが、Affinitäten und Dominanzen(類似と優劣)と題された、ダヴォスでのハイデガーvsカッシーラーの論争に関する文章。面白いのは、「基礎的存在論」と新カント学派的「認識論」との対立を、実在と形式、実体と機能(関数)の対立と捉えて、それをルターvsツヴィングリの論争と比較しているくだり。こういう突拍子のなさと歴史的スパンの長い連想がブルーメンベルクの醍醐味でもある(同時に、あまりに大袈裟に見える点でもあるのだけれども)。
E.
Rothacker, Das "Buch der Natur".
Materialien und Grundsätzliches zur
Metapherngeschichte, Bourvier Verlag 1979.
(ロータカー『<自然の書物>
―― 隠喩史の資料と原則』)
いわゆる「象徴としての書物」の系譜を具体的な資料によって跡付けた引用集。「言語としての自然」や「暗号としての自然」といった主題ごとに主に中世からロマン派くらいまでの引用が集められている。それほど膨大な数ではないが、クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』のなかの「象徴としての書物」の章と平行するような内容になっている。ブルーメンベルクも『書物としての世界』(Die Lesbarkeit der
Welt)〔邦訳は法政大学出版局より刊行予定〕の序文でこの資料集について触れている。しかし、この資料でも「書物としての世界」という着想はロマン派辺りを最後に急速に衰えていくように見える。「万物照応」の世界が崩れると同時に、世界は意味を失って、「読む」ことを拒むようになるのだろうか。
A.
ラヴジョイ『観念の歴史』鈴木信雄・内田成子・佐々木光俊・秋吉輝雄訳(名古屋大学出版会 2003年)
「観念史」History of Ideas
の始祖ラヴジョイの論文集 Essays in the History of
Ideasの待望の翻訳。ヨーロッパ思想における「自然」の観念の分類や、ロマン主義の概念規定など、ラヴジョイの名とともに語られる有名な論文が収められている。原書はペーパー・バックで安価に入手できるが、日本語で読めるようになったのは悦ばしい。ラヴジョイが創設した「観念史」というものは、思想史の中の「単位観念」を設定して、その変遷を通史的に追うといったものであり、その集大成が、『観念史事典』(The Dictionary of the History of Ideas
邦訳『西洋思想大事典』平凡社)ということになる。この観念史において何を単位観念とするかということが、方法論としては問題になるだろう。ユング的な「原型」が孕むのと同種の問題が、ここには存在する。
M. H. ニコルソン/N. M.
モーラ『想像の翼 ―― スウィフトの科学と詩』(山口書店 1981年)
上記の「観念史」に属するニコルソン ―― 『暗い山と栄光の山』 (国書刊行会)、『円環の破壊』(みすず書房)の著者――
のガリヴァー論。とりわけ第三部の「ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」!)で展開される擬似科学を中心に論じた、十八世紀科学論。科学と文学の接点を扱うニコルソンお得意の主題である。『ガリヴァー旅行記』には、当時の新しい科学や言語論が翳を落としていているため、単なるユートピア小説としてだけでなく、そうした新知識のドキュメントとしても扱える側面を持っている。A. C. Kelly, After Eden:
Gulliver's (Linguistic) Travels (ELH 45 [1978])(「エデンの後で ――
ガリヴァーの(言語論的)旅行記])などという論文もあったが、これは『ガリヴァー旅行記』を、それぞれの架空の国で用いられる言語に注目して論じるものだった。
O. Müller, Sorge um die Vernunft. Hans Blumenbergs phänomenologische Anthropologie,
Mentis 2005
(ミュラー『理性への配慮 ―― ハンス・ブルーメンベルクの現象学的人間学』)
このところ、ブルーメンベルクもその全体像を論じる研究書が多くなってきた。タイトルに見られる「憂慮」(Sorge)なども、キーワードの一つ。あれだけ大規模な思想史を構想したブルーメンベルクの影響源として、ハイデガーがかなり大きな役割を果たしているということが見えてくる。もちろん、ブルーメンベルクのフィールドは、ハイデガーがあまりにも易々と跳び越えてしまう中世末期の微妙な機微だったりするわけだが。
H.
ブルーメンベルク『コペルニクス的宇宙の生成 I』(法政大学出版局 2002年)
最近翻訳の世界でようやく認知度をあげてきたブルーメンベルクの新刊。法政大学出版局がこのところ立て続けにブルーメンベルクの怪物的大著を公刊する計画をもっているのは心強い限り。しかし、何と言っても、難解さの権化のようなブルーメンベルクのこと、その翻訳の質が気になるところ。今回の翻訳は、その点かなり配慮が行き届いていて、日本語として面妖な箇所は稀で、かなり良く練られていると言える。さらに特筆すべきはその装幀である。叢書「ウニベルシタス」はこれまで装幀には同一の図案をかたくなに貫いてきたが、今回は表紙・帯ともにこれまでにない冒険が見られる。点数があまりに増えてしまった「ウニベルシタス」にはこのようにして差別化をはからないともはや限界にきているように思える。編集者の意気込みが伺える。
J・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』田村俶・雲和子・西山けい子・浅井千晶訳(筑摩書房 1998年)
フーコーの「伝記」というほど、非フーコー的、あるいは反フーコー的なものはないので、正直言って難癖の一つもつけてみようと思って読み始めたのだが、これが滅法面白い。フーコーの「思想」を論じるために適切なアプローチだとは思わないが、著者の筆力は圧倒的なので、途中からは素直に「小説」として楽しんでしまう。ジャーナリストだけあって、それぞれの著作や時代を象徴する印象的な場面をかなり克明に描き込んで、読者の中に強烈なイメージを叩き込む。『狂気の歴史』を論じる第四章の冒頭で、アルトーの最後の朗読会の模様が見事に描かれる辺りから、著者の魔法にかかって、本書を「研究書」としてではなく、「お話」として楽しむ気分にさせられる。
全体として記述が小説的で、二段組400頁近い大著にもかかわらず、かなりのスピードで読まされる。五月革命の様子は言うまでもなく、フーコーのLSD体験や、同性愛・SM嗜好が詳細に描写されたりもする。当然のことながら、哲学的・理論的な内容に関しては心許ないが、それもあまり気にならなくなる。カントとニーチェの批判的精神の継承者として、自己変革を徹底していった人物という視点は揺るがないので、それなりにまとまった読後感がある。用いられている素材もなかなか豊富で、特にインタビューからの引用が多く挟まれることで、描写が実に生き生きとしている。フーコーがこれを読んだらどう応じるのかなどということは棚上げにして、素直に楽しんでしまおう。
文体的にも魅力的だし、これはこれで、研究書とは違った独自のジャンルというふうに受け取ればよいのかもしれない。久しぶりに、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』でも読み返そうかと思っていた矢先だったのだが、本書がその代わりになってしまった。ニーチェを枠組みに、思想(芸術)の探求者を語るという点で、その死のありよう(「エイズ」と「梅毒」)をも含めて、本書は現代版『ファウストゥス博士』の趣がある。
翻訳の姿勢も実に立派。本書は、使われている資料も多いので、ここからさらに読書の意欲を掻き立ててくれる註が満載なのだが、訳者(たち)はその一々に、邦訳の対応個所を入れている。その労力は並大抵ではなかっただろうと思う。ただ一つ、この翻訳がなされたときには、同じ筑摩書房の『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻が並行して公刊されている時期だったらしく、註にはこれが反映されていない。そのために、フーコーの資料は、雑誌翻訳などを丁寧に拾って出典を指示している (何とも地道な作業!)。しかし、これは今となっては、『思考集成』に組織的に収められているので、参照の便のためにも、こちらが指示してあると良かったのだが、もちろんそれは無理な注文。
(翻訳全体の質の高さを考えればどうでもいい些細なことだが、一点だけ。カッシアヌスの『修道院制度』という、何となくありそうな著作への言及があるが(p.
358)、これは『共住修道制規約』(De institutis
coenobiorum)のことではないか。instuitutioはこの場合、「制度」ではなく、「教え」とか「手引き」の意味)。
History of
the Human Sciences, vol. 5, no. 4 November
1993
Special Issue: Hans Blumenberg
(『人文学の歴史
―― 特集:ブルーメンベルク』)
人文学雑誌のブルーメンベルク特集。ケルナー「ブルーメンベルクのスタイル」、イングラム「コペルニクス革命再訪」、ピピン「現代の神話的意味
――
ブルーメンベルク対ニーチェ」、ターナー「自由主義と科学の限界
―― ブルーメンベルク対ヴェーバー」、クラジェウスキー「宗教の音楽的地平」、ケリー「救済されたエピメテウス」、ハドソン「ブルーメンベルク以降」といったラインナップ。英語圏でも、徐々にブルーメンベルクに対するまとまった取り組みが見られるようになってきた。
H.
Blumenberg, Ästhetische und
metaphorologische Schriften, Suhrkamp 2001.
(ブルーメンベルク『美学・隠喩論論文集』)
新編集の論文集。レクラム文庫の論文集『われわれの生きている現実』とかなり重複しているが、それに加えて、「メタファーとしての光」 (『光の形而上学』として朝日出版社より邦訳あり)や、かつて『詩学と解釈学』(Poetik und
Hermeneutik)に収められた神話論などを収録しているので、ブルーメンベルクへのアプローチとしては最適。しかし、『われわれの生きている現実』との重複論文の問題もあるので、おそらくこのままでは全体が日本語で翻訳出版されることはないだろう。ズーアカンプ社は、翻訳についてもかなり厳格で、他言語版での独自の編集などを認めないらしい。それを考えると、レクラム文庫との重複論文を除いたうえでの翻訳出版ということも難しそう。いずれにせよ、ドイツ語のできる人へのブルーメンベルク入門としては、真っ先に本書がお薦め(もちろん、読みきるのは相当に大変だと思うが)。
G.
Böhme, H. Böhme, Feuer, Wasser,
Erde, Luft. Eine Kulturgeschichte der Elemente,
C. H. Beck 1996.
(G・ベーメ/H・ベーメ『火・水・土・気
―― 諸元素の文化史)
いわゆる四大と言われる四元素を古代から中世・ルネサンスの錬金術に至るまで通史的に追ったもの。バシュラール的な心理学的アプローチではなく、あくまでも文化史として正面から主題を扱っている。ただ、素材とされているのが、リパの『イコノロギア』や錬金術図譜など、図像的な多く取り込んでいるのが特徴。
H.
Blumenberg, Löwen,
Suhrkamp 2001
(ブルーメンベルク『獅子』)
ブルーメンベルクはまだ歿後も「新刊」が出続けている。これも遺稿を編集して公刊されたもの。「ライオン」のメタファーを文学・哲学の両面にわたって追う小著。邦訳のある『難破船』 (哲学書房)と同じく、ブルーメンベルク特有の「メタフォロロギー」の実践である。
ブルーメンベルク『近代の正統性』?(法政大学出版局 2001年)
全三分冊のうちの第二巻。「理論的好奇心」という、『近代の正統性』の中で最も有名な議論が本書に当たる。おそらくは、この邦訳が出たあとは、ハイデガー『存在と時間』の「好奇心」とこの「理論的好奇心」を並べるような議論も出てくることだろう。本当はもっと早く指摘されて良いことなのだが。すでに邦訳の出ている第一巻よりも、議論自体の大筋が掴みやすいので、もしかしたらこの巻から読み始めるのが、『近代の正統性』攻略法としてはお薦めかもしれない。ペトラルカによる風景の発見など、おなじみの主題も散見するので、議論を追うにも手掛かりが見つけやすいとも言えるだろう。
レーヴィット『近世哲学の世界概念』(未來社)
ナチス時代には日本で教鞭を執っていたという縁もあり、一時期レーヴィットのものはずいぶんと翻訳が出ていた。「世界」というのはレーヴィットにとってはキーワードに当たる。ニーチェを解釈するにもレーヴィットの場合は、世界概念に力点が置かれる。レーヴィット以降では、現象学のフィンクがそうした系統の問題意識をさらに展開している。
M.
Handeck, Welt und Zeit. Hans Blumenbergs
Philosophie zwischen Schöpfungs- und Erlösungslehre,
Echter Verlag 2000.
(ハンデック『世界と時間:創造論と救済論の間
―― ハンス・ブルーメンベルクの哲学』)
ここのところ相継ぐブルーメンベルク関係の研究書の一冊で、400頁を超える大著。ブルーメンベルク関係はようやく入門書や概括的な論述を超えた本格的な研究書が出始めたところだが、そのなかでもこれはとりわけ内容的に踏み込んでいるようで期待がもてる。グノーシス問題でヨナスとの関連が取り上げられ、『近代の正統性』のなかでも、通常はあまり取り上げられないクザーヌス論に多くの紙幅が割かれるなど、構成の上からも、踏み込んだ議論を展開しようという構えが読み取れる。 Bonner Dogmatische Studien(ボン神学研究叢書)の一冊として公刊されているように、ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。
R. Elm, K.
Koechy, M. Meyer (Hgg.), Hermeneutik des Lebens.
Potentiale des Lebensbegriffs in der Krise der Moderne,
Alber 1999.
(エルム他編『生の解釈学。現代の危機における生命概念の可能性』)
標題が多少気になるし、アルバーのシリーズなのでとりあえず入手。書いている著者はまったく知らない人ばかりだが、なかなか力作ぞろいと見うけられる。内容をざっと眺めていると、不思議とブルーメンベルクの名前がよく目に飛び込んでくる。改めて裏表紙を見るとこんな文句が。「本書では以下の思想家の位置付けが試みられる。シェリング、キルケゴール、ニーチェ、ディルタイ、ベルクソン、ジンメル、ハイデガー、メルロ=ポンティ、そしてブルーメンベルク」。ブルーメンベルクもこういう流れに組み入れられる「大思想家」になりつつあるらしい。
Jacob
Burckhardt, Historische Fragmente, Aus dem Nachlaß gesammelt von Emil Dürr, Benno Schwabe &
Co.n.d.
(ブルクハルト『歴史学 断簡零墨
――
エミール・デュルによる遺稿からの編纂』)
最近邦訳の出た『ブルクハルト文化史講演』(筑摩書房)とは異なり、これは纏まった講演ではなく、講演の素材になったものを主題毎に配列したもの。いま翻訳しているある本の原註で触れられていたので、正体を確かめるために入手。ちなみに、このブルクハルトの著作を使いながら、その原註はこんな愉快なことを言っている。「アレイオス主義が勝利を収めていれば、アレイオス主義に与したユダヤ人たちは安全に生き延びたことであろう。なぜならアレイオス主義の教義によれば、彼らは神である<人の子>を殺害したことにはならないため、彼らを取り巻く環境ははるかに暮しやすいものとなったに違いないからである。そうすれば彼らは「一・二世紀後にはあらゆる財産の所有者となり、当時にしてすでに、ゲルマン人とローマ人を自らにかしずかせ、労働に従事させるということになったであろう」(この部分がブルクハルトの文章)。言い換えれば、資本主義的中世なるものが存在したかもしれず、そうすれば近代は不要となっていたかもしれないのである」。ありえたかもしれない別の歴史。
Ph. Stoellger, Metapher und Lebenswelt. Hans Blumenbergs Metaphorologie als Lebenswelthermeneutik und ihr religionsphänomenologischer Horizont,
Mohr Siebeck 2000
(シュテルガー『隠喩と生活世界 ―― 生活世界の解釈学としてのブルーメンベルクの隠喩論、およびその宗教現象学的地平』)
ブルーメンベルクのMetaphorologie(隠喩学)を主題にした500頁に及ぶ大冊。カッシーラーのシンボル論のみならず、デリダの隠喩批判、それに対するリクールの応答など、現代哲学の中での隠喩論を踏まえたうえで、ブルーメンベルクの意義を検討する堅実なアプローチ。クザーヌスの「憶測」論をブルーメンベルクの方法論と重ねて論じる辺り、着眼も面白い。ちなみに最終章の標題が「神学の再隠喩化と隠喩の再神学化」。このフレーズはブルーメンベルクの思考の傾向をかなりうまく表しているかもしれない。文献表も充実していて愉しめる。ちなみに、ブルーメンベルクの論考「隠喩学のパラダイム」については、初出(Archiv für Begriffsgeschichteのもの)とズールカンプ版のコンコーダンスが付いていて、これには少し吃驚した。
J. Goldstein, Nominalismus und Moderne. Zur Konstitution neuzeitlicher Subjektivität bei Hans Blumenberg und Wilhelm von Ockham,
Alber 1998
(ゴルトシュタイン『唯名論と近代 ―― ブルーメンベルクとオッカムにおける近代主観性の構成』)
ブルーメンベルクの近代論、とりわけ『近代の正統性』におけるオッカムの評価を中心に、中世末期から近代初頭の転換を再検討する研究書。中世末期の主意主義と、認識論上の唯名論に、近代の世界観の端緒を求めるというのは、教科書レベルでも多く見られる整理だが、ブルーメンベルクの議論は、そうした転換の図式に対して、「自己主張」、「自己保存」という近代独特の「生存の理論」を組み合わせたところに特徴がある。中でもオッカムの「絶対的権能」と「秩序づけられた権能」の区別の内に、主観性の危機と、その反動としての「正統化」の要求を見出している。オッカムの専門家であるゴルトシュタインは、オッカムそのもののテクストの検討を踏まえて、そのような解釈の訂正を図っていく。しかし、そうした実証的な検証はかならずしもブルーメンベルクの議論そのものの反駁にはならないという点も自覚して、バランスの取れた記述になっているようだ。
J. Ritter, K. Gründer, G. Gabriel, Historisches Wörterbuch der Philosophie, Bd. 12,
Schwabe AG Verlag: Basel 2004
(リッター、グリュンダー、ガブリエル編『歴史的哲学概念事典』第12巻)
祝・全巻完結!『歴史的概念事典』が全12巻をもっていよいよ完結した。掉尾を飾るのはZynismus(キュニコス派)。「シニカル理性批判」(スローターダイク)が語られる現代にふさわしい最終項目かもしれない。送られてきた最終巻には出版社からの挨拶状が付されていた。それによると、項目数は全体で3670項目、各頁コラム数2で、総コラム数17144(つまり訳8,500頁)に及んだとのこと。私などが曲がりなりにも哲学を学び始めた頃からずっと伴走するように続いてきた企画だけに、いささか感慨がある。しかし、まだ最後の大仕事「索引巻」が残っている。挨拶状によると、100,000項目にも及ぶとのこと。これもまた楽しみ。
E.
Brient, The Immanence of the Infinite. Hans
Blumenberg and the Threshold to Modernity,
The Catholic U. of America Pr. 2002.
(『無限の内在
――
ハンス・ブルーメンベルクと近代への移行』)
「無限性」をキー・ワードとして、ブルーメンベルク『近代の正統性』を整理しなおそうという議論。宇宙論における無限論と、哲学・神学における無限論を並行して考察する視点もブルーメンベルクをなぞっている。特徴といえば、コペルニクスの理論をめぐるアレントの議論との対比が含まれている点、さらに、ブルーメンベルクが直接には論じなかったエックハルトが大きく取り上げられている点だろう。ちなみにアレントとの比較は
"Hans
Blumenberg and Hannah Arendt on the 'Unworldly Worldliness' of
the Modern Age"として、Journal of
the History of Ideas 61 (2000)に掲載されているようなので、いずれ図書館でコピーをしたい。
池田善昭編『自然概念の哲学的変遷』(世界思想社 2003年)
「自然」理解の思想史的展開を時代順に追ったもの。古代から現代まで、いわゆる大思想家のなかで「自然」についての理論を展開した人々が、バランス良く取り上げられている。教科書風だが、概観のためには便利。エリウゲナなどがきちんと入っている辺りに、見識を感じる。さらに贅沢を言えば、十二世紀のシャルトル学派周辺の自然主義的な宇宙論、時代が下ってロマン主義の自然理解のようなものも欲しかったところ。ちなみに編者の池田氏はライプニッツの専門家。
Karl S. Guthke, Der
Mythos der Neuzeit. Das Thema der Mehrheit der Welten in der
Literatur- und Geistesgeschichte von der kopernikanischen Wende
bis zur Science Fiction, Francke 1983
(グトゥケ『近代の神話
――
文学史・精神史における複数世界の主題:コペルニクスからSFまで』)
「複数世界」をめぐる言説を論じた刺激的な研究書。主題そのものは古代にも見られるが、本格的に展開されたのはコペルニクスの周辺、クザーヌスやブルーノ辺りだろう。フォントネルやジョン・ウィルキンズ、ゴドウィンといった異世界旅行譚の著者を含み、最後はH.G.ウェルズまで。とかく「人間中心主義」や「主体性」が前景に押し出されがちな18世紀において、複数世界論とは、反・人間中心主義であり、その意味では18世紀版脱構築というような側面さえももっている。ところでこのGuthkeという著者は、レッシングハウプトマンについての単著、『シラーの演劇』という研究書を出しているようだが、ドイツ文学研究者としての評価を寡聞にして知らない。つい最近、 Der Blick in
die Fremde. Das Ich und das andere in der Literatur(『他者への眼差し ――
文学における自我と他なるもの』)という、いかにも今風のタイトルで450頁もの大著を出している。
三木清編『新編 現代哲學辭典』(日本評論社 1941年)
大項目主義の哲学辞典。三木清の執筆分は全集で知っていたが、こうして全体を改めて見直すとかなり充実した辞典だったことがわかる。大項目ということもあって、一点一点が比較的読み応えがある。時局柄、イタリア哲学なども詳しい。とりわけ当時は、哲学的解釈学などが、三木の留学などを通じて最先端の学問として紹介されていたため、「解釈学」 (樺俊夫)や「言語学」(泉井久之助)、「哲学史」(三木清)の項目などは、現代のどの哲学辞典よりも充実しているほど。
Historisches Wörterbuch der Philosophie: Registerband, Schwabe Co. 2007
(『哲学概念史事典』索引巻)
ついに出た『哲学概念史事典』の索引巻。これで1971年から35年をかけた事典がめでたく完成と相成った。リッターも草葉の陰で喜んでいることだろう。どういう索引になるのか楽しみにしていたのだが、思ったほどの刺激はなかった。やはり事典の性格上、索引でも概念同士の関係がほとんどで、固有名詞・人名が思ったよりも少ない。基本的に人名は索引項目にはなっていないし、どこまでも概念史に徹したという観がある。それはそれで一貫しているが、やはり固有名詞が拾っていないと想像力が働きにくいし、索引だけを「読む」には少々物足りない。
この最終巻にはCD-ROMが付いており、最初は索引の全文が入っているのだろうと思ったら、なんと事典全体のデータだった。やはりあのくらいのテクストデータなら、CD-ROM一枚に収まってしまうらしい。こうなると、実は索引は自分で作れてしまう。人名の件も、自分で人名を検索で打ち込めば、それで項目が全部拾えてしまうのである。これは恐るべき機能である。こういうサポートがあるというのを前提して索引を見直してみると、同じ概念の各国語表記が煩いほど拾ってあるのが納得できる。つまり同じ概念が、ラテン語・ギリシア語・ドイツ語で何に相当するかというのは、CD-ROMを使って検索をかけてもわからないわけで、そういう場合にはこの紙媒体の索引が力を発揮するという次第。役割をうまく使い分けていると言えるだろう。
そうなると、この索引巻さえ手に入れれば、本文はデータとしてついてくるので、本編の事典は買わなくてもよいということになってしまう。この索引巻だけの販売というのはやっているのだろうか。
HOME Library TOP
|