逸脱の修辞学


推薦図書

言語と歴史の邂逅

J. Trabant, Traditionen Humboldts, Suhrkamp: Frankfurt a.M. 1990.
(トラバント『フンボルトの伝統』)
Apeliotes oder Der Sinn der Sprache, Fink: München 1986.
(トラバント『東風 ―― 言語感覚』 邦訳『フンボルトの言語思想』平凡社、2001年)

 フンボルトの言語論を、現代のデリダのエクリチュール論などを視野に収めながら論じた論文集。牽強付会にならずに、フンボルトを同時代の思想環境に即して解釈しながら、ヨーロッパ言語論の古い伝統から現代の革新的な試みに至るまでを視野に収めるその射程の広さが魅力的。この著者にはフンボルトに関しての単著『東風(アペリオテス) ―― 言語感覚』という名著がある。こちらの著作は、さらに広い読者を想定した書きぶりで、著者の才気が随所に感じられる。刊行年が1984年だったので、オーウェルの『1984年』のニュー・スピーク(全体主義国家による支配言語)についての考察を補論として組み込むなど、迎合にならない程度のサービスがなされている。このニュー・スピークの議論は、1984年をとうに越えた現代においても、インターネット環境における英語支配というかたちで、再度浮上してきている問題だろう。現代言語学の主流からは外れたフンボルトの言語思想を、心地よい緊張感とともに現代への問題提起とする刺戟的な好著。ただ 、邦訳が『フンボルトの言語思想』という地味なタイトルで出てしまったのは残念。


斉藤渉『フンボルトの言語研究 ―― 有機体としての言語』(京都大学出版会 2001年)

 フンボルトについては亀山健吉『フンボルト』(中公新書)以来のまとまった紹介ということになるだろうか。亀山健吉『フンボルト』は、シラーを始めとする同時代人との交わりを通してフンボルトの全体像を描く名著であったが、この『フンボルトの言語研究』は、学位論文をそのまま出版したもので、主題もかなり限定されている。同時代の言語起源論などとの関係を踏まえながら、フンボルトの言語論を図解しながら明確化しているという点で、学位論文としては手堅い仕上りだろう。しかし一般読者としてこの書物に接すると、かなり物足りなさを感じるのは事実である。まずは、この論考の全体の狙いが、フンボルトの言語思想の歴史的位置づけにあるのか、言語論としての原理的な解明にあるのかが判然としない。本書の前半では、ハーマン、ヘルダー、カントとの対比など、歴史的なアプローチがなされるが、後半になると、フッサール現象学を(さしたる理論的考察なしに)導入して、フンボルト自身は使っていない「外部地平・内部地平」などという用語で議論が展開されていく。
 こうしたスタンスのため当然のことではあるが、本書ではフンボルトの言語論がもっている現代との対立関係がまったく意識されていない。本書の議論を読んでいると、フンボルトの言語理解が現代でもそのまま通用するかのような錯覚さえ抱いてしまう。しかし少し考えれば分かるように、たとえチョムスキーによるフンボルト擁護などがあるにしても、現代言語学はフンボルトに対してけっして好意的ではないし、そもそも言語哲学的アプローチというもの自体が、現代の実証的言語学にとっては傍流にすぎないのである。そうした現状から、あらためてフンボルトを(アナクロニズムを自覚しながら)取り上げるといったような論の緊張感は、本書においては望むべくもない。
 また「有機体としての言語」という主題そのものにしても、現代では、そこに言語に関するある種の実体化を見て、これを忌避する傾向すら認められるだろう。「有機体としての言語」という思想を、国民国家誕生と並列する「国語」の成立という一つのイデオロギーを支えるものと捉える酒井直樹『死産される日本語・日本人』
(新曜社)の議論を例として思い出しても良いだろう。もとよりそうした問題関心は本書では言及されることはない。もちろんこれは、あくまでもスタンスの違いであって、このことをもって本書の価値そのものを云々するつもりは毛頭ない。フンボルトの言語理解そのものについては、有益な指摘も数多くなされている。したがって、非難の意味ではなく、本書は良くも悪しくも学位論文であって、それ以上でもそれ以下でもないと言うことができるだろう。ないものねだりをするつもりはない。「フンボルト研究」の専門書としての価値は別として、私は本書のようなものを「人文書」とは呼ばない、ただそれだけのことである。
 これに対して、たとえばトラバントの一連のフンボルト論(『アペリオテス ―― 東風』、
『フンボルトの伝統』〔ともに未邦訳〕)は「人文書」と呼ぶにふさわしいだけの、問題の現代的広がりをもっている。とりわけ『アペリオテス』は、フンボルトの言語哲学の時代錯誤的な性格を意識的に引き受け、失われてしまったがゆえに現代においてこそ復興するに足る地下水脈として、フンボルトの言語感覚を鮮やかに描き出している(近々平凡社より邦訳公刊の予定〔邦訳名未定〕)


H. Aarens, Sprachwissenschaft. Der Gang ihrer Entwicklung von der Antike bis zur Gegenwart, Verlag Karl Alber 1955.(アーレンス『言語学 ―― 古代から現代までの発展の歩み』)

 言語学・言語哲学に関する古代から現代(ソシュール辺りまで)に至るまでの通史。全体が500頁を越す大著。公刊後すでに半世紀が経っているが、これだけ浩瀚な通史はなかなか得がたいうえに、情報量も圧倒的なので、事典としても使える。


曽田長人『人文主義と国民形成 ―― 19世紀ドイツの古典教養』(知泉書館)

 ドイツの新人文主義とドイツの国家形成を論じた大冊。ヴォルフなどのドイツ文献学を始め、ベック(本書では「ベーク」と表記。なぜ?)とヘルマンの論争など、邦文ではなかなか類書がない記述をおこなっている。ただし、事柄としてはさほど難しい問題ではなく、事は歴史的事実に関わることであるはずなのに、全体が妙に読みづらい。難解な文章というわけではないのだが、繰り返しが多く、その叙述が整理しきれていない印象が残る。新人文主義の最後にニーチェに関する一章を設けるなど、かなり斬新な点もあるのだが、その意味合いがもう一つ伝わってこない。叙述のメリハリがないなど、やはりこれは学位論文というものの性格が反映してしまっているのかもしれない。もう少し、叙述にはっきりしたラインが浮き出るようにしてもらいたかった。


エミール・エック『模範彿和大辞典』(白水社 大正10年)
登張信一郎『新式獨和大辭典』
(大倉書店 明治45年)

 文語訳の仏和・独和辞典。例えば前者の"lâcheté"には「懦弱、遊惰、懶惰」(普通は「怠惰」)といった訳語が並び、後者の"beängstigen"には「戦々恐々たらしむる」(普通は「脅かす」)"beanlagt"の用例の"gut beanlagter Mensch"には「天資頴邁の人」(普通は「才能のある人」)といった訳語が当てられている。古い語学辞典は、単語の意味を知るというのではなく、むしろ日本語を知るのに役だってくれる。翻訳で適当な訳語が思い浮かばずに思いあぐねたときなどは、こういうものが突破口になったりもするので、大いに助かるツールである。


田中隆尚『呉茂一先生』(小沢書店 1993年)

 『イーリアス』、『オデュッセイア』などの翻訳で知られる呉茂一氏と交流のあった著者による回想。ただし、その種の翻訳がすでに終わってからの付き合いということになるので、期待していた翻訳そのものの内情についての記述はない。しかし、古典古代の詩には晩年まで関わっていたので、『花冠』や、私家版『エジプト詩集』の成立事情についてはいろいろと書かれている。とりわけ『エジプト詩集』については、著者が献本した知人のリストまで載っており、付き合いの幅が分かって面白い。西脇順三郎、矢代幸雄、鈴木信太郎から、今道友信、金子武蔵などなど、錚々たる名前が並ぶ。専門分化というのは人間関係にも響いていて、現代ではこれだけ多様な分野の人々と付き合いのある学者・文学者も少ないのではないだろうか。
 それにしても、この書物の版元はすでになき小沢書店だが、本書も実に瀟洒で良い造り。


河底尚吾『改訂新版 ラテン語入門』(泰流社)

 章の最初に、半頁ばかりの古典からのテクストが挙げられていて、その後でそこに含まれる文法上の問題を解説して行く。使われているテクストはオウィディウス『変身物語』とキケロの『カティリーナ弾劾』であるというのも嬉しい選択。因みにMetamorphosesの冒頭はこんな具合。In nova fert animus mutatas dicere formas corpora.凄い。一つとして近代語で予想される語順に従っていない。英語のラテン語教科書に、『オウィディウスでラテン語を学ぼう』(N. Goldman, J. E. Nyenhuis, Latin via Ovid. A First Course, Wayne State U. Pr.1977)というのがあって、これはこれで愉しいのだが、残念ながらここで使われているオウィディウスの文章は、いわば少年少女用にリライトされているので、ちょっと肩透かしを喰う。


グリーンブラット『驚異と占有 ―― 新世界の驚き』(みすず書房)

 新歴史主義を代表するグリーンブラットによるヨーロッパの異世界表象の歴史。マンデヴィル、マルコ・ポーロ、コロンブス、ラス・カサス、ベルナル・ディアスらによる外部の世界への関わりにドのような変化が見られるかを、とりわけ初期近代を分岐点として鮮やかに浮彫りにする。新歴史主義に特徴的なことだが、本書でも近代初期における表象の成立は、「言説」(discourse)を中心にして分析される。非ヨーロッパ圏との関わりにおいて最も大きな相違は、商人ないし旅行家として、その土地その土地の言語や土地の名称を記録に留めて行った(あるいはそう自称する)マンデヴィル、マルコ・ポーロと、国家の威信を背景として、侵略する土地に新たなヨーロッパ風の名前を刻印して行ったコロンブスとのあいだに認められる。かつては交換であり放浪であり、中心からの逸脱であった旅行が、収奪としての占有へと偏向していく。しかしこの両者は、元を正せば、「驚き」という、未知の他者に出会ったときの衝撃に端を発するという点では同じである。交換と占有のあいだには、「驚き」に対処するためにどのような認識論的装置を稼動させるかという、かなり微妙な違いがあるにすぎない。自己の中の他者、他者の中の自己という不安定な交流を保持し、自己を一種の多孔的な流通の場とするか、あるいは「表象」の装置を稼動させ、領域同士の差異を徹底して際立たせるか ―― この二つの対処の仕方によって異世界の認識は大きく異なってくる。これを、寛容と占領、無私と我欲といった簡単な二項の対立で捉えてはならない。コロンブスの占有もまた、他の世界、未知の民族に対する称讃を含んだ「驚異」の言説によって彩られているからである。他者を他者として尊重するかどうかという当人の意図にはかかわらずに発動してしまう文化装置こそが問題なのである。したがって、マンデヴィル、マルコ・ポーロ対コロンブス、ベルナル・ディアスといった対立も、本書の最後では宙吊りにされてしまう。最終的に示唆されるのは、占有の文化の中にある脱占有化の可能性、「仲介者」ないし「媒介」の果たす役割である。この辺の方向も、「脱構築」の思想家たちに大きな影響を受けている新歴史主義らしいところだろう。

 同じくグリーンブラットで、本書の同種の主題を扱った『悪口を習う ―― 初期近代の文化論集』(法政大学出版局)、とりわけそのなかの標題作「悪口を習う」と掉尾を飾る「共鳴と驚嘆」は、本書の理解にとって有益だろう。しかし、さらに言うなら、マンデヴィルに関して言われる放浪の感覚 ―― 「現存しない王朝に言及するふりをし、幻想でしかない典拠(権威)をいくつも引き合いに出し、目撃した信ずべきものであると偽りの主張をしている」というその逸脱の感性 ―― を最も生き生きと理解させてくれるのは、カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』(河出書房新社)かもしれない。これはやはり、グリーンブラット本人によって、膨大な註の一つで、バルトの『記号の帝国』(『表徴の帝国』)とともに言及されている。

 本書『驚異と占有』の翻訳は、この種の翻訳の範となるような出来映えである。簡単な割注で本文の読解を助けながら、より詳細な情報は訳註として巻末にもって行くという処理の仕方も上手い。そのために、巻末の訳註は、さながら現代思想の基礎知識集のような趣になっている。原書にない図版も含め、個別的なデータもよく補足してあり、手抜きがない。


P.ファマトン『文化の美学 ルネサンス文学と社会的装飾の実践』(松柏社)

 新歴史主義第二世代の注目すべき業績。第一世代のグリーンブラットがもっていたパワー・ポリティクス的な傾向に対して、装飾や日常的慣習というより微視的な次元の分析を通してエリザベス朝の文化を浮かびあがらせようとする。「断片的なもの、周縁的なもの、装飾的なもの」に注意を注ぐ著者は、贈物の受け渡し、ペンダントの中の細密肖像画、仮面劇の際に食事を供する「ヴォイド」と呼ばれる四阿といった、通常の歴史では注目されることのない主題を細心に分析して行く。そうした分析を通して、ルネサンスにおける主体の誕生を辿ろうとしている限りでは、本書もグリーンブラットの名著『ルネサンスの自己成型』(みすず書房)の問題に間違いなく棹差すものではある。とはいえ、「主体性とは歴史に対する遠まわしの言及から生み出される自己言及である ―― あたかも自己が鏡の前に立ち、自らの像を、また(その像の奥や周囲に目を凝らしながら)肩越しに世界を見るかのように」と説く本書は、装飾や「小さな物」という断片の内に、このような「遠回り」の場を見て取ろうとしているようだ。


P.バロルスキー『庭園の牧神 ―― ミケランジェロとイタリア・ルネサンスの詩的起源』(法政大学出版局 2001年)

 虚構に富むヴァザーリの『美術家列伝』の中のミケランジェロ伝と、ミケランジェロ本人の『自伝』を素材に、ルネサンスの伝記が、芸術家の「自我」を構成する「自己成型」の装置であったことを縷説していく。その意味で、ペトラルカにとってのラウラ、ダンテにとってのベアトリーチェも、芸術家自身の自己の構築に寄与する詩的産物であり、ボッティチェルリの『春』やティティアーノの『田園の楽奏』も、芸術自身の誕生を自己言及的に語る作品であることが解き明かされる。歴史における「物語論」や新歴史主義の観点を芸術作品に即して展開した成果と言えるだろう。その意味で、これはある種の「観念論」に還元されるものである。現在、美術史もそうした波に一旦洗われることで、画家中心主義、作品中心主義を相対化しつつあるようだ。
 翻訳の訳文も日本語として見事で、文章としての魅力がある。索引の作り方も丁寧で信頼が置ける。原著の参考文献解題も読み物として面白い。


H. Eto, Philologie vs. Sprachvissenschaft. Historiographie einer Begriffsbestimmung im Rahmen der Wissenschaftsgeschichte des 19. Jahrhundert, Nodus Publikationen 2003.
(江藤裕之『<文献学>対<言語学> ―― 十九世紀学問史における概念形成の歴史的叙述』)

 古代の文献学(アレクサンドレイア学派やストア学派)からの伝統を概観しながら、十九世紀のベックやヴォルフの文献学を考察した論考。このような主題を扱ったものとして、日本語で読めるまとまったものは、中島文雄『英語学とは何か』(講談社学術文庫)といったものがあったが、日本人がドイツ語でこのような研究書をドイツの出版社から出すというのは頼もしい。しかもこのNodus Publikationenという出版社は、言語思想の研究の泰斗Helmut Gipperなどが自分の著作集を出しているようなところなのだから、ますます悦ばしい。


A. Borst, Der Turmbau von Babel. Geschichte der Meinungen uber Ursprung und Vielfalt der Sprachen und V&omullker, 6 Bde., Deutscher Taschenbuch Verlag 1995.
(ボルスト『バベルの塔 ―― 言語と民族の起源と多様性をめぐるさまざまな見解の歴史』)

 全六巻で総頁数が2320頁。古代から現代に至るまでの、言語起源論、言語相対主義の歴史を網羅した百科全書的著作。索引も強力で、150頁を越す。天を摩する巨大な塔を建造しようとした人間の奢りに対して、神は建造に関わる人間たちの言語をバラバラにして、互いの意思疎通を不可能にする形で罰を与えた。それ以来、人類は多様な言語に分割され、コミュニケーションの疎外に苦しむことになった。こうしたバベルの塔の神話が、ヨーロッパの言語思想にどれほど深く入り込み、一種のトラウマとなっているかが痛感させられる。その裏側には、バベルの塔の災害を人工的な言語によって乗り越えようとする「普遍言語構想」がある。


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