Science Fiction |
註記:「哲学小説としてのSF」という意図で、いくつかの作品について書いてみようかと思って開設したコーナー。
最初に取り上げたものは、かならずしも内容的な面で筆頭に掲げられるべき作品ではないが、いちばん新しく読んだものなので、メモとして掲載。今後「余裕があって気が向いたら」、まずは下記のリストに挙げたような古典群について、書き足していきたい。
荒俣宏『理科系の文学誌』のひそみにならって、「理科系の哲学史」なるものを遠くに見据えて。
著者は『虐殺器官』と本書だけを残して30歳代で夭折した。二作とも評判がよく、本書は日本SF大賞受賞ということで、各種雑誌も絶賛しているので、気にはなっていた。確かに面白くないことはない。人間の身体がナノレヴェルで管理され、すべての病気や疾患が追放された超・健康社会という近未来が舞台。人類が21世紀に破滅的な危機を経験したところから、完全な医療社会を目指し、すべてのプライヴェートを放棄し、徹底した管理に晒されるという設定。本文中でも触れられるとおり、ハクスレー『すばらしき新世界』の現代版。フーコー的な生権力のSF版でもあって、本書では、政治を管理する「政府」に代わって、生命を管理する「生府」が一切を取り仕切っている。そうした真綿で首を締めるような社会に違和感をもつ3人の少女を中心として、やがてはそれが巨大なテロリズムに繋がっていく。その少女の一人の語りとして描写が進むので、ジュヴナイルのような雰囲気になり、最初は途中で読むのを止めようかとも思ったが、一章の最後で急速に物語が展開し始め(何があったかは伏せておくが)、最後まで読んでしまう。
描写の特徴としては、htmlならぬetml(Emotion-in-text markup language)なる言語で記述されている部分が頻繁に挟まれる点。
<silence>
<fear>
<horror>
</horror>
</fear>
</silence>
といった具合。各章も<body>で始まり</body></etml>というふうに閉められる(これをいまhtmlを使って書いているので、これもまた妙な感覚)。
イメージとしては面白いが、この描写が最終的に作品全体にどういう意味をもっているかというテクスト論的次元にまで達しているとは言いがたい。このetmlというのは、ある意味でメタレベルを含んだ記述様式になっている以上、このテクストそのものが誰に宛てられたのか、あるいはそれ自体がどういう身分をもつのかというテクスト論的にめくるめくような問題が潜んでいるはずなのだが、それを展開する仕組みにはなっていない。クリスティ『アクロイド殺し』のように、テクスト論上の問題をテクスト自体に盛り込んでしまうという離れ業が可能な設定にもかかわらず、ここではそれが単なる意匠にとどまっている。何よりもこの書法によって、すでに読者をかなり限定してしまうことになるが、果たしてそこまでするほどの効果があがっているかとなると大いに疑問。
ナノレヴェルのテクノロジーと、それに対する反逆の試みを通じて、生命や意識といったものに対する思弁に接近はするのだが、そこに十分に踏み込めているとは思えない。その点では、「思弁的」寓話としては物足りないし、SF的想像力の点でも、下記のテッド・チャンなどには到底及ばない。作品の描写力や世界観の質も、世評ほどではないように感じる。
一編ごとにまったく趣向の違う短編を八編集めているが、どれも読みながら「思弁的」「哲学的」な思考を喚起されるようなものばかり。とりわけ表題作の「あなたの人生の物語」は、非線形的な言語(象徴言語)を使うエイリアンとのコミュニケーションを主題としており、ディレーニの『バベル17』などを思わせるところがある。しかし、その質はかなり異なっていて、私はこれを読みながら、ライプニッツの普遍記号構想と弁神論がなぜむすびつくのかが(直接にはそんなことは一言も書いていないのだが)イメージとして感じ取れてしまうという不思議な経験をした。
「理解」という超知性を扱った短編では、まるでフィヒテを思わせるような文章に出会います。「精神構造が形成され、相互作用をするのがみえる。自分の思考過程がみえ、自分の思考を記述する式がみえ、自分がそれらの式を了解するのがみえ、了解されたことをそれらの式が記述するのがみえる。自分の思考をそれらがどのようにつくりあげているのかを、私は知る。自分の思考を」(106頁)。 ―― すごい。「みる」という語の用い方が、フィヒテのsehen(見る)そのまま。文中の「式」はフィヒテの場合ならBild(像)だろう。さらに、この作品では、最後に二つの超知性同士の闘いという場面を迎えるのだが、これなどは、観念論と実在論の争いのよう。
「七二文字」も、生命を動かす「名辞」を扱う「命名師」なるものが主人公。一見すると中世風の「実念論者」のように見えるのだが、これが最後は膝を打つような結末に(これは伏せておきましょう)。