言説形成体と実定態


   フーコーの考古学においては、「出来事にしても物でもある言説の逆説的な存在」が問題となり、それを支配する規則が分析される。そこでは、「語られたもの」だけが対象となるのであって、言表の背後でそれを操るいかなる主体も問題にならない。そのため、「考古学」(アルケオロジー)という名称からは、時間的な意味でも、形而上学的な意味でも「起源」(アルケー)の問題が切り離されなければならない(p. 116)。そこでは、地層を掘り進めて言説の最古の層に至ることが目標なのではなく、むしろ地層と地層との裂け目に注目し、そこに働いた出来事を凝視することが目標となる。そのために、まずは時間的連続性という概念がその位置を変えなければならなかった。

 さらには、現代において歴史の連続性というかたちでなおも残存している「主体」ないし「超越論的主観性」という思考を揺さぶる必要があった。フーコーの分析対象として、数学史や物理学史など、比較的形式化の進んだ自立的な領域ではなく、流動的で見究めがたい「人間科学」が選ばれたというのには、そのような脱主体化という動機も関わっている。「語る個人や、言説の主体、テクストの作者など、要するに一連の人間学的カテゴリーに依拠したあれらすべての統一性や非反省的な総合に絶対にとらわれないでいられるということを確信するためにはどうすればよいのだろうか」(p. 117)という関心が、議論を引っ張ってもいたのである。そして、「おそらくは、まさにそうしたカテゴリーがそこを通して構成された言表の総体 ―― <対象(=客体)>として諸々の言説の主体(それらの言表自体の主体)を選び、その対象を認識のフィールドとして繰り広げようと企てた言表の総体 ―― を考察することによってなのではないか」(p. 117)という予想の下で、『狂気の歴史』、『精神医学の誕生』、『言葉と物』が書かれたというのである。

 この点から、フーコーにとっての歴史記述はそれ自体がある種の哲学的な含意をもっていたということが垣間見えても来るだろう。しかしこれは、歴史的作業に先だって抱かれた哲学的意図に沿って歴史記述が展開されるということではないし、その哲学意図が歴史記述の作業によって確証され、強化されるということではない。もしそうだとするなら、この記述を行うフーコーの視点は、ある種のメタレベルにあって、歴史を俯瞰する地点に据えられているということにもなるだろうが、こうした理論上の機微に対してはフーコーは実に敏感である。『言葉と物』は、『言葉と物』を語っている言説を最終的に保証するような構造にはなっていない。「いまや私は認めなければならない、そこからそれらの言説がそう言うこともなく語っているのだと私がかつて示したその場所からは、私はもはや私自身語ることはできないのであって、ただこの際、すでに自らの後ろに私の言説が置き去りにしたあの微細な非連続性から出発して私は語っているのだ、と」(p. 118)。フーコーが記述の「匿名性」にこだわったのと同じ事情がここには働いている。

 「そのようにして私は言表間の共存の関係を記述することを試みた。私は、考えつくような、また伝統が私に供するような、一人の作者の作品だとかひとつの時代のまとまりだとか、科学の進化だとかといった、いかなる統一性も考慮に入れないように注意した。私は私自身の言説に隣接した諸々の出来事の現前のみを手がかりにすることにした。それらの出来事の間に関係性のシステムを記述することができれば一貫性をもったまとまりを相手にすることになると確信したからである」(p. 118s.)。こうして、伝統的な単位や統一体とは異なった、言説の統一性ということが問題となる。

 そうした新たな統一性の基準として、四点が挙げられる。

 一)まずは、「言説の統一性を、その言説のすべての“対象”の形成の規則によって定義する」ものである。つまり、分析の対象となるものは、何らかの歴史的実体として存在しているわけではなく、むしろ言説によって「構成」されるという観点である。例えば、『狂気の歴史』で試みられた分析に沿って、次のように語られる。「狂気についての言説の統一性は<狂気>という対象の存在や、客観(=対象)性のひとつだけの地平の構成のうえに基礎づけられているのではないのだ。その統一とは、ある時代において、医学的記述(およびその対象)の出現、差別的で抑圧的な一連の措置(および固有な対象)の出現、処方や治薬での規格化された実践の総体(およびその特有の対象)の出現を可能にする一連の規則性の戯れなのであり、したがって、それらの規則性の総体こそが、理想状態における対象をというよりは、その対象のそれ自身との不一致、その絶えざる際、その隔たり、およびその分散を説明するものなのである」(p. 120s.)。この引用文で、言説にまつわる「記述」「措置」「実践」の直後に括弧内で「対象」に言及されていることに注意しておこう。つまりここでは、言説と対象の同時的成立が語られるのであり、いわば狂気に関する実在論(対象としての狂気が実在するという立場)と、狂気に関する唯名論(狂気とはレッテルにすぎないとする見方)がともに拒絶されているのである。

 「狂気」は単なる事実でもなければ、空虚な名前でもない。狂気をめぐる医学的・精神病理学的言説ともに、「狂気」という対象が形成され、それをめぐって言説のネットワークが形成される。したがって、同じ「狂気」という名称が使われていても、時代によってそれが扱うのはまったく異なった対象なのである。そのために、狂気をめぐる言説は、狂気なる現象とそれをめぐる言説の恒常性を保証するものではない。むしろ、「狂気についての言説の統一性とは、それらの多様な対象の変形、時間を通してのそれらの対象の非‐同一性、それらの対象の間に生じる断絶、それらの諸対象の恒常性を中断する内的な非連続性を規定しているような諸々の規則性の戯れなのである」(p. 121)。要するに、狂気をめぐる言説は、狂気の「本質」を規定することではない。そこには、言説という出来事によって、対象はともども変動し、断絶が生まれるような事態が予想されるのである。「逆説的なことに、言表のひとまとまりをその個別性において定義することは、その対象を個別化することでも、その対象の同一性を限定することでも、その対象が恒常的に保持している諸特徴を記述することでもないのである。それは反対に、それらの諸々の対象の分散を記述し、それらの対象を隔てているすべての間隙を捉え、それらの対象の間の距離を測定するということであって、別の用語でいえば、それらの諸対象の分布の法則を定式化することにあるのである」(p. 121)。

 二)第二の基準は、「統辞的タイプの形成の規則」と呼ばれる。ここでは、第一の基準で見た、記述的な言表行為よりもさらに包括的な観点が示される。実例は『臨床医学の誕生』である。この第二の基準において「言説」と言われるものは、純粋な記述的言説のみならず、「政治的命令、経済的決定、制度的調整、教育モデルの総体」(p. 122)を含んでいる。実際の臨床医学においては、記述された言表の周囲に、通常は「言表」とは言われないようなさまざまな医学的・社会的実践が取り巻いているのである。したがって、「臨床的言説の統一性は、言表の定まった形式ということではなく、純粋に知覚的な記述だけでなく、器具、実験室での実験の実施、統計的計算、伝染学的あるいは人口論的検証、制度的規制、政治的決定などによって媒介された観察をも可能にした諸々の規則性の集合なのである」(p. 122)。

 三)第三の基準は、「意味論的諸要素の形成の規則によって」言表の統一性を定義するものである。ここでは、『言葉と物』第一部第四章で展開された言語に関する分析が例に取り上げられる。古典文法における「属詞化」「分節化」「指示作用」「派生作用」をめぐる理論である。これらのそれぞれは、文法において、さまざまな規則を作り出すまとまりのある規則と理解される。つまり、古典文法のシステムにおいて操られる概念や分析方法は、下位区分としていくつかの規則の集合から成り立っているのだが、それらは「言語」という統一体の法則として、そこから演繹されるというのではない。「一般文法において言表の個別化可能な集合をみとめることができるとすれば、それはそこに姿をあらわし、相互に結び合い、交叉しあい、干渉し、お互いに追い払いあい、隠しあい、ちりぢりに広がっているすべての概念たちが、唯一の同じ理論ネットワークから出発して形成されるものだからである」(p. 125s.)。

 四)最後の基準は、「操作的蓋然性の規則」と呼ばれるものである。これは理論的選択における偶然性に関係すると言えるだろう。ある理論と別の理論とを区別するのは、純粋に理論的な選択ではなく、そこでは一種の蓋然性が働く。言説の統一性を可能にする規則とは、一義的な因果関係でも論理的な演繹体系でもない以上は、最終的な選択の場面では、恣意性が働きうるのである。「ひとつの言説を個別化し、それに独立した存在を付与することを可能にするのは、与えられた諸々の対象のフィールド、一定の言表行為の選択の幅、内容と用法の決まった概念のセットから出発して、その言説が自由のままに残しておくさまざまな選択点の体系なのである」(p. 128)。ある理論が別の理論とどの点で別れ、相容れないものとなるのかは、この選択の自由にかかっている。それは二つの言説の統一体が交叉する領域とも考えられるだろう。しかし、一旦その選択肢が選び取られたあとは、それぞれの理論的言説のなかで、最初の共通部分は独自の位置づけを与えられることになる。そうした位置づけを経たあとでは、中立的な選択肢であったものは、特定の位置価を付与され、相互に共約不能なものとなる。

 四つのレヴェルでの統一性によって、古典的な連続性や一貫性とは区別される言説形成体、ないし「座標系」と呼ばれるものの統一がゆるやかに囲い込まれる。「言説形成体が顕わにするのは、秘密や、隠された意味の統一性でもなく、一般的で唯一の形式でもない。それが明らかにするのは、諸々の差異と諸々の分散の規則的なシステムであるのだ」(p. 129)。


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