すでに見た四つの統一性の基準によって記述される言説のネットワークは、「言説形成体」(formation discursive)と呼ばれる。これらは、従来の分野や時代区分の区切りとは一致せず、これまで明らかになってこなかった諸関係を明示する。ここで分析される言説のシステムが、言説形成体の「実定態」(positivite)と言われる。これは、事実として存在していた諸領域の前提や可能条件になっているものとは区別される。例えば、『言葉と物』が分析しようとしたのは、富・生命・言語といった「実定態」であるわけだが、これらのシステムは、古典主義時代に存在していた諸学問の区分とはかならずしも一致していない。むしろ、「実定態」として取り出されるそれぞれのシステムは、古典主義時代において、さまざまに分断された言説の内に散らばっているのである。したがって、『言葉と物』が目的としたのは、そうしたばらばらに分散した言説のその散らばり具合を策定すること、「科学性のレヴェル、形式、完成の度合が、回顧的に見るならば私たちにはばらばらで不均質にみえる一定数の言表の同時的な出現を説明すること」(p.131s.)であった。

 言説形成体を対象にするこうした分析は、当然のことながら、個々の言説の真偽を問題にしたりしない。あるいは個々の言説間の直接的な矛盾や齟齬を探り当てて、そこから学問の発展を説明するような合理的な発展史観に与することもない。むしろさまざまに語られる言説を、「言説統一体」として、すなわち一個のシステムとして考察するときに、われわれの視点は、個々の言表の客観性や真理性というのとは異なった水準に移行することになる。そこにはもはや、科学/非科学(擬似科学)の区別も、合理性/非合理性の区別も有効には働かない。しかも、これは合理性/非合理性が「止揚」されたより「高次」の視点というわけでもない。それらは、「合理性の諸形式と非合理的拘束とのあいだの戯れでも均衡でも対立あるいは弁証法でもまったくない」(p. 133)。言説形成体はニュートラルなもの」(p. 132)であり、価値判断や真偽の基準を度外視して、言説の統一性、構造性のみに注目することが求められる。

 こうして、言説統一体の分析はいわゆる「科学論」ないし「科学基礎論」とは区別される。確かに言説統一体の実定性の考察は、科学の「可能性の制約」を問うものではある。しかし、フーコーはこの「可能性の制約」に二つのタイプを区別する。 一つには、「ひとつの言表がその科学に属しうるための形式的および意味論的な規則を定める」(p. 135)システムに関わるものであり、そのシステム自体は科学内部に属している。これが通常の意味での「科学基礎論」に当るようなものである。これに対して、もう一つに「歴史的存在としての一つの科学の可能性に関わるもの」(ibid.)であり、この意味での「可能性の条件」こそが言説統一体の分析において問題となる。

 「可能性の条件」をめぐるこの規定においては、カント的(ないし新カント学派的)な方向との相違が示されていると考えられる。カントおよび新カント学派では、特に数学といったア・プリオリに真理性が保証される学問が前提されたうえで、その「可能条件」を問うという方向が取られていた。そのために、カントの場合なら、ニュートン物理学とユークリッド幾何学が、『純粋理性批判』の分析の出発点となっている。その点では、その可能条件に対する分析は、科学内部の規則性という性格をもっていたといえるだろう。そこでは、「アプリオリな総合判断」というものが、学問の学問性(科学性)、あるいは科学内部で真理とみなされる言説の規則としてあらかじめ設定されているのである。

 伝統的な超越論哲学は、こうした学問性の構造を人間の理性の構造の元型として捉え、そこから遡って、学問の可能の制約としての理性の超越論的構造を摘出するという方向を取った。そのために、学問的合理性が規範となって、そこから理性自体の構造の分析が決定されていたわけである。その典型的なものが、ドイツ観念論、とりわけフィヒテの「知識学」だろう。Wissenschaftslehreとは、現代では「科学論」と訳される言葉だが、それがフィヒテにおいては超越論哲学そのものを指しているのである(だからこそ、翻訳に困って「知識学」という訳が用いられる)。ここでは、学問というかたちで「真なる」合理的認識が確定されたうえで、その可能条件に遡るという手続きが踏まれることになる。

 これ対してフーコー的な言説形成体の分析は、そのような学問性・真理性の水準が規定された次元を動いていない。むしろ、言説形成の分析に関わる姿勢の内には、「知」をめぐる独自の構想が含まれている。「知は知識の和ではない」(p. 133)し、「理解可能性の法則」(ibid.)に関わるものでもない。ここで言われる「知」は、ドイツ観念論が「知識学」の名で構想していた「知」(Wissen)の理解とは異なるし、その末裔として、認識論の文化的・歴史的局面への拡張を試みた哲学的解釈学の「理解」(Verstehen)とも異なっている。フーコーの思考は、学問的合理性と理性の構造を直結させた伝統的な超越論哲学の系譜に対して、その出発点となった学問的合理性そのものを問い糾すものと考えられるかもしれない。学問が学問として形成され、その中で真理をめぐるゲームが可能になったのはいったいいかにしてなのか、と。学問論から普遍的な理性の構造へ向かうタイプの超越論哲学とは異なり、フーコーはそうした上昇のプロセスに従わず、むしろその足元の学問という言説統一体に踏みとどまり、その仕組みに対して、慎重にメスを入れていくことになる。

 しかし、すでに見たように、「可能性の条件」ということを、かならずしも一つめの意味に限定する必要がないとするのなら、このフーコー的な方向をも、より広義の「超越論哲学」と呼べないわけではない。ただし、そこには、「知」や「学問」に対する伝統的な超越論哲学の思考を大幅に組み替えたうえで、という註記が加わらなければならないだろうが。


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