歴史への態度
「歴史の書き方について」
(『ミシェル・フーコー思考集成 II 1964-1967 文学・言語・エピステモロジー』筑摩書房、1999年、所収)


「歴史という見方そのものが、時代的・歴史的な制約を受けているのである」と述べたことについて、もう少し考えておきたい。

 「歴史記述の歴史性」ということを語り、歴史という観点が歴史的に成立したものだというなら、『言葉と物』でのフーコーの狙いは、高次の歴史意識をもって時代に対する反省を行うことだったと言って良いのだろうか。

 おそらくフーコーの分析は、「歴史的考察」を高次の反省とみなして、一切の思想の歴史性を主張するような立場からは区別されなければならない。そうした反省の最も強力な形態が、ヘーゲルの歴史哲学だろう。思想自体が歴史的に生成するということへの洞察自体を、自らの思想の一部として組み込んでいる点で、ヘーゲルの思想は、ヨーロッパ哲学全体の頂点に立ち、その終焉を宣言しうる地点に立っている。その根幹を成しているのは、理性ないし主体の総合の働きである。ヘーゲルが「主体=実体」という定式を行ったとき、アリストテレス以来の実体概念の内に超越論的な理性的機能が組み込まれ、実体はいわば存在の自己解明という性格をもつことになった。それは同時に、実体に対して、理性のもつ反省的性格を認め、存在を運動として、まさに歴史として理解する道を開いたとも言えるだろう。

 そのために、ヘーゲルにおいて歴史と言われるものは、分析されるべき歴史的事象と、それを分析する反省的な絶対知の差異によって動かされ、その両者の一致へ向かって突き進む。歴史が目的論そのものとみなされるのである。最終的には絶対精神の勝利として、歴史はめでたく幕を降ろす。「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」。20世紀の哲学的解釈学は、この絶対精神の勝利という点で、ヘーゲルとの距離を意識しながらも、最終的にはヘーゲル的な歴史意識のヴァリエーションという性格をもっている。「地平融合」と言われる事態も、歴史理解の構造である以上、理解の運動性を保証する目的として、最終的には「理解」という総合によって一つの決着を見ることになるからである。

 われわれは、歴史的反省を介在させさえすれば、反省の段階が一段あがったものと安易に考えてしまいがちであるが、おそらくフーコーが『言葉と物』で実行したのは、そのような歴史的反省の一種ではない。フーコーにとって問題になるのは、歴史を「理解」することではなく、むしろ理解という最終的な目的に収斂することを拒むような、歴史の独特のありようなのである。だからこそ、フーコーの作業は「解釈」でも「理解」でもなく、「記述」と言われる。

 ヘーゲルとの対比を続けて、『言葉と物』を、寸断された『精神現象学』、あるいは絶対知の現前を許さない『歴史哲学』とでも言ってみようか。『精神現象学』のように、感覚的確信、知覚、悟性が発展段階として描かれるではなく、それぞれが異なった認識形態として併記されるような状態を想像してみよう。いずれにしても、フーコーの場合は、語られていることと語っている視点が最終的に合致するような地点に到達することはありえない。語られているエピステーメーと、それを語っているフーコーの視点はいつでも乖離したままである。解釈学的循環を意図的に切断し、そこに巻き込まれることを良しとしない。

 そのために、『言葉と物』では、そこでの歴史を記述している視点が最終的に勝利するということはありえない。記述の視点はメタレベルでさえない。レヴィ=ストロースが『生のものと焼かれたもの』について語った、「こうして神話についてのこの本は、それ自身のやり方で、それまた一つの神話なのだ」という言葉を引いてきたインタビュアーに対して、フーコーが強調するのが、「匿名性」である(p. 446)。

 歴史を記述する視点は、分析対象と分析主体が一致した高次の反省意識ではなく、また歴史を上位から俯瞰するメタ・レベルの主体でもない。匿名の視点として歴史を語るということが課題となる。「書く者にとって重要なのは、かつては、万人の匿名性から身を引き離すことだったのですが、わたしたちの時代にあっては、固有名を消し去って、語られる言説のこの巨大な匿名のつぶやきのなかに自らの声を住まわせる、ということなのです」(p. 445)。


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