口舌の徒のために

(過去ログ)

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No.59, 御挨拶 βεκκ(2001/04/18 05:50:06)
 No.65, Re:御挨拶 庵主 Prospero(2001/04/19 00:15:38)
  No.126, Re:御挨拶 βεκκ(2001/04/29 12:57:50)
   No.127, リンク、張っちゃいました 庵主 Prospero(2001/04/29 23:08:08)

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No.59 御挨拶

投稿者---βεκκ(2001/04/18 05:50:06)
http://www2.gol.com/users/beck/?  

出遅れましたが、新装おめでとうございます。STUDIA HUMANITATIS の 方もますます充実しているようで、素晴らしいですね。またいつか時間 ができたら本のポートレート撮影もお願いいたします。

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No.65 Re:御挨拶

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/19 00:15:38)

ご無沙汰しています。丁度お忙しい真っ盛りだろうと思って、あまりお誘いしませんでしたが、新装はご覧の通りの状態です。ご覧いただきありがとうございます。とりわけ、掲示板の形式が変わったのは大きいと思います。皆様長文の文章を寄せていただけるので、前の形式だとやや不便になっていました。ここのツリーの面白いところは、最新のレスがついたブランチが最上階に上がってくるという点です。ですから、複数の話題が平行して進行するなかで、以前の話を蒸し返しても見過ごされることがない、その意味では、古い話題を延々と引っ張れるという具合です。「口舌の...」というにふさわしく、皆様が蘊蓄を傾けてくださるので、丁度良い形態かと思います。βεκκさんも、時間がありましたら、是非いろいろと蘊蓄のほどを。 撮ってもらった写真も使わせていただいています。この写真のところからDomus Boeckhへリンクを張ってしまっても良いですか?

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No.126 Re:御挨拶

投稿者---βεκκ(2001/04/29 12:57:50)
http://www2.gol.com/users/beck/?  

どうもお返事遅くなりました。こちらの掲示板にはみなさんがいろい ろ興味深い話をたくさん書き込んでいらして中身が濃く素晴らしいので すが、このところ余裕がなくてなかなか読めないでいます。連休中に追 いつきたいのですが。最新のレスがついたスレッドが上位に来るという のは、形式だけからすると2ちゃんねると一緒ですね(笑)。'age' と 書くと上がったりして。本の写真はまた機会があれば撮影したいですね。 口絵として使うだけではなくて、これはという本には、専用の肖像写真 ページを設けるというのはいかがでしょうか。  リンクのことですが、こちらにいらっしゃる皆様のページはとても凝 っていて専門性も高く、ろくに更新しない日記と写真と掲示板だけの、 Web 上にごまんとあるたぐいの私のような所などは、辿ってご覧になっ た方から呆れられてしまうと思います (^_^;。でもこれを機に少しでも 内容をましなものにするよう努力いたしましょうか……

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No.127 リンク、張っちゃいました

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/29 23:08:08)

↑をご覧いただくとお分かりのように、リンクを張らせていただきました。 ツリーの個々の脈絡のことはthreadと言うんですね。ツリーに対してだからブランチなんて勝手な名称を付けましたが。ネット・ボキャブラリーの貧困。 2ちゃんねるも覗いてみても、どうも勝手が良く分かりません。それなりの読み筋が掴めれば面白がれるのでしょうが、なかなかそうした根気は乏しくて...。何か面白い話題があったら紹介してください。


No.115, マーラー3番。 國府田 麻子(2001/04/27 00:56:46)

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No.115 マーラー3番。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/27 00:56:46)

今日(26日)、於;サントリーホール、日本フィル、小林研一郎指揮のマーラー「交響曲第3番」を聴いて参りました。「一番良くオケの“音”がきこえる」という席を知人に確保して貰いました。金管はいまひとつでしたが、マーラーの「荘厳さ」のようなものは充分に発揮されていたように感じました。とくに合唱に関してはなかなか素晴らしかったです。 ところで、「一番の席」というのは、私も知らなかったのですが2階席、最後列オケの正面でして、かなりの急斜面でした。でも、確かに“よい音”を堪能出来ました。 さて、私事で恐縮なのですが、(コンサートを聴いている間に)祖父が亡くなり、暫く此方には伺えなくなりそうです。。。連休明けには落ち着くと思いますが、其れまでしばしのおいとまです。私のこと、忘れないでくださいませ、皆さま。


No.68, お知らせ:掲示板機能の一時停止 庵主 Prospero(2001/04/19 21:52:51)
 No.114, お知らせ 2:旧掲示板の閉鎖 庵主 Prospero(2001/04/27 00:15:43)

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No.68 お知らせ:掲示板機能の一時停止

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/19 21:52:51)

下記の通り掲示板機能 の一時停止を実施致します。

1.日時
     2001年4月21日(土曜日)18:00より   最長で2001年4月22日(日曜日)12:00まで
2.掲示板機能一時停止の理由
     当方が利用するハウジングサービス会社の、サーバールーム移転 掲示板機能の停止中は、掲示板のご利用ができません。ご協力の程 お願い申し上げます。

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 上のようなメールが来ました。土曜夕方6:00から翌日日曜正午まで、ここは使えなくなるそうです。繋がらなくても、夜逃げなどではありませんので、あらかじめお知らせを。

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No.114 お知らせ 2:旧掲示板の閉鎖

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/27 00:15:43)

いろいろの応接に取り紛れて、告知を忘れていましたが、上記の掲示板一時閉鎖と前後して、(旧)「口舌の徒のために」は掲示板機能を停止させました。ただしそこでの投稿は、過去ログとして整理しておきましたので、トップのリンクからご覧いただけます。ただ、一応すべて保存しておいたつもりだったのですが、手違いで二月分の一部が失われてしまったようです。その間に書き込んでいただいた方にはお詫び申し上げます。 ご報告まで。


No.110, 一瞬吃驚 庵主 Prospero(2001/04/25 22:06:14)

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No.110 一瞬吃驚

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/25 22:06:14)

数日前に、Bibliofindから、探求書のHeinz Stolpe, Aufklarung, Fortschritt, Humanitat(『啓蒙主義・進歩・人間性』)が入荷したというメールが来たので、喜び勇んで検索してみると、なんとDM4000.00とあるではないか。邦貨にして20万円強。わずか10年ほど前に出た研究書になぜこんな値段がつくのか釈然としないまま見送った。しかし今日やはり気になって、もう一度検索してみたら、今度はDM40.00と出た。そりゃそうでしょう。単なる入力ミスだったんですね。早々に発注。 しかし、Bibliofindは、例のクレジット・カード・データ漏洩という事件以来、カード・データを扱わず、書店と顧客の直接の交渉になってしまったので、書店とのメールの数が増えてしまってかなわない。


No.73, 西風 きゅー(2001/04/20 02:12:45)
 No.76, めるくまーる 國府田 麻子(2001/04/20 20:25:03)
  No.78, めるきおーる(なんとなく) きゅー(2001/04/20 21:13:03)
   No.81, ちゃっかり 庵主 Prospero(2001/04/20 22:45:20)
   No.90, おお! 國府田 麻子(2001/04/22 19:51:23)
    No.94, ネット古書店にて 庵主 Prospero(2001/04/23 00:37:39)
     No.95, 顔なじみ きゅー(2001/04/23 01:01:31)
     No.96, 『語られた自己』! 國府田 麻子(2001/04/23 20:25:56)
      No.98, Re:『語られた自己』! 庵主 Prospero(2001/04/24 00:16:03)
       No.99, Re:『語られた自己』! きゅー(2001/04/24 05:13:21)
        No.101, 神田。 國府田 麻子(2001/04/24 19:54:50)
         No.102, 古書店 こば(2001/04/24 20:32:59)
 No.93, DICTIONARY.COM 庵主 Prospero(2001/04/23 00:34:22)

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No.73 西風

投稿者---きゅー(2001/04/20 02:12:45)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

お久しぶりでございます。

やっと(と言うか、もうと言うか)パソコンが帰ってきましたのでこうして夜の徘徊にやって参りました。

おみやげと申しては何ですが便利なサイトを見つけましたので報告を。 DICTIONARY.COMというものでこれは、イタリア・フランス・ドイツ・ポルトガル・スペイン語の文章を英語に翻訳してくれるサイトです。むろん英語からその他の言語への翻訳なども出来ます。しかもどこか気になったホームページのURLを入力することでそのホームページそのものを体裁はそのままで文章だけ翻訳してくれるという有り難いサイトです。こちらのリンク集になかったので御存知では無いのでは、と思った次第です。

ところで『宿命の交わる城』は無事入手し、読み終えました。やはりカルヴィーノは晩年の作品が秀逸であるな、と思いを新たにしました。 ではまた。

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No.76 めるくまーる

投稿者---國府田 麻子(2001/04/20 20:25:03)

きゅーさま。

“めるくまーる”から「出版目録」がやって来ました。 封筒から出したら、もの凄くタバコ臭いの。でも、よいのです。 今度は『雪豹』が欲しい。

パソコンは本当によかったですね。

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No.78 めるきおーる(なんとなく)

投稿者---きゅー(2001/04/20 21:13:03)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

國府田様は古本はネットで買わない方なのでしょうか?『雪豹』は定価が2200円,日本の古本屋で検索すると1000円で購入できます。(もちろん送料として300円ぐらいかかりますが)ネットの古本屋はなかなか重宝しますよ。私は毎日郵便局に寄って郵便振替をしているような気がします。

ところで庵主さま今日、全体がやわらかな黄色い封筒が自宅に届き、筆跡は明らかに女性のものなのです。おっ?おおっ!!と思い裏を見ると、丸善からでした。内容は注文したRobert Burton の『The Anatomy of Melancholy』が刊行が延期になったので注文を解約するとのことでした。内容はどうでも良いのです。ただ私はあのような人を一瞬喜ばせるような形式で手紙を送らないで欲しい、ということです。それにしても庵主さまはちゃっかり『ビブリオマニアの解剖』を入手されたそうで、うらやましいかぎりです。

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No.81 ちゃっかり

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/20 22:45:20)

>ちゃっかり『ビブリオマニアの解剖』を入手されたそうで

そうです。これもネット古書店です(Bibliofind)。

コンピュータのご回復、おめでとうございます。Appleはいけません。おそらく入院させたMacは一ヶ月は戻らないでしょう。こんな具合なので、私も作業環境の脱Mac化を本気で考え始めています。 辞書関係のサイト、ありがとうございます。これから覗いてみたいと思います。

『宿命の交わる城』も無事落手おめでとうございます。あの解釈の戯れには痺れます。「読者論」の議論の方にも引き合いに出しても良かったかもしれません。解釈の中では独立した定数のようなものは存在しないということの例示としてね。

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No.90 おお!

投稿者---國府田 麻子(2001/04/22 19:51:23)

きゅーさま。

ネットで古書を買ったこと、一度だけあります(『伝記谷崎潤一郎』でした)。便利で、安くて、安心だったことを憶えています。 『雪豹』は是非、お教えいただいたサイトで購入したく思います。 有り難う御座いました。 私の部屋は、古書が8割、で御座います。

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No.94 ネット古書店にて

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/23 00:37:39)

>國府田さま

教えていただいた『語られた自己』(岩波書店)をネット古書店で手に入れました。\4,200 → \3,110でした(送料込み)。良さそうな本ですね。これについてもまた何か話を展開できればと思います。

>きゅーさま

「郵便局に日参」という感覚は良く分かります。私も窓口の郵便局員と、海外小包を毎日のように配達してくれる係の人とはすっかり顔馴染になって、偶々外で擦れ違っても挨拶されるほどです。それにしても、国内の古書店はカード決済をしてくれないので面倒です(手数料も掛かるし)。

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No.95 顔なじみ

投稿者---きゅー(2001/04/23 01:01:31)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

そうなんですよ。 私はもちろん海外からなんて注文しないのですが、配達に来る佐川急便のおじさんとは顔なじみです。

最近ちょっと注文しすぎでお金がありません。 もちろんここで言う、お金が無いというのはアルバイト代ではちょっときつい、程度のものでして、庵主さまがそうであると思われるようなものとは程遠いですね。 仏文学者の鹿島茂さんなんて冗談抜きで本を買うために自宅を抵当に入れたり、借金をしたりでれっきとした多重債務者だそうで、そのうち破産宣告をするときがやってくるだろう等とうそぶいていて怖いです。

本に関するそうした他人から見たら笑い事のような逸話を集めたラート・ヴェーグ・イシュトヴァーンの『書物の喜劇』という本を読みまして世の中にはすごい人間もいるものだなと感心することしきりです。(そのうちお薦め本としてHPにアップしたいです)

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No.96 『語られた自己』!

投稿者---國府田 麻子(2001/04/23 20:25:56)

庵主さま。

『語られた自己』、早速お求めくださったのですね。有り難う御座います(?)。とっても嬉しいです。ネット古書店で購入すれば、そんなに安くなったのですね。。私なんて、まず、池袋リブロに行って、品切れ→東武の旭屋で品切れ→芳林堂で漸く入手!と池袋を東奔西走した揚げ句、¥4,200ですものネ。

でも、本当に良さそうな本です。ワタクシの担当は「序論」と、「第七章近代性のアレゴリー」の中の谷崎と芥川の《文学論争》について、更に「2.『痴人の愛』と西洋のデカダンス思潮」らしいです。「自由にやっていい」とのことなので、ダヌンチオやポオなんかにも言及してみたいし、勿論プラーツにも登場して貰うつもりです。

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No.98 Re:『語られた自己』!

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/24 00:16:03)

>國府田さま

『語られた自己』の敷衍など、是非そのうちにお願いします。

それにしても、ネット(古)書店のお蔭で本当に便利になりました。比較的新しい本の場合、ネット書店で値段その他を確認してから、すぐに古書籍組合・スーパー源氏・高原書店の三サイトくらいで検索するようにしています。洋古書のBibliofind, ABEはさらに重宝しています。日本の場合はまだそれほどではありませんが、洋書の古書サイトは、稀覯書の部類に入るものまでがかなりの程度ヒットします。

古書蒐集というものに(特に日本の場合)付きまといがちな秘教性や閉鎖性をある程度オープンなものにするという点でも、ネット上での古書サイトが果たす役割は大きそうです。同じ書物でも横並びで価格差が一目で分かってしまいますしね。こうなるとキツいのは、遠隔地貿易のような暴利を貪っていた国内の洋古書店(むろん、すべてがそうだとは言いませんが)でしょう。

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No.99 Re:『語られた自己』!

投稿者---きゅー(2001/04/24 05:13:21)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

>こうなるとキツいのは、遠隔地貿易のような暴利を貪っていた国内の洋古書店(むろん、すべてがそうだとは言いませんが)でしょう。

よほど庵主さまは神保町のあの大仰な店構えの洋書店にご立腹と見える。 個人的にはあのニワトリをカゴで飼っているあの店の方が私は嫌いなのですが。 すごい高圧的で。
さらに言えば理系の古書店(ディスクユニオンのすぐそばの)は店員がものすごい無愛想で頭に来ます。
なぜ神保町の古書店は“売ってやってるんだぞ”という店が多いのでしょうか?

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No.101 神田。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/24 19:54:50)

>神保町のあの大仰な店構えの洋書店

この洋書店は、察するにあの洋書店のことでしょうか。。まず、入りにくいです。そして、私には何も買えません。 神保町の古書店に比べて、早稲田の古書店街はいいですね。何とも庶民的だし、価格も良心的(而も、扉がない店が多いので気がついたときには入っている!)。
私の地元には「○○古書店」と名が付く店はたったの一軒しかないのです。ちょっとした驚きですね。

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No.102 古書店

投稿者---こば(2001/04/24 20:32:59)

昔ながらの乱雑に本が置かれている「古書店」というのが最近無くなってきているような気がわたくしもします。寂しい限りですね。何と言っても探す楽しみがない。 でも最近はブックオフ的な小奇麗な古本屋(リサイクルショップ感覚の)が多くなってきているのではないでしょうか。その手の店は、本の値段が希少価値ではなく売れ行きによって左右されるので、安さの面ではとても助かります。でもやはり早稲田近辺の文学青年が通いそうな情緒がないのは悲しいです

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No.93 DICTIONARY.COM

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/23 00:34:22)

Dictionary com.を覗いてみました。何かの時に役立ちそうですね。

お手並み拝見とばかり、少し実験してみました。獨 → 英のケースです。

Welche Philosophie man waehlt, haengt davon ab, welcher Mensch man ist.
「どのような哲学を選ぶかは、その人がどのような人間であるかによる」(フィヒテ)
Which philosophy one selects, depends on which humans are one.

お見事!後半の副文の(ドイツ語では)単数形のMenschを、英語ではhumansと複数にしている辺りも気を利かせている。でも本当はこの場合は、which human he is.でないと可笑しいのだろうが。因みに、ドイツ語のウムラウトは、eに変換して記入しないと認識されない(eを落としても駄目)。

しかしぼろを出させるのは簡単。

Nichtsehen und Sehen werden in der philosophischen Tradition streng abgegrenzt.
「見ないことと見ることは、哲学の伝統の中では厳密に区別されている」。
Nothing marriages and seeing are strictly defined in the philosophical tradition.
「何ものとも結婚しないことと見ることとは、哲学の伝統の中で正確に定義される」。

なにこれ?やはりドイツ語お得意の動詞の名詞化というやつにはお手上げの模様。最初のNicht-sehenを、苦し紛れにNichts-ehenと読んだらしい。人間なら絶対にこんな変な理解はしない。abgrenzen = define という変換も杓子定規すぎて、意味が違ってしまっています。機械翻訳の限界でしょう。

でも、最初の例文から分かるように、あまり無茶なことをしていない文章なら、ある程度複雑なものでもかなり正確にやってくれるようですね。ご紹介、ありがとうございます。しばらくいろいろ試して遊んでしまいそうです。あとで、リンクに加えさせていただきます。

 


No.89, 星が、隕ちた 鏡谷眞一(2001/04/22 17:40:09)
 No.91, Re:星が、隕ちた 庵主 Prospero(2001/04/22 20:34:02)
 No.92, 嗚呼。 國府田 麻子(2001/04/22 20:35:21)

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No.89 星が、隕ちた

投稿者---鏡谷眞一(2001/04/22 17:40:09)

シノーポリが、死んでしまいましたね。

昨夜の朝日新聞によれば、ベルリン・ドイツオペラで『アイーダ』第三幕めを指揮していた真っ最中に、指揮台から転げ落ちてそのまま天に召されたとの事で。カイルベルトも、たしか同じように指揮しながら死にましたよね。(死因不明とありましたが、くも膜下出血でしょうか)

シノーポリ、さして真剣に聴きこんだ指揮者ではありませんでしたが、あの劇的な指揮っぷりは、ついついひきこまれて無視できないものがございました。『マノン・レスコー』のCD(ドミンゴとフレーニが歌った録音です)は、一時期トチ狂ったようにそればかり聴いていた事もあり、以前『月下の宿帳』でも書きましたシューマンの『楽園とぺリ』も、シノーポリの指揮だからCDを買ったようなものだったのです。ちょっと明晰すぎる指揮だなあ、と思うこともございますが、もう新しい録音が聴けないというと、やはり残念でなりません。まだ54歳だったんですね。 彼のオペラ『ルー・サロメ』はかつて「そのサウンドが美しすぎる」と批判(!)されたそうですが、ぼくはまだ、そのCDを聴いたことがないのです。こういう機会に、是非とも聴いてみるつもりです。 ご冥福をお祈りいたします。

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No.91 Re:星が、隕ちた

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/22 20:34:02)

お久しぶりです。標題を見たとき、一瞬今日は『ペレアス』のお話かと思ってしまいました(「星がすべて堕ちてくる」Toutes les etoiles tombent)が、シノーポリでしたね。私もそれほど熱心な聴き手ではありませんでしたが、彼のマーラーは一頃良く聴いた覚えがあります。『マノン』はそれほど良かったのですか。覚えておきます。

しばらく前に教えていただいたムックの『パルツィファル』、数日前に入手して来ました。まだ全体をゆっくり聴く時間にめぐまれませんが、盛大なノイズがあるにもかかわらず、仰るように、音源そのものはかなりしっかりしていますね。連休の楽しみです。

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No.92 嗚呼。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/22 20:35:21)

鏡谷さま。

シノーポリ・・・。ワタクシの最も好きなマエストロの一人でした。今日の朝日新聞の記事を読んで、我が目を疑いました。まだまだ此からだったのに・・・。 古書蒐集家でもあったシノーポリ。私は彼の情熱的な指揮を好んでおりました。本当に残念でなりません。また、彼は蕪村を愛していた、とか。

私も蕪村が大好き・・・・。 私も鏡谷さまとともに、彼のご冥福をこころよりお祈りしたいです。


No.25, 公会議 こば(2001/04/13 22:10:01)
 
No.29, デンツィンガー 庵主 Prospero(2001/04/13 23:38:18)
  
No.33, 抑圧の記録 こば(2001/04/14 11:28:23)
   
No.38, 反グノーシス 庵主 Prospero(2001/04/15 11:44:18)
   
No.39, 抑圧と対話 庵主 Prospero(2001/04/15 14:31:51)
    
No.41, 対話の「他者」 こば(2001/04/15 19:26:46)
     
No.49, 他者と対話編 庵主 Prospero(2001/04/16 20:49:41)
      
No.64, 古代の対話 こば(2001/04/18 20:40:03)
       
No.67, 対話の作法 庵主 Prospero(2001/04/19 21:48:42)

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No.25 公会議

投稿者---こば(2001/04/13 22:10:01)

庵主様。こんばんは。ご無沙汰しております。 神学部の授業で「キリスト論」、「三位一体論」、「キリスト教史」などを取っておりますと、必ず資料として挙げられるのがデンツィンガー・シューメッツァー編『カトリック公会議文書資料集』なのですが、やはり庵主様もお使いになる機会がおありですか?どうもあれだけ読んでいても埒があかないように思うのですが。

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No.29 デンツィンガー

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/13 23:38:18)

調べもののときにはデンツィンガーがどうしても必要になってきます。古代末期の公会議関連もそうですし、エックハルト辺りのベギンの主張などを見るにも便利だったりします。教会の公文書というのは、言ってみれば、異端を押え込む抑圧の記録である訳で、異端史などにとっても(バイアスは掛かっているにしても)有益な資料ですよね。ただ仰しゃるように、あれだけを通読するのは辛い(第一文脈が理解できない)ので、公会議史などはイェディン『公会議史』(南窓社)辺りをざっと見るという格好になります。デンツィンガーより簡単な資料集としては、ベッティンソン『キリスト教文書資料集』(聖書図書刊行会)などというのがありますね。

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No.33 抑圧の記録

投稿者---こば(2001/04/14 11:28:23)

抑圧の記録、といえば、グノーシス派に対して聖典の基準を示して、何が「正統」なのか明らかにしようとしたのが、エイレナイオスでしょう。グノーシス思想は、20世紀半ばにナグ・ハマディ文書が発見されるまで、エイレナイオスの『異端反駁論』を通してその存在が知られていました。(ちょうどデンツィンガーに異端抑圧の記録を見出すように。) そこで、書評の文脈でお尋ねしたいのですが、弁神論あるいは悪の存在論に関して、グノーシス派に対する正統派の対応はどのようなものだったのですか?完全無欠である神が如何にして不完全な人間と関わるのか、神が何故受肉したのか、というキリスト論の問題も絡んでくると思うのですが。(だからこそ、デンツィンガーが必要になってくるのでしょうね。)

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No.38 反グノーシス

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/15 11:44:18)

エイレナイオスですか。さすが神学学徒氏、よくご存知ですね。

仰るように、エイレナイオスやヒッポリュトス『全異教論駁』などがグノーシスに関する主用源泉だったわけですよね。 正統側からの反応ということでは、グノーシス・マニ教に代表される二元論を論駁しようとしたアウグスティヌスが典型例ということになるのでしょうか。大雑把に言うと、「悪」という問題に関しては、存在論的には「欠如」、意志論的には「逸脱」という否定的な仕方で理解して、問題自身の切迫性を解消しようとした試みだろうと思います。もちろんこれは根本的な解決とは言えないわけで、問題としては燠火のように燻り続けることになります。

ご指摘のように、キリスト論も当然無関係でいられません。グノーシスの二元論の側からすると、救い主としてのキリストと、現実に存在するイエスとははっきりと区別されることになります。現実の肉を纏ったイエスは、キリストの仮の現れにすぎないという、いわゆる「仮現論」(docetism)ですよね。言ってみれば、現実のイエスが直ちに神なのだとするアレイオス主義の逆とでも言いますか。いずれにしてもこれらはキリスト教初期の四大公会議を通じて打破されていった説である訳です。 そこでキリスト教が取ったのが、例の「同一本質」という精妙きわまりない説で、これによってキリスト教は、現実と超越とのあいだのバランスを絶妙な仕方で保つことになります。キリストは「神」でありながら「人間」であり、キリストの人性と神性は同一の本質であるという謎めいたニカイア信条の定式が成立することになり、この教義のおかげで、キリスト教は、現実に根差した神話的感覚を掬い上げながら、それを強固な一神論的超越に昇華させる通路を獲得したことになります。聖人崇敬・マリア崇敬といった雑多なものを含みながらなおかつ厳然たる一神論を保持できる秘密がこの辺にあるのでしょうね。 尤もこの辺のことは私自身よくわかっているわけではないので、いろいろ教えていただきたいところです。

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No.39 抑圧と対話

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/15 14:31:51)

キリスト教側の「抑圧」ということに関して、少し思いついたので追加です。 キリスト教の正統性の確立は他の宗教の排除という形を取るにせよ、そこには自分自身が「普遍的」(catholic)になるためには、他の立場との対話が欠かせないという感覚が働いていたと思います。それが典型的に現れているのが対話編という形式でしょう。最も古いところではユスティノスの『ユダヤ人トリフォンとの対話』辺りでしょうが、アウグスティヌスの対話編にしても同じですし、中世末期になってクザーヌスの『信仰の平和について』もやはり異なった宗教同士の対話編です。アベラールの『哲学者とユダヤ教徒とキリスト教徒の対話』もそうですし、トマスの『対異教徒大全』なども、それ自体は対話編ではないにしても、やはり対話的「意識」が働いていることには変わりないと思います。

普遍化のために対話を必要とするという意識は、近代に入ると急速に衰えるのではないでしょうか。演劇などでは、ちょうど『信仰の平和について』で問題になるような宗教的寛容が、レッシングの『賢人ナータン』で主題になるのでしょうが、哲学・思想本体の本流のほうでは、デカルト以来、「体系」が「対話」に取って代わることになると思います。これは近代における修辞学の衰退と見事に重なる消息である訳です。ブルーノなどもルネサンス的なサタイアの味の強い対話を多く著しているので、やはり人文主義的伝統の息づくところには辛うじて対話的な伝統が残りますが、それとても1600年までのことですからね。デカルトの最後の著作『自然の光による真理の探究』が対話編で、しかも未完だというのは何やら意味深長ですが。 もちろん例外はある訳で、19世紀になってもシェリングは対話編を書いています。そのものずばり『ブルーノ』!このシェリングは、グノーシスの問題にとっても気になるところです。『人間的自由の本質』で展開された「神の中の神ならざるもの」とは、まさしくグノーシス的な二重化された神、存在する神と存在しない神という問題系を色濃くにじませているものだからです。「体系」という問題を論じながら、このシェリングを大々的に取り上げたハイデガー(講義『人間的自由の本質について』創文社)は、やはり流石と言うべきかもしれません。

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No.41 対話の「他者」

投稿者---こば(2001/04/15 19:26:46)

度々投稿させていただきます。 ユスティヌスがユダヤ人との対話を主題としたのは、一つには、当時のキリスト教(2世紀)はまだローマ帝国に認められておらず、またユダヤ教から離脱したばかりのキリスト教は、外部から見ればユダヤ教の一分派に過ぎなかった、という事情があります。ユダヤ教とどのように違うか、そのアイデンティティを示すために『ユダヤ人トリフォンとの対話』が書かれた、と言ってよいでしょう。その意味では、体制の目も意識していたのであって、護教論の目的で書かれた帝国宛の二つの手紙も念頭に置く必要がありそうです。 アウグスティヌスの対話はマニ教やペラギウス派が念頭に置かれていたのですか? レッシング『賢者ナータン』は、ジョージ・L・モッセ『ユダヤ人の<ドイツ>』(講談社メチエ)によると、啓蒙主義の伝統に基づいて宗教に囚われない知識人の在り方を示す記念碑的作品であった、といったことが書いてあります。 こうして考えてみますと、必ずしも異端抑圧や他宗教の排除が対話の目指しているものではなかったにしろ、いずれにせよ中世まで「他」との対話が試みられていたように思います。近代デカルト以降、「大系」が「対話」に取って代わった、と庵主様が仰るとき、近代表象における他者と主体の消失が念頭に置かれている、と考えてよいのでしょうか? すると、中世までの対話で意識される「他者」とは何者なのでしょうか?やはり中世において克服されずにいたグノーシスやマニ教における「悪」、あるいは「存在せざる神」を意味してるのでしょうか?

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No.49 他者と対話編

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/16 20:49:41)

ご指摘の通り、他者の消滅と、修辞学の衰退というのを重ねて見ようという狙いがあったのは確かです。ただその両者をいきなり繋げるのは流石に躊躇われたので、ワンクッション置いて、修辞学的対話というジャンルの問題を挟んでみた訳です。 古代・中世の対話における他者という場合は、こば氏がご指摘のとおり、例えばユスティノスなどのキリスト教初期や盛期スコラ合などは、個々の場合によって事情がさまざまでしょうから、なかなか一遍に総括するのは難しいのでしょうね。受肉を中心とするキリスト教の教義の弁明(初期キリスト教)から、イスラームのアリストテレス理解の受容(盛期スコラ)など、対話の相手はさまざまなのでしょう。ただやはり、超越と内在の微妙なバランスの上に乗っているキリスト教にとっては、グノーシスが提出した悪や物質の問題は、通奏低音のように終始付きまとっているような気がします。

しばらく前に出た坂口昂吉『中世の人間観と歴史 ―― フランシスコ・ヨアキム・ボナヴェントゥラ』(創文社)などは、アッシジのフランチェスコの内に、人間イエスへの愛、肉体や物質そのものの積極的評価を看て取り、ひいてはそこに、近代的人間観の萌芽を見るといった議論を展開しています。これも言ってみればグノーシスの克服の一つのあり方なのでしょう。 それから指摘されて気づきましたが、確かにアウグスティヌスの場合の対話編は、特定の論敵を反駁する論駁書というよりは、自己内対話という性格が強いかもしれませんね。その意味では修辞学的対話とはいっても、多少性格が違うとも言えるでしょう。ただ、アウグスティヌスの場合、対話編が書かれたのは例のキリスト教への回心の前後に集中していたはずです。対話というものがもっているダイナミズムが、そんなところからも窺えるのかもしれません。逆に最後の対話編『自由意志論』になると、対話という形式を取ってはいても、モノローグの性格を大分強めていたように記憶します。これもなかなか面白い経緯だと思うのですが。

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No.64 古代の対話

投稿者---こば(2001/04/18 20:40:03)

対話といえば、対話の源泉はやはりプラトンだと思うのですが、庵主様が書評『思想史の中の他者』で触れられているプラトンの思想は、グノーシスの二元論の源としてのプラトンであって、どちらかと言うと、プラトンの主張というよりはプラトンの与えた影響についての言及ではなかったかと思います。 後に庵主様がどこかで仰っていたように、精神と肉体の二元論は飽くまでプラトンの思想の一面なのであって、物質、肉体の否定へと至ったグノーシスに対して、同じプラトンの影響にありながら人間の誕生を訴える人文主義、古典主義が現れたことは歴史の妙であります(と、庵主様は仰ってましたね)。 それでは、グノーシスへの影響はひとまず措いて、プラトン自身の主張においては「対話の他者」はどのように考えるべきなのでしょうか?飽くまでイデアと精神世界を賛美して、他者としての肉体、物質を否定した、と考えるのは、グノーシスやニーチェのプラトン観なのではないでしょうか。というのは、確かにイデアがなければそれを基に具体的な個々の事物を捉えることは出来ないのですが、同時に、個々の事物がなければイデアを想定することは出来ないのであって、つまり個々の事物はイデアを認識する固有の場であることが、「関与」(メテクシス)思想によって主張せられているからです。 プラトンにあっては物質、肉体=悪、他者という図式が必ずしも成り立たない、と考えられるのです。では、プラトンは対話編において他者をどのように捉えていると考えればよろしいのでしょうか?ご教示願います。

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No.67 対話の作法

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/19 21:48:42)

「プラトンにあっては物質、肉体=悪、他者という図式が必ずしも成り立たない」と仰るのはその通りだと思います。ご指摘のように、グノーシス的な理解は、やはりプラトンの一面の極大化ということになるでしょうね。ただ、プラトンの中でも、「物質=質料」(hyle)の問題は残りつづけるわけで、言ってみれば近代になってカントにとっての「物自体」がそうであったように、未解決であるがゆえに理論の発展を促しつづける契機になると思います。プラトン=アリストテレス的思想の中では、「質料」は個体化の原理というかたちで理解されるでしょうが、これもまた難問です。この「個体」、「個物」という問題に関しても、キリスト教の「位格」(persona)の理解は実に精妙な解答を与えているものでしょう。この「位格」は、三位一体論の用語であると同時に、まさに「個」としての「人格」(person)であるわけですから。そしてこれが、例の四大公会議の中心課題でもあったわけです。

さて、「対話」ですが、やはりこの主題は、煮詰めようと思うと、段々と良く分からなくなってきますね。プラトン的な対話は、ことさらに特定の説を擁護したり、他の説を論駁したりするものではないわけで、その点は、特定の他者との対話を念頭に置いた対話とは様子が違っています。もしかすると、こうした性格を元に、対話編のジャンルの中にある区別を導入することができるかもしれません。プラトン的な、論駁を目指したのではない、いわば対話のための対話(「演劇的対話」とでも呼びましょうか)と、特定の説の確立や論破を目指した対話(「論争的対話」といったところですか)を分けることができるかもしれません。後者の例は、近代になってもいくらも例があるわけで、ガリレイやライプニッツ、バークリーなどを考えればいいでしょう。この場合は、対話の個々の登場人物がどういう主義・主張の担い手であるかがあらかじめ明確に決まっているわけです。 しかし、対話の本来のありようは、対話の進行の中で対話者自身の視点が変わり、議論とともに互いの意見の相互浸透が起こるところにあるとするなら、こうした論争的対話は、きわめて人工的で、対話らしくない対話ということになるかもしれません。

ではプラトン的な演劇風の対話はどこに繋がるかというと、ルキアノスの一連の風刺的対話、降ってルネサンスではエラスムスの対話という辺りになるのではないかと考えます。近代ではシャフツベリ、ディドロといったところでしょう。これを非常に広い意味で、人文主義の系譜と言うことはできないでしょうか(バフチン的ポリフォニーと言ってもいいでしょうが)

それにしても厄介なのは、「哲学は自己との対話である」といった自己内対話を持ち出されてしまうと、この話はあっさりと終わってしまいかねないという点です。つまりヘーゲルの「弁証法](Dialektik)は真の「対話」(dia-logue)であるという勝利宣言に収斂する、きわめて詰まらない結論に終わりかねません。やはり「形式」や「ジャンル」という切り口で哲学を論じきることは、なかなか微妙な問題を抱え込んでいるようです。 因みに私自身は、対話を視点の複数性というかたちで整理する限り、ロマン派のシュレーゲルの批評や、キルケゴールの複数の筆名、さらにニーチェのアフォリズムも、「対話」(しかも上の整理では「演劇的対話」)と呼ばれる資格をもっていると(いまのところ)考えています。


No.1, Like the baseless fabric of this vision 庵主 Prospero 再び敬白(2001/04/09 19:44:46)
 No.3, コメントテスト。 國府田 麻子(2001/04/09 21:03:56)
  
No.4, Re:リフォーム 庵主 Prospero(2001/04/09 22:21:59)
   
No.12, 有り難う御座いました。 國府田 麻子(2001/04/11 00:58:53)
    
No.15, シューマンその他 庵主Prospero(2001/04/11 19:19:45)
     
No.17, 『ダヴィッド同盟舞曲』? 國府田 麻子(2001/04/12 17:28:15)
      
No.19, あまりにも浪漫派的 庵主 Prospero(2001/04/12 20:40:19)
       
No.42, いろいろ。 國府田 麻子(2001/04/15 22:29:28)
 
No.14, お引っ越しお祝い ケダ(2001/04/11 13:27:45)
  
No.16, ご無沙汰しています 庵主 Prospero(2001/04/11 19:26:44)

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No.1 Like the baseless fabric of this vision

投稿者---庵主 Prospero 再び敬白(2001/04/09 19:44:46)

..., all which it inherit, shall dissolve (Tempest IV) 「礎をもたない幻の世界と同様に、....そこに住むものことごとく消え失せぬ」

という次第で、これまでの掲示板を消滅させて、新しい掲示板と新装のHPでまたよろしくお願いいたします。改装のあらましについてはまた後ほどご案内させていただきます。とりあえずはご挨拶。

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No.3 コメントテスト。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/09 21:03:56)

>新しい掲示板 いまいち、ツリーの仕組みが解らなくて、、、。コメントのテストです。先程、いつも通りに投稿してしまったのですが、あれでは「ツリー」の意味がないですね。。。

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No.4 Re:リフォーム

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/09 22:21:59)

本体のリフォームも終えました。トップのページを二重化したような格好になりましたが、どういう書目をどういう文脈で並べようとしているのかが、少しでも見やすくなっていれば幸いです。書き加えた部分はほとんどありませんが、内部を少しぶらぶらしていただければリフォームの甲斐があります。 この掲示板は、おそらく以前のものより、一回あたりに書き込める分量も多くなっていると思います。多少広告が目立ちますが、目をつぶってください。 「他者」云々への応答はまた追ってのちほど。

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No.12 有り難う御座いました。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/11 00:58:53)

庵主さま。 早速のレス、有り難う御座います。いただいた御返事を消化するのに、また少し時間が掛かりそうです。。。 >少しぶらぶら あちこち(といいますか、全部)拝見させていただきました。とてもお洒落な感じになりましたね。御書評の分類なども全体的に変えられたのですね。以前にも増して魅力的なページを創ってくださった庵主さまに感謝です!! 「ツリー」の仕組みも少し分かってきました。今後ともお邪魔させていただきます。 今日は、現代演劇の講義の時、担当教授にレッシング像の写真を見せてもらい、何故か感動してしまいました(像の前にはシッカリ教授が写っていましたが)。 夫れと、また衝動買いです。B・O目白店で、普段は絶対買わない中古のCDを購入してしまいました。シューマンの第1番「春」と第3番「ライン」が入っているもので、クーベリックの棒です。音質はまあまあでした。庵主さま、シューマンは如何ですか?? 「國語學」については、また後日。。。

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No.15 シューマンその他

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/11 19:19:45)

國府田さま

改装した中身を逐一ご覧いただけたとのこと、ありがとうございます。素材を使ったり、HTMLを弄るのは、私にはこの程度が限界です。多少なりとも見通しが良くなっていれば幸いです。改装前は、書物の選別基準などもよく分からなかったと思いますので、それを少しは改善しようとしたわけですけど。あとは、書目のリストなど、基礎的なデータも追加するようにします。 シューマンですか。最近あまり聴かなくなってしまいましたが、交響曲四番やヴァイオリン協奏曲など、曲としてのバランスが少々崩れかけたようなものは好きで良く聴いていた時期があります。チェロ協奏曲はいまもデュプレのものをときどき引っ張り出して聴いたりします。室内楽はヴィア・ノヴァ・カルテットのもの(Erato)はかなり強く記憶に残っています。比較的最近買ったシューマンには『ダヴィッド同盟舞曲』があります(Hiroko Maruko: Dabringhaus und Grimm)。これはテオドール・キルヒナー(1823-1903)の『新ダヴィッド同盟舞曲』と抱き合わせだったという理由からです。ああいうダヴィッド同盟的な多重人格気質はいかにもロマン主義らしくて好みです。シューマンは吉田秀和が訳した評論(『音楽と音楽家』岩波文庫)もいいですね。ああいう批評精神と多重人格志向は、しっかりとキルケゴール辺りと平行しているわけですが(二人は年代的にもほぼ完全に同年代ですよね)。

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No.17 『ダヴィッド同盟舞曲』?

投稿者---國府田 麻子(2001/04/12 17:28:15)

庵主さま。 「如何ですか?」とお聞きしておきながら、ワタクシ、『ダヴィッド同盟舞曲』はおろか、キルヒナー(辞典を引いても出てきませんでした。。)すら知らない次第です。まず、『ダヴィッド同盟舞曲』(否、「ダヴィット同盟」)とは何なのでしょうか??全く分かりません!お教え願えませんでしょうか。 チェロ協奏曲は私も大好きで、何度かコンサートに行ったこともありますが。。。 『音楽と音楽家』もよんだことが御座いません。 嗚呼、とことん無知でお恥ずかしい限りです。庵主さまはあまりにも沢山のことを御存知でいらっしゃるので、私のようなものが庵主さまに、こうして御返事をいただけることが、時々とても不安になります。 --------------------------------------------------------------------------------

No.19 あまりにも浪漫派的

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/12 20:40:19)

どうも、必要な説明を省きがちで済みません。 シューマンは作曲家であると同時に、批評家でもあったわけですが、「ダヴィド同盟」というのは、その批評の中にシューマンが登場させた架空の同盟(といっても実質は三人ですけど)のようです。『音楽と音楽家』の評論文は、この同盟員フロレスタン、オイゼビウス、ラオーの三人の登場する小説風だったり、対話風だったりと実に人を喰っているんですよね。ピアノ曲の『ダヴィド同盟舞曲』はこの同盟各人の個性を描き出すという狙いらしく、18曲の小品一つ一つにフロレスタンだとかオイゼビウス、あるいはその両方などの指示が付いていたりします。シューマンが自分の中の複雑な性格を別々の人物に託して表現しているようなところがあって面白いと思っています。キルケゴール云々と言ったのも、彼も複数の筆名(一つの作品にもいくつか別の名前さえ)を使っているので、ちょっと連想してしまいました。しかも生歿年が実に近い。シューマン(1810-56)、キルケゴール(1813-55)ですから!

キルヒナーのことは、私もシューマンの心酔者ということくらいしか存じません。『子供の情景』や『ファンタジー・ステュック』など、標題までシューマンと同じものをいくつも書いているようです。「ダヴィド同盟」関係も、『新ダヴィド同盟舞曲』以外にも、『フロレスタンとオイゼビウス』という別の曲もしつこく書いているとか。自分を分裂させるのではなく、他の者になりきってしまうというのも、これはこれで浪漫主義的なのかもしれませんけど。

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No.42 いろいろ。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/15 22:29:28)

庵主さま。 シューマンと、『ダヴィド同盟舞曲』のご教示、有り難う御座いました。『音楽と音楽家』は、先日池袋リブロに買いに行ったにも関わらず、何故か俳句に関する本を買ってしまいました。。次の機会に是非探して購入致します。 キルケゴールについては、ワタクシ、全く何も知りません。いろいろとお教え下さいませ。 キルヒナーはそういう人物なのですね。確かに「シューマンになりきってしまう」という部分は、浪漫的《過ぎる》のかも知れません。 ところで、先日は庵主さまも「あの場所」にいらっしゃったのですね!沢山収穫がおありのようで、羨ましいです。私は、急いでいた、ということもあって誰の棒だかも確認せずにブルックナーの9番を拾っただけでした。『フィデリオ』が安く出ていたので、欲しかったのですが、我慢我慢。そういえば、『ベルク全集』もかなりお買い得な値がついていたような・・・。 最近、忙しくてなかなか本が読めません。。。此では何のために院に入ったのか分かりません。漸く『パイドロス』(きゅーさまお薦めの『禅とオートバイ〜』にも関わってくるので)をチョットずつ読んでいるくらいです。

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No.14 お引っ越しお祝い

投稿者---ケダ(2001/04/11 13:27:45)
http://homepage2.nifty.com/kedaland/

ご無沙汰しております……といっても、わたしはROMでずっと拝見していたのですが。(^^;ゞ 本のお写真、見る度に、かぐや姫がぴかぴか出てきそうな気がします。 これからも1ブロックほど離れて遠目にみなさまのお話を覗いてまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)mへこへこ

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No.16 ご無沙汰しています

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/11 19:26:44)

ケダちゃん こちらではお久しぶりです。ご覧いただいていたとは。写真の本、流石に巨大です。撮影者のβεκκさんも「これは本ではなく鞄だ」と言っていましたが、ちょっとそんな感じです。でもとても携帯などできませんけど。 また是非お気軽にご乱入あそばせ。


No.34, フランス系日本人作家 こば(2001/04/14 11:42:10)

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No.34 フランス系日本人作家

投稿者---こば(2001/04/14 11:42:10)

最近、加賀乙彦の『ある死刑囚との対話』を読んだのですが、この著者の正体が、あのメルロポンティの『知覚の現象学』(みすず)の訳者の一人小内義貞だと知って驚きました。この人は、精神医学、文学、哲学と幅広く学んでいて全然「専門」に拘らない人のようですね。よくは知らないのですが、加賀に加えて、大江健三郎、辻邦生、遠藤周作といったフランスに関わった知的な作家の6,70年代の作品は面白そうな気がするのですが、いかがでしょう?


No.24, 頭文字Sの封蝋 鏡谷眞一(2001/04/13 20:48:59)
 
No.27, 音楽。 國府田 麻子(2001/04/13 22:42:25)
  
No.32, バイロイト詣で 庵主 Prospero(2001/04/14 00:39:00)

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No.24 頭文字Sの封蝋

投稿者---鏡谷眞一(2001/04/13 20:48:59)

前略
 戦闘機を操る事で、危険と契約をむすぶ快楽を愛するダンディズムに心酔するつもりでしたが、エンジントラブルであぶなく機体ごと海に墜落するところでした。ヴァルキューレ達の槍と兜が脳裏をよぎりましたが、悪魔の紋章のような瑕を脇腹にうけただけですみました(すんでない?)。現在ぼくは予備役にひっこんで、クラシック音楽の録音技師の一隊にくっついて、あちこちを旅してまわっているのです。
 1927年のことです。拝留寺(バイロイト)で、カール・ムック指揮の、雄渾な大伽藍さながらの『パルジファル』の録音を、かなりよい状態で録音することができました。クナッパーツブッシュなどよりもっと厳しい美の体現といったムックの祝典劇、第二幕の「おいで、おいで、やさしいぼうや」などは、リラダンの『アクセル』のなかで魔性の女サラがアクセル・フォン・ドエルスベールを誘惑するくだりをついこの曲とともに読んでしまう陶酔感は、クナッパーツブッシュ録音ほどには感じることはできませんでしたが、典雅な様式美の勝利といってもよいのでしょう。写真でその容貌を見た、ムックだけに限りませんがハンス・リヒター然りヘルマン・レヴィしかり、かつての指揮者はまるで将軍のような風格の持ち主が多いです(ナプラーヴニクは例外? あの扇みたいな髪形が・・・)。「将軍になるのは指揮者になるように難しい」「指揮者になるのは将軍になるより難しい」というような言われかたがきっとあったと思います。
 1940年、伯英諾愛爾ス(ぶえのすあいれす)ではテアトル・コロンを指揮した、エーリッヒ・クライバーの『ヴァルキューレ』を聴きました。以前の書き込みで、カルロスの音楽体験の胎動はコロン時代の父の指揮にあるのではと推測しましたが、ほぼ当っています。わずかに奪胎の手ほどきを加えれば、カルロスの『ヴァルキューレ』(!)になってしまいそうな、美貌のクリオーリョ騎兵の抜刀が目にうかぶようです。ただ録音は非常に悪いです。あちこち音がちょんぎれてしまいました。ブリュンヒルデを歌っていたMarjorie Lawrence、ジークムントのRene Maisonといった歌い手たちについては、ぼくは何も知りません。歌はともかく、その大時代的な写真の舞台姿にうちのめされました。

 庵主さま、リニューアルされた本掲示板、なかなかおもしろいですね。これからも、気のむくままですが、書き込みさせていただきます。いささか古い話ですが、コルンゴルドはぼくも好きです。ヴァイオリン協奏曲(ハイフェッツ)や歌劇『死の都』(ラインスドルフ指揮のLDで観ました)くらいしか聴きませんが。最近入手しましたリヒャルト・タウバーのCDに、『死の都』のアリアが二曲はいっておりました。『ヘレアーネの奇跡』は、壮大だが柔弱な印象をぼくは感じます。どんなものでしょうか。同時代の作曲家といいますと、ぼくはむしろ『響きの魔術師』フランツ・シュレーカーの方がすきなのです。

 國府田さま、コンサートはぼくも是非聴かせていただきます。ブラームスの第二番、いちばん好きなんです。
                       紐育に向かう船上にて

 ムックの『パルジファル』:ナクソス・ヒストリカル(8.110049-50)
 エーリッヒ・クライバーの『ヴァルキューレ』:
  Gebhardt Musikvertrieb JGCD 0028-3 (www.gebhart.de)

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No.27 音楽。

投稿者---國府田 麻子(2001/04/13 22:42:25)

鏡谷さま。 音楽のお話し、いつもながら引き込まれてしまいました。。素晴らしい知識をお持ちですね(月並みですが)。 ワタクシの演奏会、いらして下さるとのこと、光栄の至りで御座います(お戯れを仰有ると、本気にしますよ)。 鏡谷さまほどのお方がお聴きになるような(こばさま、きゅーさま、御免遊ばせ)代物ではありませんよ。単なるお耳汚しになってしまうやも。。。 ブラームスの2番は私も大好きです。2楽章のアタマのチェロがいいです。

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No.32 バイロイト詣で

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/14 00:39:00)

 私も演出のためにバイロイトに出向いていたので、録音技師としてお出かけだった鏡谷さまに出会わなかったのを怪訝に思いましたが、よくよく伺えばどうやら時代が違っていたようです。私が出かけていたのは1951年、ナチズムの影を振り払うべく、ヴィーラントの指導の下に、こけら落としのフルトヴェングラーのベートーヴェン第9の歴史的名演奏も賑々しく幕を開けた新生バイロイト、その最初の数年でありました。鏡谷さまは、ご愛用の「紫の太陽」号の飛翔華々しく、翩翻と翼を翻し、戦前のバイロイトにまで脚をお延ばしになっていたのですね。

 偉大な心酔者にして非力の王からの惜しみない援助を受けるにせよ、または第三帝国の国家イデオロギーの具として翻弄されるにせよ、いずれにしても莫大な資金を後ろ盾にしていた聖地バイロイトは、戦後はヴァーグナー家の全資産を担保にするのを条件に連邦政府から資金を借り受けるという息も絶え絶えの再出発を余儀なくされたわけですが、肝心の舞台の方でもやはり最初の数年の『指環』の演出には苦労させられました。愛すべきクナッパーツブッシュの名演に支えられ、舞台を具象物から解き放った『パルツィファル』の演出は、アーネスト・ニューマンも『サンデー・タイムズ』で絶賛してくれましたが、『指環』のほうはそういうわけには参りません。象徴的にしようとしてもどうしても中途半端になってしまうのです。指揮者も若きカラヤンなどは忘れられませんが、彼は新生バイロイトとはかならずしも足並みが揃わなかったようです。歌手にも苦労させられました。最初の二年は、マックス・ローレンツといった第三帝国の余燼を燻らせる歌手に頼らざるをえなかったほどですが、結果の方はやはり芳しくありませんでした。しかし巡り合せとは恐ろしいもので、52年のカイルベルト指揮の時には『ラインの黄金』でフローという「ちょい役」を当てたヴィントガッセンが実に素晴らしい。前後してニルソンとともに、戦後バイロイトを支える組み合わせが誕生した訳です。

 このカイルベルトのときの『ラインの黄金』は、翌年のクレメンス・クラウスのときと配役はかなり重なっていますが、ヴォータンがヘルマン・ウーデです。声質は重くはないが暗いので、『ラインの黄金』の幕切れ近くになっても一向に爽快感が生まれません。翌年のハンス・ホッターとは好対照のヴォータンとなりました。ウーデの声質は『オランダ人』の方が合うのです。55年の彼のオランダ人は素晴らしかった。ローゲは52年も、翌年のクラウスのときと同じエーリヒ・ヴィッテ。声そのものは52年のほうが朗々と出ていたようですが、全体的な声の演技や節回しは、クラウスのときのもののほうが上でしょう。洒脱で神々を揶揄うような軽妙さがより魅力を増していました。それにしてもナイトリンガーのアルベリヒは好不調の波があまりなく、どの演奏でも毒々しく、愛への呪詛に満ちています。

 60年にはルドルフ・ケンペ指揮の下で、『ヴァルキューレ』のジークムントがヴィントガッセン、ジークリンデがニルソンという恐ろしい組み合わせが実現しますが、このときのヴォータンが再びヘルマン・ウーデでした。このときにはアストリッド・ヴァルナイがブリュンヒルデでしたから、これでヴォータンがホッターだったらと悔やまれてなりません。  いずれにしても、もう50年近くも昔のこと、私も随分と年をとりました。細かい点など記憶違いがありましたらご容赦下さい。

>鏡谷さま

 というわけでご返歌です。実は今日、きゅー殿からのお知らせのお蔭で、仕事の帰りに御茶ノ水diskunionの中古CDセールに寄り、カイルベルト盤『ラインの黄金』を1600円で入手してきました。他にもアストリッド・ヴァルナイがオルトルートをやっている54年の『ローエングリン』、ついでに51年のフルトヴェングラー第九のデジタル・リマスター盤も。さらにはがらりと変わって、偏愛するイギリス作曲家ブリスの『朝の英雄たち』も。

 ナクソス・ヒストリカルは、なかなか心引かれるラインナップを揃え始めましたね。私はまだその『パルツィファル』を聴いていませんが、俄然興味が湧いてきました。コルンゴルトは私も仰しゃられる程度のことしか存じません。最近の『室内楽・歌曲集』でやや欠を埋めた程度にすぎません。この歌曲集はアンネ・ゾフィー・オッターが歌っているのですが、これがまた上手い。曲が良いのか、演奏が素晴らしすぎるのか判断がつきかねるほどです。そうそう、これは丁度お知らせしようと思っていたのですが、アンゲルブレシュトの『ペレアス』が中古で出ていました。『セバスチャン』と同時発売されたものです。というわけなので、『セバスチャン』も小まめに捜すと見つかるかもしれません。 それではまたいつでもお越しをお待ちしています。


No.22, リンクしました ケダ(2001/04/12 22:50:51)
 No.28, Re:リンクしました 庵主 Prospero(2001/04/13 23:36:40)

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No.22 リンクしました

投稿者---ケダ(2001/04/12 22:50:51)
http://homepage2.nifty.com/kedaland/

えーと、うちみたいなバカ丸出しイロモノサイトからのリンクで申し訳ないんですが、リンク集内の学んだり探したりというところから、庵主さまのサイトにリンクを張らせていただきました。「やめてくれー」という場合は、遠慮なくお知らせくださいませ。すぐはずします。紹介の文句を変えろ、などなど、ご意見がございましたら、お聞かせくださいませ。 ではでは。

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No.28 Re:リンクしました

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/13 23:36:40)

「やめてくれー」など、とんでもない。 ありがとうございます。一ブロック離れてなどと仰らずに、どしどし入り込んできてくださいませ。


No.7, あ? あれ〜!!! きゅー(憂鬱)(2001/04/10 12:22:54)
 
No.10, 奇しくも庵主  Prospero(2001/04/10 20:42:43)
 
 No.23, その後 きゅー(憂鬱)(2001/04/13 12:39:15)

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No. 7 あ? あれ〜!!!

投稿者---きゅー(憂鬱)(2001/04/10 12:22:54)

壊れちゃいました。私じゃないです、私はまだまだ健全です、相対的に見るとですけど。パソコンが。電源すら入りません。それでこのように別の場所から打ってます。メールアドレスはしばらくはホットメールのほうに送ってください。この投稿のメールアドレスがそうです。 國府田さまぜひ日程を聞かせてください。 しばらくは長い投稿はできないと思います。やはり漢字変換が自分の家のじゃないととても大変です。

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No.10 奇しくも

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/10 20:42:43)

私のほうも、普段原稿を書いたり翻訳をするのに使っているMacの画面がまったく判読不能なほど乱れて、修理に出すほかなさそう。フロッピー・ドライヴの修理から戻ってきたばかりだというのに。webを作るのに使っているのはWindows-mashineなので、HPには影響ありませんが。 『宿命の交わる城』に『見えない都市』ですか。今回の改装で作った見出しだと、この二冊はともに、「逸脱の修辞学」のなかの「解釈の迷宮」に収まってくれるような象徴的書目です。この線だと、『文学講義』(朝日新聞社)もお気に入りでしょうね。

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No.23 その後

投稿者---きゅー(憂鬱)(2001/04/13 12:39:15)

どうやら私のパソコンは一週間ぐらいで復帰するようだ。 ハードディスクの中身も安全らしくほっとしています。 ただ土日にネットにつなげられないのがつらい。 私も散々なネット中毒になりつつある。 まあいいか、このごろあんまり本を読んでなかったので、この機会に久しぶりに一週間ぐらいは一日7時間くらい本を読むか。 でもこんなことじゃいつまでたっても非社会人…


No.11, 祝リニューアル Balthazar(2001/04/10 22:09:12)
 No.13, Re:祝リニューアル 庵主 Prospero(2001/04/11 01:29:25)
  No.18, 分類 Balthazar(2001/04/12 17:57:52)
  
 No.21, 分類と解体 庵主 Prospero(2001/04/12 22:11:21)

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No.11 祝リニューアル

投稿者---Balthazar(2001/04/10 22:09:12)
http://www2.plala.or.jp/Rosarium/

ご無沙汰しています。
仕事の合い間に覗かせていただきましたら、リニューアル完成と共にBBSも新しいものに…
本館の方、Libraryがとてもすっきりして、今までに増して魅力がアップしていますね。とても庵主さんらしい構成だと思います。

P.S.かくいう私のページも、改装が一段落しました。
今回はグロッタ風であることを念頭に置きましたので、壁紙も新たに作りなおしました。よろしかったら御覧下さいませ。<皆様

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No.13 Re:祝リニューアル

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/11 01:29:25)

 ご覧いただきありがとうございます。前のものは、書き込む量が多くなるに連れて、手狭になってしまったので、改装を余儀なくされたといった次第です。Libraryの設えは、仮にStudia humanitatisという出版社があった場合、そこでの理想の叢書となるはずのものをとりあえず列挙して、既存の分野とは異なったジャンルをある程度描き出そうという狙いでした。そのために、いきおい未邦訳のものが多くなってしまいました。これらは、微力ながら私が何らかの形で関わって邦訳を実現しても言いかなと思っているようなものでもあります。そのうちの一点は年内には実現しそうです。今日、原稿を編集者に渡してきました。

 このLibraryに掲げた書目をある種の極北とするかたちで、各項目の論評と推薦図書コメントを段々に埋めて行きたいと思います。元来が不精なので、これ以上はあまり弄らずに、大枠を埋める作業に掛かりたいと思います。ただ、こういう形で大きな方向付けをしてみるというのは、自分自身の知識在庫を確認する意味でもかなり有効なようですね。

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No.18 分類

投稿者---Balthazar(2001/04/12 17:57:52)
http://www2.plala.or.jp/Rosarium/

観念の結合術、形象の逆説など、非常に興味のそそられる分類で感心しております。私自身、分類については頭を悩ませておりまして、敢えて象徴言語という形による分類などを行ってみましたが、決してすっきりとしたものにはなりませんでした。

それに引き替え、庵主さんの分類のなんとすっきりしていること。観念の結合術にて『エラノス叢書』など挙げられていらっしゃいますが、庵主さんの作業にはアンリ・コルバンいうところのimaginalな領域の薫りが感じられ、そこが私にとって大きな魅力です。

全くもって美しい分類で惚れ惚れします。

>理想の叢書となるはずのもの…邦訳を実現しても言いかなと思っているようなものでもあります。

感動ものです!是非是非…

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No.21 分類と解体

投稿者---庵主 Prospero(2001/04/12 22:11:21)

標題を見て吃驚させられました。何しろ、この「分類」ということを主題に、本文の方に何かを書き加えようと惟っていた矢先だったからです。やはり一番頭を悩ませた問題に敏感に反応していただいたようです。しかも要となるエラノス絡みで!

私が最初にStudia humanitatisなるHPを立ち上げたときは、既存の分類を敢えて使わずに、挙げた書目だけで新しいジャンルを囲い込めるような形を漠然と考えていたのですが、いざはじめて見ると、分量が多くなるに連れて、見通しが悪く、書目の選別も不明確になっていくだけだということに気づかされました。そこでやはり、最初は拒絶していた「分類」に手を付けざるをえなかったという次第です。

しかし、考えてみると、エラノスにしても、ラヴジョイたちの観念史学派にしても、あるいはヴァールブルク学派にしても、既存の分類を拒絶して、脱領域的な問題意識を展開することを目標とした人々も、やはり一定程度の蓄積ができた時点では、まがりなりにも学知の体裁を取るために、再び分類に向かわざるをえなかったという事情があると思います。「原型」にしても、「単位観念」にしても、それ自体が新しい「分類」であることに変わりないわけですよね。そうなると、結局のところ、人文諸学というのは、分類して解体して、それを再び再組織化して...ということの繰り返しなのでしょうか。ただここでの人文学の生産性というものは、そうした分類を硬直させずに、どれだけ自由な流動性を許容しうるか(しかも恣意的にでなく)というところに掛かってくるような気もします。その意味では、「アンリ・コルバンいうところのimaginalな領域の薫り」と仰っていただいたのは大変な褒め言葉です。やはりBalthazarさんもこの問題に突き当たっていたんですね。

いずれにしても、パロディーに近いほどミクロな規模ではありますが、人文学の誕生と解体を遠巻きに経験するような一幕でした。