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文学でも、哲学でも、特に古典的著作は多くのものがそうなのですが、よく見開きに外国語の題辞が載せてあることがあります。例えば、ポオ『盗まれた手紙』ではラテン語の題辞が載っていたりします。原語を確かめてみると、そのラテン語が英語に訳されていることはなく、そのままの言葉で引用されています。ところが、日本語に訳されると、ラテン語だろうが、英語だろうが、何区別なくブルドーザーの如くに日本語訳が続きます。勿論、最近は日本語訳の上に小さくカタカナで原語の発音が書かれてはいます。ですが、何でもかでも全部を全部日本語に訳すのは無粋だと思います。せっかくの外国語の風味を損ねるものです。全てを訳して日本語で分かる気になるよりは、分からない部分の分からないなりの異国情緒を味わう方が余程その著作に対する自然な接し方ではないかと思うのです。引用される異国語は日本語に訳さずそのまま残した方がよいと考えます。
わかる人間にだけ分かる。勉強した人間にだけ分かる。だからこそ分かりたいと欲する。結局はそれが勉強というものではないか、と考えます。どんな人間にでも分かる、サルにでも分かる、そういう読者に媚を売る「平等主義」は文化の停滞を招く!・・・・なんて言い過ぎですかね? |