口舌の徒のために

(過去ログ)

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No.323

題辞について
投稿者
---こば(2001/06/27 22:46:55)


文学でも、哲学でも、特に古典的著作は多くのものがそうなのですが、よく見開きに外国語の題辞が載せてあることがあります。例えば、ポオ『盗まれた手紙』ではラテン語の題辞が載っていたりします。原語を確かめてみると、そのラテン語が英語に訳されていることはなく、そのままの言葉で引用されています。ところが、日本語に訳されると、ラテン語だろうが、英語だろうが、何区別なくブルドーザーの如くに日本語訳が続きます。勿論、最近は日本語訳の上に小さくカタカナで原語の発音が書かれてはいます。ですが、何でもかでも全部を全部日本語に訳すのは無粋だと思います。せっかくの外国語の風味を損ねるものです。全てを訳して日本語で分かる気になるよりは、分からない部分の分からないなりの異国情緒を味わう方が余程その著作に対する自然な接し方ではないかと思うのです。引用される異国語は日本語に訳さずそのまま残した方がよいと考えます。

わかる人間にだけ分かる。勉強した人間にだけ分かる。だからこそ分かりたいと欲する。結局はそれが勉強というものではないか、と考えます。どんな人間にでも分かる、サルにでも分かる、そういう読者に媚を売る「平等主義」は文化の停滞を招く!・・・・なんて言い過ぎですかね?



No.325

Re:題辞について
投稿者
---花山薫(2001/06/29 01:06:25)


>こばさん

うーむ、どうなんでしょう。私だったら、買った本の題辞が原語のままだったらたぶん欲求不満に陥るでしょう。少くとも註をつけて大意なりとも訳しておいてほしいと思います。まあ、たいてい題辞なんていうのは「飾り」みたいなものでしょうから、意味はあんまり重要でないことが多かったりしますが。

Nil sapientiae odiosius acumine nimio. なんとなくこばさんのご主張とも響きあうような気がします。しかし、これはセネカの著作には見あたらないそうです。ではどこから引いてきたか? 記憶違いか捏造か?

ところで、題辞ではなく文中の引用(引証)を原語で行っている場合はどう思われますか? 純然たる学術書ならともかく、一般書の体裁で出される本の場合にはちょっと不親切な気もするのですが。

No.326

題辞訳を好かない個人的理由
投稿者
---こば(2001/06/29 13:08:04)



>Nil sapientiae odiosius acumine nimio.
叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし

結局、訳を参照してしまいました。花山さんの仰るとおりですね。言い過ぎました。訳はあったほうがいいみたいです。

ただ、私がどうして訳を付けるのが無粋だと感じたかと申しますと、家にポオの全集が転がってまして、ついでだから一度『盗まれた手紙』を原文で読んでやろう、と思ったわけです。その頃、ちょうどラテン語を齧っておりまして、早速最初の題辞を理解しようと、ラテン語の辞書をひっくり返したのですが、力及ばず、何が書いてあるのかほとんどわからなかったのでした。それで思ったのです、どうしてこれほど難しいラテン語が、原文では英訳されていないのだろう?と。1.ネイティブにとってはラテン語は、日本人の古文のように、何となく誰にでもわかる文章であって、だから、態々英訳するまでもない。2.流石に、ネイティブにとっても、ラテン語は死せる言語であって、最早外国人であってもわかる奴にしかわからん。出版者は読者の教養を試しているのではないか。
そのポオの全集を買ったのは、なんとあのラスベガスでした。外に出ると炎天下、内にいるとカジノの喧騒。嫌で嫌で堪らずに彷徨って本屋で息抜きをしようと思って手に取ったのがポオの全集でした。2000円くらいで、金色のページの分厚い1冊本です。
まさか、ラスベガスにいるような連中が、ラテン語を当たり前の教養としているわけがない、それが私の直観でした。そこで、上記選択肢2を採りたいのです。個人的な思い出話で恐縮ですが、そのような特殊事情があって、しかも原文には英訳が付けられていないところに一種の憧憬を感じていたから、だから、日本語訳もそうすべき、と考えました。
ただ、花山さんに指摘されて、やはり和訳を参照してしまって、それで今では迷っています。教養を採るか、作品理解を採るか。訳注を後のページに付ける、辺りが妥当なのでしょうかね?

引用文については、私は花山さんとは逆の意見です。学術書にこそ和訳を付けて、文学・小説には訳を付けないことを望みます。学術書は何らかの共通理解を言語化する書物だと思うので、共通理解が一部の人々に占有されるのはまずいと考えます。しかし、文学に関しては、わかる奴がわかることしかわからん世界だと考えているので、別に一部が理解されなくてもそれなりに楽しめるから訳がされなくてもよいのではないか、と。
<こんな区別をする理解だと、プロスペローさんか森さんからクレームがきそうな気がします。わかる奴にしかわからん世界は学術書だって文学だって同じだろう、というレスが目に浮かびます(新口舌の徒「読者、作者論(文学と聖書の各解釈の区別)」のトレース参照)。学術書が自分のわかるだけの言葉で書かれていたりするのは見るに堪えません。例えばアイルランド語で引用文が書かれていたとして和訳がされていなかったとしたら、一部の学者がほくそえむのはちょっと気に食わないのです。>
ジェイムズ・ジョイスなんて全体が作者言語の引用文であって、日本語で訳されるよりそのまま原語で読んだ方がよいとすら思っています。だって、比較的分かりやすいとされる『若き芸術家の肖像』ですら、和訳のわからなさと原語のわからなさに違いがありませんでしたからね。

わからなくてもとりあえず読み進む、という作業が日本人には苦手なのではないかと思われます。途中がわからなくても適当に読み進んでやれ、という根性が日本人には欠けていて、だから、単語を細かく暗記することが流行るんでしょうな。

ところで、ポオの作品は、アッシャー家の崩壊、黒猫等の恐怖小説は、真に迫っていて結構気に入っているのですが、盗まれた手紙、モルグ街の殺人などの推理物は、ストーリーが出来すぎていて嫌いです。猿らしきものが殺人を犯していたり、探偵デュパンが偶然大臣と友達であったりというのは、読者の推理以前の問題です。推理小説物でしたら、それに比べてエラリークイーンの諸著作の「読者への挑戦」は堪らなく好きでしたよ。

何だか止め処なく書いてしまいました。

No.328

Re:題辞訳を好かない個人的理由
投稿者
---花山薫(2001/06/29 22:24:17)


ギリシャ語やラテン語の題辞は、たしかにわかる人間にだけわかればいいものですね。わからなかったからといってテキスト理解の上で支障をきたすものではないし、わかったらわかったで知的虚栄心(?)の満足にはなりますし。しょせんは「飾り」ですが、その飾りにも作者のセンスはあらわれます。そういうところまで味わいたいという気になったら、その作者に対する「愛」もほんものに近いといえるでしょう。

古典語の題辞(のみならず引用全般)には、こばさんのおっしゃる(1)の場合と(2)の場合のほかに、出版された当時は(1)であったけれども時の経過とともに(2)になってしまった場合もあると思います。それだけ古典語の教養のレヴェルが落ちたということでしょう。あるいは読者層がそれだけ下のほうまで広がったとも見られますね。

それと、学術書や紀要の引用は原語のままでもよい、と書いたのは、そういった場合の引用には学問的厳密を期す必要があると思うからです。訳したら、どうしたって意味が多少ずれてしまいますからね。それでは学問としてはまずいのではないか、ということです。

というわけで、レスもれあるかと思いますが、今回はこの辺で失礼します。

No.327

思想書の場合
投稿者
---prospero (管理者)(2001/06/29 20:16:43)


>引用される異国語は日本語に訳さずそのまま

やはり、私は思想書の小心な訳者としては、基本的にすべてを訳してしまうほうを取ると思います。もともと文化的なコンテクストが違うのですから、原語を残したところで、原著と同じタイプの違和感(そうしたものがあるとして)を生み出せるとは限らないというのがその理由です。だとしたら、わざわざ日本の読者に、わからないものとして提示する必要もないかな、というくらいの感触です。

 それよりも私が許せないのは、ラテン語だからといって無闇と原語を括弧で入れたりするような翻訳感覚です。
cum grano salis(多少割り引いて)みたいな慣用句まで、わざわざ括弧内でラテン語を書き込んでいるのは笑ってしまいます。傍点を振ったりしているようなケースもありますね。でも、そんなことをするくらいなら、etc.だって原語を入れなさいと言いたくなります。原著のネイティヴの読者がさしたる違和感を覚えず読めるような表現は、日本語でも目立たせずに普通にやれば良いのではないでしょうか。ラテン語表現というのは、言ってみれば、日本語の中の漢語表現のようなもので、われわれが考えるほど近代語と異質のものではないはずです。まして学術書においては。日本語環境でその種の感覚を生み出すために、いっそのこと漢訳してしまうとかね。