| 英訳もご紹介いただき、ありがとうございます(よく見つけられますね)。さて、お待たせしました。問題の箇所の原文です(アクセント類省略)。対照のために、そのあとに、ご紹介いただいた英訳、さらに独訳の該当箇所をまず並べてみます。疑問は簡単に氷解するかと思っていたのですが、意外と厄介です。
<仏語原文>C'est de cette prison, avec tous les investisssements politiques du corps qu'elle rassemble dans son architecture fermee que je voudrais faire l'histoire. Par un pur anachronisme? Non si on entend par la faire l'histoire du passe dans les termes du present. Oui, si on entend par la faire l'histore du present.(p. 35) <英訳>I would like to write the history of this prison, with all the political investments of the body that it gathers together in its closed architecture. Why? Simply because I am interested in the past? No, if one means by that writing a history of the past in terms of the present. Yes, if one means writing the history of the present. <独訳>Die Geschichte dieses Gefangnisse mit politischen Besetzungen des Korpers, die es in seiner geschlossenen Architektur versammelt, mochte ich schreiben. Werden hier nicht die Zeiten zu einem Anachronismus verquickt? Nun, ich habe nicht vor, die Geschichte der Vergangenheit in die Begriffe der Gegenwart zu fassen. Wohl aber ist es meine Absicht, die Geschichte der Gegenwart zu schreiben.
問題となる難所は、二ヶ所あるようです。その一つはまずは「それはまったくの時代錯誤によって、であろうか」と訳されて部分、とりわけそのなかのanachronismeの語です。「時代錯誤」という訳が果たして適切なのかどうか。この部分を英訳は、「なぜだろうか。それは単に、私が過去に関心を持っているからだろうか」というふうに意訳しています。独訳では、「ここでは諸々の時代がAnachronismusに収斂させられていしまうのではないだろうか」と、文意の取りにくい訳にしています。
第二の問題(こちらがより本質的)は、強調で表した部分(par la = by that)の解釈です。その部分のフランス語原典を直訳するとこうなります。「それはまったくのanachronismeによって、であろうか。それによって、現在の時代との関連での過去に関する歴史の叙述を理解するなら、否である。〔しかし〕それによって、現在の歴史の叙述を理解するなら、諾である」。さて、「それによって」という「それ」はいったい何を指しているのか。英訳は単純に代名詞thatで置き換えているだけなので参考になりません。独訳は、なぜかこの部分を無視しています。邦訳では、その前に置かれているフーコー自身の叙述の狙いと理解しているようです(「私の意図を、……と理解する人」となっていますから)。しかし果たしてそうなのでしょうか。そのように受け取ると、やはり森さんが言うように、フーコーがやろうとしているのは、「現在というものの歴史の執筆」ではなく、「現在というものとの関連における過去の歴史の執筆」であるということになるでしょう。
しかし、部分的に意味不明の訳はあるにしても、ドイツ語訳は理解の方向としてはおおむね正しいのではないか。その意味で、ドレイファス+ラビノウの解説は正しくて、齟齬を来しているのは日本語訳だけなのではないのかというのが、今の時点での私の見立てです。つまり、やはり結論的に、フーコーが狙っているのは「現在の歴史」ということでよいのではないかという見方になります。
さて、その理由です。第二の問題に関して、代名詞を「フーコーの意図」ではなく、例のanachronismeと読むことを提案してみます。そして、第一の問題に関しては、英訳の理解を参照して、anachronismeを「過去への関心」というふうに読んでみます。
そうなると、翻訳は若干の解説を交えて、以下のようになります。自信はないのですが、試訳をしてみましょう。
……監獄についての歴史を私は書きたいと思う。それはただ単に、〔過去への関心という意味での〕アナクロニズムによってなのであろうか。もし、アナクロニズムという語を、現在というものとの関連における過去の歴史の叙述と理解するなら、そうではない。〔しかし〕アナクロニズムという語を、現在の歴史の叙述であると理解するなら、そうである」
さて、どういうことなのか。ここでフーコーは、「アナクロニズム」という語を、「物好きな過去の穿鑿」くらいの意味で使っていて、一見すると「監獄の誕生」などという主題は、そうした好事家の手なぐさみと見えかねないことを承知のうえで、あえてそれを肯定するという逆転を行っているのではないでしょうか。
パラフレーズするとこんな具合。おそらく皆さんは、監獄の誕生などということを論じる私の試みを、物好きな過去の穿鑿くらいに ―― その意味での、過去への関心(アナクロニズム)と ―― みなすことでしょうね。しかし、果たして私のやっていることは本当にアナクロニズムなのでしょうか。確かに、過去への関心(アナクロニズム)という語で、現在中心的で、現代から過去を判断するような態度のことを言っているのなら、私は断じてそんなことに関心はありません。しかし、その「過去への関心」(アナクロニズム)という語で、「現在の歴史」ということをも含めて考えてよいとするのなら、私は甘んじてその語を受け容れようではありませんか、と。
こんな感じでとってみてはどうでしょう。要するに、「時代錯誤」という訳だと、あまりに否定的ニュアンスが強すぎて、まずいのではないかというのが一点。ここでは、アナクロニズムを、過去一般の関心というかたちでもう少しニュートラルにとっておくべきでしょう。さらに、代名詞をこのアナクロニズムを受けるものと理解するというのが、大きな修正点。それによって、過去を論じるという「歴史」一般の関心に、幾通りかの姿勢(ここでは二通りですが)があるという認識に至るでしょう。その中で、方法論的な区別を行って、フーコーが自分自身の態度を「現在の歴史の叙述」というかたちで表明し、その意味でならアナクロニズム(過去の穿鑿)と言われるのも悪くないと、最後にいわば開き直ってみせたという具合に理解するのです。
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