思想としての百科全書

 

 

 百科全書、百科事典と言えば、現代では50音順(欧文ではアルファベット順)配列が当然のようになっている。しかし実のところそれは、17世紀中盤辺りから慣例になったもので、それ自体が言わば歴史的産物と言えるものである。それ以前、とりわけ中世では、10世紀ビザンツの『スイダ』などのわずかな例外を除いては、近代とは異なった世界観にもとづいて、いまのわれわれとは違った技法で知識を蓄え整序することが行なわれていた。そうした中世的知のテクノロジーといったものが、冒頭の掲げた最初の四点の中世の百科全書的著作から垣間見えてくる。これらを一見して分かるように、中世的な百科全書はもちろんアルファベット順で各項目が並んでいるわけではないし、その体裁もわれわれのイメージする百科事典とはかなり異質なものである。

 中世の基本諸学を総称する「自由七学芸」という考えを定着させるのに絶大な影響力をもったマルティアヌス・カペラの『ヘルメスと文献学の結婚』(未邦訳)などは、学の神格ヘルメス(マーキュリー)と擬人化された「文献学」の結婚式に、擬人化された「文法」「修辞学」「論理学」、「算術」「幾何学」「音楽」「天文学」が、それぞれの寓意的持ち物(アトリビュート)をもってお祝いに駆けつけて祝辞を述べるという「お話」である。しかし当時の理解では、これは立派な百科全書であり、権威ある「教科書」であったわけだ。そしてここでの自由学芸の基本的枠組は、ボエティウス、そしてカッシオドルスの『綱要』(聖俗文献綱要)でスタンダードとして確立される。

 百科全書的著作を表す標題もまた、今の目から見ると意表を衝く。代表的なものの一つに「鏡(鑑)」(speculum)という標題がある(ボーヴェのウィンケンティウス『大きな鏡』。宗教的百科全書として『修道者の鑑』、さらには政治論の一大ジャンルである『君主の鑑』など)。日本で言う「鏡もの」は歴史書になるが、ヨーロッパ中世では、これが宇宙全体を映し出す百科全書を意味した。他にも「庭(園)」「髄」「蜂の巣」などがあり、とりわけ12世紀のランツベルクのヘラルディス『逸楽の園』などは、宮廷風恋愛の「閉ざされた庭」(hortus conclusus)のニュアンスすら漂わせる。

 12世紀にもなると、イスラーム圏の諸学が大量に流れ込んできたこともあって、学問の再編成の必要が生じてくる。いわゆる「12世紀ルネサンス」である。近代で「実験」を意味するようになったexperimentumなどという語も、アラビア医学の影響でこの時期に、「測定」という意味で導入された(それまでは単なる「経験」の意味)。これら「医学」や「技術論」(機械学)をも包括した学問の全体像を示そうとしたのが、サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』やソールズベリのジョン『メタロギコン』である。これらは、新たな時代に即応した「学習の手引き」という体裁を取りながら、人間理性の構造から始まり、諸学の区分といったことを説いて行く。

 これら百科全書、そしてルネサンス期にまで見られる「庭」の伝統に共通して言えるのが、そこでは各項目が、内容的にきわめて密接に関係した仕方で記述されているということである。学習の順番、人間の知的能力の発達段階といった、内容的・構造的連関に従ったきわめて有機的な記述スタイルを取っているのである。フーコーの『言葉と物』(新潮社)の言葉で言うなら、これはまさしく「類似」によって構成された世界観にもとづいていると言えるだろう。

 しかしおよそ17世紀後半を境にして、状況は一変する。表象の記号的・人工的な組織化が始まるわけだ。モレリの『歴史事典』(1674年)、ピエール・ベイルの『歴史批評事典』(1695-97年)がアルファベット順を取り、チェインバーズの『エンサイクロペディア』(1728)がそれに従い、さらにそれを模範にしたディドロ/ダランベールの有名な『百科全書(アンシクロペディ)』(1751-80年)の圧倒的な影響力をもって、この近代的な「百科事典」のモデルが完成する。ちなみにこのエンサイクロペディアという語は、ギリシア語の「enkyklios paideia」に由来する言葉である。このギリシア語は文字通り訳すと、「学知の円環」といったことになるのだが、これは古代・中世では一般的に「自由七学芸」(artes liberales)のことを指していた(これが英語のliberal arts「教養学科」の元になる)。このことでもわかるように、近代の「百科事典」とは、古代・中世の「類似」としての世界を換骨奪胎し、近代的な「タクソノミー(分類学)」を構築しなおしたものにほかならないのである。

 そう思って、ダランベールの「百科全書」序文を読み直してみると、ダランベールがなぜアルファベット配列と内容別配列ということを巡ってあれほど思い悩んでいるのかが見えてくる。ツールとしての事典の使い勝手ということだけには終わらない、世界観上の問題がその背景には潜んでいるということを、時代の先端を走る者独特の鋭敏な感受性は、それとなく察知していたのではないだろうか。そして最終的にダランベールがディドロとともに選んだのが、本文をアルファベット順配列にしながら、全体を内容的に見渡すための一覧表(「タブロー」!)を付録に付けるという解決策だった。そしてその内容順の一覧表の分類基準として模範とされたのが、ベーコンの『学問の改革』のプログラムである。

 しかし、ここにはきわめて18世紀的な「改作」が施されている事実も見逃すことはできない。ベーコンの呈示した分類では、その最上位の項を成しているのが、「記憶・想像・理性」である。ベーコンによれば、これは人間の知性の発展段階に対応した区分であった。それを下敷きにしながらディドロが呈示したのが、「記憶・理性・想像」である。ここで気づくのが「想像」と「理性」の位置の逆転である。ベーコンの理解では、人間の知性は、子供のときから順に、ものを覚え(記憶)、漠然とものを考え(想像)、最後に論理的に推論する(理性)という成長過程を踏むのだから、学問分類の基準もそれに倣うのが最も「自然」であった。ところがディドロ/ダランベールにとっては、人間のこれらの能力は、それぞれ過去・現在・未来に関わるのだから、それに応じて、「記憶(過去)・理性(現在)・想像(未来)」という配列のほうが「自然」に見えてくる。さて、この両者の違いのあいだには、何が起こっているのか。同じく「時間」という尺度で分類しているように見えながら、その結果には違いが生じている。それぞれが「自然」と思い、当然の前提としていることが俄かに変わってきたのだ。そう、ここでは「時間」と「理性」というものの基本的な捉え方が劇的に変貌しているのである。

 ベーコンの場合の「時間」は、理性の具体的な成長過程を貫く自然の経過を表す概念である。その意味で、ここでの理性と時間は、ともに経験的なごく普通の次元を表しているものにすぎない。それに対して、ディドロ/ダランベールの場合の「時間」は、理性が自分の意識経験の中で何を対象とするか、あるいはその際に、理性自体がどのような時間的なあり方をしているかということを表している。ここでは時間が、意識遂行の際に理性そのものを支配する「構造」として名指されているのである。もはやこれらの「時間」も「理性」も、経験的な次元のものではない。いわばここで理性全体の分類基準は、経験的次元から、超越論的次元に昇格したわけである。超越論的「理性」の成立と、その「構造」としての「時間性」という近代的装置が、ここで一挙に立ちあがる。アルファベット順・内容順という問題は、この新たな次元の問題群を起動させるための前哨戦にすぎなかったのだ。カントが「コペルニクス的転回」として言い表そうとした事態が、フランスでも同時進行的に起こっていたとも言えるだろう。しかもその両者の符合には驚くべきものがある。フランスの『百科全書』の膨大な全35巻が、ヨーロッパ中央で幾多の艱難を乗り越えて完結したのが1780年。その翌年1781年に、あたかもこの『百科全書』の理論的解説であるかのように、ヨーロッパの辺境ケーニクスベルクで『純粋理性批判』初版が公刊される。

 経験的な次元には属さない匿名的な理性(超越論的理性)と、それを支える「形式」としての「時間性」。ここまでくれば、近代的理性の行く末にヘーゲルの姿があり、そして彼が自らの大系的著作をやはり『エンツィクロペディー(百科全書!)』となずけたのはあまりに当たり前のことに思えてこないだろうか。このヘーゲルの体系では、近代の初頭ではかろうじて理性の運動を表現していた「時間」が、理性の側に完全に併呑され、「概念の現存」として理性の側から導出される。こうして古代に夢見られた「学知の円環」(enkyklios paideia)が、巨大なループを描きながら閉ざされる。しかしこの壮大な円環は、果たして本当に宇宙全体を囲い込むことができたのだろうか。

 

理想的質疑応答

Q1: あなたはここで、古代から近代に至るまで、百科全書の歴史を網羅するという大胆な試みをなさったわけですが、私の見るところ、中世で最も重要な百科全書である「大全」には触れられていません。とりわけ『神学大全』に代表されるこの一大ジャンルを外すというところには、何か特別な意図があるように思えてしまうのですが。
A1: 仰るように、「大全」、とりわけトマス・アクィナスの『神学大全』をどう扱うかということは、いろいろ考えた挙句、結局結論が出せずに先送りし、結果的に無視する格好になりました。「大全」では、18世紀以降の動きとして私が指摘した「理性の構造」という問題がすでに大規模に扱われているのは確かです。しかもそれは、それまでの学説史をも総括する一種の歴史理解・時間理解を背景にしたものでした。カール・ベッカーの有名な著作『18世紀哲学の天上都市』では、13世紀と18世紀の平行論が展開されており、実を言うと私もこのベッカーの所論に就くという誘惑にも駆られました。しかしこれは、思想史全体を循環史で見るのか、ある種の発展史で見るのかという方法論上の問題にもなると思うので、結論を敢えて先送りしたわけです。トマスの『神学大全』に関しては、その第三部のキリスト論をどのように位置づけるかという大問題も含めて、今後の課題としたいと思います。

Q2: 『百科全書』と『純粋理性批判』の平行関係という、あまりに唐突な椿説を興味深く伺いました。基本的なことを申し上げるようですが、カントの場合、時間というのはあくまでも直観の形式なのであって、理性全体の構造というにはあまりにも無理があるのではないでしょうか。
A2: 当然、違和感を抱かれる点だと思っていました。私がここで言おうとした時間性というのは、カント的な直観形式に限られません。ハイデガーの『カントと形而上学の問題』での解釈を参照してほしいとまでは言いませんが、ディドロ/ダランベールの場合、「時間」として指摘されていたのは、経験的・発達論的な意味での経験的時間ではないということは確かだと思います。そうだとすれば、カントの中でそれに対応するものを求めるとすれば、それは何も経験的直観の次元に限定される必要はないと思えるのです。いわばカントの場合、『純粋理性批判』で扱った悟性・直観の構造全体が、ディドロ/ダランベールの場合での「時間」に当たるのだというふうに理解していただけないでしょうか。

Q3: ベーコンの図式を踏まえた『百科全書』を、あなたはおよそベーコンの精神とは懸け離れた理念で捉えておられる。『百科全書』はデカルトの合理主義的な演繹体系を半ば拒絶するかたちでベーコンに与し、それによって、経験を重視する技術知を大幅に推し進めたのではありませんか。『百科全書』に付けられた膨大な図版集 ―― 医術から工具から、はては日本語のひらがなの一覧表まで載っているあの図版 ―― を見るなら、これが理性の抽象的な「形式」を問題にしているなどとは言えないと思うのですが。
A3: ベーコンの学問理解と『百科全書』の分類理念のあいだに私が認めようとした、極めて微妙な差異を十分にお伝えできなかったようで残念です。思想が纏った外見にあまり目を奪われない方が良いとは思いますが、いまはそれは措いておきます。お尋ねのベーコンその人がかなり微妙な地点に立っているということを指摘して、とりあえずのお答えに替えたいと思います。ベーコンという人は、実は互いに相容れない人から同時に称讃されるという不思議なポジションに立っています。一例を挙げると、ここで取り上げた百科全書派とヴィーコです。同じ18世紀人でありながら、遅れてきたバロック人とも言えるこのヴィーコが、百科全書派とはまったく違った理由でやはりベーコンを高く評価しています。しかもこれが同じ「蓋然性」をめぐっての評価なのですから、ますます驚きです。これは、百科全書派は、ベーコンの「蓋然性」を近代の「進歩理念」に繋がるものとして理解しているのに対して、ヴィーコの方は、古代・中世の修辞学的な「蓋然性」(verisimilitudo)をここに見ようとしている点に由来します。しかしこれは本題とはあまりにずれるので、示唆だけに留めておきます。

Q4: あまりに素朴な質問で恐縮なのですが、最終的にあなたはフーコーの『言葉と物』の見取り図に賛成なんですか、反対なんですか。
A5: ご覧いただいたように、ルネサンス(ただしフーコー的な時代区分ですから17世紀前半までを含みますが)での「類似」の世界観から、「古典主義時代」の表象空間への移行という点では、ここでの議論は、完全に『言葉と物』に従っています。ですが、正直なところ、有名になった「人間の消滅」という議論も含めて、19世紀以降の見取り図に関しては、『言葉と物』に全面的に従う気にはなれないのです。それはごく手短に言うと、フーコーがドイツ観念論などの議論をあまりに簡単に片付けてしまっているのではないかということになるかと思います。まだここには論ずべき問題が山積していると考えています。

 

カッシオドルス 『綱要』 (『中世思想原典集成』第5巻「後期ラテン教父」)平凡社
セビリアのイシドルス 『語源』 (同第6巻「カロリング・ルネサンス」)平凡社
サン=ヴィクトルのフーゴー 『ディダスカリコン(学習論)』 (同第9巻「サン=ヴィクトル学派」)平凡社
ボーヴェのウィンケンティウス(ヴァンサン・ド・ボーヴェー) 『大きな鏡』 (同第13巻「盛期スコラ学」)平凡社
ソールズベリのジョン 『メタロギコン』 『中世思想原典集成』「シャルトル学派」収録予定。未刊)
ベール 『歴史批評事典』 法政大学出版局(部分訳)
ディドロ/ダランベール 『百科全書』 岩波文庫(序文と若干の項目)
カント 『純粋理性批判』 岩波文庫
ベッカー 『18世紀哲学の天上都市』(The Heavenly City of The Eighteenth-Century Philosophers) Yale U.Pr. 1932

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