書 評

S.ミュラー『近代のトポグラフィー 哲学的遠近法と文学的反映』(創文社)1994年

  ―― 哲学的感性の光る名著。惜しむらくは翻訳が... ――

 

 実に優れた哲学的感性によって書かれた10本あまりの論文が、三部構成でまとめられている。第一部「多元化、支配、想像力 ―― 近代への移行の中で」、第二部「労働、技術、自然 ―― 前史の諸層」、第三部、多元性、経験、理性 ―― 近代の未完結性」といった構成である。直ちに全体の意図が見て取れるといった構成ではない。そこで補助線として、本書で繰り返し現れる「遠近法」と「自己保存」をキー・ワードとして追加してみよう。このキー・ワードから考え直すと、本書が、近代の多元性というある種の認識論上の問題の発展系と、「自己を保持する」というある種の存在論的問題を座標軸に展開されていることが見えてくる。「秩序」や「類型学」といった問題が、前者の系列であり、「技術、労働」というのが後者の系列に属すわけである。この直交する座標軸が作る平面の内に近代の「トポス」を見ていこうというのが、本書のきわめて手の込んだ構想である。

 日本語版序文では、「<近代>は、<ポスト・モダーン>をめぐる論議がそれに認めているよりも、もっと多くのものをそれ自身の内部に抱え込んでいます、もっと深いところにまで溯っています、もっと遠く未来へと走り抜けています」と言われているように、本書は、近代の中の多元性を細心の注意をもって腑分けすることで、「ポスト」・モダンに連なる要素を見出していこうという試みである。しかしこうした大枠の見通しをとりあえず別としても、本書に収められた各論文は、それ自体で十分に魅力的である。一例を挙げると、「世界のプロセスと『バベルの図書館』」では、ニーチェ、ヒューム、ボルヘスといった面々を通して、世界の遠近法的な多様性と「組み合わせ」の問題が論じられ、最終的にボルヘスの『バベルの図書館』とニーチェの永劫回帰を出会わせるという議論が展開される。また、「万有には言葉がない」では、宇宙の中での人間の孤独というパスカル的感覚を出発点に、ディドロ、カント、ドルバックへ向かう「自然の制覇」の試みを経て、最後は『海底二万マイル』のネモ船長が俎上に乗せられ、現代技術における人間の新たな孤独が指摘される。読み手の意表を衝くようなこうした組み合わせが本書ではあちこちに鏤められていて、サーヴィス精神が随所に漲っている。しかもその議論の展開は、決していたずらに奇を衒ったものではなく、テクストに即した説得力あるものである。個々のテクスト解釈と、射程の大きな思想史的見通し、そしてある種の文学的感性とがバランス良く、しかも適度の緊張感をもって展開されている。

 そのように、魅力溢れる原著ではあるのだが、この翻訳には看過しえない問題が山ほどある。思いつくままに挙げていくと、例えば書名の表記では、ブルーノのDe infinitio universo e mondiが『無限の宇宙と地球について』。ブルーノのこの著作は、まさに本書全体の議論にも深く関わる複数世界論を展開しているのだから、mondiの複数形が活きていなければ意味がない(岩波文庫の邦訳でも,『無限、宇宙および諸世界について』)。ガリレオの『新たな星からの知らせ』とあるのも、普通は『星界の報告』。ただこの場合などは、定訳にこだわらず、新たな訳語を工夫したのかもしれないが、それでもハイデガーのGeviertを「正方形」とするような感性はかなり理解に苦しむ。さらにボルヘス『バベルの図書館』を扱った一節には、「この無数のテクストの中で人間は<海辺で砂に顔を突っ込むようにして>消え去らなければならない…」などという珍妙な文章に出くわして、わが目を疑う。原文は…entschwinden “wie am Meeresufer ein Gesicht im Sand”。そのままフランス語にしてみて欲しい。s'effacerait, ”comme a la limite de la mer un visage de sable”。まさしくフーコーの『言葉と物』の一番最後の文章。「<人間>なるものは、海辺の砂の表情のように消えうせることになるのだ」と最後の最後に大見得を切ったのに、「頭隠して尻隠さず」のようになってしまったのでは、フーコーがあまりに気の毒というものだろう。だいたい、「海辺で砂に顔を突っ込んで」、この人はいったい何をしようというのだろう。

 原著者のセンスが光る原註はさらに気の毒なことになっている。本来なら、複数の領域に渡るこの種の註なら、日本語訳の有無などが記載されてあって然るべきだろうが、この翻訳の場合、問題はそれ以前の段階である。トーマス・クーンの「パラダイム」が、ドイツ語そのままの読みで「パラディグマ」と言われるし、挙句の果てはコワレ『無限の宇宙に対して閉ざされた世界について』(Von der geschlossenen Welt zum unendlichen Universum)なるものまで登場する。後者はドイツ語初級レベルの語学力の欠落(Von … zu …ですよ)。当然これはアレクサンダー・「コイレ」の『閉じた世界から無限の宇宙へ』(原著は英語。邦訳は二種類。白水社の野沢協訳は『コスモスの崩壊』という内容を汲んだ邦題をつけている)。フッサールのCartesianische Meditationenが、『デカルト風の瞑想』。『デカルト的省察』以外の訳を思いつけただけでもすごいと言うべきか。この手のものは枚挙に暇がないが、これ以上言うとただの意地悪になってしまうので、そろそろ止めておく。

 ただ、日本語の姿そのものは悪くはないし、読む通すのにひどく苦労するということもないので、悪訳と決め付けるのは気がとがめる。地の日本語の文章自体は、多少注意しながら読めば、問題はないといったレベルではある。私自身、一応原著ももっているが、日常の使用にはこの邦訳で結構間に合っている(ところどころで爆笑しながら。でもそれはそれで愉しかったりもするのだが)。内容的には太鼓判を捺せるし、原著者の哲学的感性は抜群なので、この程度の翻訳の瑕疵にひるむべきではないかもしれない。原著の魅力に押されて、苦し紛れの留保付き推薦。

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