蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ


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ジャン=リュック・ナンシー『声の分割』加藤恵介訳(松籟社 1999年)
 解釈学(Hermeneutik)を「ヘルメーネウエイン」(伝達・告知)という語源に遡って問い直すという冒頭の問題設定によってすでに結末は見えているようなものだが、解釈学における複数性が主題になっている点は興味深い。解釈学は「意味」の一性を目指すために、どうしてもモノフォニー的になりがちだが、ナンシーが試みるのは、いわば多声学としての解釈学。「ヘルメーネイアとは神的なものの声である。そしてこの声は何よりもまず、分割された声、諸々の特異な声の差異である。言い換えれば、神的なものの一つの声があるわけではなく、おそらくは神的なものの声一般があるのでもない」(P. 61)。最も究極的で反省の度の高い次元に複数性を導入するという意味では、『ヘーゲル 否定的なものの不安』などとも通底する議論である。ロマン主義の遺産のうえに胡坐をかいたような呑気な解釈学を粉砕し、初期ロマン派のアナーキズムによって活性化することによってのみ、解釈学は露命を繋ぐことができるのかもしれない。ただし、「解釈学」というシステムは、現代に活かそうと思うとかなり「重たい」装置であるというのも事実だろうが。


清水高志『セール、創造のモナド ―― ライプニッツから西田まで』(冬弓舎 2004年)
 新興出版社・冬弓舎よりの公刊。ライプニッツ論を中心に、ミシェル・セールの思想を論じた実に水準の高い書物。セールのライプニッツ論を対比項にすることで、逆に伝統的なドイツ流のライプニッツ解釈が際立って見えてくるという特徴もある。カッシーラー、ベンヤミンというようなラインを補助線として用いることによって、ライプニッツ的なるものが、ドイツ・ロマン派を通じて、いかに現代の思想にまで浸透しているかということが示される。そうしたドイツ的ライプニッツとは異なったライプニッツ解釈を示すことで、セールの思想の独自性を明らかにしたうえで、そのラインをさらに西田幾多郎にまで延長するというのが、本書で取られた手続き。一見するとかなり強引な図式に思えるが、論の進展はきわめて緻密で示唆に富む。文献的にはいろいろと批判もあるだろうが、「思考をする」というのはこういうことだという見本とも言える。きわめて抽象度の高い次元で、それぞれの思想家を比較しているために、とりわけ「専門家」は眉を顰めるかもしれないが、本書の著者が従っているのは、明らかに思想の正しい作法である。
 中沢新一氏が序文を寄せているが(もちろん営業上の理由だろう)、これは不要だった。著者の思考は中沢氏とはまったく違ったタイプであるばかりか、思考の品格はむしろ中沢氏よりも高いくらいなのだから、自ら序文を書いてほしかった。

筒井賢治『グノーシス ―― 古代キリスト教の<異端思想>』(講談社選書メチエ 2004年)
 グノーシス主義に関する「日本人研究者による待望の入門書」(帯)とあるように、確かに日本語で書き下ろされた最初の入門書だろう。「ナグハマディ文書」の翻訳(岩波書店)も出たことだし、キリスト教教父著作集(教文館)でエイレナイオスなども読めるようになりつつあるので、ちょうど良いタイミングかもしれない。グノーシス運動を歴史的に記述することが目的とされているので、全体的な印象はかなり地味。著者によると、結局のところグノーシスとは、「体制批判のごとく血生ぐさい熱狂もなく、殉教指令のごとく凍りつくような冷徹さもなく、単にギリシア哲学や二元論的な世界観を積極的に取り入れてキリスト教の福音を知的に極めようとした無害で生ぬるい運動」(p. 213)ということになるらしい。いささか拍子抜けするが、それはかならずしも著者のせいではなさそう。というか、歴史的に正確に書こうとすると、あまりにも材料が少ないらしいということが逆に見えてくる。巻末文献表などは適切だし、バシレイデスの宇宙観の模式図など、なかなか便利。

雑誌を三点。共にかなり凝った紙面作りという点で(レイアウト、本文組などを含めて)刺戟的なので、触れておきたい。

『d/Sign』(太田出版) no. 9「デザインの発想」
 知的かつ美的に実験を行っていこうという気概に富んだ紙面作りが行われている。何よりも驚くのは使われている紙質の豊富さ。一冊の雑誌にこれだけの種類の紙質が使われているのも珍しいだろう。しかもその主立ったものには、見本のように「草紙・赤香色 四六版Y目100kg」といった品質表示がなされている。最新号の「デザインの発想」では、書物の装釘なども含めたデザインが取り上げられ、「クラフト・エヴィング商会」などが記事を寄せている。前号の特集「100年前のデザイン」では、祖父江慎「原寸!『坊っちゃん』本文組100年」として、『坊っちゃん』の本文の組み方(約物〔記号類〕の使い方・改行の仕方、文字空の取り方)を、全集・文庫など、さまざまな形態のものを取り上げ、漱石の原稿と突き合わせて写真で総覧しているものが圧巻。松山巌氏・大澤真幸氏・佐藤健二氏など、なかなかの執筆陣。
 かなり意欲的な雑誌ではあるが、そのすべての記事が良いわけではない。とりわけ本号の高山宏氏の文章などは駄文の最たるもの。「大学のデザイン」という観点から、都立大の問題に関して書いているのだが、なんとも私情に満ち、普遍性を欠いたいただけないもの。かつての高山宏氏の著書・翻訳に酔い痴れた読者は顔を背けたくなるだろう。書評も寄せているが、いまさらになってカラザース『記憶術と書物』(工作舎)について二番煎じのことを書き連ねているのもどうかと思う。

『10+1』(INAX出版) no. 36「万博の遠近法」
 
これもかなり凝った作りで目を楽しませてくれる。『d/Sign』はあまりに凝りすぎて、可読性(読みやすさ)が損なわれている場合があるが、こちらはきわめて洗練された構成で格段に読みやすく、版型なども丁度よく、表紙なども手になじむ。ヴァールブルクについて著書を出した田中純氏などが寄稿している。有名人を起用して目を引くよりも、堅実だが刺激的な仕事を展開している執筆者を選んでいるような雰囲気がうかがえて好感が持てる。今後も期待できそう。

『接続』(ひつじ書房) No. 4「ジェンダーの地平」
 雑誌の標題に謳われているように、さまざまな領域を横断的に「接続」しようとという試み。毎号特集を立てて、異なる専門分野から執筆者が寄稿し、それをめぐって討論を重ねる形で雑誌がつくられている。そのために、各論文のあとにはそれに応答する「ダイアローグ」が付されているのが特徴。発信元は大学だが、いわゆる紀要とは異なり、図版や脚注の組み込み方など、ヴィジュアル的にも工夫されている。


パノフスキーイデア ―― 美と芸術の理論のために』伊藤博明・富松保文訳(平凡社ライブラリー 2004年)
 プラトンではいわゆる詩人追放論(反芸術論)の論拠となっていた「イデア」論が、その後の歴史の中でいかに芸術と密接に結びつき、それを背後から支えることになったかということを古代から中世・ルネサンスを通じて論じた名著。例えば、大きな転換点となっているルネサンス期の問題は次のように記述されている。「ルネサンスでは、イデア概念はまだ芸術理論によって徹底的に考え抜かれてもいなければ、それほど重要なものとも考えられてはおらず、むしろ精神と自然のあいだの裂け目を目隠しする役割を果たしていた。そのイデア概念が、いまや芸術家の人格を力強く強調することで、<主観と客観>という問題に目を向けさせ、その裂け目を目に見えるようにすると同時に、イデア概念は本来の形而上学的意味に解釈されることによって、つまり、主観と客観との対立をより高次の超越的一者のなかで止揚するものとして捉え返されることによって、再びその裂け目を閉ざすことを可能にするのである」(p. 122)。いわゆる「近代的」芸術家が誕生する経緯に関しての記述なのだが、このような観念のドラマに対する感覚は、カッシーラーにも通じるところがある。それにしても、この著作、付録としてルネサンス期の資料を付し、さらに本文にも本文に匹敵する詳細な原註が付されている。しかもこの原註は、単なる出典註や文献註にとどまらず、思想的にもさまざまな連想をちりばめて、実に刺激的。註に関しては、『異教的ルネサンス』(ちくま学芸文庫)を始め、ヴァールブルクの著作にも同じことが言えるのだが、こちらは私に具体的な美術史の素養がないので、その面白さにあまり熱狂できなかった(むしろ「忍耐」という形で捉えてしまった)が、おそらくその種の知識に詳しい読者ならば、ヴァールブルクの註からも、パノフスキーのこの註と同質の刺戟を感じ取れるのではないかと想像できる。そうしたものがいわゆる「神は細部に宿る」という感覚なのだろう。

A・ヴァールブルク『異教的ルネサンス』進藤英樹訳(ちくま学芸文庫 2004年)
 文庫訳しおろしで、ヴァールブルクの初期の代表作「イタリア美術とフェッラーラのスキファノイア宮における国際的占星術」、「ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言」、「東方化する占星術」を収める。のちのパノフスキーやイエイツらの活動によって伝説的となったヴァールブルク文庫の創始者がどんな仕事をしていたのか、ようやくコンパクトなかたちで実物に触れることができるようになったので喜ばしい。すでに「ありな書房」から著作集が公刊されている(有名なスキファノイア宮についての講演はすでに、そちらの著作集でも別の訳で公刊されている)が、分量の割には高価なので、やはりまずはこの文庫だろう。それにしても、ヴァールブルク自身の資質はかなり地味で、その記述は細かい事実確認が延々と続く。これに付き合うにはかなりの根気が必要だろう。「神は細部に宿る」ということの実践が、いかに地を這うような忍耐を必要としているかが実感される。これに比べると、主題として本書のルター論と重なっているクリバンスキーらの『土星とメランコリー』
(晶文社)などのほうが、大文脈への繋がり方が見えやすく見栄えがする。これにはやはり資質の違いが大きいようだ。

  中村鐡太郎『西脇順三郎、永遠に舌を濡らして』(書肆山田 2004年)
 さまざまな象徴や寓意、言及に満ちた西脇順三郎の作品を読み解きながら、多くの論者が足をすくわれがちな穿鑿などをあっさりと無視して、真っ直ぐに詩の核心に切り込んでいく爽快な西脇論。Ambarvaliaの「古代編」の後半「拉典哀歌」に関してこんなふうに語られている。「…<拉典哀歌>の四篇は、カトゥルスやティブルスを高速で解体し結合する……。むろんそれは翻訳という、イデア(原典)の流出過程を曖昧にたどりなおそうとするものではない。超越的なテクストという中心からの距離を均質に計測するのではなく、むしろ翻訳ということそのものについての超越論的な註釈をあらわしながら世界のあり方を揺り動かす方法と考えてもいいくらいだ」(p. 64)。これほど高度なことを一気に語る詩論は稀有のものだろうが、これになぞらえるなら実は、本書の西脇論そのものが、「詩そのものについての超越論的な註釈をあらわしながら世界のあり方を揺り動かす」ことを目指しているといっても良いかもしれない。前著『詩について ―― 蒙昧一撃』
(書肆山田 1998年)の冒頭に置かれた「序 ―― 蒙昧一撃」が、本書の『方法序説』となっているので、そちらとの併読もお薦め。

山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論』(創文社 1999年)
 毎年一回、長崎純心というカトリックの大学で行われる講演「長崎純心レクチャーズ」を書物にしたもの。これはその第一回。第一回にふさわしく、キリスト教の根幹であるキリスト論という最も難解な教義を平易に説いたもの。表題にはトマスの名前が前面に出ているが、キリスト教成立の背景から説き起こしていて読みやすい。入門的講演という体裁ながら、三位一体論におけるヨハネス・ダマスケヌスの意義を説明するなど、アプローチは本格的。もちろん、この小著で四、五世紀以降の公会議の議論などを詳しく追うことはできないが、あらましは理解できる。公会議そのものに関しては 、『キリスト教史2』(平凡社ライブラリー)辺りが資料として使えるだろう。キリスト論は、現代的な心身問題から、現象学的な媒介の議論、個と普遍の弁証法的関係など、ありとあらゆる哲学的な問題が凝縮されているような問題群である。

 W. Schneiders (Hg.), Lexikon der Aufklärung. Deutschland und Europa, C. H. Beck: München 1995.
(シュナイダース『啓蒙主義事典 ―― ドイツとヨーロッパ』)
 啓蒙主義研究を代表するシュナイダースが編んだ事典。中項目の事項を中心に編集されている。「百科全書」、「感情」、「趣味」、「出版」などといった具合。副題に「ドイツとヨーロッパ」とあるように、ドイツが中心(「ベルリン」という項目などの取り扱いが大きい)。個々の項目の記述はかなり一般的で、具体的な事実や人名・書名を期待すると当てが外れる。索引も事項索引のみで、しかもかなり粗いので、事典的に調べるために使うのは難しいだろう。その意味で、事典としてなら、ロック研究で有名なヨルトンや、独特な18世紀研究者スタフォードらが編集した
The Blackwell Companion to the Enlightenment (edited by John W. Yolten, R. Porter, P. Rogers, B. M. Stafford), Blackwell 1991のほうが良さそう。

J・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』田村俶・雲和子・西山けい子・浅井千晶訳(筑摩書房 1998年)
フーコーの「伝記」というほど、非フーコー的、あるいは反フーコー的なものはないので、正直言って難癖の一つもつけてみようと思って読み始めたのだが、これが滅法面白い。フーコーの「思想」を論じるために適切なアプローチだとは思わないが、著者の筆力は圧倒的なので、途中からは素直に「小説」として楽しんでしまう。ジャーナリストだけあって、それぞれの著作や時代を象徴する印象的な場面をかなり克明に描き込んで、読者の中に強烈なイメージを叩き込む。『狂気の歴史』を論じる第四章の冒頭で、アルトーの最後の朗読会の模様が見事に描かれる辺りから、著者の魔法にかかって、本書を「研究書」としてではなく、「お話」として楽しむ気分にさせられる。
 全体として記述が小説的で、二段組400頁近い大著にもかかわらず、かなりのスピードで読まされる。五月革命の様子は言うまでもなく、フーコーのLSD体験や、同性愛・SM嗜好が詳細に描写されたりもする。当然のことながら、哲学的・理論的な内容に関しては心許ないが、それもあまり気にならなくなる。カントとニーチェの批判的精神の継承者として、自己変革を徹底していった人物という視点は揺るがないので、それなりにまとまった読後感がある。用いられている素材もなかなか豊富で、特にインタビューからの引用が多く挟まれることで、描写が実に生き生きとしている。フーコーがこれを読んだらどう応じるのかなどということは棚上げにして、素直に楽しんでしまおう。
 文体的にも魅力的だし、これはこれで、研究書とは違った独自のジャンルというふうに受け取ればよいのかもしれない。久しぶりに、トーマス・マンの『ファウストゥス博士』でも読み返そうかと思っていた矢先だったのだが、本書がその代わりになってしまった。ニーチェを枠組みに、思想(芸術)の探求者を語るという点で、その死のありよう(「エイズ」と「梅毒」)をも含めて、本書は現代版『ファウストゥス博士』の趣がある。
 翻訳の姿勢も実に立派。本書は、使われている資料も多いので、ここからさらに読書の意欲を掻き立ててくれる註が満載なのだが、訳者(たち)はその一々に、邦訳の対応個所を入れている。その労力は並大抵ではなかっただろうと思う。ただ一つ、この翻訳がなされたときには、同じ筑摩書房の『ミシェル・フーコー思考集成』全10巻が並行して公刊されている時期だったらしく、註にはこれが反映されていない。そのために、フーコーの資料は、雑誌翻訳などを丁寧に拾って出典を指示している
(何とも地道な作業!)。しかし、これは今となっては、『思考集成』に組織的に収められているので、参照の便のためにも、こちらが指示してあると良かったのだが、もちろんそれは無理な注文。
 
(翻訳全体の質の高さを考えればどうでもいい些細なことだが、一点だけ。カッシアヌスの『修道院制度』という、何となくありそうな著作への言及があるが(p. 358)、これは『共住修道制規約』(De institutis coenobiorum)のことではないか。instuitutioはこの場合、「制度」ではなく、「教え」とか「手引き」の意味)。

中平耀『マンデリシュターム読本』(群像社 2002年)
   スターリン時代に「粛清」された詩人マンデリシュタームの伝記を中核としながら、その間に詩作の具体例、評論などを差し挟み、一面でアンソロジーのような性格をもあわせもつ。何よりも、「詩の質は速度と決意とによって決定される」と宣言するばかりか、それ自体が猛烈な速度で『神曲』を切り裂いていくダンテ論の白眉「ダンテとの会話」が収められている。G・シュタイナー絶賛の詩論である。翻訳もその速度と密度に付き添って見事。見本にその離れ業の一端を。「力をこめてダンテを読むとき、詩的物質の活動の場に完全に移住するとき、穴だらけの、揺れ動く意味表面に絶えず生起するオーケストラの音群と主旋律群との響き合いに結びついて、自己の調音をそれらと対比するとき、形態音の灰色の水晶鉱石の内部に浸透しているまだら模様、すなわち当の水晶鉱石によってもはや詩的理性ではなく地質学的理性だと言い渡されたわたり音や余計な思いつきを、その水晶鉱石全体に感知し始めるとき、 ―― そのとき、純粋な音声上の調音的でリズミカルな働きが一層力強い調和を促す活動に ―― つまり指揮に変わり、音声が主導している空間の上で、その空間を引き裂く指揮棒の指導権が、ちょうど三次元から更に複雑な数学的次元が張り出してくるように音声から張り出しながら、効力を発揮するのである」(p. 335)。破綻寸前の緊張感が良い。

Th. von Uexküll, E. Grassi, Wirklichkeit als Geheimnis und Auftrag, Alber Verlag: Freiburg im Breisgau 1945.
(ユクスキュル、グラッシ『秘密と契約としての現実』)
 第二次世界大戦終戦の年に、「環境生物学者」ユクスキュルと「人文主義者」グラッシが共著として公刊した小著だが、アガンベン『開かれ』とあまりに共振して驚いた。グラッシが担当した後半の結論部分で、奇しくも強調されるのが、アガンベンが「無為の生」として、ハイデガーを換骨奪胎して読み解いた「退屈」なのだ。ただし、ハイデガーの弟子であったグラッシは、なぜかハイデガーには言及せず、その「退屈」の部分の素材としては、イタリア人らしくレオパルディなどを使っている。「退屈とは、無的なるものの把握可能で具体的な経験である。……無というは存在と同時に産まれるのだ。退屈とは生ける死と言われる。……ただ人間のみが、動物と異なって、精神の告知を期待しつつも、生きながら退屈のなかで精神の死を死ぬのである」。最後の部分には、動物と人間の分割が扱われている。さらに個々から続く最終章が、(標題にもなっている)「契約」である。つまりここから、まさにアガンベンと同じく、「共同体」(それも「無為の共同体」)に向かうという寸法である。
(本書の著者Th.ユクスキュルは、「環境生物学」のU.ユクスキュルではなく、その息子だという指摘を掲示板にて頂戴しました。ここに訂正いたします。ご指摘ありがとうございます)

アガンベン『開かれ』岡田温司・多賀健太郎訳(平凡社 2004年)
 小著ながら実に刺激的。「開かれ」というハイデガー的な概念を主題にしながら、それを微妙にスライドさせていくところに本書の論の運びの見所がある。「どのようにして人間が非人間から、動物的なものが人間的なものから……分割されてきたのかを自問してみることのほうが、いわゆる人間の価値や権利といったお題目について立場表明することよりもはるかに急務なのである」(p. 31)という問題設定に立つ本書は、動物と人間との境界が築かれるその「あいだ」を論じるといったフーコー的な「生=政治」的な関心に貫かれている。ユクスキュルの環境世界論と、それを使ったハイデガーの1929/30年の講義を見ることによって、世界を開示する人間と世界を欠いた動物というハイデガー風の対比が、実はハイデガーその人の議論の中でも揺らいでいることを検証する。具体的に問題になるのが、動物の世界欠如性と人間の根本気分としての「退屈」との通底である。そこからアガンベンは、人間と動物のあいだの境界線が引かれるその中間領域を「剥き出しの生」として炙り出そうとする。「人間と動物を ―― 人間のうちで ―― 分割する断絶を見せてやること、この空虚に身を晒すこと、つまり宙吊りの宙吊り、人間と動物の無為に身を晒すこと」(p. 138)が最後の地点で提唱される。
 随所に行われる発想の飛躍や、意外な文脈への接続など、論証的に緻密な文章とは一味違った楽しみがある。翻訳も良くできているし、訳註も模範的。単に人名事典を引き写したようなものではなく、本文のなかでその人名や引用がどのような意味を持つかを的確に示し、さらにはそこから他の連想を拡げることを示唆する立派な訳註となっている。改題も岡田氏と多賀氏が性格の異なるものを別々に書いており、それも読み応えがある。詩集のように瀟洒な装幀(間村俊一装幀)も含めて快挙。

Logos. Internationale Zeitschrift für Philosophie der Kultur, Tübingen: J. C. M. Mohr (Paul Siebeck) 1910/11-1933, 22 Bde.
(『ロゴス ―― 文化哲学のための国際雑誌』)
 ある事情で、新カント学派の機関誌が全巻揃いで手に入った。発行年代を見てわかるとおり、第一次大戦前からヴァイマール時代を経て、ナチスが政権を取るにいたるまで、不安の時代を背景にドイツ文化が活況を呈した時期に公刊されている。名目上は新カント学派が核になっているが、そこで目指されているのが「文化哲学」であったため、寄稿者や論文の範囲は驚くほど広い。寄稿者として名前が挙がっているのが、オイケン、フッサール、マイネッケ、ジンメル、トレルチ、ヴェーバー、ヴェルフリンなど。ちなみにこの『ロゴス』の第一巻に、フッサールの「厳密な学としての現象学」が掲載されている。以前は、某国立大学図書館にまで出向いて、部分的にコピーをしたものだが、幸運にも現物を所有することになった。せっかくなので、
独立したコーナーとして、手始めにまずは全巻の目次あたりから紹介していってみたい。

G. Cacciatore, Metaphysik, Poesie und Geschichte. Über die Philosophie von Giambattista Vico, Akademie Verlag 2002.
(カッチァトーレ『形而上学、詩、歴史 ―― ヴィーコ哲学について』)
 原著はイタリア人著者によるイタリア語の書物だが、主題の立て方がきわめてドイツ的。最初の
30頁ほどを研究史に割いているが、ここでもドイツ関係の研究史が中心。実際、ヴィーコ再評価は、翻訳を行ったアウエルバッハを始め、主にドイツ語圏から起こっている。その最も新しい後継者が、フンボルト研究でも知られているトラバントというところだろう。しかしその一方で、ホワイトの物語論、サイードの『始まりの現象』、ギンズブルグなどによるヴィーコ評価も見られるので、こちらの系譜もあらためて考えてみたいところ。

Martianus Capella and the Seven Liberal Arts, Vol. 2: The Marriage of Philology and Mercury, Columbia U. Pr. 1977.
(『マルティアヌス・カペラと七自由学芸 ―― 『文献学とメルクリウスの結婚』) 
 自由学芸の教科書として用いられていた古典的著作の英訳。「文献学」と「メルクリウス」の結婚式に、七つの「自由学芸」が女性の姿を取って、お祝いに駆けつけ、祝辞かたがた自己紹介をしていくという設定。これが「教科書」であったという事実が、学問観の決定的な違いを如実に物語っていて面白い。

C・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』上村忠男訳(みすず書房 2003年)
 日本版の論文集として、既出の論考をまとめたもの。「証拠と可能性」、「展示と引用」、「証拠をチェックする」、「一人だけの証人」、「人類学者としての異端裁判官」、「モンテーニュ、人食い人種、洞窟」、「エクゾティズムを超えて」、さらに「結び」として「自伝的回顧」を収める。「一人だけの証人」は、すでに『アウシュビッツと表象の限界』
(未来社)に収録されているもの。本書でも全体を貫いているのが、歴史の物語論を提唱するH・ホワイトの批判的検討である。「歴史をテクストとして研究せよという流行の命令は、どのようなテクストもテクスト外的な現実えhの参照なくしては理解されえないという自覚によって、補完されるのでなくてはならない」(p. 85)という文章に見られるように、ギンズブルグはナラトロジーに対して一定の理解を示しながら、歴史相対主義に陥りかねないそうした議論を最終的には斥けようとしている。「展示と引用」では、歴史的言述の「真実効果」(主張を真理と思わせるためのテクニック)として、修辞学的な「エナルゲイア」(生き生きとした語り)が、証拠にもとづく「引用」へと移り変わる過程が叙述されている。歴史がレトリックとして語られるようになったのは、何も現代がが初めてというわけではなく、近世の初頭にも同様の動きがあったということが、この議論を通じて見えてくる。まさに、歴史的言述の表象化の動きである。ホワイトとジェンティーレやクローチェとの関係なども興味深い。「エグゾティズムを超えて」は「ピカソとヴァールブルク」が副題だが、ヴァールブルクへの言及はわずか。

 H. Seubert (Hg.), Heideggers Zwiegespräch mit dem deutschen Idealismus (Collegium Hermeneuticum 7), Böhlau 2003.
(ゾイベルト『ハイデガーとドイツ観念論の対話』)
 リーデルやグロンダン、マックリールなど、すっかり代表格とみなされるようになった論者たちを中心に、ドイツ観念論とハイデガーとの関係を論じた論文集。シェリング講義のみならず、ヘーゲル『精神現象学』講義やフィヒテ『知識学』講義など、ハイデガー全集の進行に連れて、ハイデガーが行っていたドイツ観念論関係の講義録が次々と公刊され、現在ではおおむねそれが出揃った趨勢からすると当然の企画だろう。『ヘーゲルの否定性』講義の編者シュースラーも論文を寄せている。この状況だと、あとは全集の中で残されたトマス講義などが出ると、『ハイデガーと中世』といったような論集も組まれることだろう。しかし、特にドイツ観念論とハイデガーとの関係は、そうしたテクスト上の問題に尽きない大きな射程をもっているはず。その辺りを積極的に掬い上げる内容的な議論が欲しいところ。

History of the Human Sciences, vol. 5, no. 4 November 1993
Special Issue: Hans Blumenberg
(『人文学の歴史 ―― 特集:ブルーメンベルク』)
 人文学雑誌のブルーメンベルク特集。ケルナー「ブルーメンベルクのスタイル」、イングラム「コペルニクス革命再訪」、ピピン「現代の神話的意味 ―― ブルーメンベルク対ニーチェ」、ターナー「自由主義と科学の限界 ―― ブルーメンベルク対ヴェーバー」、クラジェウスキー「宗教の音楽的地平」、ケリー「救済されたエピメテウス」、ハドソン「ブルーメンベルク以降」といったラインナップ。英語圏でも、徐々にブルーメンベルクに対するまとまった取り組みが見られるようになってきた。

J. Fekete (ed.), The Structural Allegory. Reconstructive encounters with the New French Thought, U. of Minnesota Pr. 1984.
(『構造的アレゴリー ―― フランス現代思想との邂逅を再考する』)
 
1980年代初頭のポスト構造主義の流れに即した論文集。今から考えると、この時代が理論的にそれほど大きな節目になっているとも思えないので、論文集としてはそれほど鮮烈なインパクトを与えるものではないかもしれない。しかし、この論集がシリーズの11巻目として収められたその叢書は、なかなか壮観なので、ざっと書目を挙げてみる(タイトルは英語標題をそのまま邦語に直訳)。1. トドロフ『詩学入門』、2. ヤウス『受容美学に向けて』、3. ヤウス『美的経験と文学的解釈学』、4. P・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』、5. プロップ『民俗学の理論と歴史』、6. 『イェール学派の批評活動』、7. ポール・ド・マン『盲目と明察』、8. バフチン『ドストエフスキーの詩学の諸問題』、9. アウエルバッハ『ヨーロッパ文学のドラマからの場面』、10. リオタール『ポスト・モダンの条件』、そして本書『構造的アレゴリー』。思わず酔ってしまいそうな書目である。私自身もこのほとんどのものに(その邦訳版も含めて)恩恵を被っている。デリダ『グラマトロジー』や、フーコー『言葉と物』といった超一級のものではないが重要な書目をセンス良く拾っている雰囲気がスマート。日本で言うと、傾向はやや違うが、センスとしては風の薔薇の「記号学的実践」叢書のような雰囲気だろうか。

Tous les savoirs du monde. Encyclopédies et bibliothèques de Sumer au XXe siècle, Bibliothèque nationale de France/Flammarion 1999.
(『世界を知り尽くす ―― シュメールから二〇世紀までの百科全書と図書館』)
 
フランスの国立図書館の展覧会カタログだが、四折版でハードカバー500頁に及ぼうという大冊。フランスに限らず、ヨーロッパの展覧会カタログは、優に数冊の研究書に相当するようなヴォリュームと内容をもっている。ISBNがついて書物扱いである。本書は、副題にあるように、シュメールの粘土板やパピルスの百科全書から始まって、中国、イスラムも網羅し、近代の博物学、ルドルフ二世の宮廷、もちろんディドロ・ダランベールの『百科全書』、現代のハイパーメディアなど、大量の図版を投入して、百学乱舞の知的饗宴を展開する。1. 古代メソポタミア、2. 古代の源泉、3. 西方キリスト教世界、4. イスラム中世、5. 光の世紀の人文主義、6. フランス国立図書館の書物分類と知の区分、7. 自然の大いなる書物、8. 世界の驚異の目録、9. 中国の百科全書、10. 『百科全書』の製作、11. パンクークからクノー、12. ハイパーメディア、といった章立てで、まさに古今東西の百科全書を「現物」で見せていく壮大な資料。「自然の大いなる書物」の章で、自然史博物館の協力も仰いだとのこと。「バンクークからクノー」の章でのパンクークは、ディドロたちの衣鉢を次いで『百科全書』の編集に当たった人物だが、目を引くのが、「クノー」(『地下鉄ザジ』の、あのレイモン・クノー)である。彼は『プレイヤード百科事典』の編集に当たるほか、独特の百科全書的感性で、言語遊戯のグループ「ウリポ」などに関わっている。そうした方向の成果の代表作が『文体練習』(朝日出版社)ということになるのだろうが、そんな連想も含めて、本書は百科全書的感性が存分に盛り込まれており、その圧倒的な情報量が魅力的である。

石田英敬『記号の知/メディアの知 ―― 日常批判のためのレッスン』(東京大学出版会 2003年)
 
「セミオ・リテラシー(意味批判力)の獲得を目指すレッスン」を掲げたメディア論。かつての記号論から、現代のメディオロジーまでを、
CMやニュース番組(NHKのニュースや、すでになくなった「ニュース・ステーション」など)具体例を盛り込みながら口当たり良く解説したもの。スタンスはあくまでも教科書であって、それ自体が独自の知見を出しているものではない。しかし、こうした新しい「リテラシー」の提唱は、確かに「啓蒙」の新たなかたちではあるのだろうし、その点では、大学初年度くらいを標的にしたこの種の参考書も必要なのかもしれない(それを考えると、4,200円という値段は高すぎるが)

M. Heidegger, Nietzsche: Seminar 1937 und 1944, Gesamtausgabe Bd. 87, V. Klostermann 2004.
(ハイデガー『ニーチェ:ゼミナール1937; 1944年』)
 ハイデガー全集の最新巻。メモ類や講義草稿類を集めた第四部が公刊され始めた
(第85巻の「言語の本質」も既刊)。1937年のゼミナールの主題は、「ニーチェの形而上学の根本概念 ―― 存在と仮象」。「仮象」概念を、シラーをも参照しながら検討している。おそらくこの「仮象」の概念は、ニーチェの遠近法主義的解釈学と、ハイデガー的現象学とを繋ぐ接点となるものだろう。本巻は講義メモなので、ニーチェからの引用個所の羅列や、語句の列挙が多いが、ある程度思考の経緯も伺える点では貴重だろう。拾い読みをしても結構面白い。
 例えば ―― 「仮象<として>認識された仮象 ―― これはどのようなものであるべきか。ここで衝動ということを問題にするならショーペンハウアー的。形而上学と虚偽への衝動。ニーチェは構想力の力を根本的には洞察していない。なぜなら彼は、<真理と虚偽>、白と黒のあいだを純粋に存在者的にあれこれとみつもっているにすぎないからである。存在と根源的仮象のまったき本質が、ニーチェには見えていない。それゆえに、まずは未知のパラドクスへと遡行しなければならない。もちろん存在と仮象の本質に関するそうした認識は容易なことではない。……現‐存在の深淵
(Ab-grund)が初めて開かれる。世界と大地。現象と自己隠蔽」(S. 83)。ここには、「形而上学の完成者」というステレオタイプとは違ったニーチェ批判が現れている。微妙な仕方で問題となるのが、やはり「構想力」(『判断力批判』!)である。
 ついでにもう一つ。「存在の中への生成 ―― 仮象によって ―― 転回
(Um-kehrung)。顕現と仮現。最初の始源を通じて ―― 外化され、純粋な創造とそれに応じた脱我有化(Enteignung)への最高度の遡及」(S. 174)。ハイデガー的な言いまわしに慣れていないと単なるうわ言のように聞こえるかもしれないが、多少ハイデガーに親しんだ者にとっては、いろいろと思い当たるところがある。

ドゥルーズ『無人島 1953-1964宇野邦一他訳(河出書房新社 2003年)
 インタビューやシンポジウム記録、他の書物への序文など、ドゥルーズの比較的短い文章を蒐めたもの。邦訳は二分冊で公刊された。短めの文章の集成とはいえ、きわめて読み応えがある。邦訳第一巻のこの巻は、ベルグソン論からカント論、『差異と反復』、そしてニーチェ論や『意味の論理学』に至る時代の文章が収められており、それぞれが、そうした個々の著作と響き合うかたちになっている。「カント美学における発生の問題」なども良い。ドゥルーズにとっても、カントは何よりも『判断力批判』の著者である。「『判断力批判』においてカントは、諸能力の自由な根本的一致のなかでそれら諸能力の発生の問題を提起している。その際にカントは、他の二つの<批判>に依然として欠けていた究極の根拠を見出すのである。<批判>一般は、たんなる条件づけであることをやめて、一つの超越論的<形成>、一つの超越論的<開化>、一つの超越論的<発生>へと生成変化するのである」
(p. 127)
 こうした着想を受けている「ドラマ化の方法」も面白い。概念の使用である哲学を「ドラマ」と捉えて、次ぎのように語られる。「私たちがドラマと呼んでいるものは、とりわけカントの〔『純粋理性批判』の〕「図式」に似ています。というのも、カントによる図式は、まさに概念に対応するものとしての空間と時間とのアプリオリな規定であるからです。たとえば、<最短>とは、ドラマであり、夢であり、あるいはむしろ直線の悪夢であります。それはまさに、線の概念を直線と曲線との概念に分割する力動なのです」
(p. 207)。図式とはまさに「行為」なのである。
 ニーチェ論もコンパクトながら、濃密なもの。一度ではなかなか汲み尽くせないくらい、内容の濃い論集。ここには、おそらく注文によって書かれた、他の著作に対する序文なども含まれているが、訳者の言うように、「ドゥルーズほどこうした文章を、深く重要な哲学的テクストとして提出し得た人はいない」のかもしれない。たまたま与えられた機会を存分に使っているという点では、日本でいうと、ちょうど西田幾多郎にもそんなところがある。

J. M. Gellrich, Discourse and Dominion in the Fourteenth Century. Oral Contexts of Writing in Philosophy, Politics, and Poetry, Princeton U. Pr. 1995.
(ゲルリック『十四世紀における言説と支配 ―― 哲学・政治・文学における著作の口承的次元』)
 中世末期(もちろんグーテンベルク以前)の著作形態を論じた一種のメディア論。哲学・神学ではオッカム、ウィクリフ、政治では、エドワード三世、リチャード二世、文学では、ガウェイン詩人などが対象となっている。オングの『声の文化と文字の文化』
藤原書店や名著『言葉の臨界』Interfaces of the World, 1977〔未邦訳〕)などと同様に、口承言語と書記言語と思想との絡み合いを論じる。著者ゲルリックには、『中世における書物の観念』(The Idea of Book in the Middle Ages: Language Theory, Mythology, and Fiction, 1985〔未邦訳〕)という著作があり、これは非常に面白かったので、その続編と思われる本書も入手。『中世における書物の観念』は邦訳が欲しいところ。

R・ドブレ『メディオロジー入門 ―― 「伝達作用」の諸相』西垣通監修・嶋崎正樹訳(NTT出版 2000年)
 
単なる知識伝達である
Communicationと区別して、力や意味の伝達であるTransmissionを問題にする「メディオロジー」の概説。キリスト教が世界的な「力」をもったのは、教えの内容よりも、むしろ伝達を担った教会や宣教によるところが多い。それを思えば、情報の流通にあたって、「メディア」自体が独自の力をもっていることが十分に理解することができる。そうした理論を説くに当たって、ドブレがもちだすのが「天使論」である。メディア、あるいはメッセンジャーとしての天使というこの部分は実に面白い(「ハードサイエンスとしての天使論」p. 43-63)。この部分だけでも一読の価値あり。キリスト教思想の中で天使を論じるということは、同時に「階級」を論じることであり、その意味では、天使の階級論である『天上位階論』を書いたディオニュシオス・アレオパギテスが、制度の確立者パウロの後継者を名乗ったのは決して偶然ではない。要するに、メッセンジャーとしての天使は同時に権力の体現者なのであり、その点でメディアというものは、常に権力と不可分なのだと論じるその発想力は見事。そしてメッセージの伝達者は同時に妨害者でもあり、そのために最高の身分の天使が、悪魔に転じるのだとも言われる。「〔悪魔を意味する〕ディアボロスとは、本来の意味では妨害するもののことだが、それはメッセンジャーを意味するアンゲロス〔天使〕の別名にほかならない。秩序から無秩序への可逆性は厄介な問題なのだ。総括すれば、悪魔とは神にとっての他者ではないのだ。それは力を行使する際の神の似像だということができる。雑音はメッセージそのものの中に見出されるのだ」(p. 57)。この天使論全体を丸々写してしまいたいくらい、この部分は冴え渡っている。

J.=L. ナンシー『侵入者 ―― いま<生命>はどこに?』西谷修訳編(以文社 2000年)
 ナンシーが自らの心臓移殖の体験を元に、それにまつわる経験を生命と死、自己と他者といった問題として語ったもの。拒絶反応をも「私の内に侵入者がおり、私は自分自身にとってのよそ者となる」
(p. 28)という仕方で「哲学的に」語っている。正直言って、これはかなり失望した。このような体験を「哲学」として語ってしまうというのは、哲学者としてはまさに魔がさしたとしか言いようのない失策である。移殖前の心臓病の体験について、「半分しか脈打たない心臓は、半分しか私のものではない」(p. 13)などと記しているが、病を通して初めて、身体が完全に自分のものではないということを納得したというのでは、哲学者としての想像力の貧困を自ら暴露して、むざむざ恥を晒しているようなものである。これは、ナンシーの名誉のために読まなかったことにしておこう。それにしても、この種のテクストを意味ありげにもちあげてしまう長文の訳者解説も、恥の上塗りのようで、何とも気持ちが良くない。やはりここはそっと通りすぎることにしたい。少なくともナンシーの「思想」に興味のある人は読む必要のない書物。

Ph. Lacoue-Labarthe, J.-L. Nancy, The Literary Absolute. The Theory of Literature in German Romanticism, State U. of New York Pr. 1988
Ph. ラクー=ラバルト・J.=L. ナンシー『文学における絶対者 ―― ドイツ・ロマン派の文学理論』)
 仏語原書
L'absolu litteraire, 1978の英訳。ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシーのコンビによるドイツ・ロマン派論。「序:体系としての主観、第一章:断片 ―― 断片の必要性、第二章:芸術の限界内における宗教、第三章:名前なき芸術、第四章:批評 ―― 性格の造形」といった章立て。書物の標題、および「芸術の限界内における宗教」などという言い方からも分かるように、芸術を絶対者の現出の媒体として理解する初期ロマン派の議論を展開したもの。断片性と無限の発展という解放性をもちながら、そこに絶対性の顕現を看て取るという点で、ロマン派の理論はきわめて現代的である。かつてドイツの哲学的解釈学との関係でロマン派の再評価がなされた時期があったが(E.Behler, J. Hörisch, Die Aktualität der Frühromantik, F. Schöningh 1987)、現在はベンヤミンとフランス哲学経由の再評価が主流になってきたようだ。ロマン派自身がカントの中で最も重視するのは、当然のことながら『判断力批判』である。ここには、カントの崇高論などとの理論的な関係も生じてくるだろう。ラクー=ラバルトとナンシーは、ドゥギー他著『崇高とは何か』梅木達郎(法政大学出版局 1999年)にも卓れた論考を寄せていた。

『トマス・ド・クインシー著作集』野島秀勝他訳(全四巻、国書刊行会 1995-2002年)
 かつて、平井呈一氏を中心に、牧神社で作品集成が企画されたものの、実現を見ずに平井氏も亡くなってしまった。その後、由良君美氏が企画自体を引き継ぐかたちで進められていたが、その由良氏も他界したのちに、ようやく形を取った。英語のエセーとして評判の高い「イギリスの郵便馬車」や、これまた有名なマクベス論「門口のノックについて」、ゴシック小説「悪魔の骰子」、などなど。『阿片吸引者の告白』など、随所にラテン語、ギリシア語が紛れ込み、トマス・ブラウン『医師の信仰』
Religio Mediciの十九世紀版の赴き。著作の種類も何とも雑多である。文学者・思想家・評論家のどの名称を当てても常にずれが生じる複雑なクインシーは、いささか古風な意味での「文人」といったところだろうか。思想的にも、イギリス人でありながら、ドイツ思想に共鳴した混淆(ハイブリッド)の人として、個人的に思い入れがある。そんなこともあって、現在の定本であるマッソン版の14巻ものの全集が、私のところには二組ある(一組は原装、もう一組は改装されたモロッコ皮装)。
 今回の日本語版著作集はまさに慶賀すべき事業。代表的なものはこれで日本語で読めるようになった。ただし、『阿片吸引者の告白』は、後の増補改訂版ではなく、分量的にはその三分の一の初出時のもの。またクインシーには『修辞学』、『文体論』などの、言語・文学論があるが、それは今回は収められていない。『カントの最後の日々』が収録されたのは嬉しい。形態の上では、本体は一巻一巻が大きいうえに(約
500頁)、本文用紙が固く、開き具合が悪いのが少々気になる。本文中の欧文フォントは何ともいただけない。ギリシア文字のフォントは妙に綺麗なのだが、気息記号というものがきちんと理解されていないらしく、その辺の処理はいい加減。

Physica sacra des Johann Jacob Scheuchzer (1672-1733), ausgewählt und erläutert von Hans Krauss, Universitatsverlag Konstanz GMBH 1984
(『ヨハン・ヤコプ・ショイヒツァーの<神聖自然誌>』)
 十八世紀の壮大な奇書のひとつ、ショイヒツァー『神聖自然誌』のなかから、
110点の図版を選んで解説を付した大判四折判の書物。聖書の記述を「科学的に」説明しようとする倒錯した試みゆえに、そこに付された図版は圧倒的な奇矯さを誇る。創世記の人間誕生の図版では、天を仰ぐアダムを中心的な画題としながら、その周囲には十八世紀当時に分かり始めた胎児の発達過程が月ごとに図像として示されている。しかも八ヶ月目からはその胎児が骸骨として描かれるなど、そのグロテスクぶりは徹底している。十一箇月目は、赤ん坊の骸骨がこの世に生まれる悲惨を嘆いて、薄布で涙を拭っているのだが、解説を読むと、その薄布は人間の皮膚ということになっている。その気になってあらためて図像を見なおすと、当の薄布には無数の毛細血管が走っていた!
 啓蒙の十八世紀、理性の時代と呼ばれるものの実情はこうしたものなのだということを見せつけられるような思いがする。図版の複製もかなり精度が高く、その異様さが一段と際立つようだ。ちなみにこの『神聖自然誌』は、荒俣宏氏が「ファンタスティック12」(リブロポート 
1990年)で紹介して、相当の数の図版を掲載している。版型の問題もあって、図版自体の仕上がりは多少落ちるが、これはこれで荒俣氏の図版の選択もよく、十分に楽しめる。

ガタリ『カオスモーズ』宮林寛・小沢秋広訳(河出書房新社 2003年)
 実存主義的な「決断する主体」でも、構造主義的な主体の還元論でもなく、新たな「主体感」を模索する提言。「部分的で、人格以前にあり、多声音楽的に浸され、集合的で機械状を呈する主体感」
(p. 39)を創造することは、芸術家の創造、経済活動、精神分析などなどを貫いて、それぞれの「宇宙」で過程として遂行される。これらの主体感の創造は「審美的なパラダイム」に属すると言われ、美や芸術が、新たな主体感の創造の場面とされるの興味深い。カントで言えば、『純粋理性批判』でも『実践理性批判』でもなく、『判断力批判』の主題である。 現代は第三批判の時代らしい。
 ここでは、生成を重視する存在理解が提示されるが、かといってそれは、ヘーゲル的な「主体
=実体」ではない。「言表行為の非言説的次元と、複雑性とカオスのあいだを連結する必要性を把握することで私たちは、流れ、機械性系統流、価値宇宙、実存的領土を横断する存在論的生地というエレメントとして、対象化以前の実体という概念を提案することになりました」(p. 199)
 それにしても、こうしたガダリの文章は、文体的にも内容的にもグレッグ・イーガン『祈りの海』
(ハヤカワ文庫)などの最近のSFを髣髴とさせる。『祈りの海』所収の「ぼくになることを」などは、脳のバックアップを作成した場合、「主体感」はどこに(あるいは、いかに)作られるのかという主題が扱われている。

H. Blumenberg, Ästhetische und metaphorologische Schriften, Suhrkamp 2001.
(ブルーメンベルク『美学・隠喩論論文集』)
 新編集の論文集。レクラム文庫の論文集『われわれの生きている現実』とかなり重複しているが、それに加えて、「メタファーとしての光」
(『光の形而上学』として朝日出版社より邦訳あり)や、かつて『詩学と解釈学』(Poetik und Hermeneutik)に収められた神話論などを収録しているので、ブルーメンベルクへのアプローチとしては最適。しかし、『われわれの生きている現実』との重複論文の問題もあるので、おそらくこのままでは全体が日本語で翻訳出版されることはないだろう。ズーアカンプ社は、翻訳についてもかなり厳格で、他言語版での独自の編集などを認めないらしい。それを考えると、レクラム文庫との重複論文を除いたうえでの翻訳出版ということも難しそう。いずれにせよ、ドイツ語のできる人へのブルーメンベルク入門としては、真っ先に本書がお薦め(もちろん、読みきるのは相当に大変だと思うが)

G. Mazzotta, The New Map of the World. The Poetic Philosophy of Giambattista Vico, Princeton U. Pr. 1999.
(『世界の新たな地図 ―― ヴィーコの詩的哲学』)
 名著『ダンテ ―― 砂漠の詩人』の著者マッツォッタのヴィーコ論なので、何を措いても入手。ヴィーコのバロック的著作『新しい学』は、哲学の詩的起源としてのゾロアスター(ツァラトゥストラ)、オルフェウス、ピュタゴラスといった形象を打ち出してくる点も興味深いし、ホメロスにおける捩れた歴史意識という感覚もあらためて考えてみたい問題でもある(ちなみに、『新しい学』の扉絵では、ホメロス像が乗っている台座は「罅割れて」いる)。

バーク『ヴィーコ入門』岩倉具忠・岩倉翔子訳(名古屋大学出版会 1992年)
 バーリン『ヴィーコとヘルダー』
(みすず書房)や上村忠男氏のものを除くと、日本語で読める数少ないヴィーコ論。しかし、あくまでも歴史的・思想史的な解説を中心にした「入門」であって、現代になってなぜヴィーコが一部の人々の関心を引いているのかという点には言及がない。ホワイトの物語論における位置づけや、サイードとの関係など、現代思想との関係で、もう少し踏み込んだヴィーコ入門が書かれないものだろうか。巻末には訳者の岩倉具忠による「ヴィーコと言語」といった長文の論考が付されているが、これも本文と同様に思想史的なアプローチなので、本文を二度読まされるような印象がある。別の個所に出された論考をほぼそのまま収録していること自体は悪くはないが、やはり書物の「解説」である以上、違った角度からの考察が欲しいところ。

E. Brient, The Immanence of the Infinite. Hans Blumenberg and the Threshold to Modernity, The Catholic U. of America Pr. 2002.
(『無限の内在 ―― ハンス・ブルーメンベルクと近代への移行』)
 「無限性」をキー・ワードとして、ブルーメンベルク『近代の正統性』を整理しなおそうという議論。宇宙論における無限論と、哲学・神学における無限論を並行して考察する視点もブルーメンベルクをなぞっている。特徴といえば、コペルニクスの理論をめぐるアレントの議論との対比が含まれている点、さらに、ブルーメンベルクが直接には論じなかったエックハルトが大きく取り上げられている点だろう。ちなみにアレントとの比較は
"Hans Blumenberg and Hannah Arendt on the 'Unworldly Worldliness' of the Modern Age"として、Journal of the History of Ideas 61 (2000)に掲載されているようなので、いずれ図書館でコピーをしたい。

宇野邦一『反歴史論』(せりか書房 2003年)
 
個別には興味深い指摘が多く盛り込まれているが、全体の問題設定がなかなか見えてこない。ニーチェ、小林秀雄、ペギー、レヴィ=ストロースなどの、歴史批判が論じられる。しかし、特に標題となった冒頭の「反歴史論」だけでは、なぜことさらに歴史に「反抗する」というモチーフが重要なのかがほとんど掴めない。最後の論考になって、本書では「歴史」というものを俎上に乗せながらも、最終的には「意識」や「主体」といったものの発生が問われているということが朧げに見えてくる。意識の始まりを捉えるとは、「みずから始めるのではなく、始まること自体に始まることを委ねなければならないのだ。それは、決して雄々しく主体的に始める(構成する)ことではないが、少なくとも私を貫いて何かを構成するもの、その構成の過程、構成の力を、ただ解放するようにして、世界に対することであるかもれない。私が<歴史>を批判するようにして考えてきたことは、ただ<歴史>として構成されるものの構成の過程に潜む劇に立ち会うためであったかもしれない」(p. 246)。こう言われてようやく事情が飲み込めてくる。むしろこの議論を最初に持ってきてくれれば、全体の見通しが随分良くなると思うのだが。

ボッシー『ジョルダーノ・ブルーノと大使館のミステリー』浜林正夫・鏡ますみ・葛山初音訳(影書房 2003年)
 
原著
の存在は以前から知っていたが、Giordano Bruno and the Embassy Affairsというその原著タイトルからは中身が分からないので、ネットの洋古書店で見つけても買い渋っていた。この邦訳を見て、ロンドン滞在中のブルーノの活動を物語風に綴った歴史書ということが初めてわかった。定価が9,500円もするのだが、訳者たちがなぜこんなものを訳そうと思い立ったのか、また現在の読書界にどういう意味があると考えたのかなどは、その「訳者解説」からも一切窺い知ることはできない。本文でも散々触れられているイェイツの『ブルーノとヘルメス的伝統』の邦訳もないところになぜこれを紹介するのか、訳者の意気込みを大いに知りたいところなのだが。

フロイト『モーセと一神教』渡辺哲夫訳(ちくま学芸文庫 2003年)
 かつて日本エディタースクール出版部で出ていたものの文庫化。訳者による「熱い」解説「歴史に向かい合うフロイト」が付されていて、なぜ訳し直しが必要であったのかという文体上の理由に至るまで、本書の本質に関わるものとして論じられている。上記ポッシーの訳者の姿勢とは対照的。

デリダ『フィッシュ』逸見龍生訳(白水社 2003年)
 まさにあの同時多発テロの起こった2001年9月11日に行われるはずだったアドルノ賞の授賞式が、22日に延期されて行われた際の講演記録。それにしてもアドルノは、例の「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮だ」という発言で20世紀後半の思想状況を象徴していたが、誕生日が9/11ということで、21世紀にとっても象徴的な人物になってしまった。

薗田坦『クザーヌスと近世哲学』(創文社 2003年)
 無限論、およびそれと結び付いた「知ある無知」の議論を一つの核として展開される前半と、ルネサンス自然思想を中心とする後半とに大別される。後半部分では、ルネサンスの魔術思想なども主題となるのだが、その内容と題材はおおむねカッシーラー『個と宇宙』に拠っており、特に目新しい知見は見られない(
ちなみに著者は、カッシーラー『個と宇宙』〔名古屋大学出版会〕の訳者)。やはり、哲学的思想を論じた前半が本書の要だろう。

トゥールミン『近代とは何か ―― その隠されたアジェンダ』藤村龍雄・新井浩子(法政大学出版局 2001年)
 デカルトから始まる近代は、ルネサンスを幕開けとする近代とは異質のものであったという主張。つまり、近代にはいわば楕円のように二つの中心があり、現代において「近代」とみなされているのはそのうちの一方、つまりデカルトの近代でしかない。ルネサンス人文主義によって成立した寛容な人文主義的精神という意味での近代は、デカルト的近代によってかえって停滞して「隠された」という理解。要するに、現代における人文主義の復権を訴える主張だが、議論はなかなか詳細で、多様な要素が盛り込まれていて面白い
(いずれ書評を書きたい)

M. Ferrari, Ernst Casssirer. Stationen einer philosophischen Biographie (Cassirer-Forschungen Bd. 11), F. Meiner 2003.
(フェラーリ『カッシーラー ―― 哲学的伝記の諸段階)
 
思想内容に即した本格的な発展史の試み。『認識問題』から始まって、カント研究、ルネサンス論、『象徴形式の哲学』、文化哲学という発展段階を追っている。ヴァールブルクとの出会いは、「危険な蔵書」という一章を割いて論じられている。文献表も充実している基本的文献。

Internationales Jahrbuch für Hermeneutik, Bd. 1, hg. G. Figal, Mohr Siebeck, 2002.
(『解釈学国際年報』第一巻)
 
フィガール、ガンダー、
G. ベーム、グロンダンなど、解釈学を代表する研究者たちが編集主幹となっている雑誌が立ち上がった。論文として収められているのは、かならずしも狭い意味での「解釈学」に限定されず、言語・歴史・芸術に関わる隣接領域を主題としているもの。時代的にも古代から現代までが射程に入っている。「哲学的解釈学」というガダマー的な理念にかならずしも縛られているわけではない。中心的な主題(いわば特集)と一般論文という二部立ての構成。第一巻の主題は「言語」。

Internationales Jahrbuch für Hermeneutik, Bd. 2, hg. G. Figal, Mohr Siebeck, 2003.
(『解釈学国際年報』第二巻)
 
上掲雑誌の第二巻。今回の特集は「人文主義」
(Humanismus)。デリダが2002に行った講演「将来の啓蒙の<世界>」というものの独訳が巻頭論文。

ハーマン『北方の博士:ハーマン著作選』
 
いろいろな意味で辛い書物。もちろん、最大の難関はハーマン自身の本文。名にし負う難解さではあるが、これほどまでとは思わなかった。比喩や神話的・聖書的仄めかしなしに一文も行文が進まないかのようで、何を言わんとしているのかをおおよそ掴むというレベルですでに支障をきたす。おそらく訳文が悪いというのではなく、本文そのもののせいだろう。二分冊構成のうち、二冊目が註解になっており、よく調べたと思えるような出典表記や、内容のパラフレーズなどもあるが、それをもってもなかなか本文は歯が立たない。『理性の純粋主義へのメタクリティーク』なども、以前原文で眺めて、ほとんど理解できなかったが、今回翻訳で見ても、分からないことにあまり変わりない。例えばこんな文章。「しかしながら、高みより昇りゆく新たなるルシファーの訪れをまつことなく、また<偉大なる女神ダイアナ>の無花果の木に手をつけることなく、卑しき民の言葉という悪しき胸中の蛇は、われわれに感性的自然と悟性的自然とが実質的に一体化するというきわめて麗しい喩えを与えてくれる。かくして、それらの力はそれぞれに属するものをともに交わらせ、<アプリオリ>と<アポステリオリ>という互いに照応しつつも矛盾する二つの形姿を統合する秘密が明らかになる。すなわち、繋辞の鶴の一声あるいはその虚辞によって、命題と反対命題による周期的駄弁の長き間合いは縮められ、その虚ろな空間は満たされ、これにより主観性の諸条件は化体変貌をおこし客観性の呼称や目印のもとへと包摂されるのである」。とにかく全編がこんな具合。「命題と反対命題による周期的駄弁」というのは、アンチノミーのことだろうか。
 さらには、この書物自体の作りがかなり素人くさく、理解不能な余白があったり、巻末の欧文文献表はフォントがあまりに小さかったり、訳者の好みらしい可笑しなルビがあったりで、これもまた読書を辛いものにしている。『美学提要』に「びがくのくるみ」というルビを振るといった種類の扱いは、この訳者本人の著作『北の博士・ハーマン』
(沖積舎)にも見られたものだが、これはハーマンの感覚とはいささかずれているような気がしないでもない。値段も結構するので、「あの」ハーマンが日本語で読めるようになったからといって、手放しで推奨はしかねるもの。

G. Sebba, The Dream of Descartes. Assembled from Manuscripts and edited by Richard A. Watson, Southern Illinois U. Pr. 1987.
(『デカルトの夢』)
 
1619年11月10日に、有名な「炉部屋」でデカルトが見たとされる夢について考察した研究書。近代の創始者デカルトを薔薇十字や錬金術と接触させる題材として最近興味をもっている。この夢については、デカルト本人の記述は残っていなくて、バイエの伝記が最大の手がかりとなっている。このバイエの伝記も『デカルト伝』
井沢義雄・井上庄七訳(講談社 1979年)として翻訳されていたが、残念ながらこれはバイエの伝記の縮約版なので、夢の記述そのものは載っていない。

Ph. J. Davis, R. Hersh, Descartes' Dream. The World according to Mathematics, Houghton Mifflin Company 1986.
(『デカルトの夢 ―― 数学による世界』)
 これも上記と同じ関心からタイトルのみを見て入手したところ、見事に失敗。元旦に届き、しかも表紙がミヒャエル・マイアーの錬金術書の図像なので、今年は幸先が良いと一瞬色めき立ったが、内容を見て見当外れに気がついた。副題にある通り、数学的世界観にどれほどの現代的可能性があるかということを論じる書物であって、
(冒頭に比喩として触れられている以外)デカルトの炉部屋の夢とは直接には関係がなかった。タイトルは、デカルトが抱いた「普遍数学」という「夢」のこと。とんだ粗忽な勘違いだった。

『フィヒテ全集 19 ―― ベルリン大学哲学講義』藤澤賢一郎訳(晢書房 1995年)
 以前原典を読んで、実に苦労した思い出だけが残る「意識の事実」
(1810)が翻訳されている。1812年の「知識学」も収録されているので、哲学的な関心が強い人にとっては、最も「買い」の一巻(かなり値は張るが)。とりわけフィヒテ後期の「像」理論にとっては欠かせない著作。しかも、両者とも、I. H. フィヒテ(哲学者フィヒテの息子)が編集した全集の補巻というかたちでしか入手できないので、その意味でも貴重な一巻。1812年の知識学は、「像についての像の像」やら、「現象は、自己に対して現象するとして、自己に対して現象する」といった再帰的用法がこれでもかとばかり押し寄せて、まさしくドイツ観念論の醍醐味が存分に味わえる。
 この邦訳フィヒテ全集は、まだ完結は相当先になるだろう。この巻の訳者である藤澤氏も、これを出したあと、若くして亡くなられてしまった。ちなみに、この出版社、ネット古書店などでときどき「書房」と表記されていることがあるが、正しくは「書房」。版元「晢書房」、販売「理想社」となっているが、これは出版社が取次ぎに卸す時の「掛け率」が関係しているらしく、不利な新興出版社は、既存の出版社に相乗りするかたちを取るものらしい。

山本義隆『磁力と重力の発見』全三巻(みすず書房 2003年)
 磁力と引力といった現代物理学の基本的概念は、物と物とが接触なしに作用し合う「遠隔作用」であるため、古代・中世では「魔術的」なものとされて、正統的な理論家たちはこれを否定してきた。現代物理学が成立するには、こうした「魔術」を復権し、理論的に取り込む必要があったわけだが、本書はそうした経緯を、さまざまな一次資料を踏まえながら論じていく力作。著者はカッシーラー『アインシュタインの相対性理論』
(河出書房新社)や『認識問題 4(みすず書房)などの訳者でもあるが、大学人ではなく、予備校の教師をしている人物。大学外から発信される本格的な研究書というのは実に頼もしい。

若林啓史『聖像画論争とイスラーム』(知泉書館 2003年)
 大学以外のところから発信された良質の成果という点では、この著作も挙げられる。著者は元外務省のお役人で、いまは山梨県警の警務部長とのこと。実務出身の著者だけに、文章は非常に明快で、余計な修辞などがないさばさばしたもの。イスラームの神学者アブー・クッラの思想を中心に、ヨハネス・ダマスケヌスをもう一つの柱としている。巻末に『ダマスケヌス伝』と、クッラ『聖像画崇敬論』の翻訳が付されている。興味深いものではありながら、なかなか日本語での本格的紹介がなかった聖画像破壊論争
(イコノクラスム)が、原典を元に概観できるようになったのはありがたい。

今村仁司『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫 1993年)
 読んでいる時はそれなりに面白いのだが、「紹介」という意味合いが強いせいか、読後にあまり印象が残らない。多少引っかかるものとして、「個物の救済」と題して、ベンヤミンと林達夫を比べた短い文章があった。しかし、「細部感覚、微細感覚、差異感覚」などを共通点として両者を比較しているのは、今となってはあまりに当たり前すぎるだろう。本当のところは、この二人のあいだには相当に大きな感覚の隔たりがあるような気がする。林達夫は、どう転んでも『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序文」などを書いたりはしないだろう。ベンヤミンの溢れる思弁性にもう少し注目したいところ。フィヒテからドイツ・ロマン派といった圧倒的な思弁の系譜にベンヤミンを置き入れるほうが、「細部感覚」や反体系的・反ヘーゲル的感性という点のみからベンヤミンを闇雲に賞揚するよりも生産的に思えるのだが。ただ今村氏も、林達夫の「受動的享受者」としての姿勢と、ベンヤミンの「個物の救済」とを区別してはいるので、その辺りをもう少し展開すると面白くなるのかもしれない。


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