書 評

プラーツ『官能の庭 ――マニエリスム・エンブレム・バロック(ありな書房)

  ―― 魔術的結合術の秘法 ――

 本書のような膨大なデータを盛り込んだ著書についてしばしば言われる「博覧強記」という言葉は、この『官能の庭』の著者プラーツを評するには、実はあまり適切な言葉ではない。そもそも、インターネット始め、古典的著作のCD-ROMなど、さまざまな検索手段が手近にある現代にあっては、情報量が多いこと自体はもはや何ら誇るべきことではないからである。むしろ、すでに誰にとってもアクセス可能なそれら大量の情報をどう使って、一見結び付かないデータ同士をどのように繋ぐかということこそが、著者の力量の揮いどころなのであり、互いに無関係に見える諸事象の根底を貫く意外な隧道を見出し、常識では思いも寄らない結びつきを鮮やかに浮かびあがらせるところにこそ、書き手の卓越した鑑賞眼の見せ場があるのだ。本書『官能の庭』の巻末には、26頁に及ぶ人名索引が付されており、1000人を越す固有名詞が居並ぶさまはまさに壮観ではあるが、プラーツの読者は単にこのことだけで驚いてはいけない。時代と言語を問わず、著者の感性によって嗅ぎ取られた「類似」を元に、魔術的な手腕で彩り豊かな「布置」(Konstellation)を描き、「反対物の一致」(coincidentia oppositorum)を具現していく技倆にこそ驚嘆し、陶酔すべきなのだ。

 本書『官能の庭』には、ただ情報を検索して羅列するたぐいの「博覧強記」からは到底思いも寄らない、意想外にして電撃的な出会いが随所に仕掛けられている。『地球の聖なる理論』のトマス・バーネットが『壷葬論』のトマス・ブラウンと並べられ、その隣にダンテが据えられるかと思えば、連想ははるか十九世紀のラムにまで及ぶといった連結の手妻に酔い痴れることが、この本の読者には要求されている。しかし本書の主題が「マニエリスム・エンブレム・バロック」であることを思えば、それはあまりに当然のことなのである。マニエリスムとは、「…多様な晦渋さを、多義的で微妙な暗示の中に混淆させ、隠蔽し、増殖させる」(p. 62)ものであり、「いまだ固定されざるもの、動揺してやまないもの、越境するもの、美しくも歪みあるもの、自在無碍なる言葉の暗喩、驚愕のあまり感覚を麻痺させるもの、さらには強烈な刺激によって感覚共振を呼び起こすもの」(p. 48)だからである。そうした多義的で重層的な感性を論じる手続きが、古典的な正型的行論に納まるはずはない。「一つの文章をコンテクストから切り離しておよそ的外れな意味を付与」したり、「自己の感性に少しでも似通ったところのあるテクストを残らず発掘する」という「認知の衝撃」がここでは十全に発揮されることになる。

 そうした「認知の衝撃」の系譜をプラーツ自身が追っているその繋がりを辿ってみよう。『さかしま』のデゼサントから始まり、T.S.エリオットによる形而上詩の再評価、ダン、クラショー。形而上詩的感性の現代的蘇生としてのボードレール、ランボー、シュール・レアリズムなどはまだまだほんの小手だめし、さらに遡ってバロック的感性の先駆者としてモンテーニュ、その19世紀的後継者としてのラム、そしてそれらの綺想を予言する多元的才能としてのディドロ、そのディドロが模範とした『トリストラム・シャンディ』のローレンス・スターン、そしてタッソ、ペトラルカの後継者たち、ユーフュイズム、絵画のほうでのフォンテーヌブロー派、パルミジャニーノ、さらには奇怪な巨人群像で知られるボマルツォの奇園、綺想(コンチェット)の理論家としてのバルタザール・グラシアン、『アリストテレスの望遠鏡』のテサウロ…。このような目くるめくような繋がりを押さえるなら、エンブレムやインプレーザといった、通常の美術史では傍流に追いやられがちなジャンルが前面に出ているのも、この同じ感性に由来するということが分かってくる。なぜなら、このエンブレムやインプレーザこそ、絵画という視覚芸術と、詩文といった言語芸術という互いに異なったジャンル同士をぶつかり合わせ、そこに新たな衝撃的意味の産出の場を見届けるという綺想に充ちた実験だったからである。

 「詩は画の如く」(Ut pictura poesis)という古典的なモットーを文字通りに体現してしまったエンブレムの文化は、こじ付けをも怖れずに、類似という類似を繋ぎ合わせ、関連のないところに強引に結合を産み出していく。プラーツの議論では取り上げられないほど初歩的な例であるが、「哲学」を表すエンブレムとして、Θ(Th)とΠ(P)の文字をあしらった階段上の衣装を纏い、頭の周囲に雲を浮かべた女性が描かれる ―― なぜなら哲学は、理論(Theoria)と実践(Praxis)を扱い、論理の「階段」を辿って、下位の学科から「天上的な」形而上学にまで至るから。これがエンブレムやアレゴリーの基本的な発想の仕方であり、ここからいわゆる図像学的な解釈というものも展開されることになる。ラファエッロの「アテナイの学堂」ではなぜ階段が描かれているのか、そして中央にいるプラトンとアリストテレスがなぜそれぞれ『ティマイオス』(理論)と『ニコマコス倫理学』(実践)を小脇に抱え、その背後にはなぜ雲が浮かんでいるのかは、ここから謎解きのように見えてくるという寸法である。しかしこの種の図像学の読解手法は、エンブレムやアレゴリーをある種の定型として範例化するために、それらが本来もっている起爆力を削いでしまう惧れがあるのも確かである。図像を読み解く範例として確立されたエンブレムは、いわばすでに死んで化石化したエンブレムである。プラーツが注目しようとするのは、そのような図像学的読解の定式として取り込まれる以前に、エンブレムなりアレゴリーなりが力を孕んで生まれてくる状況そのもののほうである。一つ一つは児戯に類する着想が積もり積もって、大規模な意味の組み替えを招来する、そのありさまにこそプラーツの感性は共鳴する。意味が地滑りを起こし、本来並ぶはずのない地層同士が隣り合い、出会うことのありえないもの同士が火花を散らしてぶつかり合う ―― そうした異様な邂逅の秘儀こそがエンブレムやアレゴリー出生の秘密なのである。

 言語上のメタファーにも、手垢がついてクリーシェと化した「死んだメタファー」がある一方で、言語の創造性の秘密を体現するような、いままさに生成しつつある「生きたメタファー」(metaphor vive)があるとしたリクール『生ける隠喩』(岩波書店)の言い方に倣うなら、プラーツが注目するのは、まさに生けるエンブレム、生けるアレゴリーである。とはいうものの、エンブレムやアレゴリーを表すのに「生きている」という有機体の比喩を使うのは、かならずしも実態を言い尽くしてはいない。有機体がもつ全体的な調和や統合と比べると、エンブレムやアレゴリーは、むしろ部分と全体との不調和、具体的なものと普遍的なものとの葛藤を特質としているのであり、その点ではベンヤミンなどが共感するような「廃墟」でもあるからである。生成するエンブレムやアレゴリーは、その生成の力をむしろ死の側から借り受けているのである。死の廃墟から救い出された互いに無縁の廃品から、その組み合わせによって、新たな未曾有なる異貌の生を紡ぎ出す意味の錬金術が、ここで思いのままに暴走する。

 プラーツにとっては、歴史でさえ、このような異質なものの同時並列の場にほかならない。歴史の遠近感を狂わせて、懸け離れた時代をあたかも同時代であるかのように並列させる目くるめく感覚によって、バロックと現代とが数世紀を隔てて事もなげに結びつく。本書の冒頭の文章で、「芸術における奇矯なものや異様なものに関する多くの書物」という個所に註で真っ先に挙げられている『幻想の中世』(改訂新版:平凡社ライブラリー;旧版:リブロポート)の著者バルトルシャイティスなどと傾向を同じくする点である。  このような大文脈の中に置き入れてみると、プラーツの名を一躍有名にした『肉体と死と悪魔 ―― ロマンティック・アゴニー』(国書刊行会)も、けっしてプラーツの全体像を完全に示すものではないというのも明らかになるだろう。むしろ、プラーツが踏破しようとした広大な領域を正確に掴むには、世紀末デカダン文学を総覧したこの著作は、ある一定のイメージをあまりにも強烈に押しつけてしまうために却って誤解を産む元かもしれないのである。『官能の庭』でデゼサントの名前を目にしたなら、そこで思い浮かべるべきなのは、『肉体と死と悪魔』でのモローの「サロメ」の記述ではなく、室内の人デゼサントというイメージを隠れた核にして、膨大な図版を駆使しながらインテリアの歴史を通覧した『室内装飾の哲学』(未邦訳)なのだと敢えて言っておこう。その一方で、ヴィスコンティがプラーツをモデルにして、その著作の標題そのままに『家族の肖像』(Conversation Pieces 未邦訳)で作り上げた目利きの老教授というイメージを脱色するには、『綺想主義研究』(ありな書房)でのエンブレム研究をもち出す必要があるだろう。

 最近続々と邦訳の進むプラーツから、とりわけ『官能の庭』を取り上げたのも理由がある。現代美術を扱った『ペルセウスとメデューサ』(ありな書房)は、アンフォルメルに対する露骨で保守的な批判を開陳しており、それもまたプラーツらしいとは思うものの、この大著の場合は、偏った趣味が否定的に作用しているために、そうした趣味に共感できない読者を最初から辟易させてしまう可能性が高い。『ムネモシュネ ―― 文学と視覚芸術との間の平行関係』(ありな書房;旧訳・旧版『記憶の女神ムネモシュネ』美術出版社)は内容的に良いし大きさも手頃だが、多様な側面に驚嘆し大量の情報に眩惑されるというプラーツを読む醍醐味という点では、むしろ纏まりが良すぎて衝撃は小さいかもしれない。その点でやはり、『官能の庭』は、主題の広がり、扱われている題材の驚異的な豊富さ、その組み合わせの圧倒的な綺想など、どれをとっても群を抜いている。エンブレム関係についてはもちろん『綺想主義研究』のほうが遥かに詳しいが、逆に『綺想主義研究』のほうは、専門書的な色彩も強く、註がかなりの量を占めるという意味で、最初からエンブレムに関心を寄せる読者以外には奨めにくいという事情がある。またこの『綺想主義研究』の最初の一章の前半が、『官能の庭』にも収められているというは、『官能の庭』を奨めるポイントの一つでもある。翻訳も実に良いし、これほどの大量の情報にもかかわらず、生半可な表記がなく、訳註の程度も適切である。まさしく奇貨居くべしとは、このような書物に対してこそ言われるに相応しい。


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