修辞学の現在 |
elocutio est
idoneorum verborum et sententiarum
ad rem invetam
accommodatio.
雄弁とは構想された事象に対する適切な言葉と命題の適合である
キケロ『構想論』(Cicero, De inventione
I, 7)
「修辞学」という名称は、「哲学」と同様に、その言葉から具体的な内容をイメージするのが難しい言葉の一つだろう。「レトリック」と英語で言うと、文彩や言語表現の一つとして何となくイメージが湧くかもしれないが、この「レトリック」という語感は、元のRhetoricaに内実をとても汲み尽くしているようなものではない。ヨーロッパ古代・中世思想に多少なりとも関心をもっていれば、古代・中世で文科系の学問を代表するものとして、教養の中核を成していたということくらいが漠然とわかっても、それが実際にどういうものだったのかはあまり知られていないだろう。しかしこれはなにも、そうした分野をきちんと紹介してこなかった日本の「洋学」受容のあり方にばかり責任があるわけではない(もちろんそれも否定できないが)。実のところ、本家のヨーロッパでも事情はさして変わらないのである。「修辞学」というものの全容を見えにくくしている原因を、日本の特殊事情ばかりに帰すことはできない。ごくありていに言ってしまえば、修辞学を葬ったのは「近代」という時代なのである。したがって、その「近代」を駆け足で受容しようとした日本に、その修辞学がうまく伝わっていないというのは、当然といえば当然だろう。しかし、近代という時代そのものが疑問視される現状では、その反動として、そこで無視されていた修辞学の復権が叫ばれることになった。思想史の中での死者の群れが、ここでこぞって息を吹き返す。
日本でもある時期を境に「修辞学」を標題に冠した書物が目立つようになったのはそうした事情に呼応している。1980年にペレルマン『説得のレトリック』(理想社)、1981年にグループμの『一般修辞学』(大修館書店)が邦訳されたり、雑誌でも、1981年4月に『思想』が、1982年12月に『理想』が、同じく「レトリック」特集を組むなど、一頃修辞学についての本格的な考察が緒についた。『現代思想』の場合は、修辞学の特集を組む場合、「メタファーの修辞学」など、修辞学を総体として扱うというよりも、言語論・文学理論の側に重点を置く場合が多いようだ。現代のドイツでも、『修辞学 ―― 歴史的概念事典』という膨大な大事典の企画が1992年より始まり、現在第4巻(Kの項目まで)までが公刊された。
しかし何しろ、対象は10世紀にも及ぶ歴史をもち、その問題群も相当に込み入っているので、そうそう簡単に片のつく相手ではない。簡単にその来歴を振り返っておくにも、日本語ではなかなか簡単なものがない。ヴィッカースの『修辞学を擁護する』に相当するようなまとまった通史が日本語では求めにくいというのが偽らざる現状である。辛うじてロラン・バルトの『旧修辞学』(みすず書房)が小振りながら辛うじてその欠を埋めてくれると言ったところだろうか。ギリシアに溯る古い時代のものなら、廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(岩波書店)、あるいは『ギリシア人の教育』(岩波新書)のような著作があるのだが。
さて、修辞学とは、古代・中世の教育規範である自由七学芸のうち、文科系の三学(文法学・論理学・修辞学)>の一つだが、とりわけ中世では、理科系の四科(算術・幾何学・音楽・天文学)に比べて、言語を扱う三学が優位にあったため、修辞学の総体的な地位も相当に高く評価されていた。修辞学と訳されるRhetoricaには、雄弁術という訳語もあるように、基本的には演説の技術である。しかしすでにアリストテレスの『修辞学』がそうであるように、この演説技法は、単に言葉の洗練を競うものではなく、如何に聴衆を納得させて自分の説の味方に付けるかという、説得の技法であり、卓れて政治的なものであった。そのために雄弁家は、聴き手となっている大衆の水準や雰囲気を掴んで、主題をその場その場で臨機応変に替えるような必要もあった。そこで修辞学の中では、聴衆の心理状態の操作、いわば一種のデマゴギーが大きな位置を占めている。さらに聴衆の説得のためには、聴衆がどのような社会的通念を抱いていて、どの範囲の議論までなら受け容れられる可能性があるかといったことにも通じていなければならない。その意味で、修辞学は、コミュニケーション論であり、ある種の社会心理学、言ってみればカルチュラル・スタディーズのような発想を含んでいると言ってもいいだろう。それだけではない。演説を魅力的に見せるには、述べられる話題そのものの構成の技術はもとより、演者の身ぶり・手振り、発声法なども検討されなければならない。こうして、修辞学は、言語論、あるいは詩学ないし美学であり、また演技論でもあるのだ。こうして、近代ではさまざまに分化した学科(政治学、社会学、言語論、心理学、美学、etc.)が、修辞学の内で渾然一体となっていたわけである。
修辞学が学科としての体裁を整えることになったのは、何といってもキケロの『弁論家について』とクィンティリアヌスの『弁論家の教育について』の力によるところが大きい。発見・配列・呈示・記憶・演示という修辞学の五分野が確立したのものこの辺りである。そういった意味でも、『キケロー著作集』第7巻(岩波書店)で、この『弁論家について』が翻訳され、同時に高田康成『キケロ ―― ヨーロッパの知的伝統』(岩波新書)が出て、キケロの大枠を生き生きと描き出したのは、修辞学の紹介にとってはかなり決定的なことだと言っていいだろう。因みに、クィンティリアヌスのほうは、明治図書の教育学叢書から、ほんの一部分だけが抄訳で出ている(ただしこれは教育学の側面に力点が置かれた選択なので、修辞学そのものの核心部分が読めるわけではない)。
修辞学の一部門である「発見」とは、主題を選別し、論題を決定するという技法を指すが、ここで大きな役割を果たすのが、「トポス」と呼ばれる常套的主題のストックである。「弔辞のトポス」や「老年のトポス」など、演説のための決まり文句、名句の総体のようなものと思えばいだろう。こうしたトポスを蒐めて、自分が演説したり物を書いたりするときの助けにするというのが、ヨーロッパ中世の教養のたしなみの大きな部分を占めていた。後のエラスムスの『対話集』やモンテーニュの『エセー』は、こうした習慣の末裔なのだと考えれば、その素性が随分と良く分かってくるはずである。しかし、そうした直接の伝承関係にとどまらず、ヨーロッパ文学全体をこのトポスの展開として捉えようとした壮大な試みがある。クルツィウスの圧倒的な名著『ヨーロッパ文学とラテン中世』(みすず書房)である。クルツィウスは、隠蔽されていた修辞学の伝統を逆手にとって、逆にそれを、ヨーロッパを断絶のない統一体として一挙に掴み取る武器としたのである。ここでは、ひたすら自分自身の独自性に固執し、古代・中世を自分から切り離して抑圧しようとしていた近代の強烈な自己意識があっさりと相対化されてしまう。そうした乗り越えの技法として修辞学を捉え直す感覚は、ホッケ『文学におけるマニエリスム』(現代思潮社)などにも共通して指摘できる点である。それは言ってみれば、歴史の実体などというものに信頼を置かず、言語という表層で演じられる同一性のみを、辛うじて張り渡されている命綱として、歴史の断絶を跳躍して行く軽業師の技法とでも言おうか。レイナムの『雄弁の動機』(ありな書房)が、そうした感性を充全に展開し、ポスト・モダン風修辞学を鮮やかに描いている。
歴史を一跨ぎで総括してみせるこうした名人芸にとって、修辞学は有利な足場を提供しているが、逆に、歴史をより微細に見て行こうとする思想家にとっても、修辞学という要素は欠かせない。それが最も典型的に現れるのがルネサンス評価である。その代表格が、イタリア出身でドイツで活動したE・グラッシであり、アーペル『人文主義の伝統における言語の理念 ―― ダンテからヴィーコまで』だろう。この両者においては、ダンテとヴィーコはいわば思想史の定点として扱われ、ともにカッシーラーなどに代表される哲学的かつ新プラトン主義的ルネサンス理解に対して、人文主義の伝統の展開としてルネサンスを捉える議論を展開している。前者のグラッシは、『形象の力 ―― 合理的言語の無力』や、『人文主義の哲学的問題:入門』などで、その問題と正面から取り組んでいるが、そこで俎上に挙げられるのが、ダンテであり、その師匠であるブルネット・ラティーニ、ペトラルカ、レオナルド・ブルーニ、ムッサート、サルターティ、ヴェロネーゼ、ロレンツォ・ヴァッラ、そして何よりもヴィーコである。このグラッシは、ルネサンスという特定の時代における修辞学の役割を強調する一方で、修辞学を歴史的定項とみなすトポス論の感覚も共有している。何よりも、彼はロヴォールト社のドイツ百科全書シリーズ(Rowohlts deutsche Enzyklopädie)の編集主幹を担当し、その一環として、ホッケ『迷宮としての世界』とともに、『文学におけるマニエリスム』を入れているのである。
このような系統の研究書を日本語で探すのはますます難しい。近藤恒一『ペトラルカ研究』(創文社)、『ペトラルカと対話体文学』(創文社)辺りが、辛うじてこうした路線での研究を提供してくれる。研究書ではないが、林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』(旧版:平凡社選書;新版:平凡社ライブラリー)は、対話というそれ自体修辞学的な形態で、修辞学的知を見事に演じてみせる名著である。ヴィーコを精力的に紹介している上村忠男の『ヴィーコの懐疑』(みすず書房)や『バロック人ヴィーコ』(みすず書房)などは、かならずしもこうした系統に直接連なるものではない。中村雄二郎『共通感覚論』(岩波書店)は、修辞学的知に関して現象学・解釈学の知見をも取り込みながら器用な整理を行っているが、思想史上の新たな知見が盛られているわけではない。思想的展開はむしろ社会論・法思想のほうに見られ、土屋恵一郎『社会のレトリック ―― 法のドラマトゥルギー』(新曜社)、菊池理夫『ユートピアの政治学 ―― レトリック・トピカ・魔術』(新曜社)などの成果が産まれている(前者にはすでにレイナム『雄弁の動機』への言及がある〔ただし「ランハム」と表記されている〕)。
近代の遅れてきた修辞学者ヴィーコが、デカルトを仇敵としてその批判を展開しているように、デカルト的思考と修辞学とはきわめて相性が悪い。デカルトからすれば、伝統に凭れかかり、変幻自在にさまざまな分野の知識を取り込んでくる修辞学は、「絶対的地盤」を模索する「方法」とは相容れないものと映ったのだろう。そうしたデカルト的知が近代の王道にのし上がって行く過程で、修辞学の領域は個々の学科として細分化され、元々もっていた活力を失うに至る。その結果、修辞学は、言語表現に磨きをかける技術というきわめて狭い領域に押し込められることになった。近代になっても「修辞学」に関わる書物は大量に作られつづけるが、それらはほぼそうした文彩に関わるものとして、美学の一部門を占める下位分野という扱いになっている。代表的なものとして、18世紀のヒュー・ブレア『修辞学講義』(H. Blair, Lectures on Rhetoric)、 ジョージ・キャンベル『修辞学の哲学』(G. Campbell, The Philosophy of Rhetoric, 1776)などは、18世紀イギリス美学の「趣味論」と「批評論」の分野に属するものであるし、ドイツのアーデルンク『ドイツ語文体論』(J. C. Adelung, Über den deutschen Styl, 1787)や、マルセ『転喩論』(Ch. du Marsais, Des Tropes, 1797)などは、その標題からして、扱う領域が限定されてきていることが分かる。しかしこうした趨勢も長続きはしない。文体の技巧として文学を語るという意味では、辛うじて古来の修辞学的傾向を残していたこれら一連の文体論・比喩論は、感情表現の手段として文学を捉えるような理解が主流を占めるに至って、最終的に時代から取り残されることになった。やがて来るロマン主義が響かせた足音は、同時に修辞学の弔いの鐘の音であった。この間の経緯を、18世紀の観相学なども取り込みながら周到に論じたのが、カンペ『情感と表現 ―― 17・18世紀の文学的話法の転換』〔未邦訳〕という500頁を優に越す大著である。
このように近代知の確立に気圧されて、衰退の一途を辿るかに見える修辞学だが、実はこの修辞学のある思考法が、その当の近代知を裏側から支える役割を果たしているという点も見落としてはならない。修辞学の五部門のうちの一つであった「記憶術」の役割である。ロッシ『普遍の鍵』(国書刊行会)、イェイツ『記憶術』(水声社)などが強力に打ち出した観点である。修辞学のなかで記憶術は、「発見」されたトポスや「配列」によって組み立てられた論旨をいつでも取り出せるように整理して記憶に蓄える技術であった。そこでは、記憶に便利なようにさまざまなイメージが組み合わされ、独特の想像力論が展開されることにもなった。ある場所を思い浮かべて、そこに記憶しておきたいさまざまな事象を配置し、その場面をしっかりとイメージすることで記憶に焼きつけるということが推奨された。地獄の地図を作ってそこに悪徳を配置し、天国の地図には美徳を配置するというようなことも一般的であった。そう言うとすぐに思い当たるように、ダンテの『神曲』というのも、こうした記憶術の大規模な展開だったのである。音の類似によるこじつけ(一種の駄洒落)すらも駆使して、覚えようとするものを何とかイメージ化しようとするのが、この記憶術の特色だった。この辺の具体的なテクニックは、カラザース『記憶と書物 ―― 中世ヨーロッパの情報文化』(工作舎)に詳しい。これは具体的なエピソードが豊富なばかりか、翻訳も実に優れているので、大著にもかかわらず、最後まで愉しく通読できる。
いずれにせよ記憶術とは、知識を分類し整序することで、知の全体の安定を図り、世界全体の基本的構造を何らかの仕方で抽出しようとする試みだったと言えるだろう。このような記憶術のもっていた配置の技法を採り入れ、論理化しようとしたのが近代の「方法」にほかならない。その改変の役を担ったのが、16世紀のラムスである。ここで興味深いのは、ラムスは修辞学を論理的学芸の一つに組み込む際に、記憶術を「脱落」させているということである。一見すると、ここで記憶術は捨て去られたようにも見える。しかし事情はその正反対であった。記憶術は、もはや一つの下位分野として指定することができない普遍的なものとみなされるために、名前としては消失したというのが本当のところなのである。むしろ「記憶」という主題にまとわりつく修辞学の伝統が、ラムスにとっては邪魔だったと言えるかもしれない。こうして、記憶術は、いわば脱色され、伝統の臭みを抜かれたかたちで一挙に論理化されることになった。「方法」の誕生である。ここまで来てしまえば、デカルトが得意げに呈示した「方法」も、こうした修辞学的記憶術の遠い子孫であることが見えてくる。この論点に関して、は何といっても、未邦訳のオング『ラムス主義 ―― 方法と、対話の衰退』が落とせない。簡単に概略のみ知るには、同じ著者が書いている『西洋思想大事典』(平凡社)第4巻の「ラムス主義」の項目が有益である。
修辞学ないし記憶術は、近代の思想史の前景から退くことによって、かえって近代的知を背面から裏打ちすることになった。修辞学の問題の及ぶ範囲は実に広大である。
言及した書目
アリストテレス | 『弁論術』 | (『アリストテレス全集』16)岩波書店 |
キケロ | 『弁論家について』 | (『キケロー選集』7)岩波書店 |
高田康成 | 『キケロ ―― ヨーロッパの知的伝統』 | 岩波新書 |
クィンティリアヌス | 『弁論家の教育について』 | 明治図書(抄訳) |
『修辞学 ―― 歴史的概念事典』(Gert Ueding [Hg], Historisches Wörterbuch der Rhetorik ) | Wissenschaftliche Buchgesellschaft | |
グループμ | 『般修辞学』 | 大修館書店 |
ペレルマン | 『説得のレトリック』 | 理想社 |
特集「レトリック」 | 『思想』1981年4月岩波書店 | |
特集「レトリック」 | 『理想』 1982年12月理想社 | |
ロラン・バルト | 『旧修辞学』 | みすず書房 |
ヴィッカース | 『修辞学を擁護する』(B. Vickers, In Defence of Rhetoric) | Clarendon Pr. 1988[1990] |
廣川洋一 | 『イソクラテスの修辞学校』 | 岩波書店 |
廣川洋一 | 『ギリシア人の教育』 | 岩波新書 |
アーペル | 『人文主義の伝統における言語の理念 ―― ダンテからヴィーコまで』 | |
レイナム | 『雄弁の動機』 | ありな書房 |
グラッシ | 『形象の力 ―― 合理的言語の無力』(E. Grassi, Macht des Bildes. Ohnmacht der rationalen Sprache) | Fink 1979 |
グラッシ | 『人文主義の哲学的問題:入門』(E. Grassi, Einführung in philosophische Probleme des Humanismus) | Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1986 |
カンペ | 『情感と表現 ―― 17・18世紀の文学的話法の転換』(Rüdiger Campe, Affekt und Ausdruck. Zur Umwandlung der literarischen Rede im 17. und 18. Jahrhundert) | Niemeyer 1990 |
近藤恒一 | 『ペトラルカ研究』 | 創文社 |
近藤恒一 | 『ペトラルカと対話体文学』 | 創文社 |
土屋恵一郎 | 『社会のレトリック ―― 法のドラマトゥルギー』 | 新曜社 |
林達夫・久野収 | 『思想のドラマトゥルギー』 | 旧版:平凡社選書;新版:平凡社ライブラリー |
ロッシ | 『普遍の鍵』 | 国書刊行会 |
菊池理夫 | 『ユートピアの政治学 ―― レトリック・トピカ・魔術』 | 新曜社 |
クルツィウス | 『ヨーロッパ文学とラテン中世』 | みすず書房 |
イェイツ | 『記憶術』 | 水声社 |
オング | 『ラムス主義 ―― 方法と、対話の衰退』(W. Ong, Ramus. Method and the Decay of Dialogue) | Harvard U.Pr. 1958 |
オング | 「ラムス主義」 | (『西洋思想大事典』4)平凡社 |
カラザース | 『記憶と書物 ―― 中世ヨーロッパの情報文化』 | 工作舎 |