反人間主義としての人文主義  

「……このテクストをあなたの名前で署名しようとしているまさにこの文、それらひとつひとつの文において、あの名前のない法、あの白い無関心が支配するのです、<誰が話すかは問題ではない、誰かが言ったのだ、誰が話すかは重要ではない、と>」(p. 98)。

   「『エスプリ誌』 質問への回答」で、フーコーが示したのは、このような人間に関する無関心であり、言説のみに寄せる関心であった。ここには、語られたことのみを分析の対象とするある種の倫理が働いている。

哲学とは、孤独に事柄と向き合って、沈思黙考することであるというイメージはいまだに根強いものがある。しかし、残念なことにというべきか、幸いなことにというべきか、われわれはけっして単独で生(なま)の事柄に対面することなどはできないし、空虚な饒舌とは無縁な純粋な静寂の中で思考することもできはしない。われわれの思考はさまざまな言説のネットワークに骨がらみに巻き込まれており、われわれが思考するとき、そこには言説が絡み合い軋み合う無数の雑音が満ち溢れるのである。

 遠慮がちに口篭もられた密やかな沈黙に思いを凝らす必要はないし、失われ飲み込まれた言葉を愛惜すべきでもない。語られたことのみが問題なのであり、思考の場では、そこに籠められた「人間性」など、とりあえず括弧に入れておくべきものだからである。「人間に関係のあることで、私に無縁なことはない」というのが、古来の人文主義の決り文句だとするなら、むしろそれを逆転し、「人間に関係のあることで、私に関心のあるものはない」という価値の転換を図ることが、フーコー的な人文主義だと言ってみてはどうだろう。

 しかし、考えて見れば、いわゆるルネサンス人文主義がはたしてどれほど「人間」に関心を寄せていたのだろうか。「人間」という現象が誕生するのが十九世紀のエピステーメーであるという『言葉と物』の図式を度外視しても、やはりルネサンス人文主義が「人間」なるものを語ったのも、言語探求という意味での人文主義的活動を通してのことであった。いわゆるルネサンスのumanésimo〔人文主義・人間主義〕が、現代においてはどうしても訳しずらく落ち着きの悪い言葉になっているのも、その辺の事情が強く働いている。ましてや、ここではかけがえのない人間の「威厳」や「尊厳」が問題となっている訳ではない。ルネサンスの人間の発見を言挙げしたと言われているピコ・デラ・ミランドラの900の命題への序論 ―― 通常『人間の尊厳について』と呼び習わされている演説 ―― の中には、「尊厳」(dignitas)という言葉は一度も用いられない。この事実を受けて、『開かれ』(平凡社 2004年)のアガンベンはこんなふうに語る。「人文主義による人間の発見とは、人間そのものの不在なのであり、人間の尊厳=序列の取り返しようのない欠如の発見なのである」(p. 50)。

 人間はいかようにも規定のできるカメレオンのような存在であるというピコの見たてに沿って、その未規定な人間の囲い込みを言語の名の下で行おうとしたのが、「人文主義」だと考えてみよう。ここで言語によって囲まれる領域として初めて「人間」が問題になるために、言語主義たる人文主義は同時に人間主義ともみなせるのである。その点では、umanésimoを「人間主義」として考えるのは間違いではないが、その順序にはあくまでも慎重でなくてはならない。「人間」なるものがまず最初に発見されて、その陶冶のために古代の知見を用いる目的で古典の言語が重視されたという、通常の説明は転倒している。むしろ言語の規定力を発見することによって、それによって織り成される「人間」という場が徐々に形成されていったと考えるべきではないだろうか。そうでなければ、人文主義がもっている思想的な起爆力を十分に評価することはできないだろう。人文主義において発見されたのは「言語」であって、人間ではない。人文主義者たちにとって、人間とは「発見される」べきものではなく、「作られる」べきものであった。ルネサンス人文主義がなぜあれほど「教育」というものに専心したのか、その鍵はここにある。彼らにとって最大の関心となったのは、「言語を通じて人間を作る」という活動だったのである。

 このように見てくると、フーコーの示した言説への関心は、ルネサンス人文主義の最も鋭敏な感性を引き継いでいるというにならないだろうか。もちろん、フーコー的な視点に徹するなら、ルネサンスにおける言語への関心は、またそれ自身、独自のエピステーメーとして反省されなければならないのは確かである。しかし、思想に対する人間的共感の原点とも言えるumanésimoは、実のところ「ヒューマニズム」ではなかったという点を確認することは、フーコーが抵抗している思想状況を考え合わせると、それなりの意味をもっているように思える。「かれらは、世界を、あるいは人生を変えることはできないにしても、世界や人生の<意味>を、かれら自身にのみ由来し、その源泉の近くにかぎりなくとどまり続けてくれる言葉の新鮮さのみによって変えることができるのだというかくも慰めに満ちた甘美な確信を奪われるくらいなら、言説とは諸規則と分析可能な変形に従う複雑で差異化された実践であるという考えを否定してしまいたいと思っているのです」
(Foucault, op. cit., p. 99)

   いまだに哲学・思想の領域の中で、根強く力を振るっているのは、思想への愛ではなく、思想家への愛であり、観念への熱意ではなく、人生への熱意である。そこでは、アウグスティヌスの人間的経験や、西田幾多郎の苦闘が、思想の一部であるかのように、まことしやかに語られる。彼らの経験を忠実に追い、その人生の核心に迫ることが、その思想を「生きたまま」取り出す最善の方策とみなされているかのようだ。「彼らの」苦しみと喜びや、体験の厚みの中から搾り出されるように語られる「彼らの」言葉を受けとめて、そこに籠められた「彼らの」思想の精髄に真摯に応答することが、「自分の」思想を形成するための困難だが着実な歩みなのだ ―― このような思い入れゆえに、思想家の「言葉」が尊重され、読まれ、愛しまれるのかもしれない。しかしこれに対して、フーコーとともにこう言ってみよう、「誰が語ったかはどうでもいいではないか」と。


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