書 評

山内志朗『天使の記号学』岩波書店:双書現代の哲学

  ―― 新鮮な言葉で語られた現代思想としての中世哲学。名著の手前の名著 ――

 
 

 かつてのように中世のスコラ哲学に「煩瑣」哲学のレッテルを貼って、過去の遺物として葬り去ろうというような態度は流石にいまでは見られなくなってきた。それでもこの中世の概念の大伽藍の中に踏み入って、その問題を現代の問題として生き生きと受け止め直すような論考はまだそれほど多くはない。歴史の分野では二年ほどまえに池上俊一『ロマネスク世界論』(名古屋大学出版会)〔近々に推薦書目に〕という瞠目すべき成果が出たばかりだが、哲学のほうでもそれに対応するような動きが目ざめ始めたらしい。何しろ膨大な概念や微細な区別、甲論乙駁の錯綜する議論によって幾重にも囲まれたスコラ哲学のことであるから、概念の固い殻を突き破って、その概念を支え活かしている血肉の部分にまで到達するのは容易なことではない。そのためには、並々ならぬ透徹した読解力と犀利な分析能力が必要とされるのは言うまでもない。本書『天使の記号学』の内には、そうした必要不可欠な卓越した能力を携えて、中世哲学の中心に切り込んでいった果敢な試みを見出すことができる。

 本書の議論の大枠は、古くはグノーシス主義に、そして現代では実在感の希薄な浮遊する現実感覚の内に見られる「天使主義」の再検討を促すことである。「天使」というそれ自体不明確な表現は、例えば稲垣良典『天使論序説』(講談社学術文庫)のような場合では、「純粋な共同体」を復権するための積極的な課題を名指すものとして用いられているが、本書での天使はその清浄なイメージに見合った美名などではない。本書での天使主義とは、むしろ現実性をともなわない空虚な純粋指向を表す否定的術語であり、その点で、現実世界を汚辱とみなして現世を徹底的に否定するグノーシス主義と軌を一にするものとされるのである。そして著者は、そうした悪しき天使主義への対案を捜し、リアリティの新たな定義を模索するのだが、その求める先がキリスト教(およびイスラーム教)的中世である。ともすると、「神の国」に憧れ現実をこの上なく軽視しているかに見える中世思想の内に、現実性の復権の場を見出そうという点で、著者の試みは果敢であり、また大胆である。なぜならそのような捉え方をするためには、中世思想の核心を、「超越」に力点を置く解釈から解き放って、その理解の枠組みを組み替える必要があるからである。そのために著者が、中世思想の基本思想として取り出すのが、「超越的内在」であり、また「媒介」という思考である。

 超越、または純粋な霊的世界と、現実世界の緊張を主題とするために、著者が真っ先に取りあげるのが、「天使の言語」という問題である。純粋に霊的な存在である天使は、お互いに意思疎通をする際に果たしてわれわれ人間のように言語を必要とするのかという、いかにも「スコラ的」と思われそうな議論ではある。しかしここには、単に仮想の現実を弄ぶ議論のための議論とは異なった、ある重要な問題が扱われている。天使の言語というような極端な問題設定をして、天使という純粋な存在を対立項として置くことによって、逆になぜわれわれには言語が必要なのかが分かってくるばかりか、言語というものの独特のありよう、さらには言語を用いるわれわれ人間の肉体の姿というものが透けて見えてくるのである。ここで浮かび上がってくるのが、言語のもつ肉体の側面、あるいは意志の側面である。肉体や伝達の意志は、言語が伝えようとするイデア的な意味の純粋性を妨げるものに見えるかもしれないが、それを欠いてはそもそも言語が成立しえない不可欠な契機でもある。つまり言語とは、純粋な意味と単なる質料の中間にあることを本質とする「媒体」(中間物)なのである(p. 99)。そしてこれこそが、伝達という現象を支える可能性の条件、著者の言葉で言うなら「コミュニカビリティ」(communicatibilitas)である。こうして、媒介は「経験の<前>や<後>にあるのではなく、<中>にあること、あえて言ってしまえば、リアリティは<見えないもの>と<見えるもの>のいずれにあるのでもなく、その間にある」(p. 7)とする著者の立場が具体化される。この媒介、ないし経験のさなかでのリアリティの実現を、著者は中世的に「ハビトゥス」(習慣的に形成される存在の状態)と名づける。

 後半は、この「コミュニカビリティ」の議論を、媒体という問題を手がかりに、「存在の一義性」という難解な議論に接続させていく。そのステップ・ボードになるのが、著者自身が前著(『普遍論争』哲学書房)で主題とした「普遍論争」である。ここで著者が採るのは、アヴィセンナの議論を支えとして盛期スコラ学で優勢になった実在論の立場であり、それを継承して、「存在の一義性」を唱えたドゥンス・スコトゥスの説である。つまり、普遍論争を論理学の問題としてではなく、存在論の問題として理解しようというわけである。そこで、存在の「同一性」を主眼として展開されるスコトゥスの議論を、著者は前半で展開された媒介の議論と結びつけてこう語る。「<同一性>とは、媒体・媒介者なのであり、同時に生成のプロセス、存在化、現実化を表すものなのだ」(p. 193)。存在を実体的な同一性としてではなく、プロセスとして捉えるこのような理解にもとづいて、「存在」(existentia)と「本質」(essentia)の関係も、生成とその瞬間的な切断面というかたちで捉え直される(p. 201)。こうして、生成の中でそのつど本質として具体化されるスコトゥスの「個体」の概念が、遂行としての存在が再帰的に自己限定をしていく動的なプロセスとして読み替えられていく。スコトゥスの言う「このもの性」(haecceitas)こそ、この存在の自己限定を表しているものにほかならないというわけである(p. 209)。「このもの」が「このもの」であるということ、私が私であるということ、そうしたことを可能にする個体性とは、具体的な本性抜きでは考えられないが、個々の本性から導き出されるものではない。その意味で個体性とは、個体が「何であるか」を表すものではないが、個体が「何か」であるということを支えるような遂行そのものである。つまり主語が主語たりえて、述語を受け容れることができるというその条件をなすものだと言えるだろう。つまり個体性とは、遂行としての存在が自己限定をして、具体的な「何か」としての規定を受け取ることができるための条件なのである。

 ここまで議論を進めることによって、この自己限定の具体的なプロセスとしてのハビトゥスという問題意識が再び活きてくる。「個体化とは、個体性を己有化(appropriate)することだが、己有化するためには、源泉が内側にあっても、外側から獲得したと当人に映じるような枠組みが必要である。その意味では、個体は内側にもなければ、外側にもなく、内部と外部の反転の中でしか、姿を表さないということになる」(p. 223)。この相互反転の「過程」が、媒介であり、ハビトゥスなのである。

 実に複雑な議論である。内容の紹介を数行ですませられるようなものではない。ここで論じられているのは、簡単な要約をするなら身も蓋もなくなってしまうような微妙な問題だからである。それにしても、中世哲学のテクストを読み解きながら、これほど鮮烈な問題意識を明確にしえたということにまず一驚を喫する。本書の中心となる「媒体」といった問題は、現代の哲学に関わっている多少なりともセンスのいい人間ならかならず引っかかる主題だが、中世哲学の普遍論争といった領域でそれが示されると、問題の射程が一層に深まってくる。個々の理論に振り回されるのではなく、兎に角一つの問題意識でスコラ学の概念の森を駆け抜けていったさまは見事というほかはない。概念の精緻な分析の果てに目の前が開け、突如として鮮やかな光景に直面するその感覚を、著者自身がこんなふうに語っている。「概念を使いこなせる者とは、鑿の一振りができあがりの姿にとって何を意味するのか、瞬時に分かる仏師に似ている。〔......〕正しいスコラ学者は煩瑣な概念の微妙な操作が直下の生にどう関連するか、知っていたはずだ。スコラ哲学にはリリシズムがあふれているのだ」(p. 212)。こういう言葉で中世哲学を語る者を待っていた。

 しかしそれほどまでに素晴らしい感性と分析能力を感じるがゆえに抱かざるをえない不満もある。それは主に記述スタイルに関してである。この内容を250頁に満たない小著に詰め込むことの無理をここでは言わないことにしても、その全頁が有効に使えているかという点でも若干の疑問は残る。現代の問題意識に繋げるという狙いがある意味では裏目に出て、議論を現代の具体的な状況に結び付けるための記述が必要以上に多すぎるように見えてしまうのである。そのために、折角「スコラ哲学のリリシズム」を謳いながらも、概念分析独自の魅力を味わう機会が減っているのは残念である。引用文から著者の要約のあいだにずいぶんの距離があると感じられる場面が少なくないというのも、そのことと関係している。本書自体を名著といって何ら憚るところはないが、正直な感想を言うと、早産の名著という気がしないでもない。つまり本書は、本来書かれるはずであった最高級の名著の要約のようになってしまっているのである。しかし、こうしたことも、本書を入門書として理解し直すなら長所に転じる。哲学に関心のある人なら読んでみて損はない。おそらく第五章以降の「存在の一義性」の議論では、脱落しかかる読者も多いだろうが、兎に角最後まで読み切ってみることをお薦めする。凡百の「入門書」よりも、より本質的なことが理解できる(あるいは予感できる)はずである。

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