『みみずく古本市』(青土社 1984年)
ビアズレーによる『イエロー・ブック』のデザインを模したカバーが衝撃的だった。そして何よりも、口絵には、白黒ではあるが、英文学を中心とした稀覯書の書影が掲載されていたのが印象的。いまでこそ、この種の紹介は珍しくないが、この本が出版された当時はまだ、書物の中に書物の写真が載っているという形態が新鮮だった。なかには、写真の天地が逆になっているもの(図版29)があるのもご愛嬌だし、書誌データは非常に貧弱ではあったが、かえってそれが探求心を刺激してもくれた。本文とは直接には関係のない書籍群なのだが、紙の書物がいまだ威光を放っていた時代、憧れを喚起するには十分だった。このなかの十点前後はその後自分でも入手することになった
内容的には、邦語・邦訳著作に関して、新聞や書評紙に発表された短い書評を集めたもの。そのために、一編はおおむね2, 3頁という短いものなのだが、そのそれぞれが実に示唆に富む。各著作の背景や対応する思想的動向に言及があって、射程の長い紹介がなされているために、読者はいやでもその文脈に沿って、批評対象となった書物以外にもさまざまな書物に食指が動くという仕掛けになっていた。自己完結しない開かれた紹介とでも言うか。
そのなかで、とりわけ印象に残っているのが、筑摩書房『世界批評体系』に寄せて語られた激越な篠田一士批判である(「批評理論の確立のために」94頁以下)。企画自体の「無方法性と非歴史性」を衝き、「批評」というものの思想性(あえて言えば、その哲学的努力)を最大限に強調する方向には共感がもてる。そうした姿勢からすると、篠田氏の試みは、「<近代>とともに<方法>をとり落とし、<批評>の方法的認識面を追放し、<批評>の審美的<よろこび>の完成度に極力収斂しようとする」もの(98頁)と映るようだ。実に徹底している。この著者がコールリッジを専門として選んだという背景も透けて見えるような批評である。
またラヴジョイ『存在の大いなる連鎖』の邦訳に寄せて、観念史(History of Ideas)の全体像を概観し、『観念史辞典』を(書影も含めて)紹介した「イコンとイデアの婚姻を目指して」という文章(294頁以降)も記憶に残る。
本書に取り上げられた書物は、すでに公刊から40年ほど経過しているものも多い。しかし、あらためてその全体を眺めてみると、現代でもなお、ここでの批評を手引きに生産的な読書を続けていくことが可能であるような選書になっていることを痛感させられる。いまだに最善の読書案内たる地位を護っているのではないだろうか。クルツィウスやホッケ、ラヴジョイ、バーク、イエイツ、(著者による「脱領域」の訳語が有名な)スタイナーなど、この種の偉大な百科全書的著者こそ、今日最も「読まれていない」ものではないかと危惧されるからである。
歌舞伎の戯題のようなタイトルだが、イギリスを中心にロマン主義を縦横に論じた講義風の本編に、いくつかのエセーを合わせた一書。文学を哲学や美学、それも教科書的な哲学史や美学史では論じられない歴史の影にも光を当てる手腕には、著者の真骨頂が示されている。