形象の逆説
推薦図書

形象の力

G・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ ―― アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』竹内孝宏・水野千依訳(人文書院 2005年)

 700頁を超す大冊。ヴァールブルクの仕事を「残存」、「幽霊」といったキーワードで語っていくきわめて魅力的な大著。「イコノロジー」を美術史の「方法」としたザクスルやパノフスキーから、ヴァールブルクを奪還する試み。イコノロジーを一個の方法論に仕立てたとき、イメージの力動性やダイナミズムを捉えようとしたヴァールブルクの野心は捩じ曲げられてしまった。著者は、ニーチェ・フロイト的な感覚によって再びヴァールブルクのイメージの力動論を発掘しようとしている。そのため、精神を病んだヴァールブルクをクロイツリンゲンで診察したビンスヴァンガーとの交流が丹念に考察されている。カッシーラーとの関係なども丁寧に押さえられたうえで、カッシーラーのカント的なアプローチが最終的にはヴァールブルクの試みを歪めかねない点なども明確に指摘されている。さらには、カッシーラーの内部で、カント的な要素が脅かされる「プレグナンツ」といった思想にも触れられており、論旨は実に丁寧。

 何よりも訳が素晴らしい。さまざまな造語を、自然さとそれなりの違和感とが調和したかたちで編み出していった訳者の力量は大したものだと思う。人名索引には簡単な解説がつき、全体の解題を田中純氏が寄せるなど、書物作りとしてできる限りのことはしてある点も好感がもてる。註が使いづらいが、これだけの分量の註になると、どう工夫してもそれは避けがたいところかとも思う。ヴァールブルク論としてはまず必見といったところ。あるいはニーチェ論として読むことさえできるかもしれない。


H・コルバン他『エラノスへの招待 ―― 回想と資料』(平凡社 1995年)

 コルバンで思い出して、再び引っ張り出して再読。平凡社の黄金時代に出た一連の画期的企画のひとつ「エラノス叢書」の別巻に当たる。この「エラノス叢書」は、最初の段階で出た企画がそのままでは実現しなかったらしく、叢書のなかに「欠番」というのがあるのが残念だが、それでも十分に刺激的な叢書。本書でのコルバンは、「秘儀伝授譚とイランのヘルメス主義」ということで、イスラーム思想家スフラワルディーの『西方流謫譚』を中心に、コルバンいうところの「想像界」(mundus imaginalis: 言葉は同じでもラカン的な「想像界」とは全く違う)の議論を追い、錬金術における「黒化」「白化」「赤化」の過程が、イメージ産出の段階に対応するありようを具体的に示そうとしている。その際に、コルバンはそのユング的な錬金術解釈が「現象学」を前提していると言って憚らない。その一節に付している現象学の定義が面白い。「あらゆる研究に先立って、いかなる条件下に現象が顕現するか、いかなる現象を主体は自分に対して課すか、どのようにして主体はみずからにものを示しうるのかということを、ギリシア語の動詞「みずからを顕現する」の厳密な中動相の形態で示すところに従って要求する」というもの(176頁)。中動相的な自己関係性と、自らを示すという産出的能動性を対で考えるというところに、コルバンのイメージ論=現象学の問題意識があるようだ。そしてこの現象学の定義はハイデガーそのままでもある。ちなみにコルバンは、ハイデガーの最初の仏訳者でもある。

 本書では、井筒俊彦が「エリアーデ追悼」という文章を寄せており、晩年のエリアーデがエラノスから手を引いた理由が記されている。「どうしてエラノスをやめる気になったのか。自分の主導する国際宗教学会の仕事に専念したいから、と彼は答えた。毎年のエラノス講演は決して容易なことではない。準備のために何ヶ月もの時間が取られる。……<要するに、私も歳を取ったということさ>と、茶目っぽく彼は笑った」(63頁)。あの多作なエリアーデにして、このように言わしめるということは、逆にエラノスにどれだけのエネルギーが注ぎ込まれたのかということでもある。大家の講演といえば二番煎じ三番煎じが普通のどこかの学会との差に愕然とする。それにしても、あれだけ多くの領域の第一級の人物たちが交流したエラノス、その運動を出版という形に連動させたボーリンゲンは何といっても魅力的である。高山宏が本書の中で熱をこめて紹介しているマグワイア『ボーリンゲン』の邦訳が早く実現してくれることをひたすら願う。


R・エイヴァンス『想像力の深淵へ ―― 西欧思想におけるニルヴァーナ』森茂起訳(新曜社 2000年)

 ポスト・ユンギアンのヒルマンやバーフィールド、そしてコルバンなどを用いて、イメージと象徴の理論を説いた啓蒙書。フロイトがイメージや夢を「解釈」しようとするのに対して、ユングはイメージを「還元不可能で完全な形式と内容の統一体とみなし」、「イメージは構造の内容でもあり内容の構造でもある」と理解するため、イメージ論との親近性が強い。「元型」なるものも、ある固定したイメージ群のようなものよりは、むしろイメージの発生のメカニズム(コルバン流のmundus imaginalis)に近いのだろう。本書そのものは、さほど優れたものではないのだが、ユング心理学とカッシーラーを繋げようとしている点が興味深い。

 もちろん著者自身も両者が同じ「象徴」ということを語りながら、理論の組み立てとしては水と油であることを自覚している。そのため、カッシーラーを論じるにも、『象徴形式の哲学』の第二巻「神話」に依拠して、神話的融即の理論などを導入している。「神話的にイメージは、あるものを表現するのではなく、ものの直接的現前にとってかわる。つまりイメージがものなのである」(91頁)。この理解はやはりあまりにユング的であって、おそらくカッシーラー自身は受け容れないだろう。そもそもユングとカッシーラーという取り合わせは、エラノスと新カント派の接合というかなり大きな溝を超えなければならない。しかし、例えばディディ=ユベルマン『残存するイメージ』(人文書院)が提示した力動的なヴァールブルク解釈を仲介項として挟むと、あながち考えられない組み合わせでもないように思えてくる。新カント派・ヴァールブルク・エラノスという20世紀初頭の知的黄金期の遺産が、もういちど甦るという点では、エイヴァンスの方向性も悪くないような気がする。


H. Belting (Hg.), Bilderfragen. Die Bildwissenschaften im Aufbruch, München: Fink 2007
(ベルティング編『図像の諸問題 ―― 形象学の芽生え』)

 このところ相継いで公刊されるBildwissenschaft関連書の一冊。冒頭にベームとミッチェルの往復書簡が掲載されるなど、とりわけ綱領的な性格が強い。ベームとミッチェルは、それぞれ『像とは何か』(1994)『図像学(イコノロジー)』(1986)といった代表的な論集によって、Iconic turnあるいはPictorial Turnといった方向性をほぼ同時代に呈示している。ミッチェル編『イコノロジー』は翻訳が出たが、『像とは何か』に連なるドイツ・フィンク社の一連の「像とテクスト」(Bild und Text)叢書はいまだ紹介がないので、この辺りで何か欲しいところ。像論(図像論)は、カッシーラー辺りから始まるいまだ十分に汲み上げられていないドイツ哲学の伝統が関わるだけでなく、ポストモダン的なロゴス中心主義批判、あるいは英米圏の批評理論などが上手く絡み合う分野であるだけに、論点が拡散する危険は避けられないが、相互の対話が可能になる場所でもある。本書もそうだが、ベームの新著『図像はいかに意味を産出するか ―― 提示の力』(前出)など、ドイツ系の哲学書はいまや図像が入っているものが当たり前になってきた。本書では、ベルティングの論考で、「文字と身体」という主題の下で、グリーナウェイの『枕草子』(The Pillow Book)などが用いられるなど、主題や素材の裾野も拡がっている。一昔前なら、哲学書と言えば、「概念」や「言葉」しかツールがないものと理解されていたが、それもこの数年でずいぶん変わってきたように思う。日本の哲学書がビジュアル化されるのも時間の問題だろう。


G. Boehm, G. Brandstetter, Achatz von Müller (Hg.), Figur und Figuration. Studien zu Wahrnehumug und Wissen, München: Fink 2007
(ベーム他編『形象と形象化 ―― 知覚と知についての研究』)

 Bildwissenschaft(形象学)の路線を邁進するBild und Text叢書の一冊。例によってG・ベームが編者に加わっている。「知覚と知」という副題から見て、認知心理学のようなアプローチかと思ったのだがそうではなく、やはりメタファーや非言語的メディアに関する論考群。ベーム自身の論考Die ikonische Figuration(図像的形象化)でも、扱われているのが、アウエルバハのfigura論であったりするように、全体に修辞学的傾向が強いように見える。ブルーメンベルクやベンヤミンの編者でもあるHaverkampなどが名を連ねる。ちょっとした発見なのだが、1990年頃に『情動と表現』(Affekt und Ausdruck)という大著で、18世紀の修辞学・言語論と感情論を繋げようとした魅力的な著作を公刊したRüdiger Campeの名前をこの論集で久し振りに見た。当然、いまのこういう思想状況では、彼などが注目されて良いと思っていたので、旧友に会ったような気がする。


K. Sachs-Hombach (Hg.), Bildwissenschaft. Disziplinen, Themen, Methoden, Suhrkamp: Frankfurt a. M. 2005
(ザクス=ホンバハ『形象学 ―― 学科・主題・方法』)

 ここ15年くらいを中心に、20世紀初頭のlinguistic turn(言語論的転回)になぞらえて、iconic turn(図像的転回)ということが語られる。美術史の中での図像学iconologyやヴァールブルクの業績を踏まえながら、美術史にとどまらない創造的な文化論が提案されつつある。その名称が、まさに本論集の「Bildwissenschaft(形象学)」である。認知心理学からコミュニケーション論、哲学、歴史学、教育学などなど、30篇近くの論考によって、各分野でのiconic turnの現況報告をした論集。私などの理解では、「哲学」よりも、むしろ「美術史/芸術学」についての論考が一番理解が早い。ここではすでに触れたベームやブレーデカンプを踏まえ、ベルティングBelting(またしてもB!)などが紹介されている。20世紀初頭では、『ロゴス』が学科を超えた学際的文化論をプログラムとして立ち上げたが、1933年のナチズムの台頭によってその方向は大きく歪められてしまった。iconic turnという言語からより自由なメディアによって開かれる光景に期待したい。こうした動きが、何よりも言語への信頼の厚いドイツでなされ始めていることにも、重要な意味があるような気がする。


G. Boehm, Wie Bilder Sinn erzeugen: Die Macht des Zeigens, Berlin University Press 2007
(ベーム『図像はいかに意味を産出するか ―― 提示の力』)

 ここ数年、ドイツでは「図像」をめぐる議論が盛り上がりを見せているようだ。美術史での図像学(Iconology)には限定されない、哲学的なイコン的思考(Ikonisches Denken)が、現象学・解釈学の一つの展開として議論されているためである。そうした方向で先鞭をつけたのが、おそらくはこのベーム辺りだろう。もはや古典的名著といえるStudien zur Perspektivität. Philosophie und Kunst in der Frühen Neuzeit, 1969(『遠近法研究』)は現在入手困難となっているが(しかし翻訳があってもよい著作)、名論集Was ist ein Bild?, W. Fink 1994(『像とは何か』)などはすでに四版を重ねている。この『像とは何か』を皮切りに、Bild und Textという叢書がFink社で企画され、それは現在も続いている。

 本書『図像はいかに意味を産出するか』は、ベーム自身の論文集。彼の言うところの「イコン的差異」といった問題を中心に書かれた論考が集められている。古くはフッサールの「射影」、そして「地平」といった主題に集約される可視性と不可視性という問題が、メルロ=ポンティの「見えるものと見えないもの」、ハイデガーの「隠蔽性」といった議論を経て、イコン的思考の内に取り込まれている。それはまた、現象学における「明証性」という議論と、解釈学の「地平性」「文脈性」といった問題が交差する地点でもある。これはまた同時に、宗教的な文脈では、「聖像」と「像画像破壊」(イコノクラスム)といった議論にも繋がり、本書でも形象化の限界としてのイコノクラスムが取り上げられている。グラッシ『形象の力』から始まる路線の創造的な展開として、邦訳されてもよい論集だと思う。ちなみに、本書に収められた100点に及ぶ図版は、そのほとんどがカラーというのも、哲学書として異例である。ドイツの哲学書の形態が少しずつ変わりつつあるのが感じられる。

 つまらないことだが、最近のドイツのメタファー的・図像的思考を考えると、ブレーデカンプBredekamp, ブルーメンベルクBlumenberg, そしてこのベームBoehmと、なぜかその名がBild(像)のBで始まっている。ドイツBild論の3Bとでも呼んでみようか。


R. Konersmann, Wörterbuch der philosophischen Metaphern, Wissenschaftliche Buchgesellschaft: Darmstadt 2007
(コナースマン『哲学メタファー辞典』)

 『哲学概念史辞典』が索引巻を含めて昨年完結したと思ったら、そのあとを継ぐように、この『哲学メタファー辞典』が出た。尤も『哲学概念史辞典』のような大規模な企画ではなく、500頁ほどのそれなりのヴォリュームとはいえ、一巻ものの辞典。序文「形象的思考」では、ヴィーコから始まりブルーメンベルクに至るメタファー的思考の系譜が概略されている。リッターは『哲学概念史辞典』の序文で、言語を中心にした『哲学概念史辞典』では、形象的・メタファー的要素を排除せざるをえなかったと語っているが、今回の『哲学メタファー辞典』は、その際に取りこぼされたメタファー的思考を中心に辞典を作ろうとしている。「大地」「雷」「鏡」「生」「十字架」「海」「読むこと」「聴くこと」「眠り」「深さ」などの、主要メタファー40について、各項目10頁(2段組)程度で歴史的な概略を行っている。

 折角のメタファー・形象辞典なのだが、図像などは一切入っていない。ヴィジュアルの欠落は、この種の辞典にとっては、見逃すことのできない欠陥のように思える。しかし、この企画が今後どのような影響を及ぼしていくかを期待して見守りたい。『観念史辞典』(Dictionary of the History of Ideas)の方向に向かうのか、結局は『概念史辞典』の補足のような位置にとどまるのか、あるいはヴィジュアルをも巻き込んだ新たなKulturgeschichteの展開の呼び水になるか、この選択は結構大きな意味をもつと思う。


藤田實・入子文子編『図像のちからと言葉のちから ―― イギリス・ルネサンスとアメリカ・ルネサンス』(大阪大学出版会 2007年)

 エンブレムやイコノロジーを中心に、イギリスとアメリカを出会わせる興味深い試み。文学におけるイコノロジーの展開は、エリザベス朝研究者の独占市場かと思いきや、それがアメリカ文学にも飛び火して、創造的な論集に結集した。『シェイクスピアのイコノロジー』(三省堂 1994年)の岩崎宗治や、去年ここでも触れた『第三帝国のR・シュトラウス』(世界思想社 2004年)の山田由美子などが参集している。論文集というものは、どうしても雑多な印象を与えてしまうものだが、これは「科学研究費補助金」の「報告書」という、滅多に面白いものにはならない「文書」を元に、「公開促進補助費」を取って大阪大学出版会から出版されながら、エンブレムやイコノロジーという長い伝統のある背景に共通点を求めているために、一定のまとまりを獲得している。

 和光大学総合文化研究所・松枝到編『象徴図像研究 ―― 動物と象徴』(言叢社 2006年)も、エンブレム・象徴という観点からの論文集だが、こちらは30編と論考も多く、地域もヨーロッパに限らず、中東・アジアなど多方面にわたっているので、どうしても雑然とした印象を受ける。10年以上続いた象徴図像研究会というものの集大成となった論集らしい。元となった論集も冊子のかたちで10冊以上出ているようだ(未見)。松枝氏は『ヴァールブルク学派』(平凡社)の編訳者でもある。この種の図像関係の議論というものもすっかり定着した感がある


H. Bredekamp, B. Buschendorf, F. Hartung, J. M. Krois (Hgg.), Edgar Wind. Kunsthistoriker und Philosoph, Akademie Verlag: Berlin 1998
(ブレーデカンプ他編『エドガー・ヴィント ―― 美術史家・哲学者』)

 美術史家ヴィントをめぐる論文集。カッシーラーに就いて哲学を修め、学位論文『実験と形而上学』を著すと同時に、パノフスキーの最初の弟子になるという経歴をもったヴィントは、自然科学と人文科学(精神科学)という新カント派風の問題設定を、現代的な問題へと橋渡しした人物のように思える。この論集でも、具体的な美術研究やルネサンス論より、むしろ『実験と形而上学』がかなり大きく扱われ、哲学としての側面が強調されている。とりわけVerkörperung(具有化)という術語によって象徴の現実化・イメージ化が論じられ、experimentum cruciis(決定実験)によって実証主義的な自然観が展開される。ヴィントが、ドイツにおける最初のパース紹介者であり、その一方で『ロゴス』誌上でホワイトヘッド批判を繰り広げているというのも興味深い。

 『実験と形而上学』の本文も再刊され、いくつかの有益な小論と合わせて編集されたため(Das Experiment und die Metaphysik, hg. B. Buschendorf, Suhrkamp 2001)、ヴィントの「哲学」がだいぶ近づきやすくなってきた。論集の編者ブレーデカンプも彼自身が、ヴンダーカマーなどに関しての創造的な議論を展開している。


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