観念の越境 思想・哲学 推薦図書

観念の結合術


推薦図書

観念の越境


『林達夫著作集』(平凡社、全6巻、別巻1巻)

 「海外思想の輸入業者」とは、日本の「洋学」研究者をくさす決まり文句となっているが、この著者は、そうした「輸入業者」を地で行きながら、いわゆる「独創的な思想家」を追い越してしまった小気味よい一例。論文「精神史」は何と言っても卓越した出来映え。その註に挙がっている書目の先見性にも恐るべきものがある。「鶏を飼う」「作庭記」などの愛らしい小品も捨てがたい。現在、平凡社ライブラリーより新版が公刊中。


山口昌男『本の神話学』(中央公論社)

 この多産な著者のものから敢えて一冊を選ぶとこれだろうか。単行本として公刊されたのがちょうど30前になるが、その内容はいまだに新鮮。ヴァールブルク学派が大々的に紹介されたのはこの本の「20世紀後半の知的起源」を嚆矢とするのではないだろうか。クロコウの『決断』や作家ディーネセンなどがさりげなく言及されているのも驚かされる。「ユダヤ人の知的情熱」の文章の熱気は凄まじいばかりだが、さらに最終章の「物語作者たち」でのベンヤミンの扱いなどもいまだに参考になる。現在続々と出てくるベンヤミン論のうち、これを超えているものがどれだけあるだろうかと、ちょっと僻目にも見たくなってくる。


野島秀勝『ロマンス・悲劇・道化の死 ―― 近代文学の虚実』(南雲堂)

 宮廷風恋愛を手掛かりに、中世文学と近代文学のあいだの断絶を見究める。ルージュモンやアウエルバハなどを手掛かりに、「パリノウド」「アナロギア」といった主題を縦横に論じて行く。中世道徳劇の議論など、「アレゴリー」という言葉ばかりが一人歩きし始めた現時点でこそ、十分に参考にすべきものだろう。


高山宏『メデューサの知』(青土社)

 多くの著書のなかから敢えて一冊を選ぶとすれば、これか『目のなかの劇場』(青土社)。それぞれ「アリス狩り」シリーズの一冊 (アリス狩り****『綺想の饗宴』のみ四六版で小振り)だが、いずれも質・量ともに圧巻。図版、組版、造本とどれをとっても群を抜いている。巻末の陶酔的な文献表も痺れさせる。その後堰を切ったように続々と公刊された著書群の基本的な見取り図は、この著作辺りでできあがったいたようなところがある。しかもこの頃の文章は、まだまだ緊張感漲る素晴らしいものだった。これを知っている者にとっては、最近の『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ)は少し哀しくなるほど。もちろんこの英文学講義にしてから、愚直な学徒の心胆寒からしめた由良君美『椿説泰西浪漫派文学談義』(青土社)の衣鉢を継ぐ名著ではあるのだが。


E・サイード『晩年のスタイル』大橋洋一訳(岩波書店 2007年)

 アドルノのエッセイ「晩年のスタイル」を下敷きにした評論集。ここで言われる「晩年」とは、けっして「円熟」や「完成」のことではない。むしろ、終わるに終われない、引き伸ばされた結論というか、「遅延」する終わりといった独自の芸術スタイルを指す。「芸術史において、晩年のスタイルとはカタストロフィである」と語ったアドルノは、とりわけベートーヴェンの最後期の作品群にそのスタイルを見ていたが、サイードはそれを拡張して、リヒャルト・シュトラウスの戦中・戦後作品、映画『山猫』における原作者ランペドゥーサと監督ヴィスコンティ、ジャン・ジュネ、グレン・グールドなどにそうしたカテゴリーを拡大していく。『さまざまな始まり』でスタートを切ったサイードの活動の最後に、今度は「最後」についての思弁がなされるという点では、実によくできた話ではある。サイードの語る「晩年性」とは、「不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らい続ける、ある種の意図的に非生産的な生産性である」(28頁)。「晩年性とは、終焉に位置し、どこまでも意識的で、十全たる記憶を保持し、しかも(異常とさえいえるほど)現在を意識している」(38頁)。伝統的な話法を熟知したうえで、そこから逸脱し、調和や総合を意図的に破っていくスタイルが、ここでは「晩年のスタイル」と呼ばれる。

 こうした議論のときに、サイードがかならず引き合いに出すのが、トーマス・マン。『ファウストゥス博士』の前半に登場する音楽教師クレッチュマーが行うベートーヴェンの作品111のソナタについての講演。ベートーヴェン最後のこのソナタがなぜ二楽章しかなく、しかもその最後の二楽章が(なかば締まりのない)長大な変奏曲なのかという、あの講演である。不器用と思える繰り返し、本来なら伝統的な話法で書きあげる力量がありながら、あえてそこから逸れている反逆心、未知の話法に取り組もうとする冒険心、こういったものがないまぜになっているのがあのソナタであり、サイードやアドルノが考える「晩年のスタイル」なのである。リヒャルト・シュトラウスの晩年がかなり大きく取り上げられているのも、このところのリヒャルト・シュトラウス再評価の動きと絡んで興味深い。しかし、『音楽のエラボレーション』の後半でリヒャルト・シュトラウスを題材に論じていた議論を思うなら、この路線は十分に予想ができたことでもある。

 しかし、この「晩年のスタイル」というのは、どうしても「晩年(あるいは後期)」という時間的表現でなければいけないのだろうか。むしろこうしたスタイルは、時間と関係なく、「マニエリスム」言うべきではないか。伝統的な芸術技法を熟知したうえで、あえてそれに逆らい、不意打ちや不必要な反復によって完結を先送りしてしまう自己意識的なスタイルという点では、まさに「マニエリスム」は、ここで言われる「晩年のスタイル」と重なるはずだからである。それにもかかわらず、サイードは、そうした(どちらかというと二流の作家が多い)マニエリスムの系譜を追うのではなく、ベートーヴェンやグールド、R・シュトラウスといった斯界の大御所の「晩年性」といった、いわば実存的でなおかつエリート主義的な概念に収めてしまう。この辺りに、サイードの拭いがたい「正統性」意識を感じてしまうのだが。

 翻訳は読みやすいし、この分量にしては値段も手頃。しかしこの本の装幀には実に驚くべき点がある。なんと大江健三郎の手書きの「推薦文」がカバーに麗々しく刷り込まれているのである(ご丁寧に帯にも同じ文章が記されている)。近年稀に見る愚劣きわまりない装幀である。装丁者・編集者の見識と、それを許可した(はずの)大江氏の傲慢さに呆れ果てる。読書中はそれが手に触れるのも嫌なので、カバーを剥がしてしまったが、カバー自体は愚行の記録として保存しておきたいと思う。目次裏に名前を出した装丁者の勇気を讚えたい。

 (いま、Amazonの読者投稿を見たら、まさにこの装幀のことに触れている人がいた。しかもかなり似た表現で。やはり普通の常識を持ち合わせた人は、そう思うだろう。ちなみに、Amazonでは、サイードの書物のなかで、唯一『晩年のスタイル』にだけ表紙の写真が掲載されていない。これがAmazonの見識なのだとしたら、大したものだが)


大塚信一『山口昌男の手紙』(トランスビュー 2007)

 岩波書店の編集者(後に社長)で、学生時代から山口昌男と交流の会った著者が、山口昌男から受け取った手紙を編集しながら、自ら編集者として伴走した記録を記している。山口昌男のかなり内容の濃い手紙からは、ナイジェリア、パリ、メキシコと、世界の各地を移動しながら活動の場を作っていった様子が窺える。レヴィ=ストロースを始め、オクタヴィオ・パスなどとすぐに親しくなって、活動の場を与えられていく山口昌男独特の才能を、大塚氏は「知的居候」と呼んでいるが、これは日本のアカデミズムに場所をもたなかった山口が身につけた処世術でもあったのだろう。そういえば、そんな「知的居候」の術をフルに使って作られた『二〇世紀の知的冒険』『知の狩人』(ともに岩波書店)は実に面白かった覚えがある。
 日本の学界の中心からはずれたところで、自ら「中心と周縁」の理論を築いていった山口の力量に著者は賛辞を惜しまないが、後年彼自身がジャーナリズムに乗り、ある種の「中心」と化していったのを苦々しく思い、交流も途絶えがちになっていったらしい。そして岩波書店では山口昌男の著作集を出さなかった理由をこう説明する(後に筑摩書房で5冊本の著作集が作られる)。「私は山口氏の著作集をつくることをしなかった。河合隼雄にせよ、中村雄二郎にせよ、山口氏と関係もあり私と親しかった人の著作集を、私はつくった。……しかし、山口氏の著作集をつくるという気にはどうしてもなれなかった。……周縁的な存在であった山口氏が中心的(=体系的)になること自体、自己矛盾的な要素を含んでいるのではないか、とすら思えるのだった」(368頁以下)
 果たしてそうだろうか。もしそれが本当なら、『ニーチェ全集』や『ベンヤミン全集』(ともに包括的かつ機械的編集での全集)は成立しえないということになってしまうのだが。むしろ、作品をわざわざまとめるほどの中身のない著者の「著作集」を作る方がよほど自己矛盾的に思える。そして世の出版物にはそうした自己矛盾が如何に多いことか。


後藤末雄『中国思想のフランス西漸 1・2』(平凡社 1969年)

 初版は昭和8年に第一書房から公刊されている(『支那思想のフランス西漸』)。近代ヨーロッパ(17・18世紀)の中国表象を文献的に追った古典的著作。サイード『オリエンタリズム』などと平行する問題だが、もちろん本書のほうは、それほど理論的な背景を徹底して詰めているわけではない。しかし、この種の問題を扱った邦語著作という点では、いまだに最重要文献なのではないだろうか。この本の初版を出した第一書房の長谷川巳之吉は、前年(昭和7年)に出した茅野簫々の『ゲヨエテ研究』ともども、この後藤末雄の大冊にかなりの自信をもっていたらしい。因みに、『ゲヨエテ研究』を私は昭和8年の「学生版」というものでもっているが、いまだったらこの手の硬い研究書を異なった版で二つ出すなど考えられないだろう。


ボルツ『世界コミュニケーション』村上淳一訳(東京大学出版会 2002)
 インターネットによる「グーテンベルク銀河系の終焉」を語っていた著者が21世紀の最初に出した著作。あいかわらず底抜けに呑気で、とにかく現代のハイパーメディアの世界の礼讃に終始する。ルーマン、ハーバーマス、ギデンズといった現代社会学から、ベンヤミン、ハイデガー、ニーチェなどなど、息つく暇もないほどに、「ブランド」としての固有名詞が並ぶ。確かに才気煥発で面白いし、気の効いた言い回しに富んではいる。しかしあれこれと理論武装をして現状を肯定していく議論というのはかなり虚しいものがある。思想家が理論武装を重ねたうえでどれほど愚かになれるかという実験を、わざわざ買って出てくれているかのよう。何よりも問題なのが、現代の「世界コミュニケーション」が所与の動かしがたい事実のように扱われている点。つまり、時代が目の前で作られているのを、ただただ傍観して拍手しているかのようなのだ。「哲学者は現実に教えを垂れるのではなく、現実から学ぶ必要がある」というのはその通りだだろう。しかし「現実から学ぶ」ということは、「現実に阿る」こととは違うはずなのだが。
 そうした論旨はともかく、本書の特徴は翻訳の方針にある。比較的前提が多く、一般読者には意外と読みにくい本文を補うために、随所に〔  〕による訳者の補足がなされている(訳注の域を越えて、本文の解釈やパラフレーズまでしてある)。まるで教師が脇にいて、一つ一つの文章に註解をつけてくれているよう。全面的に賛成ではないが、本書の場合、この処置がかなり成功しているように思える。


村上淳一『仮想の近代 ―― 西洋的理性とポストモダン(東京大学出版会 1992年)

 グリミンガーの著作なども用いながら、モダン・ポストモダン論争に一定の見通しを与えようとしたもの。ここでも、近代の中に潜んでいる別の可能性が探求されている。キーワードを挙げるとすると「偶然」といったところだろうか。法則性の下での均一化が図られる近代に対抗して、むしろ「偶然」や「多様性」を承認するポストモダン的な思考が描き出される。トゥールミンやマルクヴァルドの著作、そしてとりわけボーラーのロマン主義論を使って、おおむねその紹介(ないし要約)というかたちを取っているので、あまり読みやすいものではないが、論争状況を見定めるには有益。著者はドイツ法制史が専門だが、思想史的関心も相当に強いらしく、ボルツの翻訳などもしている(さきほど注文を出した)


土場学『ポスト・ジェンダーの社会理論』(青弓社 1999年)
 「ジェンダー」という、一冊の「理論」を書くには息切れのしそうな主題でありながら、なかなか巧く論じ切っているので感心した。フーコーを使いながらも微妙に距離を取り、フロイトを踏まえながら、ウィニコットらの対象関係論によってそれを相対化していくといった、バランスの取れた議論を展開している。基本的にはルーマンの思想が根底になっているようだが、卑近にならない程度に「現実」を巻き込んだ議論になっているような気がする。そういう意味では、同じく社会学関係でしばらく前に評判になった菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』
(NHKブックス 2003年)よりも良いかもしれない。実を言うと、本書は最初あまり期待していなかったが、なかなか面白く読めたし、「青弓社ライブラリー」というシリーズにも興味をもったのでご紹介。


J.=L. ナンシー『侵入者 ―― いま<生命>はどこに?』西谷修訳編(以文社 2000年)

 ナンシーが自らの心臓移殖の体験を元に、それにまつわる経験を生命と死、自己と他者といった問題として語ったもの。拒絶反応をも「私の内に侵入者がおり、私は自分自身にとってのよそ者となる」(p. 28)という仕方で「哲学的に」語っている。正直言って、これはかなり失望した。このような体験を「哲学」として語ってしまうというのは、哲学者としてはまさに魔がさしたとしか言いようのない失策である。移殖前の心臓病の体験について、「半分しか脈打たない心臓は、半分しか私のものではない」(p. 13)などと記しているが、病を通して初めて、身体が完全に自分のものではないということを納得したというのでは、哲学者としての想像力の貧困を自ら暴露して、むざむざ恥を晒しているようなものである。これは、ナンシーの名誉のために読まなかったことにしておこう。それにしても、この種のテクストを意味ありげにもちあげてしまう長文の訳者解説も、恥の上塗りのようで、何とも気持ちが良くない。やはりここはそっと通りすぎることにしたい。少なくともナンシーの「思想」に興味のある人は読む必要のない書物。


フロイト『モーセと一神教』渡辺哲夫訳(ちくま学芸文庫 2003年)

 かつて日本エディタースクール出版部で出ていたものの文庫化。訳者による「熱い」解説「歴史に向かい合うフロイト」が付されていて、なぜ訳し直しが必要であったのかという文体上の理由に至るまで、本書の本質に関わるものとして論じられている。上記ポッシーの訳者の姿勢とは対照的。

デリダ『フィッシュ』逸見龍生訳(白水社 2003年)

 まさにあの同時多発テロの起こった2001年9月11日に行われるはずだったアドルノ賞の授賞式が、22日に延期されて行われた際の講演記録。それにしてもアドルノは、例の「アウシュビッツ以降に詩を書くことは野蛮だ」という発言で20世紀後半の思想状況を象徴していたが、誕生日が9/11ということで、21世紀にとっても象徴的な人物になってしまった。


今村仁司『現代思想の系譜学』(ちくま学芸文庫 1993年)

 読んでいる時はそれなりに面白いのだが、「紹介」という意味合いが強いせいか、読後にあまり印象が残らない。多少引っかかるものとして、「個物の救済」と題して、ベンヤミンと林達夫を比べた短い文章があった。しかし、「細部感覚、微細感覚、差異感覚」などを共通点として両者を比較しているのは、今となってはあまりに当たり前すぎるだろう。本当のところは、この二人のあいだには相当に大きな感覚の隔たりがあるような気がする。林達夫は、どう転んでも『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序文」などを書いたりはしないだろう。ベンヤミンの溢れる思弁性にもう少し注目したいところ。フィヒテからドイツ・ロマン派といった圧倒的な思弁の系譜にベンヤミンを置き入れるほうが、「細部感覚」や反体系的・反ヘーゲル的感性という点のみからベンヤミンを闇雲に賞揚するよりも生産的に思えるのだが。ただ今村氏も、林達夫の「受動的享受者」としての姿勢と、ベンヤミンの「個物の救済」とを区別してはいるので、その辺りをもう少し展開すると面白くなるのかもしれない。


R・ヴィッガースハウス『アドルノ入門』原千史・鹿島徹(平凡社ライブラリー 1998年)

 ごく普通の意味の「入門書」。特に鮮烈な印象はなく、無難に全体を概観しているという印象。記憶に残るキャッチコピーの名人だったベンヤミンに比べると、アドルノの場合、思想上のキーワードはたいていの場合は伝統的な概念なので、その点でも解説が難しいということはあるのかもしれない。巻末の文献表は、雑誌掲載の短文も拾ってあって親切。


細見和之『アドルノの場所』(みすず書房 2004年)

 アドルノの思想の急所を押さえるという意味では、いわゆる「入門書」スタイルのものより、こちらのほうが有益かもしれない。全体として読みやすい。とりわけ、第一論文「アドルノにおける自然と歴史」が卓れている。より正確には、思想的には本書はこれに尽きるとも言える。他の論考は、さっと流して読めてしまう。最後に「<自然史>の理念再考」が加えられ、最初と最後を取り囲むようになっているが、内容的には取り立てて深まった印象はない。いずれにしても、「自然史」という理解を、ルカーチ、ベンヤミンといった典拠との関係を含めて考察した第一論文だけは一読の価値あり。ここから、『否定弁証法』などのおおまかな筋道も見えてくるので、かなり立派な論考だと思う。


Philosophy and History. The Ernst Cassirer Festschrift, eds. R. Klibansky, H. J. Paton, Harper & Row: New York/Evanston/London 1963.
(クリバンスキー、ペイトン編『哲学と歴史』)

 やや古いものではあるが、カッシーラーの歿後に編まれた記念論集。その執筆陣がとにかく壮絶。ザクスル、パノフスキー、ウィントといったヴァールブルク周辺の人々は元より、ホイジンガ、ジルソン、レヴィ=ブリュール、オルテガ、ジェンティーレ、ウェッブ(ソールズベリのジョン『メタロギコン』の校訂者)などの名が、綺羅星の如くに燦然と輝く。人文諸学が燃え上がり、相互に融合して行った一瞬の夏を見るかのよう。 古書なら数百円で入手可能(ただし海外古書店)。


M. フーコー『真理とディスクール ―― パレーシア講義』中山元訳(筑摩書房 2002年)

 1983年にカルフォルニアのバークレー校で行った連続講演の記録。原題はFearless Speech(臆せずに語る)。この「パレーシア」なるギリシア語は、それほど特殊な表現ではないため、日本語では、「自由にものを言う」、「放言する」など、文脈によって訳し変えられるために、元の語が術語として目立つということがない。それは欧米の言語でも同じらしく、この語に注目してその変遷を追うのは、やはりフーコー独自の関心によるもの。権力者に阿ることなく真理を語るという意味での「パレーシア」、対話の中で相手のプライドを傷つけてまで真理を自覚させるソクラテス的「パレーシア」、さらにはギリシア民主制の堕落に伴って、単なるお喋りに堕していく「パレーシア」、そして最後に、自己の内面に対する自己内対話としての「パレーシア」といった具合に、その変遷の過程が見事に炙り出されて行く。自己吟味という意味での最後の「パレーシア」は、キリスト教的な告解の文脈にも繋がって行く。普通は術語として意識されない語を中心に据えることで、思想史の異なった切り取り方ができるという好例になっている。翻訳も読みやすく、訳註にはよくこのようなものまで調べたと思えるようなデータが入っており、訳者の技倆を随所にうかがわせるものになっていて立派。


E・カッシーラー『シンボルとスキエンティア』佐藤三夫・根占献一・加藤守道・伊藤博明・伊藤和行・富松保文訳(ありな書房 1995年)
 カッシーラーの思想史関係の論文集。なかでも「ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ ―― ルネサンス観念史の一研究」が力作。アヴェロエス主義とプラトン主義、異教とキリスト教の「悪しき混淆主義」としてしばしば混乱したものとみなされがちなピコの思想を、中世から近世への転換期の中にしっかり置き入れ、クザーヌス、ブルーノなどに繋がる側面を取り出すとともに、彼の自由論の内にカントの「感性界」と「叡知界」の区別に至る思想の萌芽を見るなど、地下茎のように走る思想史の連繋を浮彫りにしていくところに、カッシーラーの真骨頂がある。当時としてはきわめて稀な、占星術に対する徹底した拒絶も、このような文脈の中では必然的に思えてくる。アヴェロエス主義を介した自然科学との繋がりなども、大きな問題として取上げ直すと面白いだろう。
F・ジュリアン『勢 効力の歴史 ―― 中国文化横断』中島隆博訳(知泉書館 2004年)

 「勢」というキーワードによって西洋思想とは異なった中国文化のあり方を浮彫りにしている。西洋的・アリストテレス的な「可能態・現実態」によっては捉えきれない「勢」を、政治(軍事)、書、歴史という分野をまたいで描いてみせる文化の形態学。厳密な中国学という点からはいろいろと異論が出るのだろうが、大胆な構図をまずは描いてみるという試みに共感を覚える。主体や因果関係を中心にしたヨーロッパ思想が、現代では差異性や運動を強調し始めているのを見ると、中国思想の中にそうしたことを考えるヒントが見出せるという期待ももてそう。原著が、フーコーらが創始したデ・トラヴォ叢書に収められているというのも、その辺りに理由がありそう。中国思想においては、「勢」(運動性)と「理」(法則性)が一致しているという点では、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」というヘーゲル的構想が観念論抜きに実現しているというような指摘は面白い(p. 215)。しかもそこには、そうした中国的思想は、逆に「否定性」という概念を曖昧にしてしまう怖れがあるといった指摘もなされており、単なる贔屓の引き倒しになっていないところに好感を持つ。


E. Grassi, Die zweite Aufklärung. Enzykopädie heute. Mit lexikalischem Register zu Band 1-75, Rowohlt Hamburg 1958
(グラッシ『第二の啓蒙 ―― 百科全書の今日(1-75巻総索引付き』)

 ホッケ『迷宮としての世界』、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、ユクスキュル・クリサート『動物と人間の環境世界』、グラッシ自身の『芸術と神話』など、一級の書物を収めたローヴォルト叢書の全貌を見渡せる一書。この叢書がグラッシによって「百科全書」として、そしてまた思想運動としては「第二の啓蒙」として企画されたことが、その序文に謳われている。何よりも驚くのが、この巻のほぼすべてを占める総索引。シリーズ全体にわたる事項・人名索引(両者は別立て)になっている。これは言ってみれば、「ちくま学芸文庫」や「法政ウニベルシタス」に全冊を通した総索引が別巻で付いているようなもの(あるいは、実現しているものでは、『中世思想原典集成』全20巻の別巻総索引)。索引や文献表は、見ているだけで嬉しくなる。ちなみに、ふと思い立って、当の「百科全書」という事項などを引いてみると、オルテガ『大衆の反逆』、ホッケ『迷宮としての世界』、サルトル『文学とは何か』、マルロー『空想の美術館』などが引っかかってくる。これを眺めただけでも、現代の「百科全書」の広がりというものが何となく感触できるのは面白い。やはり索引とは、編者が意図していない「思想」の宝庫である。しかもこのローヴォルト叢書では、各卷に「基本概念の解説」という用語集がグラッシの手によって書かれていた。こんな点からも、この叢書がいかに「百科全書」を目指して企画されたかということが理解できる。グラッシという人物の底力をあらためて感じる一冊であった。


土井虎賀壽『生の祈願と否定の精神』(八雲書店 1948年)

 京都学派の「異端児」土井虎賀壽の評論集。この土井氏、ニーチェの翻訳・紹介と並んで、ラスクの大部の翻訳、さらに仏典の「独訳(!)」までもこなした実に魅力的な思想家。それらが単に気ままに選ばれた主題ではなく、本人の中で内容的に繋がっているのだとしたら、その思想の射程は相当なものだと思う。そんな関心から、少しずつ土井氏のものを眺めている。この論集に収められた「思想の実體性について」は、西田幾多郎が谷崎の『春琴抄』について言ったとされる評言、「<人生如何に生くべきか>という問題が描かれていない」という桑原武夫伝の言葉に即して、それが実は文学に人生論を求めるとする通例の理解の逆を志向している点を描き出そうとしている。「人生如何に生くべきか」が欠如し、小説作品の内に生身の人間ではなく、「概念」が剥き出しになってしまう点を西田はむしろ積極的に評価したのだという、思いがけない結論を、ゲーテのミニヨンの描き方を引き合いにしながら導き出す。その感覚はまるでベンヤミンのよう。土井氏の内には、どうもただの「異端児」という評価には収まらない感性が光っているような気がするのだが。


H. Rombach, Der kommende Gott. Hermetik - eine neue Weltsicht, Rombach Wissenschaft 1991.
(ロンバハ『来るべき神 ―― ヘルメス学、新たな世界観』)

 「構造存在論」の提唱者として知られるロンバハはその後「ヘルメス学」なるものを展開し、神話や宗教を題材として、イメージの哲学を展開しようとしている。図式的な適応に見えてしまうような議論も多く、どこまで斬新なものであるか見究めがたいところがあるが、展開の方向としては興味を引かれるところ。ただドイツの哲学者の常として、この種の問題を展開するにも、民俗学や神話学の具体的な知見をあまり導入せず、一挙に思弁に走ってしまうようなところがあるので、そうなると、折角他の領域と対話が可能な分野に足を踏み入れながら、自分でその対話を閉ざしてしまいかねない。


R. Kearney, Poetics of Imagining. Modern to Post-modern, Fordham U. Pr. 1998.
(カーニー『想像することの詩学 ―― モダンからポスト・モダンへ』)

 現代哲学の中での想像力論を整理したもの。フッサール、ハイデガー、サルトル、バシュラールといった現象学系の思想から、ラカンなども網羅しする。


Logos. Internationale Zeitschrift für Philosophie der Kultur, Tübingen: J. C. M. Mohr (Paul Siebeck) 1910/11-1933, 22 Bde.
(『ロゴス ―― 文化哲学のための国際雑誌』)

 ある事情で、新カント学派の機関誌が全巻揃いで手に入った。発行年代を見てわかるとおり、第一次大戦前からヴァイマール時代を経て、ナチスが政権を取るにいたるまで、不安の時代を背景にドイツ文化が活況を呈した時期に公刊されている。名目上は新カント学派が核になっているが、そこで目指されているのが「文化哲学」であったため、寄稿者や論文の範囲は驚くほど広い。寄稿者として名前が挙がっているのが、オイケン、フッサール、マイネッケ、ジンメル、トレルチ、ヴェーバー、ヴェルフリンなど。ちなみにこの『ロゴス』の第一巻に、フッサールの「厳密な学としての現象学」が掲載されている。以前は、某国立大学図書館にまで出向いて、部分的にコピーをしたものだが、幸運にも現物を所有することになった。せっかくなので、独立したコーナーとして、手始めにまずは全巻の目次あたりから紹介していってみたい。


石田英敬『記号の知/メディアの知 ―― 日常批判のためのレッスン』(東京大学出版会 2003年)

 「セミオ・リテラシー(意味批判力)の獲得を目指すレッスン」を掲げたメディア論。かつての記号論から、現代のメディオロジーまでを、CMやニュース番組(NHKのニュースや、すでになくなった「ニュース・ステーション」など)具体例を盛り込みながら口当たり良く解説したもの。スタンスはあくまでも教科書であって、それ自体が独自の知見を出しているものではない。しかし、こうした新しい「リテラシー」の提唱は、確かに「啓蒙」の新たなかたちではあるのだろうし、その点では、大学初年度くらいを標的にしたこの種の参考書も必要なのかもしれない(それを考えると、4,200円という値段は高すぎるが)


R・ドブレ『メディオロジー入門 ―― 「伝達作用」の諸相』西垣通監修・嶋崎正樹訳(NTT出版 2000年)

 単なる知識伝達であるCommunicationと区別して、力や意味の伝達であるTransmissionを問題にする「メディオロジー」の概説。キリスト教が世界的な「力」をもったのは、教えの内容よりも、むしろ伝達を担った教会や宣教によるところが多い。それを思えば、情報の流通にあたって、「メディア」自体が独自の力をもっていることが十分に理解することができる。そうした理論を説くに当たって、ドブレがもちだすのが「天使論」である。メディア、あるいはメッセンジャーとしての天使というこの部分は実に面白い(「ハードサイエンスとしての天使論」p. 43-63)。この部分だけでも一読の価値あり。キリスト教思想の中で天使を論じるということは、同時に「階級」を論じることであり、その意味では、天使の階級論である『天上位階論』を書いたディオニュシオス・アレオパギテスが、制度の確立者パウロの後継者を名乗ったのは決して偶然ではない。要するに、メッセンジャーとしての天使は同時に権力の体現者なのであり、その点でメディアというものは、常に権力と不可分なのだと論じるその発想力は見事。そしてメッセージの伝達者は同時に妨害者でもあり、そのために最高の身分の天使が、悪魔に転じるのだとも言われる。「〔悪魔を意味する〕ディアボロスとは、本来の意味では妨害するもののことだが、それはメッセンジャーを意味するアンゲロス〔天使〕の別名にほかならない。秩序から無秩序への可逆性は厄介な問題なのだ。総括すれば、悪魔とは神にとっての他者ではないのだ。それは力を行使する際の神の似像だということができる。雑音はメッセージそのものの中に見出されるのだ」(p. 57)。この天使論全体を丸々写してしまいたいくらい、この部分は冴え渡っている。


安藤礼二『近代論 ―― 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版 2008)

 南方熊楠、柳田国男、鈴木大拙、西田幾多郎、井筒俊彦ら5人の思想家についての5編の論集。明治43(1910)年頃に定位して、日本の近代を論じる。個々の論考は別々に成立したものを再編集したり、加筆するなりしてまとめられたものであるため、書物としての全体の統一はある程度整っている。その際に、一つのストーリーになっているのが、「富の分析、博物学、一般文法」が「言語、労働、言語」へと転回するというフーコー『言葉と物』の図式。ヨーロッパでは18世紀から19世紀に生じたこの転換が、日本の場合、1910年頃の近代化とあいまって急激に生じたという見通しから、章立ても「生命、労働、無限、場所、戦争」という、それとなくフーコーを暗示する組み立てとなっている。ただこの主張はあくまでも作業仮説にすぎないので、それ自体が議論に堪えるような性質のものではない。それよりもむしろ一篇一篇の論述の面白さが光る。
 個々の議論はかなり粗いのだが、読みやすさは抜群で、読者を先に引っ張っていく筆力にはかなりのものがある。それぞれの思想家を扱うにも、網羅的・教科書的ではなく、焦点をかなり絞って論じられているので、印象の強いものになっている。ただ西田幾多郎の章は、元々『道の手帖:西田幾多郎』(河出書房新社)に収録されたインタビューを利用し、形式もそのままなので、かなり違和感がある。議論の水準も突然に変わってしまい、それまで愉しく読んでいた読者の興味を削ぎかねない。これは書き換えて欲しかった。最終章の井筒俊彦論で、スーフィズムの「神人合一」を語っている最後のくだりは、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』のようなSF的な感動がある。緻密な議論ではないが、さまざまに言及される書物群も適度に意外で、新鮮さがある。未読のものは読んでみたくなるし、すでに読んだこともあるものは再読したくなるという点で、読書案内として秀逸。


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