思想史の森へ


推薦図書

中世思想

『キリスト教神秘思想史』 第一巻「教父と東方の霊性」(平凡社)
             第二巻「中世の霊性」
(平凡社)
             第三巻「近代の霊性」
(平凡社)
中世思想研究所編『キリスト教史』
(平凡社ライブラリー 全11巻)

 原著はHistoire de la spiritualité chrétienne.この「霊性史」というのは、実践の次元での宗教理解をも含んだ用語であり、日本だと、鈴木大拙が著書『日本的霊性』などを通じて紹介した概念。本書『キリスト教神秘思想史』は、いわゆる中世哲学史や思想史とは一線を画し、あくまでもその「霊性」の歴史としてヨーロッパ思想を通覧した大著。斯界での権威が執筆者として名を連ねているため、内容のレベルは相当に高い。特に第一巻などは、新プラトン主義の知識がかなり前提されている節があり、それとの微妙な関係が言外に匂わされている箇所が多くあり、なかなか議論についていくのが大変。しかし、基本的データは圧縮して盛り込まれているので、参考書としては十分に役に立つ。第一巻は西方では、アウグスティヌス、大グレゴリウスまで。またこの第一巻の後半を成すビザンツ・ロシア正教の霊性史的記述も、ほかに類書を求めにくいので便利だろう。

 第二巻の「中世の霊性」では、カタリ派、ヴァルド派、ベキンなど、民衆的霊性をも視野に収めた幅広い記述が魅力的。各修道会の起源・発展に関しても詳しい。ここでも基本的な人名・書名などがそつなく盛られているので、索引を便りに事典代わりとして使うことも可能。

 第三巻の「近代の霊性」は、記述のスタイルが若干異なる。十字架のヨハネ、シエナのカタリナなど、神秘主義に関心のある人なら多いに興味を注ぐであろう著者たちについて、多くの引用を交えながら解説して行く。イエズス会の盛衰を一つの柱にしながら、近代の霊性の歴史をポール=ロワイヤルまで追跡している。ただ、パスカルの直前で記述が終わっているのは残念。おそらく著者の心積もりでは、パスカルについては類書がいくらでもあるので、そちらに譲るということなのだろう。全体のなかではこの巻が最も記述が平易。

 本翻訳全巻を通じて、原著には入っていない人名データや、校訂版などのデータなどが大幅に付け加えられているのが、この日本語版の目立った特徴である。また巻末には邦語文献表が付録として付されている。この邦訳が公刊された時点までに関しては、最も網羅的なリストの一つだろう。ただし刊行年が1960年以降というのが、掲載のおおまかな目安になっているようだ。それ以前のものに関しては、同じ研究所編の『キリスト教史』各巻巻末の文献表が詳しい。この『キリスト教史』は、かつて講談社からハードカバーで出ていたものが、ライブラリー版として再刊されたもの。ただしその際に、大幅に手が加えられ、より精度の高いものに仕上っている。その際に増補・改訂された巻末索引もきわめて充実しており、通史あるいは事典としての利便性を一層高めている。『キリスト教神秘思想史』とともに、その方面に関心のある人にとっては、通読しないまでも、いつかかならず役に立つシリーズ。


『中世思想原典集成 別巻 ―― 中世思想史・総索引』(平凡社 2002)

 10年にわたる「中世思想原典集成」全20巻が、最終配本「シャルトル学派」をもってついに完結した後、ほとんど間を置かずに、20巻全体にわたる総索引が公刊された。この種の著作集にとっては、索引は命ともいえるものなので、この心地よいテンポでの仕上げは、その呼吸を十分に心得た会心の仕事ぶり。何しろ初期ギリシア教父から、14世紀の近世スコラ学や自然学までをカバーした一大伽藍とも言える叢書の索引だけに、その情報量は圧倒的である。古典古代の著者の引用頻度なども一目瞭然であり、いわば「影響活動史」がそっくり形になっているとも言える。味読することのできる立派な索引である。
 これまで、中世の書名・人名の表記に関しては、ある程度の水準の書物でも、ずいぶんといい加減に処理されてきた。翻訳の場合には特にそれが顕著で、原著の表記に引き摺られて何人ともわからない奇妙な人名表記がなされることが多かったが、中世事典とも言えるこの総索引が出たからには、もうそのようなことは許されない
(もちろん、いままでも「許され」はしないのだが)


リシェ『ヨーロッパ成立期の学校教育と教養』岩村清太訳(知泉書館 2002年)

 上記の『境界に立つクザーヌス』もそうだが、これも新興の学術出版社である「知泉書館」の公刊物。立ち上げ早々に、このような本格的な二冊の大著(しかもこのリシェのものは600頁に及ぶ)を世に送り出すというのは、並大抵のことではないだろう。このリシェの著作は、カロリング期における「学校」の成立を各国別に追跡した斯界の基本図書。文献表だけでも150頁を越そうという腰の座ったもの。レイノルズ/ウィルソン『古典の継承者たち ―― ギリシア・ラテン語テクストの伝承に見る文化史』(国文社)で大枠の理解が得られる問題だが、それをさらにカロリング・ルネサンスの時代に絞って、より詳細に概観するには恰好の書物。本文の記述を裏づける資料の引用なども豊富で、巻末の史料集は、さらに理解を具体的なものにしてくれる。そうした意味で、書物としての作り方が実に丁寧な著作。


P. Dronke, Verse with Prose from Petronius to Dante. The Art and Scope of the Mixed Form, Harvard U. Pr. 1994.
(ドロンケ『ペトロニウスからダンテまでの詩と散文の混淆 ―― 混合形式の芸術と話法』)
 中世文学の大家ドロンケによるメニッペア研究。「混合話法」(discours concordia)を、『サテュリコン』から、ボエティウス『哲学の慰め』などのラインを追う。バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』や『ドストエフスキー論』の中世版。ただし本書では、バフチン流の「民衆文化」のほうではなく、詩と散文の混淆という形式面に力点が置かれている。その意味では、終着点となるのは、『哲学の慰め』と同じ形態をもつダンテ『新生』である。さらに本書では、マグでブルクのメヒティルトやマルグリット・ポレートなど、いわゆる「中世の女性神秘家」たちのテクストが詳しく取り上げられているのも目を引く点である。


『中世の女性神秘家』(『中世思想原典集成』15 平凡社 2002年)
 上記のドロンケを理解するのに最も便利な論集が実に良いタイミングで公刊された。ビンゲンのヒルデガルト『スキヴィアス』やマルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』など、ほとんどが本邦初訳。エリオットが『四つの四重奏曲』で活用したノリッジのジュリアンなども、初めて現物に触れることができるようになったのは、慶賀すべきことだろう。この大規模で画期的な『中世思想原典集成』も、あと一巻を残すのみで、全20巻完結となる。軟弱になった出版状況に活を入れるような快挙になるだろう。


フラウィウス・ヨゼフス『ユダヤ古代誌』秦剛平訳(全6巻、ちくま学芸文庫 1999年)

 かつて山本書店から公刊されていた原本の普及版。本文は全編収録されているが、註が省かれている。訳者は、同じくヨゼフスの『ユダヤ戦記』(同じく、ちくま学芸文庫に収録)やエウセビオス『教会史』(山本書店)など、大部の古典を訳している立派な方。今回の『ユダヤ古代誌』のちくま学芸文庫版は、山本書店の学術的なアプローチと異なり、本文を通して読めるようにという原則に貫かれている。山本書店版は、原本にない言葉を〔 〕で区別して挿入するという、古典の翻訳によく見られるスタイルを取っていたが、今回はそうした補足も訳者の判断でそのまま原文に組み込んでいる。固有名詞表記も、山本書店版はギシリア語原典の原音重視(例えば、アブラハムがアブラモス)だが、今回は通例の表記で通している。山本書店版が研究者向け、ちくま学芸文庫版が一般読者向けという明確な相違が出たわけで、一つの原典に対してこうした二つのアプローチで翻訳が出せるというのは理想だろう(そうそう可能なわけでないが)。なお、この『ユダヤ古代誌』は、すでに第一巻が入手困難になっていて、古書店で入手。残り5巻を大急ぎで発注した。ちくま学芸文庫の大きなセットもの古典はとにかく早く入手すべきという教訓。


The G. B. Matthews, The Augustinian Tradition, U. of California Pr. 1999.
(マシューズ『アウグスティヌスの伝統』)
 アウグスティヌスをめぐる論文集。取り上げられている主題の幅の広さといい、バランスの良さといい、論文集としてかなりの水準を誇っている。中世への影響史として、アンセルムスやダンテとの比較、近代ではデカルト、カント、ルソー、ロック、現代ではウィトゲンシュタインといった具合で、アウグスティヌスと結びつけることを真先に思い浮かべられるような思想家はおおむね取り上げられているような趣がある。


金子晴勇『ルターとドイツ神秘主義』(創文社 2000年)

 エックハルト、遡ってはアウグスティヌスに遡源する「根底」(Grund)の思想を主題としながら、近世に至るまでの神秘思想の流れを追う。神秘思想の理解は、狭い意味での信仰だけでも、また純粋に観念的な哲学的分析だけでも不十分な領域であるため、扱うことはなかなか難しい。これは一口で「霊性」と言われる主題なのだが、この言葉自体、鈴木大拙の『日本的霊性』という有名な著作があるにしても、日本だと耳慣れない言葉に属すだろう。翻訳では『キリスト教神秘思想史』(全3巻、平凡社)も、原著タイトルは『キリスト教霊性史』(Histoire de spiritualite chretienne)だったが、「霊性史」という言葉の馴染みにくさのために、平易に『神秘思想史』などと言い換えた事情があるが、本来「思想史」と「霊性史」とは、まったく違うものである。この『ルターとドイツ神秘主義』や、最近では國府田武『ベギン運動とブラバンの霊性』(創文社)などを通じて、「霊性」という言葉が市民権を獲得し、宗教史と思想史の中間とも言える「霊性史」が認知されることを願う。


清水哲郎『パウロの言語哲学』(岩波書店:双書現代の哲学)

 山内志朗『天使の記号学』と同時に出た、同じシリーズのもの。著者は14世紀の思想家ウィリアム・オッカムを中心に、論理学的な方向を取ってきた人なので、いきなりパウロというのは少し驚くが、あとがきを見ると、かなり長いこと温めてきた主題らしい。インターネット上での討論にも応じる用意があるそうだ。


W. J. Hanegraaff (ed.), Dictionary of Gnosis & Western Esotericism, Brill 2006
(ハーネグラーフ編『グノーシス事典 ―― ヨーロッパの秘教』)

 グノーシス主義を含め、ヨーロッパ異端を総覧する2段組1000頁以上の事典。善し悪しはしばらく使ってみないと分からないが、カタリ派やボゴミル派などを含め、グノーシス主義を全体的に抑えるには願ってもない事典。周辺の問題として、「動物磁気」や「パラケルスス」、「記憶術」など、一般の哲学・宗教事典では肩身の狭い思いをしていた項目がここでは主役。「アウグスティヌス」などはグノーシスやマニ教のソースとしてのみ扱われている。この種の異端は、面白可笑しく書かれてしまうことが多く、信頼の置けるものを探すのが難しいが、こうしてかのBrillが事典として編集し、参考文献なども項目ごとに挙げられているので、何を調べればよいのかのガイダンスとして大変に心強い。2万円ほどと、値が張るのが玉に瑕だが。


川口洋『キリスト教用語独和小辞典』(同学社 1996年)
 このような辞典が出ているとは知らなかった。使用する人はきわめて限られているとは思うが、翻訳にとっては常に頭の痛い問題だけにありがたい。400頁に満たない小さな辞典ではあるが、キリスト教関係の用語が集められている。語句の説明がただの翻訳ではなく、内容的な解説を含むので、気の向くままに読んでいても結構面白い。
水垣渉・小高毅『キリスト論論争史』(日本キリスト教団出版局 2003年)
 ニカイア公会議の「同一本質」論から、東方での「テオトコス」論、宗教改革から近代プロテスタントのキリスト論、20世紀のバルト、ブルトマンなど、550頁に及ぶ大著。基本的には史料集という性格をもち、原典の翻訳抜粋を収めているので、かなり貴重なもの。日本のキリスト教理解の中で意外と欠落しているこうした教義の原理的側面が日本語で読めるのはありがたい。デンツィンガーの公会議史の他には邦語で類書がないという意味でも存在意義は大きいのでは。

Martianus Capella and the Seven Liberal Arts, Vol. 2: The Marriage of Philology and Mercury, Columbia U. Pr. 1977.
(『マルティアヌス・カペラと七自由学芸 ―― 『文献学とメルクリウスの結婚』) 

 自由学芸の教科書として用いられていた古典的著作の英訳。「文献学」と「メルクリウス」の結婚式に、七つの「自由学芸」が女性の姿を取って、お祝いに駆けつけ、祝辞かたがた自己紹介をしていくという設定。これが「教科書」であったという事実が、学問観の決定的な違いを如実に物語っていて面白い。


若林啓史『聖像画論争とイスラーム』(知泉書館 2003年)
 大学以外のところから発信された良質の成果という点では、この著作も挙げられる。著者は元外務省のお役人で、いまは山梨県警の警務部長とのこと。実務出身の著者だけに、文章は非常に明快で、余計な修辞などがないさばさばしたもの。イスラームの神学者アブー・クッラの思想を中心に、ヨハネス・ダマスケヌスをもう一つの柱としている。巻末に『ダマスケヌス伝』と、クッラ『聖像画崇敬論』の翻訳が付されている。興味深いものではありながら、なかなか日本語での本格的紹介がなかった聖画像破壊論争
(イコノクラスム)が、原典を元に概観できるようになったのはありがたい。


J. Koch (Hg.), Humanismus, Mystik und Kunst in der Welt des Mittelalters, E. J. Brill 1959.
(コッホ編『中世世界における人文主義、神秘思想、芸術』)
Th. van Velthoven, Gottesschau und menschliche Kreativität. Studien zur Erkenntnislehre des Nikolaus von Kues, E. J. Brill 1977.
(フェルトホーフェン『神の直視と人間の創造性 ―― ニコラウス・クザーヌスの認識論の研究』)

 前者はヴィルペルトの書いた有名なクザーヌス論「ニコラウス・クザーヌスの哲学における<対立物の一致>の問題」が収録されているので入手。結構昔の論文集を古書で買ったのに、届いてみたら、一頁も頁が切ってなかった。後者もクザーヌス論のなかでは有名なもの。大きく二部に分かれていて、第一部が「知の力と無力」、第二部が「数えることと語ること」。クザーヌスの逆説に盈ちた思考の中では数学によるパラドクスと言語的パラドクスが大きな位置を占めているので、その辺を理解するには有益な手掛かりになりそう。


『ドイツ神秘思想』〔中世思想原典集成 16〕(平凡社 2001年)
 1000頁を越す超弩級の大冊。しかしこれは、この一冊でドイツ神秘思想を概観することを狙ったものというよりは、すでにかなりの数の日本語訳の出ている状況を鑑みて、その補いをすることに主眼が置かれている。当然、エックハルトなどの著作が多く収録されているが、これも有名なドイツ語著作ではなく、
(『高貴なる人間について』を除いて)すべてラテン語著作の翻訳である。エックハルトのラテン語著作の重要性が認識されてすでに久しいので、この判断は的確だろう。そのため、『離脱について』などの著名著作は『キリスト教神秘主義著作集』(教文館)などに求める必要がある。すでにある程度ドイツ神秘思想に親しんでいる読者には従来の翻訳の欠を埋めるものであり、願ってもない贈物である。本書にはメヒトヒルトなど、ドイツの女性神秘家の著作は含まれていないが、この『中世思想原典集成』では、さらにこのあと『女性の神秘家』の巻が予定されているので、そこでノーリッジのジュリアンなどとともにドイツの女性神秘家も取り上げられる予定になっている。



W. H. Coates, H. V. White, J. S. Shapiro, The Emergence of Liberal Humanism: an intellectual history of Western Europe. Volume 1: from the Italian Renaissance to the French Revolution, McGraw-Hill Book Company 1966
(コーツ/ホワイト/シャピロ『自由学芸による人文主義の誕生 ―― 西欧の知性の歴史』)

 14世紀末期から18世紀まで、いわゆる「近代」が成立する時代を、人文主義的学知という観点から考察した論著。シャピロの提案に二人が乗って、実質上の共著というかたちを取って成立したもの。そのため、執筆分担などは取りたて明記されてはいない。18世紀の部分は、『自由の科学』のピーター・ゲイが校閲をした模様。


R. Stadelmann, Vom Geist des ausgehenden Mittelalters, Fr. Frommann Verlga 1966 (1. Aufl 1929)
(シュターデルマン『中世末期の精神』)

 過去の研究書のなかでも古典的なものを復刊したシリーズの一冊。同じシリーズには、マーンケ『無限の宇宙と中心の遍在』(D. Mahnke, Unendliche Sphäre und Allmittelpunket, 1. Aufl., 1937)がある。本書のシュターデルマンは、中世末期から近世初頭に掛けてのメンタリティの変遷を追ったもの。各章の主題は、「懐疑」「断念」「解放」「ペシミズム」といった構成。これと前記のマーンケなどは、翻訳があっても良いように思う。分量的にも比較的手頃なのだが。


Hans Urs von Balthasar, Kleine Diskurs über die Hölle: Apokatastasis, Johannes Verlag 1999
(ハンス・ウルス・フォン・バルタザール『地獄小論 ―― アポカタスタシス』)
L. Kretzenbacher, Versö:hnung im Jenseits, Verlag der Bayerischen Akademie der Wissenschaften 1972
(クレッツェンバッハー『彼岸での宥和』)
W. van Laak, Allversöhnung. Die Lehre von der Apokatastasis, Sankt Meinrad Verlag für Theologie 1990
(ヴァン・ラーク『万物の宥和 ―― アポカタスタシス論』)
 いずれも小著だが、三冊とも「アポカタスタシス」という神学上の概念を扱ったもの。出版社がどれも未知のもの。このアポカタスタシスというのは、最後の審判のやり直しのようなもの。一回の審判で救われなかった罪人たちを救済するための敗者復活戦のような考えで、古代のオリゲネスに由来するが、正統の教義にとってはもちろん異端。しかしこの怪しげな理論は、神学思想の底流のようにして、思想史のところどころに顔を出す。少しまとめて知りたいと思って調べたところ、差し当たり入手可能なのが上記のものだった。このアポカタスタシスについての包括的な
Bibliographyを付したG. Müller, Identität und Immanenz(『内在と超越』)はすでに入手済みだが、どうもこの概念、一筋縄ではいかないようだ。ちなみに、最初の著書のバルタザールは、オリゲネス研究や神学の分野ではかなり知られた人。


岩村清太『ヨーロッパ自由学芸と教育』(知泉書館 2007年)

 地味な主題だが、ヨーロッパの知的世界の根幹を成す「自由学芸」についてのまとまった著作。おそらく日本語ではほとんど類書がない。カッシオドルスによる自由学芸の確立から、イシドルス、アルクイン、ラバヌス・マウルスといった初期中世の学問伝統と君主論が扱われる。artes liberales(自由学芸)という言葉が、liber(書物)に由来するといった誤った語源論がまかり通っていたという点で、書物の黄金期とも言えるだろう。
 本書では、対象がカロリング・ルネサンス前後までになっているので、12世紀以降の自由学芸の再編には触れられていない。12-13世紀にはイスラームの影響もあって、自由学芸そのもののあり方がかなり変わって行くので、この辺りを押さえた異文化交流史のような研究書が欲しいところ。サン=ヴィクトルのフーゴーや、とりわけドミニクス・グンディサリヌスなどを含んだ論考が期待される。



ハイムゼート『近代哲学の精神 ―― 西洋形而上学の六つの大テーマと中世の終わり』〈法政大学出版局〉

 オリジナルのタイトルは日本語標題の副題のほう。そのタイトルからも分かるように、近代哲学と中世哲学との連続性を強く意識しながら、世界と神・無限性・魂論・存在論・個体論・意志論といった主要テーマを追跡したもの。従来の古代・中世・近代という区分に疑義を呈しつつ、哲学史の隠れた水脈を探る試み。しかもここで提示されるのは、事実としての影響史ではなく、いわば思弁的な連携とでも言える流れである。そのために、本書で重視されるのは、ドイツ神秘主義からドイツ観念論に至る影響史である。したがってここでは、いわゆるアルベルトゥス学派と呼ばれる、フライベルクのディートリヒなど、通常の哲学史では触れられることの少ない思想家たちが脚光を浴びることになる。おそらくはドイツの哲学史家でなければ書けない(書かない)タイプの思想史である。哲学の影響史というものは、単なる事実的な引証関係でもなければ、深層心理の連鎖などでもなく、おそらく実証的には跡付けることのできないような観念の自己関係のような性格を多分に持っている。そうした思弁としての哲学を歴史的考察を通じて堪能するには、本書は格好の思弁的哲学史である。

 本書の標題の「中世の終わり」の原語はEndeではなくAusgangである。訳者解説にもあるように、この語は何かが息絶えて終焉を迎えるというのではなく、そこを出発点として何事かが新たに始まるといったニュアンスが強い。したがって本書の対象は、中世そのものや近代そのものではなく、むしろその移行だと言える。時代的には中世末期、唯名論から主意主義的傾向が生じるそうした時代の経緯が本書が最も関心を寄せる問題である。その意味で、これはことさらにルネサンスという運動を際立たせることなく、中世末期と近代初頭の問題を考えようというスタンスを取っている。日本でも稲垣良典『抽象と直観』(創文社)や金子晴勇『近代自由思想の源流』(創文社)など、中世末期の問題に取り組んだ良書が散見されるようになった現状からすると、この時代をそろそろ本格的に考える状況は整いつつあるのかもしれない。

 翻訳は多少硬く、本文にない補いをする際にいちいち〔  〕を入れるなど、やや大胆さに欠けるが、人名表記などもおおむね正確(「ヴィクトール派」という言い方は抵抗があるが。やはり「サン=ヴィクトル〔学〕派」といきたいところ)。人名索引にも、簡単な解説があって丁寧な作り。ただ、時代を跨いだこの種の著作なら、人名の欧文表記も言語毎に合わせて表記すべきだろう。例えば、中世末期で近代科学の先鞭をつけたことで名高いオートレクールのニコラウスなどは、原書のままにNikolaus von Autrecourtとドイツ語表記になっているが、彼などはラテン語表記でNicolaus de Ultricuria、それがあまりにペダンティックならせめてフランス語でNicolas d'Autrecourtとなるべきではないだろうか。法政大学出版局の翻訳書の索引についていつも思う点ではある。


M. Teeuwen, The Vocabulary of Intellectural Life in the Middle Ages, Brepols 2003
(ティーウェン『中世における知的生活の語彙集』)
 archivum(文庫), scriptorium(写字処), codex(冊子), glossa(辞典), disptatio(討論)などなど、中世の学問の世界を作り成した諸々の語彙がどの時代にどのように現れたかを追った一種の事典。200項目くらいで、全体として450頁ほどなので、一つ一つの項目は一頁から二頁程度なので、さほど詳しいわけではないが、いろいろと連想が拡がって、拾い読みするだけでも楽しい。それぞれの項目の参考文献を使いながらさらに展開すれば、中世の精神生活についての思想史が構想できそう。


ノートカー・デア・ドイチェ『メルクリウスとフォロロギアの結婚』斎藤治之訳著(大学書林 1997)
 この書物はいろいろと説明が必要。標題のつけ方が誤解を招きやすいが、この書物の原著はマルティアヌス・カペラによるラテン語著作で、七自由学芸の基礎となったもの。その原著を10/11世紀のザンクト・ガレン修道院で、ノートケルが古高ドイツ語(アレマン方言)に翻訳している。本書はそのドイツ語原文を左頁、日本語訳を右頁に配した対訳。ただし、ノートケルの翻訳は、原著9巻のうちの2巻のみであり、本書の対訳で取り上げられているのは、さらにそのうちの三分の一ほど。古高ドイツ語の学習のための、詳細な語学的欄外註と、巻末に変化表までが付されていて、これで一応古高ドイツ語のあらましが分かる仕組みになっている。これで慣れておくと、エックハルトくらいは見当がつくようになるのだろうか。本書は語学的配慮もさることながら、何よりも著作の選択が好適。解説の中に、ライプニッツがやはりマルティアヌス・カペラに多大な関心をもっていて、出版を企画したことさえあるという一節があった。エイトン『ライプニッツの普遍計画』(工作舎)などには言及がなかったが、これは裏を取りたい。普遍学構想の中で、七自由学芸が統合されていくのはかなりスリリングである。もちろんその集大成はディドロ・ダランベールの『百科全書』だが。


E・ペイゲルス『禁じられた福音書 ―― ナグ ・ ハマディ文書の解明』松田和也訳(青土社 2005年)
 グノーシス主義、とりわけ「ナグ・ハマディ文書」の研究で有名なペイゲルスが、初期キリスト教の成立を個人的な体験と絡めながら語った一冊。純然たる研究書ではないが、正統キリスト教の魅力と違和感などを語りながら、それを歴史的に裏づけていく過程が読み物として興味深い。迫害の中で生まれたキリスト教は、それ自身の延命のために、自らが多くの要素を内部から排除することで歴史的な勢力として確立した。そのなかでも本書の最大の問題は、なぜ『ヨハネ福音書』が正統に取り込まれ、『トマス福音書』が排除されたかという一点である。共観福音書と『ヨハネ福音書』は相当に性格が異なり、それに比べると、『ヨハネ福音書』と『トマス福音書』はきわめて似通っている。にもかかわらず、なぜ『トマス福音書』は排除され、異端文書とみなされるのかという問題である。イエス一人を神とする『ヨハネ福音書』と、すべての人間に「神化」の可能性をみとめる『トマス福音書』のうち、採用されたのは『ヨハネ福音書』のみであった。ちなみに、『ヨハネ福音書』の正当化に努めたエイレナイオスには、殉教したポリュカルポスという師がいるが、このポリュカルポスなどは『ヨハネ福音書』を知らなかったらしいという記述があり、これには少々吃驚した。殉教者もすべてがすべて同じものを信じて死んでいったとは限らないのである。

P. Sloterdijk, H. H. Macho (Hg.), Weltrevolution der Seele. Ein Lese- und Arbeitsbuch der Gnosis von der Späantike bis zur Gegenwart, 2 Bde., Artemis & Winkler 1991
(スローターダイク ? マホ編『魂の世界革命 ―― 古代末期から現代までのグノーシス主義。資料と研究』)
 上記とは正反対の試み。「トマス福音書」などの古代の基本的資料を第1巻、シオラン、バタイユ、タウベス、ケレーニィ、ベンヤミンなど、「グノーシス的なもの」をめぐる文章のアンソロジーが第2巻。これなどは、何でもグノーシスの中に入れられてしまいそうなところがあって、危うさを感じないでもないが、広がりを示すためには意味のある力技だろう。編者は、「あの」スローターダイク。


M. A. Williams, Rethinking "Gnosticism". An Argument for Dismantling a Dubious Category, Princeton U. Pr. 1996
(ウィリアムズ『グノーシス再考 ―― 疑義ある概念の解明のために』)
 「グノーシス」という概念は、昨今の再評価にも関わらず、相変わらずその輪郭が定まらないことに変わりがない。グノーシス主義者たちの自己理解、後世の影響史など、多角的にグノーシス概念を点検する試み。


八巻和彦・矢内義顕編『境界に立つクザーヌス』(知泉書館 2002年)
 
クザーヌスを哲学のみならず、社会思想や、日本思想(とりわけ西田)との関係で論じた論文を収めた論文集。ここのところ、クザーヌス関係は、原典翻訳『神を観ることについて』
(岩波文庫)を始め、八巻和彦『クザーヌスの世界像』(創文社)、ブルーメンベルク『近代の正統性 III』(法政大学出版局)などと、関連書の公刊が相継いでいるので、これを機会に、この境界の思想家クザーヌスがより広い文脈で受け入れられるようになることが望まれる。


Ed. F. Byrne, Probability and Opinion. A study in the medieval presuppositions of post-medieval theories of probability, Martinus Nijhoff/Den Haag 1968.
(『蓋然性と見解 ―― 中世以降の確率理論、中世におけるその諸前提)
 Probability (Wahrscheinlichkeit)は、普通には「ありがちなこと」、「起こりうること」だが、漢語にすると「蓋然性」などとなる。しかもこの同じ言葉は、数学では「確率」である。実は、この蓋然性にしても、確率にしても、その成立は、近代以降のこと。「確率」という考えは、パスカル的な「賭け」を意味すると同時に、裏返せば、「保険」といった考えの基盤にもなっている。その意味では、近代的思考というものを考えるには、デカルト的な「確実性」だけでなく、この「蓋然性/確率」にも注目しなくてはならない。本書は、そうした蓋然性の理解の出発点を中世にまで遡って論じたもの。


D. C. Lindberg, Theories of Vision. From Al-Kindi to Kepler, U. of Chicago U. Pr. 1976.
(リンドバーク『視覚論 ―― アル・キンディーからケプラーへ』)
 中世における光と視覚の理論について少しまとまって知りたいと思っているので、その導入として入手。光学は
13世紀にアラビア自然科学がヨーロッパに導入されることによって飛躍的に発展したもの。本書ではそうした自然学系の光の理論が主題となっているが、ヨーロッパ中世には、より形而上学的な光の理論(アウグスティヌスの照明説など)が存在する。その両者の絡み合いが描き出せるとかなり面白いことにはなるのだろうが。


Nicolaus von Cues, Die Kunst der Vermutung. Auswahl aus den Schriften, besorgt und eingeleitet von Hans Blumenberg, Carl Schünemann Verlag 1957.
(クザーヌス『憶測の技術 ―― 著作抜粋(編集・序文H・ブルーメンベルク)
 
ブルーメンベルクが編集したクザーヌスの一巻ものの著作抜粋。ブルーメンベルクはこの仕事にもとづいて、『近代の正統性』の第四部で、クザーヌスとブルーノを、近代を敷居の両側に位置する思想家として対比し、詳細な分析を繰り広げることになる。かなり長いこと捜していたものをネット古書店にて無事入手。


筒井賢治『グノーシス ―― 古代キリスト教の<異端思想>』(講談社選書メチエ 2004年)
 グノーシス主義に関する「日本人研究者による待望の入門書」(帯)とあるように、確かに日本語で書き下ろされた最初の入門書だろう。「ナグハマディ文書」の翻訳(岩波書店)も出たことだし、キリスト教教父著作集(教文館)でエイレナイオスなども読めるようになりつつあるので、ちょうど良いタイミングかもしれない。グノーシス運動を歴史的に記述することが目的とされているので、全体的な印象はかなり地味。著者によると、結局のところグノーシスとは、「体制批判のごとく血生ぐさい熱狂もなく、殉教指令のごとく凍りつくような冷徹さもなく、単にギリシア哲学や二元論的な世界観を積極的に取り入れてキリスト教の福音を知的に極めようとした無害で生ぬるい運動」(p. 213)ということになるらしい。いささか拍子抜けするが、それはかならずしも著者のせいではなさそう。というか、歴史的に正確に書こうとすると、あまりにも材料が少ないらしいということが逆に見えてくる。巻末文献表などは適切だし、バシレイデスの宇宙観の模式図など、なかなか便利。


山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論』(創文社 1999年)
 毎年一回、長崎純心というカトリックの大学で行われる講演「長崎純心レクチャーズ」を書物にしたもの。これはその第一回。第一回にふさわしく、キリスト教の根幹であるキリスト論という最も難解な教義を平易に説いたもの。表題にはトマスの名前が前面に出ているが、キリスト教成立の背景から説き起こしていて読みやすい。入門的講演という体裁ながら、三位一体論におけるヨハネス・ダマスケヌスの意義を説明するなど、アプローチは本格的。もちろん、この小著で四、五世紀以降の公会議の議論などを詳しく追うことはできないが、あらましは理解できる。公会議そのものに関しては 、『キリスト教史2』(平凡社ライブラリー)辺りが資料として使えるだろう。キリスト論は、現代的な心身問題から、現象学的な媒介の議論、個と普遍の弁証法的関係など、ありとあらゆる哲学的な問題が凝縮されているような問題群である。


『哲学の歴史』第二巻『帝国と賢者』(中央公論社 2007年)

 今年の春に始まった一大シリーズ企画『哲学の歴史』が全体の半分まで公刊された。中間にあたるこの『帝国と賢者』は、この企画を象徴するような秀逸な一巻。旧来の哲学史では、ともすると思想的に折衷的で不毛な時代とされていたローマ・ヘレニズム期を独立した一巻としてとりあげ、ストア学派、エピクロス学派を論理学や自然学をも含めて扱った点は、これまでの欠を補ってあまりある。このシリーズは、表紙に刷り込まれた欧文(Histore de la philosophie)が物語っているように、ドイツ流のGeistesgeschichteというよりは、シャトレ『哲学史』を思わせる「知」の歴史。単線的な精神史には収まらないこのシリーズの性格は、まさにドイツ的哲学史が掬い上げることの出来なかったこの巻などに顕著に現れている。造本も実に見事で、よく手に馴染む。
 フーコー晩年の「自己への配慮」の問題系においてもストア学派は大きな位置を占めている。さらに、ロング『ヘレニズム哲学』金山弥平訳(京都大学学術出版会 2003年)といった基本書、さらにブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』江川隆男訳(月曜社 2006年)といった労作も出て、ヘレニズム期がにわかに面白くなりつつある。


伊藤俊太郎『一二世紀ルネサンス』(講談社学術文庫 2006年)

 12世紀ルネサンスを、ヨーロッパ内部の文化運動としてではなく、イスラームとの文化交流として捉えた市民セミナーの記録。講義を文章化したものとはいっても、内容的にはかなり豊富。アルキメデスにしても、プトレマイオスにしても、中世ではほとんど伝わっておらず、12世紀になってアラビア語からラテン語に翻訳されることでようやくラテン世界の知的財産となっていたというような経緯は、古代末期から中世初期のヨーロッパの学問がいかに遅れていたかということの証左になっている。この時代、イスラーム世界こそが学問の最先端だったわけで、ヨーロッパの「自由学芸」は、ボエティウスによる貢献などがあったにしても、内容的にはかなり貧しいものであったということになる。本書では、12世紀になされたアラビア語著作のラテン語訳の動向を、それを主導したペトルス・ウェネラビリスなどとの絡み合いで、翻訳という文化活動として叙述していく。スペイン、北イタリア、シチリアといった地域で、この時代アラビア学問の急速な受容が行われていく(ちなみに『コーラン』もこの時代に初めてラテン語訳された)。文庫版になって、ギリシア語著作のアラビア語訳、およびこの時代にラテン語訳されたアラビア語著作の一覧表が増補されている。これを眺めているだけでも結構愉しい。


グラープマン『聖トマス・アクィナスの文化哲學』(中央出版〔エンデルレ書店〕昭和19年)
 中世哲学研究の泰斗グラープマンの小著の翻訳。グラープマン自身のものはもう少し翻訳があっても良いように思えるが、意外と翻訳が進んでいない。この小著の翻訳、奥付を見ると発行部数が3,000部となっている。今の出版状況を考えるとこれは少し驚かされる数字だろう。現在だとこの手の主題だと1,500部でも難しいだろう。せいぜい700部、それも何かの補助金でもついてようやく出版に漕ぎ着けるというようなものではないかと思う。別にトマスのものを読まないと文化的ではないとは言わないし、思想状況にも流行り廃りがあるのは確かだが、果たしてわれわれの文化度というのはその当時より上がっているのか下がっているのか、少し考えさせられてしまう。


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