思想史の森へ


推薦図書

ルネサンス思想(アーリーモダンを含む)

W.サイファー『ルネサンス様式の四段階』(河出書房新社)

 美術・文学・思想を縦横に論じきったその手腕にまず脱帽。『ロココからキュービズムへ』(河出書房新社)、『現代文学と美術における自我の喪失』(河出書房新社)、そして長らく入手困難な『文学とテクノロジー』(研究社出版)という一連の流れにある著作。雄大でありながら緻密な分析が堪能できる。芸術・思想をトータルに見ようというその試みは、いわゆる専門家からはすこぶる評判が悪いらしい。


川崎寿彦『鏡のマニエリスム ―― ルネッサンス想像力の側面』(研究社出版)1978年

 鏡のメタファーを通じて、ルネサンスからバロック期への文学・思想の歴史を「観念史的」に分析する。同じく鏡のモデルを中心に据えたローティ『哲学と自然の鏡』が1979年公刊なので、その不思議な符合に驚かされる。『鏡のマニエリスム』は、ニコルソンの学統に傾倒する著者の真骨頂とも言えるもので、文学と科学の境界などはあたかも初めから存在しなかったかのよう。新書版ながら、その内容はいたって充実している。ただ現在はこの著作は、古書店でも入手が難しくなっているのは残念。またこの川崎寿彦では、名著『庭のイングランド ―― 風景の記号学と英国近代史』(名古屋大学出版会)、その内容をコンパクトにした『楽園と庭』(中公新書)もいい。また大著『マーヴェルの庭』(研究社出版)も傑作だが、現在ではかなり入手困難だろう。


圓月勝博・小野功生・中山理・箭川修『挑発するミルトン ―― 『パラダイス・ロスト』と現代批評』(彩流社)

 ミルトン研究を現代の批評理論・文化論で装備したうえで読み返そうとする野心的な論集。四人の著者のそれぞれの論考は、現代批評の動向に対してきわめて自覚的であり、理論的背景への考察を怠らないという点で、各々が相当に読み応えのあるものになっている。理論に疎い読者をも想定して、下段の註にはさまざまな人物紹介や用語解説があり、それ自体もきわめて有益な情報を提供してくれる。ことさらにアジテーションに走ることなく、文学研究のパラダイムの変革を主張する姿勢は大いに共感できる。


P. N. Miller, Peiresc's Europe. Learning and Virtue in the Seventeenth Century, Yale U. Pr. 2000
(ミラー『ペイレスクのヨーロッパ ―― 17世紀における学知と美徳』)

 二月の最初の『みすず』の読者アンケートで見つけて注文したものが到着。骨董を学問にしてしまったペイレスクをめぐる心浮き立つ研究書。同時代のガッサンディが彼についての伝記を書いていて、本書でもそれが典拠の一つになっている。それにしても、ガリレイ、ハーヴェイ、ルーベンスと、さまざまな同時代人との接点を持つペイレスクは、時代の精神的状況を描くにはうってつけの人物かもしれない。久しぶりに大いに期待がもてる新刊。


Jean Cousin, Livre de perspective, Verlag Walter Uhl 1974
(クーザン『遠近法の書』)

 1560年の大冊フォリオ版のリプリント。図版をさまざまに入れて、こんな風にやれば誰でも簡単に複雑な図形が立体的に描けますよということを指南する手引書。考えて見れば、16世紀当時、幾何学的「遠近法」というのは、最先端の「数理科学」だったわけだ。当時五万と出たこの類の遠近法指南書は、現代で言うなら、「誰でもホームページが作れます」というのと感覚的に似ていたのかもしれない。ちょうど私がいまHTMLの初歩の初歩をいじくっているように。


G. Boehm, Studien zur Perspektivität. Philosophie und Kunst in der Frühen Neuzeit, Carl Winter: Heidelberg 1969. (ベーム『遠近法研究 ―― 初期近代における哲学と芸術』)

 ドイツの60年代の成果。本邦ではいまだにパノフスキー止まりの「遠近法論」が多いが、本書はそうしたことはすでに織り込み済みのうえで、近代知が成立する経緯と遠近法とを結びつけるのみならず、そこに現象学的な知の成立史までをも組み込もうとしている。しかもその分析が、教科書的な解説にとどまっていないことは、本書の一つの要が中世末期の思想家クザーヌスの解釈にあるといった周到さを見ても分かるだろう。フッサール、ハイデガー、ヨルクという現象学の基底層を浚いながら、その議論の流れがクザーヌスに逢着するという経緯はいま読んでも唸らされる。しかもこの著作、50年代に出ていたバルトルシャイティス『アナモルフォーズ』やホッケ『迷宮としての世界』をも「学問的に」取り入れながら展開されている辺り、その懐の深さに改めて驚かされる。哲学的・論理的に議論を徹底する方向と、そうした厳密さから逸れて行くマニエリスム的な感性がバランスを取っている稀有な例。(追ってこの著者の現代の活動も紹介したい。)


蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社出版 2000年)

 一見すると混乱した色彩の乱舞にしか見えない図柄を、ある特定の視点から見るか、あるいはある特殊な光学機器(シリンダーと呼ばれる円柱状の鏡)に映すと見事に何らかの絵が浮かびあがる「騙し絵」をアナモルフォーズという。本書は、そうした複数の観点から見る多視点的な見方をモデルとして、複雑なエリザベス朝演劇の諸相を鮮やかに読み解いてみせる。アナモルフォーズのように多様な視点を許容しながら、そのどの視点をも絶対化することのない読解は、現実をその複雑さのままに演劇化するエリザベス演劇の豊かさを巧みに浮き上がらせる手法だと言えるだろう。マーロウの読解における階層を異にする聴衆、『モルフィ侯爵夫人』における演出法への洞察など、通常のテクストの読解のみからは思いも寄らない解釈が呈示され、各章ごとに眼から鱗の落ちる仕掛けが仕込んである。とりわけ、最初に分析の素材となったマーロウの『ファウストゥス博士』の分析は印象的。その対象となった、O lente lente currite noctis equi! というラテン文が耳について離れなくなる。

 Will-iam Shake-speareやGrace、Greeneといった語に秘められた言葉の「騙し絵」も、通例なら単なる言葉遊びに見えてしまうところが、影と実体の流動化などの根本的な議論を経由したかたちで導入されるために、きわめて示唆に富んだ解釈として、読むものの眼を奪う。後書きで、著者がヴァールブルク研究所に寵った経験をもつということが書かれているが、まさに「細部に宿った神」から全体の精髄を映し出この著作は、それ自体がホログラムのような、視線を惑わせ、隠れていた真実に想到させる煌びやかな輝きを放っている。このような読解によって浮かびあがったエリザベス朝演劇に較べると、自然主義的な額縁演劇がいかに一つの視点を観客に対して強いてくるものかということまでが逆に照らし出されてくるようだ。 

 全体を記述している文体は平易で、それほど凝ったものではない。読みやすさという点では大きな長所だが、内容が内容だけに、文章自体にもそれに見合った絢爛さを求めたくもなってくる。もうすこし文章そのものに意匠を凝らせば、立派に「作品」たりえたものだろうと思える。「研究書」以上、「作品」一歩手前というところに落ち着いてしまったのがやや惜しい。


ハル・フォスター編『視覚論』(平凡社)
  ―― 視覚のパースペクティヴから見事に整理された近代論 ――

 「世界像の時代」(ハイデガー)や「表象」としての世界(フーコー)ということが取り沙汰されるように、近代が視覚優位の時代であるとはよく語られることではある。しかしその内実を確認しようと思うと、そこには多くの場合、相当に曖昧で雑多な要素が含まれていることに気づかされる。本書は、近代と視覚をめぐる多様で錯綜した論点を、五本の論文を中心に、簡潔にして充分なかたちで纏め上げた好著である。本書に論文を寄せている五人の錚々たる論客は、視覚や身体といったものは、それ自体が歴史的に構成された産物であるという共通の認識にもとづきながら、それぞれ独自の視覚論を展開している。さらに、ここで論じられる「視覚」とは、一つの身体能力であるにとどまらず、近代を形作る主観・客観図式や、認識主観の特権性といったものを表す特権的メタファーでもあるという理解も、五人の著者の共有するところである。

 冒頭のマーティン・ジェイの論考は、とりわけ視覚をめぐる議論を腑分けして、要を得た見取り図を描くものとなっている。ここで前提となっているのは、アルパース『描写の芸術』(ありな書房)やビシュ=グリュックスマン『見ることの狂気』(ありな書房)などのきわめて現代的な論点である。そのためにジェイの議論は、それらの書物に関する格好の案内ともなっている。それは、続くクレーリーの論考にも言えることであり、その論文は、著者自身の『観察者の系譜』(十月堂)のエッセンスとなっている。

 クラウスとローズは、リオタールやラカンを踏まえながら、視覚とセクシャリティ、あるいは視覚と身体といった論点を縦横に論じ、ブライソンは西谷啓治や水墨画を手掛かりに、視覚の脱中心化を模索するなど、その議論は実に多岐にわたっている。また本書は、シンポジウムの記録が核になったものであるため、各論考についての質疑応答と全体討議の模様を収録しているというのも特色の一つである。それぞれ分量的には短いものではあるが、論文という形態とは違った生の議論に立ち会えるという意味で貴重な資料である。それぞれの論考が孕んでいる問題点や発展の可能性がそこでの討論によって炙り出されてくるばかりか、近代の視覚中心性に対する五人の論者それぞれの態度の微妙なずれが垣間見えてくる。

 こうした特色ゆえに、本書は、従来の議論の総括であると同時に、今後の多様な議論を紡ぎ出すための出発点であり、またそれらの議論にある程度の見通しを与えるナヴィゲーターとしての役割をも担っている。その意味で、繰り返し参照し、再読するに足る一冊であろう。200頁あまりの小著ではあるが、これが持っている意味は計り知れない。しかもその記述の簡潔さのお陰で、錯綜した議論に対する透徹した「視界」が得られるというのも、本書の大きな魅力である。それを考えると、本書の小ささは逆に大きな利点なのである。翻訳および訳者解説も実に優れている。


大林信治・山本浩司編『視覚と近代 ―― 観察空間の形成と変容』(名古屋大学出版会 1999年)

 クレーリー『観察者の系譜』(十月堂;以文社)フォスター編『視覚論』(平凡社ライブラリー)などを前提にしながら、近代における視覚の議論を、哲学・科学史・美術史などを通して通覧する論集。論文集(しかも科学研究補助費の報告書)というのものは、おおむね玉石混交と相場が決まっているが、最近ではそうした中でも意欲的な論集を目にすることが多くなってきた。本書『視覚と近代』などは、本当に粒ぞろいで、一篇一篇読み応えのある論考が揃っていて感心する。スタフォード『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会)などが論じていた、近代初頭の望遠鏡・顕微鏡といった「近代の小道具たち」が視覚経験と世界観に及ぼす変革を、かなり至近距離から丁寧に追った編者二人の力のこもった論考が含まれる。その他の論文も、甲乙つけがたい出来栄え。三谷研爾「街衢へのまなざし」は、近代の大都市の経験をその言語化である紀行文の変化から炙り出し、ニコライ、リヒテンベルク、シュティフターに即してそのディスクールの違いを示し、大都市経験を潜り抜けて美的モダニズムを形成するボードレールなどへの流れを実に鮮やかに分析している。生越利昭「視覚の社会化」も、視覚中心の近代というありがちな議論を、イギリス哲学の文脈を挿入することで、生産的に展開している。それぞれの論考が、冒頭に、当該主題についての見通しのよい研究史を述べ、参考文献も列挙していたりと、大著ではないが使い勝手の良い優れた論文集になっている。


田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢 ―― 『方法序説』を読む(岩波書店 1989年)

 デカルトを「近代哲学の創始者」とみなす一面的な理解から解き放ち、同時代の中に置き入れて読み直そうというなかなか大胆な試み。薔薇十字との関係や、アンドレアエの『化学の結婚』などの錬金術的知との関係が強調されて、イエィツ『薔薇十字の覚醒』(工作舎 1986年)の線に沿う魅力的な議論になっている。(この点では、後の谷川多佳子『デカルト研究』〔岩波書店 1995年〕も同様)。中心となるのは、有名な「夢」(1619.11.10の夢)の解釈である。バイエやライプニッツによって伝えられ、デカルトにとってきわめて大きな意味をもつものとされるこの「夢」は、従来ジルソンなどによって、デカルトが「幾何学的方法」を確信をもって受け容れるようになったことの暗示とされているが、著者はこうした「合理的」解釈に真っ向から反対し、ここでデカルトが強調しているのは、夢の中で夢を改釈するという「アレゴリーの方法」だと主張する。こうした主張もきわめて魅力的であって、こちらとしても肩を持ちたい気は十分にあるのだが、やはり全体としていささか説得力を欠いているように思える。仮に著者の言うように、ここで「アレゴリー的解釈」が重要なのだとしても、それによってこの「夢」の解釈にとってどれほど明確な利点があるのかが今一つはっきりしないからである。デューラーの『メレンコリア I』などが引き合いに出されているが、どれも状況証拠にとどまっている。デカルトの「夢」に対して、目の覚めるような解釈が提示されれば、この「アレゴリー的解釈」というのも俄かに重要性を増すことだろうが、どうやらそこにまでは至っていないようだ。


M. Wald, Welterkenntnis aus Musik: Athanasius Kirchers "Musurgia universalis" und die Universalwissenschaft im 17. Jahrhunderts, Kassel etc.: Bärenreiter 2006
(ヴァルト『音楽による世界認識 ―― アタナシウス・キルヒャー<普遍音楽>と十七世紀普遍学』)

 キルヒャーの『普遍音楽』を、十七世紀の普遍学構想の文脈の下で理解する試み。これを見ると、キルヒャーの音楽論がいかにルネサンス的な万物照応の世界観を体現し、十七世紀にあってもなおも「宇宙の音楽」の理念を展開し続けたものであったかが理解できる。音楽における協和・不協和の緊張に満ちた共存を、クザーヌス的な「対立物の一致」によって理解するあたり、その音楽論が同時にきわめて思弁的なものであったことが伺える。それは同時に、光と闇を激しくぶつかり合わせたバロックの絵画にも通じるものである(本書でも、一ヶ所カラヴァッジョへの言及がある)。本書は、楽譜出版で有名なベーレンライター社で刊行されているのも面白い。ちなみに同じベーレンライター社では、本書と前後して、この著者ヴァルトの編集によって、キルヒャーの『普遍音楽』のドイツ語版(1662年版)のリプリントが出されている。これも入手したが、髭文字の小型本の復刻だが、それほど読みにくくはない。


今道友信『ダンテ『神曲』講義』(みすず書房 2002年)
 上記のユングのセミナーと同じく、これもセミナー形式の講義をまとめたもの。講義の記録と毎回の質疑応答を収めており、読み物としてなかなか面白い。専門家を対象にしたものではなく、あくまでも『神曲』に関心のある一般読者(聴衆)を念頭においているので、記述はいたって平易。400頁を越す分量でも楽に通読できてしまう。『神曲』の解説は、どうしても地獄ばかりが中心になり、「煉獄・天国」が疎かになりがちだが、この講義はその不満をある程度かわしている。むしろ「地獄」の解説などはあっさりとしすぎているくらい。「天国編」でのキリスト教関係の解説はなかなか読み応えがある。全体の話しぶりは諄々と説いて聞かすものなので、多少じれったいところがあるが、さすがに長年哲学・美学に携わっている著者だけのことはあって、触れられるエピソードに登場する人物も大物ぞろいで、それだけでも得をした気分になれる。
 ユング=エラノスを支えたボーリンゲン財団に対して、このダンテ講義の支援を行ったのが、「エンゼル財団」。あの「エンゼル・マーク」の「森永」である。イタリア関係で言えば、『Spazio』というなかなか高度な雑誌を出しているのが「オリベッティ」。しかも、この『Spazio』本体には、「オリベッティ」の名前は表立っては表記されていない。清々しいものである。一般企業の篤志によって支えらえるこうした試みが増えることを願うばかりである。


南原実『極性と超越 ―― ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』(新思索社 2007年)

 ユングや、ポスト・ユンギアンがしばしば神秘思想に関心をもつように、神秘思想では独自のイメージの技法が展開されている。ベーメなどもその代表的なもので、著者の南原実は日本語での数少ないベーメの論者。その新著ということもあって期待したが、この著作はかなり落胆した。四元素(土・水・火・風)と三原質(塩・水銀・硫黄)が火を挟んで対峙し、さらにそれぞれ残りの三項のうち土と風、塩と水銀が対峙するというかたちで、その相互の変換が行われるというベーメの図式が、「極性と超越」という魅力的な標題の意味合い。しかし、本書はほとんどが旧著『ヤコブ・ベーメ ―― 開けゆく次元』(哲学書房 1991年)の焼き直し。そのことは本書の冒頭に断り書きがあるし、手に入りにくくなったやや大きめの旧著の代わりに、コンパクトで概略が得やすい新著として再編したというのなら問題はない。しかし本書の場合、記述がかえって分かりにくくなっており、ベーメの解説書なのか、ベーメを元にした著者の独自の展開なのかもはっきりせずに、かなり混乱した書き方になっている。引用なのか解釈なのかも判然とせず、典拠となった書目も挙げられずに、ベーメの神話的議論が紹介されているので、相当に理解しにくいものになってしまっている。関心のある方も、古書ででも『ヤコブ・ベーメ ―― 開けゆく次元』を探された方がよいと思う。
 したがって、この書物そのものに新味はないので、今回関心を新たにした部分を。ベーメがAm Anfang schuf Gott Himmel und Erde(はじめに神は天と地を造った)のある種カバラ的な解釈を展開しているといった部分について。始めの前置詞Amがすでに、口を開くAと口を閉ざすMによって、始まりと終焉の円環を示している云々といったもの。この議論と、下記の永井晋『現象学の転回』の第四章「秘密の伝承」を比べると興味深い。ヘブライ語で「はじめに」に相当する「ベレシート」が、Aに当たるアレフではなく、Bに当たる「ベイト」で始まっており、ユダや神秘思想では、これを根源の欠如、根源の隠れと理解する。そこからイサク・ルリアのカバラーに見られる「ツィムツム」(神の収縮・退去)のヴィジョンが生まれる。ベーメの理解は(それ自体奇妙とは言え)なおも通常の解釈学の範囲に収まっているとすると、ルリアのカバラーは、その解釈学の不可能性の次元にも一歩足を踏むこもうとしているように見える。


H. Bredekamp, Antikensehnsucht und Maschinenglauben: Die Geschichte der Kunstkammer und die Zukunft der Kunstgeschichte, Wagembach: Berlin 2003(3. Aufl.)
(ブレーデカンプ『古代憧憬と機械信仰 ―― クンストカマーの歴史と芸術史の未来』)

 またまたブレーデカンプで、しかもすでに邦訳を取り上げたものだが、気になっていたところが確かめられたので、あらためて紹介。フーコーの議論との対比を論じた最後の部分だが、邦訳はここでワープロが悪戯をしていた。次の個所(邦訳156頁、原典S. 99)。「しかしながら、フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、無情のトポスへのネオバロック的な操作を支えることができない」。ここの「無情」はVergänglichkeit、「はかなさ」、要するに「無常」。これが「無情」と誤変換されていた。翻訳も指示関係がはっきりせずに、何が批判されているのかよくわからない。少し手を加えてみる。「フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、<歴史の移行>(時の儚さ)のトポスに対するフーコーのネオバロック的な取り組みを支持するものではない」。要するに、クンストカマーの実情は、それ自体がフーコーの分析から逃れ、それを反駁してしまう側面をもっているということを語っているのだろう。この一文の理解によって、この個所の文脈全体が大きく変わってくる。しかし、肝心な結論部分は分かるように訳されているので、非難するほどでもない。その結論部分の邦訳。「フーコーが収集館を<構造の書>と解釈するとき、彼は視覚的なものを文法によって読んでいるのである。クンストカマーはさまざまなコレクションを視覚的なものに変えることによって、マテリアの変身能力を強調する。まさに自然物と、人工物や技術品を融合することで生まれるのは、言語的な命名法の歴史なき言語中心主義などではまったくなく、マテリアの歴史性だった」(157頁)。フーコーの「構造」や「言語」理解に対して、「質料性」や「視覚」を言挙げする宣言のような一文。現代思想(20世紀思想ではなく)の一つの方向性を明瞭に示しているように思える。


H. Bredekamp, Die Fenster der Monade. Gottfried Wilhelm Leibniz' Theater der Naur und Kunst, Akademie 2004
(ブレーデカンプ『モナドのさまざまなる窓 ―― ライプニッツの自然と人工の劇場』)

 ブレーデカンプのライプニッツ論という主題に関心をもって手に入れたところ、これはまさに下記『古代憧憬と機械信仰』の続編とも言えるものだった。ライプニッツが17世紀に企画した「自然と人工の劇場」はまさに一個のクンストカマーであり、キルヒャーにも繋がるヴンダーカマーの構想であった。この構想の推移を軸にライプニッツ哲学を追うというのは、従来の「モナド論」の哲学者という枠を大幅に超え、「普遍学」というものの具体的な展望を豁然と開くものだろう。その辺の意図が、標題にも現れている。通常、「モナドには窓がない」という言葉が独り歩きをしているライプニッツ理解に対して、むしろ「モナドの窓」を突きつけ、それどころかその「窓」がdas Fenster(単数形)ではなく、die Fenster(複数形)となっているところに、ライプニッツの普遍学への意欲が籠められているようだ。佐々木能章『ライプニッツ術 ―― モナドは世界を編集する』(工作舎 2002年)などとも接する刺激的な論題。『古代信仰と機械信仰』との関連で言うと、ライプニッツの場合は、「自然・古代・人工・機械」という流れが、「自然」対「人工」という対比項に置き換えられた17世紀的な学知が浮彫りになるというところだろうか。


H・ブレーデカンプ『古代憧憬と機械信仰 ―― コレクションの宇宙』藤代幸一・津山拓也訳(法政大学出版局 1996年)

 タイトルから少々想像しにくいのだが、本書は珍奇博物館(ヴンダーカマー、クンストカマー)を主題とした論考。ヴィントの関係でも触れたブレーデカンプのもの。自然・古代(遺産)・人工・機械という流れを設定し、自然の中に発展史を見出していくという着想がクンストカマーの基本的構想を支えているという主張。自然の無時間的な列挙から、人間を介した発展史という意味では、自然理解と歴史理解が交差する場所としてクンストカマーを位置づけるというもの。最後がピラネージにおける人工物幻想であるのも面白い。そういう意味で、かなり生産的な思想史的見通しを提示してはいるのだが、本書は元々小著であるし、叙述もまったくけれん味のない淡々した記述なので、その辺のダイナミズムが少々掴みづらい。主題が刺激的なだけに少々惜しい気がする。最終章(ただしほんの数頁)では、フーコーの『言葉と物』と著者自身の見解の対比を行っているのだが、これが何を云っているのか、いまひとつよくわからない。これは著者のせいなのか訳のせいなのかも判然としない。追って原本も入手できるはずなので、その際に検討してみたい。
 ちなみに、ブレーデカンプは、カッシーラーゆかりのハンブルク大学所属であり、この著作の元型となった論文で、ヴァールブルク賞を受賞している。ヴンダーカマーに対しては一貫した関心をもっているようで、各種展覧会カタログなどにも寄稿している。それらのいくつかも今後手元に届くはず。


『バロック・アナトミア ―― 佐藤明写真集』(河出書房新社/トレヴィル 2005年)

 プラーツ『官能の庭』でも一章を割いている17世紀後半の蝋人形作家ズンボの写真集が出ていた。正確には、ズンボやスシーニの解剖学的蝋人形を蒐めたイタリアの博物館ラ・スペコラの展示品を写真に収めたもの。身体を捌き、内臓を剥き出しにするばかりか、子宮に踞る胎児や血管組織をあまりに正確に造形した人形群は、猟奇的殺人の惨殺死体のよう。下記の『世界の没落』が世界の終末を描いたものだとすれば、本書はまさに人体の廃墟というべき写真集。これもやはり近代の産物であり、医学への貢献というにはあまりにも陶酔的な感覚に満ちている。ズンボの作品はwebでも一部見ることができるが、かなりグロテスクなのでそのおつもりで。この写真集は、これだけ異様なものを紹介する割には、解説や考察なども少なくいささか物足りない。これだけだと単なる際物好きのようになってしまいかねない。


E. Halter, M. Müller, Der Weltuntergang, Offizin: Zürich 1999
(ハルター、ミュラー『世界の崩壊』)

 洪水、黙示録、地獄の風景など、終末論的光景を集めた画集。世界崩壊の図像は、もちろん中世などにも存在するが、圧倒的な迫力をもって終末を描ききるのは、むしろ近代、それも18世紀以降の図像群である。そのような意味で、終末論や黙示録が宗教的領域を離れて、美的経験として全面的に展開されるというのは、きわめて近代的な現象なのかもしれない。20世紀以降は、シュルレアリスムや表現主義が、この危機的表現にさらに拍車を掛けて行く。これと主題的に重なるものとして、1996年のウィーン美術史美術館での展覧会カタログ『芸術原理としての綺想画(カプリッチョ) ―― 近代形成の前史:アルチンボルド・カロからティエポロ・ゴヤ』(Capriccio als Kunstprinzip: Zur Vorgeschichte der Moderne von Arcimboldo und Callot bis Tiepolo und Goya. Malerei-Zeichnung-Graphik, Zürich 1996)が、論集として画集としても充実していて素晴らしい。


G. Sebba, The Dream of Descartes. Assembled from Manuscripts and edited by Richard A. Watson, Southern Illinois U. Pr. 1987.
(『デカルトの夢』)

 1619年11月10日に、有名な「炉部屋」でデカルトが見たとされる夢について考察した研究書。近代の創始者デカルトを薔薇十字や錬金術と接触させる題材として最近興味をもっている。この夢については、デカルト本人の記述は残っていなくて、バイエの伝記が最大の手がかりとなっている。このバイエの伝記も『デカルト伝』井沢義雄・井上庄七訳(講談社 1979年)として翻訳されていたが、残念ながらこれはバイエの伝記の縮約版なので、夢の記述そのものは載っていない。


Ph. J. Davis, R. Hersh, Descartes' Dream. The World according to Mathematics, Houghton Mifflin Company 1986.
(『デカルトの夢 ―― 数学による世界』)

 これも上記と同じ関心からタイトルのみを見て入手したところ、見事に失敗。元旦に届き、しかも表紙がミヒャエル・マイアーの錬金術書の図像なので、今年は幸先が良いと一瞬色めき立ったが、内容を見て見当外れに気がついた。副題にある通り、数学的世界観にどれほどの現代的可能性があるかということを論じる書物であって、(冒頭に比喩として触れられている以外)デカルトの炉部屋の夢とは直接には関係がなかった。タイトルは、デカルトが抱いた「普遍数学」という「夢」のこと。とんだ粗忽な勘違いだった。


薗田坦『クザーヌスと近世哲学』(創文社 2003年)

 無限論、およびそれと結び付いた「知ある無知」の議論を一つの核として展開される前半と、ルネサンス自然思想を中心とする後半とに大別される。後半部分では、ルネサンスの魔術思想なども主題となるのだが、その内容と題材はおおむねカッシーラー『個と宇宙』に拠っており、特に目新しい知見は見られない(ちなみに著者は、カッシーラー『個と宇宙』〔名古屋大学出版会〕の訳者)。やはり、哲学的思想を論じた前半が本書の要だろう。


トゥールミン『近代とは何か ―― その隠されたアジェンダ』藤村龍雄・新井浩子(法政大学出版局 2001年)

 デカルトから始まる近代は、ルネサンスを幕開けとする近代とは異質のものであったという主張。つまり、近代にはいわば楕円のように二つの中心があり、現代において「近代」とみなされているのはそのうちの一方、つまりデカルトの近代でしかない。ルネサンス人文主義によって成立した寛容な人文主義的精神という意味での近代は、デカルト的近代によってかえって停滞して「隠された」という理解。要するに、現代における人文主義の復権を訴える主張だが、議論はなかなか詳細で、多様な要素が盛り込まれていて面白い(いずれ書評を書きたい)


ボッシー『ジョルダーノ・ブルーノと大使館のミステリー』浜林正夫・鏡ますみ・葛山初音訳(影書房 2003年)

 原著の存在は以前から知っていたが、Giordano Bruno and the Embassy Affairsというその原著タイトルからは中身が分からないので、ネットの洋古書店で見つけても買い渋っていた。この邦訳を見て、ロンドン滞在中のブルーノの活動を物語風に綴った歴史書ということが初めてわかった。定価が9,500円もするのだが、訳者たちがなぜこんなものを訳そうと思い立ったのか、また現在の読書界にどういう意味があると考えたのかなどは、その「訳者解説」からも一切窺い知ることはできない。本文でも散々触れられているイェイツの『ブルーノとヘルメス的伝統』の邦訳もないところになぜこれを紹介するのか、訳者の意気込みを大いに知りたいところなのだが。


J. M. Gellrich, Discourse and Dominion in the Fourteenth Century. Oral Contexts of Writing in Philosophy, Politics, and Poetry, Princeton U. Pr. 1995.
(ゲルリック『十四世紀における言説と支配 ―― 哲学・政治・文学における著作の口承的次元』)

 中世末期(もちろんグーテンベルク以前)の著作形態を論じた一種のメディア論。哲学・神学ではオッカム、ウィクリフ、政治では、エドワード三世、リチャード二世、文学では、ガウェイン詩人などが対象となっている。オングの『声の文化と文字の文化』藤原書店や名著『言葉の臨界』Interfaces of the World, 1977〔未邦訳〕)などと同様に、口承言語と書記言語と思想との絡み合いを論じる。著者ゲルリックには、『中世における書物の観念』(The Idea of Book in the Middle Ages: Language Theory, Mythology, and Fiction, 1985〔未邦訳〕)という著作があり、これは非常に面白かったので、その続編と思われる本書も入手。『中世における書物の観念』は邦訳が欲しいところ。


Tous les savoirs du monde. Encyclopédies et bibliothèques de Sumer au XXe siècle, Bibliothèque nationale de France/Flammarion 1999.
(『世界を知り尽くす ―― シュメールから二〇世紀までの百科全書と図書館』)

 フランスの国立図書館の展覧会カタログだが、四折版でハードカバー500頁に及ぼうという大冊。フランスに限らず、ヨーロッパの展覧会カタログは、優に数冊の研究書に相当するようなヴォリュームと内容をもっている。ISBNがついて書物扱いである。本書は、副題にあるように、シュメールの粘土板やパピルスの百科全書から始まって、中国、イスラムも網羅し、近代の博物学、ルドルフ二世の宮廷、もちろんディドロ・ダランベールの『百科全書』、現代のハイパーメディアなど、大量の図版を投入して、百学乱舞の知的饗宴を展開する。1. 古代メソポタミア、2. 古代の源泉、3. 西方キリスト教世界、4. イスラム中世、5. 光の世紀の人文主義、6. フランス国立図書館の書物分類と知の区分、7. 自然の大いなる書物、8. 世界の驚異の目録、9. 中国の百科全書、10. 『百科全書』の製作、11. パンクークからクノー、12. ハイパーメディア、といった章立てで、まさに古今東西の百科全書を「現物」で見せていく壮大な資料。「自然の大いなる書物」の章で、自然史博物館の協力も仰いだとのこと。「バンクークからクノー」の章でのパンクークは、ディドロたちの衣鉢を次いで『百科全書』の編集に当たった人物だが、目を引くのが、「クノー」(『地下鉄ザジ』の、あのレイモン・クノー)である。彼は『プレイヤード百科事典』の編集に当たるほか、独特の百科全書的感性で、言語遊戯のグループ「ウリポ」などに関わっている。そうした方向の成果の代表作が『文体練習』(朝日出版社)ということになるのだろうが、そんな連想も含めて、本書は百科全書的感性が存分に盛り込まれており、その圧倒的な情報量が魅力的である。


パノフスキーイデア ―― 美と芸術の理論のために』伊藤博明・富松保文訳(平凡社ライブラリー 2004年)

 プラトンではいわゆる詩人追放論(反芸術論)の論拠となっていた「イデア」論が、その後の歴史の中でいかに芸術と密接に結びつき、それを背後から支えることになったかということを古代から中世・ルネサンスを通じて論じた名著。例えば、大きな転換点となっているルネサンス期の問題は次のように記述されている。「ルネサンスでは、イデア概念はまだ芸術理論によって徹底的に考え抜かれてもいなければ、それほど重要なものとも考えられてはおらず、むしろ精神と自然のあいだの裂け目を目隠しする役割を果たしていた。そのイデア概念が、いまや芸術家の人格を力強く強調することで、<主観と客観>という問題に目を向けさせ、その裂け目を目に見えるようにすると同時に、イデア概念は本来の形而上学的意味に解釈されることによって、つまり、主観と客観との対立をより高次の超越的一者のなかで止揚するものとして捉え返されることによって、再びその裂け目を閉ざすことを可能にするのである」(p. 122)。いわゆる「近代的」芸術家が誕生する経緯に関しての記述なのだが、このような観念のドラマに対する感覚は、カッシーラーにも通じるところがある。それにしても、この著作、付録としてルネサンス期の資料を付し、さらに本文にも本文に匹敵する詳細な原註が付されている。しかもこの原註は、単なる出典註や文献註にとどまらず、思想的にもさまざまな連想をちりばめて、実に刺激的。註に関しては、『異教的ルネサンス』(ちくま学芸文庫)を始め、ヴァールブルクの著作にも同じことが言えるのだが、こちらは私に具体的な美術史の素養がないので、その面白さにあまり熱狂できなかった(むしろ「忍耐」という形で捉えてしまった)が、おそらくその種の知識に詳しい読者ならば、ヴァールブルクの註からも、パノフスキーのこの註と同質の刺戟を感じ取れるのではないかと想像できる。そうしたものがいわゆる「神は細部に宿る」という感覚なのだろう。


A・ヴァールブルク『異教的ルネサンス』進藤英樹訳(ちくま学芸文庫 2004年)

 文庫訳しおろしで、ヴァールブルクの初期の代表作「イタリア美術とフェッラーラのスキファノイア宮における国際的占星術」、「ルター時代の言葉と図像に見る異教的=古代的予言」、「東方化する占星術」を収める。のちのパノフスキーやイエイツらの活動によって伝説的となったヴァールブルク文庫の創始者がどんな仕事をしていたのか、ようやくコンパクトなかたちで実物に触れることができるようになったので喜ばしい。すでに「ありな書房」から著作集が公刊されている(有名なスキファノイア宮についての講演はすでに、そちらの著作集でも別の訳で公刊されている)が、分量の割には高価なので、やはりまずはこの文庫だろう。それにしても、ヴァールブルク自身の資質はかなり地味で、その記述は細かい事実確認が延々と続く。これに付き合うにはかなりの根気が必要だろう。「神は細部に宿る」ということの実践が、いかに地を這うような忍耐を必要としているかが実感される。これに比べると、主題として本書のルター論と重なっているクリバンスキーらの『土星とメランコリー』(晶文社)などのほうが、大文脈への繋がり方が見えやすく見栄えがする。これにはやはり資質の違いが大きいようだ。


坂部恵『モデルニテ・バロック――現代精神史序説』(哲学書房 2005年)

 現代とバロックの思想史的な通底を主張するという点では、主題そのものはきわめて魅力的。しかし、同じ著者の『ヨーロッパ精神史入門 ―― カロリング ・ルネサンスの残光』にもまして羊頭狗肉。やはり、この種の主題を提示するには、それ自体がバロック的な知識の大盤振る舞いを期待したいところ。おいしい主題だけをつまみ食い的に書き散らされても、なかなか共感しづらいところがある。ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』を、同時代のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、ハイデガー『存在と時間』と並ぶ20世紀哲学の代表作とする評価にしても、これだけではただの判官贔屓のように見えてしまう。「シェリングと岡倉天心」という意表を衝く標題にしても、内容を見ると、シェリングとは申し訳程度の関係しかない。エリウゲナと空海という対比にしても、これだけでは思い付きの域を出ない。主題が主題だけに、全体としてなんとも残念な出来栄え。本書で最大の美点は、ラトゥールの絵をあしらった装幀と、「霊性と創造する言葉の形而上学に汲む」という帯のフレーズだろう。


『現代詩手帖 ―― 特集:ダンテ』(思潮社 1987年7月号)

 日本では、ダンテは言及されることのみ多く、「論じられる」ことの少ない古典の代表格のような趣がある。多少とも踏み込んで論じた日本語の著作としては、矢内原忠雄『ダンテ神曲講義』(みすず書房)や、最近では今道友信『ダンテ『神曲』講義』(みすず書房)があるくらいだろうか。浦一章『ダンテ研究 I』(東信堂)は詳しいとはいえ、『新生』のみの研究である。そんななか、20年近く前の雑誌特集とはいえ、なかなか力の籠ったものだったので、図書館でコピーをしてもっていたが、ようやく現物を手に入れた。慶賀。


P・ロッシ『哲学者と機械 ―― 近代初期における科学・技術・哲学』伊藤和行訳(学術書房 1989年)
 書店で一度も現物を見ないまま、いつのまにか品切れになっていたが、念のため発注してみたら、わずかな在庫とおぼしき若干汚れたものが手に入った。『普遍の鍵』やベーコン論で著名なロッシの著作。近代初頭の職人的な手作業が、近代科学の成立にいかに決定的な役割を果たしたかを論じる。その点ではヴァイグル『近代の小道具たち』(青土社)などに通じるが、本書の記述の仕方そのものはかなり地味。『普遍の鍵』もそうだが、ロッシは、挑戦的なテーゼを手堅く地味な外見をまとわせて提起するというスタイルを持っているようだ。それにしても、この「科学史研究叢書」というのはたいへんに期待していたシリーズだが、本書がシリーズ一巻目で、その後。カッシーラー『現代物理学における決定論と非決定論』(山本義隆訳)、ジェイコブ『ニュートン主義者とイギリス革命』が出たきりで後が続いていない。ミッテルシュトラース『近代と啓蒙』、ギルバート『ルネサンスにおける方法概念』、オング『ラムス・方法・対話の衰退』といった具合に、そのラインナップは目映いような書目が並んでいただけに残念。


J・ヘンリー『一七世紀科学革命』東慎一郎訳(岩波書店2005)

 科学革命に関して、近年の研究動向などを踏まえコンパクトに概観した概説書。「魔術と科学」というイェイツの問題意識や、「科学とピューリタニズム」といったマートン・テーゼなども踏まえ、バランスの取れた解説を行っている。小著ながら、科学史上の具体例(ケプラーやニュートンとプラトン・ピュタゴラス主義との関係、レーフェンフックに対する当時の逆風)も適宜取り上げられていて、読み物としても面白い。パラダイム論などを大上段に論じるわけではなく、文化史・社会史を含めた科学史への入門書に徹している点が好ましい。近世初頭の大学は、いまだに修辞学の影響下で、中世的な「討論」のみを中心としていたため、科学革命の担い手たちは大学から距離を取って、新たな学会を作り始めたというような社会史的状況などにも、かなり強調されている。
 原著自体、元々が入門書のシリーズなので、巻末に一行コメントが付された文献表と用語集が付されていて、この300点ほどの文献表がなかなか有益。さっそく何点か発注してしまった。本文中にも、随所にこの文献表への参照番号が記されており、考えてみれば、本書全体が、この文献表に対する詳細な序文とも言える。翻訳も気負いがない優れた訳文で、翻訳書であることを感じさせない。
 しかしやはりいくつか問題もある。肝心の文献表は、邦訳のあるものはデータを記載するという方針で作られているようなのだが、例えば、コーペンヘイヴァー/シュミット『ルネサンス哲学』榎本武文訳(平凡社 2003年)、ドッブズ『錬金術師ニュートン ―― ヤヌス的天才の肖像』大谷隆昶訳(みすず書房, 2000年)、ドブズ『ニュートンの錬金術』 寺島悦恩訳(平凡社, 1995年)らの大著群が、原著データのみで、邦訳が挙がっていない。信じられない見落としで目を疑う。さらに、「日本語版として<日本語文献案内>および<訳者解説>を付した」(凡例)ということになっているが、これがなんとも御座なり。概説書として書かれた本書を、「解説」でなぜ要約する必要があるのか。日本での文献案内や、最近の山本義隆の一連の著作などを含め、日本語での展開を解説して欲しかった(日本語文献表では、『磁力と重力の発見』に簡単に触れられてはいるが)


D, Mahnke,Unendliche Späre und Allmittelpunkt ,Neudruck Fr. Fromman Verlag 1966 (1st ed. 1937).
(マーンケ『無限の天球と万象の中心』)

 ミュンヘン現象学のマーンケによる中世の宇宙論。「円環」や「球体」というイメージの変遷を追い、ノヴァーリス、ベーメ、ケプラー、コペルニクス、クザーヌス、さらには12世紀宇宙論を通って最後はアナクシマンドロス辺りまで遡る。小振りな本だが内容は充実している。R. Stadelmann, Vom Geist des ausgehenden Mittelalters(シュターデルマン『中世末期の精神』)と同様、このシリーズは、Deutsche ViertelJahrsschrift für Literaturwissenschaft und Geistesgeschichte(『季刊・ドイツ文芸学・精神史』)の論考を単行本化するというものらしい。
 本書は、ニコルソン『円環の破壊』小黒和子訳(みすず書房)ブーレ『円環の変貌』岡三郎訳(国文社)を思わせる主題だが、本書の場合はこの二著作と違い、文学・芸術には手を延ばさずに、純粋に哲学的文脈のみを追っている。そのために、これが一貫した神秘思想史にもなっていて、全体に統一感を与えている。「円環」のイメジャリーという主題では、邦訳があっても良さそうな著作。


L. Daston, K. Park,Wonders and the Order of Nature, 1150-1750 , Zone Books 2001(pbk) (1st ed. 1998).
(ダストン/パーク『驚異と自然の秩序』)

 掲示板で教えていただいて入手。届いてみたら、大判500頁を越す怪物的大著だった。「驚異」をキーワードに、盛期中世から近世初頭の自然学・博物学の系譜を追う大規模な著作。「驚異」と「自然の法則性」という理解が、自然に対する二つの異なる態度として、パラメータを形成しているという図式。異世界に怪物が配置された古代の空想的地理学から始まって、啓蒙主義初期の自然学までをも歴史的に辿っていく。中世哲学では、「驚異」という思考は、アルベルトゥス・マグヌスやトマスによって自然理解の姿勢として承認されながら、偶発性や突然変異の意味合いからは、神の秩序の阻害要因としてむしろ拒絶される。それは中世後期のニコル・オレームなどにおいても変わらない。ルルスなどはその点で、「驚異」に積極的な意義を見出した例外的存在ということになる。本書では、そうした中世における「驚異」の後退を挟みながら、近世において「驚異」(wonder)が「好奇心」(curiosity)と有効に結びつき、「驚異博物館」(Wunderkammer)を始め、デカルト、ベーコンの自然理解をも産み出していくといった図式が展開される。ブルーメンベルクの「理論的好奇心の誕生」の議論とも噛み合いそう。そうした歴史的なトレースと並んで、「怪物」についての章などが挟まれている。いわゆる「科学革命」や「大学の誕生」、「世俗化」などといった議論とはまた一味違った歴史叙述。「科学史は、存在論と〔驚異という〕感情を中心にするなら、学問分野や制度を中心とするのとは、異なった光景が見えてくるだろう」(p. 18)。つまり、フーコーやクーンとは違った関心で科学史を見ようという試み。
 この書物を見て、真っ先に思い出したのが、近世初頭の博物館の成立を詳述したフィンドレン『自然の占有 ―― ミュージアム、蒐集、そして初期近代イタリアの自然文化』伊藤博明・石井朗訳(ありな書房 2005年)。そう思って、訳者の伊藤氏の解説を見たら、書名だけではあるが、本書がしっかり言及されていた。本書は、この『自然の占有』と、バルトルシャイティス『幻想の中世 ―― ゴシックにおける古代と異国趣味』西野嘉章訳(改訳:平凡社ライブラリー)をブレンドしたようなものといったところだろうか。思えば、バルトルシャイティスの「古代と異国趣味」というのも、また「驚異」の別様の表現であった。ただし、バルトルシャイティスの対象は美術であるし、本書『驚異と自然の秩序』でも、議論の出発点は12世紀半ば以降なので、初期スコラ学から12世紀ルネサンスに至る哲学的な自然理解は対象外になっている。かろうじてリールのアラヌスやバースのアデラードが言及されているといったところ。カルキディウス訳の『ティマイオス』の影響史やら、シャルトル学派の自然理解など、この辺りはまだ開拓の余地がありそう。いずれにしても、当分は愉しめそうな著作。


M. Carruthers, The Craft of Thought. Meditation, Rhetoric, and the Making of Images, 400-1200, Cambridge U. Pr. 2000 (1st ed. 1998)
(カラザース『思考の技法 ―― 黙想、修辞学、イメージの制作』)

 名著『記憶術と書物』(工作舎)の著者カラザースによる「記憶術」第二段。


R. Mendoza, The Acentric Labyrinth. Giordano Bruno's Prelude to Contemporary Cosmology, Element 1995.
(メンドーサ『中心なき迷宮 ―― 現代宇宙論の先駆けとしてのジョルダーノ・ブルーノ』)

 ブルーノの宇宙論的理論を科学論の視点から考察しようという研究書。最後の一章では、ブルーノとニーチェが対比させられている(「螺旋と指輪 ―― ブルーノ対ニーチェ?」)。伝統的な価値観の破壊や「英雄的」精神という点でニーチェと共通点をもつブルーノも、古代以来存在する「永劫回帰」の思想は認めないという点で、ニーチェを先取り的に批判しているというのが著者の見解。そのために、両者の宇宙論を象徴する形象として、ブルーノに螺旋、ニーチェに指輪を当てて対比を強化している。しかし、ブルーノが永劫回帰を認めない論拠として引用されるラテン語著作の一節は興味深い。「同一物というあり方は、数の点に関しても、同じものであったためしはないし、これからも同じものであることはないだろう。なぜなら、二つの異なった瞬間において同一のままにとどまり続ける真理なるものを肯定することなどは断じてできないからである」。ニーチェの文章として引用されてもおかしくない文章である。それを考えると、「永劫回帰」を是とするか否かということよりもさらに根本的なところで、ブルーノとニーチェが重なってくることも考えられそう。何しろ、両人とも、名にし負うメニッペア作者でもあることだし。


川崎寿彦『ダンの世界』(研究社1970〔初版 1967〕)

 詩的言語のパラドキシカルな閉域の中で洗練を究めた若きダンから、後年の行動する説教者としてのダンへの転身を追う。この著者らしく、背景となっている新プラトン主義に対する言及なども抜かりがない。著者自身が、同時に出た高橋康也『エクスタシーの系譜』(アポロン社〔その後、筑摩叢書〕)との類似を述べているが、ダンを始めとする形而上詩人やパラドクス文学全般に対する関心も、ある時代に同時発生的に起こった知的現象だったのかもしれない。ホッケの一連の邦訳なども同時期のものだった。
 川崎氏のこの著作は随分と探していたが、いまではそれなりに値もあがっている。『マーヴェルの庭』も入手したので、これで川崎氏に関しては一段落と言ったところ。


W. Wilgden, Das kosmische Gedächtnis. Kosmologie, Semiotik und Gedächtnistheorie im Werke Giordano Bruno (1548-1600), Peter Lang 1998.
(ヴィルグデン『宇宙論的記憶 ―― ジョルダーノ・ブルーノにおける宇宙論・記号論・記憶論』)

 序章で伝記的な記述をしたのちに、ルルスの「大いなる術」などとの対比でブルーノの記憶論をかなりの細目にわたって詳述して行く。イェイツ、ロッシを踏まえながら、具体的なテクストに即して、その記憶論の個々の図像(figura)を丁寧に紹介している。
 


D. P. ウォーカー『古代神学 ―― 15‐18世紀のキリスト教プラトン主義』榎本武文訳(平凡社 1994年)
 ヴァールブルク・コレクションのうち、入手しそびれていたものを古書店で。「<古代神学>という語で私が指すのは、成立年代を誤って想定されたテクストにもとづくキリスト教護教神学の伝統である」とウォーカーが言うように、本書で語られるのは、ヨーロッパ思想の底流を成している脈々たる「偽書」の歴史である。「ヘルメス文書」、「オルフェウス文書」など、圧倒的な影響を与えながらも、実はその由来が明らかではない謎めいた文書・イメージの総体である。その点で、パウロと同時代の人物を装った5世紀のディオニュシオス・アレオパギテスも、本書の主題の一つである。一つの伝統が形成されるのは、かならずしも実証可能な権威にばかりもとづくのではない。歴史を形成する際の「象徴」の役割が実感される。


N. Ordine, Giordano Bruno und die Philosophie des Esels, Wilhelm Fink Verlag 1999.
(オルディーネ『ジョルダーノ・ブルーノと驢馬の哲学』)

 『キッラの驢馬』やら『天馬のカバラ』といった不思議なタイトルの書物を書いたブルーノは、紛れもなくメニッペア作者だが、そのメニッペアぶりを象徴するような形象である「驢馬」を焦点にブルーノを論じるという異色作。巻末には、驢馬をめぐるルネサンス期の図像集まで収められていて愉しめる。


R. L. Colie, Paradoxia Epidemica. The Renaissance Tradition of Praradox, Princeton U. Pr. 1966.
(コーリー『パラドクシア・エピデミカ ―― パラドクスのルネサンス的伝統』)

 かなり以前から捜していたものをようやく古書で入手。否定神学の言語的パラドクスの問題を文学的遺産として捉え、ルネサンス文学と十七世紀形而上詩にその開花を見ようとするもの。この研究書が公刊されたのは、フーコー『言葉と物』と同じ1966年。実存的には人生の葛藤という問題として深刻に扱われてしまいかねない「パラドクス」という問題を、あくまでも「言語」の領域で捉えようとしたのが、この時期に特有の感性と言えるかもしれない。


The Poem of John Donne, Edited from the old editions and numerous manuscripts with introductions & commentary by Herbert J. C. Grierson, The Clarendon Press 1912.
(『ジョン・ダン詩集 ―― グリアソン編』)

 17世紀の形而上詩人ジョン・ダンの批判版全詩集。20世紀になってエリオットが再評価して急速に復権の進んだ形而上詩だが、その代表者ダンの決定版。この版自体は本来はバックラムの装釘だが、今回入手したものは、前の所有者が特別に装幀に出したもので、赤モロッコ皮三方金、金箔押し装幀で、見返しへの織り込み部分にまで箔押しをするという手の込んだもの。20世紀に入ってからの「批判版」などにこれだけの装幀を施した前の所有者の思い入れが伺える。バックラムのエディションでもいまはかなり値が上がっているので、これはかなりの拾い物。


E. G. Gilman, The Curious Perspective. Literary and Pictorial Wit in the Seventeenth Century, Yal U. Pr. 1978.
(E. G. ギルマン『奇妙な遠近法 ―― 17世紀における文学と絵画における諧謔』)

 長いあいだ古書で捜していたが、ようやく入手。絵画における「騙し画」の意味でのパースペクティヴを、文学との境界を乗り越えながら論じた著作。具体的にはシェイクスピア、ダン、ジョージ・ハーバート、マーヴェルといった、いわゆる形而上詩人の系譜に属する作品が主題となる。


H. Frierich (Hg.), Dante Alighieri. Aufsatze zur Divina Commedia, Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1968
(フリードリヒ『ダンテ・アリギエリ ―― 『神曲』をめぐる論文集』)

 ロマン主義の哲学者シェリングのダンテ論(1803)から始まり、クローチェ、グラープマン、クルティウスなど、代表的なダンテ論をまとめた便利なアンソロジー。原文がイタリア語の論考も独訳されて収録。


『ルネサンスを彩った人びと ―― ある書籍商の残した『列伝』』岩倉具忠・岩倉翔子・天野恵訳(臨泉書店 2000年)

 ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』などでも特筆されていたルネサンス時代の書籍商ヴェスパシアーノ・ダ・ヴィスティッチの有名な『列伝』の抄訳(とは言っても500頁以上)。手写本の作成・販売を手がけ、教皇にまで及ぶ当時の著名人・大文化人と交流を持ち彼らの知的源泉となることで、ルネサンスを裏で支えた大商人ヴィスティッチ。その彼が残した、顧客についての記録である。エウゲニウス四世、フェデリコ・モンテフェルトロ、レオナルド・ブルーニ、コシモ・デ・メディチと、その「客層」は半端でない。彼が活躍したのはグーテンベルクによる活版印刷の出現の直前の時代であり、やがては時流に押されて手写本が後退するぎりぎりの頃であった。このヴィスティッチについては、例えば清水純一『ルネサンス ―― 人と思想』(平凡社 1994年)にも紹介があるが、一般的にはそれほど著名というわけにはいかないだろう。その点を考慮して、この翻訳でも長文の解説が付されていて、紹介として親切。しかし、標題や扉にヴィスティッチの名前がないというのは少し淋しい。私も見落とすところだった。ヴィスティッチの名を知っている人への配慮も少し欲しいところ。


ポプキン『懐疑 ―― 近世哲学の源流』(紀伊國屋書店 1981年)

 Yahooのオークションで入手。原書は持っているが近代の懐疑主義関係の古典なので邦訳も捜していた(現在絶版)。古代で哲学の出発点とされた「驚き」に対して、近代では「懐疑」が占める位置が大きい。もちろん古代にも懐疑主義は存在し、デカルトの背景となったのもそうした古代のピュロン主義などの懐疑主義の近代版だが、哲学の出発点に対して持っている意味合いは大分異なっている。本書は近代初期に限定された議論だが、近代哲学の出発を動機付けた「懐疑」は、フッサールの現象学の「エポケー」にまで及んでいる。これに時代という意味での「エポック」という用法を絡み合わせるという荒業をやって見せたのがブルーメンベルクである。


清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(創文社)

 日本で唯一のブルーノの本格的な研究書。創文社のものは一旦品切れになるとかなり入手が難しくなってしまう。この『ブルーノ研究』も長いあいだ気にしていて、ようやく手に入れた。同じ著者の『ルネサンスの偉大と頽廃』(岩波新書)は、ブルーノと時代背景に重きが置かれているのに対して、この『ブルーノ研究』のほうがよりテクストに即した論述になっている。ブルーノの著作のなかで、哲学的なものだけでなく、『燈火を掲げる者』などという喜劇的作品が取り上げられているのも特徴の一つ。ただ、ブルーノにはほかにも『キッラの驢馬』や『奢れる野獣の追放』などのメニッペア的作品もあるので、そうした包括的なブルーノ像を提示するものがそろそろ望まれるところ。東信堂から始まったブルーノ著作集も第一回配本の『原因・原理・一者について』が出ただけで止まっている。なかなか後続が難しい企画かもしれない(一応全10巻、別巻2巻が予定されてはいるのだが)


岩倉具忠『ダンテ研究』(創文社)

 これも創文社で、現在入手はやや難しい。書名は『ダンテ研究』とは銘打っているが、ダンテの全体像を追うものではなく、『俗語詩論』を中心とした、ダンテの言語・文体観を主題とする。『新生』や『神曲』について作品に即した詳細な分析があるわけではない。この著者は、『俗語詩論』を翻訳・注解した立派な仕事を残してもいる(東海大学出版会)。それにしても、イタリア関係でまとまった業績は実に限られている。ダンテ、ブルーノ以外では、個人の思想家を主題とした大きな著作では、近藤恒一『ペトラルカ研究』(創文社)があるくらいだろうか。


Giedion, Die Herrschaft der Mechanisierung. Ein Beitrag zur anonymen Geschichte, Europaische Verlagsanstalt 1994 (1. Aufl. 1982); Originalausgabe: Mechanization takes Command, Oxford U. Pr. 1948
(ギーディオン『機械化の支配 ―― 匿名の歴史』)

 いざ届いてみて驚いた。A4版800頁以上、図版満載の大冊だった。ここで「機械化」と言われているのは、工業機械のこと出はなく、生活を快適にするために導入されたさまざまな工夫のこと。最も言及の多いのは安楽椅子のたぐい。ちょうど多木浩二がやっているような主題なのだが、この本のオリジナルが1948年という出版年なのでさらに驚く。戦後すぐ辺りにこの種の生活の中の小さな小道具に着目して、それを一つの歴史として追おうとした感覚はかなり先端的だったのではないだろうか。


D. C. Allen, Mysteriously Meant. The Rediscovery of Pagan Symbolism and Allegorical Interpretation in the Renaissance, John Hopkins U. Pr. 1970
(アレン『神秘的象徴 ―― ルネサンスにおける異教の象徴主義と寓意的解釈』)

 ルネサンスにおける古代の象徴・寓意表現を追った基本的研究書。ギリシア・ラテンの象徴と新約・旧約聖書が、後の文学・美術表現に大きな影響を与えているのは当然だが、ここにはさらにエジプトの表象などが絡んでくる。ヨーロッパにおけるエジプトというのも、古代のヘルメス・トリスメギストス崇拝から始まって、ナポレオン時代における再発見に至るまで、その象徴的意味はかなり複雑な様相を呈しており、さらに最近のオリエンタリズムの議論などを考え併せると、その意味の広がりは相当なものがある。本書でもエジプトの象徴に一章が割かれている。


Ch. S. Singleton, Journey to Beatrice, John Hopkins U. Pr. 1977
(シングルトン『ベアトリーチェへの旅』)
Ch. S. Singleton, An Essay on the Vita Nuova, John Hopkins U. Pr. 1977
(シングルトン『<新生>論』)

 ともにシングルトンによるダンテ研究の古典。前者の『ベアトリーチェの旅』は、元来『ダンテ研究 I』として公刊されたもの。『ダンテ研究 I』も『神曲の構造の研究』として再刊されているが、これは未入手。「もしベアトリーチェが奇跡でなかったとしたら、ダンテの身に生じたことは、起こることがなかっただろう」という一文で始まる『新生』論のほうは、『新生』の中の数字9の象徴を追って行くもの。その議論は、ハリスン『ベアトリーチェの身体』(法政大学出版局)でも紹介されている。


『ライプニッツ著作集』(全10巻 工作舎)

 『人間知性新論』などはみすず書房の単行本でも読むことができるが、地質学・中国学・普遍学などは、日本語ではこの著作集でしか読むことができない。ただし、工作舎独特のエディトリアル・デザインが、国書刊行会本以上に灰汁の強いかたちで表に出ているので、入手を躊躇っていた。しかし、あの無用とも思える版面の工夫は、ライプニッツのバロック的知性をそれなりにトレースしようとしているのかもしれない。それを考えても、矢鱈に余白の多いこの著作集、一次文献の翻訳書としてはやはり首を傾げたくはなる。


佐々木能章『ライプニッツ術』(工作舎 2002年)

 上記の『ライプニッツ著作集』とは異なり、これは凝ったデザインがプラスに働いた好例。「モナドは世界を編集する」という副題と見事に重なり合って、本文自体の「編集」が書物の記述を重層化していて、ライプニッツの多元的・統一的世界観を如実に伝えている。従来、ライプニッツの「哲学」を論じる文章ではあまり注目されていなかった彼の実践面での活躍 ―― 図書館長とのしての活動や、ハルツ鉱山の開拓、保険の理論化など ―― が論じられている後半が、とりわけ興味深い。さまざまなものを「リンク」していく連想の繋がりでライプニッツを捉えるという着眼は魅力的。『モナド論』なども、論文というよりは、さまざまな主題を他の繋がりへと開いていく「リンク集」なのではないかという指摘も面白い(尤も、ここには「出来の良くない」リンク集だったという注記がつくのだが)


山本義隆『磁力と重力の発見』全三巻(みすず書房 2003年)

 磁力と引力といった現代物理学の基本的概念は、物と物とが接触なしに作用し合う「遠隔作用」であるため、古代・中世では「魔術的」なものとされて、正統的な理論家たちはこれを否定してきた。現代物理学が成立するには、こうした「魔術」を復権し、理論的に取り込む必要があったわけだが、本書はそうした経緯を、さまざまな一次資料を踏まえながら論じていく力作。著者はカッシーラー『アインシュタインの相対性理論』(河出書房新社)や『認識問題 4(みすず書房)などの訳者でもあるが、大学人ではなく、予備校の教師をしている人物。大学外から発信される本格的な研究書というのは実に頼もしい。


B. Burberl, M. Dückershoff (Hgg.), Palast des Wissens: Die Kunst- und Wunderkammer Zar Peters des Grossen, 2 Bde. Hirmer Verlag: München 2003
(ブルベル、デュカースホフ『知の宮殿 ―― ピョートル大帝のクンストカマー、ヴンダーカマー』)

 ドルトムント芸術・文化史博物館の展覧会カタログだが、欧米の展覧会カタログの例に漏れず、圧倒的な大冊。しかもこのカタログは大判ハードカバーで各冊300頁ほどの2分冊。一巻目がカタログでフルカラー、二巻目が論考集だが、これにも大量の白黒図版が投入されている。ライプニッツも謁見して、その科学振興のプログラムなどを提供したピョートルだけのことはあって、圧倒的なヴンダーカマー(クンストカーメラ:通称「人類学博物館」)を造っている。ライプニッツの関与に関しては、ライプニッツとヴンダーカマーという主題で著作をものしたブレーデカンプが寄稿している。
 寄稿者の一人ヘムケンが、「解き放たれた知 ―― 「デジタル時代」のクンストカマーとヴンダーカマーの理念」という論考で、インターネット上の百科全書の可能性をかなり楽天的に示唆している。しかしかつてのヴンダーカマーが「表象」システムという文化史的構造と切っても切れない関係にあったように、インターネットが新たな「百科全書」たらんとするなら、それを支える知の枠組みが反省されなければならないだろう。「大きな物語」が終焉し、知の断片化が進行する中で、果たして「全知」を夢見るヴンダーカマーの理念は行き続けることができるのだろうか。


J.-P. Lange, Theoretiker des literarischen Manierismus, Fink 1968.
(ランゲ『文学的マニエリスムの理論家たち』)

 フィンク社の「人文主義叢書」(Humanistische Bibliothek)の一冊で、編集者がかのエルネスト・グラッシ!ここで取り上げられるマニエリスムの理論家とは、具体的にはグラシアン、ペレグリーニ、テサウロ。これでようやくテサウロの『アリストテレスの望遠鏡』の内容をかなり具体的に知ることができそう。グラッシが産婆役を務めたホッケの『文学におけるマニエリスム』のほぼ十年後に、同じくグラッシによって世に送り出された本書、期待するなというほうが無理というものだろう。


J. Ortega y Gasset, Der Prinzipbegriff bei Leibniz und die Entwicklung der Deduktionstheorie, G. Müller Verlag 1966
(オルテガ『ライプニッツにおける原理の概念と演繹理論の発展』)
 
オルテガによるライプニッツ論。オルテガには、ライプニッツに絡めてパースペクティヴ論があるのだが、本書はそれとは別。イタリア語は最近少しだけ分るようになってきたが、スペイン語は文字通り目に一丁字もないので、やむなく独訳で。前記のパースペクティヴ論もそうだが、これなども白水社の『オルテガ著作集』に収録されていない。白水社のあの類の著作集は、原典を大量に提供した意味は大きいが、ジンメルにしても、このオルテガにしても、もう一度新しい企画での全集なり選集が必要な著者だろう。


佐山栄太郎『17世紀中葉の詩人 ―― マーヴェルとカウリー』(研究社 1956年)

 研究社新書は全体がかなり高くなってしまって、これなどもなかなか手頃な値段でなかったのだが、あっさりと200円で入手。著者の佐山栄太郎は、この時期、最も精力的に形而上詩を紹介していた人物。マーヴェルに関しては、これ以降では、川崎寿彦『マーヴェルの庭』(研究社)という名著がある。


イェイツ『ヴァロワ・タピスリーの謎』(平凡社)

 ワールブルク・コレクションの最初のほうの巻で、買いそびれていたものを古書で入手。最初のころ、次から次へと出て、すべてをフォローするのも難しかったワールブルク・コレクションも、いまや消滅同然である。それまで事情通の一部のマニアしか知らなかったものを一般読者に提供して、基本的な常識の底上げが一挙になされた感があったが、それも一時の徒花に終わりそうな気配が濃厚。こうなってくると、知的スノビズムというものが却って魅力になってしまいそうだ。


Giordano Bruno. Ausgewählt und vorgestellt von Elisabeth von Samsonow, dtv 1999.
(『ジョルダーノ・ブルーノ ―― 精選著作と案内』)

 『シニカル理性批判』のP・スローターダイクが編集しているPhilosophie Jetzt(今こそ哲学を!)シリーズの一巻。このシリーズは、おおむね各巻を哲学者一人に割り当て、伝記・文献案内などの序文を添えて、本文は哲学者本人の文章のアンソロジー。ペーパーバックとはいえ、全体として500頁くらいあるので、かなり充実した資料が収められている。このブルーノでも『英雄的狂気について』や『モナス・数・像』、『無限、宇宙、諸世界について』といった哲学的著作の主要部分から、『天馬のカバラ』や『奢れる野獣の追放』などの風刺的著作まで、かなり満遍なくトレースされている。「今こそ哲学を」というからには、口当たりのいい「〜入門」などではなく、これくらい本格的に取り組もうという心意気がなければ意味がないだろう。このシリーズには二巻で『中世哲学』が予定されているので期待できそう。
 今ふと思い出したが、このスローターダイクが以前編集したものには、
Weltrevolution der Seele: Ein Lese-und Arbeitsbuch der Gnosis(『魂の世界改革 ―― グノーシス読解ハンドブック』)という二巻本もあった。これは歴史的意味でのグノーシス主義から、シオラン、アドルノといった、現代における「グノーシス的なるもの」を扱った、1500頁を優に超える一大アンソロジー。「某」研究所の重複本ということで500円で引き取ったものだが、まだ内容を追いきれていない。ということで、これはそのうちにご紹介。


W. Muensterberger, Sammeln. Eine unbändige Leidenschaft, Suhrkamp 1999
(ミュンスターベルガー『蒐集 ―― 御しがたき情熱』)

 「好奇心」という点では、役にも立たないものをひたすら蒐める「蒐集」はその最たるものだろう。ブルーメンベルクの「理論的好奇心」の議論には、こういった観点のものも繋げてみたい。さらに欲を言えば、17世紀にあって、蒐集を限りなく学に接近させ、科学革命などとも接点を持つペイレスクなどにも一言あってほしいが、いまのところ、邦文でコレクションの文脈のなかでペイレスクに触れたものを知らない。


星野徹『ダンの流派と現代』(沖積舎 2000年)

 エリオットによる再評価以来、俄然現代詩の震央に踊り出た観のある十七世紀の形而上詩人についての論考集。この手のものはほかにもいくつかあるが、本書で面白いのは、日本の形而上詩という括りのあるところである。自ら形而上詩を名乗った和田徹三は当然のことだが、日本の形而上詩の系譜として、山村暮鳥、田中清光、武子和幸などが挙げられている。


Y・ボヌフォア『バロックの幻惑 ―― 1630年のローマ』阿部良雄監訳・島崎ひとみ訳(国書刊行会 1998年)

 1630年のローマという一点に絞って記述されたバロック美術。客観的な美術史というよりは、美術史を通じての思弁(詩的思索)といった性格を強くもっている。ルネサンスでの表象の合理性から、マニエリスムにおける動揺、その新たな克服としてのバロックという多重性が一面かなり思弁的に論じられている。パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』と『イデア』の着想を併用するとこういう方向が生まれるのかもしれない。いずれにしても、「バロック」という概念は、「近代」思想内部の多面性を考察するには格好のアイテムになるのかもしれない。それを考えると、ニーチェの『悲劇の誕生』なども「バロック」として語られることと意外と無縁ではないとも思えてくる。


A. Aurnhammer, et al. (Hgg.), Documenta Mnemonica I, 1: Gedächtnislehren und Gedächtniskünste in Antike und Frühmittelalter [5. Jahrhundert v. Chr. bids 9. Jahrhundert n. Chr.], 1440-1750, Max Niemeyer 2003
(アウルンハンマー他編『記憶術論集 I, 1:記憶理論と記憶術 I, 1 ―― 古代および初期中世』)

 以前紹介したFrühe Neuzeit(初期近代)のシリーズ(第79巻)。記憶術をめぐる理論と実践のテクストを、ギリシア語・ラテン語原典と独訳で対訳にしたもの。古代から中世初期までの有名なテクストのアンソロジー。プラトン、アリストテレスから始まり、クィンティリアヌス、アフロディシアスのアレクサンドロス(アリストテレスのテクスト編纂で有名な人)、アウグスティヌス、ベーダ、アルクイヌス、エリウゲナといったところ。序文をみると、すでにDocumenta Mnemonica II が公刊されているらしく、これが近代初期を扱っている模様。これは手に入れないと。


J. J. Berns, W. Neuber (Hgg.), Ars memorativa. Zur kulturgeschichtlichen Bedeutung der Gedächtniskunst 1440-1750, Max Niemeyer 1993

(ベルンス・ノイバー編『記憶術 ―― 1440-1750年の記憶術の文化史的意義』)
 イエイツ以降の記憶術に関する論文集。ニーマイアーからシリーズで出されている「初期近代」という叢書の一冊、本書はその第15巻。このシリーズの最新巻はHeterodoxie in der Frühen Neuzeit(初期近代における異端)。すでにこれで117巻目となっている。遅まきながら知ったので、全体の書目を確認したい。


『ボルヘスの「神曲」講義』(国書刊行会:ボルヘス・コレクション)

 本文は100頁弱なので、簡単に読めてしまう。同じボルヘス・コレクションの『イギリス文学講義』などに比べると、はるかにボルヘス色がよく出ている。本書終わりの「ベアトリーチェの最後の微笑」はなかなか感動的だし、「ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち」でのベーダ・ウェネラビリス『イギリス教会史』との対比なども面白い。『神曲』は、最終的には天国に至る旅である以上、その地獄行きも危険のないものとみなす見解に対して、作者としてのダンテと登場人物のダンテとを明確に区別し、『神曲』という「テクスト」を作り出す旅を敢行する作者ダンテの危険を強調しているのもボルヘスらしいところかもしれない。さらに、本書の造本上の特色は、ブレイクの挿絵8葉がカラーで入っていること。この色合いが実に良い。ブレイクのものはあまりに発色が良すぎると、元の水彩の風合いを消して、妙に漫画のようになってしまうが、本書での挿絵は、水彩の淡い色彩を再現して美しい。訳註も丁寧。


近藤恒一『ペトラルカ研究』(創文社 1984年)

 同じ著者の『ペトラルカと対話体文学』(創文社)もなかなか良かったので、旧著のこれを捜していたが、創文社のものは一旦切れると見つけにくい。これも散々捜した挙句にようやくネット古書店にて入手。ある古書店などは\15,000の値をつけていたところがあったが、これは\4,000にて無事落手。それにしても、この本は、日本では修辞学の伝統を正面から取り上げた数少ない著書ということになるだろう。


Dorothy Koenigsberger, Renaissance Man & Creative Thinking. A History of concepts of Harmony 1400-1700, The Harvester Press 1979.
(ケーニクスベルガー『ルネサンスの人間と創造的思想 ―― 1400-1700年の調和の概念の歴史』

 アルベルティ、ダ・ヴィンチ、クザーヌスといったルネサンスの思想家に関して、「調和」または「類比」といった思考を追跡した研究書。


Ronald Raveo, Renaissance Minds and Their Fictions, U. of California Pr. 1985.
(ラヴェオ『ルネサンス精神と虚構』)

 クザーヌス、サー・フィリップ・シドニー、シェイクスピアの三人を主題としており、それぞれに、「憶測の詩学」、「虚構の詩学」、「演劇的虚構」という標題が割り当てられている。序を見ると、なんとグリーンブラットへの謝辞などがある。こういう繋がりを発見するには、いわゆるAcknowledgementというのもなかなかばかにできない。


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