Historisches
Wörterbuch der Rhetorik, Bd. 5, Darmstadt [Wissenschaftliche
Buchgesellschaft] 2001.
(『修辞学概念史事典』第5巻)
ドイツで進行中の大規模な修辞学事典の第五巻。各冊が四折版で1500頁以上という大冊なので、お値段の方もかなりなもの(出版社直送で\20,000を超えるので、国内だと\30,000-35,000といったところか)。今回の第五巻でようやくL
- Musi の項目。本巻には、Leser(読者)、Lesen(読解)、Lexikographie(辞書編纂)、ミメーシス、マニエリスム、メタファーといった重要項目が目白押し。年間一冊くらいのペースでは出ているようだが、それでも完結にはあと4、5年はかかるだろう。
Historisches Wörterbuch der Rhetorik,Bd. 8, Darmstadt [Wissenschaftliche Buchgesellschaft] 2007.
(『修辞学概念史事典』第8巻)
『哲学概念史事典』の索引巻が出てしばらく、同種の企画の『修辞学概念史事典』にも動きがあった。今回は、
Rhet-Stの項目で、Rhetorikそのものから、最後はStilなどを含む。この事典は、『哲学概念史事典』以上に大項目主義なので、一つ一つの項目名は相当に一般的。「修辞学」という性質上、もう少し細かい項目が立つのかと思っていたのだが、この企画は、「修辞学」という切り口での文化史のような感覚らしい。具体的な修辞学用語や用法を期待すると裏切られる。それぞれの項目は、ブックレットになるくらいの大きさ。今回も、「諷刺」(Satire)など、それなりに面白い。「スコラ学」(Scholastik)という項目があって、意外な感がしたが、「スコラ学」における修辞学研究だけでなく、スコラ学で用いられた修辞、つまり「祈り」や「討論」(disputatio)、「註解」(glossa)、「説教」などが取り上げられていて納得した。「スコラ学の修辞学」というこの問題は、「大全」(Summa)なども含め、面白い問題だと思う。
K.-O.
Apel, Die Idee der Sprache in
der Tradition des Humanismus von Dante bis Vico,
Bourvier Verlag 1963.
(アーペル『言語の理念:人文主義の伝統
―― ダンテからヴィーコまで』)
ヨーロッパの言語思想を、ルネサンス人文主義を中心に総括した基本文献。ここで取り上げられるルネサンスは、ヴァールブルク学派が精力的に発掘した新プラトン主義のルネサンスとはまた別系統に属する。いわばアリストテレス=キケロという路線に連なる修辞学の伝統である。近代の俗語文学の始まりと言われるダンテの理論書『俗語論』の議論を出発点にしながら、ペトラルカ、ロレンツォ・ヴァッラなどを経て、18世紀ナポリの修辞学教師ヴィーコにまでいたる、ヨーロッパにおける大規模な「語り」の伝統である。そのためにアウエルバッハのミメーシスの議論やクルツィウスのトポス論などは当然この射程に入ってくる。哲学の内部では、ソクラテスとソフィストという対立以来、修辞学(雄弁術)には否定的評価が下されがちだが、古代・中世において修辞学は、政治学・美学・心理学を包括するようなビッグ・サイエンスであった。
本書は、哲学における修辞学の伝統の復権の試みであり、デカルトに対してヴィーコを重視することで、哲学の構図を変革しようという挑戦である。しかもそのような試みは、60年代初頭に一挙に噴出してきたある種の哲学運動でもあった。本書の3年前に公刊されているガダマー『真理と方法』 (第1巻、法政大学出版局)はまさしく、そうした運動の画期的な宣言であり、これが「哲学的解釈学」という潮流の出発点になったことは言うまでもない。そのために言及され議論されることの多いこの『真理と方法』に比べ、アーペルの本書は、理論的綱領というよりは、歴史的研究という色彩を強く持ち、議論の対象とされる著作もラテン語・イタリア語にわたるため、いまだに邦訳が出ていない。しかし、キケロ『雄弁家について』もようやく日本語で読めるようになり(『キケロー選集』岩波書店)、ペトラルカなども大分翻訳がでてきたこともあり、そろそろ受容の期は熟したのではないだろうか。「修辞学」という言葉を書名に入れると何となく格好がつく(『〜の修辞学』)という感覚は、逆に「修辞学」そのものに対する理解の浅さを物語っているのではないだろうか。
→ 詳細目次
レイナム『雄弁の動機
―― ルネサンス文学とレトリック』 (ありな書房)
日本ではなかなか本格的な紹介が難しい「修辞学」を軸として、ルネサンス文学と、その先蹤と言えるオウィディウスを俎上に乗せる。哲学の伝統の中で修辞学が不当に扱われてきたのは、ソクラテスとソフィストたちとの対立を原型とするが、著者はこれを人間と人生観の二類型として整理する。著者の言う「ホモ・レトリクス」(レトリック的人間)と「ホモ・セリオスス」(シリアスな人間)である。言うまでもなく、哲学や正統文学が後者の系統である。それは何事も正面から律儀にできる限り論理的に捉える姿勢だといえるだろう。芸術では「ミメーシス」(模倣)の原理がこれに当たる。しかし、現実を生真面目に正確に「模倣」しようとする、そうしたシリアスな前提に立つ正統的文学史からはみ出てしまう著作というのも、文学の世界には珍しくない。それは、シリアスな人間とは異なって、現実を斜交いから見て、現実を茶化し、多重化し、脱臼させるような詐欺師の眼差しである。本書が救い出そうとするのは、まさにそういった異彩を放つもう一つの系列の人々の著作からなる文学史である。しかも本書ではそれを、単に正統的文学に尽きないものというだけの評価に留めず、基本的な評価の枠組そのものを転倒させようとする。「フィールディングによってスターンを、フロワサールによってラブレーを、ウェルギリウスによってオウィディウスを評価するのをやめること」(p.33)が求められるわけだ。
典型的な対比は、ウェルギリウス『アエネイス』とオウィディウス『変身物語』(メタモルフォーゼ)である。ウェルギリウスは、シリアスな人間の常として、論理的に物語の背景と構築しようとするために、ローマの氏族の「系譜」を規範としていたが、オウィディウスの神々はそのような確固たる規範を呈示することのない変転常なき、あてにならない遊戯する神々である。結局のところ、レトリック的人間にとって同一性なるものは存在しない。「絶え間なく変わりゆく語り、主題、パロディ、反論の詩の中で、一貫して変わらないものがあるだろうか。それは文体だけだ」(p.84)。レトリックを支える同一性は、自我や実体の同一性ではなく、ただ言語の同一性、その意味では表層の同一性のみなのである。シェイクスピアのあるソネットを分析して言われている言葉を使えば、「本質的なもの〔......〕を定義する詩でありながら、言葉に依存し、繰り返しによって言葉の意味を変え、その結果、本質的なものがまず言葉に宿る」のである。本質は、内奥に潜む神秘などではなく、言葉という表面に仮初めに映る影なのである。こうなってくると、レトリック的人間などというものも、実のところは存在しないということにもなりかねない。カスティリオーネの『宮廷人』に託してこう言われる。「人間は確固たる中心的な自我をもって世に生まれるのではない。自我を形成するようにつとめるのだ。中心的な自我は技倆であり、それ自身が本能的な優れた劇である」(p.202)。
上演される劇としての自我。しかもこの劇には、常打ちの小屋もなければ、常連の客もいない。元来が自己を演出する技法であった修辞学という古い学科がもっている可能性を踏破し尽くすと、そこに現れるのは、意外にも現代的な光景であることを、この著作は身をもって示してくれる。
佐藤信夫企画・佐々木健一監修『レトリック事典』(大修館書店 2006年)
日本語による本格的なレトリック事典。馴染みにくい修辞学用語を項目に立てていながら、その具体例はほとんど日本の文学作品から録っているという労作。なかなか日本語の術語として確立していない修辞学用語が、過去の日本語の事典・辞書類でどう訳されてきたかといったサンプルを用語毎に整理しているのも立派。例えば「列挙」という意味のenumelatio.「算列・詳悉・枚挙・列記・羅列・括叙」など、こんな訳語の「列挙」を見ているだけで、各訳者・編集者の苦労が偲ばれる。各項目も、単なる機械的な解説ではなく、読める事典として成立しているのも頼もしい。もちろん欧文からの総索引もあるので、修辞学関係の問題を考えるには、当座の指針となりそう。佐藤信夫氏が構想しながら、自身では果たせず亡くなってしまったので、その遺志を継いで佐々木氏らが完成させたという経緯も、なかなか清々しい。6500円という定価も納得できる線。
W. S.
Howell, Logic and Rhetoric in England,
1500-1700, Russel & Russel. Inc. 1956.
(ハウウェル『英国における論理学と修辞学 1500-1700』)
16・17世紀におけるイギリスの修辞学の展開。具体的にはイギリスでのラムスの影響史。従来の修辞学、ないし伝統的な三学を論理学的に一本化するのがラムスの「一なる方法」であったが、その経緯をイギリスを中心に追った研究書。いささか古いものだが、その分野では古典的な著作。
H. Eto, Philologie
vs. Sprachvissenschaft. Historiographie einer Begriffsbestimmung
im Rahmen der Wissenschaftsgeschichte des 19. Jahrhundert, Nodus
Publikationen 2003.
(江藤裕之『<文献学>対<言語学>
――
十九世紀学問史における概念形成の歴史的叙述』)
古代の文献学(アレクサンドレイア学派やストア学派)からの伝統を概観しながら、十九世紀のベックやヴォルフの文献学を考察した論考。このような主題を扱ったものとして、日本語で読めるまとまったものは、中島文雄『英語学とは何か』(講談社学術文庫)といったものがあったが、日本人がドイツ語でこのような研究書をドイツの出版社から出すというのは頼もしい。しかもこのNodus
Publikationenという出版社は、言語思想の研究の泰斗Helmut
Gipperなどが自分の著作集を出しているようなところなのだから、ますます悦ばしい。
M. Beetz,
G. Cacciatore (Hg.), Hermeneutik im
Zeitalter der Aufklärung,
Bohlau Verlag 2000.
(ビーツ、カッチャトーレ編『啓蒙主義時代の解釈学』)
同じくCollegium Hermeneuticumの第三巻。解釈学というと、どうしてもシュライエルマッハー以降のロマン派の解釈学が中心となってしまうが、これはそれ以前の十八世紀解釈学を主題としたもの。十八世紀解釈学という主題に関しては、A. Bühler, Unzeitgemässe Hermeneutik(『反時代的解釈学』 ――
これもニーチェの『反時代的考察』のもじり)があるくらいで、その後の進展がなかったので、これはそうした欠を埋めてくれる悦ばしい一書。
A. Borst,
Der Turmbau von Babel. Geschichte der
Meinungen uber Ursprung und Vielfalt der Sprachen und
V&omullker, 6 Bde., Deutscher
Taschenbuch Verlag 1995.
(ボルスト『バベルの塔
――
言語と民族の起源と多様性をめぐるさまざまな見解の歴史』)
全六巻で総頁数が2320頁。古代から現代に至るまでの、言語起源論、言語相対主義の歴史を網羅した百科全書的著作。索引も強力で、150頁を越す。天を摩する巨大な塔を建造しようとした人間の奢りに対して、神は建造に関わる人間たちの言語をバラバラにして、互いの意思疎通を不可能にする形で罰を与えた。それ以来、人類は多様な言語に分割され、コミュニケーションの疎外に苦しむことになった。こうしたバベルの塔の神話が、ヨーロッパの言語思想にどれほど深く入り込み、一種のトラウマとなっているかが痛感させられる。その裏側には、バベルの塔の災害を人工的な言語によって乗り越えようとする「普遍言語構想」がある。
R. A.
Lantham, A Handlist of Rhetorical Terms. A
Guide for Students of English Literature,
U. of California Pr. 1968
(レイナム『修辞学用語便覧
―― 英文学徒のための手引き』)
「キアスムス」、「カタクレシス」、「エクフラシス」……と、修辞学用語は舌を噛みそうな難語に溢れているが、それを部分的には実例とともに定義したハンドブック。150頁程度の簡単なものだが、修辞学関係は、あまりに詳しくなってしまうと手におえなくなるので、この程度のもののほうが実用的。ドイツで進行中の『歴史的修辞学事典』(Historisches
Wörterbuch der
Rhetorik)は、ドイツ語原題からも分かるように、『歴史的哲学概念事典』(Historisches
Wörterbuch der
Philosophie)の姉妹編だが、この『歴史的修辞学事典』は、大項目主義なので、具体的な修辞学用語を引こうとしてもほとんど役に立たない。索引や付録の巻でその点を補って欲しいと思うが、これは完結自体がまだまだ当分先だろう(毎巻1500頁のもので第5巻まで既刊。しかしこの第5巻でやっと"Musik"の項目まできたばかり。気が遠くなりそう。『歴史哲哲学概念事典』のほうは、既刊11巻で、"Vulkanismus"の項目まで公刊されて、先が見えてきた)。因みに『修学用語便覧』の編集者レイナムは、『雄弁の動機』(ありな書房)の著者。
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