逸脱の修辞学


推薦図書

解釈の迷宮へ


ベルマン『他者という試練 ―― ロマン主義ドイツの文化と翻訳』藤田省一訳(みすず書房 2008年)

 ハイデガーのヘルダーリン論から取られた「他者という試練」の語を標題とする「翻訳学」の提唱。ドイツでもすでに論集『翻訳と脱構築』(A. Hirsch [Hg.], Übersetzung und Dekonstruktion, Suhrkamp 1987)が出ていたように、ここ十年来「ベンヤミン産業」の一環として翻訳論が盛んになってきたが、本書の著者ベルマンは、それらの動向と平行して、メショニックを継承するフランス系の議論を踏まえている。とはいえ、かならずしも「現代思想色」を全面に推し出すというよりは、翻訳をめぐるドイツ文化史の状況を丹念に追っている。思えばドイツ文化は、ルターの聖書翻訳から始まり、ゲーテの「世界文学」の理念、シュレーゲルのシェイクスピア翻訳、ヘルダーリンのギリシア翻訳など、翻訳とは切っても切れない関係にある。これまで「翻訳」という観点から本格的なドイツ文学史が書かれていないことが不思議なくらいである。ベルマンは、「他者を介しての自己認識」というドイツ的「教養」(Bildung)の系譜と、ドイツ人文主義やロマン派による言語理論とを突き合わせ、文学的かつ哲学的な翻訳論を展開していく。同時代の翻訳を他者との対話的関係として重視するゲーテや、翻訳を言語に対する反省的契機と理解するロマン派など、引用も豊富に丁寧な論が展開される。

 ただしその方向はやはり大きくベンヤミンから規定されていて、ヘルダーリンの逐語的ソフォクレス翻訳を翻訳論の頂点にもってくるその論旨も、おおむね最初から想像できるものではある。ヘルダーリンの翻訳は、ロマン派が主張するモノローグ的な反省の累乗化ではなく、作品の生成そのものを経験させる点で、翻訳の運動を具現するものと理解されるのである。「ただ翻訳の運動だけが、原典において繰り広げられていた闘争を出現させうる……。その闘争がひとまず収斂した均衡、それこそが翻訳なのである」(350頁)。「翻訳はこうして節度と適度、融合と文化とが衝突しあうひとつの場所として立ち現れる ―― 危険が待ち受ける場所として、だが同時に豊饒の期待される場所として」(352頁)。まさにニーチェの『悲劇の誕生』の図式である。後出のヤンポリスキー『隠喩・神話・事実性』の文献学の議論などをここに取り込むと、さらに生産的な展開が予想できそう。また、翻訳とドイツ語という点では、例えばエックハルトなどを主題に、ラテン語とドイツ語の交差を考察するという方向も考えられそうだ。

 いずれにしても、本書で考えられているのは、あくまでも「翻訳可能性」であるという点は押さえておかなければならないだろう。現代思想の中には、やたらと「ディスコミュニケーション」や「翻訳不可能性」を強調する趨勢があるが、そうした姿勢はともすると思考の放棄に繋がりかねない。事実的な翻訳不可能性に対して、超越論的な翻訳可能性とでも言うべきものが考えられなければならないだろう。「翻訳」という活動には、差異と同一性を対立させるのでなく、むしろ両者のあいだの運動を、弁証法とは異なった仕方で考えさせるモデルが見出せるのではないだろうか。

 本書はそうした「翻訳学」のマニフェストとして、具体的な引用も多く、いろいろなことを考えさせられる好著。加えて、何よりもこの著書の翻訳そのものが、「翻訳学」を論じる本書に相応しく、実に優れたものになっている。それぞれの章毎に、原註の他にかなりの量の訳註が付されている。しかもこの訳註が、単に辞書を引き写したような人名解説などではなく、著者と張り合いながら、それを内容的にも補足・展開していくような見事な註解になっている。もちろん、こういう性質の訳註になると、ある程度訳者の好みのようなものが反映するのはやむを得ないことだが、それにしてもこれほど質の高い訳註を見るのは久し振りである。原註の中にもさりげなく訳註が差し挟まれており、引用の出典の多くのものには、引用個所の前後の文脈をさりげなく説明していたりと、心憎い処置を行っている。訳者の実力の並大抵でないことが伺える。訳註という仕事の一つの模範を見せられたような気がする。


ヤンポリスキー『隠喩・神話・事実性』平松潤奈・乗松享平・畠山宗明訳(水声社 2007年)

 ロシアのポスト記号論を代表するヤンポリスキーの日本講演集。ロシア・フォルマリズムの伝統を踏まえながら、現代フランス思想を取り入れて、創造的な思考を展開している。前出の現代イタリア思想もそうだが、現代思想は、ドイツ・フランスからやや距離のあるところで豊かな展開を始めているにも見える。これまでの思想の主流からするとむしろ辺境にも見えるような地域が、ハイデガーやヘーゲルを独自に取り込んで思弁性を深めていったフランス思想に加え、新歴史主義やニュー・アート・ヒストリーなどの成果を取り込んで、かなり自由な思考を展開しているような印象がある。本書のヤンポリスキーの講演も、そうした思考の一例のようだ。「ストア派のいう非物体的な存在者は、実存しない対象に関するアレクシウス・マイノングの理論において復活し、ドゥルーズの『意味の論理学』のなかでよみがえる。観念的な本質が地平から消えゆくにつれ、世界は事実と出来事の世界へと変容しはじめたが、その出来事の事実性は意味と不可分だ」(17頁)。明らかに『意味の論理学』の圏内にある魅力的な見通しである。

 第一講演の「隠喩・神話・事実性」では、神話理解という点に絡めて、カッシーラーとハイデガーの論争が言及され、記号と現実性との一致を象徴として捉えるカッシーラーと、あくまでも意味から独立した存在に固執するハイデガーとが対比されている。第二講演「文献学化」は、「文献学」が元々は意味の統一に逆らい、無理解(非理解)を肯定するという前提から出発する。「この学問が志向するのは、ロゴスの物質性やロゴスの顕現のみであって、ロゴスの意味ではない」(73頁)。本来は哲学と背馳する文献学は、その後アスト、シュライエルマッハー以降、文献学と神学が結託することで近代の解釈学へと姿を変え、これがディルタイなどを通して、現代ドイツ哲学に流入する。こうした流れに対しては、シュレーゲル、ニーチェに見られる非理解の解釈学が、本来の文献学を継承するものとして対置され、言語の物質性、媒体性を強調することで、ラディカルな文献学の復興が予感される。それは考えてみると、ヘルダーリンの意図した「翻訳」、ベンヤミンの翻訳論などとも接する論点のように思える。

 本書では、巻末に訳者をも交えた鼎談が収録され、これもなかなか面白い。紹介されることの少ないロシア現代思想の詳細な事情を自由かつ詳細に語っていて感心する。尤も、下記の『イタリア現代思想への招待』にも通じて、事情通同士の世間話のような閉じた性格も拭い切れないが、鼎談という形式のために、それもあまり気にならない。確かにこうしたものでも収録しないと、一冊としての体をなさないという事情もあるだろうが、いろいろと手のかかった楽しい論集になっている。


Ch. S. Singleton (ed.), Interpretation: Theory and Practice, Johns Hopkins Pr. 1969.
(シングルトン『解釈 ―― その理論と実践』)

 ルネサンスおよびダンテ研究の泰斗シングルトン編集の論文集。ウルマン『中世における個人と社会』(Individuum and Society in Middle Ages, 1966)や『ルネサンスにおける芸術・科学・歴史』(Art, Science, and History in Renaissance, 1967)を産んだThe Johns Hopkins Humanities Seminarsの一冊。後者も最近手に入れたが、4toの大冊で恐ろしく立派なもの。本書『解釈 ―― 理論と実践』は、実は、ポール・ド・マン「時間性の修辞学 ―― アレゴリー・シンボル・アイロニー」(Paul de Man, The Rhetoric of Temporality, Allegory and Symbol, Irony)が初出で掲載されているもの(後にポール・ド・マン自身の論文集『盲目と明察』[Blindness and Insight, U. of Minnesota Pr. 1971]に収録)。60年代以降、ホーニヒ『漆黒の綺想』(E. Honig, Dark Conceit)やトゥーヴ『アレゴリー的想像力』(R. Tuve, Allegorical Imagery)辺りを皮きりに、英米圏でのアレゴリー復興も目覚しいものがある。ポール・ド・マンのこの論文は、そうした運動の里程標とも言えるもの。


E. Cook, C. Ho?ek, etc.(eds.), Centre and Labyrinth. Essays in Honour of Northrop Frye, U.of Toronto Pr. 1983.
(『中心と迷宮 ―― ノースロップ・フライ献呈論文集』)

 四季の移り変わりという神話論的な分類と、文学上のジャンル論とを結合させた文芸理論家フライへの献呈論文集。執筆陣も、哲学者リクール、文芸理論家G・ハートマン、ハロルド・ブルーム、A・フレッチャーと、なかなか豪勢。この中の論文の一つに「サン=ヴィクトルのフーゴーの全体論的ヴィジョン」というものがあって、中世の教会暦・典礼暦とフライの四季の循環の理論を比較している。一見意外に思えるが、考えてみれば、中世の聖書解釈学というのは、今日文芸理論としてあれこれ論じられていることの大抵のことをすでに実践してしまっているのだから、この比較もあながち無茶というわけでもない。意味の多層性だとか、作者の死などの問題も、中世の解釈学の中ではすでに織り込み済みの話しだ。もちろん、そこは聖書解釈のことだから、多層的な意味といっても、それらのあいだには安定した秩序があるわけで、意味のアナーキーを孕んだようなものではない。しかし、中世末期から近世初頭は、そうした意味秩序が揺らぎ始めた時代でもあるのだから、そうなってくると中世末期は、文芸理論的にはすでにポスト・モダンを経験してしまったとは言えないだろうか。中世解釈学を介して考えるなら、アルカイックな神話理解どころか、相当に精緻な議論を巻き込んだかたちで、文芸理論を再考することができるかもしれない(ここでも鍵となるのはオリゲネス!)。


H. V. White (ed.), The Uses of History. Essays in Intellectual and Social History. Presented to William J. Bossenbrook, Wayne State. U.Pr. 1968.
(ホワイト編『歴史の活用 ―― 思想史および社会史論集』)

 『メタヒストリー』のヘイデン・ホワイトが編集しているので入手。歴史の分析論のアーサー・ダントーなども論文を寄せている(「本体論的証明」について)。標題の「歴史の活用」というのは、観念を現実に変換するにあたって、歴史は宗教や形而上学と同じような形でその媒介物になるという、やや抽象的な「理屈」を指しているものらしい。そう言われてみると、この5年後に出るホワイト自身の『メタヒストリー』では、「物語」というものが、そうした媒介物として捉えられているのではないかということが朧げに予感できる。


ジャン=リュック・ナンシー『声の分割』加藤恵介訳(松籟社 1999年)

 解釈学(Hermeneutik)を「ヘルメーネウエイン」(伝達・告知)という語源に遡って問い直すという冒頭の問題設定によってすでに結末は見えているようなものだが、解釈学における複数性が主題になっている点は興味深い。解釈学は「意味」の一性を目指すために、どうしてもモノフォニー的になりがちだが、ナンシーが試みるのは、いわば多声学としての解釈学。「ヘルメーネイアとは神的なものの声である。そしてこの声は何よりもまず、分割された声、諸々の特異な声の差異である。言い換えれば、神的なものの一つの声があるわけではなく、おそらくは神的なものの声一般があるのでもない」(P. 61)。最も究極的で反省の度の高い次元に複数性を導入するという意味では、『ヘーゲル 否定的なものの不安』などとも通底する議論である。ロマン主義の遺産のうえに胡坐をかいたような呑気な解釈学を粉砕し、初期ロマン派のアナーキズムによって活性化することによってのみ、解釈学は露命を繋ぐことができるのかもしれない。ただし、「解釈学」というシステムは、現代に活かそうと思うとかなり「重たい」装置であるというのも事実だろうが。


C・ギンズブルグ『歴史を逆なでに読む』上村忠男訳(みすず書房 2003年)

 日本版の論文集として、既出の論考をまとめたもの。「証拠と可能性」、「展示と引用」、「証拠をチェックする」、「一人だけの証人」、「人類学者としての異端裁判官」、「モンテーニュ、人食い人種、洞窟」、「エクゾティズムを超えて」、さらに「結び」として「自伝的回顧」を収める。「一人だけの証人」は、すでに『アウシュビッツと表象の限界』(未来社)に収録されているもの。本書でも全体を貫いているのが、歴史の物語論を提唱するH・ホワイトの批判的検討である。「歴史をテクストとして研究せよという流行の命令は、どのようなテクストもテクスト外的な現実えhの参照なくしては理解されえないという自覚によって、補完されるのでなくてはならない」(p. 85)という文章に見られるように、ギンズブルグはナラトロジーに対して一定の理解を示しながら、歴史相対主義に陥りかねないそうした議論を最終的には斥けようとしている。「展示と引用」では、歴史的言述の「真実効果」(主張を真理と思わせるためのテクニック)として、修辞学的な「エナルゲイア」(生き生きとした語り)が、証拠にもとづく「引用」へと移り変わる過程が叙述されている。歴史がレトリックとして語られるようになったのは、何も現代がが初めてというわけではなく、近世の初頭にも同様の動きがあったということが、この議論を通じて見えてくる。まさに、歴史的言述の表象化の動きである。ホワイトとジェンティーレやクローチェとの関係なども興味深い。「エグゾティズムを超えて」は「ピカソとヴァールブルク」が副題だが、ヴァールブルクへの言及はわずか。


Ph. Lacoue-Labarthe, J.-L. Nancy, The Literary Absolute. The Theory of Literature in German Romanticism, State U. of New York Pr. 1988
Ph. ラクー=ラバルト・J.=L. ナンシー『文学における絶対者 ―― ドイツ・ロマン派の文学理論』)

 仏語原書L'absolu litteraire, 1978の英訳。ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシーのコンビによるドイツ・ロマン派論。「序:体系としての主観、第一章:断片 ―― 断片の必要性、第二章:芸術の限界内における宗教、第三章:名前なき芸術、第四章:批評 ―― 性格の造形」といった章立て。書物の標題、および「芸術の限界内における宗教」などという言い方からも分かるように、芸術を絶対者の現出の媒体として理解する初期ロマン派の議論を展開したもの。断片性と無限の発展という解放性をもちながら、そこに絶対性の顕現を看て取るという点で、ロマン派の理論はきわめて現代的である。かつてドイツの哲学的解釈学との関係でロマン派の再評価がなされた時期があったが(E.Behler, J. Hörisch, Die Aktualität der Frühromantik, F. Schöningh 1987)、現在はベンヤミンとフランス哲学経由の再評価が主流になってきたようだ。ロマン派自身がカントの中で最も重視するのは、当然のことながら『判断力批判』である。ここには、カントの崇高論などとの理論的な関係も生じてくるだろう。ラクー=ラバルトとナンシーは、ドゥギー他著『崇高とは何か』梅木達郎(法政大学出版局 1999年)にも卓れた論考を寄せていた。


岩波講座『文学 9 ―― フィクションか歴史か』(岩波書店 2002年)

 岩波の新しい「講座 文学」の第一回配本。ニューヒストリシズム以降、文学と歴史の境界は俄かには定めがたくなっているので、「文学と歴史」とも言える巻がこの講座の最初の巻として公刊されたのは象徴的とも言えるだろう。それにしても、こうした議論のいわば大元とも言えるホワイトの『メタヒストリー』の翻訳がいまだに実現していないのが惜しまれる。そういう意味では、ポール・ド・マンの一連の著作なども邦訳がないのが不思議。
 因みに、岩波のこの「講座」という形態は昔からいま一つ性格が良く分からない。アカデミックな「講義」の延長なのだとするなら、文献表や索引をまったくつけないのは、どうにも不親切に思えるのだが。まして、本書のように、文学と歴史の両方に跨る主題だと、邦訳の有無一つにしても、記載があると助かる読者も多いだろう。


G. Moldaenke, Schriftverständnis und Schriftdeutung im Zeitalter der Reformation: Teil 1: Matthias Flacius Illyricus, Verlag W. Kohlhammer 1936
R. Keller,
Der Schl
üssel zur Schrift. Die Lehre vom Wort Gottes bei Matthias Flacius Illyricus, Lutherisches Verlagshaus 1984
(モルデンケ『宗教改革時代の聖書理解と聖書解釈 ―― 第一部:フラキウス』
ケラー『聖書の鍵 ―― フラキウスにおける神の言葉の理論』)

 宗教改革時代のプロテスタント神学は、「ただ聖書のみ」(sola scriptura)といういわゆる「聖書原則」ゆえに、近代の解釈学の礎を築くことになった。そのために、解釈学の歴史を祖述するときには、かならず名前くらいは挙がる人物だが、これはそのフラキウスに関するモノグラフ。前者のモルデンケのものなどは、630頁に及ぶ大冊。出版社コールハンマーは、エックハルトの全集なども出している神学関係の老舗。後者の『聖書の鍵』という標題は、フラキウス自身の著作『聖書の鍵』(Clavis scripturae sacrae)から取られたもの。この2冊の大部の研究書を見るに、文献表からも、その神学的背景の厚みが伺える。これを思うと、ガダマーが「解釈学」という語を神学から独立させて、哲学の領分に脱・文脈化するのがいかに力技だったかが逆に見えてくるような気がする。


イリイチ『テクストのぶどう畑で』(法政大学出版局)

 12世紀のサン=ヴィクトル学派を代表するサン=ヴィクトルのフーゴーの『ディダスカリコン(学習論)』を中心に、物質性と秩序感覚をたっぷりと沁み込ませた「書物」の世界を追う。「書物としての世界」という比喩があるように、かつて書物は宇宙の秩序をそのまま反映するばかりか、それ自身の内に写本独自の技法によって壮麗な宇宙を抱え込むものであった。それは記憶術における「記憶の館」や、写本装飾のさまざまな意匠に彩られた完結した世界を表現していた。本書はそうした書物と修道院文化との密接な関係を追いながら、書物文化のかつての有り様を活写している。印刷術の発明以前にあって、書物といったものがいまだに貴重品であると同時に、文化を具現する象徴的意味合いを帯びていた時代の面影が愛惜される。印刷術からコンピュータ環境に向かい、書物は物質性を失い、それ自体として変幻自在な「テクスト」となっていくわけだが、そうした状況から多少距離を取って、テクスト理解そのものを冷静に捉え返す機縁になるだろう。修道院文化と書物という点では、堀切直人『ヨーロッパ精神史序説』(風媒社)、『読書の死と再生』(青弓社)などを挙げることもできるだろう。

 因みに、サン=ヴィクトルのフーゴーの著作そのものは、『ディダスカリコン』の全訳も含めて、『中世思想原典集成』第9巻「サン=ヴィクトル学派」(平凡社)で読むことができる。


H. Schmidt, Kunst des Hörens. Orte und Grenzen philosophischer Spracherfahrung (Collegium Hermeneuticum 2), Bohlau Verlag 1999.
(シュミット『聴取の技法 ―― 哲学的言語経験の場所と限界』)

 Collegium Hermeneuticum(解釈学叢書)シリーズのの第二巻。ラインナップがなかなか魅力的なので、結局全巻付き合うことにした。著者のホルガー・シュミットはニーチェ論に邦訳があり『ニーチェ ―― 悲劇的認識』国文社、これはなかなか良いものだった記憶がある。本書はウィトゲンシュタインとハイデガーを叩き台として、言語論を手初めに、ハイデガーの芸術論やフンボルト批判などを経ながら、18世紀的人間論・歴史論へと舵を取る、なかなか良いセンスの設定になっている。


Th. Leinkauf (Hg.), Dilthey und Cassirer. Die Deutung der Neuzeit als Muster von Geistes- und Kulturgeschichte, Cassirer-Forschungen Bd. 10 (Meiner 2003).
(『ディルタイとカッシーラー ―― 精神史・文化史のサンプルとしての近代解釈』)

 雑誌「カッシーラー研究」の2003年度号。主題が主題だけに、書き手は解釈学関係の比較的著名な人々。ステファン・オットーや、ディルタイ研究者マックリーリ、ホルツァイなどなど。


D. Kaegi/E. Rudolph (Hg.), Cassirer - Heidegger. 70 Jahre Davoser Disputation, Cassirer-Forschung Bd. 9, Felix Meiner Verlag 2002.
(カッシーラーとハイデガー ―― ダヴォス討論七〇年』)

 カッシーラー研究という雑誌がすでに9巻も出ているのを発見して、最新刊を手に入れたら、まさにダヴォス討論の特集だった。序文では上記のブルーメンベルクの文章にも触れられている。この論文集に収められたSchwemmerの論文、Ereignis und Form(生起と形式)というのも、ブルーメンベルクに似たような論旨のようだ。もうひとつ、最近クリヴァンスキーの回想録が出て、これにもダヴォス討論のことが書かれているというふうにもあった(Klibansky, Erinnerung an ein Jahrhundert, Frankfurt a. M. 2002)ので、これは手に入れたい。


『ダヴォス討論(カッシーラー対ハイデガー)(<リキエスタ>の会)

 かつてみすず書房のPR誌『みすず』に掲載されたものをオンディマンド出版のかたちで公刊したもの。内容は、スイスのダヴォスで開かれた国際会議でのハイデガーとカッシーラーの討論と、カッシーラー夫人の回想録からの抄訳。ハイデガーの『カントと形而上学の問題』に結実する新カント派批判に対して、カッシーラーが論戦を挑んだこの討論は、すでにその直後に、由良君美の父親・由良哲次が『思想』(1929)で紹介していた。本書は、カッシーラー夫人の回想の部分がなかなか面白い。彼女は後にハイデガーがフライブルク大学の学長に就任した当時について、「私には彼の激しい誠実さとまったくのユーモアの欠如が最も憂慮すべきものであった」と振りかえっている。「激しい誠実さ」と「まったくのユーモアの欠如」 ―― 確かにこの二つの結びつきは最悪である。
 この会議については、E.ベンツ「ヤーコプ・ベーメにおける言語の創造的意味」
(エラノス叢書『言葉と語り?』平凡社)にも回想があるが、ここでは若きカルナップがハイデガーの講演を茶化した模様が語られていた。


W. Iser, The Fictive and the Imaginary: Charting Literary Anthropology, The John Hopkins U. Pr. 1993.
(イーザー『虚構と想像 ―― 文学的人間学の諸相』)

 イーザーのものは英語圏でも反応がいいらしく、1991年にドイツ語原著が出て、二年後には英訳されていることになる。ファイヒンガーやネルソン・グッドマンらを用いながら、文学作品の「虚構」としてのありようを浮き彫りにする。イーザーはコロキウム「詩学と解釈学」の常連でもあり、このコロキウムでもフィクションをめぐる大会があった。本書のドイツ語原典はすでにもっているが、この英訳は100円だったので思わず入手。


西村晧・牧野英二・舟山俊明〔編〕『ディルタイと現代 ―― 歴史的理性批判の射程』(法政大学出版局 2001年)

 法政大学出版局で出版が企画されているディルタイ著作集に先駆けて、その露払いとして出されたガイドブック。30人以上の著者が文章を寄せているのだが、論文集という体裁を取らずに、一貫した章立ての下に全体が構成されている。かなり企画がしっかりしていないと成立しにくいやり方であるが、そこそこ上手く整った仕上げになっている模様。もちろん、これだけ多くの著者がいると流石に完全に破綻がないというわけにもいかない。構成的にとりわけ問題なのが、「ファクシミリと体験/理解」という論考の位置づけで、これだけは全体の構成からすると浮いてしまっている。美術史家ヴェルフリンが自分自身の著作に写真図版を入れなかったということをめぐっての議論で、ディルタイとの関係も弱いのだが、この文章自体は内容的に実に面白い。もしかしたら、読み物としてはこの本のなかで一番かもしれない。

 それはともかく、本書はディルタイの全体像を見渡すためにはかなり手頃な一冊となっている。安直な論文集が続々と出てしまうなか、堅実な企画で全体を組みたてているのは立派。伝記・書誌的な基本的データから文献リストと、インフラ面での配慮もなかなかのもの。ディルタイの基本図書としていつまでも凡庸なボルノウのものが居座っているのは釈然としないので、丁度良い案内書だろう。請合っても良いが、解釈学がボルノーなどを頼りにしているようでは、せいぜいのところ、どっちつかずの「寛容」を美徳とする程度の長所しか持ちえないだろう。


H. White, The Content of the Form: Narrative Discourse and Historical Representaiton,The Jons Hopkins U. Pr. 1989 (1st ed. 1987)
(ホワイト『形式の内容 ―― 物語的言説と歴史的表象』

 歴史の物語論の主導者的存在の論文集。「形式の内容」とは奇妙な標題だが、物語という「形式」が実は歴史の「内容」を成しているという主張を端的に表現したもの。歴史の物語論とは、構造的歴史理解などに対抗して、再び歴史を「語る」ことの意義を復権しようというもの。かつてホイジンガなども「歴史の形態変化」(『ホイジンガ選集4』〔河出書房新社〕)という講演などで、人間不在の歴史記述に対して、再び「形象」を導入することの必要を説いていたが、そうした傾向を非常に洗練したかたちで展開しようとしているのがこのタイプの理論。これはまた、語りの技法である修辞学の復権の一つでもある。ひところホイジンガの議論は、構造的歴史学のコンツェなどにも利用され、ホイジンガの言う「形象」というのは、「構造」のことなのだといったふうな議論が見られたようだが、流石にそれは無理がある。もちろん、だからと言って、ホワイト流の歴史の物語論にホイジンガがもろ手を上げて賛成するとも思えないが。


藤原藤男『聖書の和訳と文体論』(キリスト教新聞社 1974年)
 
1837年のギュツラフの『約翰福音之伝』から始まって、聖書の和訳の歴史を1970年まで辿ったもの。有名な、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まるギュツラフの「ヨハネ福音書」や、万葉の長歌形体のチェンバレン訳「詩篇」など、例文もなかなか面白い。このチェンバレンの訳は、新共同訳では「主は御名にふさわしく/私を正しい道に導かれる....」となる「詩篇23」(われら死の谷を歩むとも...)を、「うるはしきみの。率(ひき)のまに。みのりの杖と。かしこくも。たがねてゆけば。ぬば玉の。くらきみくにに。伊往(いゆく)とも。あにおぢめやも。」と訳している。「くらきみくに」(「死の陰の谷」)に「ぬば玉の」などと枕詞が掛かっていたりして泣かされる。


『手塚富雄著作集』(全6巻 中央公論社 1980/81年)

 翻訳や啓蒙書でお世話になっていながら、彼自身の最も大きな関心事であった『ヘルダーリン』を読んでいなかったので、ついでに著作集として入手。中学生の頃読んだ『ドイツ文学史』(岩波文庫)、ゲーテにもとづいた『生き生きと生きよ』(講談社現代新書)も収められていて懐かしい。平易で明快な啓蒙書を書かせたら抜群の著者だろう。最近のドイツ文学の低迷ぶりは、こうした啓蒙家が出ないことにも一因があるのかもしれない。この著作集、装本も立派で美しい。クロス地に箔押しなどというのも、最近ではどんどん少なくなって寂しい限り。最近の書物の形態に慣れてきてしまった目で見ると、豪華版のように思えてしまうのも不思議。


M. Riedel, Kunst als >Auslegungerin der Natur<. Naturästhetik und Hermeneutik in der klassischen deutschen Dichtung und Philosophie(Collegium Hermeneuticum 5), Böhlau Verlag 2001.
(リーデル『<自然の解釈者>としての芸術 ―― ドイツ古典哲学における自然美学と解釈学』)

 ライプニッツから始まって、カント美学、ゲーテ、ヴィンケルマン、ヴォルフ文献学、ニーチェ、フンボルト、ハイデガー、最後はファイヒンガーに至るまで、実に多彩な材料を主題とした論文を集めている。リーデルは、それぞれの思想家のテクストに密着しながらも、かなり大胆で創造的な解釈を打ち出してくるので、個別の論文も相当に面白い。ただ、出典表記などが甘くて、原典の指定の箇所を見ても、引用されている文章が見当たらないなどということが、しばしばあるのが難点なのだが。ハイデガーを使って「自然解釈学」を論じた論文は、ずいぶんと昔のことだが、著者自身から抜刷(論文一本だけを別個に印刷したパンフレット)を送ってもらっていた。そんなこともふと思い出して懐かしかった。


M. Riedel (Hg.), >Jedes Wort is ein Vorurteil<. Philologie und Philosophie in Nietzsches Denken, Böhlau Verlag 1999.
(リーデル編『<いかなる言葉も偏見である> ―― ニーチェ思想における文献学と哲学』)

 Collegium Hermeneuticum(解釈学叢書)というシリーズの立ち上げの第一巻。まずは、ニーチェ思想を、永劫回帰や力への意志といった大仰な概念ではなく、文献学あるいは言語という点から論じているのが特徴。ガダマーも歿する直前に論考を寄せている。ニーチェ自身の著作タイトル『音楽の精神からの悲劇の誕生』をもじった「パロディーの精神からの抒情詩の誕生」なる論文も所収。邦語では、サラ・コフマン『ニーチェとメタファー』(朝日出版社)ギルマン『ニーチェとパロディ』(青土社)が、言語という側面からニーチェ思想を論じているが、深さと同時に、仮面という「表面」を好んだニーチェの思想は、言語表現という表層を抜きにしては語れない。


M. Ferrari, Ernst Casssirer. Stationen einer philosophischen Biographie (Cassirer-Forschungen Bd. 11), F. Meiner 2003.
(フェラーリ『カッシーラー ―― 哲学的伝記の諸段階)

 思想内容に即した本格的な発展史の試み。『認識問題』から始まって、カント研究、ルネサンス論、『象徴形式の哲学』、文化哲学という発展段階を追っている。ヴァールブルクとの出会いは、「危険な蔵書」という一章を割いて論じられている。文献表も充実している基本的文献。


Internationales Jahrbuch für Hermeneutik, Bd. 1, hg. G. Figal, Mohr Siebeck, 2002.
(『解釈学国際年報』第一巻)
 
フィガール、ガンダー、
G. ベーム、グロンダンなど、解釈学を代表する研究者たちが編集主幹となっている雑誌が立ち上がった。論文として収められているのは、かならずしも狭い意味での「解釈学」に限定されず、言語・歴史・芸術に関わる隣接領域を主題としているもの。時代的にも古代から現代までが射程に入っている。「哲学的解釈学」というガダマー的な理念にかならずしも縛られているわけではない。中心的な主題(いわば特集)と一般論文という二部立ての構成。第一巻の主題は「言語」。


Internationales Jahrbuch für Hermeneutik, Bd. 2, hg. G. Figal, Mohr Siebeck, 2003.
(『解釈学国際年報』第二巻)

 上掲雑誌の第二巻。今回の特集は「人文主義」(Humanismus)。デリダが2002に行った講演「将来の啓蒙の<世界>」というものの独訳が巻頭論文。


宇野邦一『反歴史論』(せりか書房 2003年)

 個別には興味深い指摘が多く盛り込まれているが、全体の問題設定がなかなか見えてこない。ニーチェ、小林秀雄、ペギー、レヴィ=ストロースなどの、歴史批判が論じられる。しかし、特に標題となった冒頭の「反歴史論」だけでは、なぜことさらに歴史に「反抗する」というモチーフが重要なのかがほとんど掴めない。最後の論考になって、本書では「歴史」というものを俎上に乗せながらも、最終的には「意識」や「主体」といったものの発生が問われているということが朧げに見えてくる。意識の始まりを捉えるとは、「みずから始めるのではなく、始まること自体に始まることを委ねなければならないのだ。それは、決して雄々しく主体的に始める(構成する)ことではないが、少なくとも私を貫いて何かを構成するもの、その構成の過程、構成の力を、ただ解放するようにして、世界に対することであるかもれない。私が<歴史>を批判するようにして考えてきたことは、ただ<歴史>として構成されるものの構成の過程に潜む劇に立ち会うためであったかもしれない」(p. 246)。こう言われてようやく事情が飲み込めてくる。むしろこの議論を最初に持ってきてくれれば、全体の見通しが随分良くなると思うのだが。


『ニーチェは、今日?』森本和夫・本間邦雄・林良雄訳(ちくま学芸文庫 2002)

 1972年にスリジー=ラ=サールで開催された有名なコロキウムの記録。ただし、原著の完訳ではなく、デリダ、ドゥルーズ、リオタール、クロソウスキーの発表のみを訳出し、それぞれに詳細に訳註と解説をつけた「日本語版」。中途半端なかなちで部分訳をされるより、なかば現代思想入門のようなスタイルを意識しながら、解説付きで公刊するというのも積極的な試みだと思う。解説、訳註共になかなか使い出があって、単に卒読するというより、あとあとまで利用したくなる一書。もちろん、本来原著に収められていたフィンクのものも読みたいなど、言い出せば切りがないが、これはこれで持っている価値はありそう。それにしても、解説の中で伝えられるデリダの質疑応答というものが何とも言えない。例えば、哲学的概念と詩的・隠喩的語りの対比をめぐって提起された、「詩から逃れたところには、概念の執拗な転用のほかに、何が残るのでしょう」という質問に対するデリダの答え。「それは、おそらく、残りでしょう」。こんなやり取りを会場はどのように受け止めたのだろうか。日本の学会なら失笑が漏れそう。そしてそれはおそらく正しい反応だと思う。


E. Bons, Der Philosophe Ernesto Grassi. Integratives Denken: Antirationalismus: Vico-Interpretation, Fink 1988
(ボンス『哲学者エルネスト・グラッシ ―― 統合の思想・反合理主義・ヴィーコ解釈』)

 グラッシの研究書。ただし、いま一番知りたい編集者としてのグラッシについてではなく、純粋に哲学者としての思想を論じたもの。とはいえ、ヴィーコ解釈を始め、グラッシについてはなかなかまとまった情報がないのでありがたい。詳細なBibliographyが付されている。これを見ると、単行本は主にドイツ語だが、やはり夥しい数のイタリア語論文を書いていることが分かる。著者の言葉によると「15冊の著作と、約130篇の論文」だそうだが、この文献表が、雑誌論文を含め、探求の強力な武器になるのは間違いない。


E. Grassi, Reise, ohne anzukommen, Rowohlt: Hamburg 1957.
(グラッシ『果てしなき旅』)

 イタリア出身でハイデガーの下で学んだ人文主義研究の一人者が、現地へ幾度も足を運び、中米の古代文化についての考察を行ったもの。人文主義といえば、その要は言語と歴史である。そうしたフィールドで研究を重ねてきた著者にとって、インカ文明などはその対極にあるとも言えるだろう。もちろんインカ文明に言語と歴史が欠落しているわけではないが、そこでの言語的伝統や歴史は、ヨーロッパ型の人文主義と同じ基準で理解できるものではない。こうした対極のモデルに直面したときに哲学者が往々にして陥る罠が普遍化である。一挙に抽象的な(実存的であれ、文化類型的であれ)形式へと飛び越えるのではなく、どれだけ中間の具体的な次元に留まれるかというところが、むしろ腕の見せ所だろう。


 HOME    Library TOP