「知の考古学」のために
space

  「知の考古学」のために

 


 

「『エスプリ』 質問への回答(『ミシェル・フーコー思考集成 III 1968-1970 歴史学・系譜学・考古学』筑摩書房、1999年、所収)について  

「知の考古学」というフーコーの構想を理解する手がかりとして、まず著作『知の考古学』が公刊されるに先だって書かれた文章(1968. 5)を読みながら、その構想を簡単に整理しておきたい。フーコーのやろうとしているのは、従来の連続的な歴史観に対して、非連続的な歴史観を打ち出すことではないか、またそれは政治的には進歩という理解を宙吊りにしてしまうのではないかという質問を切っ掛けに、フーコーが自分自身の基本的な立場を要約するというのが、この論考の成り立ちである。

 歴史観と言説の歴史  

 フーコーがまず回答の冒頭で否定するのは、一つには「歴史的=超越論的なやり方」、もう一つが「経験的あるいは心理学なもの」である。フーコーは具体例を挙げていないが、前者の代表例としてヘーゲルの歴史哲学、後者の例としてはコンドルセなどの実証的な進歩史観を考えればよいだろう。第一のやり方は「同語反復」であり、第二のものは「外在的かつ非本質的」と言われているように、「歴史的=超越論的」理解は、超越論的構造ないし絶対精神の自己現前から出発するために、そこにいかに歴史が考えられても、それは所詮は構造の自己展開にすぎない。さらに、「経験的・心理学」なものは、知の体系の発展形態が、その外部の環境や条件によって決定されるとする自然主義的な態度を中心とする。そこでは、外部の実定的な事実が前提とされ、その数直線上に諸々の知の体系が整理されるということになる。

 フーコーがこれらを二つながらに斥けるが、その際にフーコーはこれらの「歴史観」に反対しているわけではない。ましてはフーコー自身が、これら二つとは異なった新たな「歴史観」を呈示するということもない。そもそもフーコーが立ち上げようとしているのは、「歴史哲学」ではないのだし、フーコーの一連の著作にとっては「歴史とは何か」という問いは無縁なのである。一貫して歴史を語りつづけたかに見えるフーコーは、歴史を作業場としてはいるが、けっして歴史の本質を問題にしているわけではない。

 フーコーが問うのは、歴史そのものや歴史の本質なのではなく、敢えて言うなら、むしろ歴史を「語る」ことの条件である。経験の条件に遡るという点では、「超越論的」と言える着想ではあるのだが、そこで超越論的な場に据えられるのは、自我の統覚や反省的な自己意識などではなく、「言説」である。しかもそれは、歴史全体の背後に一貫して働いている形式のようなものではない。個々の時代のある特有の領域を成立させている言説規則を、その領域の可能条件として取りだし、そこに他の時代、他の分野に見られない独自性が現れたとき、その二領域の切断をあらわすものとして、「歴史」という表現が初めて意味をもってくるのだとも言えるだろう。

  歴史の連続性と非連続性  

 そこで、フーコーが問題にするのが、「非連続性」という思考である。しかしここでの「非連続性」は、「連続性」との対立として見られてはならない。複数の「非連続性」が問題となるように、ここでの非連続性は、連続性を「崩す」ために導入されるわけでもなければ、連続性以前のものとして連続性に回収されるべきものとして想定されるわけでもない。

 問われなければならないのは、むしろ連続性としての歴史という見方を支えている従来の基本的な思考である。連続性を考えるためには、ある領域の存在を自明視したうえで、その成立や発展・衰退を語ることになるのが普通だろう。「経済学史」、「文学史」、「哲学史」、「医学史」……がそれである。しかし、例えば「経済学史」の最初に、語源的にそこが起源になるからといって、アリストテレスの『家政学』(Oikonomia)を置くことにどれほどの意味と説得力があるのだろうか。この二つを歴史の起源と発展形のようにみなす操作をするなら、元々は何の繋がりもない二つの領域を、連続性の名の下に無理やり繋ぎ合わせているとことにならないだろうか。あるいは、博物学を生物学の先行的形態とみなすことは、やはりわれわれの「生物学」の基準で、その視線から博物学を処理して、博物学に生物学「以前」としての役割を割り当てるということになるだろう。このような連続性を元にして歴史を眺めるなら、現在がそこからの発展と捉えられるにしても、衰退・堕落と捉えられるにしても、いずれにしても、現在の側が「認識論的な」優位を握っていることになる。

 そこでフーコーが問題にしようとしているのは、古代ギリシアではなぜ「経済学」が存在せずに「家政学」があるのか、また近代初頭にはなぜ「博物学」が可能であっても、「生物学」は成立しえなかったのか、その理路を探ることである。そのためには、まずは「家政学」を「経済学」との関係で、あるいは「博物学」を「生物学」を基準として考えることをやめることが必要になる。つまり連続性を断ち切って、非連続性を浮彫りにしなくてはならない。それぞれの時代のそれぞれの知識体系には、他の領域では通用しない独自の統一の法則が働いているはずなのであり、それをフーコーは言説の規則として、あるいは「エピステーメー」として分析しようとする。

言説の規則とエピステーメー  

 ある時代のある知の体系を、まとまりのある言説として可能にしている一連の規則の束が「エピステーメー」と呼ばれるものである。「<エピステーメー>とは、時代の下に横たわるひとつの大理論のようなもののことではなく、ひとつの<分散>の空間であり、開かれていて、おそらくは無限定に記述が可能な、諸々の関係性の場(フィールド)であるのです」(p. 74)。したがって、「エピステーメー」は原理的に複数的に語られるべきものである。それは、「世界観」や「モデル」とは違って、一時代全体を貫いて、その背後で人間の思考を操っているようなものではない。「私は、相異なるさまざまな徴から出発して、一つの時代の統一的な精神、時代の意識の一般形式、<世界観>のような何かを探し出そうとしているというわけではないのです。……私は諸々の言説を次々と研究し、それらを特徴づけ、諸々の規則と変形と閾と残存のさまざまなゲームを定義し、それらを相互間に構成し、それらを結ぶ関係性の束を記述したのです」(p. 75)。

 そのようなエピステーメーの分析とは、ある言明の背景に隠されていたり、眠っていたりする思想を明るみに出すようなことではない。むしろ問題なのは、さまざまな言説を一つのネットワークとして成立させているその「力」なのであり、微細に絡み合う言説の網目をそのようなものとして編み上げた「動き」なのである。「私は、言説をそれらが沈黙のうちに何を言おうとしているかについて問うのではないのです。そうではなくて、それらの言説が顕わに出現したという事実とその諸条件について問うのです。それらの言説が隠しているかもしれない諸内容についてではなく、それらの言説が実際に惹き起こした変形について問うのです」(p. 83)。つまり、フーコーの分析は、語られたを手がかりとしてその背景へと遡る「解釈学」ではない。解釈学にとっては、何らかの仕方で「隠された」背後(「先入見」や「了解地平」)が問題となるが、フーコーは「知の考古学」ということを語ることによって、そうした意味の重層性の問題から離れようとしている。考古学にとって問題なのは、地層の「意味」や「解釈」ではない。考古学者が、断層を発見することによって、そこに地殻変動の「事実」とある「力」の作用を看て取るのと同じように、知の考古学も、知の断層からエピステーメーの変異の事実を掴み取る。どのような角度で言説に断層が走り、どこにまでその亀裂が及んでいるか、知の断層の上下・左右でどのような変化が起きているかをつぶさに観察することによって、そこに働いた力の事実を発見しようとするのが、知の考古学の役割なのである。そして、観察されるのが断層である以上は、そこで断ち切られた二つの領域を同じ仕方で語るような共通のコードは存在しない。だからこそ、まさに解釈は不可能なのである。「私が問おうとしているのは、コードの問題なのではなく、出来事の問題であり、言表の存在の法則、つまり諸々の言表を前にして、他の言表ではなく、まさしくそれらの言表を可能にしたものは何かを問うことであるのです。それはまた、そうした言表が一回かぎり出現したことの諸条件、あるいはまた、言説的であれそうでないにせよ、先行しあるいは同時に起こった他の諸々の出来事との、それらの言表の相関関係を問うことでもあります」(p. 81)。

  言説と主体    

言説の規則に対する分析である考古学は、言説の背後に隠れた意味を想定しないし、そのためにおよそ「解釈」というものを受け容れない。意味と解釈に対する拒絶は、同時に言説を有意味なものとする「主体」を消去することでもある。「言説は、純粋な主体性が闖入する場所ではない。言説は、複数の主体にとって差異化された諸々の位置と働きからなる空間なのです」(p. 79)。だからこそ、「意味作用を構成しそれを言説の中に書き込むような主体性というテーマを疑問に付す」(p. 85)が要求されるのである。主体の「意図」といった解釈学的主題は、主体という、それ自体が言説によって織り成されている次元を始めから前提している以上は、そのままで受け容れるわけにはいかないのである。言説を主体や「生」の「表現」として理解して、その奥に背進不可能な生や了解の次元を想定する(ディルタイ、ハイデガー)ことが、ここでは完全に禁じられる。言説を二次的な表現としてではなく、それ自体実在するものとみなす感覚が要求されるのである。

 こうしたフーコーの着想は、隠蔽されたものの開示(ハイデガー)や、痕跡の追求(デリダ)というタイプの思想とは、異質のものを含んでいると言えるかもしれない。言説は何ものも隠してはいない。むしろ言説は語るべきことをそれなりの仕方ですっかり語っているのであり、その背後に「意図されながら」残留している何ものかを隠しもっているわけではない。そのために、知の考古学者の課題は、時代が言い損ねたことをよりよい仕方で語り直すことでもなければ、その真意を汲んで、適切な新たな表現を与えることでもない。「言説とは、ひとつの時代において、ひとが(文法の諸規則および論理の諸規則にもとづいて)正しく言うことができたことがらと、実際に言われたことがらとの間の差異によって構成されるものなのです。言説場とは、ある歴史的時期における、この差異の法則性そのものであるのです」(p. 87)。問題なのは、「言われたこと」なのであり、沈黙や影ではない。読み解かれなければならない黙された事柄や、嗅ぎ取られなければならない言い損ねられた意図が言説の背後に存在するわけではない。言いかえれば、言説の後ろ側にそれを操る主体や意味などは存在しないのである。「言説」のみが「実在」するのであり、また現実とは、語られた言説の中にのみ存在する。ハイデガーやベンヤミン、さらにはデリダなどの「ロマンティックな」思想家たちが、暗がりや沈黙を愛するのとは異なって、フーコーが繰り広げてみせるのは、白白とした正午の光の中に言説だけが剥き出しになった光景である。

 『エスプリへの回答の最後で、フーコーが長々と語っているのは、こうした光景に対する弁明である。思想や言説を駆り立てていると思われている熱意 ―― 言説の中に「自分自身」を籠めたいと願う希望、他の言説の中に他者の「顔」を見いだそうという欲望、あるいは思想の中に何らの「生の意味」を期待する願望など ―― と違って、フーコー自身の作業がいかに「砂を噛む」ようなものであるかを認めながら、それを釈明して回答は締めくくられている。思想に「人間的共感」を籠めようとするわれわれの抜きがたい「さが」を停止させ、「言説の実在性」へと発想を転換させることが要求される。いわば言説から一切の人間性を剥奪し、純粋な観念として享受し、味わい尽くすことが求められるのである。


予告

次回は「科学の考古学について ―― <認識論サークル>への回答」を読みます

 


 ご意見・討論は掲示板「口舌の徒のために」へお願いします   
 Scriptorium top
 HOME