口舌の徒のために
(過去ログ)
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No.46, まとめていろいろ 庵主 Prospero(2001/04/16 00:39:14)
No.47, 人工庭園の系譜 森 洋介(2001/04/16 03:02:12)
No.48, 『金色の死』など。 國府田 麻子(2001/04/16 20:18:35)
No.50, 人工庭園その他 庵主 Prospero(2001/04/16 21:18:22)
No.51, 「金色の死」 yamanaka(2001/04/17
00:58:07)
No.56, 庭園・室内・グロッタ 庵主 Prospero(2001/04/17 23:28:33)
No.57, Re:庭園・室内・グロッタ yamanaka(2001/04/18 01:32:06)
No.58, 人工庭園→室内楽園→「蔵の中」? 森 洋介(2001/04/18 02:19:41)
No.62, 反ユートピアとしての「牢獄」 庵主 Prospero(2001/04/18 19:13:05)
No.83, 獄舍のユートピア 森 洋介(2001/04/21 01:26:15)
No.87, 獄窓の近代 庵主
Prospero(2001/04/22 16:35:47)
No.97, Re:獄窓の近代 森
洋介(2001/04/23 23:23:24)
No.61, 庭園。 國府田 麻子(2001/04/18 14:04:45)
No.63, 庭園のトポス 庵主 Prospero(2001/04/18 19:15:54)
No.69, 偽系図書きの辯 森 洋介(2001/04/19 22:31:52)
No.70, 解釈と作者 こば(2001/04/19
23:26:31)
No.71, Re:解釈と作者 森
洋介(2001/04/20 00:06:04)
No.84, 読者論の共同主観性? 森 洋介(2001/04/21 15:49:27)
No.88, 信仰と排他性 こば(2001/04/22
16:51:33)
No.100, 解釈学と神学 庵主 Prospero(2001/04/24
19:18:15)
No.103, 聖書解釈の妥当性 こば(2001/04/24 23:16:45)
No.104, 聖書解釈の妥当性2 こば(2001/04/24 23:19:53)
No.105, 付録 こば(2001/04/24
23:24:31)
No.106, 解釈の正しさ? 庵主 Prospero(2001/04/25 01:16:17)
No.109, 作者論へ戻る こば(2001/04/25
13:25:55)
No.116, コンテクストと「作者の意図」と 森 洋介(2001/04/27 03:21:00)
No.121, コンテクストと作者の意図 こば(2001/04/29 00:11:15)
No.125, Re:コンテクストと作者の意図 森 洋介(2001/04/29 12:20:38)
No.128, テクストの不可解さ こば(2001/04/30 05:22:59)
No.130, Re:テクストの不可解さ 森 洋介(2001/04/30 09:48:14)
No.132, ありがとうございました。 こば(2001/04/30 11:57:43)
No.120, 「読者」論へ戻る 庵主 Prospero(2001/04/28 23:44:05)
No.122, 伝達において想定される「心理的実在物」 こば(2001/04/29 02:39:07)
No.123, 付録2 こば(2001/04/29
03:08:43)
No.124, コンテクストの取り方次第 庵主 Prospero(2001/04/29 11:51:49)
No.131, ルールのルール性? こば(2001/04/30 11:45:47)
No.133, ルールの合意 庵主 Prospero(2001/04/30 13:53:34)
No.134, ありがとうございました2 こば(2001/05/01 00:03:18)
No.135, いやいや、そういうことではなく 庵主 Prospero(2001/05/01 00:11:46)
No.72, 系譜そのもの。 國府田 麻子(2001/04/20 02:02:11)
No.74, 系譜そのもの、って? 森 洋介(2001/04/20 10:24:07)
No.75, もう一度。 國府田 麻子(2001/04/20
20:08:02)
No.77, 系譜って何? 森 洋介(2001/04/20 21:10:00)
No.80, 系譜・トポス・歴史 庵主 Prospero(2001/04/20 22:38:07)
No.108, トポスと歴史と 森 洋介(2001/04/25 02:17:56)
No.112, Re:トポスと歴史と 庵主 Prospero(2001/04/26 19:32:18)
No.113, 伝達と表明 こば(2001/04/26
22:00:51)
No.118, 書誌的附言(フーコー、川崎寿彦) 森 洋介(2001/04/27 06:38:09)
No.119, Re:嗚呼、国語教育 庵主 Prospero(2001/04/27 22:30:57)
No.111, 聖書解釈における「作者」コードの復権 こば(2001/04/26 02:57:34)
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No.46 まとめていろいろ
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/16 00:39:14)
リフォームやそれぞれの応答に追われて書き忘れていましたが、旧掲示板で話題になった谷崎潤一郎『金色の死』をしばらく前に読みました。レッシング『ラオコオン』をめぐる議論と後半の人工庭園の記述には興趣を覚えましたが、作品としてのでき映えには少し首を傾げていたところ、yamanakaさまに教えていただいた三島の『作家論』が届いて早々に繙読。作品としての『金色の死』の瑕疵をかなり手厳しくあげつらっているのを読んで、多少自分の印象が裏づけられたような気がしたような次第です。 それはともかく、『魔術師』にしても、この『金色の死』、さらには江戸川乱歩の『パノラマ島綺談』にしても、日本近代文学の中での人工庭園の系譜のようなものは存在するのでしょうか。やはりあれは、谷崎辺りが、ポオ近辺を材源として着想したものと考えるべきなのでしょうか。
忘れていたと言えば、もう一点。旧掲示板の最後の方で、「作中人物で会いたい人」というこば氏のお題がありましたね。ミルトン『失楽園』のルシファーとか、筒井康隆『虚構船団』の雲形定規とかは駄目でしょうか。「人物」に限定すると、トーマス・マン『詐欺師フェリクス・クルルの告白』のクルルご本人かな。その鮮やかな変身の技と泡立つ雄弁は見てみたい。何なら弟子入りしたいくらい。
>國府田さま
御茶ノ水、お出かけになられたのですね。配列が少々雑然として見にくかったですが、安かったですね。セール品以外にも、昔良く聴いていてまたCDで買い換えたいというものが何点か安くあったのですが、それはそのうちということで見送ってきました。そのうちの一番は、ラサール弦楽四重奏団のベートーヴェン後期弦楽四重奏曲集でした。 大学院の入りたてはやはり何かと身辺が落ち着かないものでしょうね。ところで、きゅー殿によるハムスターの命名はどうなりますか。
>きゅーさま
一週間くらいで戻る(しかもHDの内容も無事)という軽傷でよかったですね。サポート態勢万全のアップルなんか、何をするにしても最低一月掛かりますよ。まったく!
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No.47 人工庭園の系譜
投稿者---森 洋介(2001/04/16
03:02:12)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque/
>それはともかく、『魔術師』にしても、この『金色の死』、さらには江戸川乱歩の『パノラマ島綺譚』にしても、日本近代文学の中での人工庭園の系譜のようなものは存在するのでしょうか。やはりあれは、谷崎辺りが、ポオ近辺を材源として着想したものと考えるべきなのでしょうか。 >
ズバリ『人工庭園の秩序』なる論集が磯田光一にありました。今は亡き(合掌)小沢書店刊、1987年。参考になれば。 江戸川乱歩の場合、疑ひなく谷崎の影響下にありました。自ら谷崎礼讃と共に創作事情を明かしてゐます。ポオ→谷崎→乱歩、といふ系譜になりますか。 あと、挙げるならば中井英夫なんかはこの系譜でせう。流薔園。三島とも仲良かった人ですし、また三島由紀夫と磯田光一の親交も知られる所。さうさう、澁澤龍彦も。この辺が人工庭園の系図に記すべき名でせうか。
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No.48 『金色の死』など。
投稿者---國府田 麻子(2001/04/16 20:18:35)
庵主さま。『金色の死』をお読みになったのですね。「作品としての出来映え」に関しては、私も何とも・・・(ラストに岡村君が涅槃像になってしまう、なんて。。)。この作品は、所謂、谷崎の「不毛時代」に書かれたものですが、不毛時代にあっては、優れた作品だと云えるでしょう。三島も、『作品論』では手厳しく扱き下ろしているかも知れませんが、「新潮日本文学6『谷崎潤一郎集』」の中では、失敗作の『金色の死』の「むしろそのはうに作家の諸特質や、その後発展させられずに終わった貴重な主題が発見されることが多い」と其処に谷崎の隠された才能(天才)のようなものを見出していますよね。 また、私は間違いなく、「人工庭園」はポオから発想を得たものだと考えております。此は、多くの研究者が指摘している点でもありますし、何より『アルンハイムの領地』『ランダアの小屋』そのものではありませんか。人工的な、そして虚構的な《美》に憧れていた谷崎が、ポオ(だけではありませんが…)が自らの作品に実に見事に組み込んだ「人工庭園」を、羨望の眼差しを持ってみたことは疑う余地もなく、また、谷崎自身『魔術師』や『金色の死』に夫れを取り込もうと努力した跡は、その後の谷崎文学にとって決して無駄ではなかったでしょう。 森さまが具体的な論文をお挙げになっていらっしゃるので、ワタクシは、今のところ、「こんな風に考えているのです」と云う。。。。 今日は大學で「『痴人の愛』について、連休明けから暫く國府田さんが話してください」と教授から云われてしまいました。。『痴人の愛』は苦手な作品なのでチョット困っています。而も、『語られた自己 日本近代の私小説言説』(岩波書店)もテクストとして購入いたしました。此にはポオと谷崎との言及もあり、面白そうです。
*ハムスターの名前、こばさまが「ダニエル」君を寄せてくださいました!
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No.50 人工庭園その他
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/16 21:18:22)
早速にお二方からお返事をいただきありがとうございます。
>森さま
「人工庭園の系譜」ということを書いたときに、ふとそんな標題の本があったなと頭をよぎったのですが思い出せませんでした。磯田光一『人工庭園の秩序』、しかも小沢書店でしたか。ありがとうございます。調べてみたいと思います。そうでした、中井英夫の植物的綺園もありましたね。 ちなみに小沢書店は本当に残念です。吉田健一や篠田一士などでもお世話になりましたし、井上究一郎『シテールへの旅』なども愛すべき詞華集でした。本作りも丁寧だったので、信頼していた書肆だったのに。似たような傾向で、書肆山田あたりは大丈夫なんでしょうか。
>國府田さま
やはり材源はポオですか。ヨーロッパ文学(その影響下にあるアメリカ文学)には、中世以来、「庭園」をめぐる言説の蓄積がありますが、日本の場合、やはりこの系譜は、着想源が外国文学にある翻案というか、外来種という感じになるのでしょうか。人工庭園とはいっても、枯山水はこういう系譜とは違いますものね。ヨーロッパの「庭園」と日本の枯山水では、丁度ユートピアと桃源郷の対比と似たような関係があるのかなど、漠然と惟ってしまいます。 でも、三島が言っていた、あの『金色の死』の庭はまるでタイガー・バーム・ガーデンのようだという条には笑いました。
『語られた自己 ―― 日本近代の私小説言説』も気にしてみたいと思います。授業での報告の概略など、またよろしければご披露を。 Best regards to Daniel !
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No.51 「金色の死」
投稿者---yamanaka(2001/04/17 00:58:07)
庵主さま 御無沙汰しています。yamanakaです。
わざわざ読んで頂いたのにレス遅くなってしまいました。で、人工庭園の系譜ですが、既にもりさまが言及されてらっしゃいますので、重複するところがあるかもしれませんが、やはり谷崎の「金色の死」というのは先駆的な作品ですね。それからちょっとずれるかも知れませんが佐藤春夫の「美しい町」、乱歩「パノラマ島奇談」。で、ワタクシの感覚ですと文学からここで映画にいき、石井輝男監督の「恐怖奇形人間」なんかも・・・。外国文学ですと、それはまずポオがあり、ルーセルの「ロクス・ソルス」、マンディアルグ「ボマルツォの庭」など。庭園ではなく、人工楽園となると、「さかしま」も入るでしょうし、それよりもなによりも、「金色の死」に近いものに、三島由紀夫の「豊饒の海」第三巻「暁の寺」があります。「暁の寺」の中で、澁澤がモデルになった中西という人物が己の夢想を語るのですが、そこに「柘榴の国」というのが出てきます。非常に美しい人間と醜い不具の人間が別々に暮らしており、読書は美を損なうので許されず、美しい人間は年頃になると連れていかれ、醜いものたちに弄ばれ「性的殺人劇場」で一方的に殺されるという国です。(性的楽園という意味では、三島には「三原色」という戯曲がありますし、金色の死体となった岡村のような、美しい人間の人間剥製を蒐集するという趣味の「黒蜥蜴」という乱歩原作の戯曲も三島は執筆しています)。三島は「金色の死」をくさしていますが、それも最後の人工庭園の趣味の混乱に対してであって、論理の矛盾などが見られたとしても、実は三島は「金色の死」が基本的には好きだったのでは・・・などと思います。というのも、今から見れば、「金色の死」も三島も同じくタイガー・バーム・ガーデン、キャンプ(ソンタグ)ではないかと思うからです。因みに「金色の死」の人工庭園の着想はポオですが、「私」と「岡村」の対話は明らかにワイルドの芸術論が意識されていると思われます。 また芸術の生活化なんていうテーマもそうでしょうね。さて、「金色の死」では活人画というのが出てきますが、これはひょっとしたら映画につながるのではないか・・・という風に、何とかつながるのではと考えているところなのですが、如何でしょう。 何だか長くなりかつまたマニヤック過ぎました、お許し下さい。
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No.56 庭園・室内・グロッタ
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/17 23:28:33)
yamanakaさま
いろいろとデータをありがとうございます。『豊饒の海』を読んだのは随分と前で、細かい点はほとんど忘れてしまいましたが、中西のことは印象深く覚えています。なるほど、あそこにも人工庭園の響きがありましたか。「三原色」というのは知りませんでした。気にしてみたいと思います。
「人工庭園の系譜」ということでお訊きしたのは、ヨーロッパ文化史の中では、「庭園」という主題が一つのジャンルを成すほどの広がりを持っているというのが背景の関心としてありました。先ほど書棚でヨーロッパ庭園史関係のところを漁っていたら、随分前に倫敦の古書店から送られてきたHortorum Libri (ずばり「庭の書物たち」!)というカタログが出てきました。18世紀から20世紀初頭までの庭園を巡る技術書が図版入りで350点ほど紹介されており圧倒されます(ここからは一点買った覚えがある)。古書店で独立のカタログを出すくらいの大ジャンルのようです。 ヨーロッパの場合、庭の系譜は、古くは「エデンの園」にまで遡るのでしょうが、そうしたエデンの園のような楽園が人工庭園の主題と大きく異なるのは、後者には「自ら閉ざす」という性格がある点だろうと思います。ヨーロッパ文学の中でそうした転換が起こったのは、12世紀の宮廷風恋愛の「閉ざされた庭」(hortus conclusus)においてだろうと想像しています。この12世紀という時代が、セニュボスやグールモンなどが言っているような「愛の観念が生まれた」時代だとするなら、この「閉ざされた庭」が同時に「逸楽の園」(hortus deliciarum)の性格を担うというのも頷ける経緯でしょう。その純化された形が、コールリッジの『クーブラ・カーン』といったところでしょうか。
また、仰られるように、『さかしま』に代表されるような、楽園としての「室内」という主題は、確かに「庭園」の主題と似たような肌触りをもっているようですね。プーレ弦楽四重奏団を招いてベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲を演奏させたプルーストのコルク貼りの部屋とともに。さらにはフォントヒル館のベックフォードなども。そういえばポオにも「家具の哲学」などという小論がありましたっけ。プラーツの『室内装飾の歴史』を始め、一連のヴィスコンティ映画とも共鳴しそうな主題ですね。この「インテリア」ということでは、アドルノの『キルケゴール論』が、「インテリア=室内装飾=内面性」という議論を展開し、ベンヤミンなどもそれに多いに共感している節があります。この辺の経緯はそのうち、大雑把にトレースしてみたいとも思っているのですが。 もう一点、人工庭園 → 室内という流れに、「洞窟(グロッタ)」の項目を足してみるなどというのは如何でしょう。そうした関心のものに、原研二『グロテスクの部屋』(作品社)などというものがありました。
また映画への展開などという点に関してましても、機会がありましたらいろいろお教えいただければと思います。
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No.57 Re:庭園・室内・グロッタ
投稿者---yamanaka(2001/04/18 01:32:06)
レス有り難う御座いました。庭園が室内になってはガラリとその意味がかわってしまいますね。室内ですと、結局、ダヌンチオの部屋みたいな、ああいう世紀末趣味というか、そういうものをイメージしてそれがごっちゃになっていました。確かベンヤミンがどこかでこういう部屋のことについて語っていたような気がするのですが・・・失念しました。アドルノの「キルケゴール」というのは初めて知りました。機会があったら是非読んでみたいと思います。
> もう一点、人工庭園 → 室内という流れに、「洞窟(グロッタ)」の項目を足してみるなどというのは如何でしょう。そうした関心のものに、原研二『グロテスクの部屋』(作品社)などというものがありました。
『グロテスクの部屋』というのも初耳、ご教示有り難う御座いました。前にマンディアルグの「ボマルツォの怪物」から、ボマルツォの庭に興味を持ち、それがグロテスクへの興味となり、当時読んでいたホッケの『迷宮としての世界』(美術出版社)なんかにも当然のようにグロッタ洞窟が出てきたので、法政大出版から出ている『グロテスクなもの』などをちょっと買ってみて、読み、今度は変身というところから、ジャン・ルーセの『フランスバロック期の文学』(筑摩叢書)などちらほら捲ってみたこともありました。でもしかし、やっぱり西欧の人工庭園(ポオの「アルンハイムの地所」で説かれるような「第二の自然」としての庭園)そのものというよりは、「金色の死」の悪趣味性そのものに私は興味がいってしまうようで、そこから、キャンプ・キッチュなどに多大な興味を持っています。 追伸、庭関連では、オクターブ・ミルボー『責苦の庭』なんていう残酷譚もありました。
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No.58 人工庭園→室内楽園→「蔵の中」?
投稿者---森 洋介(2001/04/18
02:19:41)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque/
人工庭園→室内の系譜で本邦を顧みると、既に名の挙がってゐる江戸川乱歩がやはりメルクマールだと思ひます。
プルーストやラヴクラフトの如き「自ら閉ざす」部屋での創作といふ作家伝説は、乱歩において殊に顕著だからです。即ち「蔵の中」。乱歩先生は昼でも暗い土蔵で蝋燭を灯して執筆なさり……といふアレです。 松山巌『乱歩と東京』(ちくま学芸文庫)が、狂人の設計になる建築「二笑亭」を紹介しつつ、乱歩と阿部次郎『三太郎の日記』における「夢想の家」の記述を重ねて見せ、その自閉性を指摘したくだりが印象に残ってゐます。 また『〈個室〉と〈まなざし〉』(講談社選書メチエ)の著者・武田信明に「二つの「蔵の中」」(『群像』新人賞だったか)といふ論文もある位で、宇野浩二、江戸川乱歩、横溝正史といった作家がいづれも「蔵の中」といふ題で何かしら書いてゐます。ここはひとつ「蔵の中」といふトポス(字義通り場所であり且つクルツィウスの謂ふ意味で)を認定してみたい所です。
「蔵の中」とは、西洋に置ける個室の代替物ではなかったかと愚考します。この個室はしばしば閉ざされた密室であり且つ読書空間であります。ヴァージニア・ウルフの所謂「自分だけの部屋」。三太郎が思ひ描く「夢想の家」も、「外界の闖入を防禦したる石造の室にあつて読書し思索し恋愛するのである」といふものでした。 読書空間――平たく云へば書斎ですが。探偵小説には「書斎の死体」といふ紋切型もあり、密室はつきものです(ついでに建築見取図も)。探偵小説の発生への考察でも知られるベンヤミンのパリ-ボードレール論はまた、室内観相家として探偵小説の父・ポオに言及してゐました。ここに、本邦探偵小説の父・江戸川乱歩の「蔵の中」といふトポスを重ねて見れば……。
実際、よくある「私の江戸川乱歩体験」では、判で捺したやうに「親に隠れて押入れの中で(蒲団の中で……etc.)密かに読み耽り」云々と語られます。押入れの中であれどこであれ、暗く秘密めいた私的空間といふ意味で、「蔵の中」と同位相のトポスといへます。作家の密室における書く行為を読者が読む行為において(それと知らず)模倣乃至反覆させられてゐるのではないでせうか。この少年読者が長じて作家を志せば、見事に一サイクルが成立するわけです(乱歩がアーサー・マッケン『夢の丘』に感心してゐたことが思ひ合はされます)。……
――てなことを昔、考へたことがありました。想ひ出すままに。
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No.62 反ユートピアとしての「牢獄」
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/18 19:13:05)
相継いでお二方の応答、ありがとうございます。 お二人の挙げられている書目を見て、我が意を得たりと言うか、一点一点に強く頷きながら読ませていただきました。ホッケ、カイザー、ジャン・ルーセという最強の組み合わせに何を付け加えるものがありましょう。『責苦の庭』は牧神社ですか。これは読んだことがございませんので、機会がありましたら覗いてみたいと思います。追加するとしたら、『ルネサンスの危機』(平凡社)や『グロテスクの系譜』(文彩社)のシャステルと言ったところでしょうか。さらには、エルラッハなどの、バロック期の幻想建築も含めて考えることができるかもしれませんね。バシュラールなら、『大地と休息の夢想』がこの主題系に属すということになりますか。
森さまご指摘の「書斎=蔵」という繋がりも実に興味深いものがあります。松山巌『乱歩と東京』も面白い本でしたね。さらには二笑亭ですか。「世間も私を笑うが、私も世間を笑う」、「笑い」という壁に遮られたこの人工楽園も興趣尽きぬものがあります。ベンヤミンのボードレール論は、「ルイ=フィリップ、あるいはインテリア」ですか。あの部分では、「インテリアは芸術の避難所である」と言挙げされ、実用とインテリアとが切り離されていました(プラーツも『室内装飾の歴史』の最初のほうで引用しています)。実用からの乖離という点では、二笑亭の黒砂糖と除虫菊を塗り込んだ壁やら、物の置けない違い棚など、まさにそうした要件を満たして余りあるものとなっているのでしょう。ベンヤミンの場合、『パサージュ論』などでも、インテリアが「蒐集」という回路を経て、「痕跡」という考えに結びつき、この「痕跡」を手掛かりに探偵小説との繋がりが産まれているんですね。閉ざされた空間と、そこで繰り広げられる観念の接合ということでは、佐藤健二『読書空間の近代 ―― 方法としての柳田国男』(弘文堂)で言われていた「書物倉のトポロジー」などをふと連想しました。
森さまが最後にお触れになっているマッケンのところにまでくると、これはもう「迷宮」という主題(『迷宮としての世界』!)に接しているということになるでしょうか。ご指摘の『夢の丘』はじめ、『怪奇クラブ』などにしても、物語それ自体が閉じた複雑な反復と重畳の迷宮を成していた記憶があります(朧気な怪しい記憶ですが)。 実は、お二人のご意見を読ませていただきながらまたふと想到したのが、「楽園 → 室内(書斎=蔵) → グロッタ(迷宮)」という流れと雁行しながらその裏面を成している 「牢獄」の主題です。すぐにお気づきになられるように、ド・クィンシーが幻視したピラネージの『牢獄』(Le carceri)です。ユートピアは容易に反ユートピアに転じるのだとしたら、この「牢獄」などは、「楽園としての閉域」がそれ自身の内に携えている「反ユートピア」であるような気がしてきます。ここには一連の阿片文学(ボードレール『人工の楽園』!)が絡んでくることになるでしょうが、その祖型は、コールリッジ『クーブラ・カーン』ということにでもなるでしょうか。というわけで、またもや「人工楽園」の主題へと舞い戻ってしまいました。
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No.83 獄舍のユートピア
投稿者---森 洋介(2001/04/21
01:26:15)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/index.html
調子に乗ってこちらにも一言。洋書は読まないのでまたも近代日本で事例を考へますと―― まづ牢獄だの反ユートピアだの聞いては、前田愛「獄舍のユートピア」(『都市空間のなかの文学』)を想ひ出さずにをられませうや。あれも面白い本でした。長谷川尭『神殿か獄舍か』なんてのもありましたが、何となく買ひ逃してゐます。 さて、これらを念頭に置きつつ、先に述べた書斎=蔵の中といふトポスは実は牢獄でもある、と述べたら牽強附会に過ぎるでせうか。
第一に、狂人の座敷牢として。田舎の秀才が上京苦学の末(殊に哲学なんぞに手を出して煩悶の挙句)脳病となって帰郷、いまでは座敷牢に監置され……といふフォークロアはありがちです。本なぞ読むものぢゃない、百姓には学問なんて不要なのだ、といふ教訓付き。ここでは孤独な書物の空間が精神を病ませ、はては座敷牢に転じるといふ空間認識があるわけでせう。川村邦光『幻視する近代空間――迷信・病気・座敷牢、あるいは歴史の記憶』(青弓社)参照。
第二に、逆に牢獄は、まさしく書斎でもありました。大杉栄の「一犯一語」は有名ですが、謂はゆる主義者たち、政治・思想犯の回想では、獄中にあって学んだエピソードの何と多いことか。或いはそれほど大物思想犯でなくとも、ただ附和雷同して騒いでゐたやうな連中が検挙され、おまへ共産(社会、無政府)主義者だな、転向しろ、と迫られる。ところが連中はロクに本を読んだこともなく、その社会主義ってな何だべさ、といふ調子。そこで取調べ官がやむなくその手の文献(娑婆では発禁だが警察署内には押収してちゃんとある)を読ませてやる。すると却って主義に目覚め、出獄後は不屈の社会運動の闘士となる――といふ例がまた随分と多い。警察が取締るべき主義者の養成所と化してしまふといふ逆説。入獄に際し、ちょっと監獄大学に行って来るよと洒落た社会主義者もゐた位。 ここら辺、きっちり調べ上げて細部を実證的に跡付けるだけでも面白くなるはず。さらに、理論的掩護射撃にはフーコーなんぞが有用でせう。狂人の座敷牢への監置は『狂気の歴史』。監獄に就ては、そこが主体化=臣従化の場であるといふ『監獄の誕生』。パノプティコンにおける視覚の専制を引き合ひにして、読書空間の視覚優位を論ずるも可。書斎のユートピア=獄舍の反ユートピア? ……等々々。 といふか、誰かそんな本、書いてくれたら読みたいものです。
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No.87 獄窓の近代
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/22 16:35:47)
前田愛「獄舍のユートピア」は仰るように名論文でしたね。『都市空間のなかの文学』全体のなかでもとりわけ傑出していたような気がします。前田愛といえば、『文学テクスト入門』(筑摩書房)も、「読者論」系列の議論の必読書かもしれませんね。 ご指摘になられた「獄舎」の問題は実に興味を惹かれます。長谷川尭『神殿か獄舍か』、川村邦光『幻視する近代空間』というのはいいものを教えていただきました。特に後者は早速に捜したいと思います。日本関係のものはあまりきちんと見ていませんが、フーコー的な監獄論を近代の東京の文脈で論じた榎並重行・三橋俊明『<モダン都市読解>読本』(別冊宝島)のなかの「細民窟への視線」「監獄からの眺め」は記憶に残ります。
「獄舎=書斎」ということで、私などが真っ先に思い出されるのが、32年間もの投獄・監禁生活を送り、その牢獄の反ユートピアの中で、ルネサンスの赫々たる「ユートピア」小説『太陽の都』を書き上げた、トマゾ・カンパネッラです。迫害と投獄の中で『太陽の都』が書き上げられたのが1602年、その二年前には、同じく投獄の末にジョルダーノ・ブルーノが「花の広場」で焚刑にあっています。このブルーノは獄中で著作を著したわけではありませんが、裁判過程の記録は、近代を予告する彼の思想を伺わせるドキュメントとなっています。
面白いものです。ルネサンスを代表するこれらの思想家は、獄舎という閉域から、「無限の宇宙」や「無限の進歩」という近代の輝かしい理念を声高に訴えるのです。近代は獄窓から夢見られたのかもしれません。
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No.97 Re:獄窓の近代
投稿者---森 洋介(2001/04/23
23:23:24)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/index.html
>[……]フーコー的な監獄論を近代の東京の文脈で論じた榎並重行・三橋俊明『<モダン都市読解>読本』(別冊宝島)[……]
『細民窟と博覧会』といふ題で、単行本化しましたね。榎並・三橋共著は初め別冊宝島で三冊出てから、順次改稿の上〈近代性の系譜学〉なる題を冠して単行書にしたのですが、二冊出したのが売れなかったのか、三冊目『記号の警察』(原題『思想の測量術』)が豫告のみで出版されなかったのを、残念に思ってゐます。
それと、まだ明治思想史の研究者であった頃の紀田順一郎が『牢獄の思想』(三一書房、1971)といふのを書いてゐますが、新書本の癖に探すとなると案外見つからない本でして。未だに持ってゐません。 >[……]近代は獄窓から夢見られたのかもしれません。 カンパネラもさることながら、獄中で(反)ユートピアを綴ったといふことならば、サド侯爵も挙げなくては。 ほかにもブランキだのオスカー・ワイルドだの、「獄窓の近代」の系譜を考へてみるのも面白さうです。その詩をホームページのエピグラムにするProsperoさんには釋迦に説法でせうが、日夏耿之介に「獄中文学考」「楚囚文学考」(『サバト恠異帖』国書刊行会)がありましたね。野尻抱影『大泥棒紳士館』(工作舎)――は、チト違ひますか。
楚囚といへば日本でも北村透谷「楚囚之詩」といふ先駆的作品がありました。やはり近代文学は牢獄に発する――?
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No.61 庭園。
投稿者---國府田 麻子(2001/04/18 14:04:45)
皆さまのお話し、大変興味深く拝見させていただいております。 お話しを振り出しに戻すような事を申し上げるようで、申し訳ないのですが、「日本近代文学の中」での「人工庭園」の《系譜》となりますと、夫れの有無は甚だ疑問に思うところです。私は感覚的にしかものが云えず、yamanakaさまや森さまのように実証的なコトは挙げられないのですが、「西洋の庭園(人工)」と「日本の人工庭園」(谷崎や、乱歩の作品にはよく登場しますが、実際はどの様なものなのでしょうか、分かりませんが)を一緒に考えることは、出来ないのではないのか、と考えてしまうのですが(だって、実際にその様なモノ、ありますか?)。 先日、庵主さまが仰有っていた「枯山水」は時代こそ《近代》ではありませんが、「西洋の人工庭園」に「文学上の人工庭園」よりは、より近いのではないでしょうか? 《人工庭園の系譜》は、近代文学においては、(うっすらと見ることは出来ても)ハッキリと「在る」とは私には考えられないのですが、皆さま如何でしょう?? 前回の投稿で「絶対ポオ」などと申し上げておきながら、済みませんが、あくまでも庭園は《生活芸術》だと考えてしまうので。。。 論点がずれたようで申し訳ありませんでした。皆さま、いろいろとお教え下さいませ。
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No.63 庭園のトポス
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/18 19:15:54)
そうなのです。「やはり人工庭園の主題は外来種なのでは」といったことを書いたときに、私も國府田さまと似たような感覚を抱いていました。ヨーロッパの「庭園」の言説は、「伝統」ないし「ジャンル」、またはまさに「トポス」と言えるような規模を持っているのに対して、日本近代文学の場合は、「伝統」というよりは、個人的にも資質的にも近い人々同士の非常に強い直接的な「影響関係」のような気がして、その意味では、全体の中では孤立した主題のような印象をもっていたわけです。ただこの点を具体例で例証するようなことは、私には荷の勝ちすぎる課題ですけど。どなたかに敷衍していただければ幸いです。
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No.69 偽系図書きの辯
投稿者---森 洋介(2001/04/19
22:31:52)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque/
>お話しを振り出しに戻すような事を申し上げるようで、申し訳ないのですが、「日本近代文学の中」での「人工庭園」の《系譜》となりますと、夫れの有無は甚だ疑問に思うところです。
「それをいっちゃあおしめへよ」ですが、おっしゃる通りと存じます。人工庭園の系譜などと言っても日本では精々舶来種の代替物です。 しかしながら、系譜学者とは時として偽系図作りでもあるのです。飽くまで真理を尊ぶ学問に於ては許されざる贋作者かもしれませんが、批評家としてならば認めてよいことではありますまいか。
ボルヘスの「カフカとその先駆者たち」が想起されます。「おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ」。故に曾てはカフカ的に読まれなかったロバート・ブラウニングをもカフカの系譜に入れる藝当が可能だ、と。 それぢゃあニーチェの批判した遠近法的倒錯って奴に陥ってゐるのでは――といふ疑念が起こらぬでもありませんが、かうヌケヌケと揚言されると却って説得力があります。○○の系譜だとか或いは單位観念の設定とかトポスの抽出だとか、固よりこれらは観念(イデア)なのであり、実在ではありません。存在するのは個々のテクストや文物だけであり、それを連ねた系譜とは読者の脳裡にのみ存するわけです(唯名論?)。 即ち、たとひ物的證拠の存在に乏しくとも、ポオの読者である谷崎潤一郎や江戸川乱歩やにおいて、その系譜は意識されてゐたと見做してよいし、それを古典文学にまで遡って見出すこともしてもよいのでは、と愚考します。但しその歴史性(遠近法的倒錯)に自覚的である限りで、ですが。系譜作りとは優れて読者論的領域なのです。
――といふ辯明で、如何でせうか。 ついでながら。先に投稿した「蔵の中」に応じて、佐藤健二『読書空間の近代』を聯想されてゐたのには、お見通し、といふ感がしました。実はあれは昔大学で佐藤健二ゼミにゐた時分に考へてゐたことだからです。爾来、読者論は私にとっての課題です。
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No.70 解釈と作者
投稿者---こば(2001/04/19 23:26:31)
上の「庭園」の系譜の議論はよくわからないのですが、森様の系譜の読者論について伺いたいと思います。 森様は、系譜は読者の解釈に基づいて作り出される、ということを仰っておりますが、それでは、そのとき作者の意図はどの程度「系譜作り」に反映しているのでしょうか?或いは全く反映していないのでしょうか?個々のテキストと読者の解釈のみを「系譜作り」の主眼とした場合、「作者の死」といったようなことが考えられているのでしょうか?
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No.71 Re:解釈と作者
投稿者---森 洋介(2001/04/20
00:06:04)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque/
ご指名でお尋ねですので、お答へ致します。 フーコーのやうに或る意味愚直に「作者とは何か?」と問ふことならまだしも興味ありますが、バルトみたいに「作者の死」を宣言(豫言、断言……etc.)することには関心ありません(尤も蓮実重彦によれば、バルトの場合も「作者の死」といふことが云はれてゐると述べるだけで自らそれを宣言したわけではないと解釈されますが)。 作者は、ただ読者である限りにおいて読者論者の関心を惹きます。ウィムサット流「意図の誤謬」を言ひ立てるつもりはありませんが、「作者の意図」が顧慮されるとしても、それは作品に関する一読者の――最も精読した読者の一人ではあるかもしれませんが――読みとして、検討されます。
創作者にはしばしば書いてしまへばスッキリ、あとは知らないよ――といふカタルシス型が多く見受けられます。これぞ純粋な自動詞としての「書く」の体現でせう。これには興味が無いのです。一方これより少数ながら、「読むやうに書く」タイプもあります。何だか形容矛盾のやうですが、こちらをこそ考へたい。
後者のタイプにとっては全ては既に書かれたものなのであり、自ら書いたもの・書かうとするものも然り。バベルの図書館でもアカシック・レコードでも何でも構ひませんが、謂はば汎記憶空間のうちから読み出したものの転記・引用に過ぎないと観念されます。或いはあらゆる書物は実は唯一人の作者の手になるものであり、その部分を担当したに過ぎない、とか。ここではおのれの独自性や創作力は否認されるでせう。 で、おっしゃる所の「解釈」なるものを、自分以外誰も賛成してくれぬオリジナルな解釈ではなく共同主観性を保有するものとして限定するなら、「系譜は読者の解釈に基づいて作り出される」と言っても構ひません。この「作り出す」は「書く」ではなく「読み-引用する」ことになりますから。 それ以外の作者性(創作主体)に属する機能に就ては、そんなもの存在しないとまでは思ひませんが、関心のある方(作家論者?)が講究すればいいこと、と思ってをります。 ……これでお返事になってをりますか。
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No.84 読者論の共同主観性??
投稿者---こば(2001/04/21 04:33:27)
一方ならぬ御返事有難うございます。更に質問をさせて頂きます。 > で、おっしゃる所の「解釈」なるものを、自分以外誰も賛成してくれぬオリジナルな解釈ではなく共同主観性を保有するものとして限定するなら、「系譜は読者の解釈に基づいて作り出される」と言っても構ひません。この「作り出す」は「書く」ではなく「読み-引用する」ことになりますから。 上の一節について。牽引付会で誠に恐縮ですが、わたくしは神学を勉強しておりまして、とりわけ聖書解釈に興味があるのですが、周囲の人間は聖書を読んで「嗚呼、神様は素晴らしい!」と言って「解釈」が終始してしまうのです。これが困ったことに、注釈書を読んでおりますと聖書学者にも見受けられるのです。即ち聖書を読んで「キリスト様万歳!」というわけです。これは、森様の仰るところの、「自分以外誰も賛成してくれぬオリジナルな解釈」ということになりますか。
勿論、森様や庵主様が取り上げられております読者による解釈の創造性が、自分の「想い」に頼るテキスト解釈、といったようなレベルの低い議論ではないことは重々承知しております。 そこで伺いたいのは、恣意的で自分勝手な「解釈」とは区別される、共同主観性を備えた解釈は、如何にして保証されるのでしょうか?言い換えれば、「書く」解釈と「読みー引用する」解釈はどのようにして見分けられるのでしょうか?どうも森様の議論の流れからしますと、この区別は(少なくとも一義的には)「客観的な」作者の意図や実証可能なテキストの歴史性に基づいているわけではないらしい、と推察する次第ですが、如何でしょう?もしそうであれば、一体この区別は如何にしてなされるのでしょうか?
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No.85 解釈学、神学、読者論
投稿者---森 洋介(2001/04/21
15:49:27)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/index.html
>一方ならぬ御返事有難うございます。更に質問をさせて頂きます。 >
さう一方的に問ひ詰められては堪りません。せめて先づ前提として自分の考へはこれこれかうなのだが、といふ風に述べて戴けませんか。さうすればお考へと拙文との相違相同が対照され、それに応じてもっと答へやうも出て来るのですが。それに既に申しました通り、はなから偽系図書きだと自称する者の言などまともに取り合っては困ります(嘘吐きのパラドックス)。ボケにはツッコミを宜しく(関西式「対話の作法」!)。
>[……]即ち聖書を読んで「キリスト様万歳!」というわけです。これは、森様の仰るところの、「自分以外誰も賛成してくれぬオリジナルな解釈」ということになりますか。
反対でせう。「神は偉大なる哉」式の解釈をする人がそんなにも多数ならば、彼らは共同性を保有するに充分な集団を成してゐるわけではありませんか。無論それとは別に、もっと高度な読みをする解釈共同体だってあるといふことになるのでせうが。 注意すべきは、彼ら各々は自分だけの想ひに浸って読んだつもりかもしれませんが、むしろ実際はそれが多数を占めるほど凡庸で類型的な反応に属するといふことです。――あゝこの作者は〈私にだけ〉語りかけてくれてゐると〈誰もが〉思ふ、これぞ通俗的感傷性を発揮する作品の逆説的構造です(太宰治や尾崎豊あたりでも想起されたし)。
>そこで伺いたいのは、恣意的で自分勝手な「解釈」とは区別される、共同主観性を備えた解釈は、如何にして保証されるのでしょうか?[……]
それを神学の徒がお尋ねになるのですか――神学論争で幾たびも公会議を開いてきた伝統を有するキリスト教神学を専攻する者が、この不信心なる男に? いったい教会は勝手な読みである異端と最も共同主観性を備へた正統的解釈とを如何にして区別してきたのですか。畢竟宗教たる以上、ひとへに神の思し召しによって決定されることになるのでは? それを保證するのはただ信仰あるのみ、でせう? 今更ここで共同性なるものが実在するかを懐疑して、スコラ式に普遍論争をやり直さねばならぬのでせうか。 聖書解釈だけでなく解釈一般を問題にしたいのだ、と? 実際、受容美学から読者論への流れに於ては解釈学の影響が多大だとされます。E.D.ハーシュ、スタンリー・フィッシュ、インガルデン、イーザー、ヤウス、……。彼らの主張は一様ではありませんが、しかし主観的解釈の乱立による無限の相対化を廻避すべく何らかの共同主観性を設定しようとする場合は、伝統(ガダマー)と言ひ解釈共同体(フィッシュ)と云ひ、どうも実体の無い神秘的仮構物に頼る傾向があり、結局、最終審級を神様に委ねるのと同等のやうに感じますが、どうでせう? 解釈学は、聖書解釈学が出自であり、やはり神学の兄弟のやうなものではありますまいか。確か御大ハイデガーの哲学の神学的性格に就てはジョージ・スタイナーの指摘がありましたけれど、ガダマーにもそのケはあるのか? ポール・リクールなんか正にプロテスタント神学者でもあった筈ですが、共同主観性の問題を神抜きに考察し得てゐるのか? ……等々、この方面、疑問符だらけです。これはやはり、こちらが教はりたい所です。
>[……]言い換えれば、「書く」解釈と「読みー引用する」解釈はどのようにして見分けられるのでしょうか?[……]
答へになってゐないかもしれませんが、読者論と神学とが絡む好例があります。ご存知、カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』(みすず書房)。異端審問で焚刑に処せられた粉挽屋メノッキオの話ですが、実はあれ、ロジェ・シャルチエなどの読者論でもよく引かれるのです(『書物から読者へ』みすず書房、ほか)。メノッキオを例に取ると、「書く」解釈と「読む」解釈の別がうまく説明できさうな気がします。 しかしもう長文になるので内容紹介までは致しません。お読みになった方、いらっしゃったら、どうか補足して下さると助かります。どのみち今夜から暫しここの掲示板は使へなくなるさうですから、また明晩以降に。
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No.88 信仰と排他性
投稿者---こば(2001/04/22 16:51:33)
毎度ながら、詳細なご返答有難うございます。
> さう一方的に問ひ詰められては堪りません。せめて先づ前提として自分の考へはこれこれかうなのだが、といふ風に述べて戴けませんか。>
その通りです。失礼しました。では、わたくしの立場から明らかにしてまいりましょう。
私は、「神学学徒」ではありますが、「神学の徒」、ではありません。これは、即ち、神学は勉強しているが信仰は持っていない、という意味です。 それで、もし、聖書解釈の共同主観性を、「神様は私だけに語りかけてくださっている」式の感情的な神信仰に委ねてしまうならば、この手の解釈には神学が必要なくなってしまいます。この手の解釈をする人々とは、例えば、ダーウィンの進化論を完全に否定して、創世記の記述に従って、神様が人間を創ったのだ、と信じたり、イザヤ書50章の「苦難の僕の歌」は来るべきキリストの予言である、と本気で信じたりする人々のことです。この手の解釈をする人々がマジョリティーを占める共同体の信仰が、一つの共同主観性を形成する、ということになるのでしょうか? そもそも、信仰のみの聖書解釈には神学的反省が含まれていません。上の例で言えば、創世記を現実に起こった歴史的事実と捉える前に、異なる時代のイスラエル民族の歴史観を捉えることが必要です。なぜ、信仰を持つ人間が神学を勉強するのか?信仰を持って己の感情的聖書「解釈」に甘んじて満足するのであれば、なぜ聖書の歴史的背景などを勉強する必要があるのでしょうか? 「神学とは何か」という問いなのですが、古代において、共同主観性を自己充足的な共同体内部の神信仰に留めている限りでは、信仰が神学へと発展することはありえませんでした。異端の発生に応じて、信仰を持っている人間(キリスト教徒)にも持っていない人間(異端者)にも当てはまる共同主観性への探求が神学の出発点だったのです。なぜ、異端者が同じキリスト教徒を名乗っているにもかかわらず(例えばグノーシス派)異端者とされるのか。その理由を説明する言葉がヘレニズム的哲学概念を必要としたのは、キリスト教の共同主観性が共同体内部の信仰によっては最早成り立たなかったからではないでしょうか。異端との「対話」が行われたのも、信仰に自己充足しえない神学の根拠が問われたからではないかと思います。(異端との対話については、「デンツィンガー」以下のツリーで庵主様が詳説して下さっております。) 長くなって恐縮です。まとめて申し上げれば、こういうことです。即ち、少なくとも聖書の読者論においては、読者の共同主観性が、神学的に反省されていない読者側の神信仰に終始することはありえない、ということです。 それでは、聖書解釈において、共同主観性は如何にして可能か、という点につきましては、長くなりましたので、また後ほど。
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No.100 解釈学と神学
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/24 19:18:15)
予告された続編がまだのようですので、その間に少し口を挟んでおきますね。 こば氏は、(主観的)信仰と学としての神学との対立を強調して、信仰のみによる解釈では共同主観的な解釈を提示することはできないという主張のようですね。非常に広い意味で取ればそう言えるかもしれませんが、私などは、この種の整理の仕方には多少抵抗を覚えます。 まず、神学を、異端をも含め、普遍的・共同主観的に妥当する解釈の確立をめざしたものと規定することは、正確かどうかというのが第一点です。「神学」(theologia)という用語の成立は、実は思われているほど古いものではありません。おそらく言葉としては、12世紀のアベラルドゥス(あのアベラール)の『神学入門』(Introductio ad theologiam)辺りがかなり初期の用例ということになるのではないでしょうか。しかもその当時ですら、この言葉はかなり珍しいものと受け取られた節があります。この後、「神学」の確立をめぐっての論争が始まりますが、ここで問題になったのは、初期の公会議の頃とは違って、異端にどう対処するかということよりも、むしろ弁証論(哲学)と信仰をどう折り合わせるかということだったと思います。
用語の問題は別にどうでもいいのですが、やはりキリスト教神学においては、共同主観性は基本的に「教会」という共同体になるのではないかという気がします。私自身も、「対話」云々のツリーでは、キリスト教の「対話意識」ということを言いましたが、これは「神学」の自己確立という主題とはとりあえず区別できる問題ではないでしょうか。 もう一点、聖書解釈そのものについても、議論はもう少し複雑であるような気がします。最大の問題は、聖書の意味の多重性という論点です。読解における複数のコードという現代のテクスト論お得意の主題は、ご存知のように、すでに中世では、字義通りの意味(歴史的意味)・寓意的-道徳的意味・上昇的-救済的意味といった仕方で提示されていました。大したものだと思います(敵ながら?天晴れと言いますか)。通常は三重か四重の意味、多い場合では七重・八重の意味が想定されることもあったようです。
さらに(さすがに創世既述は難しいところですが)、旧約聖書は基本的には歴史書の性格を持つわけですから、それを事実の記述として素直に受け取る態度も当然許容されます。旧約の記述を新約の先取りとみなす類の「予型論」的解釈はさらにその上の段階として、歴史的解釈とは区別されますが、その両者は「共に」聖書解釈としては正当なのです。何を言いたいかというと、要するに、聖書解釈は、それ自体の中に意味の多義性を予想しているために、信仰による解釈と、事実にもとづく解釈とは、区別は可能であっても、両者を二項対立的に捉えることはできないということなのです。つ
まり聖書解釈学は、意味の多元性や複数性をそれ自体の中に相当程度に許容するようなものとなっているようです。 しかし、こば氏が最も関心を寄せているのは、聖書解釈自身の「妥当性」、あるいはその正当性の根拠づけという点でしょう。それでは、聖書の多義的な意味全体は何によって保証されるのかと問われることだと思います。しかし、ここにおいてこそ、聖書解釈の根拠づけは、間主観的な意味の妥当性要求とは基本的に異なっているということが見えてくるはずです。中世解釈学の基本を提示した、オリゲネス-アウグスティヌス的な理論を思い出してください。事実的意味・寓意的意味・上昇的意味は、そこでは、肉体・魂・精神という人間自体の構造に重ね合わせられ、いわば精神形而上学的な基礎を与えられていました。つまり、意味の妥当性は、皆がそれに同意するというような間主観的な次元を超えて、むしろ存在論的な次元に根を降ろしているわけです。そしてその存在論的次元を洞察する力が信仰の内に求められている以上、信仰は単に「神は褒むべき哉」式の「主観的な」ものなどではないのです(少なくとも彼らはそのように理解しているはずです)。
だからこそ、「神学」の自己確立の中では、「信仰」と「哲学」が肩を並べて争うことができるのです。しかし、さらに翻って、ではそうした大規模な理論を兼ね備えた「信仰体系」それ自体が「主観的」で、根も葉もないものではないのかと問うことも不可能ではありませんが、それをやりだすと、泥仕合と言うか、あまり生産的な方向には展開していかなくなるような気もします。 それよりも、問題をもう少し現代の方にずらしてみましょう。いま記した中世の解釈学の記述で何かを思い出されないでしょうか。そう、ハイデガーの解釈学です。彼の「解釈学」こそまさに、人間存在論と意味の根拠づけを平行させたものだったと言えるでしょう(当然、その発想原は、彼が若い頃親しんだアウグスティヌスだと言って差し支えないかと思います)。人間存在の解釈構造と存在理解の構造を重ね合わせるというのは、まさにオリゲネス-アウグスティヌス的な発想ではないでしょうか。
これと対照的なのがガダマーです。むしろ彼の場合は、こば氏のおっしゃるような間主観的な意味の妥当性という理解に近いと思います。つまり、師弟関係で結ばれて、一般にも継承関係にあると思われているハイデガーとガダマーのあいだには、根本的にかなり大きな隔たりがあるようなのです。森氏がご指摘のようにハイデガーの裡に神学の痕跡を見ることは十分に可能です。ですがガダマーの場合はどうでしょう。彼の理論は、言ってみれば、古代修辞学のトポス論と近代のヘーゲル的弁証法を適度にブレンドしたものといったところでしょうか。 さて、こうしたことを踏まえると、「聖書解釈において、共同主観性は如何にして可能か」というこば氏の問いは、果たしてどういうことになるのでしょうか。
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No.103 聖書解釈の妥当性
投稿者---こば(2001/04/24 23:16:45)
わたくしが申し上げようとしたのは、確かに仰るとおり、信仰は聖書解釈の共同主観性に関与しない、ということでしたが、庵主様のご意見を拝読致しまして、わたくしの考えている信仰と庵主様が考えていらっしゃる信仰は何かが違う、と直感しました。その「何か」をどこまで言葉にできるか自信がありませんが、聖書解釈の共同主観性の問題も含めて、できるところまで突き進めて見たいと思います。 どの聖書解釈が正しくて、どの聖書解釈が正しくないのか、そしてその「正さ」の根拠はどこにあるのか?例えば、聖書は信仰を持っている人によって正しく解釈され、信仰を持っていない人間には本質的に理解できないのか?それとも、そもそも絶対的な「正さ」の基準なんていうものはなく、どの解釈も各人各様の見え方であって、どれもがそれぞれの「正しさ」を持っているのか? 以上のような問いが聖書解釈の妥当性についてのわたくしの問題意識です。 この問題意識をもう少し敷衍して考えてみますと、神学的省察は信仰の妥当性の根拠への問いに始まる、と主張できるでしょう。庵主様は「神学」という言葉を厳密にtheologiaという言葉で捉えておりますが、確かに言葉の問題です。わたくしの言葉が不正確でありました。わたくしがここで申し上げたい「神学」とは、神学的問題意識といった程度の意味でして、正確には「哲学に基づく信仰の自己理解(或いは自己反省)」という意味です。そして、そういった哲学的反省を備えた神学的意識は、既にパウロがヘブライズム的救済論をヘレニズム世界に広めようとした時点で始まっているのです。そもそもユダヤ教の一派に過ぎなかったナザレ派の信仰が如何にしてヘレニズムでの異邦人世界において妥当するのか?キリスト教はその起源において一般的に考えられておりますような平等主義無差別主義から出発したわけでは決してありません。信仰はユダヤ人だけのものだ、というヘブライズムから出発しているのです。この信仰そのものは一つの共同体内部のものであっても、この信仰は誰にでも当てはまる、と主張するためには、信仰者にも無信仰者にも妥当するような根拠が必要になります。ヘブライズムがヘレニズム世界に受け入れられるためにはヘレニズム的根拠が、即ち哲学的言語が必要だったのであります。
確かに、信仰の根拠の普遍性を主張する動機は信仰に基づいているのですが、信仰のみによっては信仰の根拠は反省しえないのです。その意味で、わたくしは信仰は主観、神学は客観、という図式に(意固地ではありますが)少し拘ってみたいですね。 しかしながら、信仰の根拠の普遍化の流れは、時を経るに従って、信仰とは無関係に進められるようになりました。ここで言う「信仰」とはヘブライズム的救済論に基づく信仰を指します。例えば、マルコにおいて強調されたキリストの痛みはキリストの人間性の証左として捉えられることはあっても、抽象化されて余り重要視されず、それよりはヨハネの「上からのキリスト論」的な神の子としてのキリストの超越性が強調され、神学はむしろ神学的哲学の傾向を強く帯びるようになってゆきました。 聖書解釈の問題も含めて鑑みるならば、オリゲネスの寓意的聖書解釈は、創造性には富んでいても、概念と概念の結びつきが余りに弱い、と言えます。例えば、(この例はオリゲネスではなくアウグスティヌスでしたっけ?)創世記冒頭で神が「我々」と語る場面で、これはキリストの三位一体の予型である、とするような解釈においては、「我々」と「三位一体」の二つの言葉には何ら結びつかねばならない必然性はないのです。個人的な意見ですが、オリゲネスの寓意的聖書解釈は、聖書を基に着想したオリゲネスの独創的連想といった感を免れません(ユングの『変容の象徴』のような)。つまり、寓意的象徴的聖書解釈は「何でもあり」の世界でありまして、余りにも聖書の文脈からかけ離れています。だからこそ、オリゲネスの寓意的聖書解釈が代表であったアレクサンドリア学派に反対して、字義通りの聖書解釈を要求するアンティオキア学派が争ったのではないでしょうか。(わたくしは決して、寓意的解釈がだめで字義的解釈が素晴らしい、と申しているわけではありません。)
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No.104 聖書解釈の妥当性2
投稿者---こば(2001/04/24 23:19:53)
規定範囲を超えてしまったので、分けて上の続きを書きます。 わたくしは意図的に「聖書=信仰=ヘブライズム的救済論」という図式を用いております(我ながら「図式フェチ」に陥りそうで怖いくらいです)。中世の神学=哲学は信仰の根拠の普遍化に成功したが、同時に上の意味での「信仰」から逸脱していった、ということを申し上げております。上の図式だって一つの解釈だろう、という反論が聞こえてきそうですが、それには後に答えることとして、上の「信仰」図式からの神学の甚だしき逸脱の例を、もう一つ、典礼史において述べておきましょう。ミサとはパンとぶどう酒によって象徴されたキリストの血と体に与る儀式のことを意味しますが、このパンとぶどう酒に如何にしてキリストが宿っているのかが中世において問題とされました。というのは、キリストの宿り方の次第によって、ミサの主導権がどこにあるのかが変わってくるからです。トマスは、アリストテレスの形而上学概念を用いて、パンとぶどう酒の「実体変化」説を唱えました。この説によりますと、パンとぶどう酒は実体と属性で分けて考えられ、元々「ただの」パンとぶどう酒であったのが、司祭の「ことば」によってそれらの「実体」がキリストの血と体に変化し、「属性」はパンとぶどう酒のまま残る、という考えでした。こういった考えには、ミサにおける神の救済の約束であるとか、キリストの死と復活を思い起こす、といった民衆が望む救済論が欠けており、そのことを強く主張したのがルターでした。従って、ルターにあってはパンとぶどう酒はミサの初めからキリストの体と血なのであって、それらはキリストの救済の約束を象徴するものである、とされます。ユングマン『古代キリスト教典礼史』がユダヤ教の儀式からその記述を始めているのも、神学的哲学に埋もれてしまった歴史的救済論を聖書の記述から実証的に取り戻そうとする試みがあるからです。
わたくしは、聖書解釈において、信仰の極端な主観化も、神学的哲学の極端な客観化も拒みます。信仰が救済論に拘りすぎている限りにおいて、それは信仰共同体内部でしか通用しません。神学が哲学に拘りすぎている限りにおいて、信仰が忘れ去られ信仰の根拠のみが理論としてまかり通ることにないります(感覚としては、ヘーゲルの「絶対精神」に反対するキェルケゴールの立場が近いでしょうか)。わたくしは、聖書解釈の妥当性は、飽くまで主観的信仰「の」客観的根拠を問い求める態度にあると思っております。先程「聖書=信仰=救済論」という図式を使いましたが、それは、なぜなら元来「聖書」と呼ばれる書物がユダヤ人の信仰の書として書かれているからです。信仰は個々人の問題ですが、ユダヤ人が神信仰について何を考えていたかは客観的に学問によって捉えることは可能であるはずです。そのために近年の聖書学は古典文献学、書誌学、言語学、歴史学、考古学、神話学などの成果を踏まえた上で成り立っているのです。わたくしが神を信じていなくても、ユダヤ人(ナザレのイエスも含めて)が神をどのように信じていたのか、について聖書から読み取そうとすることが、聖書読者論の共同主観性の保証につながる、と考える次第です。 以上の記述は、庵主様のご意見の答えになっているかどうか自信がありません。全般的に、庵主様が中世から現在に続く存在論的解釈学を問題になさっているのに対して、わたくしは主にヘブライズムとヘレニズムの接点にある救済論と哲学の関係を論じておりますので、大分違った趣となってしまいました。主観ー客観の図式主義にしても、それが安易に見えることは重々承知しております。ただ頭が単純なので切り分けて考えないとうまく主張できないのです。もう少し上手い説明はないものか、と。
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No.105 付録
投稿者---こば(2001/04/24 23:24:31)
聖書解釈の妥当性において信仰は関与しない、と言うと言いすぎでしたね。信仰のみを聖書解釈の妥当性(聖書読者論の共同主観性)の基準にすることができない、と言うのが正確なところです。
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No.106 解釈の正しさ?
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/25 01:16:17)
なるほど、やはりこば殿はどこまでも神学「学徒」であるわけですね。少し話しが入り組んでしまいましたが、こういうことでしょうか。こば氏は、古くは異端との論争、学的意識の確立以降は、いわゆるスコラ化(煩瑣学化)に代表されるような神学者内部での信仰の危機など、幾多の曲折を経て形成された神学的営為を、その時代ごとの様相を押さえながら、ある程度客観的に理解するという姿勢を取ろうとする、と。(それに比べると私のほうは、中世的な聖書解釈、とりわけ寓意的解釈を、彼らが立てた理論に即しながら、それを現代的に蘇生させてやろうというような下心があったと言えるかもしれませんね。)
ただ、そのような相違を確認したうえでも、まだ若干の疑問は残ります。こば氏のアプローチについて上に整理したことが正しいとすると、そこでなぜ「聖書解釈の正しさの根拠」が問題になるのかが逆に分からなくなってきます。つまり、信仰と哲学の緊張関係の変遷 ―― 時代ごとに合意の得られる(間主観的な)理解の移り変わり ―― を歴史的に捉えることが眼目だとするなら、問題となるのは、それぞれの時代ごとの間主観性であって、客観的な(あるいはわれわれにとっての)「正しさ」ではないはずだからです。寓意的解釈が「何でもあり」に見えるのは、やはり現代のわれわれから見てそう思えるという側面が強いような気がしてしまうのですが。もちろんオリゲネスの場合は極端で、彼自身の思想はキリスト教世界の正統とは言えませんが、寓意的解釈そのものは、トマスを始め、スコラの神学者もそのまま受け容れている訳ですから。つまり彼らにとっては、それはそれで一応は間主観的な合意が成立していたということになるのではないかと思うのですよ。もちろんそのトマスも、例えばフィオーレのヨアキムのあまりにラディカルな寓意的・預言的解釈には反対する訳ですが、それはまた、そのときどきの合意形成という観点で整理すればいいのはないでしょうか。
要するに、私が理解した限りの歴史的・客観的アプローチは、解釈の「正しさ」という問題とは相性が悪いような気がするのです。そのような理解だと、「信仰」それ自体も、いわば「言語ゲーム」の一種となって、「哲学」や「<恣意的>読解」というそれぞれの言語ゲームとの角逐において何らかの着地点を模索する一つのファクターにすぎないということになるはずなのですよ。その意味では、それぞれの時代で合意の得られた解釈は、少なくともその時代にとって「正しい」というだけで十分のような気がするのですけど。でもどうも、こば氏の論調からすると、やはり「信仰」、あるいは解釈の「正しさ」というものに、もう少し特別な色合いが付いているような気もします。つまり、解釈の「正しさ」と「妥当性」のあいだでこば氏自身が多少揺れているのではないかと。その辺の逡巡が、「付録」の文言に現れているといっては穿ちすぎでしょうか。 別に詰問しているわけではないですし、大分ディープになってきたので、もうこの辺で切りあげてもいいと思いますが、何かありましたら遠慮なくどうぞ。
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No.109 作者論へ戻る
投稿者---こば(2001/04/25 13:25:55)
どうも聖書解釈の妥当性、客観性という問題に、神学的省察の発生と発展、という主題を取り入れたことが議論を複雑にしてしまったようですね。聖書解釈の妥当性はそれぞれの時代の神学の間主観性なのか、客観性なのか、確かに歴史を視野に入れると「客観性」の議論は分が悪いでしょう。 そこで、ひとまず神学的省察の発展という歴史の主題は措いておくことにしまして、聖書解釈における「作者の意図」とは何か、という点を考えてみたいと思います。 例えば、次のような手紙が来たとしましょう。「来る日曜日、7時から飲み会を開催。」この手紙を読む人は、「常識的に」考えてここで書かれている「7時」を夕方の7時と考えるでしょう。この場合の「常識」とは、「酒は夜飲むものだ」という現代の日本の文化状況において拘束された「作者の意図」を意味します。このような状況拘束性=文脈を読む側が自然に読み取ることができるとき、手紙が「正しく」理解された、と考えられそうです。 勿論、手紙の文面だけを捉えるならば「7時」を朝の7時と解釈することは可能です。それ自体は全然間違っていません。文面だけ追っていてもそれが「間違っている」ということはわかりませんし、逆に、むしろその解釈は独創的なものかもしれません。ここから「朝酒はうまいものだ」という別の文化状況を生み出すことも可能です。「朝酒を飲んだっていいだろう」という読者の意図に基づいて手紙を解釈することは全く何も産み出さない、とは言えないのです。但し、作者が伝えたいことは恐らく伝わっていないのではないでしょうか。
わたくしが申し上げたいことはこういうことです、即ち「聖書の信仰のみによる解釈は、聖書作者の意図への考察を失わせる」。聖書作者とは誰か?ユダヤ人です。聖書とはユダヤ人の信仰を表現する書物であると同時に、先祖から伝わった信仰を後世に更に伝えてゆく信仰伝達の書物であります。作者が何かを伝えようとするならば、その伝えようとする状況がどのようであったかを考える必要があります。当時においては「常識」と考えられた手紙の言外の文化状況は今日失われているからです。 「作者の意図」を考察することだけが創造的な解釈だとは言えませんが、20世紀に入って初めて作者が置かれている文化状況への考察が始まった、とは言えます。所謂「生活の座」への考察です。この考察は現代という時代における間主観性に過ぎないのかもしれません。しかし、少なくとも現代に至るまで「作者の意図」(ヘブライズムという状況拘束性)への考察がなされてこなかった、とは言えます。それまでの聖書解釈は、作者が置かれた文化状況を考慮せずに、己の時代の文化状況に即して為されてきました。言ってみれば、ドイツ人が上の手紙を受け取って、「酒は夜飲むものだ」という日本の文化状況を無視して、「この飲み会は朝開かれるに違いない、自分達がそうなのだから」という結論を下すようなものです。この解釈が創造性がないとは言えませんが、しかし当初書かれた「意図」から離れた別の文脈に変えられてしまったことは否めません。 森様に対して読者論の展開を求めたのも、もう少し「作者の意図」の実在性を認めてもよいのではないか、というわたくしの下心があったのかもしれません。
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No.116 コンテクストと「作者の意図」と
投稿者---森 洋介(2001/04/27
03:21:00)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/index.html
>森様に対して読者論の展開を求めたのも、もう少し「作者の意図」の実在性を認めてもよいのではないか、というわたくしの下心があったのかもしれません。
や、それならさうと先に言っていただければ話が早かったでせうに。
>[……]作者が何かを伝えようとするならば、その伝えようとする状況がどのようであったかを考える必要があります。当時においては「常識」と考えられた手紙の言外の文化状況は今日失われているからです。
>「作者の意図」を考察することだけが創造的な解釈だとは言えませんが、20世紀に入って初めて作者が置かれている文化状況への考察が始まった、とは言えます。[……]
「言外の文化状況」「作者が置かれている文化状況」とは所謂コンテクスト(文脈)ですね。それを「作者の意図」と同一視するのはいかがなものか。 なぜなら、己の置かれてゐる文化状況(コンテクスト)といふものは、自らの「意図」によっては如何とも動かし難いからです(被投性?)。むしろ「常識」に逆らって「七時から飲み会ってのは、俺は朝七時のつもりで書いたのだ」と主張するのが「作者の」意図ではありませんか。 実際、テクストはコンテクストの中にあって書かれたものです。作者もそのことを意識するでせう。しかしそのコンテクストとは読者がどう読むかといふ「期待の地平」(ヤウス)であり、くだけた言ひ方をすれば、「他人(=読者)の思惑」を気にする、といふことです。リースマンなら「他者志向」といふ所。それは「作者の」意図といふやうな、創設的主体に帰せられるものでせうか。
察するに、おっしゃる所の従来の聖書解釈は、あまりに己のコンテクストにおいて読解してきたのではありませんか。つまり読者は自分の置かれてゐる現代といふコンテクストのもとでテクストを読み解き、それが書かれた当時のコンテクストを無視する。現代の視点に囚はれて過去を見ること――「遠近法的倒錯」と言ってもよいでせうが――、ここに語の本来の意味でのアナクロニズムが生じます。即ち、中世の人が古代人を描く場合、中世風の服裝をさせて怪しまなかった類です。近代歴史学の実證主義がこの誤謬を改めましたが、かうしたアナクロニズムは、物證を示しにくいテクスト解釈の次元ではなほ気付かれないまま根強く残るのです。
コンテクストあってのテクスト、これは読者論こそが強調したいことです。読者論者は、当時どのやうに読まれたかといふコンテクストを飽くまで当時のものとして歴史的に対象化すると共に、翻って己の読解を支へるコンテクストについても、即自に自明とすることなく自覚すべき対象として内省しなければなりません。従って読者論者にとっては、コンテクストの歴史的な差異は看過し得ないものです。またそれは自分の主観的読みがいかに同時代のコンテクストに拘束されてゐるかを知ること、謂はば自らを創造的解釈者ではなく読者の一人として位置づけることです(勿論、読者は一様でなく多様な類型がありませうが)。その時こそ、読者論者の記す解釈は「読むやうに書」かれることになりませう。 知らないのでお尋ねするのですが、聖書解釈学では20世紀になってはじめて当時の文脈を重視するやうになったのですか。そしてそれを「作者の意図」を考慮することと呼ぶのでせうか。だとしたら、それは語弊が多く、他分野での前車の轍を踏むことになりはしないかと危ぶみます。
例へば、ニュークリティシズムは「作者の意図」こそ排除したものの、作品の聖典化を招くものでした。聖典は神の声を記したものといふ観念がある以上、作品に対し父なる作者を再度呼び出したくなるでせう。戦後日本の文学研究においてはニュークリティシズム式テクスト主義に対応する三好行雄らの「作品論」が、結局「作家論」に帰着した事実があります。あるいはオースティンらの言語行為論においては、文脈を規定する「常識」「慣例」に注目したのはよいが、それを「話者の意図」の解明と称してしまってゐました。いづれも、作品や発言の父たる特権的主体を設けるわけで、曾ては「神」と呼んだものを「作者」「話者」と言ひ換へただけではありますまいか。 これを廻避するために間主観性ならぬ「間テクスト性」の概念があります。それは謂はば「メタ-コンテクスト」です。この概念を導入することで、一テクストだけに閉じ籠もるニュークリティシズムの弊を避け得るとともに、「作者の意図」も亦、大いなるコンテクストのもとでの一テクストと見做せるわけです。
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No.121 コンテクストと作者の意図
投稿者---こば(2001/04/29 00:11:15)
森様も庵主様もコンテキストを「作者の意図」と言い切ることに対して疑義を呈しておられるようなので、お答えしたいと思います。 森様は、「飲み会は夜開かれるものだ」という日本の文化状況(常識)に逆らって、むしろ「七時からの飲み会ってのは、俺は朝七時のつもりで書いたのだ」と主張するのが「作者の」意図である、と書かれております。恐らく、自らの「意図」によっては如何とも動かしがたい、己の置かれている文化状況に対して、敢えて逆らおうとする「つもり」こそが「作者の意図」ではないか、ということではないでしょうか。 確かに、朝七時の「つもり」で書いている作者の意図は、日本の文化状況(常識)という文脈からは逸脱しております。しかしながら、何の理由も何の脈絡もなしにそのような意図が突然生じるというよりは、そこには別の文脈がある、と考えられるのではないでしょうか。例えば、その作者は伊太利亜帰りで「酒は夜飲むものだ」という日本の常識に対して違和感を覚えた、だから日本の常識に逆らって敢えて飲み会を朝七時のつもりで書いた、とかいった具合に。つまり、「作者の意図は、その人が生きてきた何らかの文脈によって規定される」と言えるでしょう。だからこそ、作者が生きてきた文脈とは何か、を捉えることが、作者の意図を捉えることだ、とわたくしは考えたいのです。 因みに、わたくしは、作者の意図を中心としたテクスト解釈を、伝達を目的としたテクストにのみ適用しています。文学などは、大方、伝達を目的としたテクストというよりは、むしろ己の世界観を表明する自己充足的テクストである、と考えております(テクストのこの区別について、また、聖書は前者に属する、といった考え方について疑問を抱かれる方は、「伝達と表明」のツリー以下にご意見をお書き下さい。)例えば、『虚構船団』における作者の意図とは何か考え出そうものならそれこそ気が狂ってしまうだろうし、それ以前に「そんなことこっちの知ったことではない」と(庵主様ならずとも)考えることでしょう。
ですが、伝達を目的としたテクストに限って言えば、コンテクストを、読者がどう読むかという「期待の地平」として捉えることには抵抗を感じます。というのは、もし森様が「他者志向」という言葉を「読者の解釈に委ねる」という意味で使っていらっしゃるならば、そもそも人間の伝達が困難になってしまうからです。つまり、自分に何か「伝えたいこと」があって、その「伝えたいこと」を言葉に発して、その言葉が相手の解釈次第でどのようにでも捉えられるのだとすれば、一体、人間によるコミュニケーションが不可能になってしまうからです。ですから、伝達を目的としたテクストに限って言えば、コンテクストは「作者の」意図という創設的主体に帰して考えたほうがよい、と思います。 「従来の聖書解釈」についての森様の御推察には非常に共感を覚えました。とりわけ、「現代の視点に囚われて過去を見ること」(アナクロニズム)についてのご指摘は全くそのその通りだと思います。
従来の聖書解釈は、余りにも己のコンテキストにおいて、とりわけ己の信仰において読解しすぎていたのであり、その結果、比較的物証を示すことができるテキスト解釈の次元においてすら、アナクロニズムが根強く残っている有様です。 「比較的物証を示しやすい」と言えるのは、聖書の場合、現代のテクストと比べると、明らかな諸々の矛盾を指摘し易いからです。例えば、単純に記述される数の計算が違っていたり、文章の主語が途中で入れ替わったり、といったことです。そういった素朴な矛盾点の指摘から聖書がどのような時代背景の下に構成(或いは校正)されていったか、という聖書の様式史への研究が始まったわけです。 それまでは、各々の時代の視点から聖書が解釈されてきた、と言えます。代表的な例が19世紀の「イエス伝」研究です。福音書からイエスがどのような人物であったか、という一種の伝記を書こうとする試みが19世紀を通じて為されてきました。シュトラウス(D.F.Strauss)は『ドイツ民族のイエス伝』(1835)を書くに当たってヘーゲルの弁証法に従って書いておりますし、ルナン(J.E.Renan)の『イエス伝』(1863)は当時の聖書学、文献学を知り尽くして書かれたものの、心理描写が多く、倫理的にイエスを解釈しており、結局は自分の好みで「史的」イエスを描いております。
そういった聖書から直接史的イエスを析出する試みが反省されて、謂わば聖書を研究するに当たっての方法論が、20世紀に入って確立されます。上述しましたように、福音書内の諸々の矛盾点から、福音書はイエスが死んだ当初から存在した伝承断片が編集された書物であることが説かれる様になりました(ブルトマン『共観福音書伝承史』)。そこでは、各伝承断片がどのように纏められているかを分析することによって、どのような状況の下にどのような意図で編集されたのかが問われるようになりました。そのような聖書が編集された時代状況のことを「生活の座」(Sittung in Leben)といって、原始教会の編集意図が窺われるわけです。例えば、最後の晩餐の描写は、原始教会の典礼の様子が描かれており、故に原始教会が典礼を権威付けるために書いた、といったように。 確かに、森様が仰るように「作者の意図」とはっきり名づけられているわけではないのですが、20世紀に入って、少なくとも聖書が書かれた当時の時代背景を「生活の座」という言葉で考えるようになったことは確かです。 森様。わたくしにも質問されてくださいませ。「作者」「話者」という特権的主体を設ける弊を避け、「作者の意図」もコンテクストの下での一テキストと見なせることができる、「間テクスト性」が如何なる概念なのか教えてください。
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No.125 Re:コンテクストと作者の意図
投稿者---森 洋介(2001/04/29
12:20:38)
http://y7.net/bookish
>確かに、朝七時の「つもり」で書いている作者の意図は、日本の文化状況(常識)という文脈からは逸脱しております。しかしながら、何の理由も何の脈絡もなしにそのような意図が突然生じるというよりは、そこには別の文脈がある、と考えられるのではないでしょうか。[……]
その通りです。私も先の投稿で「自分の主観的読みがいかに同時代のコンテクストに拘束されてゐるかを知ること」と記してゐます。ここに異論ありません。
>[……]つまり、「作者の意図は、その人が生きてきた何らかの文脈によって規定される」と言えるでしょう。だからこそ、作者が生きてきた文脈とは何か、を捉えることが、作者の意図を捉えることだ、とわたくしは考えたいのです。
ここで立場を異にします。「作者の意図」と作者の意図を規定する文脈と。両者は別物であるのに、何だか混同なさってをられませんか。後者の探究はもはや読者論の領域に入ってゐます。作者を或るコンテクストを共有する読者の一人として捉へることだからです。
>ですが、伝達を目的としたテクストに限って言えば、コンテクストを、読者がどう読むかという「期待の地平」として捉えることには抵抗を感じます。というのは、もし森様が「他者志向」という言葉を「読者の解釈に委ねる」という意味で使っていらっしゃるならば、そもそも人間の伝達が困難になってしまうからです。[……]
誤解してをられます。そもそもリースマン『孤独な群衆』もそんな意味で「他者志向」といふ概念を提出してゐません。この場合、作者は読者がどう読むか(自分がどう読まれるか)を豫期しつつ書く、といふ意味です。作者は多かれ少なかれ読者の気持ちになって書くものであり、そこで想定される「読者」は、己れの想定である以上「期待の地平」を共有してゐます。從ってそれは豫想もしなかった突拍子もない読みをするやうな読者、即ち、レヴィナスとかのフランス現代思想で云々する意味での「他者」ではありません。また「読者に委ねる」どころか読者の反応を作者側で豫め統御せんと努めるからこそコンテクストを意識するわけです。
>森様。わたくしにも質問されてくださいませ。「作者」「話者」という特権的主体を設ける弊を避け、「作者の意図」もコンテクストの下での一テキストと見なせることができる、「間テクスト性」が如何なる概念なのか教えてください。
「間テクスト性」で檢索をかけませう。下記などいかが。
山口裕之:インターネット講座「メディア・情報・身体―メディア論の射程」
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~yamaguci/inet_lec/lec12/98med12.html#intertxt
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No.128 テクストの不可解さ
投稿者---こば(2001/04/30 05:22:59)
「間テクスト性」のご教示有難うございました。 「作者の意図」とは、「作者」が一読者として他の読者とコンテクストを共有しようとすること、であり、また、コンテクストとは読者自身の時代拘束性ということになりましょうか。 上のように捉えたとき、読者が出会う「テクストの分からなさ」というのはどう考えればよいのでしょうか。どうも「作者」自身が読者にとって「他者」であるわけでもなく、テクストが読者にとって「他者」であるわけでもなさそうです。読者がテクストに対してコンテクストを見出したり見い出せなかったりするのはどういうわけになるのでしょうか。読者論が「他者性」を抜きにしてテクストの「分からなさ」をどう説明するのか教えていただけませぬか。 読者が、テクストにおいて、「他者」としての「作者」に出会う、とかいう話なら至って明快なのですが。。 この投稿にコメントする 削除パスワード --------------------------------------------------------------------------------
No.130 Re:テクストの不可解さ
投稿者---森 洋介(2001/04/30
09:48:14)
http://y7.net/bookish
>「作者の意図」とは、「作者」が一読者として他の読者とコンテクストを共有しようとすること、であり、[……]
ううむ微妙に違ふ気が……。しかし話が込み入りますから、今は大体さう思っておいてもいいでせう。
>[……]どうも「作者」自身が読者にとって「他者」であるわけでもなく、テクストが読者にとって「他者」であるわけでもなさそうです。[……]
説明が足りなかったやうです。或いは、通じやすいかと思ってリースマンの「他者志向」といふ類型を挙げたのが却って混乱させてしまったやうで、すみません。 先に申したのは、作者が豫期する「読者」は、それが作者の想定である限り豫想もつかないやうな読みをしてくる「他者」としての読者ではない、といふだけのこと。作者の観念する「読者」ではなく実在の読者であれば、作者にとって「他者」であるやうな場合は幾らでもあるでせう。但しその「他者」とはリースマンがother directedといふ場合とは意味が異なります。区別するため、リースマンの用語の方は「他人志向」と言ひ直しませう(デイヴィッド・リースマン、ご存知ですよね?)。
>[……]読者がテクストに対してコンテクストを見出したり見い出せなかったりするのはどういうわけになるのでしょうか。読者論が「他者性」を抜きにしてテクストの「分からなさ」をどう説明するのか教えていただけませぬか。 >
読者が、テクストにおいて、「他者」としての「作者」に出会う、とかいう話なら至って明快なのですが。。 テクストの「分からなさ」は、単に、コンテクストを異にする場合、作者と読者とが文脈を共有しない場合に生じる、と考へればよいのでは。勿論、そのコンテクストを異にする者を「他者」と呼んでもいいでせう。但し「他者」だからテクストを理解しないといふのは、循環論法で説明にはなりますまい。そもそもテクストを理解しない者を「他者」と称したのですから。 まさかこの上さらに「ではなぜコンテクストを共有しないのか」なんて問ふのはご勘辨ください。それはケース・バイ・ケースで一般論としては答へやうがありません。
ついでにいへば、「読者が、テクストにおいて、「他者」としての「作者」に出会う」ことはまづ望めません。読者が読み得るのは既知のもの、既知の枠組内に收まるものだけです。テクストに於て何らか未知なるもの――他者性――に触れたとしても、それは読まれた瞬間、既知に転じてしまふのです。勿論その時には読者の既知の枠組(コンテクスト)の方も拡がってゐませうし、だからこそ未知のものが読み解けるやうになったわけでせうが。
「他者」とは何か――それが了解できてしまったのならもう他者の他者たる所以(他者性)は喪失されてゐる時であり、ちっとも他者ではありませんやね。 この辺、もうスレッドを改めた方がいいのかもしれません。理論的になほ講究するなら、私ごとき到底その任に堪へません。間テクスト性云々にしても、精確を期すならジェラール・ジュネットに就いた方がいいでせう。あるいは読者論的領域への導入として、ウォルター・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)やイリイチ&サンダース『ABC――民衆の知性のアルファベット化』(岩波書店)等はいかがですか。イリイチは司祭だしオングはイエズス会士ですから、神学学徒の眼で読めばまた別な興味があるかとも存じます。
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No.132 ありがとうございました。
投稿者---こば(2001/04/30 11:57:43)
これまで様々な御教授御鞭撻有難うございました。 ひとまずわたくし自身が「読者論」の読者とならなければならない地点に達したようなので、これまでの森様の御教授に従って本を探してみようと思います。 わたくしとしては「出直し」ということになりますが、他の方々で更なる「読者論」を展開なさりたいかたは是非書き込んでくださいませ。
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No.120 「読者」論へ戻る
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/28 23:44:05)
「作者の意図」ということについての私の違和感は、森さまが適切に整理してくださったこととほぼ重なりますので、あまり繰り返すことはしません。「作者の意図」という、心理的な実在物を想定させるような物言いは、やはりいまの文脈では、あまり得策ではあるまいということを付け加えるにとどめます。 後から追加された、テクストの二つのタイプ(伝達を目的とするタイプと、己の世界観を表明するタイプ)という考えは、さらに受け容れにくいものです。どのような解釈が適切かということが、テクストそのものによって決定できるというような発想は、さまざまなテクスト理論を経たすれっからしの現代の批評理論からは到底認められることはないでしょう。しかし、テクストがそれ自体として固定した意味を持っているといったことを主張するのがこば氏の本意ではないとも思います。察するところ、やはり聖書というテクストがそれ自体でどうあるかということよりも、聖書テクストをどう扱うかという問題の方に力点があるのではないでしょうか。つまり、聖書がそれ自体として、「伝達」として読まれることを「意図」しているというのではなく、こば氏、あるいは現代の聖書学が、聖書をそのようなもの「として」読もうとしているということに尽きるのではないか。文学テクストを聖書のように読むこともできれば、聖書を文学テクストのように読むこともできる。そうした読みを妨げるものは何ものないと言ってはいけないのでしょうか。
要するに、これもまた読者の問題として、読者論へと向かうのであって、やはり作者論に戻ることはないと言えるのでは? しかし、そうなると再び読者中心的で恣意的な解釈が防ぎきれないと仰るかもしれません。作者の意図の代わりに、読者の意図を持ち出すような議論こそが大いに問題なのだと。 確かに、バルトなどが、「作者の死は読者の死によって贖われる」という仕方で揚言した「読者の誕生」に対抗して、もう一度「作者の誕生」をいってバランスを取っておきたいという感覚は分からないでもありませんが、ありていに言うと、「作者の死」の後では、実は、読者も無傷ではいられないのです。簡単に言うと、作者の死は、心理的実在としての読者の死を「ともなわなければならない」とすら考えます。残るのは一種の解釈空間、あるいは森さんが以前使われた「汎記憶空間」としてのテクスト世界だけであって、そこでは、心理的実在としての読者も存在しないと考えたらどうでしょう。その点で、上の森さんの言葉を使うなら、作者中心的理解も、読者中心的理解も、「大いなるコンテクストの中の一テクスト」に対するアクセントの置き方の違いにすぎないと。つまり、テクストをどのように扱うかという問題も、読者の「意図」などではなく、テクストの扱い、あるいはコンテクストの取りかたの一つのありようなのではないでしょうか。テクスト・コンテクストの広がりの中で、布置の取りよう如何によって、いわゆる読者中心的解釈も作者中心的解釈も、その空間の中では成立しうるが、それらはそのテクスト空間外部の何らかの実在(読者・作者)によって支えられているわけではない。その意味で、そのあいだの客観的な優劣関係は問題になりようがない。こう言い切ってしまうのは、あまりに相対主義的すぎるでしょうか。如何でしょう。
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No.122 伝達において想定される「心理的実在物」
投稿者---こば(2001/04/29 02:39:07)
庵主様はテクスト解釈において作者どころか読者すらも「心理的実在物」として徹底して拒否されるのですね。 ですが、庵主様は例えばこの掲示板の「お知らせ」において如何なる読者も想定されていないのですか。或いは、「テクスト解釈においては、『作者』という心理的実在物を想定することなく、テクスト自体を『汎記憶空間』と捉える」と庵主様が仰るとき、読者をある一定の方向の解釈へと導こうと言葉を選んでおられるのではないですか。もし読者にどう解釈されても一向に構わないのであれば、どうして「AではなくB」ということをテクストに提示するのでしょうか。そういったことは、ある特定の「心理的実在物」としての読者を想定しない限り不可能だと思うのですが。つまり、書かれたものを全てテクストと呼ぶとするならば、日常において往々にして、(誰かを読者として想定して)誰かに何かを書く、そういった種類のテクストを我々は日々生み出しているのです。もし読者を想定して書かれるテクストがあるとするならば、同様にして作者を想定して読まれるテクストも存在するはずでしょう。ですから、あらゆるテクストを「汎記憶空間」として捉えることには無理があると思うのですが。 ただ、聖書を絶対的に伝達を目的としたテクストとして分類しなければならない理由は無い、というのは仰るとおりです。差し当たって、聖書を伝達を目的としたテクストと捉えない限り生産的な議論には発展しない、と申し上げておきましょう。「生産的、非生産的」という尺度自体、一つの解釈に過ぎないだろう、と言われるかもしれませんが、そもそも信仰のみによる聖書解釈、作者を想定しないで己の神信仰の中でのみ発展してゆく解釈が「生産的な」議論に繋がらない、と言えるのは、少なくとも今日においてはそのような解釈が安易な相対主義に繋がるからなのであります。
つまり、「信じたい人間が信じたいことを信じたように信じればよい」と言うのであれば、「俺は信じたいことを信じているのだから放っておいてくれ」と言われればそれ以上議論は発展しないのです。勿論、そのように信じることが聖書解釈をして「存在論的次元」にまで発展するならまだしも、せいぜい大勢の人間が信じ込みやすい大衆的で通俗的な「人気取り」の聖書解釈か、自分の感情に浸って他の誰にも通じないような自己陶酔的な聖書解釈が生まれるのが関の山でしょう。自己満足でもよいではないか、と考えるなら、それは完全な相対主義に陥りますし、相対主義でもよいではないか、というのであれば、議論は如何なる着地点も見出せません。 それならば、根拠をもって「これこれこういう文脈から作者はこう伝えようとしているのではないか」と言える方が、つまり諸々の根拠によって解釈の何が「正しく」何が「間違っているか」指し示せる方が、遥かに学問としての発展性があるのではありますまいか。
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No.123 付録2
投稿者---こば(2001/04/29 03:08:43)
或いは、作者がテクストの中に「心理的実在物」としての読者を想定することも、「大いなるコンテクストのもとでの一テクスト」ということになりましょうか。その場合、「汎記憶空間」としてのテクスト理論を書いておられる庵主様はどこにおられるのでしょうか。誰かが何かを書くことも、誰かが何かを読むことも無ければ、そう仰っている庵主様ご自身がどこにもおられないことになる。嘘吐きのパラドックスでしょうか。少なくとも書評『思想史の中の他者』での、「庵主様が書かれておられる」(?)「近代における自己完結した表象空間」の、テクスト理論バージョンであることは間違いありますまい。
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No.124 コンテクストの取り方次第
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/29 11:51:49)
「作者がテクストの中に心理的実在物としての読者を想定することも、大いなるコンテクストのもとでの一テクスト」ということで一応は構わないのですが、もう少しだけ敷衍しておきましょうか。 テクスト同士が引用の織物(まさにテクスト)を作り上げる巨大なコンテクストしか存在しないという言い分は、最も原理的な言い方であって、そこに至るには、もちろんさまざまな段階や分岐があると思います。学問的言説というのもそのひとつですし、日常的な「意思」伝達というのもその一つでしょう。学問的言説という言語ゲームにのったうえで話が進行して要るときには、そのゲームのルールに則さなければいけないというのは当然のことですし、日常言語的な伝達のゲームをしているときには、それなりのルールがあるのも当然でしょう。ただし、その言語ゲームのありかたは言語ゲーム自体が決めているのであって、一つのテクスト固有の性格というようなものでもなければ、ゲームの参加者の「意図」というようなものでもありません。さらに、それらの言語ゲーム間の優劣を決めるような高次のルールは存在しないということを、私は言い「たかった」のです(これは「意図」を問題とする言語ゲーム)。
ですから、おそろく巨視的な目で見れば相対主義と言えるかもしれませんが、それは「なんでもあり」ということとは違うのです。聖書を歴史テクストとして読む読解に対しては、その同じ土俵で応答をしなければならないのは当たり前であり、そこで何か信仰を引き合いに出すなどということは、文字通り「論外」なのであって、お話になりません。私が想定しているのは、「話」として成り立っているそれぞれのゲームのあいだの関係なのであって、一つのゲームのうちに起こる多数のルールの混同ということではありません。それを拒絶する点では、こば殿と何ら変わることはないと思いますのですけど。 「この汎テクスト理解を記述している者自身はどこにいるのか」という問いは、話をさらに複雑にしてしまうので、これは先送りしておきます。まずは、ある意味で実践的な問題(テクスト理解の「正誤」など)に関わる上記の理解にはどう反応されますか。
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No.131 ルールのルール性?
投稿者---こば(2001/04/30 11:45:47)
例えば、庵主様が「お知らせ」によって「伝達」の言語ゲームを望んでおられるときに、誰かがその「お知らせ」を読んで地球滅亡の暗号を読み取ったとしましょう。つまりその読み手は「暗号」の言語ゲームのルールを持ち込んだとすると、庵主様にとってはその読み手は「伝達」の言語ゲームの「ルール違反」ということになります。何しろ、「伝達」言語ゲームという同じ土俵の上で応答していないわけですから。そこで、その読み手に、「自分は『実は』掲示板の停止を『意図』した(伝えたかった)のであって、地球滅亡を『意図』していたわけではない」と言ったとしましょう。しかし、その読み手にしてみれば、そのように言われることは、「暗号」という言語ゲームに「伝達」という別の言語ゲームのルールを持ち込まれることによって「ルール違反」を犯している、と映りはしないでしょうか。 言語ゲームの在り方は言語ゲーム自身によって決まる、と庵主様は仰っておりますが、言語ゲームが排他性とルールを伴って言語ゲーム「として」理解されるのは何によってなのでしょうか。言い換えれば、ある言語ゲームにおいてルールは守らなければならない(何かが「正しく」なければならない)ものであるならば、そのルールの実効性はどのように保証されるのでしょうか。ある言語ゲームに様々なルールを混同することを斥けても、ある言語ゲームに別の言語ゲームを持ち出すのであれば話は余り変わらないし、そこには「守らねばならない」という拘束性を伴ったルールが余り意味をなさないように思うのですが。
更には、これはやはり「作者と読者の不在を訴えている者自身はどこにいるのか」、という問題に繋がるかと思うのですが、各々の言語ゲームには各々の言語ゲームの諸々のルールがある、と仰っている庵主さま自身はどの言語ゲームのルールに従っているのですか。「汎記憶空間」としてのテクストという原理を持ち出して、様々な言語ゲームの諸々のルールはこのテクストの「解釈空間」においては相対的である、と仰っているわけですから、諸々のルールについてのルール(メタルール)を定めてしまっているように思われます。これは「高次のルール」に当たるのではないですか。この「高次のルール」があるからこそ、諸々のルールを相対的に捉えることができるのでしょう。
どうもここまで書いてみると、ニーチェの力への意志、闘争、等しきものの永劫回帰、といった先の議論と非常に似通ってきていることがわかります。「力への意志」において「己こそが真理である」(拘束力を伴ったルール)と主張されておりながら、諸々の力への意志が互いに「闘争」することによって相対化されてゆく(言語ゲーム間の関係)。更に、諸々の力への意志の間の闘争がどこで捉えられるか(諸々のルールを記述する者自身はどのルールに従っているのか)、について鳥瞰図的な新たな客観性(メタルール、高次のルール)を持ち出さないために、ニーチェは「等しきものの永劫回帰」を唱えたのでした。力への意志が己との差異を見出しつつ再び己自身へと帰ってゆく、ということになりましょうか。重要なのは、記述と現象の場を常に一つにしなければならない、ということです。
さて、庵主様は「等しきものの永劫回帰」といった概念装置をテクスト理論に当てはめようとされるのでしょうか。以前庵主様が予告なさった「遠近法における視点の揺らぎと複数性」という論点も含めて、「汎記憶空間」としてのテクストを記述する者はどこにいるのか、ご教授願います。
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No.133 ルールの合意
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/30 13:53:34)
暗号読解というゲームと意思伝達のゲームは、双方が双方にとって、ルール違反と映るというのはまさにその通りで、それは違うコンテクストに属しているものが、テクスト論にとっては「他者」となるという議論と同じです。これは一応そのくらいで処理できる(処理しておいてよい)問題だと思います。 問題になるのは、ルールがどこで成り立っているか、あるいはどこで成り立っていると認知されるかというほうにあるでしょう。この点でも、こば氏はどうしても実体的(そういって悪ければ古典的)な理解に立ってしまうようですね。ルールは参加する中で会得されるしかない訳で、あらかじめ何らかの規約書を読んで納得づくでゲームに入っていくというようなものではありません。言語ゲームということでウィトゲンシュタインついでに、「規則は使用である」というのを思い起こしても良いでしょう。
それではあまりにも漠然としていると仰しゃるなら、ここでもう一度、最初こば氏が展開した間主観的な合意という話しを持ち出しても良いかもしれません。間主観的な合意によって承認されるのは、個々の事実や意味ではなく、そこで従われるべきルールなのだと言ってはどうでしょう。つまりルールとは、参加者を外部から拘束する高次の審判基準などではなく、自分たちで形成しながら自分たちで守っていくようなものではないでしょうか。ゲーム自身がルールを決めるというは、内実を明かせばそういうことになっていると思います(解釈学的に理解された言語ゲーム論)。したがって、ルールの相対性というものも、同じルールでやっていたはずなのに、どうもそれが上手くいっていないようだとか、すれ違いが生じているらしいというかたちで、同じゲーム内で見抜かれる以外にはありません。 一つ一つのゲームはこのようにして成立している以上、他の言語ゲームとの関係も、アプリオリな排除というようなものではありません。先の暗号と伝達の例でいうなら、この二人は各人のゲームに従う限り、互いに互いを無視するしかないでしょう。別々の世界に生きているようなものです。ですが、伝達のゲームに従った当人が、預言として読んだ人に向かって「自分の意図はそうではなかった」と修正をするなら、そこでは新しいゲームが始まっています。説得なり宥和なりの新しい大文脈に入り込んだ訳で、ここではまた双方のやりとりの中で、互いに合意できる新たなルールが模索されることになるはずです。そこでは、一般通念に照らしてとか、社会的な約束事に即してといったいろいろなサブ・ルールがもち込まれることでしょう。その揚げ句にやはり合意点を見出せずに物別れに終わる場合もあるでしょうが、そうなった場合は、このすれ違いは、元々の発言の「意図」の誤解によるとはもはや言えません。彼は特定の宗教のドグマに凝り固まっており、社会的な合意は不可能なのだとか、元々の「伝達」云々のゲームとは違ったゲームの中で、他者として判断されるはずなのです(ゲームを遂行しながら、ゲームの相対性に気づく場面)。
それから、この前の応答で釘を刺しておけばよかったのですが、うっかり忘れました。「汎テクスト論は、近代の閉じた表象空間のテクスト・バージョンではないか」とのことですが、これは完全に違います。その意味では、今回のニーチェ云々のほうがどちらかと言えば正確かもしれませんが、これもあまりに文脈が異なります。とりあえずは切り離して、別の問題としておいてもらったほうがいいでしょう。 いずれにしても、後者の問題に答えるには、テクスト論や読解論を大幅に逸脱した議論が必要になってしまいます。この点はむしろ、以前の表象空間のベラスケス・モデルとホルバイン・モデルという件で棚上げした問題と重なってくるでしょう。ごくごく予告的に言えば、記述の視点は、ホルバイン・モデルでの視線のぶれの間隙にあるとでもいったところでしょうか。ですが、これは本体のStudia humanitatisのほうに予告した「複数の遠近法」を、アップした後に話しを立て直すというので如何でしょう(しかしいつのことでしょう。連休中も結構仕事があるし)。 森さんと二人して、こば氏をコンテクスト主義に改宗させようとしたような格好になりましたが、合意は得られましたでしょうか。
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雑談ですが、語り手の立場を問い糾して、クレタ人のパラドクス風のアポリアをぶつけるというのは、よくある論法なのですが、これは実はあまり生産的な方向には発展していきません。ついこの前も、ある高名なオーストリアの哲学教授が来日講演をした中で、フーコーは近代の主体性に疑問を呈しているが、そのフーコー自身が囚人の処遇改善の社会運動に参加するなどの「主体的」行動をしているではないかなどと言っていましたが、この手の凡庸な議論にはいい加減に辟易させられます。語り手の視点ということについてとりわけ敏感であるはずの論者に対して、こうした議論はやはり無骨すぎますよ。この種の反問は、反論のための反論にしかならない憾みを多分に残しているようです。 もう一つおまけ。オングの『声の文化と文字の文化』は、「対話」云々の時に引き合いに出そうかと思った著作です。プラトンにおける対話のあり方をメディアの問題として理解するにも助けになります。オングはStudia humanitatisに挙げた『ラムス主義』もさることながら、『言語の臨界面』(The Interfaces of Language 未邦訳)も刺激的です。オングのこれらの議論の発想源の一つとなったハヴロック『プラトン序説』(新書館)もお薦め。ハヴロックではさらに、『書き手となるミューズ』(The Muse learns to write 未邦訳)も良いです。
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No.134 ありがとうございました2
投稿者---こば(2001/05/01 00:03:18)
森様同様、これまで数々の御教示御鞭撻有難うございました。とりあえず、家の中にハヴロック『プラトン序説』があったので読んでみる事にいたします。 因みに、「嘘吐きのパラドックス」という言葉によって、「語り手の立場を問い糾」そうとしたのではなく、むしろ「テクストにおいては書き手と読み手はいない、と書き手は書いた」というパラドクスにおいて「汎テクスト論」の記述は如何にして可能か、を問おうとしたのでした。何より、庵主様は嘘吐きである、という意図は決してありません。ですが言葉が足りませんでした。陳謝。 しかしながら、そもそも「書き手」という実体を想定してしまっていること自体によって、このパラドクスが成立するかどうか疑問ですし、いずれにせよ、汎テクスト論の記述の問題は、「複数の遠近法」という形で後々庵主様に御教授頂けるかと思っております。 庵主様、森様には、重ね重ねこれまでの御指導に厚く御礼申し上げます。 九拝
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No.135 いやいや、そういうことではなく
投稿者---庵主 Prospero(2001/05/01 00:11:46)
嘘吐きパラドクス云々は、あくまでも余談であって、こば氏のことを言ったのではなく、むしろ件のオーストリア人教授のことを強く念頭に置いてのことでした。まがりなりにもプロなんだから、もうそういう論理は使わないで欲しいなというのと、当日の講演そのものの詰まらなさがふと頭をよぎったというにすぎません。とり急ぎ。
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No.72 系譜そのもの。
投稿者---國府田 麻子(2001/04/20 02:02:11)
森さま。 こばさまに続き、《ご指名質問》で御座います。 > 即ち、たとひ物的證拠の存在に乏しくとも、ポオの読者である谷崎潤一郎や江戸川乱歩やにおいて、その系譜は意識されてゐたと見做してよいし 谷崎(ワタクシは谷崎が専門なので限定してスミマセン)の中の《人工庭園》の系譜は、ポオのものを意識したと考えてよいわけですよね。そうなってくると、谷崎の中の《系譜》とは、どうなってくるのでしょうか(こばさまのご質問に重複するかも知れませんが…)?読者のうちには、全く《系譜》を創り上げられない人があってもよい、と云えることになりますね。 また、改めて《西洋》の「人工庭園(楽園)」に立ち戻るとすると?当時の谷崎は「古典文学」を意識して彼の文学に「人工庭園」を登場させたとは思われません。 《系譜》そのものの意味を考えるとき、其の存在の有無は完全に(としては語弊がありますか?)読者の「読み」の自由に委ねられてしまっても良いものなのでしょうか?
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No.74 系譜そのもの、って?
投稿者---森 洋介(2001/04/20
10:24:07)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/geobook.html
>[……]そうなってくると、谷崎の中の《系譜》とは、どうなってくるのでしょうか(こばさまのご質問に重複するかも知れませんが…)? 「谷崎の中の《系譜》」……?
済みません、ご質問の主旨がよくわかりません。折角のご指名ですが、抑も谷崎潤一郎にはさして詳しくないので他の方のご助言を待つとして、以下答へられる範囲で述べます。
>[……]読者のうちには、全く《系譜》を創り上げられない人があってもよい、と云えることになりますね。
例へば、たまたま「金色の死」のみを読んだ読者、ポオを知らず、乱歩を読まず、谷崎自身の似た傾向の作にも目を通したことのない読者がそれでせう。ニュー・クリティシズム式に当該テキスト以外に目もくれない研究者はさういふ読者の立場に身を置いてゐるわけです。 >また、改めて《西洋》の「人工庭園(楽園)」に立ち戻るとすると?当時の谷崎は「古典文学」を意識して彼の文学に「人工庭園」を登場させたとは思われません。 先に「古典文学」と申したのは、日本の古典のつもりでした。「枯山水」でもよいでせうが、例へば磯田光一の一文は「西行の人工庭園――定家と結ぶもの」と題します。
或いは別の系譜の例。西行が反魂の法を行ったといふ伝説に就て、これを人造人間の系譜に入れるものがあります(渋沢竜彦『思考の紋章学』)。人造人間譚でその試みが失敗に終るのは、人たる身で神の創造の秘密を盜む悪魔的行為だからだと指摘されてゐます。しかしよく考へると西行にそんなキリスト教式罪責観を持たすのは変です。でも、見事な偽系図とは思はれませんか。 >《系譜》そのものの意味を考えるとき、其の存在の有無は完全に(としては語弊がありますか?)読者の「読み」の自由に委ねられてしまっても良いものなのでしょうか? 読者の読みとはそんなに自由なものか、どうか。ずっと不自由で紋切型なものではありませんか。我有化(appropriate)を強調する読者論もありますが(ミシェル・ド・セルトーとか)、自由な読みがあるにせよ、本来のそれは千差万別、唯名論でいふ個物に等しく、到底捉へきれないものではないでせうか。論じ合へるのは何かしら共同する観念に就てだけです。また先の投稿に合はせて申せば、自由で創造的な読みは「読む」ことよりむしろ「書く」領分に属しませうから、関心を惹きません(興味が無いだけで、検討すべきでないとは申してゐません)。
偽系図作りは自由に系譜を書けるものでせうか。真実らしさを具へなければ偽系図の用を成さないわけでせう。そのためには系譜を見る者が何を尤もらしいと思ふかを知り、その読者の意向に添って記すこと、つまり既にあるものを読み出すやうにして書くことが求められるものかと。――固より、自分で贋作者だと述べる者の辯明を、そんなに真剣に取り合って貰っても返答に窮するんですけれど。
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No.75 もう一度。
投稿者---國府田 麻子(2001/04/20 20:08:02)
森さま。 「主旨のよく分からない」質問にお答えいただき、有り難う御座いました。 どうやら、森さま(とyamanakaさま)がお考えになっていらっしゃる《系譜》とワタクシが考えている《系譜》はかなり其の感覚が違っているようです(屹度、私は《系譜》というモノを誤って解釈しているのかも知れません。。)。 皆さまが仰有っている《系譜》とは、例えば「人工庭園(楽園)」に関して云えば、何かしらの其れへの「共通項」の様なものがあれば、其れが登場する作品、また作家(の思想、嗜好)は自ずと《系譜》を成す、ということになる、と云えるのでしょうか?そうであるとすれば、「読み手」の読書量、知識量、教養の深さに比例して其の《系譜》は、より緻密なものになるのでしょうか? 私は、作家(作品)が受けた《影響》が、ハッキリと論証されてはじめて其れが《系譜》となりうるのだ、と考えてしまいました。 《影響》と《系譜》の違いが分からなかったのです。「《系譜》なんて、読者がに作るモノ」となれば、《系譜》とは無限に拡がっていくものなのですね。 最後に一点伺いたいのは読者の「不自由な紋切り型」の“読み”についてです。 どの様な“読み”であるのか、分かりやすくお教えくださいませ。 いろいろと分からないことが多くて・・・・。此からもご教示、御願いいたします。
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No.77 系譜って何?
投稿者---森 洋介(2001/04/20
21:10:00)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/geobook.html
>どうやら、森さま(とyamanakaさま)がお考えになっていらっしゃる《系譜》とワタクシが考えている《系譜》はかなり其の感覚が違っているようです[……]
先に述べたのは森の考へる「系譜」ではあっても、果して他の方もそれを系譜と呼ぶのに同意するか否か、保證しません。そもそも「系譜」とは譬喩に過ぎませんから、別に文藝用語としての定義なるものは無かったやうに存じます。ニーチェ→フーコーは「系譜学」を唱へましたけれども、それでも譬喩の域を脱し得たか、どうか。
>私は、作家(作品)が受けた《影響》が、ハッキリと論証されてはじめて其れが《系譜》となりうるのだ、と考えてしまいました。
例へば作家志望の文学青年は、仮にその人が全く無知で別にジョイスの「若き芸術家の肖像」なんて読んだことも、いや聞いたことすらなくても、即ちジョイス作品の直接的「影響」なんて一切無くとも、「作家を志す青年の物語」といふよくあるパターンを書いてしまふことが珍しくない。しかしこれを「若き芸術家の肖像」の系譜と呼ぶのは一向に差し支へないと存じますが、如何でせう?(まあ別に、お好みなら「僕って何」の系譜と呼んでも構ひませんが) 察するに、国府田さんはカントが物そのものといった意味で「系譜そのもの」に関心があるのに対し、私の方は物それ自体はさておき系譜がいかに現象しいかに認識されたかに興味があるので、そこから齟齬が生じるのかもしれません。存在論と認識論の違ひ。
>最後に一点伺いたいのは読者の「不自由な紋切り型」の“読み”についてです。
>どの様な“読み”であるのか、分かりやすくお教えくださいませ。
>
記号論風に云へば、読みにもコード(規則体系)があり、人はコードに則って解読(デコード)する、といふことです。勿論、唯一絶対のコードがあるわけでなく、複数のコードの束があるわけでせうが。――初期ロラン・バルトを読むと参考になるかもしれません。 全く新規の文書に接する場合でも、既知の読書経験に照らして読み解くはずです。といふことは、人は既往の読書から自由でない。これはかう読むものだ、といふコードに(意識せずとも)従ってゐると考へられます。真に独創的な読みなど示せる人があったらお慰み、大方は紋切型の解釈を反覆してゐるだけでせう。
それといふのも元来、「読む」とは未知を既知に転ずることだからです。特に活版印刷以来の書物の構造に於てそのことが物的裏付けを持つに至ったと考へてゐますが……仔細は略。私一人でこんなこちたき原理論ばかり投稿してはいけませんやね。他の方のご意見を待ちます。
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No.80 系譜・トポス・歴史
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/20 22:38:07)
どんどんとディープに(ツリーの階層構造の見た目にも、内容的にも)なっていく展開を興味深く拝見していました。森さまの展開される「系譜」の理解は、私なども随分と共感をもちます。「系譜」ということで、事実として実証できる直接的な連鎖を考えるか、あるいは匿名的な意味の連なりを考えるかというところで、國府田さまと森さまの相違が生じているような印象があります。國府田さまはやはり、国文学徒らしく、谷崎なら谷崎を支点にして、そこへの(そこからの)影響関係ということに関心を向けられるのに対して、森さまにとって、作者というのは、とりたてて固定した定点などではなく、いはば伝統という意味空間で起こる「化学反応の触媒」(エリオット)であり、また一連のコードを束ねている単なるインデックスということになるのでしょう。 私自身は、森さまの感覚が比較的よくわかります。おそらく共通の発想源にクルツィウスなどのトポス論がある(と察せられる)というのがその大きな理由でしょう。私も、「トポス」が形成する複雑で多様な意味の連鎖(「系譜」)の中では、作者の固有名や、とりわけ作者の意図などは(一つのコードとして以外は)問題にならないと考えています。 では、直接的・伝記的な影響関係や作者の意図といったものはまったく無視していいかというと、そういうことにもならないと思います。影響関係や意図といったものも、テクスト化され、意味空間の中の一つのファクターとみなされる限りは、「トポス」形成に十分に寄与することができるからです(作成の意図を語った作者の日記や手紙という私的な文書であっても、テクストには違いない訳ですから)。ただ肝心なのは、こうした影響関係や意図といったものは、多数あるコードのうちの一つであって、他のコードに比べてなんら優位をもつものではないというところでしょう。 さて、そうなると、「トポス」のもっている意味の力というものは、その中にどれほど多くのコードを巻き込み、読解の連鎖を誘う契機をどれほど大量に内蔵しているか、いわば自分自身の内にどれほど多量の紋切り型の蓄積を具備しているかというところに掛かってくるのではないでしょうか。その点でいうと、日本文学の「人工庭園の<系譜>」は、私などが思うには、直接的影響関係というただ一つのコードにのみ乗っている側面が大きいために、トポスとしての意味の充実度が低いような気がするのです。
しかし、こう考えてもなおかつ問題は残ります。トポスにとっての歴史をどのように理解するかという点です。あるいは、文学史はどうなるのかと問い直しても良いかもしれません。この問題は、森さまが触れられているニュー・クリティシズムにおいても、例えば『よくできた壺』(Well Wrought Urn)の作者クレアンス・ブルックスなどが直面した「批評と歴史」といった問題系に連なるものかもしれません。もちろんここで歴史といっても、実証可能な単なる事実のことではありません。トポスの展開がなされ、そこで何らかの不可逆的関係を創り出すような意味の「事実性」のようなもののことです。あるいは、トポスの領域には、そうした不可逆的な「歴史」というものを想定することは不可能だと、言い切ってしまうべきなのでしょうか。ありていに言って、トポスの読解者にとって、文学史というのはどういう意味をもつことになるのでしょう。 もう一点気になったことがあります。トポスないし系譜という問題の背景に働く読者論の関心ということで森さまが触れられた「読むやうに書くタイプ」という主題です。実は私がこの一節で真っ先に思い浮かべたのが、ダンテでした。『神曲』という、トポスの百科全書は、まさしく読者としてのダンテが培った伝統的トポスの集積を創造の中に融通無碍に引用し改竄しながら作り上げた壮大な系譜(真の系譜と偽の系譜の区別はここでは無意味でしょう)にすら思えてくるのです。そうなってくると、このトポス論的関心がやはり最も上手く適合する文学空間は中世からルネサンスくらいまでではないのかという思いが頭をよぎります。実際、中世の文学世界では、初めから著者の存在は文字通りインデックス程度の意味しかもっていない訳です。クルツィウスがトポス論を展開したのも、まさに『ヨーロッパ文学と<ラテン中世>』であったわけです。そういった意味で、中世・ルネサンス的文学空間と、近代的文学のあいだにはやはり何らかの差異を認めることができるのではないかというのも、同時に頭をもたげてくる疑問であります。 皆様の議論の熱に浮かされて、ついつい長くなりました。説明不足の段、平にご容赦(また突っついて下さい)。
>森さま
佐藤健二さんのゼミにいらしたのでか(因みに「お見通し」など、とんでもない。単なるまぐれです)。私は佐藤氏を「あの本の著者」ということでしか存じあげませんが、それはそれで一向に構わないということになりますね。
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No.108 トポスと歴史と
投稿者---森 洋介(2001/04/25
02:17:56)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/index.html
>しかし、こう考えてもなおかつ問題は残ります。トポスにとっての歴史をどのように理解するかという点です。[……]
>もちろんここで歴史といっても、実証可能な単なる事実のことではありません。トポスの展開がなされ、そこで何らかの不可逆的関係を創り出すような意味の「事実性」のようなもののことです。
>
トポスは字義からして場所、空間的なものです。確かに、歴史といふ時間的なものとは相性が悪いのかもしれません。しかし、ここでフーコーの語ってゐた挿話が想ひ出されます。
構造主義の全盛期(フーコーは他の構造主義四天王と同じく「私は構造主義者であったことはなかった」と言ひ張りますが、勿論そんな「作者の意図」からする辯明なぞ信用なりません)。講演をしたフーコーに、会場から詰問が飛び出しました。即ち、構造主義も亦空間的な把握を特徴とします。そこでベルグソン信奉者らしきその質問者は、生ける時間を死せる空間と化する誤謬には我慢がならない、と非難したのです。
しかしフーコーは構造主義者や哲学者である以上に歴史学者ではなかったでせうか(それが自称でしたし、こちらは信用できます)。そして「歴史への回帰」(1970)といふ論文は、正に構造主義的方法で歴史が扱へることを示すためのものでした。さらにその理論面を精練したものに『知の考古学』があります。言説や言表はじめ、フーコー流概念は明らかに空間的なものですが、にも拘はらずフーコーは歴史の時間的たる所以――即ち「事件=出来事」としての歴史性――の認識を手放しません。
この問題、突き詰めた整理はついてゐませんが、トポス=空間と歴史=時間との関係を考察するにはフーコーが導きの糸となると思ってをります。
>[……]そうなってくると、このトポス論的関心がやはり最も上手く適合する文学空間は中世からルネサンスくらいまでではないのかという思いが頭をよぎります。[……] >
現代文学にもトポロジックなものは挙げられませう。例へばボルヘス。「文学空間」といふことを言ひ出したブランショ。他にも色々。 基本的に、中世たると近代たるとを問はず、なべて書かれたもの(エクリチュール)はトポス論的位相を備へてゐると見做しては如何でせうか。近代文学は「作者」の機能のみ肥大化させてその基層の表面を一時的におほったに過ぎない、と。しかしトポス的在り方こそが根柢にあるものであり、20世紀にはそれが再び表層に隆起してきた――であればこそクルツィウスのラテン中世研究も現代の読者に訴へるアクチュアリティーを有した――と考へられませんか。 ついでに。
>[……]この問題は、森さまが触れられているニュー・クリティシズムにおいても、例えば『よくできた壺』(Well Wrought Urn)の作者クレアンス・ブルックスなどが直面した「批評と歴史」といった問題系に連なるものかもしれません。
ええと、そのクレアンス・ブルックスの話を知りません。ご説明が面倒でしたら、参考書名(但し英文不可)だけでもいいのでご示教いただけますと嬉しく存じます。
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No.112 Re:トポスと歴史と
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/26 19:32:18)
やはり、「なべて書かれたもの(エクリチュール)はトポス論的位相を備へてゐる」というふうに理解するのが、最も首尾一貫してすっきりした整理なのでしょうね。私は不必要に問題を複雑にようとしているのかもしれません。 トポスと歴史の問題ということでフーコーに想到されるという点でも、発想に親近感を覚えます。ただ、そこでフーコーに対しても疑問として残っているのは、個々の時代の知の枠組み同士の関係をどう考えるのかという問題です。フーコーの場合、それぞれの時代の知の枠組み(エピステーメー)は互いに独立したものと考えられていると思います。ちょうどトーマス・クーンのパラダイムのようなものでしょう。ですから、『言葉と物』でルネサンス的エピステーメーから古典主義時代のエピステーメーに移行する場面でも、ことさらにその移行の理由づけや因果論的な説明をやってはいないと思います。いわば、変わったから変わったとしか言えないというようなものでしょう。それは、(ヘーゲルをも含む)連続的・発展史観に対する反対であり、歴史的必然性といったものに対して距離を取り、歴史における自由を確保する要請ともなっていのも分かります。でもその場合もやはり、「事件=出来事としての歴史性」を、フーコー自身の理論の中でどのように位置づけるのかがもう一つ判然としません。 しかしこれは、もう一度『知の考古学』を読み返してから、議論を立て直したほうがいいかもしれませんね。正直言って、私は以前『知の考古学』を読んだときにも、何かが分かったという気がしなかったのです。再チャレンジしてみましょうか。それから「歴史への回帰」(1970)というのは、Dits et ecrits(『ミシェル・フーコー思考集成』筑摩書房)に所収ですか?これも捜してみたいと思います。
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因みに、文芸理論というものも、大方の理論の例に漏れず、極端から極端への振幅の中で動いているようです。文芸理論の場合は、コンテクストか作品かという二つの極がその分布図を決める座標系になっているといえるかもしれません。19世紀のテーヌなどに代表されるのは、「人種・環境・時代」によって作品が決定されるという大文脈主義ですが、ニュー・クリティシズムは、それへの反撥から、文脈に対して独立した作品の自立性に関心を集中させていったと思います。とりわけブルックスは、批評において「時代を超える普遍的なもの」に訴える傾向が強く、これが歴史的傾向の強い批評家ブッシュなどから批判されたようです。簡単に言うと、ブルックスの姿勢は、作品そのものに直接に対面して、現代のわれわれに訴えかけてくる内実を汲み取るというものでしょう。これに対して、ブッシュなどは、そのような作品と読者との対話ということに限定すると、恣意性を排除することができないので、より広い歴史的知見を用いながら、作品をそれが書かれた時代に即して理解することを求めるものだったと言えるでしょう。こば氏の理解はちょうどこの後者の立場に当たるのかもしれませんね。 こういう整理をすると、こば氏が擁護しようとしている姿勢が何となく見えてくるのですが、それを「作者の意図」と言ってしまうことには多少抵抗があります。しかしそれは機会を改めてまた。 最近は、現代批評理論を概括しているシリーズ本などが出ているので、簡単に概観できるものがあるのでしょうが、とりあえず私がいま思いつくのは、川崎俊彦『ニュークリティシズム概論』(研究社)という、ちょっと古いものです(現在多少入手困難か)。ここでは、文字通り、「歴史と批評」という一章が設けられ、上にまとめたような経緯をトレースしていた(と思います)。
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No.113 伝達と表明
投稿者---こば(2001/04/26 22:00:51)
庵主様が「作者の意図」について言及される前に一言。 大方、作品か文脈か、という文芸理論においては、わたくしは後者を擁護する立場に立っていることになるでしょう。ですが、一言断っておきたいのは、わたくしはこの歴史主義、文脈主義を聖書解釈においてのみ適用するのであって、全ての文芸作品、とりわけ文学作品について歴史主義を当てはめるつもりは毛頭ございません。 作品か文脈か、という文芸理論に基づく庵主様の整理を、わたくしなりの言葉に置き換えさせていただきますと、テクストには(少なくとも)2つのタイプがあると考えております。即ち、主に伝達を目的とするタイプと、己の世界観を表明するタイプです。
伝達を目的とするテクストタイプにおいては、何が「正しく」、何が「間違っている」かが比較的決定されやすい、と考えられます。というのは、伝える側と伝えられる側の二者がいて、伝えられる側(読者)の解釈において「作者(伝える側)の意図」が伝わっているならば、その解釈は「正しく」、伝わっていなければ「間違っている」、ということになるからです。何を以って「作者の意図」が伝わっていると言えるのか。ここにおいてこそ、作者がどのような文脈においてそのテクストを発したのか、という伝える側の状況拘束性が問題とされます。この文脈を理解しているときに、読者の解釈が「正しい」、と言えるのです。 この場合の「客観性」とは、「作者がこれこれこういう文脈でこう言っているのだから、この文章はこのように解釈されるだろう」というふうに、文脈という根拠に基づいた「客観性」を指します。主に、手紙や日記の類がこのタイプに属すると言えます(日記が何かを伝達しようとしているとは必ずしも言えませんが、少なくとも作者が巻き込まれている状況に基づいて何かを語ろうとしている、とは言えるでしょう。) それに対して、それ自体が自己完結した一つの世界観を表明しているようなテクストタイプがあります。森様が仰るような「読むやうに書く」タイプと言って差し支えないでしょう。このタイプにおいては、作者は誰かに何かを伝えようとしているわけではありません。極言すれば、誰かに何も伝わらなくても一向に構わないのです。このタイプにおいては、作品は一つの世界です。作者も含めて誰もがその世界に入っていって解釈を余儀なくされます。そこでは「書いた」人間も含めて誰もが「読む」ことになります。この作品世界の中では、読むことによって「文脈」が「創造=想像」されます。読むこと自体が「文脈」の「創造」そのものを意味します。従って、読む行為=文脈創造と解釈が並行するものであるとすれば、どの解釈が「正しい」のか、「客観的」であるのか、を決定することは無意味です。「客観性」の基準決定が各々の読む行為に委ねられてしまっているからです。主に、小説、フィクション、SFなどがこのタイプに属します。 完全に分類することはできないとしても、基本的に、聖書は前者、文学作品は後者、のタイプにそれぞれ属する、とわたくしは考えます。従って、書かれたテクスト全てを歴史主義に基づいて解釈すべきだ、とは考えません。 ただ一点、聖書こそは、伝達を目的としたテクストとして、文脈に基づいて解釈すべき、と考えています。というのは、1.聖書は、基本的に、世代から世代への、或いは共同体から共同体への信仰伝達の書物である、2.状況拘束性=文脈に基づく解釈の場合「客観性」を確保しやすい、3.ヘブライズムはとりわけ歴史と深く結びついている、といった理由があります。 但し、文学作品に関しては、必ずしも作品を一つの世界観と捉えるタイプに完全に分類できないはずです。「作者の意図」も読者の解釈と同じく重要な解釈コードのひとつと考えられます。しかし、やはり庵主様ご指摘の通り、「作者の意図」への解釈は飽くまで諸々の解釈コードのone of themであることは否めないでしょう。 庵主様。以上の点を踏まえた上で、「作者の意図」へのご指摘お願いします。
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No.118 書誌的附言(フーコー、川崎寿彦)
投稿者---森 洋介(2001/04/27
06:38:09)
http://y7.net/bookish
>トポスと歴史の問題ということでフーコーに想到されるという点でも、発想に親近感を覚えます。
といふか、私は独創性無き凡庸な一読者であることを信条としてをりますから、私の発言なぞ既にどこかに書いてあることを読み上げるやうなものであり、発想源たる書物が複製されて同時遍在する商品である以上、必ずや私と同じ考へを抱く読者が存在しなければなりません(さもないと我が読者論は成立しなくなります)。――ここにProspero氏より我が存念の例證となるご発言を得られたのは吾人の喜びとするところであります。
>[……]それから「歴史への回帰」(1970)というのは、Dits et ecrits(『ミシェル・フーコー思考集成』筑摩書房)に所収ですか?これも捜してみたいと思います。
むろん『思考集成』IV巻にも所收ですが、あれはまだ高値なので指を銜へてゐるところです。私が読んだのは、初出『パイディア』11號「特集=ミシェル・フーコー――〈思想史〉を超えて」(竹内書店、1972.2)です。1970年の来日時の講演に加筆したもの。 それからポール・ヴェーヌに「歴史を変えるフーコー」といふ論文がありましたね(『差異の目録』〈叢書ウニベルシタス〉法政大学出版局、1983所收)。本式の歴史学者たるヴェーヌはフーコーを唯名論的な歴史認識論として高く評価してゐます。因みに私が普遍論争のやうなスコラ哲学に関心を抱いた契機の一つは、ここにありました――もちろん、門外漢の垣覗き程度ですが。この掲示板では中世哲学にお詳しい方が多く集まってゐるやうですので、今後ともご示教得られれば幸ひです。
>[……]とりあえず私がいま思いつくのは、川崎俊彦『ニュークリティシズム概論』(研究社)という、ちょっと古いものです(現在多少入手困難か)。
川崎「寿」彦ですか。人工庭園のトピックに始まったこのスレッドで、『楽園と庭』『庭のイングランド』の著者名が出るのはいかにも相応しいやうな……。
云はれてみれば、川崎寿彦は初め新批評の紹介者だったのでした。その分厚いニュー・クリティシズム式読解についての概説書『分析批評入門』は長らく絶版でしたが、なぜか国語教育の方で需要があるらしくて、別の出版社からその関係の叢書の一冊として新版の出たのを見たことがあります(〈授業への挑戦48〉明治図書出版、1989.4)。しかし国語教師の連中が教科書に載った文学作品の読解用に参考書とするのかと思ふと、何だかげんなりします(で、中味は読まずじまひ)。さういへば、ふだん批評理論など知らうともしないかの連中の国語教育論で、なぜかイーザー『行為としての読者』だけは割に参照されるんですよ。さういふコンテクストで読まれてしまっては、ねえ……。――「はい、ここで作者は何を意図して書いたのか考へてみませう」「下線部から読み取れる主人公の気持ちを百字以内で記せ」――あゝ国語教育なる哉。
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No.119 Re:嗚呼、国語教育
投稿者---庵主 Prospero(2001/04/27 22:30:57)
「ここで作者は何を意図して書いたのか考へてみませう」 ―― 悪夢が甦ります。
いまだったら、「そんなのはこっちの知ったことじゃない」と突っぱねるだけの多少の度胸もつきましたが、こういう手の「国語教育」のお陰で、小説が読めなくなりかけたことがあります。「『ボヴァリー夫人』の最初の話者の<われわれ>は、話が進行するに連れてどこに消えてしまうんですか」 ―― こんな問いに答えてくれる国語教師には、ついぞ出会えずじまいでした。 川崎寿彦(変換ミス、失礼しました)は、好きな著者で、最後の『薔薇をして語らしめよ』(名古屋大学出版会)に至るまで、比較的追っかけた覚えがあります。一連の「庭」ものも好きですが、『鏡のマニエリスム』(研究社出版)には惚れ惚れしました。『ダンの世界』(研究社出版)はいまだ入手できていません。ちょっと高くなっているので、気長に安いのを捜そうと思っています。『マーヴェルの庭』(研究社)がそうであったように。同じ英文学関係で似たような感性を感じるのは、野島秀勝氏でしょうか。
そうでした、ヴェーヌにそういったものがありましたね。ただヴェーヌに関しても同じなのですが、反目的論だとか、関係性の哲学だとか、ひとつひとつの言い分は良く分かり、共感もできるのですが、最後の「フーコーはそれでもなお歴史家であるか」という問いへの答えはまだ釈然としません。一番気に掛かっているのは、関係論的・言説論的に時代毎の機能転換を記述しているその眼差しのありようです。記述する意識の位置づけといいますか(いささかヘーゲル風な物言いではありますが)。しかしこれは私自身、問題としてもあまり整理がついていない以上、思いつきで適当なことを言うと無用な混乱の元でしょうから、もう少し整理ができてから改めて。
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No.111 聖書解釈における「作者」コードの復権
投稿者---こば(2001/04/26 02:57:34)
>では、直接的・伝記的な影響関係や作者の意図といったものはまったく無視していいかというと、そういうことにもならないと思います。影響関係や意図といったものも、テクスト化され、意味空間の中の一つのファクターとみなされる限りは、「トポス」形成に十分に寄与することができるからです(作成の意図を語った作者の日記や手紙という私的な文書であっても、テクストには違いない訳ですから)。ただ肝心なのは、こうした影響関係や意図といったものは、多数あるコードのうちの一つであって、他のコードに比べてなんら優位をもつものではないというところでしょう。
これまでの聖書解釈において、余りにも「信仰」という読者側の解釈コードが強すぎて、「作者の意図」や直接的な影響関係が全く無視されてきた、というのが現状なのでしょう。だからこそ、「作者の意図」という解釈コードの巻き返しが今世紀に入って起こり、そちらの探求が聖書学の中心になった、ということになりますか。 それにしても、わたくしは現代という時代の影響を受けすぎているからでしょうか、どうしても「作者の意図」コードが「他のコードに比べてなんら優位をもつものではない」、とはっきり言われると、違和感を覚えてしまいます。気のせいですかね?