口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ


No.541

ネット上での読書会
投稿者---prospero(管理者)(2002/01/10 23:37:37)
http://www.isla.co.jp/seminar/beauty/index.htm


知人より以下のような情報をもらいました。

****

2001年1月15日(火)より、インターネットを通じてともに西洋の古典著作を読む、討論形式の読書会「グレートブックスセミナー/古典に学ぶほんとうの美しさ」を開催します。
本セミナーでは、週替わりでプラトンやベーコン、ダーウィンなど、西洋のさまざまな古典作品を引用しながら、「美とは何か、人間にとってほんとうの美しさとは何か」をテーマに、みなさんとともに議論してまいります。参加費は無料です。電子メールアドレスをお持ちの方であればどなたでもご参加いただけます。ご興味のあるかたはぜひご参加ください。
(詳しくは下記URLをご覧下さい)
http://www.isla.co.jp/seminar/beauty/index.htm

[各Sessionの予定]
Session 1:プラトン 『ゴルギアス』 より
Session 2:プラトン 『饗宴』 より
Session 3:ベーコン 『随想集』 より
Session 4:ヴォルテール『哲学辞典』 より
Session 5:ダーウィン『人類の起源』 より
各引用テキストは、セミナーホームページより、PDFファイル形式にて順次配信してまいります。

資料・テキスト協力:中央公論新社
主催:リベラルアーツ総合研究所(ISLA)

****

リベラルアーツ(人文学)を名乗っている研究所なので、ご関心の向きもあろうかと思います。ネットを通じての読書会というのが、どういう形になるのか分かりませんが、展開に興味のあるところです。


 

No.559

Re:ネット上での読書会
投稿者---ねあにあす(2002/01/25 03:16:23)


「ネット上での読書会」というのは面白そうですね。
私もちょうどそういった読書会が出来ないかと考えていたので、
早速そのサイトを覗いてきました。
時間的・場所的制約のある身にとっては、
そのような時間も場所も問わない読書会が現れてくれるのは
嬉しい限りです。

あと差し出がましいかもしれませんが、
プロスペロウさんからのこのサイトのお知らせで
「2001年1月15日(火)より……」となっているのは、
「2002年」ですよね。
あと、リンク先のURLは、
http://www.isla.co.jp/seminar/beauty/index.asp
だとうまく飛べます。


No.562

テキストの選択
投稿者---prospero(管理者)(2002/01/26 23:00:43)


ねあにあす様

はじめまして。

「ネット上の読書会」は、同じような感覚と考えの人たちが集まると、相当に集中した議論ができる反面、そうした限定がないと、あまりにも拡散してしまって蒐集がつかなくなるような面との両面をもっているような気がします。

その意味では、あらかじめ関心を限定する意味で、取り上げる書目に工夫をしてみるというのも考え方かと思います。あまりに大きな古典を取り上げると、誰でも参加できる利点と同時に、焦点が絞り込めないという難点も抱え込んでしまうでしょう。話が拡散していく方向も面白いかもしれませんし、それはそれで、ネットという不特定の参加者が見こめるメディアの醍醐味かもしれませんが。

私などが考えるのは、例えばフーコーの『知の考古学』(河出書房新社)辺りをテクストにして、ネット上の読書会をやってみるという方向です。こういう書目だと、参加者をあらかじめ限定してしまうことになりますが、議論の水準はそれなりのものになりそうな気がします。「巨星堕つ」のスレッドでこば殿が触れているブルデューだったら『実践感覚』(みすず書房)なども良い線かもしれません。ねあにあす様はどのようなものにご関心がおありなのでしょう。

なお、データの誤記に関する点はご指摘の通りです。ありがとうございます。

No.699

共和制についての和訳文献
投稿者---Juliette(2002/04/25 12:44:42)


最近、共和制について少しまとめて勉強しなければならなくなり、
Polybius、Cicero、Sallust、Dio、Quintilianなどの著作で
邦訳されているのもがあれば参照したいと考えているのですが、
私のよく利用する図書館の検索では、キケローのものがいくつか
(岩波の選集や『老境について』『義務について』など)と、
クインティリアーヌスの『弁論家の教育』が見つかっただけでした。

何か他に参考となる日本語の文献をご存知の方がいたら教えてください。

 


No.706

Re:共和制についての和訳文献
投稿者---prospero(管理者)(2002/05/02 12:21:29)


共和制については、具体的にどのようなことをお調べでしょうか。ローマ史関連ということでしたら、それこそ山のように文献があることでしょう。お挙げになった著作を見ますと、修辞学関連などにもご興味がおありのようですね。クィンティリアヌスは帝政期に入っていたような気がしますが、いずれにしても明治図書の『弁論家の教育』は、ごくごく部分的な抄訳です。それも修辞学関連の部分より、教育関係の部分の邦訳です。

キケロについて、直接に共和制ということではありませんが、高田康成『キケロ ―― ヨーロッパの知的伝統』(岩波書店)は愉しく読める良書です。共和制の概念史ということでは、リーデル『市民社会の概念史』(以文社)というものがありますが、これは焦点が近代のほうに置かれていたと思います。

また具体的なご関心の方向や、その後の調査で分った面白いことなどありましたら、お教え願えれば幸いです。

No.713

Re:共和制についての和訳文献
投稿者---Juliette(2002/05/05 01:56:59)


お返事ありがとうございます。
共和制については、詳しく研究するというよりも、おおざっぱにローマ時代の国制のことが
つかめるようなものがあればありがたいのです。
政治思想史の観点から、共和制ということについて概観するのが目的です。
これに先立って、アリストテレスの『政治学』を読んでいまして、それを受けて
ローマの方へ、という流れです。

Polybiusの著作に関しては、"Treatise on the Roman Republic"という、
ギリシャ語と英語が対訳になっているもの(たぶんOxfordから出ている本だと思います)を
今読んでいるのですが、私の英語力がはなはだしく不足しているために、
非常に時間がかかっております。
もし、すでに邦訳(せめて部分的にでも)が出ているのなら、参考にしたいなあと思った次第です。

修辞学などについては、興味はあるものの、現時点でそこまで追っている時間がないというのが
本音のところです。

>キケロについて、直接に共和制ということではありませんが、共和制の概念史ということでは、
>高田康成『キケロ ―― ヨーロッパの知的伝統』(岩波書店)は愉しく読める良書です。
>リーデル『市民社会の概念史』(以文社)というものがありますが、これは焦点が近代のほうに置かれていたと思います。

こちらは、すぐに読ませていただきたいと思います。
アドバイス、ありがとうございました。

No.723

ひさしぶりの書き込みです。
投稿者---鏡谷眞一(2002/05/24 23:17:36)


本当にごぶさたの書き込みになりまして、恐縮です。
先日に、國府田さまから演奏会の案内をいただきまして(もう2日後の公演ですか)こちらとは随分疎遠になってしまいましたのもずっと気にかかっていたものでして。
最近はポール・ヴィリリオの、戦争と映画に関連する本を読み返しています。今年はサイレント映画ばかり観ておりまして(パストローネ、シュトロハイム、デミル、グリフィス・・・・)、ヴィリリオの宇宙的な文体にひさびさ、酔っています。
クラシック音楽というと・・・・最近はなんだかナチ時代の指揮者ばかり聴いておりまして・・・・・ティーチェン、ヘーガー、カール・レオンハルトのワーグナーは密度の高さをもっと知られていいと感じましたが、オズワルト・カバスタ、このナチ礼賛者でナチ殉死者のコンダクターの演奏をこの間はじめて聴いたのですが、メリハリが、ありすぎるんです。あまりに端正すぎる、畸形みたいな演奏だと・・・・音楽の醍醐味のひとつの、魅力ある歪みを一片たりともはねつけんとした勇壮が「歪み」になってしまった・・・と。

 失礼しました。可笑しな書き込み、お許しください。
 
 来月の終わりに、「アリラン」を観に、ノース・コリアンへ行ってきます!

 


No.725

久しぶりに音楽を
投稿者---prospero(管理者)(2002/05/26 00:56:44)


>鏡谷さま

お久しぶりです。ヴィリリオ、サイレント映画、ナチ時代の指揮者と、どれを取っても鏡谷さんらしい路線ですね。オズワルト・カバスタという指揮者は知りませんでした。以前お教えいただいたムックの『パルジファル』は早速に入手して、思った以上の録音の良さに、お蔭様で愉しむことができました。私のほうのワーグナーはぐっと新しくて、EMIのLegendのシリーズで57年のショルティがウィーン・フィルを振った『ヴァルキューレ』第三幕(有名なスタジオ録音とは別物)に感嘆しきりです。スタジオ録音のほうは、ブリュンヒルデがニルソンですが、こちらはフラグスタートです。もしかしたら、数ある『ヴァルキューレ』の中でも最高の出来かもしれないと思っています。返す返すも、ヴォータンがオットー・エーデルマンという笑えるようなキャスティングが残念です。

それから最近は、再びバルビローリを集中して聴いています。ブラームス、ドヴォルザーク、シベリウスの交響曲の全集や、ハイフェッツのバックを振っているモノラル時代の協奏曲などです。とりわけシベリウスの交響曲全集は、外盤でリマスタリングしたものが出たばかりで、これにはEMIの音源のステレオ録音のシベリウスがほぼ網羅されているようです。とりわけ音質が目覚しく向上していて、管の咆哮やバルビローリ特有の弦の啜り泣きが鮮明です。

それから最近、新音源として、ブルックナー九番とマーラー七番のセットが出たようで、これは早速注文を出してあります。手に入れて一聴の際にはまたご報告をいたします。かなりすごいという評判ですから。

ブラームスは、やはりバルビローリの演奏などは私にはかなりしっくりきます。世評の高いヴァントも聴きましたが、どこがいいのやらさっぱりという感じです。二番がそこそこ良いかと思いましたが、やはりドイツ系の生真面目な指揮者は苦手です。かといって、最近特に評判のハーディングなども、今一つピンときません。そんな折りに再びバルビローリを聴いて、少しほっとしています。吉田秀和氏などはあまり評価していなかったようですが、一番などはとりわけ良いような気がします。良く言われるほどテンポも遅いとは感じませんし。

というわけで、久しぶりに音楽の話題でした。

No.822

残暑お見舞い申し上げます(北半球限定)。
投稿者---國府田麻子(2002/08/18 22:20:09)


プロスペロウさま、皆様、

こんばんは!立秋を過ぎてもまだまだお暑う御座いますね。如何お過ごしでしょうか?(「口舌」の皆様は、いつも寒暖を超越してしまっていらっしゃるが如く凛としていらっしゃいますよね?私のように暑さでどうにかなってしまったりはなさらないのでしょう、屹度。)

翻訳についてなど、ただ「羨ましいな〜。」と思いながら拝見しておりました。語学力皆無のワタクシには何が何やら全く解りませんので…。チョットだけおしゃべりを……。

ここのところの酷暑のせいなのでしょうか、重厚なものジックリ聴く気力がありません。私の場合はマーラーであるとか、ヴァグナーであるとかは今は全く、で
す。〈たとていえば最上の和牛の霜降りの肉の味わい。舌ざわりはむらなく柔らかく、味は濃厚で、快い抵抗感さえ欠けてない。弦、管、打楽器のどこをとっても、一つの音楽文化の伝統の中で育ち、爛熟した音楽の世界。〉吉田秀和が、《音楽展望》にシノーポリ指揮のウィーン・フィルのマーラー一番を聴いたときの感想をこんなふうに書いていましたが、これ、「なるほどナ〜。」って思います。勿論、夏にこそこってりしたものを!と考えるかたもいらっしゃいましょうが、私は、夏は「素麺でしょ?」派なものでして。ドイツ系(?)音楽は、こう言っては何ですがヤッパリ「暑苦しい」ですね。イベールやら、ラヴェル、ドビュッシーなどは「軽やか、爽やか」?CDラックに伸びる手が涼しげなフランスものの方に行ってしまいます。(といっても、実際練習している曲は、シベリウスだったりします)本当は、特別、「夏に聴く音楽」なんてないのでしょうが……。ヨーロッパでは、野外音楽祭などが盛んですよね?日本の夏は、兎角クラシックから離れがちなような気がいたします。

ところで、必要に迫られて、ライネッケのフルート協奏曲のCDを捜しています。
国内のものがあまりないようなので、輸入盤などで良いものを、と考えています。何か情報をお持ちのかた、お教え下さいませ。

……お邪魔いたしました……。

 


No.823

シベリウスその他
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/19 00:09:28)


>國府田さん、ご無沙汰しています。

今度はシベリウスをご準備中ですか。

私はこの夏、最近リマスターされたバルビローリのシベリウス全集を繰り返し聴いているところです。目覚しく音質が改善されて、実に見事です。以前はベルグルントのものを好んで聴いていたのですが、論理の粋を尽くしたようなベルグルント盤に比べると、バルビローリの演奏はその対極にあるような情緒纏綿たる抒情的演奏です。これに勢いづいて、バルビローリは再びいろいろと引っ張り出してきたり、新しく入手したりしています。まさに、この暑いのに、仰られるマーラー、ブルックナーを聴いたりもしていました。

もう一人、似た毛色の指揮者で、イタリア人のジュリーニを比較的良く聴いています。これもまたブルックナーです。Testamentというレーベルからリリースされた交響曲二番は出色でした。BBC Legendsからは、『ミサ・ソレムニス』とシューベルト交響曲四番のカップリングが出ましたが、後者が実に良い。しばらく前にブラームスの全集も入手しました。ジュリーニはすべてにわたってテンポが遅く、メロディーをとことんまで歌い尽くしますが、このブラームスもその例に漏れず、これはこちらの気分が乗らないと、鬱陶しく感じられるときもあるような、少し個性的すぎる演奏かもしれません。

ライネッケといえば、「ウンディーネ」の作曲家ですね。フルート協奏曲というのは残念ながら聴いたことがありませんが、CDNOWというサイトでランパルのものが試聴できました。他の演奏でも輸入盤国内盤もあるようですね。

私の場合、音楽による納涼はもっぱらイギリス音楽ですが、最近NAXOSから出たフィンジのチェロ協奏曲はやや期待はずれでした。
No.824

ライネッケ
投稿者---國府田麻子(2002/08/19 01:42:28)


プロウスペロウさま、

お返事を有り難う御座いました。

>シベリウス

私は2番が大好きなのですが、今は1番を練習しております。繰り返し聴いているうちに段々と好きにはなってきたのですが、兎に角弦パートの動きが細かくて難しいです。前回のボロディンでも苦労した「微妙なテンポの変化」が課題です。バルビローリのシベリウス、探してみます。バルビローリ、表情豊かな演奏がイイですね!私もブラームスはバルビローリで聴いております。
マーラー、お聴きなのですね。この前、小澤征爾のボストン交響楽団でのラストコンダクトの9番を衛星放送で聴きました。…殊に濃密でしたもので。

>ジュリーニ

名前は聞いたことがあるのですが、演奏は知りません…。ところで『ミサ・ソレムニス』とは?
ジュリーニのブラームス、是非聴いてみたいと思います。秋になりますと、ブラームスの交響曲がなんとなく恋しくなりますから。ゆっくりとしたブラームス、きっと素敵なのでしょうねぇ。

>ライネッケ

楽譜を手にするまでは、ワタクシ、有名な交響曲があるのにも関わらず、全く知らない作曲家でした。お教えいただいたサイトで早速試聴してみました。ランパルのものは「あるよー」と聞いてはいたのですが、店頭で見つけることが出来なかったのです。有り難う御座いました!ライネッケ、辞典などには「ブラームスやワグナーの影響が…」と書いてあったりしますが、初めてフルート協奏曲を聴いたときには、何故かシューマンを思い出しました。

イギリスもので納涼は同感です!エルガーなどは私も何度も聴きました、この夏は!

No.825

すみません。
投稿者---國府田麻子(2002/08/19 01:49:52)


お返事の筈が、新規投稿になってしまいました。
前回の投稿も誤字脱字が多くて、申し訳ありません…。
綺麗な掲示板ですのに、本当にすみません…。
うっかりにも程がありますね。。

No.829

シベリウスその他
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/24 00:15:33)


お訊ねがそのままになっていました。失礼いたしました。

ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』は、邦訳は『荘厳ミサ曲』ですか。作品番号は123ですから、第九と前後する作品です。

シベリウスの一・二番でしたら、やはりバルビローリは良いと思います。二番は1940年に録音した古いものもあるのですが、これもなかなかよろしいです。四番、七番となると、曲の性格上、ベルグルントなどのほうが、ずっと良いように思います。やはり曲による相性などもあるでしょう。

バルビローリは、仰られたブラームスも個性的で良い演奏ですね。一番なども堂々たるものですし。このブラームスも賛否の分かれるところでしょうが、くだんのジュリーニはさらにそれが激しいかもしれません。何もここまでしなくても、と思うことしばしばですから。フレーズをこれまでかとばかりに入念に歌わせてきますから。テンポの遅さもバルビローリ以上です。

そういえば、このジュリーニのマーラーの九番の第一楽章は、演奏史上最長と言われていたのではないかと思います。

エルガーも「威風堂々」だけで有名で気の毒ですが、交響曲の二曲も、ヴァイオリン、チェロそれぞれのコンチェルト、エニグマなど、かなり力作がありますね。チェロ協奏曲は、デュプレの映画で知名度が上がりましたが。そうそう、忘れてならないのは、『ジェロンティアスの夢』などのオラトリオ作品です。NAXOSからは、交響曲第三番などという変わり種(未完の遺作を後に完成させたもの)などが出ています(あまり面白くありませんでしたが)

No.838

バルビローリのシベリウス
投稿者---國府田麻子(2002/09/04 16:19:14)


お教えいただいたバルビローリのシベリウス一番、聴いてみました。私が或る人からお借りした音盤は、EMIの1966年録音、「ペレアスとメリザンド」とカップリングされているものです。ハレ管弦楽団がバルビローリの情熱的な棒にピッタリ添っている、といいましょうか、おかしな表現ですが、「我を忘れてしまうような演奏」と思いました。

シベリウス一番、バルビローリ流のテンポの揺らし方がとても印象的でした。ブラームスもそうだったのですが、全体的にユックリしてはいるのですが(他の多くのシベ1より、3分近く長かったですね)、3楽章などは緩急が烈しくて、意外とスピーディーに感じました。4楽章終盤のフォルテの表現力、またシベリウスの手により曲全体に鏤められたsf(スフォルツァンド)の再現力にもただただ圧倒されてしまいました。

ハレ管弦楽団はよかったです。木管が殊に優れているような…。音の粒が鮮明だな、と感じました。弦が刻む同じ音の連続の上に、管の雄々しいフレーズが迷うことなく乗る、という…。弦に関しては特別に秀でているとは感じられなかったのですが、凡てが相俟って、とにかく“名演奏”の名に相応しい演奏のように思われました。よいものをお教え下さり、有り難う御座いました!次の目標はジュリーニのブラームスですね。

ここからは蛇足なのですが…。今回聴いたCDもそうなのですが、ライヴ録音ではない録音用のための演奏(というのでしょうか?)には、大分大きな音でハープが入っていますよね。ミキシング(?)の効果もあるのかしら?とも思ってしまいます。ハープなどは実際舞台に乗っていたり、またホールで聴くと、「ああ、あそこにハープが置いてあり、ハーピストが弦を弾いているから、今ハープの音が屹度聴こえているんだろうなぁ」程度にしか聴き取れないのですよね(って、私だけかも知れませんが…)。「CDで聴いた方がよい楽器、演奏」も確かにあるようです。

No.841

バルビローリなど
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/08 16:11:01)


>國府田さん

バルビローリのシベリウス、お聴きいただいたのですね。1966年のものは、いまEMIからセットとして出されています。管弦楽曲(「ペレアス」などなど)も含めたシベリウス・コレクションになっているので、これはたいへんに便利で、録音もリマスターによってかなり向上しているようです。

それにしても、繊細さと情熱を兼ね備えたようなあの演奏は、私もとても良いと思っています。ただ、あのタイプの演奏は相性として一、二番には向いていても、それ以降のものはどうかと思えるようなところもあります。バルビローリはマーラーも名演の誉れの高いものでしょう。私も六番が非常に良いと思っています。ただ五番は、最終楽章が以外と弱く、全体の印象が少々締まらないようなところがあります。

最近聴いて面白かったものでは、シルヴェストリというルーマニアの指揮者のコレクション(10枚)があります。とにかく、普通の演奏は絶対にしないと心に誓ったかのような、あくの強い、個性的な演奏です。ドヴォルザーク七、八番、デュカスやファリャの有名な管弦楽曲などなどですが、とにかく飽きません。なぜわざわざこんなことをするかというようなテンポの揺れや、各パートのバランスの取り方など、個性的を通り越して、ちょっと笑ってしまうようなところがあります。

録音の問題も、古いものに特によく見られるようですが、特定のパートが、実際にはこんな風に聞こえるはずがないというほど強調されていることがありますね。スターシステムに乗っているオペラなどは、とりわけ歌手の声が他を圧していたりしますから。50年代のバイロイトの録音で、ホッターのウォータンがが本当に巨人のように聞えるのは、そうした録音の事情に助けられている部分も大きいような気がします。


No.853

ベルグルントとジュリーニ
投稿者---國府田麻子(2002/09/21 04:15:13)


プロスペロウ様、

ベルグルントのシベリウス、ジュリーニのブラームス、聴きました。感想を少しだけ書かせていただきます。

ベルグルントのシベリウスはFINLANDIA(?)盤で、6番・4番が収められているものです(録音は1995年)。このCD、まず解説書が優れていました。「パーヴォ・ベルグルント・インタビュー」として、ベルグルント本人が、シベリウスヘの想い入れや、オーケストラアレンジへの試行錯誤などなどを語った内容がそのまま掲載されていました。「論理の粋を尽くしたようなベルグルント盤」とプロスペロウ様が仰有っていた理由が、インタビューを読んで「なるほど!」と。で、曲を聴いてみますと、それは更に「納得!」ヘと移行していきました。4番についてだけ書きますと、まだ血気盛んで、“仕事人としての作曲家”が漸く板に付きはじめたばかりのシベリウスの沸き立つ情熱を、冷静沈着で老獪なベルグルントがタクトで御している、とでも申しましょうか…。何となく「造られた静けさ・平淡さ」が曲全体に漂っているような感じを受けました(バルビローリのシベリウスを聴いたあとなので殊更このように思うのかも知れませんが……)。ただその所謂「わざとらしさ」が、決して嫌味にではなく、ベルグルントの棒の先から紡ぎ出される繊細な音の糸として重なって行くのが分かるようでした。テンポも音も一切に無駄はない、だが、飾り気がない訳ではない……。とても興味深い演奏でした。ベルグルント本人も認めた《解釈しすぎ》は確かにそこここにありましょうが、だからこそ、極細かいオーケストラのアレンジが可能になったのだと思います。低弦の強弱の妙は、ベルグルントの棒でなければ聴けないことでしょう、恐らく。6番にも勿論、4番と全く同様(否それ以上)にベルグルントの拘りがあるのは確かですが、“作曲家シベリウス”の落ち着きと、冷静なベルグルントの指揮が近づいてしまったがために、4番のような一種「人工的な面白さ」があまり感じられないように思いました。


ジュリーニの方は、グラモフォン盤で1991年録音のものです。
ブラームス1番、今までいろいろな指揮者のものを聴いてきたつもりです(最近では、ミュンシュを好んで聴いていました)。ですが、ジュリーニ……あまりにユニークと申しましょうか、あまりに偏屈(!)と申しましょうか…。本当に「驚いてしまった」というのが今、ジュリーニの棒になる曲を初めて聴いたワタクシの率直な感想です。“ビオラ弾き”の感性の良い面、悪い面、両方が存分に曲に盛り込まれているように感じました(「良い面」→メロディーヘの拘り。曲への情感移入に対する強烈な憧れ。「悪い面」→頭で考えたことがそのまま演奏になると信じて疑わない。(高・低に挿まれた結果育った)過剰すぎる自意識。)。低弦の重さを好まなかったベルグルントとは対照的に、弦(殊に低弦)の厚み・奥行きを活かして、ジュリーニオリジナルのブラームスをオーケストラに謳わせていますね!高弦の鬼気迫る音質と、どっしりとした低弦が巧く響きあって絶妙な拡がりを持った空間を創りだしているように思いました。管に関しては「ウィーンフィルのホルンを聴かせるな」という…。ウィーンフィルの管楽器陣の音楽を聴くときにはどうしてもホルンにばかり気が入ってしまいます。音の事はさておき、プロスペロウ様が仰有っていた「個性的過ぎる」演奏の所以は矢張り「テンポのスローさにあり!」ではないでしょうか。1番2楽章など、途中で「アレ?これブラームスだったかな?」と思ってしまうような箇所も幾つかありました(音は確かにブラームス音!なのですが…)。粒が揃っていてスローなので、誰か違う作曲家の作品を聴いているような心持ちになりました。そうでありながら、4楽章が意外とアッサリ纏まっていたのには些かの不思議を感じずにはおれませんでした。フルートソロ、ホルンソロなどは「個性的すぎるテンポにも程がある!」という観も否めませんでしたが、弦ユニゾンのテーマなどはミュンシュなどと比較しても実にサッパリしていて気持ちが良かったです。今回ジュリーニと出逢ったことで、今までの私の中の“ブラームス像”は一息に覆されてしまいました。2、3、4番も是非聴いてみようと思っております。《商業主義を好まないジュリーニ》(CDの解説にあった表現ですが…)が奏でる、最早商業主義という手垢にまみれてしまった偉大な作曲家達の作品には、複雑な味の“新らしさ”が、屹度発見できることでしょう、まだまだ未熟な私の耳でも…。

どちらも私にとっては新鮮で、お教えいただかなければ巡り会わなかったものばかりです。プロスペロウ様には、いつもながら感謝いたしたく存じます。

No.868

ケーゲルのシベリウス四番
投稿者---prospero(管理者)(2002/10/14 23:23:49)


同じ曲の違った演奏というのは、同一作品の異なった翻訳のようなもので、斬新な新訳が出ると、作品観そのものが一変してしまうことがあるというのと似ているかもしれません。私にとっては、ベルグルントのシベリウス四番は、かなりの程度、あの曲の典型のようなところがありました。まさに、仰るような「人工的な面白さ」です。ベルグルントの場合、その辺りが実に彫塑的・立体的な響きとして構築されていて、情緒の入り込む隙のない構造物に仕立てられていて、私としては大変に好みです。しかもベルグルントは、その同じ調子で一番、二番も貫き通しているので、それこそバルビローリとは対極にある演奏になっています。

さて、シベリウスの四番ですが、ベルグルントを典型とする作品観を揺さぶってくれたのが、ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団の演奏でした。これはまさに、鬼気迫る演奏といいますか、とにかく四番がこれほど暗い情念を湛えた生々しい曲に思えたことはありません。元々この曲自体が、クライマックスに向けて邁進して華々しく大団円を迎えるというのとは大分違いますが、それにしてもこのケーゲルのこの曲の捉え方は何やら異様です。木管の響きなどがかなり不気味であったり、通常なら非常に良く響く動機を故意に曖昧にしてしまったりと、意識的にアンチ・クライマックスを主張し、寒々とした荒涼たる光景を描こうとしているかのようです。ここに漂う寒気は、いわゆる北欧の張り詰めた冷気などという生易しいものではなく、むしろ国籍も時代も失った音楽の絶対零度のようなものかもしれません。

このケーゲルは15枚のセットもので入手したのですが、これがなかなか多彩で聴き応えがあります。ムソルグスキーの『展覧会の絵』なども入っているのですが、これがまた、通俗名曲の相貌を一新してしまい、まるで現代音楽のような響きを聴かせています。おそらく、この「展覧会」に展示されれている絵は、カンディンスキーやポロックだったりしそうです。

とういうわけで、取り止めがありませんが、遅れ馳せのお返事です。

 


No.887

蒐書記拜見
投稿者---森 洋介(2002/11/22 21:50:37)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 蒐書記の新着分を拜見しました。
 ウォーカー『古代神学』が「ヨーロッパ思想の底流を成している脈々たる「偽書」の歴史である」といふのは、日本中世と讀み合はせると面白さうです。先頃、佐藤弘夫『偽書の精神史 神仏・異界と交感する中世(講談社選書メチエ、2002.6)なんて本が出たみたいですが(未讀)、佐藤氏ならずとも既に戰前から思想史家などの中世を僞書の世紀と目する論が散見されますから。
 原克『死体の解釈学』は私も讀みました。いささか不滿が殘るのは同感です。注も少ないし。――が、あの〈廣済堂ライブラリー〉といふ小體な新書判の制約からして致し方無い面もあり、多くを期待しないで輕い讀み物として樂しめば良いのかもしれません。
 『死体の解釈学』で興味深かった箇所の一つはベンヤミンを援用してゐる部分(163〜4頁)ですが、出典が記されてゐないので氣になって仕方ありません。原氏、こんな風にパラフレーズしてゐます。 

ベンヤミンの表現を借りれば、断続的な思考のかけら、ひらめき、夢想、総体性の欠如ということになるが、これらはすべて本来、かつての活字メディアが作り上げてきた、閉鎖的なメディア環境の外側にはじき出されていたものばかりである。その結果、それらが避難所としてみずからを沈潛させていったメディアが、書物以外の表象システム、わけても、うわさ、伝承、口コミ、臆測といった口承メディアたちであった。そしてベンヤミンは、総体性の欠如を恐れない態度、これこそが新しいエクリチュールの原理となりうるかもしれないという。だとすれば、情報大量消費社会においては、かつての口承メディアたちの系譜が、活字メディアとしてのジャーナリズムにおける雜誌や新聞のなかに、ダイジェスト記事や読み物あるいはゴジップ記事などという新しいスタイルをまとって、合流し再生したということになろう。

 でも、ドイツ語で書いたベンヤミンが「エクリチュール」なんて言ひますかねえ……。『文学の危機』とか『複製技術時代の芸術』とか晶文社版著作集をザッとめくったけれども見當たりませんでしたし。それとも『パサージュ論』か、或いはドイツ語のベンヤミン全集を參照したのでせうか。
 出所にお心當たりありましたらどなたでもご教示下さいませんか。


No.888

ありがとうございます
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/24 23:30:26)


なかなか更新がままならず、やっとのことで更新したところ、早速にご覧いただいたようで、ありがとうございます。

私も、佐藤弘夫『偽書の精神史』は、書名だけ見知って、少し気にはなっていました。そう言えば、お遊びで偽書(というか架空の書籍)を紹介したものに、垣芝折多著・松山巌編『偽書百撰』(文藝春秋社)などという人を食ったものがありましたっけ。

原克『死体の解釈学』はすでにお読みでしたか。「廣済堂ライブラリー」という、少々目に付きにくいものを目ざとく見つけておられますね。ところで、件のベンヤミンの引用ですが、これは原氏の自由なパラフレーズという感じなのでしょうか。ボードレール論などにも見られそうな感覚ですが、文字通りの出典はやはり良く分かりませんね。どなたか思い当たる方がいらっしゃれば、私もお教え願いたいところです。

No.889

ベンヤミンのエクリテュール?
投稿者---劇中の国王(2002/11/25 14:16:04)


ベンヤミンの著作の一部しか、わたしは知らないのですが、
『ドイツ悲劇の根源』(法政大学出版局)の序論には、
似ていると言えなくもない文面があります。

エクリテュールの類語をカギカッコに示し、
いくらかパラフレーズしながら
最初の数ページから拾ってみると、以下のとおりです。

「書かれたもの」の特質は、ひとつの文ごとに中断しては、
また新たに出直すことにある。
ひとつの事柄について考えるのに、迂回がくり返される。
同じひとつの対象を省察するのに、異なった感覚の段階が次々と踏まれていく。
それが、哲学的探求にふさわしい唯一の「文体」である。

したがって、哲学的な「著作」は、モザイクのようなものであり、
ひとつひとつ異なった思考の細片、細部の寄せ集めである。

もっとも、断片を収集するというのは、
ベンヤミンがよく言っていることかと思いますので、
もっとふさわしい箇所が他にあるのかもしれません。

ベンヤミンは、この著作を、フランクフルト大学文学部の美学科講師になるための
資格申請論文として提出したのですが、
文学部長から申請を取り下げるよう勧告されたとのことです。

別のスレッドで prospero さんがアマチュアについて語っておられますが、
これは、ベンヤミンが偉大なアマチュアとして生きていかざるをえなくなる、
いわくつきの論文ですね。

なお、この序論を読なおしていて気づいたのですが、
ベンヤミンは、諸断片のあいだに横たわる中断、裂け目、不連続性は
乗り越え不可能なものだと強調し、
イデアとは、もろもろの不連続な個物が不連続なままに
直接的に統一されたものだと言っているように見えます。

そして、その一方で、共通のものを連続的に認識することによって
統一性にいたることを批判しているように見えます。

ということで、別のスレッドで話題にいたしました、近世哲学の包括と展開の概念、
および新プラトン主義的な流出説に対する批判に通じるように思います。

ただ、この序論の部分は、どうしても訳文の壁を感じますので、
原文に当たって吟味しないとわかりません。

ところで、この著作の邦訳は3種類もあるようですが、どれがいいんでしょうか。
後続の訳者の方々は、よほど自信があったのでしょう。

No.890

方法としての斷片
投稿者---森 洋介(2002/11/25 20:33:37)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>もっとも、断片を収集するというのは、
>ベンヤミンがよく言っていることかと思いますので、
>もっとふさわしい箇所が他にあるのかもしれません。
>
 ありがたうございます。確かに、「方法としての斷片」(©富山太佳夫)についてはベンヤミンはあちこちで(それこそ斷片的に)仄めかしてゐますので、出所をこれと特定しづらいと思ひます。
 件の原克『死体の解釈学』の場合では、引用文中にある「総体性の欠如」といふ語句が目當てになると睨んで探したのですが、見つけられずにゐます。
 もし他にも該當しさうな箇所があったらご示教得られると幸ひです。

 なんだかどうでもいいやうな小事を氣にしてゐるナとお思ひでせうか。我ながら煩瑣派(=スコラは ――小栗蟲太郎『黒死館殺人事件』のルビより)だと思はないでもありません。が、「神は細部に宿り給ふ」と云ふぢゃありませんか。これも些末事研究(ミクロロジー)のうちとご海容の程を。

No.891

神々の宿る細部
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/25 23:44:14)


ベンヤミンの言葉、ありそうでなかなか言葉通りには見つからないという印象ですね。「どうでもいいやうな小事」とは思いません。すべての細部に神々が宿っているわけではなく、とりわけ神々が好みそうな細部を探り当てる感覚こそが、「<方法>としての断片」ということなのだろうと思います。こだわるに値する細部を見つける感性こそが、断片の「屑拾い屋」ベンヤミンを「思想家」にしているものだろうとも思いますし。

断片の思想家であるアマチュア=ベンヤミンを主題に「専門論文」を書くというのは、なぜか昨今の流行となっているようですが、これもなかなか不思議な倒錯感があります。それを一概に悪いとは思いませんが、やはりあえてそれを試みる人には、その倒錯の自覚のうえで、確信犯的にやってもらいたいという気がします。断片による思考が、結局は最も先鋭な意味での「体系」と一致するなどというかたちで考えられたらいいとも思います。それこそ、ロマン主義が構想したような意味での「百科全書」(Enzykopaedie)とでも言いますか。

No.892

Re:神々の宿る細部
投稿者---劇中の国王(2002/11/26 14:50:40)


森さん、はじめまして。

> これも些末事研究(ミクロロジー)のうちとご海容の程を。

わたしの書き方が無作法だったかと恐縮いたしております。
些末なこととは思っておりません。

また、細かなことをあれこれと詮索するのも楽しいことですね。

で、わたしが気になるのは、「神は細部に宿る」という文句の由来です。
フロベールだと、人に言われたことがあるのですが、
どなたか、出典をご存じでしょうか。
(すでにここで論じられていることでしたら、すみません。)

ネットで調べてみると、Bartlett's Familiar Quotations という引用句事典には、
建築家のミース・ファン・デル・ローエが口にしていて、
それを美術史家のヴァールブルクが拝借し、広まったが、
その由来はフロベールに帰されているものの、確証がない、とあるそうです。

でも、ヴァールブルクのほうが先に言っていた可能性もありそうです。

しかしそれよりも、クザーヌスとか、あるいはもっと古い新プラトン主義の思想家、
あるいは中世のキリスト教の神秘家が口にしていても、不思議ではない文句です。

No.893

Re:神々の宿る細部
投稿者---森 洋介(2002/11/27 01:28:12)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>で、わたしが気になるのは、「神は細部に宿る」という文句の由来です。

 これについては私も以前から氣になってゐたことがあります。かの文句は原語(ドイツ語)だと“Der liebe Gott steckt im Detail”で、直譯して「愛する神は細部に宿る」になる(らしい)のですが、日本語で引合ひに出される場合「愛する」が省かれることが大半のやうです。どうも日本語にすると誰が何を「愛する」のやらハッキリせず据わりが惡い。折角の格言が締まらない感じになってしまふからでせうか。英語や佛語ではどうなのだか。
 それと、ワールブルグの場合の「神」って何なんでせう。ユダヤ人ではありますが、彼にはヘブライ=キリスト教的な唯一神よりもルネッサンス的な異教の神々の方が似合ふ印象があります。多神教的、といふことです。

ついでながら一寸。
>ベンヤミンは、諸断片のあいだに横たわる中断、裂け目、不連続性は
>乗り越え不可能なものだと強調し、
 何となくライプニッツの「モナドには窓が無い」を聯想させられました。まあバロック哲學がバロック時代のアレゴリー論に關係するのは當然かしれません。
 で、その斷絶・不連續をつなぎ合はせるのが「神の愛」といふことなんですかね? するとさういふ統合の役にはやはり唯一神が相應しさうですけれども。この邊りまるで無知、全く當てずっぽうです。

No.895

Re:神々の宿る細部
投稿者---劇中の国王(2002/11/28 08:23:12)


わたしの先の書きこみへの訂正です。

細部という言葉は、通常は、芸術作品のような
人工の制作物について使われるでしょうから、
この格言がどういう場面で口にされるかというと、
たとえば、建築家が弟子に向かって、ていねいに作れ、と言いたいときに、
「神は細部に宿るのだぞ」と言うのでしょう。
この場合の神とは、制作者のことですね。

ということで、この格言は、中世とは縁が薄いかもしれません。

中世にももちろん職人仕事は盛んだったでしょうが、
中世の神秘家は、自然の事物に神のあらわれを直観することはあっても、
工芸品にそれを直観したとは、あまり想像できません。
自然の事物にこそ、神の造作を感じたでしょうから。

この格言は、考え方のパターンとしては、
中世の神秘主義を背景にもっていてもおかしくないとは思いますが、
近代になって、芸術家の尊厳が高まり、
創造する神の地位が創造する作者によって乗っ取られた状況でないと、
生きてこないと思います。

まして、ドイツ語の Detail は、フランス語からの借用語で、
その借用は、そんなに昔のことではないでしょう。

ところで、lieb は、この場合は親愛の情を示していて、
der liebe Gott は「いとしい神」というような意味ですので、
「神様」と訳してよいかと思います。
リルケの『神さまの話』の「神さま」もそれです。

フランス語の場合は、Le bon Dieu est dans le de'tail のようです。
(出典がはっきりしないのに、語句が確定しているというのも妙ですが。)
le bon Dieu も、神様という意味かと思います。
英語では、God is in the details ですね。

などと、さも語学が得意であるかのような気分で書いておりますが、
ネットと辞書で得た知識にすぎません。

No.896

Genius loci (土地の精霊)
投稿者---prospero(管理者)(2002/12/03 22:22:06)


> 彼〔ヴァールブルク〕にはヘブライ=キリスト教的な唯一神よりもルネッサンス的な異教の神々の方が似合ふ印象があります。多神教的、といふことです。

私もまったく同感です。「神々」というふうに複数形にしたのは、その辺の感覚を籠めたつもりでした。Der liebe Gott steckt im Detailの由来は、私も以前少しだけ調べたことがありましたが、「劇中の国王」さんと同様に、ミース・ファン・デル・ローエに辿りついたきりで、それ以上の進展はありませんでした。ですから、典拠のある感想ではないのですが、ここで言われる「細部」という語にはlocus(場所)の響きが、また、そこに住まうGottにはGeist(精神=霊 genius)というような響きがありはしまいかと思っています。竈にも神が宿るというような具合に、万物にはそれぞれの場所を住処とする神が住み着いているという感覚です。八百万の神という一種のアミニズムとでも言いますか。そうした神が宿る場所(locus)としての「細部」というわけです。

そしてさらに、この場所(locus)という語 ―― ギリシア語ではtopos ―― は、修辞学の用語として、「論点」を意味するというふうに想像するのは、穿ちすぎでしょうか。ヴァールブルクが探り出そうとした「細部」も、小さいものなら何でも良いわけではなく、その中に全体が映り込んでいるような細部でしょうし、その点では、そこから全体の論旨が構成できる「場所」(トポス)と並べて考えることは魅力的に思えます。ましてや、ヴァールブルクが最も重視した神が「ムネーモシュネー」、要するに記憶の女神だったことを思い合わせると、連想はさらに飛躍します。なぜなら、「場所」(トポス)とは、まさに「記憶術」の基本概念であり、そこに記憶されるべきものが貯蔵される「蔵」だったからです。

そんな次第で、ヴァールブルクの神を、記憶術の土壌に住まう「土地の精霊」(Genius loci)と呼んでみたい誘惑に駆られます。

 


No.783

無神論の文献
投稿者---柳林南田(2002/07/30 22:31:01)
http://www.prometheusbooks.com/site/catalog/ath4.html


日本語で出版されている無神論の文献を教えて下さい。
「無神論」で検索してみても最近の文献はほとんど見つかりませんね。なぜなのでしょうか。

英語圏では、
Atheism:The Case Against God
George H. Smith
http://www.prometheusbooks.com/site/catalog/ath4.html

が無神論のバイブルだそうです。

No.784

仏教の無神論とわが国の仏教 / 青木喜作著
投稿者---柳林南田(2002/07/30 22:49:43)
http://www.prometheusbooks.com/site/catalog/ath4.html


もしもこの本を読んだ人がいらっしゃいましたら内容を教えて下さい。
仏教の無神論とはどういうことでしょうか。

----------
仏教の無神論とわが国の仏教 / 青木喜作著<ブッキョウ ノ ムシンロン ト ワ
ガクニ ノ ブッキョウ>. -- (BN07537903)
東京 : 宝文館出版, 1979.2
238,22p ; 22cm
著者標目: 青木, 喜作<アオキ, キサク>
分類: NDC8 : 181 ; NDLC : HM51
件名: 仏教 ーー 教義 ; 無神論

No.795

Re:無神論の文献
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/04 17:15:13)


>日本語で出版されている無神論の文献を教えて下さい。

お尋ねが漠然としすぎているので、そうえいば、文庫クセジュにもアルヴォン『無神論』(白水社)などというのがありましたね、という程度のことしか申し上げようがありませんが……

おそらく、お考えになっている「無神論」というのは唯物論的哲学の系統でのことだと思いますので、それでしたら、とりあえず上記の『無神論』は、事典的な概括を与えてくれるはずです。

おそらく「無神論」ということで最も考えやすいのは、一切の精神的・超越的次元を否定する流れで生じてくるタイプのものでしょう。その点では、啓蒙主義辺りから、フランス唯物論というものがそれに当たるでしょう。

しかし、もう一方には、あまりにも深遠すぎる超越を考えるところから、普通の意味での人格神を超えてしまって、外見上「無神論」になってしまうというものもあるようです。もしかすると「仏教の無神論」というのもそのタイプかもしれません(言及されたその著作は未見ですが。そう言えば、『東洋的無』の久松真一氏にも『無神論』というような著作があったような)。この系統で西洋哲学史上で問題になるのが、フィヒテ周辺の「無神論論争」です。これは、いわゆる「ニヒリズム」という語の母胎ともなった論争です。

そんなわけですので、関連した文献を探そうとすれば、それこそ五万とあると思いますので、むしろ問題は、関心の絞り方だと思うのですが、いかがでしょう。

No.797

Re:無神論の文献
投稿者---柳林南田(2002/08/05 02:05:45)
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/


「懐疑論的無神論」に反対して、「神の不在」の積極的な論証を試みるものが読みたいのですが。

>お尋ねが漠然としすぎているので、そうえいば、文庫クセジュにもアルヴォン『無神論』(白水社)などというのがありましたね、という程度のことしか申し上げようがありませんが……

見てみます。


>おそらく、お考えになっている「無神論」というのは唯物論的哲学の系統でのことだと思いますので、それでしたら、とりあえず上記の『無神論』は、事典的な概括を与えてくれるはずです。

『林達夫著作集3 無神論としての唯物論』(平凡社、1971)
というのを発見しました。これも見てみます。林達夫著作集の他の巻は重要でしょうか。

>そう言えば、『東洋的無』の久松真一氏にも『無神論』というような著作があったような)</small>。この系統で西洋哲学史上で問題になるのが、フィヒテ周辺の「無神論論争」です。これは、いわゆる「ニヒリズム」という語の母胎ともなった論争です。


出版社名 法蔵館
書籍名 無神論
シリーズ名 法蔵選書 6
著者名 久松真一/著
出版年月  1981年10月
ページ数・版型  232P 20cm
ISBNコード 4-8318-1006-1
価格 1,600円 (税別)品切れ

これですか。

No.852

Re:無神論の文献
投稿者---こば(2002/09/19 05:40:48)


>しかし、もう一方には、あまりにも深遠すぎる超越を考えるところから、普通の意味での人格神を超えてしまって、外見上「無神論」になってしまうというものもあるようです。もしかすると「仏教の無神論」というのもそのタイプかもしれません(言及されたその著作は未見ですが。そう言えば、『東洋的無』の久松真一氏にも『無神論』というような著作があったような)

久松真一や西谷啓治は、一神教ー無神論ーニヒリズムー仏教的無ー禅思想の空、という順序で西洋哲学史から仏教禅思想への連続性をストレートに考えているようです。しかしながら、西欧における無神論の「無」と仏教的「無」を同じ「無」であると主張するにはそれなりの論理的論証的手順が必要となりましょう。

そこで、この両者の「無」の連続性を考察する格好の書物として、ロジェ=ポル・ドロワ著『虚無の信仰ー西欧はなぜ仏教を怖れたか』(島田裕巳、田桐正彦共訳、トランスビュー)なんて如何でしょう?19世紀の哲学者たちが仏教を無神論として怖れた経緯が書かれています。

といっても未読ですので本の紹介まで。

No.798

出版社
投稿者---柳林南田(2002/08/05 22:59:39)


下記の本や、「無神論者の葬式ガイド」と言うような本を翻訳出版してくれそうな出版社はありますか?米国ではキリスト教の力が強いせいか、それに対抗する無神論者の運動もありますが、日本ではあまり一神教の伝統がないので無神論の伝統もないということかな?


>英語圏では、
>Atheism:The Case Against God
>George H. Smith
>http://www.prometheusbooks.com/site/catalog/ath4.html

 


No.855

お詫びとご報告
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/24 23:56:39)


皆さまには、いろいろ書き込んでいただいておきながら、すっかり放置した恰好になり、申し訳ございません。実は、17日から本日まで、ヨーロッパに出かけており、家主は不在でした。今回は、ドイツでのある学会での発表のために、出かけることになりました。

今回の旅程は、ロンドン → チューリッヒ → フライブルクというものでした。また個々のご報告は改めて、この掲示板に書き込んでいきたいと思います。

また、提供されたいくつもの話題も、食指の動くものばかりですので、追々口を挟ませていただこうと思っております。とりあえず、本日戻りましたので、帰国の第一報です。

 


No.856

Itineralium(旅程)
投稿者---こば(2002/09/25 00:28:54)


おかえりなさいませ。

ロンドン→チューリヒ→フライブルクという旅程こそ興味をそそられる地名ばかりです。その中でプロスペロウさまの魂がどのような段階を経て何を認識されたのか、果たして神(!)へと昇天されたのか否か、はたまた煉獄を彷徨われたのか否か、食指を通り越して胃酸で胃が焼き尽くされる想いであります。追々お聞かせ頂きたく。

まずは、御旅行おつかれさまでした。

No.857

お帰りなさい&ロバ
投稿者---Juliette(2002/09/26 14:58:05)


Prosperoさま、おかえりなさいませ。
今年の夏は東欧の方は洪水で大変だったそうですが、Prosperoさまの旅程では問題なさそうですね。
旅のご報告、楽しみに待っております。

ところで、久しぶりにこちらのHPへ寄らせていただいたのですが、蒐書記に追加がありましたね。
その中で一つ、予想通りProsperoさまもお読みになっていらしたのだ!と嬉しく思ったものがあります。
それはN. Ordine, Giordano Bruno und die Philosophie des Esels, Wilhelm Fink Verlag 1999.
(オルディーネ『ジョルダーノ・ブルーノと驢馬の哲学』)です。私はこの夏、『ロバのカバラ』(加藤守通訳・東信堂)
という邦訳で読みました。ブルーノの著作を読んだことのない私でも十分楽しめました。

私がこの本に興味を持ったのは、メニッペア&メタファー&ロバというつながりから、『ツァラトゥストラ』第4部のロバを
中世の視点で読み直す手がかりがどこかに潜んでいるのでは?と思ったからです。でも、ブルーノにおける
ロバのメタファーはあまりにも多様で(しかもかなり両義的なものも含まれており)、ニーチェがイメージしていた
だろうと思われるロバには到底集約されうるものではありませんでした。(もっとも、ニーチェのロバも世間で出回っている
「何事にもJaとしか言わない愚民的なイメージ」以上に、なかなか多様な意味をもっているとは思うのですが・・・。)
けっきょく、恥ずかしながら中途半端に思考を中断したまま現在にいたっています。
Prosperoさまは、両者に何か「つながり」のようなものをお感じになりますか?

No.858

ロンドン
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/26 22:54:19)


>こば殿、Julietteさま
ねぎらいをありがとうございます。

しかし、オルディネのブルーノの本は 『ロバのカバラ』の邦題で6月に邦訳が出たばかりなのですね。これは知りませんでした。お教えいただき、ありがとうございます。最近は、森さんにお教えいただいた『思想』のバフチン特集も含め、どうも新刊和書という足元が怪しいようです。しかし、それにもかかわらず、不思議に話題が共鳴してしまうようですが。この「ロバ」の話題も、また改めて。

まずは、旅行の報告です。今回は、目的地は学会のあるフライブルクではあったのですが、その前後を、ロンドンとチューリヒで囲む形で旅程を組みました。最初はロンドンに入って二泊、コロキウム当日にチューリヒに飛んで、そこから陸路フライブルクへ、帰りは再びチューリヒに戻って一泊してから帰国という、割合に慌しい移動でした。

 そこで、まずはロンドンの様子から。始めてのイギリスで期待していた割合には、まずはヒースロー空港の名にし負う手続きの悪さのため、空港を出るのに優に一時間を費やし、まずは第一印象が大幅に損なわれました。空港からロンドン中心部へはヒースロー・エクスプレスという成田エクスプレスのようなものが走っており、パディントン駅まで直通ですが、そこからは地下鉄で移動。ロンドンの地下鉄は相当に深いところを走っており、大英博物館の最寄駅ラッセル・スクエア(投宿先もこの近く)もとにかく深いし汚い。階段脇には、「地上に出るまで176段あります。緊急時以外は使わないように」などという表示が。エレヴェーター(あちらでは「リフト」と呼ぶ)も、まるで工場の機械を運ぶもののように大きく殺風景。何に限らず、ものを飾るという意識があまり見られないのは、どこにも共通している感覚のようで、使えれば良いというアングロ・サクソン的質実剛健の風情があちらこちらに伺えます。

 目的は、当然に古書店ですが、有名なチャリング・クロス街(大英博物館の近く)に行ってみて驚きました。ヘレン・ハンフの『チャリング・クロス街84番地』から、閑静な路地のようなところを想像していたのですが、実際はロンドンの中心部近くの相当に賑やかで大きな通りで、Blackwell’sなどの大型の新刊書店なども店を構えています。古書店も点在してはいるものの、軒先まで古書が溢れているという感じではなく、比較的小奇麗に整頓されていて、掘り出し物がごろごろしているという雰囲気ではありません。店に入って、いくつかの探求書を訊いてみるが、めぼしいものの在庫はなく、肩透かしを食ったような思いで、諦めて美術館巡りへ。ナショナル・ギャラリーとテイト美術館へ回りましたが、これはとにかく一日では見切れないくらいに巨大。目当てとしていた、ホルバイン『大使たち』、ブロンジーノ、ジョン・マーチン、ターナーの晩年の水彩などを拾って、あとは適当に素通りするという実に贅沢な状態で、全体をざっと流してきました。数日でも閉じ籠っていられるようなところではあるので、わずか一、二時間で出てきてしまうというのは実に勿体無いところですが、短期滞在なので致し方のないところです。

 それにしても、マーチンのメガロマニアぶりには相変わらず圧倒されます。『最後の審判』という主題には、そのマーチンの誇大妄想癖が存分に現れていて圧巻です。しかしマーチンの画全体に共通して言えることですが、この画家は風景(とりわけアルプス風の山岳の遠景)の見事さに対して、人物の描き方が実に拙劣です。人間にほとんど関心がないかのようです。

 もう一つ、ターナーの晩年の油彩・水彩は、絵画の限界に触れてしまったある種の狂気を感じさせます。ますます形態がなくなって、抽象絵画の域に近づいていきます。「完成、あるいは未完成?」という標題のつけられている一室があって、たいていの人は一目見るなりさっさと出ていってしまうそのブースが、今回の私にとっては一番の目玉でした。何が描いてあるのかもはや判然としないものばかりを蒐めた一室なのですが、こういう実験をしたターナーという画家には、メルロ=ポンティがセザンヌに感じ取ったような「見ること」の識域に接した危うさと魅力を感じます。

 ということで、次回はもう一点、ロンドンの古書店のお話を。


No.865

Re:ロンドン
投稿者---柳林南田(2002/10/09 04:55:53)


> そこで、まずはロンドンの様子から。始めてのイギリスで期待していた割合には、まずはヒースロー空港の名にし負う手続きの悪さのため、空港を出るのに優に一時間を費やし、まずは第一印象が大幅に損なわれました。空港からロンドン中心部へはヒースロー・エクスプレスという成田エクスプレスのようなものが走っており、パディントン駅まで直通ですが、そこからは地下鉄で移動。

Heathrowは確かに悪名高いですね。アジアからの便はすべてHeathrowにつくと思いますが、大陸で乗り換えればHeathrow以外の空港(Gatwick, City, Stansted)につく場合もあると思います。

No.864

ロンドンの優雅な古書店主
投稿者---prospero(管理者)(2002/10/06 13:50:43)


 今回のロンドン滞在の最大の目的は、以前から付き合いのあった古書店主と個人的に会うことでした。ナショナル・ギャラリーとテイトを大急ぎで見終わると、すでにその古書店主(P氏という)とホテルで会う約束をした時間。車で迎えに来てくれたので、同乗して、その方のお家に招かれる。実はこの古書店、店舗をもたず、もっぱら通販で営業をしているので、自宅に本を置いてあるとのこと。訊いてみると、ロンドンに店を構えて維持していくのは費用もたいへんなので、このような営業形態を取っている古書店は多いらしい。きわめて気さくで、こちらの語学力を考えてか、たいへんに分かりやすい英語で話してくれるその方のお宅は、Cloudesley Squareというかなり閑静な一角にあって、小ぢんまりとした良い雰囲気の一戸建て。その人も、ロンドンは騒がしい街ではあるが、その気になって探すと、結構静かな場所を見つけることができると言っていたが、確かにさほど中心から離れているわけではないのに、一歩入ると急に静かになる区画というのが点在しているようだ。

P氏宅は、大きくはないが、内部へ入ると、廊下・階段には版画や油絵が一杯に飾ってあり、ちょっとした美術館のよう。ローランドソンの手彩飾銅版画なども飾ってあるので、訊いてみると、商売で扱っている古書のなかで、ばらばらに破損してしまった本があり、その中から挿絵だけ抜いて額装したとのこと。この辺は、やはり古書店主ならではといったところか。本はそれほど多くはないが(本棚にして10棹くらいか)、粒ぞろいの稀覯書が犇いているといった趣で、しばらく好きに見せてもらう。だいたいはカタログなどで見知っているものだが、やはりこれだけ現物を前にすると流石に壮観。ほとんどが18世紀から、たまにあっても19世紀のもの(それも18世紀に出た書物の後の版)で、ロマン主義などという「新しい」ものは置いていない。当然、クロス製の書物などは数えるほどで、すべては子牛皮装(イギリスの18世紀の書物は、フランスと違って、モロッコ皮はあまりない)。

私はバスカヴィル版という、18世紀活字の花形と言われるものを見せてもらいたかったので、いくつかを訊いてみる。しかし、「バスカヴィル版のシャフツベリはありますか」などと訊こうものなら、「あぁ、1773年ね」とか、「アディソンの全集が欲しいけど」などと言うと、「1761年のあれは結構よく出てくるよ」といった具合に、書名にすべて刊行年が入った答えが返ってきて舌を巻く。結局、この二点は、在庫はなく、探しておくということにはなったのですが。

ところで、このご主人のP氏は、「文学博士」PhDをもっている。しばらくは大学でも教えていたようだが、かなり前に辞めてしまったらしい。「もう義務は嫌だから」と言っていたが、大学との関係は残っていて、論文審査などには呼ばれるらしい。何しろ、つい数年前には、イギリス18世紀哲学関係の事典の編集もしているくらいで、その分野では学者としても名の知れた人物。にそれが同時に古書店主であるわけで、日本ではなかなか考えにくいスタイルだろう。これまでは古書の売買を通じてのやり取りで、断片的には分かっていたことではあるが、こうして本人に会って、いろいろと見聞きすることで、そうしたスタイルを実感する訪問となった。

No.866

Re:ロンドンの優雅な古書店主
投稿者---Juliette(2002/10/11 09:24:24)


すてきな邂逅をご経験されたのですね。P氏のご自宅の様子(お庭などもきっと手入れが行き届いていることでしょう)が
ああかしら、こうかしら、と想像されて、とても楽しく拝読しました。

P氏はPh.Dをもっていらっしゃるのに研究職を退いて古書店主をなさっている(しかも完全な引退ではない)とのこと、
ほんとうに「優雅な」という言葉がぴったりです。日本という市場経済的な価値でしか物事を見られない片寄った社会のなかでは、
人文系の学位はとっても役に立たないと見られがちで、「研究者になるくらいしか道は残されていない」という言い方がよくされます。

また、地域社会と大学との相互的発展を目指す「ガウンとタウンの融合」などというフレーズにも現れているように、
日本はどうもアカデミズムと市場が分離して捉えられがちです。

前前から気になっていたのですが、これはやっぱりおかしい。P氏のような自由でかろやかな振る舞いの出来る人が日本に
少ないのは、そうした社会のあり方に起因しているのでしょう。残念ながら私には古書店主の知り合いはおりませんが、
いわゆる「研究職」に就いている知人・友人は多くいます。彼らはそれぞれに魅力的な人たちですが、本当に「自由」を感じさせる人は
なかなかいません。

だからこそ、一昨日ノーベル化学賞を受賞した田中さんのような方がことさら大きく報道されるのでしょうね。

No.867

アマチュアの復権
投稿者---prospero(管理者)(2002/10/13 00:26:06)


>いわゆる「研究職」に就いている知人・友人は多くいます。彼らはそれぞれに魅力的な人たちですが、本当に「自由」を感じさせる人はなかなかいません。

私はこの状況をアマチュアの不在という風に理解しています。もちろんそのアマチュアはプロフェッショナルとの対比ではなく、あくまでも「愛好者」という意味です。どうにも日本の文系の研究者は、(ある意味では真面目であるが所以なのでしょうが)惰性か義務に流れがちで、好きだから続けているという雰囲気を発散させ続けている人は稀のように感じます。書物の世界にもそれが反映してしまって、いわゆる「紀要論文」を束ねて綴じただけのものが「書物」として通用してしまったりもします。翻訳に至っては、多くの「専門書」は「頼まれ仕事」や「業績作り」に堕してしまっているので、その原著に惚れ込んだ挙句に日本語にしたというようなものは、ごくごく限られたケースでしか存在しません。前にも話題にしたことですが、こうした状況の中で、思い入れのある「訳者あとがき」などが書かれることのほうが不思議なくらいでしょう。

私が古書を蒐め始めたときの中心領域は、18世紀イギリス思想で、現代のリプリントやモダン・エディションの出ていないものでした。ホガースの『美の分析』やプライスの『ピクチャレスク論』、シャフツベリの『性格論』などから蒐集を始めました。なぜ18世紀イギリスなのか。この領域こそ、まだ専門分化などというけち臭いことの起こっていないアマチュアの領分だったからです。そうした関係で付き合いの始まったP氏自身が、ある意味でそうした18世紀的アマチュア精神を今に残している人物だったというのも、また面白いことでした。ちなみに彼の博士論文(書物として公刊されている)は、Ironic Humeという、ヒュームの研究書です。ここでは、18世紀は哲学の時代であると同時に、スウィフトやデフォーの時代であることも忘れてはならないということが、冒頭に書かれていたと記憶します。「脱領域」やら「学際」などという面妖なことを大仰に言いたてずとも、自然にそうしたことを実践していた文化があるということですね。

そう言う点では、日本社会、なかんずく日本のアカデミズムの貧困は目を覆わんばかりです。プロの技術が使えるアマチュアが切望されます。

先へ
HOME