gewesen13.html 理性・選書

口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ

(過去ログ)

 


No.786

感性・悟性・理性
投稿者---Juliette(2002/07/31 14:53:08)


もしかしたら、この手の質問はこのBBSでは既出かもしれませんが、うまく探せなかったのでお尋ねします。

通常、日本語で「感性」「悟性」「理性」と訳されているSinnlichkeit,Verstand,Vernunftの3語
(ラテン語だと、sensus,ratio,intellectusでしたっけ?)ついて、その分類の系譜を整理したいと
思っているのですが、一番古そうなところだと、スコテゥス・エリウゲナあたりだと聞いています。
その後これをトマス・アクィナスが踏襲して、さらにクザーヌスがさらに区別を明確にして、
それぞれの認識能力を明らかにしたのだと。だいたいこれで合っていますか?

さて、そこで、これらの語が日本語に訳されるときにどういう紆余曲折があったのか、
どこかにまとめて研究されているようなものがあったらご教示いただきたいのですが・・・。

以前、長谷川訳の『精神現象学』についてのスレッドで、Prosperoさまも 

>通常「悟性」という良く分からない訳語が当てられるVerstand

と書いておられましたが、この「良く分からなさ」の源を大づかみにでもわかりたいのです。

例えば、黒崎政男氏は『カント「純粋理性批判」入門』などで素人にもわかりやすい説明を試みていますが、
Verstandが認識能力のヒエラルキーの中でVernunftより偉かった時は「知性」と訳されて、
Vernunftにその首位を取って代わられた後では「悟性」と訳されるんだ、というようなことを
言っておられたと記憶しています。(←これって、本当ですか?)

いずれにしろ、この辺りのことで参考になりそうな文献がありましたら教えていただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。

 


No.787

Re:感性・悟性・理性
投稿者---こば(2002/07/31 17:13:06)


>通常、日本語で「感性」「悟性」「理性」と訳されているSinnlichkeit,Verstand,Vernunftの3語
>(ラテン語だと、sensus,ratio,intellectusでしたっけ?)

ratioが「理性」、intellectusは「知性」じゃなかったでしたっけ?

但し、ラテン語ratioにはドイツ語Vernunftのように認識能力としての「理性」といった意味はさして含まれてないと思います。寧ろratioはギリシャ語logosと同じく、認識主体の認識能力というよりは認識されるものの「理由、根拠、比例、事情」といった意味合いの方が強いかと私は考えます。
私は今、授業の関係でトマス『神学大全』第88問を読んでいるのですが、ドイツ語Vernunft程の重みを持たない軽い意味でのratioという語はかなりよく見かけます。寧ろトマスの関心事はratioの確定よりは、sensusとintellectusの関係を規定することにあったのではないでしょうか。

>Verstandが認識能力のヒエラルキーの中でVernunftより偉かった時は「知性」と訳されて、
>Vernunftにその首位を取って代わられた後では「悟性」と訳されるんだ、というようなことを
>言っておられたと記憶しています。(←これって、本当ですか?)

そのような話は私も聞いたことがありますが、そういった訳語の混乱は日本語上の混乱であるよりもラテン語のドイツ語訳に起因しているのではないでしょうか。学術用語としてラテン語からドイツ語に取って代わられた時代、恐らくはバウムガルテン辺りの時に件の三つの術語が導入され、それらがカントによって明確にされたと記憶しております。


No.788

Re:感性・悟性・理性
投稿者---こば(2002/07/31 19:59:58)



>そのような話は私も聞いたことがありますが、

話が途中で終わってしまって恐縮です。理性、悟性、感性の起源の話、元ネタが何処にあったのか思い返してみて、ようやく思い出しました。坂部恵『ヨーロッパ精神史入門ーカロリング・ルネサンスの残光ー』(岩波書店)所収「第十八講 理性と悟性」に詳しい話が載っています。興味があればそちらをご覧下さい。

ただ、上のスレッドの私の物言いは不正確でした。坂部氏の同著を元に訂正させて頂くと、まず、カント『純粋理性批判』においては、Vernunft−Verstand−Sinnlichkeit、ratio−intellectus−sensus、「理性ー悟性ー感性」という序列が見られるのですが、しかしスコトゥス・エリウゲナ以来の伝統によれば、intellectus−ratioーsensusというのが元の序列だったそうです。(ただ中世において認識能力としてのratioの用法は極めて特殊な使い方だと私は思うのですが。)カントは、バウムガルテン『形而上学』のintellectusの概念の内、神のintellectusを切り離して人間の有限なintellectusのみを取り扱った結果、intellectusはratioの下位に転ずることとなった、と書かれています。intellectusが中世においては「知性」、カント以後においては「悟性」と訳されることについては、坂部氏によれば、「慣行としておいおい確立しつつある」と書かれており、それに続いて「ちなみにintellectusの語はドイツでも今日に至るまで揺れがある」とか。

なので、「悟性」という訳語が不明確なのは、ドイツ語そのものに揺れがあることに一因がありそうです。

No.789

Re:感性・悟性・理性
投稿者---Juliette(2002/08/03 10:59:29)


こばさま

丁寧なレス、ありがとうございました。

>坂部恵『ヨーロッパ精神史入門ーカロリング・ルネサンスの残光ー』(岩波書店)所収「第十八講 理性と悟性」

をさっそく読んでみます。わたしが先に挙げた黒崎政男氏が坂部氏の影響をかなり受けて先の発言をされたことは十分考えられると思います。

>しかしスコトゥス・エリウゲナ以来の伝統によれば、intellectus−ratioーsensusというのが元の序列だったそうです。

たしかに、そのようですね。この辺のことは、難波田春夫『危機の哲学』、もしくはヤスパースの『ニコラウス・クザーヌス』あたりに
詳しく出ているみたいです。これから図書館で調べてきます。
また何かご報告できることがありました、こちらに書かせていただきます。

ありがとうございました。

No.794

能動知性
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/04 14:40:48)


>Julietteさま

お返事遅れました。こば氏に応答してもらえたようですので、そこで触れられなかったことだけを簡単に。

中世末期から近世の初頭にかけて、ラテン語のratio - intellectusが、Vernunft -Verstandと独訳されることで混乱が生じたということがあるようです。加えて、日本語のもっている「理性」、「知性」、さらには「精神」(mens)というそれぞれの語のニュアンスがまたそれに拍車をかけているようです。認識能力の序列としては、ratioは対象的・媒介的認識であるのに対して、intellectusは「直知」に近いより高次の能力ということになるでしょう。

クザーヌスの場合は、これが明確です。ratioは、その言葉の元の意味に即して、「比例」による認識、対象的な測量にもとづく認識ということになり、intellectusは、そうした対象面を突破する知的洞察力を指すと思います(「知ある無知」)。こうなると、日本語での訳語が困ります。中世哲学の訳語の習慣だと、ratioは「理性」、intellectusが「知性」となりますが、クザーヌスの場合の比例的・漸近的認識を「理性」と呼ぶことにはかなりの抵抗があります。これはすでに、カント的な「悟性」に近いので、クザーヌスに関しては、「感覚」-「悟性」-「理性」という訳語を使う場合もあります。「悟性」という分かりにくい言葉を避けようとすると、「感覚」-「知性」-「理性」という組み合わせを使うことになり、そうなると今度は、通例の「感覚」-「理性」-「知性」という序列と逆になってしまうわけです。それを避けるために、「感覚」-「理性」-「精神」というセットを使ってみたこともありますが、「精神」はmensに対しても使わないといけないので、結局は機械的に対応させるのには無理があります。この辺は、どの訳者も困っているところだと思います。

もう一点、中世から近世への認識能力の変化に際しては、「能動知性」(intellectus
agens)の問題をどのように整理するかという問題も欠かせないと思います。一般に能動知性は、近世に入って切り落とされたと考えられがちですが(坂部氏の整理でもそうだったでしょう)、ドイツ観念論などは、知性の不滅性や単一性、実体と主体の同一性など、まさに能動知性論、それもラテン・アヴェロエス主義の近代版という趣があります。

さらに、私として今気になっているのは、そのラテン・アヴェロエス主義とスピノザとの関係です。一般的にあまり指摘されませんが、どうもスピノザは、レオーネ・エブレオなどを通じて、ラテン・アヴェロエス主義的な知性論に親しんでいたらしく、『エティカ』の知性の「第三種的認識」という積極的認識には、そうした能動知性論の名残があるように感じられます。デカルト-スピノザ-ライプニッツという通例の路線ではなく、中世末期の知性論-スピノザ-ヘーゲルという強力なラインで近代哲学を考えるのも刺激的かと夢想しているところです。



No.801

近代合理性の起源
投稿者---Juliette(2002/08/06 11:29:59)


こばさま、Prosperoさま

ご教示ありがとうございました。坂部氏の『ヨーロッパ精神史』を読んでみました。(第12講、第18講のみですが)
大変参考になりました。
おっしゃるように、この辺の序列を明確に整理するためには、ラテン語からドイツ語への、そしてドイツ語から日本語への訳語の問題が大きく、
なかなか一筋縄でスッキリとはいかないようですね。

しかし、そもそも私がこの件をお尋ねしたきっかけは、最近たまたま読んだ田村正勝『社会科学のための哲学』(行人社)という本で、
近代合理主義の起源について触れた個所があり、著者の整理に従えば、「ギリシャ語のロゴスが中世においてratio(悟性)というラテン語に
翻訳されたが、このラチオは英語のratioが比率を意味するところから窺えるように、ロゴスの概念のうち比較衡量すなわち分析的ロゴスだけを
受け継いだ言葉である(中略)このように近代ヒューマニズムが産み落としたところの科学主義は、分析的ロゴスを重視するところの悟性主義
つまり合理主義に他ならない」「スコテゥスやクザーヌスなどの分類による感性(sensus)、悟性(ratio)、理性(intellectus)の人間の三つの
認識能力のうち、悟性的認識だけを重視する合理主義の時代が確立した」とうことだそうです。
ここで、以前読んだ黒崎氏の『カント『純粋理性批判』入門』における分類(ratio=Vernunft=理性、intellectus=Verstand=悟性)と違うことが
気になったのです。

そこで、さらにProsperoさまのおっしゃる「能動知性の問題」等を加味しますと、話はますます複雑に(興味深く)なってきます。
「近世に入って切り落とされたと考えられがち」な能動理性が、じつはドイツ観念論においてなお生き続けていたとするなら、
近代がその旗標としてきた理性はどこにその始まりを遡ることができるのか、再考が必要となってきそうです。


No.854

Re:近代合理性の起源
投稿者---ながしま(2002/09/22 05:25:46)


こばさまが新たに投稿されていたのでツリーを読み直したのですが、改めて興味深く感じ
ました。
 坂部氏の『ヨーロッパ精神史』は買ったきり読んでなかったのですけれども、やはり読
むべきかと思い直しつつ。(^^;


さて、ラテン語のintellectusですが、通常、「知性、直知、理解(知解)」などの訳語が
あると思います。

 「知性」と訳される場合のintellectusは、sensus(感覚)やimaginatio (表象、想像)
とセットになる『デ・アニマ』系の文脈で、アナログデータである感覚情報を、抽象作用
でもって知性が扱うデジタルデータにする、という感じでしょうか。(^^;; (眉に唾して
読んでください)

 次に「直知」と訳される場合ですが、これが通常ratio(理性)と対置されて出てくるも
のだと思います。能力論・徳論系の文脈と申しましょうか。 ratiocinatio(推論、推理)
という用語もあります通り、ratioは通常、物事を順序だって考え、真に至るような知的能
力。それに対してintellectusはもっと直感的にしか真を知り得ないような事柄に関わる知
的能力。つまり、「全体は部分よりも大である」というような「論証不可な諸原理
principia indemonostratibilia」を守備範囲にするような知的能力です。
 いやアリストテレス『ニコマコス倫理学』のある箇所で、明らかにヌースという語をこ
の意味で使っているのに、朴一功訳(京都大学出版会)は「知性」と訳してまして、それ
に対して先行する加藤信郎訳(岩波全集版)や高田三郎訳(岩波文庫版)は「直観」「直
知」と訳してます。だから朴訳では意味不明な訳文になると、昨日、ある研究会でケチを
つけてきたばかりだったので。(^^;

 最後に、「理解」と訳される文脈ですが(ちなみ個人的な好みの問題でしょうけど「知
解」という素性不明の訳語は私は好きではありませんが、中世哲学ではしばしばそういう
訳語があてられます)、通常、「信仰」と対置されるような信仰論の文脈です。おそらく
アウグスティヌスの「理解を求める信仰、信仰を求める理解」に表現されるような対置関
係だと思います。日本語で「信仰と理性」というセットの表現が使われるように、この文
脈でのintellectus はあまり理性 ratio と区別されているとは言えないと思います。


それから、「能動知性」の議論は難解なのであえて避けさせてもらいます。(^^;;;
 それと、ヨハネス・スコトゥス(エリウゲナ)が源泉でそれをトマスが踏襲して・・・
というのは、正直、「ホントですか?」って印象を受けます。いや単に、トマスがエリウ
ゲナを引用しているのって読んだことがないから、というただそれだけの理由ですけど。
偽ディオニシウスが・・・という説明なら、さもありなんと思ってしまうのですが。ある
いはむしろ、認識の初段階ということでスコラ哲学に大きな影響を持ったのはボエティウ
スの『哲学の慰め』ではないかと思うのですけれども。

No.851

Re:能動知性
投稿者---こば(2002/09/19 05:22:32)


>もう一点、中世から近世への認識能力の変化に際しては、「能動知性」(intellectus agens)の問題をどのように整理するかという問題も欠かせないと思います。一般に能動知性は、近世に入って切り落とされたと考えられがちですが(坂部氏の整理でもそうだったでしょう)、ドイツ観念論などは、知性の不滅性や単一性、実体と主体の同一性など、まさに能動知性論、それもラテン・アヴェロエス主義の近代版という趣があります。

>プロスペロウさま

随分前の御投稿に就いて質問を差し上げるのは心苦しいのですがお許し下さい。

ラテン・アヴェロエスの「能動知性」はトマスによっては質料性という制限を加えられており、また一般的には13世紀においてアリストテレスの説として広まったラテン・アヴェロエス主義は巴里大学の中で教えられることを禁じられていました(知識は幾分不正確かもしれませんが)。知性の不滅性や単一性の説は完全に異端とされていました。つまり、同じ中世の「能動知性」と言っても、トマスを代表とする「正統」の「能動知性」とラテン・アヴェロエスが唱える「異端」の「能動知性」ではかなりの温度差があるということです。

そこで、トマスが考えるような「正統」の「能動知性」は近世に至り、オッカム、クザーヌスを経て没落の一途を辿り、カントによって完全に葬り去られた、しかし「正統」の「能動知性」が下降するとともに、地盤沈下のようにして、中世においては「異端」とされてきたラテン・アヴェロエスの「能動知性」は上昇して日の目を見るに至り、(プロスペロウさんが仰る)クザーヌスースピノザーヘーゲルのラインで後者の「能動知性」は受け継がれていった、と勝手に推測してみましたが如何でしょう?つまり、坂部氏の語る、近世に至って切り捨てられた「能動知性」は中世における「正統」の方であるのに対して、プロスペロウさんが中世ー近世の連続性の中で捉えている「能動知性」は中世における「異端」の方なのではないか、と想像してみました。

坂部氏とプロスペロウさんの「和解」は成ったでしょうか?

No.877

能動知性の周辺
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/12 22:07:08)


こちらの話題も気になりながら、すっかりと間が開いて、気が抜けたようになってしまって申し訳ありません。

ながしま様ご指摘の「ヌース」の訳語ですが、私も「直観」とするのに賛成です。アリストテレスの場合は、ヌースは機能の点で、ときに「感覚」(アイステーシス)と並べられたりもしますので、なおさら「直観」という語が活きてくると思えるからです。ハイデガーなどは、ここに存在了解のありさまを見るような解釈をしたりしていますね。

ボエティウスの『哲学の慰め』の影響というのは興味のあるところです。七自由学芸の区分と順序などを最初にきちんと規定したのはボエティウスですし、アリストテレスの論理学関係の著作を中世に伝えた功績も大きいと思います。しかし、著作としての『哲学の慰め』の影響史は、具体的にはどのようなものか、詳しく知りたいように思います。ながしま様はどのようなイメージをおもちでしょうか。

>こば殿

ご指摘の、異端の能動知性のラインは、要約していただいたような路線を私も漠然と考えています。ただ、トマス自体が完全に正当だったかというと、かならずしもそうではなく、1270/77年のパリ大学の禁令では、トマス自身の命題もいくつか含まれていたはずですよね。この辺りも線引きもきちんと考えないといけないと思いつつ、いまだによく整理できていません。どなたか詳しい方のご教示を俟ちたいところです。

それからもう一つ。13世紀の知性論という点では、イスラーム哲学の知性論も落とせないと思います。イスラーム哲学の場合では、10の知性体などという思想があって、能動知性は宇宙全体の中で最低の知性体なのですよね。この辺りになると、まるでお手上げになってしまいます。

それにしても、ドイツ観念論は、能動知性の復活とみなせる部分を多分にもっているにしても、それならシェリングの後期はどうかというような具体的な細目になると入り組んでしまって、一刀両断に断言することが難しくなってしまいます。宿題が山積といったところでしょうか。

No.878

Re:能動知性の周辺
投稿者---劇中の国王(2002/11/15 01:06:05)


突然、おじゃまいたします。
たびたび拝見させていただいております。

このあたりの思想史的なつながりについて
少し興味をもっておりますが、なにぶん素人です。

prospero さんがお考えになっていることに比べれば、
その踏み段にもなっていないようなレベルかもしれませんが、
以下、ネットで調べながら考えてみました。
(参考にしたページがどこまで信頼できるのかはわかりませんが。)

**

スピノザが能動知性の用語を使っていたのかどうか、
わたしにはわからないのですが、
スピノザについては、インデックスのサイト(Topic Index)があります。
(ただし英訳をもとにした索引です。)

それによれば、active intellect の用語は見当たらない(?)ものの、
『エティカ』の第3部命題1には、「われわれの知性 (mind)」は、
「十全な諸観念を持っているかぎりで、かならず能動的である」とあります。

万物の諸観念は、包括と展開のもとにあるかぎりで、
スピノザは、それらを十全な観念と呼んでいると思いますので、
スピノザにおいて、能動的な知性は、
神のもとから万物が展開される様を観照できる知性といってよいのでしょう。
とすると、それは、prospero さんのおっしゃる第三種認識でもあるのでしょう。

能動的な知性は、一なるものと多なるものをつなぐ
いわば媒体の役割(スピノザなら形相的とか一義的と呼ぶのでしょうか)を
担っていると考えてよいかと思います。

ここでは、新プラトン主義のもとで伝えられてきた包括と展開の概念、
いいかえれば、一にして多なるものの概念が、
アリストテレスの能動知性の概念と融合しているように思います。

わたしはウルフソンの『スピノザの哲学』を読んでいないのですが、
彼は、その著作のなかで、スピノザに影響を与えた3人として、
マイモニデス、デカルト、アリストテレスの名をあげているようです。
気になるのはマイモニデスです。

マイモニデスは、12世紀のユダヤ系の哲学者・医師で、
スペイン出身ながら、おもにカイロで活動した人なんですが、
彼の思想においては、人間は、研鑽を積めば、
叡知界の最低のランクにある能動知性に到達することができ(ただし預言者のみ)、
そして、この能動知性をとおして、
万物は神から流出すると考えられているようです。
(たとえば、Jewish Philosophers on Reason and Revelation
(実際のところはわかりませんが、能動知性が
叡知界の最低のランクであることは、上述の媒体を思わせます。)

ということで、上に述べた融合は、マイモニデスかだれか、
スピノザ以前の思想に由来している可能性があります。

マイモニデス自身は、イスラムの哲学者たちの影響を受けており、
そしてそのイスラムの哲学者たちは、
新プラトン主義とアリストテレスの哲学を混淆させていました。

とりわけマイモニデスのもとでは、混淆にとどまらず、
新プラトン主義がアリストテレス主義に置き換えられる傾向があるようです。
(たとえば、なにも説明してはいませんが、From the Bahir to the Zohar

こうした融合、そしてとりわけ置き換えが、
能動知性の概念の歴史を見えにくくしているように思います。
その本体は、新プラトン主義の包括と展開の概念ではないでしょうか。

スピノザの研究者は、スピノザとマイモニデスが
内容的に似ているというだけでなく、
テキストでの言及や蔵書などから具体的に影響関係を跡づけているのでしょうか。
ウルフソンの研究はいつか読んでみたいのですが。

prospero さんの挙げておられるレオーネ・エブレオからの影響も興味深いですし、
また、ブルーノも、アヴェロエス主義の影響で、
新プラトン主義的な包括と展開の概念を
アリストテレスの能動知性とごっちゃにしています。
スピノザの蔵書にブルーノの著作はないと、どこかで読んだことがあるのですが、
スピノザはブルーノによく似ています。

**

ドイツ観念論と能動知性の概念との関わりについては、
本体のほう(?)の包括と展開の概念に着目するなら、
この概念は、まさに観念論の中核をなしているといってもいいくらいですね。

能動知性というよりも、スピノザなど(?)に由来する知的直観の概念
(スピノザにおいては、第5部命題36の系の注で、
直観的な知性が第三種認識と呼びかえられています)が、
一にして多なるものの観照を意味するものとして、
フィヒテ、そして若いころのシェリングやヘルダーリンに
取り入れられているように思いますが、いかがでしょうか。
(フィヒテの場合は、観照というよりも行為的な直観ですが。)

ヘーゲルは、シェリングの知的直観の概念を批判して、
直観や観照ではなく、弁証法による迂回を説いたようです。
でも、それも、最終的には包括と展開の構造をもっている点では、
ちがいはないようにも思えるのですが。

いきなり長々と失礼いたしました。

No.885

スピノザとユダヤ思想、その他
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/17 23:10:47)


>「劇中の国王」さん

はじめまして。いろいろと刺激的な論点をありがとうございます。多岐にわたる問題ですので、少しゆっくりと考えていきたいと思っています。

スピノザにとってのマイモニデスの影響、彼を経由してのイスラームの知性論の受容というのはおそらくかなり有力なラインでしょうね。『神学政治論』での聖書解釈に関しても、マイモニデスは大きな意味をもっているでしょうし、この辺はまた独立したトピックにすらなりそうです。

スピノザの思想的源泉に関しては、ヨエルが、ゲルソニデスやクレスカスといったマイモニデス以外のユダヤ思想家をも踏まえて、スピノザ哲学のユダヤ起源説を大規模に展開して、それに対してクーノー・フィッシャーが反論し、さらにゲープハルトが、スピノザの拠りどころとしてレオーネ・エブレオを挙げるといった具合に、研究者のあいだでも相当に混乱しているようです。それを総括したのが、お挙げになったウルフソンの著作ということになりますね。私もこのウルフソンは未見なので、ぜひ手に入れたいと思います。

スピノザの思想そのものに関しては、『短論文』と『エティカ』でもその知性論はかなり変化しているようですので、この辺りも考慮に入れたいところです。

ちなみに、少々気になったのですが、新プラトン主義との関係でお使いになられている「包括と展開」という用語ですが、これはいわゆる「流出と還帰」というふうに理解して良いのでしょうか。「包括と展開」というと、どうもクザーヌスなどを思い浮かべてしまうので、一応念のため。

ドイツ観念論との関係も面白そうな話題です。彼らのスピノザ好きはかなり筋金入りですから、当時の「無神論論争」なども含めて考えると、これまた非常にお大きな広がりをもった話題になりそうですね。なにしろこの論争は、言ってみれば現代の「ニヒリズム」問題のさきがけでもあるわけですから。

とりあえず、思いついたことのみで失礼いたします。個々の点はまたゆっくりと応答させていただきたいと思います。

No.886

Re:スピノザとユダヤ思想、その他
投稿者---劇中の国王(2002/11/20 00:12:46)


当てずっぽうで性急に書きまくってしまいまして恐縮しております。
ごゆっくり訂正していただけましたらありがたく存じます。

> ちなみに、少々気になったのですが、新プラトン主義との関係で
> お使いになられている「包括と展開」という用語ですが、
> これはいわゆる「流出と還帰」というふうに理解して良いのでしょうか。
>「包括と展開」というと、どうもクザーヌスなどを思い浮かべてしまうので、一応念のため。

中世のイスラムやユダヤの哲学がスピノザに影響を及ぼしているかどうか
という問題について述べているのに、
包括と展開という言葉を用いたのは、時代錯誤でした。
この言葉を本格的に使ったのはクザーヌスなんでしょうね。

先の書きこみでこの言葉を使ったときには、
クザーヌスやブルーノを意識しておりました。

中世の新プラトン主義からの影響といっても、留保したい点がありました。
念頭にあったのは、ドゥルーズのスピノザ論です。

よくご存じのものかもしれませんが、そのスピノザ論には、
スピノザの包括と展開の概念は、その根底に、新プラトン主義の
流出説に対する批判を蔵しているという説も含まれていたと思います。

だいたい以下のような内容だったかと記憶します。

この世の万物は、一者の性質(一性)を多少なりとも含みもっていて、
その多いか少ないかによって序列をもっている、というのが流出説だとすれば、
スピノザは、万物はどれもみな、一者の性質をまったく含みもっておらず、
一者から果てしなく遠く、その点では万物は同等だと考えていた。
スピノザは、この意味での同等性(e'galite' だったか)の観念を抱いていた。

ただし、この説に関連して、奇異に感じることがあります。

ドゥルーズは、この同等性の観念の有無をもとにして、
スピノザとそれ以前の新プラトン主義のあいだに
思想史上の断絶を設けていたように記憶します。

しかし、スピノザが考えていたのと同じことを
クザーヌスやブルーノも考えていたように思うのです。
(あるいは、この両人は新プラトン主義には入らないのでしょうか。)

たとえば、別のスレッドで話題になっておりますブルーノのロバのアレゴリーは、
この同等性の観念をもとにしたものでもあったように思います。

愚鈍の極みにあるロバも、無限の高みにある一者から果てしなく遠い点では、
天翔けるペガソスと同等だ、というものです。

むしろロバこそ、おのれの愚鈍さ、無知に気づきさえすれば、
つまり、事物についておのれの把握した有限な形象が無知で愚鈍で、
その形象には一者がまったく不在であることに気づきさえすれば、
一者がその形象のもとに展開されていることを観照する道が開ける。
反対に、一者を多少なりとも認識した(つまり一者が認識の形象のもとに流出した)
と思い上がっている者は、観照することはできない。

無知な者をロバと揶揄して攻撃する文章もブルーノにはあるかもしれませんが、
おおむね、ロバが自分の無知を自覚して天に昇っていくという内容ではないでしょうか。
無知や愚鈍さの自覚をユーモアと呼んでよいとすれば、
ブルーノは、ユーモアは神に近いというセンスをもっているように思います。

神からもっとも遠く堕落している者こそ
神に近接しているというのは、親鸞の悪人正機説を思わせます。

ということで、話が遠回りになりましたが、
スピノザと新プラトン主義が似ているとしても、
後者は、せいぜいクザーヌス的、ブルーノ的なものにとどまるだろうと思い、
先の書きこみで、包括と展開という言葉を使ってしまったしだいです。

ただし、上にも書きましたが、そもそもクザーヌスを
新プラトン主義のなかに入れるのは無理だったでしょうか。

No.882

ボエティウスの認識論
投稿者---ながしま(2002/11/17 19:23:18)



みなさま、こんばんは。ながしまです。

某学会で上京したのはいいのですが、その後、すっかり風邪を引いて、先週はほとんどふせっていました。そしたらその間に、Prosperoさまに大変な宿題を出されてしまって・・・(^^;;

ところで、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門 ─ カロリング・ルネサンスの残光─』の12、18講を取り急ぎ読んでみました。感想としては、ああ、なるほど、さもありなんという感じでしょうか。(<-- えらそうな言い方)しかし、sensus - ratio - intellectusと並んでいるのはちょっと疑問。どこからとってきたのかしら。前の発言に書きましたとおり、sensus - imaginatio - intellectus と ratio<->intellectus は別系統な文脈のように私は理解していましたので。
 それはともかく、宿題のほうをば (^^;;

>ボエティウスの『哲学の慰め』の影響というのは興味のあるところです。七自由学芸の区分と順序などを
>最初にきちんと規定したのはボエティウスですし、アリストテレスの論理学関係の著作を中世に伝えた功
>績も大きいと思います。しかし、著作としての『哲学の慰め』の影響史は、具体的にはどのようなもの
>か、詳しく知りたいように思います。ながしま様はどのようなイメージをおもちでしょうか。
 『哲学の慰め』五巻に認識の諸段階(先の発言で私「初段階」と誤変換してました、すみません)を述べている箇所があって、後世の哲学研究者たちから好んで取り上げられたところですが、先の私の発言はこの箇所のことを念頭において書きました。
 『哲学の慰め』自体は、ザンクト・ガレンの図書館に写本(確かラテン語原典と俗語訳と両方だったと思うのですが)があったり、後にジョフリー・チョーサーやエリザベス女王が俗語訳したりと、初期中世から中世後期、中世以後もひろく読まれたようです。(写本の伝搬という点では、今年の中世哲学会で野町先生がボエティウスの写本の伝搬について発表されたのですが、ハンドアウトなしでの細かい事実関係だったので、説明をフォローできませんでした。論文化されるのが待ち遠しく感じます)。実際、インキュナブラとしてもヨーロッパ各地で出版された記録がありますし。しかし、それは一般向けの“哲学入門”としてです。
 では、学者からの反応というと・・・12世紀のバースのアデラールが『哲学の慰め』五巻の影響を強く受けているという論文を読んだことがありますが、他はあまり明示的には指摘されていないような気がします。12世紀後半から13前半にかけてアリストテレスが大々的に移入されますが、そしてそれに対抗する勢力がアウグスティヌスの権威を掲げるようになりますが、そうなるとボエティウスの著作というのは学問の最前線から一歩退いたのではないかと思います(<-- 単なる印象です、ちゃんと文献的に確かめたわけではありません)。
 しかし、『哲学の慰め』は哲学入門としてひろく読まれたのですから、学者たちの多くは明示的に引用しなくても当然影響は受けているでしょうし、13世紀以後も大権威として尊敬され続けます。だから、どうなんでしょうね?実際のところ。(^^; (と、肝心の点についてはまったくお答えできてません m(_ _)m )



No.884

『哲学の慰め』の受容
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/17 21:22:23)


>ながしま様

いえ、いえ、そんな「宿題」などというつもりはなかったのですが。

自分で調べるべきことをお任せしてしまったような恰好になってしまったので、遅まきながら、私もクールセルの『文学的伝統における<哲学の慰め>』(P. Courcell, La Consolation de Philosophie dans la tradition litteraire)などを元に少し整理をしてみたいと思います。

確かに、ながしま様が挙げられているチョーサーは『ボエス』によって『哲学の慰め》を翻訳し、題材を『カンタベリー物語』の「修道士の物語」などで利用していますね。ジャン・ド・マンも同様で、翻訳をしたうえで、『薔薇物語』で活用しているようですから、のちのちの文学伝統の中では割合とはっきりと痕跡が伺えますね。ただ、思想的な影響という点ではどうなのでしょうか。

>哲学の慰め』は哲学入門としてひろく読まれたのですから、学者たちの多くは明示的に引用しなくても当然影響は受けているでしょう

やはり、だいたいそのような印象ですよね。あまりに流布したために、個々の影響史は逆に辿りずらいというところなのでしょうか。アラヌス・アブ・インスリスの『アンティクラウディアヌス』のような寓意的文学も当然『哲学の慰め』を何らかのかたちで下敷きにしているでしょうし、ご指摘のバースのアデラードなども『哲学の慰め』から表現技法を借用しているということなのでしょう。

代表的な註解を書いたオーセールのレミギウスが10世紀初頭の人で、それを踏まえたコンシュのギヨームの註解が12世紀ですから、この辺りまでは途切れることのない伝統があったのではないかと想像します。

>12世紀後半から13前半にかけて……ボエティウスの著作というのは学問の最前線から一歩退いたのではないか

この点も同じ印象をもっています。13世紀になると、マクシモス・プラヌーデスが『哲学の慰め』をギリシア語に翻訳して、むしろ影響史はビザンティン世界に移るようです。その後はむしろ、最初に挙げたチョーサーやジャン・ド・マンなどの文学的な影響史ということになるのでしょう。

この手の史実も追跡していくとなかなか面白そうですね。もちろん、写本の系統やその伝播というところに入ってしまうと、私などはとうていそれをトレースするだけの力量はありませんけど。

No.883

「護教哲学者」トマス
投稿者---ながしま(2002/11/17 19:36:00)


ながしまです。
長くなったので発言を分けました。(^^;;;


>ただ、トマス自体が完全に正当だったかというと、かならずしもそうではなく、1270/77年のパリ大学の
>禁令では、トマス自身の命題もいくつか含まれていたはずですよね。この辺りも線引きもきちんと考えな
>いといけないと思いつつ、いまだによく整理できていません。どなたか詳しい方のご教示を俟ちたいとこ
>ろです。
 えっと、詳しくはないのですが・・・(^^;
 例の禁令とトマス主義の関係ですが、稲垣良典先生の『トマス・アクィナス』(講談社『人類の知的遺産』『学術文庫』)で丁寧に解説があります。要するに、ドミニコ会士のトマス派が結束して頑張って、トマス思想を危険視するフランチェスコ会士たちをはねのけたから、後にトマスが「正統」の中心的位置を占めるようになったということでしょうけれども、そういう過程を通じて(例えば有能な批判者ドゥンス・スコトゥスと学問的な論争ができなかった点など)トマス哲学の理解からは遠ざかって行った、と。
 稲垣先生は、今日われわれがトマスを理解するのをさまたげているのは、700年の時間の隔たりよりも、他ならぬトマス主義だと指摘されてます。つまり、今日、われわれがトマスと聞くと、カトリックの護教哲学者というような連想をしてしまうのだけれども、トマス自身の思想はむしろ当時からすれば斬新で危険でさえあった。そういう面を見落としてはまったくトマスは理解できない、というものです。

 まあしかし、その指摘を全面的に受け入れていても、トマスが大系家だった、トマスの研究が進んでいる、indexも整備されている、トマスの著作がもっと入手しやすくだから馴染んでいる、などなどの理由から、「〜について中世の哲学者はどう考えていたか」なんてことになると、トマスの著作から引いてきて中世の哲学者の代表とさせてしまうのですけれども。(^^;;


・選書の不振No.900,prospero(管理者)(2002/12/28 14:41:23)
 ・ Re:選書の不振No.901,Juliette(2002/12/28 22:59:11)
  ・ Re:選書の不振No.903,森 洋介(2002/12/28 23:57:28)
   ・ 入門書不要論No.905,prospero(管理者)(2002/12/29 23:05:34)
   ・ 「わからなさ」の所在No.909,こば(2002/12/31 23:50:03)
    ・ 入門書不要論に非ずしてNo.914,森 洋介(2003/01/01 21:36:46)
     ・ Re:入門書不要論に非ずしてNo.915,こば(2003/01/01 22:33:04)
      ・ わかりにくい話No.918,森 洋介(2003/01/03 01:33:53)
       ・ 入門の入門No.919,prospero(管理者)(2003/01/03 14:01:31)
        ・ 入門によせる期待No.921,Juliette(2003/01/05 22:10:20)
         ・ とりあえずNo.922,prospero(管理者)(2003/01/05 23:44:44)
          ・ Re:とりあえずNo.925,Juliette(2003/01/07 09:53:56)
         ・ Re:入門によせる期待No.923,劇中の国王(2003/01/06 19:36:29)
          ・ 「隙間」から語りだされるものNo.924,Juliette(2003/01/07 09:52:56)
           ・ 入門書のことなどNo.926,花山薫(2003/01/10 21:18:25)
            ・ 『世界の名著』は入門書?No.927,Juliette(2003/01/11 09:29:45)
           ・ Re:「隙間」から語りだされるものNo.928,劇中の国王(2003/01/14 17:18:22)
            ・ ブルーメンベルクNo.929,prospero(管理者)(2003/01/19 12:04:25)
        ・ HegelNo.930,Dietzgen(2003/01/22 16:11:18)
         ・ 過去ログをNo.931,prospero(管理者)(2003/01/22 20:37:44)
         ・ Re:HegelNo.932,Juliette(2003/01/25 12:43:39)
          ・ 直木明さんによる書評(1)No.950,Dietzgen(2003/03/05 01:05:35)
           ・ 直木明さんによる書評(2)No.951,Dietzgen(2003/03/05 01:07:16)
            ・ 直木明さんによる書評(3)No.952,Dietzgen(2003/03/05 01:08:23)
             ・ ネット上でも読めます。No.957,***(2003/03/08 10:06:51)
           ・ Dietzgen=柳林南田No.953,953(2003/03/05 16:11:27)
            ・ ネット人格と偽名の意義No.954,こば(2003/03/06 00:40:43)

No.900

選書の不振
投稿者---prospero(管理者)(2002/12/28 14:41:23)


最近、知り合いの編集者と話していたら、人文書全般の不振という話の流れで、とりわけ「選書」の形態のものが苦戦しているということを聞きました。専門書でもなく、入門書でもないという性格の曖昧さが、その理由のようです。しかし、考えてみると、かつてはこの選書という形態は、自分の直接の関心とは多少ずれた分野のものに関して、入門書のレベルを越えた知識を得たいという要求に応えるものではなかったかと思います(代表的なところで、平凡社選書や筑摩叢書のことを考えています)。ですから、本来は、こういうある種曖昧な中間領域が、人文学的な関心の在り処であるような気もします。それが衰退しているということは、専門家は専門書で固まって、それ以外は入門書どまりという二極分化が進行しているということなのかもしれません。意識の高いアマチュアの領分が狭まっているのでしょうか。

かつて「ちくまライブラリー」などは、少し軽いながらなかなか良いと思っていたのですが、現在は入手できるものも少なくなっているようですね。講談社選書メチエ辺りに期待したいところです。

 


No.901

Re:選書の不振
投稿者---Juliette(2002/12/28 22:59:11)


ご無沙汰いたしました。2週間ほど前からパソコンが接続不能となり、
結局モデムが壊れていたことが分かって、今日新しいものに買い換えました。
すっかり今年も押し詰まってきたという感じですね。

ところで、私も選書の類に非常にお世話になっている者の一人として、
選書苦戦のお話は悲しいばかりです。却って専門書の方が元気があって、
復刻版などが(とりあえずは)色々出されているようで、
あれも読んでみたい、これも読んでみたいという思いが、
本屋に行く度に広がるのですが、確かに選書の類では最近
「これ」と思うものに出会っていません。

装丁や活字の組み方、ラインナップなどを総合的に見て、個人的に
一番好きなのは、「講談社メチエ」です。
黒崎政男のカント、斎藤慶典のフッサールなどは、(専門家から見ると
いろいろ批判もあるでしょうが)非常に面白かった。
選書というにはがっしりし過ぎているけれども、「現代思想の冒険者たち」
も、同様の層を狙ったシリーズという感じがします。随分助けられました。
講談社は専門家と入門者を繋ぐという点で、かなり頑張っている出版社なのでしょうか。
もちろん、平凡社ライブラリーも見逃せませんが。

一方、どれをとっても(すべて読んだわけでないのに不遜な言い方ですが)
なんとなく中途半端なのは岩波の「思考のフロンティア」です。
横書きにしているあたりや、テーマの取り上げ方、筆者のお名前などを見ると、
現代的な問題意識に興味を持っている方をかなり意識しているようですが、(そのこと自体は悪いことではないのですが)なんとなく軽い感じがしてしまうのは
私だけでしょうか?まぁ、同じことは、きっと新書全般にも言えますね。
それとは全く逆に、古風なイメージを守っていて、却ってそこが良いなあと思うのは
「朝日選書」です。

いずれにせよ、最も愁うべきは「自分の直接の関心とは多少ずれた分野のものに関して、入門書のレベルを越えた知識を得たいという要求」そのものが
衰退していることではないでしょうか。読者の側にも大いに責任アリと思います。
「そんなことやって何の徳になる?」という考え方があまりにも世の中を席捲し過ぎているなかで、
いまこそプロ級のアマチュア(?)が求められる時代なのではないかと思う次第です。

年末に、面白いテーマをありがとうございました。
蒐書録も拝見しました。ジョルダーノ・ブルーノとニーチェの関係は、
夏休みに「ロバのカバラ」を読んだ時に頭をよぎった問題です。
発展させてみると、何か面白い思考の連関が開けるかもしれません。

No.903

Re:選書の不振
投稿者---森 洋介(2002/12/28 23:57:28)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 選書といふことでは、まだ新しい所で大修館書店の〈あじあブックス〉が想ひ浮びます。あれも賣れてゐないのか、あまり古書店にも出て來ません。他に類書の無いものを含んだ好シリーズなのですが、但し少々入門者寄りで、いま少し專門向けにつっこんだ記述だったらばと物足りない氣がさせられます。どうせ特化された主題であって一般受けするものではないのですから、詳しすぎかなと思ふ位でちゃうどよいのでは。

>なんとなく軽い感じがしてしまうのは
>私だけでしょうか?まぁ、同じことは、きっと新書全般にも言えますね。

 全く同感、物足りない印象は〈ちくま新書〉にもあり、數百圓出して買ふのが惜しくなります。新書判ゆゑ紙幅の制約があるとはいへ、せめてもっとファーザー・リーディングを充實させてその先へ進む道筋をつけて貰ひたい。〈平凡社新書)〈文春新書〉〈集英社新書〉など、總じて近年發刊の新書シリーズは讀者の程度をいささか見くびってゐるのではありますまいか。それでは賣れ行き不振でも不思議ない。侮る者は侮られる、ですから。
 入門書と專門書との兼ね合ひを取るのはなるほど難事でせうが、兒童書の場合も、高學年向きのつもりで書いた方が低學年層まで喜んで讀んでくれるものになると聞きます。少し難しめの方が知的好奇心を刺戟してくれると思ふのですけれど、如何でせう。

No.905

入門書不要論
投稿者---prospero(管理者)(2002/12/29 23:05:34)


>讀者の程度をいささか見くびってゐるのではありますまいか

昨今の新書類に関してのご意見、お二方にまったく同感です。岩波新書もその類に漏れません(というか、そうした方向の先鞭を切っているような観すらあります)。

極端なことを言うと、人文書、とりわけ哲学・思想に関しては、入門書というものは百害会って一利なしなのではないかとさえ思っています。思想など、アルファベットを憶えるような順番があるわけではなく、自分の中の日常的な思考をどのように揺さぶって、見える風景を換えていくかというところにその真価が懸かっているわけで、その意味では、段階を踏んで読者を導いていこうという入門書の姿勢は、親切なように見えて、その実、基本的な誤解に基づいているのではないかという気すらしてきます。むしろ圧倒的な本物にぶつかってしまうという経験のほうを重んじるべきではないかとも思うのです。

>せめてもっとファーザー・リーディングを充實させてその先へ進む道筋をつけて貰ひたい

これもまったく同感です。望むらくは、吐き気を催すようなデータ満載の註、眩暈のするような文献表がほしいところです。

などと偉そうなことを言いながら、ご紹介の大修館書店「あじあブックス」というのは寡聞にして知りませんでした。書目も面白そうなので、今度現物を確認したいと思っています。

No.909

「わからなさ」の所在
投稿者---こば(2002/12/31 23:50:03)


>總じて近年發刊の新書シリーズは讀者の程度をいささか見くびってゐるのではありますまいか。それでは賣れ行き不振でも不思議ない。侮る者は侮られる、ですから。

思想関係の書物に入門書は不要であって、思想は手順を一から順に学んでゆくものではない、という皆様の御意見に私は賛成します。しかし何か納得できないでいます。というのは、ここで書き込まれる口舌の徒の多くの方々は、人文書に入門書は不要である、と考えておられるのに、世は入門書で溢れ返っている。森さんが取り上げられた所謂「新書ブーム」であります。なぜこれ程までに入門書が出版されるに至ったのか、なぜこれ程までに入門書が必要とされるのか、皆様の御意見を伺いたいところです。

「われわれはしかしながら、ことがらの真を語るのみならず、また誤りの原因をも語らなくてはならない。というのは、そうすることが論議の可信性に寄与するからである。つまり、真ならぬことがらが何ゆえ真と見られているかということが首肯されるとき、ことがらの真はますますその可信性を増大する。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』1154a20-30、高田訳)

入門書がこれだけ出版されるのは、一つには、皆様も仰っていたように、専門家と一般読者の二極分化にあると、私は考えます。つまり、専門家は自分の専門分野のことを専門用語(ジャーゴン)で語る。そうすると、一般読者にはさっぱり訳が分からない。だから、一般読者に分かる本を書いてください、ということになる。すると、そこに目を付けた文芸評論家なるものが颯爽と現れて、「60分でわかるナントカ」のような本が売れるようになる。専門家が専門用語で専門のことを語るというのは、例えば、哲学で言えばプラトンやヘーゲルについて書かれていた昔の専門書を思い浮かべます。イデア、分有、真善美、弁証法、即自存在、対自存在、云々という言葉を矢鱈と振り回す専門家は、しかしながら自分がその言葉を使うことによって何を語っているのか分かっていないのが殆どじゃないでしょうか。専門用語を使うことに酔いしれてその言葉が我々の現実に齎す意味についてまで頭が回らない。そういうふうに分からない専門用語を振り回す専門家が多かったから、だからその反動で(或いは比例して)入門書への需要が高まっているのではないでしょうか。
では専門用語をなるべく用いずに書かれた入門書に利はあるでしょうか。否。入門書とはハウツー本と同じであって、わかってしまえばそれで用済みの説明書と同じです。そこで、入門書が売れる第二の理由ですが、一般読者は「わからなさ」に耐えられなくなっているのではないでしょうか。上述の二極分化とは即ち、わからないから読まないか、わからないから分かり安く書くように求めるか、二つに一つです。わからないものは放って置くか、わかるようにするかどちらかでなければどうも落ち着かない、というのが一般読者の心情でありましょう。しかしそれは、わからない言葉を用いてわかった振りをしている専門家も同じことです。
「わからなさ」に耐えるとは、わからないものはわからないものとして、寧ろ何が分からないのかはっきり言葉で表現するということです。優れた人文書は大抵古典ですが、古典は何が書かれているのかすぐにはわからない。しかし分からないから放って置くのでもなく、分からないから分かり易くするのでもなく、分からない言葉を用いてわかった振りをするのでもなく、「わからなさ」に踏みとどまって何が分からないのか明らかにしてゆくのが、古典を読む力なのだと思います。暗記して繰り返し覚える、ひたすら読む、といった古典に必要な作業が軽視されている日本の現状では、「わからなさ」に耐えられない読者が入門書に走るのも致し方ありますまい。

長くなってしまいましたが、今年も残すところあと10分となりました。皆様良いお年を。


No.914

入門書不要論に非ずして
投稿者---森 洋介(2003/01/01 21:36:46)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>思想関係の書物に入門書は不要であって、思想は手順を一から順に学んでゆくものではない、という皆様の御意見に私は賛成します。

 いえ、私は入門書不要とは申しません。それどころか入門書は必ず要る、是非とも欲しい、とさへ思ひます(特に哲學については、私の立場は皆様と違って入門者のそれでありますからなほさらです)。但し先にも申しました通り、この頃の入門書が、多くは讀者を初心者扱ひするばかりでその先へ啓發する仕掛けに乏しいのには全く惓焉します。とはいへ入門書不要論を述べたのではなく、むしろ良く出來た入門書を求めればこそ不滿も出た次第で。
 遲れてきたニュー・アカ世代として現代思想のチャート式讀解に親しみ、80年代のカタログ文化によって教養形成をしてしまった者としては、その淺薄を非難さるべきことは重々承知で、それでも猶それらに棄てきれない未練、魅力を、感じます。prosperoさんがNo.907でジョンソン博士の二種類の知識の話を出してをられましたが、さうです、その二番目の知識、肝腎な「事柄そのものについての知識」=「私が知ること」以上に「ある事柄に関してどこを調べれば良いかということについての知識」=「誰かが知ってゐることを知ること」に、私は惹かれるのです(フーコー=ベケット風に言へば「誰が知らうと構はない、誰かが知ってゐるのだ……」)。ジョンソンの話はしばしば圖書館學のレファレンス・ワーク論で引かれるものでもあり、私としてはさういふ間接的知識をこの際、書誌的知識とでも呼んでみたい。
 岡村敬二「書誌的世界観をめぐって」(『表現としての図書館』青弓社、1986.2、所收)に印象的なエピソードが引用されてゐます。或る兒童文庫の活動で、子供たちを集めてマジックの實演會をしてみせた……。 

たいていの子は歓声をあげて“教えて、教えて!”とせまります。ところがある子がいいました。「おじさん、ぼく、それ知ってるよ」「ああそうか、じゃ君もみんなの前へ出てきてやってごらん」というと、意外や、「でも、ぼくできないんだ」といいます。「だって、いま、君は知っているっていったじゃない」「知ってるよ、本で読んだんだもん、でもできないんだ……」 (出典/徳村彰・徳村杜紀子『子どもが主人公』径書房)

 ……おお、このコナマイキなガキこそは我が幼年時代の肖像ではなかったか!
 岡村氏はここから「“知っている”ということと“できる”ということは別のこと」「“できないけど知ってる”」といった“書誌性”を如何に克服すべきかに想ひを致すのでありますが、しかし釋然としません。この「書誌性」といふものは、克服されねばならぬ頽落状態なのであるか? 書誌性それ自體の樂しみ、ただ知ることの悦び、さういったものは錯覺に過ぎないのか? 私はそこにこだはってみたく思ふのです。


No.915

Re:入門書不要論に非ずして
投稿者---こば(2003/01/01 22:33:04)


>とはいへ入門書不要論を述べたのではなく、むしろ良く出來た入門書を求めればこそ不滿も出た次第で。

近頃の新書に代表される入門書は物足りないので、書誌情報が充実していて初学者を専門分野の入り口へと誘う様な選書に代表される入門書がもっとあってもいいはずだ、という森さんのご意見は、畢竟prosperoさんが唱える入門書不要論と同じことを意味しているのではないでしょうか。prosperoさんが、入門書が不要である、と仰っているときの「入門書」とは読者を見縊っている近頃の新書に代表される「入門書」のことであり、そういう「入門書」は不要である、と言っても、本来備えるべき機能をもっと充実させるべきである、と言っても結局は同じことを指してると思いますが。

言葉を正確にするために、新書に代表される入門書を狭義の入門書、選書のような入門書を広義の入門書としますか(前者を愛読する人々にとっては後者は入門書ではありませんが、後者を愛読する人々にとっては前者も入門書でありうるので)。ここで書かれている皆様は、前者ではなく後者を求める傾向にある、と私は考えておりますが、如何ですかね?

No.918

わかりにくい話
投稿者---森 洋介(2003/01/03 01:33:53)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 こばさんのお蔭で私の文は論旨が混亂してゐたのに氣づきました。
 何せまづ用字から間違ってゐた。「全く惓焉します」No.914は「慊焉とします」の誤り。「倦厭する」と交ざってしまひました。
 マアそんなのは末節としましても、根幹の論理が徹ってゐなかった。選書の話をしてゐる所に新書の話を持ち込んで、結局の所、新書といふ入門書に對して選書といふ入門書以上のものに相當する内容を求めてしまったわけです。
 ですからこばさんが「新書に代表される入門書を狭義の入門書、選書のような入門書を広義の入門書とし」、「ここで書かれている皆様は、前者ではなく後者を求める傾向にある」と見るのには同意です。成程、私にもその傾向があります。
 それを認めた上で、しかし異を立てるやうですが、やはり私は入門書不要論に與することはできません。入門書一般だとまた話が散らばるので思想・哲學に關する本のことに絞りますと、つまり、「思想は手順を一から順に学んでゆくものではない」No.909とか「むしろ圧倒的な本物にぶつかってしまうという経験のほうを重んじるべきではないか」No.905といった御意見には不同意である、といふことです。「段階を踏んで読者を導いていこうという入門書」は、必ず要るとは言はぬ迄もあってもよいものだし、私個人はあって欲しいと念じてゐます。
 例へばカント哲學にでも手を着ける人は前提として(以下かなり適當)、〈大陸合理論〉と〈イギリス經驗論〉の對立があって、それを〈コペルニクス的轉回〉で統合したカントは〈三批判書〉を書いて、第一批判書はこれこれを論じて、次いで第二批判書はしかじかと主張して、……といった(?)段階を踏まへておくことが望ましい。勿論、さういふ順序を入門書などで既に知った上で、でも自分は崇高論に興味があるんで順番飛ばして第三批判書の『判斷力批判』から讀むことにすべい、といふやうな行き方はあってよい。しかしそれにしても入門書によって學んだ第一・第二批判書の要旨要點が第三批判書の讀解のために役立つわけでせう。
 私は運命の出會ひや幸福な遭遇を信じられません。突然に「圧倒的な本物にぶつかってしまうという経験」は、たとひいづくかで起きるのかもしれなくても、少なくともこの身には到底訪れることのない出來事だなあと思ひます。あに我のみならんや、そんな縁無き衆生が大半ではないのでせうか。未知との遭遇ではなく既知からの馴致によってしか濟度し得ない凡夫。そこに既成知識の整理である入門書を要する所以があります。
 とはいへ私のこだはりばかり述べ立てても詰りませんし、入門書不要論については自づと別の問題になりませう。それよりこばさんの提出された「わからなさ」の問題を承けて話を進めてみませう。この「わからなさ」とおっしゃるものにも、入門書の廣義狭義と同樣、二種があるやうにお見受けします。
 「わからないものは放って置くか、わかるようにするかどちらかでなければどうも落ち着かない、というのが一般読者の心情でありましょう」――確かに。けれども「わかるようにする」ことができるのなら、その時それは最早「わからなさ」を失って理解されたのであります。かうした、いづれ理解へと轉化し得る類の「わからなさ」に對しては、「「わからなさ」に耐える」」までのことはない。その場合「わからないものはわからないものとして」留まってゐるのは單なる不勉強ですから、ハウツー本でも何でも見てどんどんわかってしまへばよいのです。
 だが他方、さうした「わからなさ」をわかるやうにしていってもなほ殘る「わからなさ」、遂に完全な理解に轉化することのない「わからなさ」、つまり古典なら古典が本質的に抱へ込んだ解けない謎のやうなもの、があるでせう。恐らくこれこそが耐へるべき「わからなさ」なのではありませんか。こちらについては、しかし、それこそ私にはよく「わからない」ので、いまそれ以上のことが考へられませんが。

No.919

入門の入門
投稿者---prospero(管理者)(2003/01/03 14:01:31)


>こばさん、森さん

いろいろと展開していただき、ありがとうございます。私自身、「入門書は要らない」ということに関しては、「極端なことを言うと」という前置きをつけたのですが、これだけ膨らましていただいたのでしたら、極論をした甲斐もあろうというものです。

「圧倒的な本物に出会う」云々ということを書いたときに、私の念頭にあったのは、由良君美が『みみずく偏書記』(青土社)所収の「本の囁き」の中で書いていたバーク『動機の文法』との出会いのくだりでした。その文章では、目次から異様で皆目内容の見当がつかない『動機の文法』を、それでも何か期待できると信じて体当たりで読んでいったという経験が語られていました。

その繋がりで、ヘーゲルの場合に例を取って、こんなことを言っています。「ヘーゲルを読むのに、まず解説書を読み、次に『エンツィクロペディー』を読み、彼の体系を大体理解したような気になってしまう」通常の読み方より、「『精神現象学』にいきなり飛び込み、そのなかの自分にとって最も心引かれる部分から入り、行きつ戻りつしながら、強靭なロジックの展開に、こちらも汗みどろになって付き合っていくのが一番ではないか」と。

もちろん、森さんの指摘されているのは、学びの技術論なので、それが必要だというのは、私も何ら反対するものではありません。ただ、極端なかたちで言ってみようと思ったのは、わざわざ思想書などを理解しようと思うその動機づけの問題、いわば「入門の入門」ということに関わるような問題でした。そもそも思想書・人文書を読んで、さらにそこで見つけた「分からないこと」を自分なりに解決していこうという意欲はどこから生まれるのかというような事柄です。やはり、それには、十分には理解できないながらも強力な魅力を発散しているようなものに触れることが動因としては大きいのではないかということです。

ですから、「未知との遭遇ではなく既知からの馴致によってしか濟度し得ない凡夫」と仰いますが、やはり森さん自身もどこかで、そうした魅力ある謎に出会わされたのだというふうには言えないでしょうか。

もう一点、例えば挙げられているカントですが、入門書でカントについての教科書的概略を得て、そこからただちに『純粋理性批判』そのものが読めるかというと、やはりそこには一つ飛ばなければならない溝があるような気もします。カントの場合、事情は特殊な面もありますが(その詳細は機会を改めて)、やはり古典と呼ばれる原典は、そうとうに底意地の悪いもので、多くの読者を弾き返してしまうようなところがあると思います。その点でも、そこはステップを踏んでというより、内部にいきなり飛び込んで、そこで動いている論理に直に身を晒す以外にはないような性質をもっているとも思うのです。

蛇足ですが、そもそも「選書の不振」を嘆くところからこの話を始めたわけですから、私とても選書的な広がりのある質の良い入門書を求める思いは同じだということは、誤解なかろうかと思います。

No.921

入門によせる期待
投稿者---Juliette(2003/01/05 22:10:20)


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

さて、年末年始で実家に帰っている間にずいぶん議論が展開され、
このトピックも面白いことになってきました。
一応、入門書不要論に関しては、賛否両論出揃った感があるようです。
では、今私たちは、専門書以外の人文系教養書籍にどのような期待を
持てばいいのでしょうか。

一言で言えば、森さんがおっしゃるような「讀者を初心者扱ひするばかり」ではない、
「その先へ啓發する仕掛け」に溢れたもの、ということになりましょうが、
私の個人的関心(思想・哲学方面)に絞ってお話をしますと、その具体例に関しては
森さんと少々意見を異にしています。
と言いますのも、森さんがカントに即して挙げて下さった例では、
入門書が扱うのは、ある思想の成立事情とか、哲学書の概要とか、
まぁ比較的反論の出る余地の少なそうな「哲学史的事実」であろうかと思います。

こういう本に対して批判を企てるのは、それこそコペルニクス的な発想の転換でも
しない限り、なかなか難しいですね。しかし、私の場合、「その先」へ「啓発される」
きっかけは、「わからなさ」であると同時に「違和感」なのです。
たとえ体裁良くまとめられた入門書でも、そこに「なんか違う!」という感じがあると、
その違和感の謎を解きたくて、次々にその周辺のものを読んでみたくなる。
それと同時に、どこにその違和感の根があるのか、自分の中のロジックや知識の検証も
行なわざるをえなくなるというわけです。

だから、よい哲学の入門書というのは、ある哲学者なり思想家の思想を
哲学の門外漢にもわかる平易な言葉に翻訳することではなく(竹田青嗣氏などの入門書が
最もこういう感じがします)、その思想をめぐる問題圏をできるだけ整理して、
その魔宮の道案内を(もちろん案内可能なのはそのとば口だけでしょうが)してくれる本
ではないかと思うのです。

ところで、先日友人と話していた時に、中公の『世界の名著』シリーズはすでに
生産停止となっており、今は在庫をさばいている状況だから、見かけたら買っておいた方がよい、
と言われました。たしかに、大学でもこのシリーズを勧める先生はいらしたものの、
私自身は今まで何度か図書館で借りて読んだだけで、あのシリーズがどうしてそんなに
魅力があるのか良く分からず、いままで1冊も購入したことはありません。

よろしければ、みなさまのご意見をお聞かせいただき、とくに収録内容でお勧めの巻が
ありましたらご教示願いたいと思います。

No.922

とりあえず
投稿者---prospero(管理者)(2003/01/05 23:44:44)


>中公の『世界の名著』シリーズはすでに生産停止となっており

実はこの話題は、以前に出たことがあったのですが、私が無精をして、過去ログをまだアップしておりませんでした。いましがた過去ログとして更新しておきました。お詫びとともに、とりあえずこの件のみを取り急ぎご報告させていただきます。

それから、この過去ログの中で森さんが「世界の名著」“GREAT BOOKS OF THE WORLD”との関連を示唆されていましたが、最近やはりそのご指摘通りらしいということを知る機会がありました。蛇足ながらご報告まで。

No.925

Re:とりあえず
投稿者---Juliette(2003/01/07 09:53:56)


ありがとうございました。「過去ログ」大いに参照させていただきます。

No.923

Re:入門によせる期待
投稿者---劇中の国王(2003/01/06 19:36:29)


Juliette さんの「問題」というお言葉に反応して、出てまいりました。

専門外の人間にとって、思想関係の書物がとっつきにくいのは、
思想家がなにを問題と考えていたのかを感じとることが難しいからだと思います。
思想家にとって、著作とは、いわば問題の解決を提示したものですが、
専門外の人間には、そもそも、なにを解決したのかがわからないわけです。

『世界の名著』のとっつきにくさ(少なくともわたしにとって)も、
そういうところにあるように感じます。
解説文が冒頭に添えられているとはいえ。

一般に、本を読み、理解するということは、
問題を感じとるセンスを要することのように思います。

さらに加えていえば、思想家本人が問題と考えたものを越えて、
後世の研究者たちは、新たな関心の地平のもとで、
その思想家のうちに新たな問題を発見するものでしょう。

とすると、よい入門書とは、思想家本人やその研究動向のうちから
問題群を取り出し、うまく編成して、
門外漢にも問題関心をヴィヴィッドに共有させてくれるもの
ということになりましょうか。
(入門書といっても、かなり大部なものになるかもしれませんが。)

解決よりも問題のほうがむしろ大切なくらいで、
読者が歴史上の思想家と問題を共有したり、新たな問題を感じとってこそ、
読者にとって、思想家やその著作が生きたものになるといえます。

入門書を書くにも、かなりセンスが必要なようです。

そして、よい専門的研究書とは、研究動向に精通しているだけでなく、
新たな問題を発見しているものということになりましょうか。
研究の動向にパラダイム転換をもたらしたなら、たいへんな研究者です。

もっとも、好き勝手に問題を指摘しても、研究者の共同体に受け入れられるはずもなく、
研究動向の必然的な成り行きの行き先に、新しい問題を発見しなければなりません。

わたしは研究者ではないから、こんなふうに気楽に言っておりますが、
たとえば、欧米の人文系の思想家や作家についての研究分野で、
日本国内の研究者が、その研究の動向に影響をおよぼすなどというのは、
言語の問題もあって、たいへんな力業でしょう。
そんなケースはこれまでにどれくらいあったのでしょうか。

以上、Juliette さんのおっしゃる「魔宮」としての「問題圏」よりは
深みのないとらえ方になりましたが、問題という言葉をもとに考えてみました。

たしかクインティリアヌスは、その修辞学書のなかで、
ものごとを考えるにあたっては、アリストテレスの既成のカテゴリーに従うのではなく、
裁判の当事者のあいだでそのつど形成される問題群に従わなければならない、
というような刺激的なことを言っていたように記憶します。

No.924

「隙間」から語りだされるもの
投稿者---Juliette(2003/01/07 09:52:56)


劇中の王国様、「深みがない」など、とんでもない!私の舌足らずな説明を
補足してくださるような書き込み、ありがとうございました。
全く以って、ご意見に同意します。

>専門外の人間にとって、思想関係の書物がとっつきにくいのは、
>思想家がなにを問題と考えていたのかを感じとることが難しいからだと思います。
>思想家にとって、著作とは、いわば問題の解決を提示したものですが、
>専門外の人間には、そもそも、なにを解決したのかがわからないわけです。

おっしゃる通りです。ですが、私も前回の書き込みの後、再度考えてみまして、
思想関係の書物の「とっつきにくさ」の原因は、一つにはその独特な
術語系(テルミノロギー)にあるのではないかと思いました。
専門外の者が、自らを「門外漢」と自称しながら哲学書を読むことの限界は、
この術語系にどっぷりと嵌ることを恐れるところにあるのではないでしょうか。
(逆に、この術語系の世界にはまり込み、その内部で切ったり貼ったり入れ替えたり
しているだけで「専門家」を名乗る人もいるようですが。この辺の落差については
#909でこばさまが既に書かれています。)

例えば、簡単な哲学辞典の大項目に挙げられているような用語は勿論のこと、
ほんの些細な語句や言い回しの中にも、「思想家がなにを問題と考えていたのか
を感じとる」ためのヒントがいっぱい隠されているのに、素人はそれをヒントだとは
気がつかないのです。(つまり、森さん、Prosperoさんのことばを借りれば、
そこに神が宿っていることに気がつかないのです。)

それで苦心惨憺の挙句1冊読み終わったところで、「いったい何が言いたかったんだ?」
ということになる(これはあくまでも私の場合です・・・笑)。
もしくは、そうした無駄な努力(とも呼べないような悪あがき)を避けるために、
巻末の訳注や教科書的な事実だけを書き連ねた入門書を読んで、それなりに
わかった気になってしまう。

しかし、きっと本当は、その独特な術語がそんな風なわかりにくい用いられ方が
なされていることこそが大事なのであって、そこに本質を語るために現象を語るための
ことばが使われている(使われざるをえない)とか、そういう「隙間」が見えてくるのでしょう。

「そのものずばり」を語るためのことばがない。だから、むやみに解説が増えてしまう。
しかし、語りえないものについては沈黙していればよいかというと、私はそうは思わない。
むしろ、増えすぎてしまった情報を整理して、「隙間」を見えやすくするとでも言ったらいいでしょうか、
そんな仕事がこれからの入門書にとっての課題になるのではないでしょうか。

No.926

入門書のことなど
投稿者---花山薫(2003/01/10 21:18:25)


とくにどなたへのレスというわけでもないのですが、Juietteさんのおっしゃる「増えすぎてしまった情報の整理」という観点からすると、入門書というのはすでに得た知識を整理するためのもの、つまりそのことをある程度知ったうえで読むのでないと読んでもよくわからないという性質があるのではないかと思います。極端なことをいえば、入門書は初めに読むのではなくて、むしろあとの段階で読むべきものではないのかということです。というのも、ことに思想関係の場合、入門書といってもその著者がどのような問題意識をもって当の対象に臨んでいるかということがはっきりしないうちは一行も書きだせないからで、そういう問題意識をもって書かれたものである以上、読み手のほうも漠然とながらその対象についてあらかじめ自分なりの意見や考えをもっていることが必要だと思うからです。

「世界の名著」がとっつきにくい印象を与えるのは、やはり原典を収録していることが大きいのではないでしょうか。「解説」と「本文」とのあいだに、prosperoさんのいわれる「跳ばなければならない溝」があって、それがちょっと初心者には負担になっているのではないかという気がします。あと、コンパクトなサイズに多くの内容を詰めこみすぎているとか(具体的にいえば二段組みであること)、主な思想の領域をまんべんなくカバーしようと欲ばっていることとか(内容見本にだれかが「全巻読むべし」なんて無茶なことを書いていました)、この叢書を重苦しいものにしている要素はほかにもいろいろあると思いますが。

ちなみに、私はこのシリーズのショーペンハウエルが欲しいと思って古書店などで注意しているのですが、なかなかお目にかかれません。まあ、そんなに手に入りにくい部類に属するものでもないし、いますぐ必要なものでもないので、気長に探すことにします。


No.927

『世界の名著』は入門書?
投稿者---Juliette(2003/01/11 09:29:45)


>「世界の名著」がとっつきにくい印象を与えるのは、やはり原典を収録していることが大きいのではないでしょうか。
>「解説」と「本文」とのあいだに、prosperoさんのいわれる「跳ばなければならない溝」があって、それがちょっと初心者には負担になっているのではないか

すみません。どういうコンセプトで『世界の名著』が作られているのかよく知らないくせに、私が入門書・選書の話題の中でこのシリーズのことを言及したために、
混乱を招いてしまったかもしれません。おそらく、森さん、Prosperoさんが当初ここで話題にされていた「入門書」に、『世界の名著』は入らないと思います。
というか、そもそもあれは入門者が読むにふさわしい原典の邦訳という一般的評価を受けているのでしょうか。
もしそうだとすれば、それは、とりあえず読者本人の哲学的疑問(哲学を始める内的必要性)を無視して、慣例的に「これだけはぜひとも読んでおくべきだ」と
思われている主要著作へと、まずは導入させるというやり方故ですか?
しかし、そうとばかりも言えないのかな、という気もします。たとえば、ヘーゲルですと、『精神現象学』ではなく、あえて『法哲学』が収録されていますよね?


No.928

Re:「隙間」から語りだされるもの
投稿者---劇中の国王(2003/01/14 17:18:22)


今度は「隙間」というお言葉に反応いたしました。

思想家は、ある種のことがらについては、言い当てることができず、
いわば比喩(「現象を語るためのことば」)によってしか語れないということですね。
だから、そのことがらと比喩とのあいだに「隙間」が生まれてしまいます。

「新着図書」のページにご紹介がありますように、
ブルーメンベルクは、自分のやっている思想史的な学問をメタフォロロギーと呼び、
語りえないことについてのメタファーを
思想史や文化史のなかから拾い集めるという作業をやっていました。

ブルーメンベルクについては、残念ながら一部しか知らないので、
ここで勝手に考えてみますと(といってもおそらくブルーメンベルクにも
当てはまるのではないかと推測しているのですが)、
その、ある種のことがらとは、「自己」ではないでしょうか。

人は、自分を見ようとしても、自分について語ろうとしても、
つねに見る側(まなざしのこちら側)、語る側にいるので、
自分を見ること、語ることはできません。
目を向けた場所には、もう自分はいません。

その場所で目にするのは、自分のいつわりの姿というべきでしょう。
鏡に映った自分の姿に対する違和感というのは、多少なりともあるものです。
そうした自分の幻影こそが、語りえないものについての比喩でしょう。

かといって、「自己」を、封印された問い、禁じられた問いにすることもできません。
人間は、自分というものに気づいてしまった動物であり、
自分について問うという、反省的、超越論的な問い、
つまりは哲学的な問いを発するのは、避けられないことでしょう。
たとえずれたものであろうと、比喩でもってその問いに答えようとするものでしょう。

そうした比喩によって自己について答えを出すのをやめてしまえば、
いわば自己と直接的に合体して、無自覚になり、
人間ではなくなって、自然に還ってしまいます。
だから、メタファーでもって答えることによって、
いわば自己から離れ、自己から身を守るという文明の営為を
ブルーメンベルクはむしろ評価していたようです。

その点では、実体よりもそれの関数(機能)や象徴を優位に置いた(?)
カッシーラーの衣鉢を継ぐ人だったということでしょうか。

No.929

ブルーメンベルク
投稿者---prospero(管理者)(2003/01/19 12:04:25)


>劇中の国王さん

選書・入門書の話題から逸れて、ブルーメンベルクについて応答させていただきます。

>メタファーでもって答えることによって、
>いわば自己から離れ、自己から身を守るという文明の営為を
>ブルーメンベルクはむしろ評価していたようです。

私もこれがブルーメンベルクの核心になる感覚ではないかと思っています。彼にとって「自己保存」といったものが主題となるのも、こうした問題系の一つの現れではないかと思います。その点では、一頃流行した「哲学的人間学」の影響も顕著なのだろうと見ています。人間が動物と区別される特徴を、人間特有の「欠如」に見て、それを埋め合わせるために文化が発生するという手の議論は、おそらくそうした「哲学的人間学」に近いものだと思います。ちなみに、ブルーメンベルクをめぐる初の大規模な研究論文集のタイトルが、Kunst des Uberlebensというものでしたが(Suhrkmap)、これは訳すと、『生き延びるための技法』といったところでしょうか。このタイトルには、自然や自己との危険な直接的関係から身を守って、文化というフィクションを作り続けながら、虚構の中で生き延びるといった人間観が籠められているのではないでしょうか。その点では、カッシーラーの「象徴を操る人間」という理解と同根の理解を共有しているとも言えそうです。

No.930

Hegel
投稿者---Dietzgen(2003/01/22 16:11:18)


ここにはたまたまたどり着きました。いろいろ勉強させて下さい。

>その繋がりで、ヘーゲルの場合に例を取って、こんなことを言っています。「ヘーゲルを読むのに、まず解説書を読み、次に『エンツィクロペディー』を読み、彼の体系を大体理解したような気になってしまう」通常の読み方より、「『精神現象学』にいきなり飛び込み、そのなかの自分にとって最も心引かれる部分から入り、行きつ戻りつしながら、強靭なロジックの展開に、こちらも汗みどろになって付き合っていくのが一番ではないか」と。

話題がずれますが、『精神現象学』を読みたいと思っていますが、どの訳書がよいのでしょうか。
未知谷から出ているもの(牧野紀之)でしょうか。

No.931

過去ログを
投稿者---prospero(管理者)(2003/01/22 20:37:44)


>Dietzgenさん。はじめまして

『精神現象学』の翻訳に関して、以前ここでも話題になりましたので、そのときの過去ログをアップしておきました。よろしければご覧いただき、ご意見などありましたら、お知らせ下さい。

「勉強」などと仰らず、気楽にお寄り下さい。

No.932

Re:Hegel
投稿者---Juliette(2003/01/25 12:43:39)


>話題がずれますが、『精神現象学』を読みたいと思っていますが、どの訳書がよいのでしょうか。
>未知谷から出ているもの(牧野紀之)でしょうか。

はじめまして。
Prosperoさんが過去ログをアップしてくださいましたが、蛇足ながら素人の意見をひとこと。

私は、古くから階段のイコノロジーで表現されることの多い哲学の、まさに登り始めの第1段目にいる者です。
昨年の夏休みに牧野訳『精神現象学』に手をつけましたが、その後他の課題に追われ、「第二部 自己意識」に
入った辺りで頓挫しています。したがって、えらそうなことは何も言えませんが、個人的な印象としては、
牧野訳は注釈で好き嫌いがはっきり分かれるかもしれません。牧野氏の注は、「哲学というものの
勉強の仕方を教えてやろう」という匂いがぷんぷんします。人によっては拒絶反応があるかもしれません。
私の場合は、最終的に批判するかもしれませんが、当面は素直に教えを乞うてみようという気になっておりまして、
牧野著『ヘーゲルの修行』を本屋で取り寄せたりもしました。(注釈の中に、この本を参照しろというコメントが
よく出てくる。)あと、関口ドイツ語への言及もかなり頻出します。そういう意味では、この邦訳を読み終わる頃には
ヘーゲルの哲学というより、牧野紀之の世界にどっぷりとはまることになるかもしれません。

ただ、これは最も新しい訳書であることの強みとも言えるでしょうが、長谷川訳、金子訳などの既訳本を踏まえた上で、
踏襲する部分は踏襲すると言い、できない部分は適度に批判が加えられつつ、何故、何が違うのかを明らかにしています。
また、牧野氏は、自分もよくわからないところは「この部分は、○○という意味でとってみたが、
ヘーゲルの真意は××かもしれない、みなさん一緒に考えてみましょう」と問いを投げかけます。その姿勢はいいと思います。

個人的な印象をまとめると、牧野訳は日本語としての通じやすさにかなり気を遣っているという点でいい訳本ではないかと思います。
さらに原典を横に置いて読むと、ドイツ語の勉強にもなって、もっとよいのではないかと思います。(私はこうやって読んでいます。)

ちなみに、過去ログで話題に出ている「鶏鳴」という雑誌は昨年9月23日に出た第170号を最後に、
発行を止めたと聞いています。


No.950

直木明さんによる書評(1)
投稿者---Dietzgen(2003/03/05 01:05:35)
http://www.seop.leeds.ac.uk/archives/sum1999/entries/dialetheism/


書評が送られてきたので転載しておきます。

2003.3.1.「ワーカーズ」No.244 「読書室」掲載

時代を画する『精神現象学』(未知谷刊行)の新訳本の完成
   −翻訳者牧野紀之氏の講壇哲学会に対する執念の結実

 馬氏が完了したので、今月から黒根児の『精神現象学』を読み出して居ります。
 この文章は、私の尊敬する中江兆民の嫡子中江丑吉が、友人であり弟子でもあった鈴江言一に宛てた昭和十五年五月十四日の手紙にある。ただし、実際の手紙の原文では、書名の部分はドイツ語表記であることをつけ加えておきたい。
 中江丑吉は、常々、マルクスの『資本論』を読んでいない頭は、子供の頭だと酷評しており、この本とともに『精神現象学』をドイツ語で読むことによって、大人の頭を作ってから学問しなければならないことを強調していた。彼が言いたかったことを引用する。
 「要するに、ドイッチェ・イデアリスムスの根本精神は人としての生き方の問題にあるんだ。だから、その根本精神は、いわゆる『哲学者』なんかよりも、哲学のテの字も知らない真摯素朴な農夫などのレーベン(生)のなかに、むしろ自覚されずに存在しているともいえるだろう。」(『中江丑吉の肖像』勁草書房刊29頁)
 中江丑吉のここで確認できる見識の高さは、今回この新訳を完成させた牧野紀之氏の主著である『生活のなかの哲学』での主張と一脈通じるものがあると私は考えている。
 ともあれ、新訳本の「訳者のまえがき」にあるように、『精神現象学』の全訳本は、牧野訳を入れて実に四種類、『序言』だけの部分訳に至っては、その他に三種類もある盛況ぶりである。では、こうしたなかに出来した牧野訳の真価とは一体何か。このことを明らかにすることが、この書評の目的である。
 端的に書こう。牧野氏の新訳本を刊行した未知谷から、『精神の現象学序論』を死後出版した三浦和男氏自身が、一九六二年一一月一日出版した『経済学=哲学手稿』(青木文庫)の「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」において、若きマルクスが、『精神現象学』の主要な章の題目をその順序にそって書き写したあの有名な箇所に、「ヘーゲルのこの労作にたいする邦訳はあるのだけれど、訳出および注の作成においてはこれをいっさい利用しなかった。というのはこの訳はすくなくとも読者をめざした翻訳とはおもえないような性格のものだから」との注を書いていた。もっとも金子武蔵氏の決定的な改訳本が、一九七一年九月、出版されたので、この酷評自体は、彼自身が評価を変えたかもしれないが。ともかく、金子氏の初訳本や樫山氏の訳本に対する若き日の三浦和男氏の批判・対決姿勢は、注を読めば明らかなように、実に明確であったことをしっかりと確認しておきたい。
 今回の牧野訳の画期的な意義とは、ヘーゲル哲学の誕生の秘密を秘めた著書の内容と形式を、向学心ある読者の誰もが、自ら確認できる翻訳を提供したことにあるのである。
 この点をさらに詳説すると、まず第一に、「個人の意識がさまざまな段階を通って発展していく[その論理を明らかにしてものだが、内容的にはそれを]人類の意識が歴史的に経てきた諸段階を短縮して再現したものとして描いている」とのエンゲルスの考えを受け継いで、それを常に念頭に置いて翻訳していることである。第二に、そのことと密接不可分な関係にあることだが、「そこには、今日でもなお完全に値うちがある無数の宝がある」ことを、具体的に、数多くの訳注を付けることで明らかにしたことである。そして最後に、これが決定的なことだが、第一の原則で文脈流れを解明し、ヘーゲルの文脈の流し方の当否と未だ読めていない箇所を明記して、私たち後進に問題を明示し解明すべき点を課題化したことにある。このようなことをしてまで牧野氏が追求したかったものはなにか。抽象的で難解なヘーゲルの文章が、現実的には何を言っているか、その現実的な意味の追求であった。金子氏らドイツ語を日本語訳すれば事たれりとする講壇哲学者と敵対する牧野氏がここにいる。ここに牧野氏が切り開いた画期があり、真価があるのである。

No.951

直木明さんによる書評(2)
投稿者---Dietzgen(2003/03/05 01:07:16)
http://www.seop.leeds.ac.uk/archives/sum1999/entries/dialetheism/


 この点を確認するために、虚名の高い長谷川宏氏の翻訳賞をもらっている『精神現象学』(作品社刊行)と比較して、具体的に、その翻訳の優劣を問題にしてみよう。
 第一の比較。ヘーゲル哲学の根本的な読み違えについて。哲学書の序文について、長谷川氏は、自らの『精神現象学』1頁の「まえがき」の本文四行目の「シャイネン」を「思う」と訳し、ヘーゲルが実際にそのように考えていると解釈している。だからヘーゲルが序言をつけたことは矛盾だと『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)で、長谷川氏は、実際に長々と展開しているのである。
 しかしこの部分を牧野氏は、「見える」と訳し、哲学書に序言は一見いらないようだが、実際には、つける意義があるとヘーゲルは展開していると牧野氏は解釈している。また、「まえがき」の本文の六〜七行目を、長谷川氏は、「哲学は、その本質からして、特殊な事例を内にふくむ一般として語られるもの」と訳しているが、牧野氏は、「哲学というものは、本質的に、特殊を自己内に含む普遍を本来的地盤としているもの」と訳している。まさに両者は決定的に違うのだ。長谷川氏が、文脈やヘーゲルの「普遍・特殊・個別」概念の決定的に重要な関係を、牧野氏と比較すれば、正確には読んでいないことがここに端的に示されていると私は考える。私は牧野氏の側に立つものである。
 第二の比較。「哲学への王道はあるか」についてのヘーゲルの文脈の読み込みについて。この流れを理解していない長谷川氏は、前掲書46頁で、「真の思想と学問的洞察は、概念の労苦の中でしか得られないのだ。概念だけが普遍的な知をうみだすことができるので、その知は、健全な常識のもとにある、平凡で、あいまいで、貧弱な知ではなく、きたえあげられた完全な認識であり、他方また、怠惰で暗愚な天分ゆえに堕落へとむかう理性の要求する特異な普遍知ではなく、普遍理性の名にふさわしい真理−すべての人間理性が手中にできる真理−なのである。」と訳して、主体である私の「理性」と「真理」との関係がよくわからない訳になっているのに対して、牧野本160頁の同部分は、「[実際には哲学への王道などというものはないのであって]真の思考と科学的な洞察力を身につけるのには概念の労苦[という苦しい修行]をしなければならない。知を普遍的なものにするのはただ概念だけである。この知の普遍性とは常識のくだらない曖昧さや貧弱さでなくて、形成された完全な認識である。それは又、天才を口実にして努力もしないで思い上がったためにダメにされた理性の非通俗的[独善的な]普遍性ではなく、自己固有の形式にもたらされた真理である。[したがって]その真理は自己意識を持つすべての理性が我が物とすることの可能なものなのである。」と文脈の流れと両者の関係が理解できる訳になっている。この訳文に牧野氏は、三つの訳注をつけて、ヘーゲルの主張をさらに詳しく解説しているのである。
 第三の比較。「観察する理性の結論」として、ヘーゲルが、哲学をするとはどういうことかを具体的に明らかにした部分の訳について。長谷川氏は、前掲書232〜234頁で、「さて、この結論には二重の意味がある。一つには、これまでの自己意識の運動の結果を補足する、正しい意味である。−不幸な自己意識は自分の自立性を放棄し、自分の自立存在を物へと移そうとするものであった。ために、自己意識が意識へと−存在ないし物を対象とする意識へと−還っていくことになった。が、物としてあらわれるのは、自己意識であって、それは、自我と存在を統一したカテゴリーである。意識の対象がそのように定義されるとき、意識は理性をもつ。意識と自己意識はもともとそれ自体が理性なのだ。が、対象がカテゴリーと定義される意識についてのみ、理性をもつということができる。が、理性とはなにかを知ることとは、まだ同じことだというわけにはいかない。」と訳しいて、ここで問題になっている核心が、第一に私と存在との統一がカテゴリーであるとは現実にはどういうことか、第二にカテゴリーを対象にするときに初めて「理性を持つ」ということはどういうことか、第三に「理性を持つ」と「理性」との違いはどういう点にあるのか、この以上三点について、長谷川氏の訳は、読者に理解できるような明確なものになっていない。それに対して、牧野本の518〜519頁の同部分では、「さて、この結果は二重の意義を持っている。第一に、それは真理であるという意義である。それはそれまでの自己意識の運動の結果を補うものとして出てきたものだからである。不幸な自己意識は自分の自立性を手放したが、今や自分の自覚したあり方[精神]を物として戦い取ったのである。それによって自己意識から意識に戻ったのである。つまり、存在ないし物を対象とするあの[対象]意識に戻ったのである。しかし、[ここでの]物とは自己意識である。従ってそれは「私」と存在との統一であり、即ちカテゴリーである。そして、意識の対象がそのような[カテゴリーという]規定を持つとき、意識は理性を持っていることになるのである。[たしかに対象]意識も自己意識も初めから潜在的には理性である。しかし、カテゴリーという規定を持った対象を持つ意識にして初めて「理性を持つ」と言うことが出来る。しかし[先回りして注意しておくと]この「理性を持つ」ということはまだ「理性である」ということではない。」と、実にすっきりとした明快な訳になっているのである。
 紙面の関係で、訳文の比較はここで止めるが、ほとんど訳注のない長谷川氏の本と訳注が数多く付いている本とでは、読者に対する親切さの格段の違いは、判型の違いがあるとはいうものの本の厚さ極端な差として比較できるほど、誰の目にも明かなのである。
 その他に、牧野氏は、付録として四つの評論を巻末につけ加えている。それらは、ヘーゲル哲学の根幹に関わるものや形式や精神現象学の解説や金子武蔵氏に対する疑問の提示であるのだが、非常に内容がある評論である。これらの評論の意義も大きいものがある。

No.952

直木明さんによる書評(3)
投稿者---Dietzgen(2003/03/05 01:08:23)
http://www.seop.leeds.ac.uk/archives/sum1999/entries/dialetheism/


 最後に、牧野氏の執念について述べておきたい。この画期的な翻訳も一気に出来上がったものではない。この訳業のもとになったものは、鶏鳴双書の26と27と28の三分冊で出版された『精神現象学』であり、本の装丁が貧弱だったために、少し読み込めばバラバラになるまったく貧弱な牧野氏自身の手作りの自主刊行双書だった。このため、一九八七年五月一〇日、上製本が刊行されたとき、これらの双書を持っていた読者は、割引価格で購入できた。そのため何時最初の双書が刊行されたかは、私にはわからなくなってしまった。たぶん八〇年頃だっただろう。この上製本が刊行された時点で、牧野氏の労苦は報われなければならなかったのである。
 私自身が、このように牧野氏の翻訳が、苦闘の中で徐々に出来上がってきたことを知っている。その意味では、牧野氏を支えてきた読者の一人であるし、私の友人も私との関係でこれらの本を購入したので、牧野氏の良き支援者と言えよう。
 しかし、日本講壇哲学会は、牧野氏の訳業に対して、実に冷淡だった。徹底的に無視してきたと言っても過言ではなかった。無視した公式の理由は、この上製本が、全訳でなく、「第二部自己意識」までしか訳していないからというものだが、それが、本当の理由でないことは明らかである。在野の講壇哲学批判者である牧野氏に対する加藤尚武氏や西研氏ら講壇哲学者の嫉妬は、周囲が驚く程、どす黒いものがあるのである。
 しかし、今回のこの訳書の刊行は、牧野包囲網を打ち破るに充分なものがある。一万円という高い本ではあるが、各地の図書館に購入させて、ぜひ皆さんに研究していただきたい『精神現象学』であることを、私は責任を持って請け合う。ぜひ一読されたい。(直)

No.957

ネット上でも読めます。
投稿者---***(2003/03/08 10:06:51)
http://www.workers-net.org/liberarytetugaku.html#精学


上記URL参照。

No.953

Dietzgen=柳林南田
投稿者---953(2003/03/05 16:11:27)


題名通りです。ですよね?
もし別人でも、ここまでよく似た所業をなすならクローン同然。

No.954

ネット人格と偽名の意義
投稿者---こば(2003/03/06 00:40:43)


たとえ同一の人が二つのハンドルネームを持っていたとしても、その人がそのように名乗るのはそれなりに意味を持たせてのことなのですから、周囲の人が同じ人だと感づいてもそっとしておきましょうよ。

古代でも偉い人の名前を使って自分の著作に権威を持たせようとした例は幾らでもあります。パウロ書簡の一部もそうですし、偽ディオシュシオス・アレオパギデスもその一人です。歴史学的に検証してみて彼らが偽名を使っていると判明したとき、「偉い古人の名を騙って後世の人々を混乱させたけしからん奴だから彼らを研究する価値はない」と言う人がいますが、寧ろある人物が自分の名前ではなくて古人の名前を用いてそこに込めた文化的意義にこそ注目すべきなんだと思います。

こじつけでした。悪しからず。

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