口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ

過去ログ

海外の編集者


移轉
投稿者---森 洋介(2003/09/03 22:35:01)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque

 東京は、凄い雷でした。晝の暑さの反動でせうか。

 URLが、變更になりましたね。tripodがinfoseekに吸收された所爲で。
 しばらくは轉送してくれるさうですが、そのうちリンク切れが出來るんではないかと心配です。

 先月、寺田博編『時代を創った編集者101』(新書館)といふ册子が出ました。各人見開き二頁づつですから多くは求められませんが、パラパラめくって讀んでゐます。歐米についてもかういふハンドブックが作られるか譯されるかすると有り難い。もうあるんでせうか。


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発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事> 欧米の編集者 1011 prospero(管理者) 2003/09/08 00:18:41


No.1011

欧米の編集者
投稿者---prospero(管理者)(2003/09/08 00:18:41)


>森さん

移転の件のお知らせ、ありがとうございました。tripodより直接に連絡ももらったのですが、データ自身は保存されるので、問題なかろうと思っていました。しかし、確かに仰るように、HP内部でリンクを張った部分は、アドレスが変わって、リンク切れとなってしまうわけですね。まだ年内は転送が効くそうなので、その期間内に段々とリンクを整備しておかないといけません。これはこれで難儀なことではあります。問題に気づかせていただき、感謝しております。

さて、くだんの編集者の件ですが、私も欧米の編集者の位置というものが、以前から気になっていました。日本の場合だと、書物の後書きなどで編集者に対する謝辞が習慣的に見られますが、考えてみると、欧米の本でそれに当たるあちらのAcknowledgement〔前書き〕には、編集実務に携わった人への言及を見かけないように思うからです。Acknowledgementは、たいていは内容的な示唆や情報提供に関わった人への感謝が書かれているのが普通でしょう。

そんな次第で、欧米に関しては、出版に関して、編集者というものがどれくらいの役割をもっているのか、少々分かりかねるようなところがあります。欧米の場合でも、論文集のeditorなどというものはありますが、これは論文集全体の計画と人選に当たる役割であって、たいていはその分野の大御所の学者だったりします。要するに、日本語で言う、職業的な「編集者」とは違うわけです。

出版社そのものに関しては、上山安敏『神話と科学 ―― ヨーロッパ知識社会 世紀末〜二〇世紀』(岩波書店)に、「文芸出版の成立 ―― 思想のプロモーター」という章があって、ここにはフィッシャー、インゼル、ディーデリヒス、ジーベックという出版社が当時の思想・文学の形成にどれだけ大きな影響を持ったかということが知識社会学的に描かれていて、興味深く読んだ覚えがあります。また、二〇世紀初頭の挿絵入り本の黄金期の一翼を担ったハラップ社のジョージ・ハラップの回想録Some Memories 1901-1935(これ自体が、ハラップ社の出版物)などというのもありました。もしかすると、これらは発足当時、きわめて小さな出版社だったために、経営者が同時に編集者としての役割も果たしていたということなのかもしれません。

ちなみに、以前アルバー社の出版担当者という人に紹介されたことがありますが、なんとその人は学位(Ph.D.)をもっていました。


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No.1014

編輯の差?
投稿者---森 洋介(2003/09/13 02:09:57)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 リンク切れの件。同じサイト内を參照するリンクは、絶對URLでなく相對URLにしておけば、サーバー移轉に遭っても書き直さずに濟みます。

>欧米の場合でも、論文集のeditorなどというものはありますが、これは論文集全体の計画と人選に当たる役割であって、たいていはその分野の大御所の学者だったりします。

 さういへば外山滋比古『エディターシップ』(みすず書房・1975.2)には、或る學者の洋行時の話として、ヨーロッパでは大學教授の名刺よりも雜誌のエディターとしての名刺の方がよほど幅を利かせたとありました。いま讀み直すと「輝かしき編集」の章で、エディターとは一介の編輯者でなく編輯主幹か編輯長のことだから「エディターはエライのである」、とか。なるほど、Ph.D.くらゐ持ってゐてもをかしくないのかもしれません。同樣に、東京大學出版會などで編輯者を務めた山田宗睦氏の『職業としての編集者』(〈三一新書〉三一書房・1979.12)も西洋におけるエディターの社会的地位の高さを言ひ、かつてソ聯を訪れたとき筆者がライターであるだけでなく『思想の科学』誌のエディターをしてゐたことがわかると「同席の誰彼もが、ほおと見直す感じになった」といふ體驗談を插んでゐます。先方は、日本ではエディター事情が違ふとはご存知ないわけです。
 外山氏はさらに『名著の履歴書』(〈エディター叢書〉日本エディタースクール出版部・1971)によって日本の事情を顧みつつ、日本で編輯者が積極的に機能してゐるのはほとんど創作關係であって、學術書はエディターシップ不在に近いことを殘念がってゐました。まぁこれは外國だとて難しいことでせう。アメリカの名編輯長パーキンズの創造的編輯を稱揚する外山氏ですが、そのパーキンズも學術書については文藝出版と勝手が違ったらしいと但し書きをつけてゐます。
 ところでprosperoさんが擧げられた上山安敏『神話と科学』、やはり興味を持って讀んだ覺えがあります。これは『月刊エディター 本と批評』誌(日本エディタースクール)連載の初出稿が下敷きなのでした(この邊、ちょっと成立事情がややこしい)。さて、上山氏の諸著は内容は關心を惹くもので讀めば面白いのですが、惜しむらくは文章に難があります。外國語に親しみすぎた所爲でもありませうか、日本語のテニヲハがをかしくて、これが氣になって、すっきり主述の照應した文にするにはどう直せば……などと考へ出すとおちおち讀み進められなくなります。とはいへこの『神話と科学』は、上山氏の他の本(人文書院の『魔女とキリスト教』だったかな?)と較べると、まだしもテニヲハの混亂は抑へられてゐた印象があります。たぶんご當人といふよりは、單行本編輯者の手の入れ方の差ではないかと睨んでゐますが、どうですか。
 どうも本を讀んでゐても、こんなよそ事ばかりに氣を取られて仕方ありません。小學生の頃から名作児童文學の譯本を甲乙較べてゐたやうな記憶があるので、宿痾なのでせう。


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No.1017

理想的な編集者
投稿者---prospero(管理者)(2003/09/16 17:45:16)


森さん

リンクの張り方に関して、重ね重ねありがとうございます。始めからそのようにしておけば問題なかったわけですね。これから直す部分では、そのようにしたいと思います。

>日本で編輯者が積極的に機能してゐるのはほとんど創作關係であって、學術書はエディターシップ不在に近いこと

これは私も、似たような印象をもっています。私自身がこれまで関わった編集者は、自ら企画を立てて、著者・訳者を探すという力量を具えた編集者ばかりで、作業の過程でこちらが裨益されることも多いのですが、聴くところによると、日本の場合(特に学術書に関して)、そうした編集者はきわめて稀な存在であって、大手の出版者でも編集者の役割は、ただ著者・訳者と印刷所のあいだを取り持つ実務に限定されているようです。内容に関しては、専門家である著者にお任せということのようです。

しかし、このような体質のせいで、学術書は「書物」としての水準がなかなかあがらないのだろうと思います。書物の学術的価値と、読者にとっての価値はかならずしも一致しないのですから、専門家が書いた高度の内容をできる限り多くの読者にとって意味のあるものにするというのが、編集者本来の役割だと思うのですが、いまのところそれがどうも十分に機能しているとは言えないようです。学者である著者のほうでも、編集者に口出しされることを良しとしないような方も多いようですし。

編集者というのは、いまこのときになぜこれを出すのか、あるいはそもそもこれを「公にする」ということの意味はどこにあるのかという、言説のパフォーマティヴな問題にも敏感でなければならないはずです。ある種のバランス感覚と時代感覚が必要なのだろうとも思います。

そうしたことを考えると、大仰に言うと、理想的な編集者とは、理想的な人文主義者とそのイメージがかなり重なってくるように思います。失われた古典を発掘して、校訂を施し、現代にとって意味あるものとして公にするというのが、人文主義の基本的な姿だとするなら、彼らこそ、言葉の最も輝かしい意味での「編集者」であったようにも思えるからです。

また古い話で恐縮ですが、18世紀啓蒙主義頃の出版社の役割というのも、たいへんに興味深いものがあります。たとえば、ケーニクスベルクのカンターという人物は、カントの『美と崇高の感情について』『霊視者の夢』などを世に送った出版業者で、このカンターからいわば「暖簾分け」をしてもらったハルトクノッホが、リガでカントの『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』といったいわゆる「三批判書」を出すことになります。しかも、カンターは学生時代のハーマンを自分の家に下宿させるということまでしていたようです。当時は出版業者が、自分の出版社で公刊する著者を確保するために、著者たちに経済的な支援を行い、場合によっては、自分の家に住まわせる(文字通り「抱え込む」)ことは珍しくなかったようです。ヴィーラントは出版を引きうけてくれたボードマーの家に、リヒテンベルクは出版人ディートリヒの家で暮らしていたようです。その意味では、これらの出版業者は、啓蒙主義全体を運動として支えた影の功労者といえるかもしれません。この辺りのことは、ヴァイグル『啓蒙の都市周遊』(岩波書店)に記述があります。広い意味での編集者(出版業者)の役割として、かなりスケールの大きな例ですが、思い出したので触れておきます。


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No.1025

戸坂潤とか春山行夫とか
投稿者---森 洋介(2003/10/11 19:42:04)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 續々「新着図書」が追加されてゐますね。就中、寺田元一『〈編集知〉の世紀』は面白さうなので「そのうち買ふ本リスト」に入れておいたものでした(新刊本は古本で半値以下で出るまで買はないと決めて書籍費を抑制してゐますので)
 そこで扱はれてゐるディドロら百科全書派と絡めて日本の話をしますと、戰前彼らを範と仰いで「新アンシクロペヂスト」を名乘ったのが戸坂潤・岡邦雄の唯物論研究會コンビでした。先達は明治の福澤諭吉らに、大正の長谷川如是閑ださうで。そのアンシクロペヂストを岡邦雄が言ひ換へして「啓蒙家」とするのはありがちで怪しむに足りませんが、「ジャーナリスト」とも言ってゐるのが注意したい所。これを單に、諭吉が書肆・福澤屋として版權確立の功もある出版人でもあったとか、如是閑が新聞記者上がりで『我等』誌の主幹だとか、そんな即物的な意味に留めてはつまりません。
 今日謂ふやうなコミュニケーションだのメディアだの言ふ語(概念)が無かった一九三〇年代には、「ジャーナリズム」(乃至「ヂャーナリズム」)といふ語のもとにマス・コミュニケーション論、メディア論、出版文化論、編輯論等々が語られてゐたと言へます。「ジャーナリスト」の語にはその含みを讀み込んでやりたい。戸坂潤の新聞論・ジャーナリズム論もさうした觀點から歴史的且つ知識社會學的に讀み直すべきなのです(ついでながら勁草書房版『戸坂潤全集』の編輯は杜撰だと思ひます)
 が、戸坂潤にはもちろんマルクス主義哲學者(二重苦?)といふ限界がありますし、戸坂・岡だけでなく三木清や林達夫など「ジャーナリスト」として見るべき人の他にも色々あることは忘れるわけにはゆきません。中でも取りわけ「編輯者」としてのジャーナリストを標榜し提唱した(殆んど唯一の)人として、春山行夫を見直したいと思ひます。
 以前No.963話題にした第一書房の『セルパン』三代目編輯長としての手腕は人も知る所。官憲から執筆活動を制限され出した戸坂潤に誌面を提供したのも春山編輯長の方針だったらしく(小島輝正『春山行夫ノート』蜘蛛出版社、1980)、近年そこに瀧口修造も含めた「戦線の痕跡」を見る論者もあります(米林豊、『国文学研究』132號)。戰後の『雄鷄通信』誌の編輯ぶりも通覽したいもの。詩人・春山の方はよく解りませんが、その萬物にわたる好學心とモダニストぶりは好感が持てます。で、彼の編輯=ジャーナリズム論を古雜誌からポチポチ掘り出しつつあるところです。

>編集者というのは、いまこのときになぜこれを出すのか、あるいはそもそもこれを「公にする」ということの意味はどこにあるのかという、言説のパフォーマティヴな問題にも敏感でなければならないはずです。ある種のバランス感覚と時代感覚が必要なのだろうとも思います。

 おっしゃることは、編輯者の「ジャーナリスティック」なセンスと受け取りました。大宅壯一なんかは惡い意味でも典型的ですが、これも文藝評論家として出發した戰前の活動は再評價していいのではないかと思ってゐます。
 以上、少々個人的興味に引きつけすぎかとも思ひましたが、話柄として。


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No.1027

春山行夫など
投稿者---prospero(管理者)(2003/10/18 18:24:59)


森さん

更新をいつも目ざとく見つけてご覧いただき、ありがとうございます。寺田元一『〈編集知〉の世紀』は、記述自体はそれほど魅力的というわけではなく、事実の羅列が多いのですが、こちらの関心に照らすとなかなか興味深い論点がうが美挙がってくるような著作です。桑原武夫らの『百科全書』研究からも随分時間が経ちましたし、いまではデジタル・データでの処理も可能になったわけですから、新しい方向が打ち出されるには、ちょうど時機を得たというところかもしれません。

「ジャーナリスト」としての百科全書派という視角も、学問を知識社会学的に捉えなおす際にはきわめて有効な観点だろうと思います。春山行夫の仕事は、以前にも触れた『第一書房・長谷川巳之吉』(日本エディタースクール出版部)で、彼自身の「私の『セルパン』時代」という文章を通じて知っている程度ですが、そのモダニストぶりはなかなかのもののようですね。世界的にもきわめて早い時期に、ジェイムズ・ジョイスについての本格的な研究書を著して、それが第一書房から出版されるのが、第一書房との関係の始まりとのこと、その感覚を雑誌編集にも存分に活かしたのが、『セルパン』の活動だったようですね。戦時下に入るや、英語圏の文化の一掃が始まり、そのモダニストぶりがかえって仇になって、「石もて追われる」ことになったというのは、実に残念なことです。次代の編集長が、「私は『セルパン』というフランス語名は以前から好まないし、また徒に物識りぶるところの編集方針」を批判する旨を語ったというのは、いかにもわかりやすい構図です。モダニストや主知主義が、結局は凡庸で鈍感な愚昧さに圧し負かされてしまうところがあるというのは、いつの世も同じようです。



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No.1039

長谷川巳之吉
投稿者---森 洋介(2004/01/21 13:36:31)
http://y7.net/bookish


 「美酒と革嚢――第一書房・長谷川巳之吉」といふ連載がもう長いこと『図書新聞』で續いてゐますね。今は亡き小澤書店社主・長谷川郁夫氏(今は亡き、は小澤書店にかかる)の執筆。姓を同じうするのは偶然でせうが。先頃、春山行夫にも筆を割いてゐました。 
 『図書新聞』は案外に讀み所があるのですが、通して讀みにくいのがねえ……。合本を買はないと表紙がまくれて保存が面倒といふ點では『日本古書通信』も同樣でせう。
 早く單行本にまとまりますやうに。

 ところで、今月末でインフォシークのURL轉送が終了するさうです。 



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No.1044

発行部数
投稿者---prospero(管理者)(2004/01/29 21:44:36)


最近、『図書新聞』にしても『読書人』にしても、怠けていてあまり見なくなってしまいました。それにしても「美酒と革嚢」とは、小澤書店から出る書名になりそうですね。今度、図書館ででも拾い読みしてみたいと思います。

ところで、第一書房の出版部数を見ていると、隔世の感があって、思わず溜息が出ます。増刷の一覧のなかに、得能文『哲学講話』が第二二刷で千部などというのがありました。22刷合計ではなく、22刷目が1000部ですよ。第一書房では、初刷3000部、後の増刷(それも複数回)が各1000部というパターンが見られるようですが、現在ではちょっと考えられませんね。

全体が高学歴になって、潜在的な読者数が多くなっているはずなのに、それがかならずしも書物の受容と重なっていないというのは残念なことです。今後人文書はますます発行部数が減り、その分価格も上がり、さらに購買数が減るという、負のフィードバックに入って行くことになりそうです(もう現状がすでにそうなっていますが)。

**

インフォシークの転送の件、注意を喚起していただいてありがとうございます。以前、お教えいただいた時に、HP内のURLを一括で書き換えたつもりなので、一応問題ないと思いますが。もしリンク切れなどの不具合がありましたら、ご面倒でもお教え願えればと思います。




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No.1045

Re:発行部数
投稿者---森 洋介(2004/01/30 12:49:44)
http://y7.net/bookish


>全体が高学歴になって、潜在的な読者数が多くなっているはずなのに、 

 さう、なのに文學・哲學ほか人文書の初版部數は大正・昭和戰前からずっと不思議に二千部前後のまま。人文書バブルと言っていい'80年代ニュー・アカ・ブームの頃、栗本愼一郎・吉本隆明對談『相対幻論』(冬樹社・1983)が慥か一萬部(だったかな?)賣れたのを栗本氏が、これは日本の知的關心があり且つ身錢を切る讀者がみんな買ったといふことだ、『構造と力』などそれ以上の部數を増刷したのは本來關心の無い層まで名前で購入したのだ――とか何とかどこかで自己分析してゐたやうな。大幅に見積もってそれくらゐが知的讀者層なのかも。
 初版では收支トントン、再版からが出版社の儲けになるのも昔からでせうが、その再版が殊に稀になってゐるといふことで、やってゆけないわけです。書物といふのは時代を超えて殘るもの、ゆゑに在庫を保って長いタイムスパンで少しづつ賣れてゆくのが望ましいところ、今は雜誌同然で、新刊で出たその時しか賣れない――少なくとも店頭では。 
 これは半ば流通の問題で、だから何度も文庫や叢書に入れたり(岩波現代文庫と同時代ライブラリーの重複!)、青土社のやうに舊刊を表紙を新裝しただけの新版を出したり、と新刊扱ひで再度のお目見えをする機會を得ようとするわけでせう。かう異版を増やされては書誌學者泣かせです。

###
>もしリンク切れなどの不具合がありましたら、ご面倒でもお教え願えればと思います。 

 「蒐書記」最下段の「先へ」「HOME」がtripodへのリンクの儘になってゐます。そのでもまた同樣です。 
 「口舌の徒のために(過去ログ)」の最下段の「先へ」も上に同じ。 
 まだ見落としがありませうから、一度全HTMLページを含むフォルダ内を“".tripod.co.jp"を含む文字列”で檢索をかけては如何でせう。それから該當する各ページのソースをテキスト・エディターで開いて"http://members.at.infoseek.co.jp/"を相對パス"./"に連續置換すればよいかと思ひますが、コンピューターの專門家ならばもっと樂な方法を知ってゐるかもしれません。 



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No.1047

書籍の価格
投稿者---prospero(管理者)(2004/02/01 23:37:24)


そういえば、『相対幻論』は私も銀座の教文館で新刊として買ったのを覚えています。そして『構造と力』は、あまりに癪なので、しばらくしてから古書で買ったことも。そしてそのどちらも、いまとなってはどこにしまいこんだかも分らないまま、思い出すこともありませんでした。

ところで、日本の場合はやはり書物はどれもこれも(書物とは呼べない一部の安直な印刷物を除いて)総じて高いですね。もう少し書物にランクがあって、それぞれで価格が違うようだと、それによって購買層も住み分けができるのでしょうが。日本の場合、すでに文庫すらが1,000円を超えてしまうのがざらですからね。昨日、スイスの新刊書店が送ってきたカタログを見ていたら、ニーチェのStudienausgabe(現在の標準のエディション)が全十五巻で99ユーロで出ていました(古書ではありません)。15,000円程度でしょうか。もちろん、これはグロイター版というハード・カバーの批判版全集が元になっており、これは現在刊行されているものだけでも70万円くらいになってしまうものです。それを基本的テクストに絞ってペーパー版で出したのが、このStudienausgabeです。こういったかたちで、同じ全集でも、いく通りもの刊行形態があると、読者としては実に助かるのですが、日本の場合は滅多にそれがありませんね。たまに、意味不明な「愛蔵版」というのが出るのが関の山でしょうか。

***

リンクの見落としの件もありがとうございました。ざっとではありますが、手を入れてみました。他にも、URLを変更する必要のある個所をリストにしてメールで送ってくれた方もおりました。お礼を申し上げます。過去ログの処理も含めて、管理人がいい加減で杜撰なので、皆さまにはご迷惑をおかけしています。


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No.1054

Re:書籍の価格
投稿者---森 洋介(2004/02/28 18:54:35)
http://y7.net/bookish


>ところで、日本の場合はやはり書物はどれもこれも(書物とは呼べない一部の安直な印刷物を除いて)総じて高いですね。 

 『これから出る本』3月上期號(日本書籍出版協会・2003年2月16日發行)はご覽になりましたか。本屋でタダで貰へるペラペラのアレです。中に、山田和「知的文化の未来危うし」といふ文章が入ってゐます(7頁)。劈頭、「このごろ本が高くなったと嘆く人がいるけれど、私などは「とんでもない。とても安くなった」と思うのである」と書き出すもの。 
 山田氏(一九四六年生)は自分の學生時代と較べてゐまして、慥かに書籍は他の物價に比較すると上昇率は低く抑へられてきたとはよく聞く所です。低廉化は一九二〇年代半ばの圓本以來のことですが、特に敗戰後は再販制度のため低定價競爭となって、その皺寄せが小賣書店に來てゐること、小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』(ぱる出版・1999年)に指摘がありました。 
 他方で、貧乏人の一讀者の主觀からすると、本が高くなったといふ感じは否めません。文庫本とて五百圓を超すものなどもう珍しくありません。學術書はなほさらのこと。しかしこれはやうやく値段が現實に追ひついてきたとも言へさうです。つまり客觀的には、本は安すぎたが故に薄利であり、故に多賣を心がけねばならぬこととなって少部數しか見込めぬ人文學書などが出しにくくなるといふ出版業界の病理があり、到頭これが無理がきかなくなって本の定價全般が上昇するといふ形で反映されるに到った――といふのがここ十年ほどの事情ではなかったでせうか。 
 それと新刊以外から、ブックオフなど百圓均一を賣り物にする新古本店の進出もありました。高價格化と低廉化と二極分化しつつある過程なのかもしれません。だとすると、その狹間で苦境に立たされるのが高價な專門書でもなく安價な新書・文庫本でもない一般人文書でせう。かつて話題にされた選書の不振は、そこから説明する手もありますかね。 
 しかしご紹介のスイスのペーパー版の破格の安さを知ると、ヨーロッパでは事情がまた異なるのか知れず、それなら日本も何とかしやうがありさうなもの。この邊は洋書を買はないので全く無知でして、たまに『本とコンピュータ』を覗いてよその國でも苦戰してゐるな位に思ってゐたのですが、海外の出版事情などご存知のこと、折あらばお漏らしいただけると興味深く存じます。 

###
>リンクの見落としの件
 URL轉送が遂に終了したやうです。で、リンク切れがチラホラ。 
 表紙から行くと例へば、「Library」はいいのですが、そこから更に「修辞学の現在」へと進み、そのページからリンクを辿らうとすると、全てリンク切れ。その他も、これに同じ。 
 つまり、文書構造の階層が深くなるとURLをmembers.tripod.co.jpにした儘のリンクが殘ってゐるやうです。


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No.1057

Re:書籍の価格
投稿者---クルーラホーン(2004/03/01 16:43:03)


はじめまして、いつも愉しく拝見しております。

> 文庫本とて五百圓を超すものなどもう珍しくありません。

みなさま仰るように、「文庫本すら」高価になったと感じるのもごもっともですが、むしろ「文庫本こそ」が他の本に較べて異常に値上げ幅が大きいとは思いませんか?
出版不況の理由はさまざまですが、やはり決定的に、読者が買わなくなりましたね。
貼函上製の本をペーパーバックにすれば原価は抑えられますが、廉価版を謳う以上はギリギリの値付けをしなければならず、刷り部数も多くしなければなりません。たとえ売れ行きが伸びても、刷れば刷るほどかえって損をする。そしてそもそも、売れない。
おそらく文庫本のような廉価版出版の実情は、通常の人文単行書よりかなり厳しいと思います。社会思想社の教養文庫などは、そういう悲劇の典型でしょう。
だからいまのところ、人文書の版元は相当の値をつけて少部数を刷り、狭い読者層にピンポイントで着実に売る、という方針をとらざるをえないわけです。それでなんとかしのいでいる、というところでしょうか。

『これから出る本』読みました。いくら本が高いとはいえ、文庫本一冊買うのに昼メシを食いそびれるほどの貧乏学生が、いまの世にどれほどいるものでしょう。編集者の薄給はもとより、著訳者に支払われる微々たる報酬を考えると情けない限りです。まったく、こっちの腹が減りっぱなしです。


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No.1059

ノスタルジアとしての教養
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/07 12:32:44)


応答がすっかりと出遅れてしまいました。
>クルーラホーンさん、はじめまして。

創文社が出しているPR誌『創文』の一・二月合併号に、長谷川一「<教養>、ノスタルジアの地政学」という文章が載っていて、これがやはり「人文書」ないし「教養」の危機を論じるものでした。いろいろな事例が挙げられていて、それはそれで参考になります。

かつての「人文書」ないし「教養」というものも、「教育や学歴」が「稀少資源」であり、「社会上昇のための文化資本として決定的に有効であるという考え方が共有されていた」時代に、「読書階級=知識階級=学歴エリート層」のアイデンティティを保証するものとして機能していた。そうした「<人文書>空間の下部構造」が、人文書と「人格修養」を結び付けるような言説を引き寄せたというのが、まずは人文書に対する診断のようです。そうした「下部構造」が崩壊し、1970以降はそれがとりわけ「活字離れ」などというかたちで現れてきたという議論です。まあ、ごく当たり前の話でしょう。

確かに大正から昭和初期にかけての状況にはそういう側面があったのでしょう。しかし、私も含めて、森さんやクルーラホーンさんの感覚は、こういう指摘とは若干違っている部分があるような気もします。私にしても、別段に人文書やその手の知識が「文化資本」(儲けに繋がるもの)と思っている訳でもなければ、人格(そもそも「人格」とは何?)を高めてくれるものと思っている訳でもありませんから。私などが抱いているのは、「文化資本」とも「人格陶冶」とも関係なく、単純に面白いというところに人文書の魅力があるはずなのに、なぜそれが共有されないのだろうという、いたって素朴な感覚なのですよね。「教養」などということを言うのだとしたら、私のイメージする「教養」とは、むしろ「役に立つ」とか「尊敬される」というものの対極に位置するものです。そういう感覚を欠いている「教養復権」の論理というのは、なんとなく興ざめなものがあります。

それにしても、この『創文』の文章の例にあがっているものですが、かつての岩波書店の『哲学叢書』の売れ行きはすごかったようです。最も好評だった速水『論理学』は1946年までに18万部売れたそうです。

***

>森さん

リンク切れのご指摘もありがとうございました。移行完了時には、何をどう弄ったら良いのかわからなくなってしまい、うろうろしてしまいましたが、ようやく様子が分かってきました。一応、気づいたところは潰してはみたのですが……
どうにも管理者が頼りなくて申し訳ありません。


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No.1060

教養の「動機」とは?
投稿者---こば(2004/03/10 23:05:18)


>私などが抱いているのは、「文化資本」とも「人格陶冶」とも関係なく、単純に面白いというところに人文書の魅力があるはずなのに、なぜそれが共有されないのだろうという、いたって素朴な感覚なのですよね。「教養」などということを言うのだとしたら、私のイメージする「教養」とは、むしろ「役に立つ」とか「尊敬される」というものの対極に位置するものです。そういう感覚を欠いている「教養復権」の論理というのは、なんとなく興ざめなものがあります。

ごく素朴な質問で恐縮ですが、prosperoさんをはじめ、「口舌の徒」のみなさんは何らかの形で文章を読んだり書いたりされていると思うのですが、この行為を一般に「学問する」と呼ぶとして、みなさんが「学問する」理由は何ですか。

都が進める都立4大学の統廃合に伴って、とりわけ人文系の学部がなくなろうとしているわけですが、恐らく都知事に言わせると、これらの学問は「役に立たない・実益を挙げないから」という理由で切り捨てられるのだと思います。

これに対して、prosperoさんが挙げた「単に面白いから・魅力があるから」という理由では、もはや個人的な趣味の領域として片付けられて、人文書がますます顧みられなくなる恐れがあるのではないでしょうか。つまり、人文学は面白い、魅力があるとして、どうしてこの学問を大学という制度の中で複数の人間が集まって、金をかけて、学ぶ必要があるのでしょうか。「教養」を日本が長年培ってきた儒学的教育の延長として説明するほうが、都知事を説得しやすいのではないですか。

『メノン』に照らして、都知事をアニュトス、大学教授をソフィスト、学生を若者とするなら、あるいはprosperoさんや森さんこそがソクラテスなのかもしれません。但し、ソクラテスには似非学問共同体を根幹から批判する能力はあっても、学問共同体を基礎付け制度化する力はなかったことを考え合わせねばなりません。


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No.1061

奇書への憧れ
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/12 21:33:22)


「動機」が問題になるのは、おそらく意志によって自発的に何事かをなすという場合でしょう。これに対して、例えば、風邪をひいた動機とか、離人症になった動機とかは言いませんよね。それに喩えると、およそ「役に立たない」椿説・奇説を好むのは、どうも病と同じように、動機云々を問い糾すことのむずかしいもののような気がしてきます。ヴァールブルクになぜそんな変な図像を蒐めるのかを訊いたり、ベンヤミンに対して、どういう理由でパサージュに関する言説を掻き集めているのかを尋ねても、捗々しい答えは得られないのではないかとも思います。

確かに、人文学をめぐる昨今の状況は嘆かわしいものがあります。しかし、こと人文関係に限って考えると、これまで大学の中でどれほど創造的な展開がなされてきたのかを、振り返ってみてもいいかもしれません。だいたい、学問なる贅沢な暇つぶしが大学という制度の中で正当化されたのも、たかだか200年くらいの歴史しかもたないわけで、それ自体を自明視することもできないでしょうし。

「役に立たない・実益を挙げない」ものが片隅に追いやられているという現状は仰る通りでしょう。しかしだからといって、それに変に擦り寄って辛うじて持ち場を維持しようというのもどんなものかと思います。近頃のムック本形式の印刷物(「書物」にあらず)や、想像力を掻き立てない無意味な図解の入った入門書が跋扈するのは、その悪しき実例だと思います。役にも立たない、魅力もない、病んでもいない、こう三拍子揃われては、その性根の卑しさを取りたてて責める気にもなりません。こういうだらしなさのほうが、よほど嘆かわしいと思います。

今月の『ユリイカ』の特集「論文作法 お役に立ちます!」に、くだんの都立大の渦中にいる高山宏氏が、奇天烈な文章を寄せています。そこで言われているのがなかなか面白い。自分が論文を書く「モティベーション」は、「基本的に一人の女のために書く」というエモーションだといった言い分なのですが、これはわからないでもありません。その裏側には、「大学人の紀要論文のたぐいは、要するに誰に読ませたいのかわからぬ故にどいつもこいつもゴミだ」という某氏の発言があるわけです。

やはり人文関係の文章を書く場合は、「捧げもの」とは言わないまでも、自分の中に溜まった観念の運動を外部に解き放って、ある特定の読者にピンポイントで送り届けたいというのが、書く際の「動機」といえば動機かもしれません。ただし、ここで言う読者とは、現実の誰それというのでもなければ、ましてや「業界人」でもありません。敢えて言うなら、文章を書くと同時に、その読者をも作り出すというのが、人文書の「動機」かもしれません。一級の人文書というものは、読者を「育てる」などという生半可なものではなく、もっと傲慢に、読者を「創造」するものではないかと思っています。ですから、既存の読者の「役に立ったり」、ご機嫌を伺うなどはとんでもない。やはり、目次を見ても何が書いてあるかわからないというのが、人文書の理想でしょうね。
(と、またわけのわからないことを……)



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No.1062

Re:奇書への憧れ
投稿者---tea(2004/03/13 01:17:33)


こば氏の質問に付け足す形で、さらにおききしたいと思います。

個人的には私は、本を読んで(研究発表を聞いて)まず思うことは「おもしろい」か「つまらない」かのどちらかなので、管理人さんのおっしゃることに異存はありません。

しかし困るのは同じ面白さが共有できていない人に対して、どのように向き合ったらいいのかということです。実益うんぬんを言う人も困るのですが、面白さの基準が違う人の場合、どうしたらいいのでしょうか。「哲学のエッセンス」に代表されるように、違った角度から読むことによる底の浅い面白さ、ただ比較しただけのいかがわしい面白さを売りにした本が出版されているということは、そのような面白さしか分からない人がいることを示しているように思います。そのような人たちに「面白い」の基準で勝負しようとしても、「つまらないよ」の一言で、交通が途絶えてしまいます。だからといって有益性を持ち出すのは絶対に嫌だし、「儒学的教育の延長」なんて口が裂けても言いたくありません。何か他に言うことはないだろうかといつも思います。

しかし新聞などを見ていても人文系の学部を擁護する人の論は大概うまくいっていないので、やっぱり何も言えることはないのだとしたら、どんなに実益一辺倒の世の中になってもなぜだか人文書を買う人がいるし、なぜだか人文系の学部にやってくる人がいる、その範囲で人文書は出版されればいいのだし、その範囲で人文系の学部は大学に残っていけばいいということになるのでしょうか。

>こと人文関係に限って考えると、これまで大学の中でどれほど創造的な展開がなされてきたのかを、振り返ってみてもいいかもしれません。だいたい、学問なる贅沢な暇つぶしが大学という制度の中で正当化されたのも、たかだか200年くらいの歴史しかもたないわけで、それ自体を自明視することもできないでしょうし。

この春、友人は「大学で哲学は研究できない」と言い切って、社会に出てしまいました。私も最近、大学における研究とは何なのだろうと考えることが多いです。確かに大学という制度を自明視するべきではないと思いますが、現に事実として管理人さんも組織に属しているわけですし、その点はどのようにお考えですか?外に対して様々な工夫をなさってこられた管理人さんだからこそ、おききしたいと思います。





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No.1065

eruditio epidemica
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/15 00:37:39)


>teaさん、はじめまして。

昨今の入門書類について、「違った角度から読むことによる底の浅い面白さ、ただ比較しただけのいかがわしい面白さ」とは、なかなか穿った表現で、思わずにやりとさせられました。私もこの種の「面白さ」を否定はしませんが、あまり迫力のない面白さだとは思います。何が問題かというと、この手の面白さは、伝えることはできても、感染しない、要するに病んでいないということです。説明して説き聞かせることのできる面白さなどは嵩が知れていると思います。

何か何だかわからないけれども面白そうという得体の知れなさが、学問なる取り澄ました形態を取る以前の、最も迫力のある知性の状態だと思います(森さんのいうところの似非学問もまさにそんなところでしょうか)。その得体の知れない面白さを演じて見せて、それに感染する人間が出てくるというのが、学問というものの健全なありようであるというふうにも思えてきます。これは「入門」などというよりは、initiationと言ったほうがいいのかもしれません。

病として伝染していく知識、トマス・ブラウンの奇書『伝染性謬見』pseudoxia epidemicaにならうなら、eruditio epidemica(伝染性教養)といったところでしょうか。罹る人は罹るし、罹らない人は罹らない ―― 知性とはそんなある種の病かもしれません。

大学という制度の現実的意味合いについては、また改めて。


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No.1064

似非學問好み
投稿者---森 洋介(2004/03/13 10:32:46)
http://y7.net/bookish


>『メノン』に照らして、都知事をアニュトス、大学教授をソフィスト、学生を若者とするなら、あるいはprosperoさんや森さんこそがソクラテスなのかもしれません。 

 こばさん、お久しぶりです。引き合ひに出されたので應答してみます。 
 ソクラテスは勘辨してください。裁判で責められたくありませんし。まだソフィストの方がいい。ソフィストも若者を教へる大學教授タイプばかりではありますまい、「吾が舌を視よ」と見得を切った支那の遊説家たちのやうに食客となって無爲徒食するタイプ、その方がいい(哀しい哉、その口先で世渡りする才すら無いのですが)。 

>どうしてこの学問を大学という制度の中で複数の人間が集まって、金をかけて、学ぶ必要があるのでしょうか。 

 實際、「必要」は無いはずです。教師でないソフィストがあるやうに、大學に屬さなくとも讀んだり書いたりできる人はゐるわけですから。 
 第一、たしかに私は讀んだり書いたりはしますが、それが「學問する」と呼ぶに足るか、省みて怪しいところです。讀むのが好きでも書くは苦手、敢て執筆しようといふ「動機」には乏しい。強ひて動機を擧げれば、後藤明生を眞似て「讀んだから書くのだ」とでも答へませうか。 
 かつて高島俊男氏は、學問のうちでも文學や歴史の研究はその成果を實用に供することができぬものだから「健全な国民の知的要求にこたえ得る書物に鍛えあげて還元しなければならない」――と、その信念を述べてゐました(『水滸伝と日本人』大修館書店・1991.2、315頁)。この傳でゆくと私は、「研究」を自らするよりそれが還元された書物を讀むことが好きなのです。 

>「単に面白いから・魅力があるから」という理由では、もはや個人的な趣味の領域として片付けられて、 

 まさしく趣味の領域です。「儒学的教育」といふことで言ふなら、子曰く、之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を樂しむ者に如かず――『論語』雍也第六です(儒教って實學から程遠いと思ひませんか?)。 
 ただ、個人の趣味を孤獨に追究する求道者ではないので、同臭同好の士はあって欲しいと思ってゐます。原理的に言って、書物は複製物ですから讀者も複數あるはず、自分ひとりだけで「讀む」といふことはあり得ません。故に天下の孤本や未發表の手稿など興味無し、興味あるとすればそれが共有化でき反復できる限りにおいてです。 

>但し、ソクラテスには似非学問共同体を根幹から批判する能力はあっても、学問共同体を基礎付け制度化する力はなかったことを考え合わせねばなりません。 

 本式の學問は手に餘りますが、似非學問は結構好きです。「疑似科學」と言った方がよいでせうか。フーコーが「知」と言ったのも、眞理に到る科學(=學問)ばかりでなくいかがはしい疑似科學をも含む範疇としてでした。もちろん似非と承知の上だからこそ面白がるので、その自覺無しに學を僭稱しようといふ權威主義とは混同なきやう。 
 また歴史を遡れば、今でこそ一科を成す諸學も前身は學にならんとしてまだなれずにゐる未熟雜多な「知」であり、學問に似て非なるものだったりします。趣味、と言ってもいいでせう。趣味とて嗜好を同じうする者があってこそ趣味たり得るわけで……とやり出すとカントはじめ趣味論の喧々囂々に深入りすることになりますか。 

 以上、とりとめなく。 

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 prosperoさん、以下がリンク切れのあるページです。新着図書アーペル無題(フンボルト)グラッシ百科全書山内志朗『天使の記号学』シャフツベリ無題(ミュラー)自己保存


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No.1066

レトリック的人間
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/15 14:47:56)


"eruditio epidemica"という書き込みの続きをこちらで。

>「吾が舌を視よ」と見得を切った支那の遊説家たちのやうに食客となって無爲徒食するタイプ

良いですね。これぞ、まさにレイナム『雄弁の動議』のhomo rhetoricus「レトリック的人間」でしょう。責任をもって語り、語りの首尾一貫性を是が非でも守り、志操堅固なhomo seriosus「シリアス的人間」に対して、言を左右し、逆説を弄し、「青少年を誘惑する」、そんな掴みどころのない「(語り手ならぬ)騙り手」こそ、ソクラテスの姿だったのかもしれません。

森さんの指摘する「擬似科学」ではありませんが、嘘とも真ともつかない奇態な言説を喜ぶ感性が、「学問」の出発点には存在するような気がします。「哲学」はどんな時代になっても、一般の学問には吸収されない変わり種の身分を保ち続けている点で、学問本来のいかがわしさを常に抱え込んでいるように思います。造られたかと思うとただちに壊され、「学問」になりそうでいながら、なかなかそれらしい体裁を取らない、そんな不安定で流動的な野生の状態が経験できるのが、哲学というものかもしれませんね。それは、学問の「原始状態」をつぶさに観察できる特異な場所であるとでも言いましょうか。

学問なるもの、そしてその典型としての哲学がそうしたものである以上、それらはおよそ制度と相性の良いものであるはずはありません。そもそも大学というもの自体、同好の士の「組合」がその起源であったはずで、いわば下から自発的に組織されていったという側面が大きいと思います。日本の場合は、官立というかたちで上からの組織化の性格が強いので、勢い権威主義的な色合いが濃いようにも思えます。

しかし、teaさんの言うような意味でごくごく実際的に考えるなら、やはり制度というのは便利なものだと思います。普通に暮らしていて、差し迫った生活上の必要とは関係ない「学問」などに血道をあげている同好の士に出会うのは、なかなか容易なことではないでしょう。その点では、大学という制度は、そうした人々に出会うチャンスを格段に増やしてくれるわけで、やはりそれを利用しない手はないだろうと思います。もちろん、出版というのも興味を「共有し反復する」代表的な手段であるわけで、それはまたそれとして確保する。大学をまたいだ学会・研究会なども、こちらと関心の重なる限りで活用させてもらう。そのくらいのつもりでいれば、「大学では哲学はできない」というほど思いつめないで、そこそこやっていけるようにも思います。「大学でこそ学問ができる」という思い込みが危険であるのと同様に、その逆もまたいささか剣呑かと。信じることなく付き合い続けるというのが、良い匙加減というところでしょうか。homo rtehoricusは、何処か一つに中心を置かない浮遊する感性を持ち前とするようですから。

**

森さん、リンク切れのご指摘、ありがとうございます。手を入れてみました。


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No.1067

説得の技法
投稿者---こば(2004/03/15 17:42:59)


同好の士を見つけてゆくためのツールとして、大学制度を活用してゆこうではないかというのが、prosperoさんのお考えのようですね。しかしこれではteaさんのご質問の半分しか答えていないように思います。同好の士同士が(あるいは同好の士を「創造」しようとする人たちが)大学制度を立ち上げるならいざ知らず、prosperoさんご指摘のように、大学が上から組織化されている場合、お上には同好の士たちが求めて止まない(病まない?)「面白さ」がわからないわけです。いや、そもそもお上は「つまらないよ」とすら言ってくれないかもしれない、面白い/つまらないを判断する機会すら共有していないのが現状でしょう。だとすると、teaさん曰く、「どんなに実益一辺倒の世の中になってもなぜだか人文書を買う人がいるし、なぜだか人文系の学部にやってくる人がいる、その範囲で人文書は出版されればいいのだし、その範囲で人文系の学部は大学に残っていけばいい」ということになるのでしょうか。この伝で行くと、最後には、本が売れて、学生がたくさん入ってくる限りの人文学が生き残って、実益優先の論理に流されることになります。prosperoさんがお嫌いな図解入りの安易な入門書が、そのわかり易さゆえにベストセラーとなって人文学の真骨頂と見なされることになりかねません。しかしそれは本意ではありますまい。
prosperoさんがどのように組織を活用しているかはわかりました。では、同好の士の「外」に対してはどのように働きかけてゆくおつもりですか。


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No.1068

説得の技法2
投稿者---こば(2004/03/16 00:31:14)


「説得の技法」と題しながら、この題で考えていたことを書き忘れておりました。

>森さん
森さんが『似非学問好み』の投稿の中で「ソクラテスは勘弁してください」と言いつつ、この森さんの投稿に対して奇しくもprosperoさんがソクラテス像を見出していたことが印象に残りました。
私もprosperoさんとは違った文脈ながら、この投稿の中に森さんのソクラテス像を見ることが出来ます。例えば、森さんが「世間一般にはわけのわからぬ学問を追い求めることによって大学の財産を徒に空費した罪」に問われて裁判にかけられたとします(失礼かもしれません、御赦しを!)。ところが森さんは「弁明」とは名ばかりに、「自分のやっていることは趣味であって、わかる人間(同好の士)にわかればそれでいいのだ」と開き直るわけです。この開き直りの精神こそ、アテナイ市民にご馳走を要求したソクラテスの「弁明」に相通ずるものがあると思います。そしてそのように答えたなら、森さんは死刑にはならずとも追放刑(今で言うリストラ)くらいにはなることでしょう。もちろん森さんだけでなく人文学を学んでいるすべての人に当てはまるわけですが。

別のたとえを使わせてください。例えば、世界が核戦争で滅亡したとして、あなただけは核シェルターにいて助かったとします。このシェルターの中には立派な図書館と巨大な娯楽施設と一生食べていけるだけの食料貯蔵庫があったとします。放射能に汚染されて外に出ることはできず、あなたは一生一人でシェルターに暮らすしかありません。さて、あなたはこの状態で人文学の書物を読み続けますか?

同好の士を求めているとはいえ、趣味人であるprosperoさんと森さんは恐らくイエスと答えることでしょう。また学問を始めたばかりの求道者を気取っていたかつての私は、それとは別の意味でイエスと答えていたと思います。しかし今現在の私の答えはノーです。きっと娯楽施設に流されていると思います。
なぜなら、他人に対して説明し説得すること、つまり論証することが学問の本質だと考えるからです。何らかのことを知っているとは、他人に対して説明することにより、ことばによって誰もがその事柄に参与できることを意味します(では、他人を説得できれば直ちに知っていることになるかどうかについては、後ほど稿を改めて)。
そこで、人文学の役割とは、自分が表現したいことを他人に伝えるための、言葉遣いのルール(論理性)の習得にある、と考えてはどうでしょう。これが人文学の唯一にして絶対の目的であるとは言えませんが、少なくとも必ず獲得しなければならない手段であると言えそうです。たとえ、prosperoさんや森さんが趣味人であっても、どこかしらで同好の士を求める以上、ある水準の論理性を習得していなければならないはずです。

これなら、都知事を説得できるかと思うのですが、お二方にとっては志操堅固な硬い話でしたかね?



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No.1070

知識の病ひ
投稿者---森 洋介(2004/03/16 03:46:00)
http://y7.net/bookish


 どうしてそんなにソクラテスにしたがるんですかねえ。私は痩せたソクラテスより太った豚で、ありたい。たとひ體躯は痩するとも精神はそのつもり。それにprosperoさんと私とを一緒にされますが、結構志向(嗜好)に違ひがあると思ひますね。知識偏重の私は哲學を好みませんし。 

>例えば、森さんが「世間一般にはわけのわからぬ学問を追い求めることによって大学の財産を徒に空費した罪」に問われて裁判にかけられたとします(失礼かもしれません、御赦しを!)。ところが森さんは「弁明」とは名ばかりに、「自分のやっていることは趣味であって、わかる人間(同好の士)にわかればそれでいいのだ」と開き直るわけです。 

 イヤそんなことは言ひませんよ。そもそも分際を辨へず大學の公費を蕩盡するほど圖々しくなりたくないし、そんなの辯明の餘地はありません。だいたい「わかる人間にわかればいい」なんて傲慢です。澁澤龍彦は種村季弘に言はれて中學生にも讀めるやうに書くやうになったさうで、見習ひたいもの。義務教育修了程度の知識があれば誰でもわかるやうに書く、專門外の一般讀者にもその氣さへあればついて來られるやうに註などの調べる手掛かりを備はらせて書くのが、理想です。以前No.914以下でも述べましたが、私はわかりやすくするのは大好きで、わからないことへの志向はよくわからない(し、理解する氣も餘り無い)んです。 
 さう、どうやったらわかって貰へるだらうか……。だから、「同じ面白さが共有できていない人に対して、どのように向き合ったらいいのか」といふteaさんの問ひは、當方もつねづね抱へてゐる難問ではあります。こばさんも「どこかしらで同好の士を求める以上、ある水準の論理性を習得していなければならないはず」と言はれますが、趣味と言っても私のは書物の(書物による書物のための)趣味ですから、にも申した通り自分獨りだけの趣味ではあり得ず、他者にも共有と反復ができるやうに形成されねばなりません。 

>きっと娯楽施設に流されていると思います。 

 御同樣です。いまだって怠惰な生活に流されるのが過半で、讀書は氣が向いた時の暇潰しに過ぎませんから。だから趣味だと言ふのです。樂しくなくなれば、則ちこれ止むのみ。但し、ただ樂しいと自足してをられず、その快樂を説き明かさずにはをられないといふ強迫觀念に憑き纏はれてしまってゐるのが辛いところでして、その意味でなら「ある種の病」とprosperoさんが言ふのに近い。これは快樂を知るといふ快樂、即ち、フーコーが〈性の科學(=學問)〉のうちにすら(性愛の術(アルス・エロチカ)〉として機能する快樂を見出したやうなものかもしれません(『知への意志』邦譯92〜94頁)。 

>そこで、人文学の役割とは、自分が表現したいことを他人に伝えるための、言葉遣いのルール(論理性)の習得にある、と考えてはどうでしょう。 

 もうおわかりでせうが、別に人文學に限らないことですよね。趣味も亦然り。だから人文學科辯護論としてはまだ不足でせう。 
 しかし折角ですが、昨今の大學問題といふ議題にはどうも興味が湧きません。ただ、かういふトピックが出たのを機に、積ん讀にしておいた本から加藤泰史「十八世紀ドイツの大学改革――“Brotwissenscahft”(パンのための学問)を越えて」といふのを讀みました(伊原弘・小島毅編『知識人の諸相――中国宋代を基点として』勉誠出版・2001.4所收)。すると、これが面白いんですよね――イヤ加藤氏の論がといふより、知らない方面の知識が開けたことが。なんで、ベルリン大學創設がどうしたかうしたといふ間接的で迂遠な知識だとかう樂しくなるんだらう……。病 膏肓ニ入ル。 


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No.1071

脱領域の感性
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/17 15:38:59)


こば氏のシェルターの例ですが、どうもイメージからすると、その施設は「近代的」で居心地が良さそうですね。ヴァーチャルな劇場(シアター)などもあるのでしょうか。しかし、私などは、むしろそれが入り組んだ迷宮のような「洞窟」であったり、絶海の孤島であればとも思います。しかしprosperoにも、やはりミランダやキャリバンが必要です。

というわけなので、「他人に対して説明し説得すること、つまり論証することが学問の本質だ」ということにはおおむね賛成です。だいだいそうでなければ、「修辞学」などというものに関心をもつはずはありませんから。homo rhetoricusとhomo seriosusの区別は、ダイアローグとモノローグの区別でもあるでしょう。頼まれもしないのに、studia humanitatisなるHPを造っているのも、ダイアローグのためですし、一応は感染拡大のためのささやかな試みでもあるのですが。

しかし、この説得ということだけが人文学の役目だというのは、少々頼りないような気もします。それなら「話し方教室」や「書き方教室」にでも通えばということになりかねませんからね(実益中心で依怙地な某氏はそんなことを言いかねません)。本来、人文学の真骨頂を成す特徴は、個別にさまざま存在すると思います。

都立大の話は極端な例とはいえ、典型ではあるでしょうが、これだけですべてが語り尽くされるとは思いません。長い目で見れば、実益ばかり追求することの虚しさが自覚されるような時期がやってくるのではないでしょうか。ですから、人文学の愛好者は「説得の論理」という最大公約数的な「実用」に訴えたり、変なところで日和らずに、人文学固有の面白さをせいぜいアピールして感染者を増やすというのが肝要かと。人文学ではこんなに奇妙奇天烈なことがやれますよという宣伝はいかが?(擬似科学の博覧会、「驚異の部屋」(ヴンダーカマー)の再現でもやりますか)

考えてみると、人文関係はこれまで少々大学という制度に安住しすぎて、それ固有の面白さを ―― それが可能であった時期に ―― 十分示せずにいたような面もあるようにも思います。自分自身を狭い専門領域に限定し、その垣根を越える動きに警戒の目をこらす国境警備兵のような風潮すらなきにしもあらず(クルティウスは「シオンの番兵」と呼んでいましたっけ)。「説得」というのも、ある種の越境の試みでしょうが、人文学そのものの中には、元々分野間の越境があるというのが、その魅力の一つだと思います。思わぬものが思わぬところで繋がっているというような融通無碍な感性が物を言うところなのではないでしょうか。人文学は自分の中に解体と拡散の要素を孕んでいるとも言えるでしょう。ですから、「文学部」の解体や再編成は、それ自体としてはあって当然のことだと思いますが、何よりも情けないのは、それが外圧によってしか起こらないというところです。

>prosperoさんや森さんが趣味人であっても、どこかしらで同好の士を求める以上、ある水準の論理性を習得していなければならないはずです。

「趣味人」という言いまわしはよくわかりませんが、それもそうかもしれません。ただ森さんも仰るように、「結構志向(嗜好)に違ひがある」のは確かだと思いますので、違っていることが分かりながら、接触したり交差したりすることも気づいている、こんな繋がりを「論理」と呼んで良いとすればですけど。

この辺りは、「他人を説得できれば直ちに知っていることになるかどうか」というこば氏の留保にも関わることでしょうから、またその折にでも。

**

野暮な蛇足ですが、prosperoは、現実の管理者本人とはかならずしも一致しているわけではありませんので、その点は悪しからず(そうでないと、物を言うのもいささか不自由ですから)。これはあくまでも、「prospero氏の生活と意見」という見立てであって、このprosperoは現実に存在していなくても一向に構わないのですよ。


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No.1046

「忙しさ」と人文書の衰退
投稿者---Juliette(2004/01/31 10:43:07)


ご無沙汰いたしました。時々覗いてはいたのですが、書き込みをするのは随分久しぶりです。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

>全体が高学歴になって、潜在的な読者数が多くなっているはずなのに、
>それがかならずしも書物の受容と重なっていない

おっしゃるとおりです。ですが、私も人文書の衰退(これはある意味、我々の担う文化そのものの衰退でもあると思います)を憂い、危惧する者の一人でありながら、そういう自分自身はどのくらい人文書を買っているだろうか?読んでいるだろうか?と反省すると、甚だお恥ずかしい量しか買っていません。そのうち、ちゃんと読んだものとなると、穴があったら入りたい状況です・・・。

そこで、自分自身への反省も含めて現代人が人文書を読まなくなった理由を考えてみますと、それはきっと現代人が「忙し過ぎる」からではないかと思うのです。実際私も、今は少しほっとしていますが、去年の12月までは本当に忙しかったのです。しかし、この「忙しい」という言葉を使うたびに、やっぱりこの言葉は言い訳がましいな・・・とも感じていました。

そこで、「忙しい」というのは、やらねばならない仕事が山積しているという具体的な現状よりも、そういう状況によって引き起こされる殺伐とした心の状態を指す言葉だと気づいたのです。つまり、実際はたいして忙しくなくても、気持ちにゆとりがなければ「ああ、忙しい忙しい!」と、人は嘆くでしょう。つまり、心だけが忙しがっているということはありうるのです。ひどい人になると、忙しがっている時はなんとなく落ち着いていて、忙しがっていない時は不安でしょうがない、という人もいるようです。人文書の衰退は、おそらく「高学歴の人が増えたのに・・・」とか、「人文書は発行部数が少なくて高価だから・・・」などという理由の前に、まず、この心の問題が大きいのだろうと思う次第です。

なんとなく、とりとめのないことを書いてしまいましたが、話のついでに最近観た映画をひとつご紹介させていただきたく思います。
「10 minutes older」という映画で、10分という制限時間の中で15人の監督が短編映画を作り、8人分を「チェロ編」(邦題では、なぜか“イデアの森”というセンスのない副題だった)、7人分を「トランペット編」(同“人生のメビウス”)としてそれぞれ編集したオムニバス映画です。

すべてに共通するテーマは「時」。全編を通して、(たぶん編集者の意図が大きく関わっているのでしょうが)「時」を「水」と絡めた表現が多かった印象を受けました。しかし、15本それぞれが個性的かつ粒ぞろいの作品で、非常に楽しめました。10分という時間をあんなに贅沢なものだと感じたのは、久しぶりのことでした。トランペット編はまだやっているようです。


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No.1048

酔狂さの衰退
投稿者---prospero(管理者)(2004/02/03 20:10:14)


>Julietteさま、お久しぶりです。

確かに、人文書を読むということに関しては、「忙しさ」は大敵ですね。仰るように、それは自由になる時間が物理的に短いというだけではなく、時間がないような気にさせられてしまうという側面も大きかろうと思います。そもそも実用とは縁のない人文書は、目の前の必要に迫られるわけでもなく、それを読むことでただちに何かが上達したりするわけでもなく、いずれにせよおよそ「役に立たない」ものですから、そんなものに付き合い続けていくには、ある種独特の感覚が必要なのかもしれませんね。もちろん、そこに「心構え」のような精神修養的な要素を持ち込みたくはありませんので、それを「酔狂」とでも言っておきましょうか。酔狂や偏屈、時代遅れや頑迷古陋、畸人や変人 ―― こういったものが片隅に追いやられ、真っ当な常識や口当たりの良い良識、「進歩的」で「建設的な」見解やら経済的な効率やらなどが幅を利かすと、それこそ人文書は危機なのかもしれません。「人文学」というのは、ある種エキセントリックな(脱中心的)なものでしょうから。

**

映画のお知らせもありがとうございます。それこそ最近は「忙しい」ので、映画館になかなか足を運んでいません。ただ、修理に出したレーザーディスク(いまどき!)が戻ってきたので、グリーナウェイ『プロスペローの本』などを、久しぶりに見ることができそうです。グリーナウェイも、『8・2/1の女たち』など、新作が公開されていたのも不覚にも知らずにいました。DVDでは、作曲家ナイマンと組んで、『水の協奏曲』というオムニバスを作っているようでしし、懐かしい『建築家の腹』なども出ているようなので、そろそろDVDも手に入れる頃かとも思っています。オペラのDVDもずいぶん増えてきましたし。

ナイマンといえば、『ゴヤを見つめて』(Facing Goya)というオペラを作っていて、これがどうやらグリーナウェイばりの奇天烈な作品のようです。CDを手に入れました。まだ聴いていないのですが、これはそのうちご報告でも。


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