| カッシーラーにおける「シンボル Symbol」の概念は、
>ベンヤミンの「媒質 Medium」ととても近い
この論点は、ずっと気になりながら、うまく考えがまとまらないので放ってありましたが、その後少し思いついたことがありましたので、遅くなって気が抜けてしまいましたが、応答です。
認識を媒介する中間者の役割を果たすという点で両者は繋がるように見えるのですが、やはりその肌合いには微妙な相違も見られるような気もします。それは、
「分散して多様化する知性」というものが、どこまで分散したままで耐えられるかという論点に関わりそうです。
カッシーラーも「シンボル諸形式の哲学」を謳う以上、そこにはシンボルの複数性が言われており、言語・神話・科学的認識などは、どれが優位ということのない、それぞれの独自性を保つものと理解されていたと思います。だからこそ、新カント学派的な科学論一辺倒の認識論とは異なり、神話論などを打ち出し、ヴァールブルクなどとも感性を共有することができたのでしょう。しかし、カッシーラー自身、その多様性・複数性を最後まで維持することができたかは疑問にも思えます。最も代表的なものは『国家の神話』です。ここでは、やはり理性の直線的な進歩という「啓蒙」的な理性観が強力に現れ、シンボル諸形式の多様性を圧倒しているようにも見えます。
こうした「理性の神話」を再興することに対しては、ベンヤミンは真っ向から反するような感覚を持っていると思います。多様性を多様性のままに理解し、性急に一つの「物語」に収斂させないというのが、「パサージュ論」の方向かと思います。
さて、そうなると、カッシーラー・ベンヤミン両者の「媒介」の理解は何が違うのかということになりますが、おそらくそれは、媒介と制度との関係ということにならないでしょうか。要するにカッシーラーの場合、「媒介」としてのシンボルは、ある種の制度として自立するものであるのに対して、ベンヤミンの場合はその媒介はあくまでも「儚き」ものとして、制度化されることのない一過的なものであるとでも言いましょうか。
これは、いましがた「新着図書」を更新して、カッチャーリ『必要なる天使』のことを書いていたときに思いつきました。言ってみれば、カッシーラーの媒介はキリスト論に相当し、ベンヤミンの媒介は天使論である、と。
言葉足らずではありますが、叩き台として一言。
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