口舌の徒のために(過去ログ)
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但しこれらは、敢へて「文化研究」と稱することで、現時流行の「カルスタ」とは微妙に距離を取りたい樣子ですね。その邊、何か斯界の事情はご存じですか。
先に擧げた二著はやはりあちこちで論議を喚んだ模樣。 私自身の「カルスタ」への感想を申せば、文學に跼蹐しない文化現象全般に亙る研究は望むところですが、それが多く「文化の政治學」でしかないのが不滿です。しかもその政治學は、フーコー流のミクロ・ポリティクスを稱しながらそのじつ舊來の「權力」觀・「政治」概念の燒き直しの域を出ない。この點、夙に彌永信美氏がサイード『オリエンタリズム』におけるフーコーの應用を批判したのに耳を傾けるべきではなかったかと思ひます。日本近代文學研究での「文化の政治學」は、歴史社會學派と呼ばれたものの復興――最惡の場合は、左翼公式主義的な裁斷批評の再來を招いてゐるのではありますまいか。 愚見にて失禮。
なほフーコーの言説分析の方法を應用するにあたってのサイードの「鈍感」ぶりは、丹生谷貴志「歴史の〈外部〉」(『GS』3「特集 千のアジア」冬樹社,1985.10所載)も示唆するところでした。 >彼自身の知識人論(『知識人とは何か』〔平凡社ライブラリー〕)などは、それこそ國府田さんご指摘の、フーコー的「ヘテロトピア」(のことですよね)的感覚に貫かれているようにも思うのですが、 『知識人とは何か』を上村忠男氏が書評したのを想ひ出します。曰く、學生に讀後感を聞いたら「なんかサルトルみたいですね」と不滿げな樣子なので、思はず上村氏は「サルトルの何が惡いんだ!」と反問した、とか。 私はむしろその學生に共感します。上村氏の論はフーコーからヘテロトピアなる語を借りて論じ出したあたりから興味索然としてきた感があり、『歴史家と母たち カルロ・ギンズブルグ論』(未来社、1994)前後の論考は面白く讀めただけに、殘念に思ってゐます。もっとも、その後もう逐ってゐないので、また興味深いものをものしてをられるやも知れず、その場合は先入見を改めます。
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