口舌の徒のために

(過去ログ)

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No.440

レェート『弁証法の哲学』(以文社)
投稿者---柳林南田(2001/10/14 03:34:06)


はじめまして。

質問ですが、

レェート『弁証法の哲学』(以文社)

は、第1巻しかないのでしょうか。

それと、マルクス主義の立場からのヘーゲル本と、反マルクス主義の立場からのヘーゲル本でよみやすいものを教えて下さい。

No.441

レェート『弁証法の哲学』など
投稿者---prospero (管理者)(2001/10/14 16:48:24)


柳林さま

始めまして。

>レェート『弁証法の哲学』(以文社)
>は、第1巻しかないのでしょうか。

私も以前から不思議に思っていましたが、どうもそのようです。原書は二分冊で、第二巻が「マルクスから現代まで」となっているのですが、これは翻訳されていないようですね。「� 近代」の「訳者あとがき」はに、第二分冊の目次は掲載されているのですが、後続が明言されているわけでもなく、どうにも中途半端な印象を受けます。

因みに、第一巻のみが出てしばらく後が続いていないものとして、法政大学出版局のガダマー『真理と方法』がありますが、これはそれほど遠くない将来に続巻が出る旨を聞いています。

「マルクス主義の立場からのヘーゲル本と、反マルクス主義の立場からのヘーゲル本」とのことですが、それこそ私こそお教え願いたいところです。私としては差し当たり、前者としては、廣松渉『マルクス主義の理路』(勁草書房)や『弁証法の論理』(青土社)が思いつくくらいです。廣松氏のものは、漢字を多用するあの表記にさえ慣れてしまえば、書いている内容自体は単純明快なので、私も気楽に読ませてもらいました。

私自身のヘーゲルへの関心は、かなり純粋に哲学寄りなので、例えばヘンリヒやジープといった人たちの議論を好む傾向があります。社会理論関係のものにはいたって疎いので、いろいろとお教え願えればと思います。どなたかのご支援をいただければ幸いです。今後もよろしく。


No.444

Re:レェート『弁証法の哲学』など
投稿者---柳林南田(2001/10/15 08:42:11)
http://home.mira.net/~andy/


>「マルクス主義の立場からのヘーゲル本と、反マルクス主義の立場からのヘーゲル本」とのことですが、それこそ私こそお教え願いたいところです。私としては差し当たり、前者としては、廣松渉『マルクス主義の理路』(勁草書房)や『弁証法の論理』(青土社)が思いつくくらいです。廣松氏のものは、漢字を多用するあの表記にさえ慣れてしまえば、書いている内容自体は単純明快なので、私も気楽に読ませてもらいました。

ありがとうございます。廣松渉氏のマルクス解釈は根本的に間違っていると考えていますが、ヘーゲルについてはほとんど知らないので、廣松先生から学ばせてもらいましょうか。今海外にいるのですが、「弁証法の論理」を友達に古本屋でさがしてもらいましょうか。著者の観点が強く出た本より、ヘーゲルそのものを解説した本がいいのですが。

それと、題名が思いだせないのですが、ヘーゲルに関する6冊くらいの本があったのですが、題名をごぞんじなら教えて下さい。翻訳本で、1冊はヘーゲルの伝記、残りはヘーゲルの主要著作を解説したもので、古本屋で11000円でした。

廣松渉氏のマルクス解釈(疎外論から物象化論へ)に対しては、岩淵慶一氏と田上孝一氏が徹底批判を加えています。


>私自身のヘーゲルへの関心は、かなり純粋に哲学寄りなので、例えばヘンリヒやジープといった人たちの議論を好む傾向があります。社会理論関係のものにはいたって疎いので、いろいろとお教え願えればと思います。どなたかのご支援をいただければ幸いです。今後もよろしく。

私の関心はマルクスから始まって、ヘーゲル-マルクスの視点から関心を持っています。ルカーチの「若きヘーゲル」を10代のころ読んだのですがあまり内容を覚えていません。(今は20代後半の大学院生です。

知人のサイトを紹介しておきます。英語ですがいろいろ資料があります。

No.446

K・フィッシャー
投稿者---prospero (管理者)(2001/10/15 23:13:36)



>ヘーゲルそのものを解説した本がいいのですが。

だとすると、とりわけ廣松氏にこだわる必要もないかもしれませんね。

>ヘーゲルに関する6冊くらいの本

これはクーノー・フィッシャーのHegels Leben, Werke und Lehre(『ヘーゲルの生涯・著作・学説』)の翻訳のことではないでしょうか。邦訳は六分冊で、『ヘーゲルの生涯』以下、『ヘーゲルの精神現象学』、『ヘーゲルの精神哲学・歴史哲学』……といった形で勁草書房から出ていました。純粋にヘーゲルのことだけをと仰るのなら、悪くないかもしれませんね。

私はヘーゲルの中ではなんといっても『精神現象学』に入れ揚げていますが、この怪物的大著に取り組んだ解説としては、やはりハイデガーの講義『ヘーゲル<精神現象学>』(創文社)は第一級のものだと思います。ハイデガー自身の講義すべてのなかでも出色のものでしょう。難解な『精神現象学』を原文よりもさらに難解にしてしまったハイデガーの解釈には痺れます。フィンクの『ヘーゲル』(国文社)もなかなかなものです。こういった感性で読んでいるので、やはりコジェーヴのものはちょっと距離感があります。

>知人のサイトを紹介しておきます。

ありがとうございました。お教えいただいた廣松批判ともに、いずれゆっくり拝見したいと思います。

No.447

岩淵慶一著『神話と真実―マルクスの疎外論をめぐって―』
投稿者---柳林南田(2001/10/17 05:51:18)
http://member.nifty.ne.jp/jsts/kh.html


一応紹介しておきます。

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「神話と真実」という表題のもとにまとめられた岩淵氏のこの論文集は、『現代の理論』誌1973年の4月号から4回にわたって発表された氏の広松 渉批判の論文を筆頭にして三部構成のもとに計6編の論文を含んでいる。いずれも論争の文書となっているこれらの論文を今年になってあらためて一冊の本にまとめなおして公刊に付そうと著者が思い立つに至ったおそらく最大の理由は、著者にとっての中心的な論争相手だった広松氏の死去にともなって岩波書店が『広松 渉著作集』の出版に踏み切ったことである。すなわち、岩淵氏としてはかなり詳細な文献考証の裏付けをもふまえて論破してきたはずの当の広松理論(これは史的唯物論とマルクス主義の確立を、<疎外論の超克をへて物象化論へ>というように定式化していた)が、この国の出版界の老舗に当たる岩波書店によって「いわば本格的に」後押しされた形になっていることを、岩淵氏はかなり重く受け止めたということであろう。
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No.448

田上孝一著『初期マルクスの疎外論―疎外論超克説批判』
投稿者---柳林南田(2001/10/17 05:53:35)
http://member.nifty.ne.jp/jsts/sogai.html


これも紹介しておきます。田上孝一氏は、前掲の岩淵氏の弟子です。

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 著者が本書の副題のなかで批判の対象として位置づけている『疎外論超克説』とは、著者によれば、マルクスの疎外論はマルクス主義の未成熟の時期のもの、『ドイツ・イデオロギー』以降マルクス自身によって自己批判的にのりこえられたものにすぎないとする見解、マルクスの疎外論に対する新旧のスターリニズムに共通する曲解の姿勢を表しているところのもの、にほかならない。その「超克説」なるものがまさに曲解にほかならないならば、これに対する適切な批判なしには、「真正なマルクス」をマルクスそのものに即して浮かび上がらす「マルクス再読」の道も十分には開かれえないことになろう。これまでの多くのマルクス主義者たちにとってスターリニズムの汚染の浸透度は意識的にか無意識のうちにかを問わずかなり深部にまで達していると見られねばならぬ以上、スターリニズムを哲学的理論の面で支える核の部分をなす「疎外論超克説」を逆に超克し返すことの意義は、「今日においても」ますます重要なのである。
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No.449

Re:K・フィッシャー
投稿者---柳林南田(2001/10/17 06:00:13)


ありがとうございました。今後もいろいろご教示ください。

No.454

■みすず書房 ヘーゲル伝
投稿者---柳林南田(2001/10/19 00:17:55)


こういうのもありますね。そのうち読みましょう。

■みすず書房
ヘーゲル伝
K.ローゼンクランツ
中埜肇訳|初版1983年|A5判|374P|5500円
「これを凌駕するヘーゲル伝はかって書かれたことはなく、今後も現れることはないであろう」といわれた幻の古典の待望訳。



 

No.460

クローナー
投稿者---prospero (管理者)(2001/10/20 18:03:41)


ドイツ観念論関係の古典と言えば、現在、クローナーの『ドイツ観念論の発展』の翻訳が進行中です。ただ、ヘーゲルを扱った部分の分冊が出るのはまだ相当先になりそうです。



No.469

牧野紀之/鶏鳴出版
投稿者---柳林南田(2001/10/30 04:00:43)
http://village.infoweb.ne.jp/~blumen/keimei/itiran.html


ヘーゲル研究者の牧野紀之さんの電網です。
もうご存知ならすみません。

No.473

未知谷の刊行物【哲学・思想】
投稿者---柳林南田(2001/10/30 06:27:36)
http://www.michitani.com/kankobutsu/list1_shiso.html


上の牧野紀之さんの著作を何冊か出している「未知谷」の電網です。

No.474

『精神現象学』新訳
投稿者---prospero (管理者)(2001/10/30 17:47:21)


いろいろと情報をありがとうございます。

『精神現象学』の新訳は私も気になっていたところです。例の長谷川訳が出てしまったあとでは、どういうやり方が残っているのだろうかという興味もありますし。長谷川訳は賛否両論あるようで、とりわけ「専門家」はあれこれと難癖を付けがちのようです。通常「悟性」という良く分からない訳語が当てられるVerstandに、大胆にも「科学的思考」という訳が作られていたりして、それなりに良い試みだと思います。翻訳はそれ自体が立派な解釈ですから、何種類もあって良いのではないかと思います。

問題なのは、すでに翻訳があるのも知らずに、それを意識せずにもう一度訳書を出してしまうようなケース(信じがたいようですが、本当にそういうことがあるんです)。ちょっと具体例を挙げるのは憚られますが、こういうのは訳者と出版社の見識を疑ってしまいます。そういうものの「あとがき」に、古典は何種類もの訳があって良いなどと書かれていると、それこそ言い逃れとしか思えず、まことに笑止千万ではあるのですが。


No.476

『小論理学』新訳
投稿者---柳林南田(2001/10/31 00:51:09)


私は、ヘーゲルは「歴史哲学講義」(岩波文庫)しか読んでないのですが、「小論理学」はこの牧野さんのでいいと思われますか。ほかの翻訳(資本論の冒頭、経済学批判序言)をみても、明らかにマルクス主義系のヘーゲル研究者ですね。

あと、ヘーゲルは「哲学史講義」(作品社?)と「哲学入門」(岩波文庫)をちょっと読みましたが、読破はしてません。

No.483

ドイツ語で読むヘーゲル
投稿者---prospero (管理者)(2001/11/04 12:21:27)


私もそれほど沢山読んでいる訳ではありませんが、ヘーゲルは必要上、ドイツ語原典を読む機会も比較的多くあります。講義類のドイツ語はやさしいのですが(学生のノートが元になって編集に手が入っているため)、流石に『精神現象学』などは難物です。とりわけヘーゲルの文章で目立つのが、再帰代名詞という表現(sich〔英語のoneself〕)。ドイツ語は普通の日常表現でも、英語のset oneself=sitに当たる表現を多用するのですが、ヘーゲルの文章は度を越しています。英語では理解不能の言いまわし、例えば、set oneself oneselfに当たるような表現さえ頻出します。ドイツの再帰代名詞には間接目的語の再帰用法があるので、これは、<自分自身にとって自分自身を置く>というような感覚になって、この<自分自身にとって>という部分の再帰代名詞が「自己意識」を表すという作りになっているわけです。

なんだか、ドイツ語という言語そのものが自意識を獲得してしまっているようで、ちょっと薄気味悪いところさえあります。

No.549

ドイツ語の自習書
投稿者---柳林南田(2002/01/16 22:35:46)
http://www.beret.co.jp/book/foreign/foreign_3.html


私はドイツ語は全然やったことがないのですが、現在やっている勉強(他の外国語)が一段落したらやろうかと思います。

ベレ出版『CD BOOK しっかり学ぶドイツ語』はいいですかね?この出版社の数学の本が良かったので、この本でやろうかと思いますが、他に良い本があれば教えて下さい。
しかし、入門レベルの本は何でもたいして違わないかもしれませんね。


No.485

『精神現象学』新訳についてのコメント
投稿者---柳林南田(2001/11/05 07:36:29)
http://www.workers-net.org/liberarytetugaku.html


ここでコメントされています。

『西洋哲学史要』
未知谷刊行 波多野精一著 本体価格2500円
明治期の哲学史名著、新着想での復刊を喜ぶ
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ヘーゲルのわかりやすい翻訳という評価をうけた曖昧訳で虚名を売っている長谷川宏氏と明確に対立している牧野氏の『精神現象学』の出版も、ぜひこの組み合わせで出版されることをお願いし、今後のヘーゲル哲学研究の深化のきっかけとなることを期待したいものである。
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長谷川宏は虚名だそうです。歴史哲学講義(岩波文庫)はわかりやすくて好きですが。あの本はそれほど哲学的な内容でないから曖昧訳が通用しているということですかね。

No.492

Re:『精神現象学』新訳についてのコメント
投稿者---prospero (管理者)(2001/11/09 00:14:54)


各種HP拝見しました。ご紹介ありがとうございます。

牧野氏の試みはなかなか独創的なようですね。機会があれば覗いてみたいと思います。

しかし、長谷川訳が「曖昧訳で虚名を売っている」という言い分はどんなもんでしょうか。具体的な論拠がないので何とも判断のしようがありませんが、そこまで言うのは乱暴ではないかと思ってしまいます。仮に概念的に厳密でない部分があるにしても、あの『精神現象学』を、最後まで読み通せるものにした役割は否定できないのではないかと思います。厳密訳でやられた従来のものを最後まで読みとおした人がいったいどれほどいるのかを考えてみれば、それは自ずと明らかかと。通読してみて初めて分かる部分というのもあるはずですしね。

No.509

牧野訳『精神現象学』
投稿者---prospero(管理者)(2001/12/07 23:56:02)


今日、『精神現象学』の新しい訳を図書館で見つけて、とりあえず借りてきました。従来、「思念」と訳されるmeinenを「つもり」という意表を衝く訳し方をしている以外は、かなり穏当な訳のようです。論理の流れを追うための訳者解説なども細かく入っていて、丁寧な作りです。ドイツ語の文法的問題に関する註までついていて、岩波の金子訳ほどではないにしても、解説的な註や割註がふんだんに盛り込まれています(それを煩わしく思う人もいるでしょうが)。日本語としての表現も、長谷川訳ほど柔らかすぎもせず、かといって従来のがちがちの硬い訳でもなく、読み通すのに苦労のない良い文章になっているという印象を受けます。これは自分で買ってもいいかなと思うくらいの質に仕上がっているような気がします。

この訳者後書きのような部分でも、長谷川訳がかなり批判されています。訳者自身、ご自身の主催する鶏鳴塾の雑誌『鶏鳴』に、「長谷川氏のお粗末哲学」などという文章を寄せているそうです。この雑誌自体、目にしたことがありませんが、折があったら覗いてみたいと思っています。尤も、この種の批判はあまり本質的でないことが多いので、さほどの関心をもっているわけではないのですが。

No.512

雑誌『鶏鳴』
投稿者---柳林南田(2001/12/09 01:58:48)


雑誌『鶏鳴』は一部300円みたいです。参考までに。

----------------------
通信販売は郵便振り込みで直接ご注文下さいますと、
1週間余りでお手元に届きます。
振替口座: 00130-7-49648
加入者名: 鶏鳴出版

小売書店に注文される際は
「 地方小出版 流通センター 」として下さい。

雑誌 『鶏鳴』
隔月刊 一部 300円 を 前払 10部 3000円
* 最新号、一部のみ 切手可

連絡先
〒431-2201
静岡県引佐郡引佐町東久留女木307番地

電話とFAX: 053-545-0512
電子メール: blumen@geocities.co.jp

No.513

書籍の流通
投稿者---prospero(管理者)(2001/12/09 11:30:13)


情報ありがとうございます。この雑誌『鶏鳴』はこういうかたちで頒布しているんですね。

つい先ごろ、岩波書店の書籍などを扱っている取次ぎの鈴木書店倒産というニュースが大きく取り上げられていましたが、人文書・専門書はますます書店に置いてもらうことすら難しくなりかねませんね。

この種の出版物は、本当に読みたい人の手にその本が届けば、出版部数の点でも何とか採算が取れるぎりぎりの線は保てるはずだという話は聞いたことがあります。そうなると、欲しい人にちゃんとその本の情報が行くというのが大きいわけで、その意味ではきちんとした取次ぎ書店は大切だったはずです。その鈴木書店の倒産は、人文書にとってはまた一つの悪条件になりそうです。

これからは、取次ぎ書店に変わって、ネット上の情報なども大きな位置を占めていくことになるのでしょうね。また、皆さんにも、地味ではあっても質の高い書籍をご紹介いただければと思います。



No.514

Re:書籍の流通
投稿者---柳林南田(2001/12/10 06:04:31)


>つい先ごろ、岩波書店の書籍などを扱っている取次ぎの鈴木書店倒産というニュースが大きく取り上げられていましたが、人文書・専門書はますます書店に置いてもらうことすら難しくなりかねませんね。

岩波書店ですら苦しくなってきているそうですね。いったいどうなってしまうのだろう。だいたい、大学進学率も上がって、専門書への需用は高まっているはずなのに。
私は、将来は誰でも無料で本が読める(ネット上で)ようになってほしいと思うのですが。資本主義社会では不可能か。

私は海外にいますが、いまいる国でも大学のカリキュラムが軽いものに変わっていったり、ビジネススクールなどのくだらないものが増えたりしています。世界中のほとんどの人が知っている某大学は、怪しげな実業家からの寄付でビジネススクールを作りました。教員のほとんどは反対でしたが。日本でも国立大学の独立行政法人化で、短期的に結果の出ない分野はどんどん切捨てられていきそうです。

No.516

書籍の周囲
投稿者---prospero(管理者)(2001/12/10 22:25:59)


>大学進学率も上がって、専門書への需用は高まっているはずなのに。

これが意外と怪しいようですよ。知り合いの古書店のご主人などに言わせると、かつては
学生が商売相手だったのに、いまはそれもさっぱりだとか。そこのお店は、専門書を対象
として、有名私立大学に隣接しているんですが。

>日本でも国立大学の独立行政法人化で、短期的に結果の出ない分野はどんどん切捨てら
れていきそうです。

本来、大学というものの理念とは相容れない効率性に圧倒される勢いですね。その最大の
犠牲者は人文系の学部ということになるでしょう。尤も、人文系の学部自体、効率性とは
無縁だというところで胡座をかいて、本当にただ怠けているだけの教員を大量に抱え込ん
でしまった自業自得のような側面もあるのでしょうけど。人文系の学問のもつ本来の力を
十分に発揮することを怠ってきた「つけ」が回ってきたというところでしょうか。

「ネット上での書籍の公開」という話題も面白いと思いますが、これはスレッドをあらた
めて。

No.486

ヘーゲル『精神現象学』は〈超・娯楽読み物〉である 佐野正晴
投稿者---柳林南田(2001/11/05 08:13:06)
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/re09.html


長谷川訳と牧野訳についてコメントされています。

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5 参考文献

 まずは、原典から。もっともオーソドックスな翻訳はこれである。
◎『精神の現象学』上・下 金子武蔵・訳 岩波書店
◎『精神現象学』上巻(のみ、続巻なし) 牧野紀之・訳 鶏鳴出版
◎『精神現象学』長谷川宏・訳 作品社
 というわけで、以上の二つの訳は一長一短である。なお、両者の同じ箇所を比べてみると、二人の訳者の解釈の違いが出ていて、それがまた考える素材を提供してくれている。

 つぎに内容を手っ取り早く知りたい人のための解説書である。以下の二つがよい。
◎金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫
◎長谷川宏『へーゲル「精神現象学」入門』講談社選書メチエ

 本文で触れたヘーゲル自身による自著解説の新聞記事は以下の本に収録されている。
◎城塚登『ヘーゲル』講談社学術文庫 p192

 独自な解釈、研究書となると山ほどあるので、それを述べるべき場でもない。ただ、一冊だけ独断と偏見で挙げておく。
◎コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』国文社
◎フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』渡部昇一・訳

No.470

和歌山寺子屋(実験中)哲学部
投稿者---柳林南田(2001/10/30 04:11:20)
http://www.naxnet.or.jp/~saikam/TETUGAKU.htm


共産党系の哲学サイトみたいです。


No.471

広島県労働者学習協議会
投稿者---柳林南田(2001/10/30 04:13:15)
http://www.ne.jp/asahi/hirosima/gaku/mokujimain.htm


同じく共産党系の組織のサイトですが、「書籍の紹介」のところにヘーゲル小論理学の解説書があります。

No.472

自由法曹団通信より/学習の友社
投稿者---柳林南田(2001/10/30 04:48:38)
http://www.aik.co.jp/c-pro/jlaf/tsushin/99/967.html


書評
みるも鮮やかなヘーゲル論理(弁証法)の解明
ヘーゲル読解の絶好の手引書
高村是懿著・広島県労働者学習協議会編(学習の友社)

「ヘーゲル『小論理学』を読む」
東京支部  橋 本 紀 徳

安達十郎、福島等、門屋征郎の諸先達と、ヘーゲルの「精神現象学」を読んでいて、「精神現象学」の真理はヘーゲル「論理学」にあるなどと思いはじめたところでした。(以下略)

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こういうのって、かなり違和感があるんですが、、、まあ、ちょうど手ごろな解説書なのかな。独特の共産党的論理(マルクス主義ではなく)に気をつけて読むといいのかも。
共産党系哲学書をもう一つ。
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マルクス主義哲学の源流 ドイツ古典哲学の本質とその展開
鯵坂真/著
学習の友社
1999年2月発行
229P 21cm
ISBN: 4-7617-0597-3
価格: 2,300円(税別)

目次
ドイツ古典哲学とその時代―資本主義の発展とその矛盾の顕在化
ドイツ古典哲学の意義―機械的唯物論と観念弁証法
ドイツ古典哲学の成立
カントの認識論
カント弁証法の萌芽―アンチノミー論と自由論
カントの歴史哲学・政治哲学
カント美学と有機体論
フィヒテとフランス革命
フィヒテと主体=客体の弁証法
シェリングの自然哲学と弁証法[ほか]

詳細
ドイツ古典哲学が「マルクス主義の三つの源泉」の一つといわれるのはなぜか?カント、フィヒテ、シェリングらの哲学体系はどのようにヘーゲル弁証法に結実し、マルクスに継承・発展させられたか?ドイツ古典哲学の本質とその展開にいま光をあてる。

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この著者の論文を読んだことあるけど、「反党分子」を攻撃するゴリゴリの党理論家って感じだったけど、こういう本(直接政治と関係しない本)だと、まともなんだろうか。いちおう学者だからね。

No.477

荒岱介『ハイデガー解釈』社会評論社
投稿者---柳林南田(2001/10/31 01:06:58)
http://www.bund.org/arabook/haidega.htm


こんな本もありますね。書評をちゃんと載せるところは好感が持てます。

No.478

Andy Blunden’s Home Page
投稿者---柳林南田(2001/11/01 05:29:23)
http://home.mira.net/~andy/index.htm


ヘーゲルの文章(英語)や、ヘーゲルに関する論文などがあります。かなり内容豊富です。もうごぞんじならすみません。

No.481

創風社
投稿者---柳林南田(2001/11/03 05:22:21)
http://www.mmjp.or.jp/soufushiya/


マルクス主義哲学にかんする本を出している出版社です。
仲元章夫さんは、共産党の御用学者ではないかと思いますが、許萬元(ホーマンウォン)さんは、読むに値する人だと思います。東京朝鮮高を出て、中央大学、都立大院で学び、都立大では、哲学でははじめての課程博士をとった人だそうです。

「ドイツ・イデオロギー」の射程 岩佐茂・小林一穂・渡辺憲正 編著
という本も出ています。渡辺憲正さんの著作は一読に値します(「マルクスと近代批判」など)

No.546

K.レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』
投稿者---柳林南田(2002/01/16 22:22:27)


Karl Löwith『ヘーゲルからニーチェへ』は非常に重要な本だと友人に言われて探しましたが、日本語訳(岩波書店)は絶版のようです。古本屋で探します。読んだ人は感想を聞かせて下さい。同じ著者の別の本でもいいです。

No.547

Re:K.レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』
投稿者---柳林南田(2002/01/16 22:24:06)


>Karl Löwith

あれ、oウムラウトがもじばけしちゃいましたね。

No.548

レーヴィット
投稿者---prospero(管理者)(2002/01/16 22:34:18)


レーヴィットは東北大で教えていたこともあって、日本には縁の哲学者ですね。根本はやはりニーチェ解釈(『ニーチェの哲学』岩波書店)なのだろうと思いますが、哲学史的に広い視野の著作も多く『世界と世界史』など、多くの著作が日本語訳されていました。ただしその訳書は日本語としてかならずしも優れていたとは言いかねるものだった記憶があります。『ヘーゲルからニーチェへ』は二巻本で、ヘーゲル左派の動向なども含めて、なかなか丁寧な叙述だったと思います。少し前に復刊されたはずですが、いまはそれも品切れなのでしょうね。

私の現在の関心からすると、このレーヴィットは、ヨーロッパ近代を中世の「世俗化」として捉えるテーゼを打ち出した人でもあります。この主張に真っ向から反対したのが『近代の正統性』のブルーメンベルクだったわけで、私としてはこのブルーメンベルクの肩をもつ手前、レーヴィットの見解は全体として非歴史的に見えてしまいます。個々の歴史的知識がどうという以前に、その哲学的ヴィジョンは、基本的に「歴史」という発想と相容れないのではないかという気がします。そのために、レーヴィットはニーチェの「永劫回帰」などもむしろ「自然」やギリシア的な「コスモス」に近づけて解釈するのですが、私はこれにはかなり抵抗があります(昔は結構惹かれてもいたんですけど)。


No.550

復刊投票お願いします
投稿者---柳林南田(2002/01/16 23:48:11)
http://www.fukkan.com/


ヘーゲルからニーチェへ(全2巻)
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=7400
などを復刊リクエストしておきました。ぜひ投票お願いします。(投票しても買う義務はありません。)私がリクエストした他の本にも投票お願いします。

No.551

古書店
投稿者---prospero(管理者)(2002/01/17 14:03:03)


『ヘーゲルからニーチェへ』は、古書店ではかなり容易に入手できる書物です。総じて、岩波から出たレーヴィットは、一時期かなり良く読まれたのか、古書店でも頻繁に見かけます。ネット古書店でも揃いで\2,500というのが出ていました。お急ぎでしたら、そのほうがはるかに簡単に手に入ると思います。海外にいらっしゃるのでしたら、送付は古書店との交渉次第ということになりそうですが。

オン・デマンドという出版形態は私にはまだその可能性がよくわかりません。どうも見た限りでは、元の版そのままの復刊ということではなく、コストを落とすために、装幀などは可能な限り簡素にするというものになっていると思います。しかも、必要なものが出るまでは、(特に私たちがほしいと思うような種類の書籍だと)相当悠長に待たないと復刊は望めないようです。そうだとするなら、手間さえ厭わなければ、古書店で元の版を探したほうがいいような気がしてしまうのですよね。いかがなもんでしょう。


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No.552

Re:古書店
投稿者---柳林南田(2002/01/17 22:27:24)
http://www.fukkan.com/


>『ヘーゲルからニーチェへ』は、古書店ではかなり容易に入手できる書物です。総じて、岩波から出たレーヴィットは、一時期かなり良く読まれたのか、古書店でも頻繁に見かけます。ネット古書店でも揃いで\2,500というのが出ていました。お急ぎでしたら、そのほうがはるかに簡単に手に入ると思います。海外にいらっしゃるのでしたら、送付は古書店との交渉次第ということになりそうですが。

ありがとうございます。年1回程度は日本に帰るので、その時に古本屋を回ります。また、ネットで注文できる古書店も利用していますが、受取は日本国内の友人にしてもらっています。

復刊ドットコムではいろいろリクエストしていますが、必ずしも復刊だけを期待しているわけではありません。他の人がその本について書き込んでくれたりすることもあります。備忘録という意味もあります。他の人が投票したのを見て、「へえ、こんな本が出てたのか」という場合もあります。ですから皆さんも是非参加して下さい。


>オン・デマンドという出版形態は私にはまだその可能性がよくわかりません。どうも見た限りでは、元の版そのままの復刊ということではなく、コストを落とすために、装幀などは可能な限り簡素にするというものになっていると思います。

そうですね。私の買った本では、元の版は箱入りだったのが、箱がなくなっていました。中身は全く同じでした。しかし、その本はシリーズ者で、「月報」が入っていたはずなのですが、月報はありませんでした。

No.599

網上で利用できる古書店について教えて下さい
投稿者---柳林南田(2002/03/02 21:21:53)


http://www.kosho.or.jp/
http://www.crypto.ne.jp/oldbookmark/
http://www.easyseek.net/
上記以外で、便利な古本検索サイトがあったら教えて下さい。

No.600

ネット古書店
投稿者---prospero(管理者)(2002/03/02 22:55:30)


ネット古書店で私が頻繁に使っているのは、とりあえずリンク集(Archive)に挙げている程度のものです。むしろOBMというサイトはお教えいただいて、初めて知りました。使い勝手はどうなのでしょう。試してみたいと思います。お挙げになったところ以外で有名なのは「スーパー源氏」くらいでしょうか。

洋書の古書サイトも、Bibliofindが完全にamazonと一体化してからは、利用するのはほぼABE一本になってしまいました。ABEは最近ではドイツ語圏のものも大分充実してきたようです。何よりも、探求書リストを自分で作って、目的のものが入荷したときに知らせがあるというのが嬉しいところです。最近もそれで何点か、数年来の探しものを手に入れました。

それにしても、最近は、買う本と(図書館で)借りる本のあいだのどこに線を引くかというラインを再度考え直したりもしています。増えすぎて埋もれてしまうことを考えると、所蔵本は見とおしの効く範囲に押さえたほうが、結果的には効率的ということにもなりそうですから。

最近、全集類をまとめてトランク・ルームに引越しさせました。シェイクスピア・ヘッド版のデフォー全集や、批判版のハズリット全集(矢野峰人旧蔵)、ズーファン版ヘルダー全集、ラッハマン版レッシング全集などと別居を余儀なくされました。こうなると、感覚としては図書館にあるのと近くなってしまうのですよね。

ところで、このスレッド、流石に重くなったので、そろそろ放棄して、面目一新、別のスレッドを立てませんか?

No.601

Re:ネット古書店
投稿者---Juliette(2002/03/06 13:21:34)


初めて投稿させていただきます。

>むしろOBMというサイトはお教えいただいて、初めて知りました。使い勝手はどうなのでしょう。

私はネット上の古書サイトはOBMしか知りませんでしたので、もっぱらこれを使っていましたが
(とは言っても、それほどの頻度ではありません)、あまり使い勝手がいいようには思えません。
たとえば、「OBM的古書検索」というところにキーワードを入れて検索をかけた結果20件のヒットがあったとします。
そのうちの半分以上は、クリックすると別の古書店のHPのトップページに飛ぶだけです。

>それにしても、最近は、買う本と(図書館で)借りる本のあいだのどこに線を引くかというラインを再度考え直したりもしています。
>増えすぎて埋もれてしまうことを考えると、所蔵本は見とおしの効く範囲に押さえたほうが、結果的には効率的ということにもなりそうですから。

このHPを拝見するかぎり、prosperoさんの書斎には専属の司書が必要なように思われます。
まあ、司書は無理でも、蔵書検索用のDBなどは作っておられるのですか?



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No.604

Re:ネット古書店
投稿者---prospero(管理者)(2002/03/08 00:09:15)


>Julietteさま

こちらのスレッドに先に投稿していただいていたのですね。見落としていました。失礼いたしました。

私もOBMでいくつかの書目を入れてみましたが、あまりはかばかしい感触はもちませんでした。いまのところ、多少固めの書物は「日本の古本屋」で、いくぶんエンターテイメント寄り、あるいは文庫などは「スーパー源氏」でというかたちで、主にこの二箇所を使っています。

データベースも、MacではFile Makerで作っています。しかしこれは書物単位というよりも、書物に含まれている論文を検索するためのものです。流石に、大きなシリーズものの論文集などは、その収録論文は覚えきれないので、データベース化しようと思い立ったものです。しかし、いまではWebcatなどがある程度その機能をもっているので、結局自分自身のデータベースは中途半端なものになっています。

書物に関しては、それぞれの書物の配列自体も内容の一部と心がけて、できる限り、配置換えをして、埋もれている書物を掘り出し、それまでと違った書物と隣り合わせて配置するようにしています。書物一冊をいわばカード一枚に見立てるような感覚が、いわゆる「間テクスト性」という感性に通じるのではないかと思っています。


No.558

石川 康晴 『数理論理学と弁証法的論理学』日本図書刊行会
投稿者---柳林南田(2002/01/25 01:45:15)


題名の本を読んだかた、同じ著者または同じテーマの本をよんだかたがいらっしゃいましたら感想を聞かせて下さい。

ボヘンスキ『ディアマート』(みすず書房)、James P. Scanlan "Marxism in the USSR" によりますと、ソ連では論理学は数学に分類されていて、「弁証法的唯物論(ディアマート)」とは別の学問であり、一部の論理学者は「弁証法的論理学」を否定していたそうです。ボヘンスキは「ヘーゲル的無意味に対するアリストテレス的抵抗」と呼んでいます。

マルクス主義の文献では、形式論理学(数理論理学)と弁証法の関係は、初等数学と高等数学の関係であるという言い方がされますが、論理学が発展すれば弁証法の分野に踏み込み、弁証法の存在意義を破壊してしまうということはあるのでしょうか。

No.563

数理論理学と弁証法的論理学
投稿者---prospero(管理者)(2002/01/26 23:41:46)


マルクス主義文献のほうにはまったく暗いのですが、数理論理学と弁証法的論理学とでは、さぞかし折り合いが悪いだろうということは想像に難くありません。この二つは、「論理学」という名称こそ共有しているものの、関心の方向がまるで異なっていると思えるからです。古典的論理学者はヘーゲルの『論理学』を一言も理解できないのではないかと思います。弁証法の側から言わせれば、古典的論理学と弁証法的論理学の関係は、ちょうどニュートン力学と相対性理論のような関係にあるということになるのでしょう。

いずれにしても、弁証法的論理学は、論理学そのものの可能条件の基礎づけという、カント的な超越論的論理学の思考を前提にして始めて理解可能になるので、そもそも問題にしている事柄の次元が相当に異なっているということになるのでしょうね。ですから、弁証法からはいわゆる論理学を「包摂」することはできても、論理学から弁証法という道は通じていないため、いきおい「全否定」という形をとるのではないでしょうか。論理学が発展して、弁証法を「破壊」するというよりは、むしろ始めから前提を共有できないというほうが実情に近いのではないかという気もします。いかがなものでしょう。

No.565

カント的な超越論的論理学の思考
投稿者---柳林南田(2002/01/27 04:04:14)


私はカントを全然知らないので、「カント的な超越論的論理学の思考」を理解できる本があればご教示願います。

また、アリストテレスはヘーゲルと相容れないものなのでしょうか? アリストテレス的マルクス主義哲学者もいるので、どうもそうは思えないのですが、、、


No.568

アリストテレスの「配分的正義」とヘーゲルの市民社会理解
投稿者---こば(2002/01/28 01:50:51)


柳林様。

はじめまして。こばと申します。

>また、アリストテレスはヘーゲルと相容れないものなのでしょうか? アリストテレス的マルクス主義哲学者もいるので、どうもそうは思えないのですが、、、

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第五巻で徳としての正義の問題を扱っているのですが、ここでアリストテレスは「配分的正義」という言葉を持ち出してきて、人は各々の才能や能力や努力に応じて報酬としての財産が配分されるべきだ、そのような配分が公平としての正義に繋がると主張しています。但し、ここでは生まれついての弱者や奴隷階級については一切触れられておらず、差別や格差については等閑に付されています。というのは、古代ギリシャのポリス共同体は奴隷階級に立脚しながら、各人が各々の役割を明確に担うことが出来る、非常に限定された社会だったからです。オリンピア競技からも判るように、常に他人と競い合って強い者が非常時に共同体を守る兵士として活躍する場が与えられていたからこそ、名誉なり報酬なりが個人の才能等に応じて配分されることが可能だったのです。

また、アリストテレスは貯蓄による世代間の経済格差を考慮に入れていませんでした。例えば、第一世代に於いては各人の才能等に応じた公平な財産の分配が為されたとしましょう。しかし、その財産が各々の子供に受け継がれると、第二世代は生まれながらに経済の格差が生じます。但し、元々奴隷階級に立脚しながら狭い都市共同体に限定されていた社会の中では、それ程共同体構成員の経済格差は広がらなかったと思われます。

アリストテレスが捉えた人間観は社会的動物としての個人であって、各人の義務を徳というかたちで明確に規定することが可能でした。ところが、産業革命を経た近代市民社会に至っては、人間が欲望を満たす動物として捉えられました。ホッブスの「万人の万人に対する闘い」といった考え方や功利主義の「最大多数の最大幸福」を快楽計算によって算出しようとする試みは近代的個人が欲望を満たす動物として考えられていた良い例でしょう。最早、諸個人は限られた共同体の中で各々の役割を果たす構成員ではなく、己の生存欲求を満たすべく他人を競争によって打ち負かす存在となりました。科学技術の進歩に伴い、持てる者(資本家、主)と持たざる者(労働者、奴)の経済格差は大規模なものとなり、従って、近代の法哲学はこのような弱肉強食の競争原理社会にあって諸個人の激化した生存競争を如何に調停するかという問題に立ち向かいました。

この問題に対する一つの応答がルソーの「社会契約説」だったのですが、ヘーゲルはこの社会契約説を批判的に受容して諸個人間の争いを調停する更に大きな原理として国家を考えました。愛の原理によって結びついた家族が、市民社会の競争原理によって解体し、この諸個人間の争いを調停して再び止揚された愛の原理によって諸個人を結びつけるのが国家の役割である、というのがヘーゲルの考え方です。

長々と述べて参りましたが、尚且つ非常に大雑把に述べて参りましたが、要するに、アリストテレスの配分的正義という考え方は、競争原理に基づく近代市民社会を相手にしているヘーゲルに対しては、何らかの限定なり前提なりを想定しなければ当て嵌まらないと思うのですが、如何でしょうか。
むしろ、「アリストテレス的マルクス主義哲学」なる言葉は形容矛盾のように私には思えてしまうのですが、それは如何なる発想なのでしょうか。




No.569

Scott Meikle
投稿者---柳林南田(2002/01/28 04:26:49)
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-url/index=books&field-author=Meikle%2C%20Scott/102-9682876-8786544


>むしろ、「アリストテレス的マルクス主義哲学」なる言葉は形容矛盾のように私には思えてしまうのですが、それは如何なる発想なのでしょうか。

とりあえず「アリストテレスを重視するマルクス主義」の著作を挙げておきます。
Essentialism in the Thought of Karl Marx
Aristotle's Economic Thought
いずれもby Scott Meikle

最初のほうは読みましたが、アリストテレスの体系に立脚しているわけではなく、マルクスに与えたアリストテレスの影響を重視するというものだと思います。2番目は読んでません。

No.575

超越論的論理学
投稿者---prospero(管理者)(2002/02/01 00:54:22)


カントの「超越論的論理学」ですが、これについては、例えば久保元彦『カント研究』(創文社)の中に、「超越論的論理学と真理の論理学」という論文が収録されています。この『カント研究』は日本語で書かれたカント研究書の中では群を抜いた名著です。テクストの丁寧な読解によって思想の全体像を浮かび上がらせる読解の醍醐味が味わえます。

ただ私も「アリストテレス的マルクス主義」というのはどうもピンときません。内容的に少し示唆していただくと助かるのですが。

No.583

Scott Meikle
投稿者---柳林南田(2002/02/05 00:32:02)
http://www.nyu.edu/projects/sciabarra/about/worxlist.html


>ただ私も「アリストテレス的マルクス主義」というのはどうもピンときません。内容的に少し示唆していただくと助かるのですが。

"Aristotle's Economic Thought" は読んでいませんが、"Essentialism in the Thought of Karl Marx" はよみかけで手元にあるので、こんど要約を書き込みたいと思います。

以下のレビューがあります。
"From Aristotle to Marx: Review of Scott Meikle's _Essentialism in the Thought of Karl Marx_," _Critical Review_ 4, nos. 1-2 (Winter 1990): 61-73.

Critical Review http://www.criticalreview.com/

No.598

Steve Fleetwood 'Aristotle's Political Economy in the 21st Century'
投稿者---柳林南田(2002/02/26 19:35:33)
http://www.lums.lancs.ac.uk/bino/Fleetwood.htm


マルクス主義者によるアリストテレス論の別の論文。(私はまだ読んでません。)

http://www.lums.lancs.ac.uk/bino/Fleetwood.htm

'Aristotle's Political Economy in the 21st Century', (1997) Cambridge Journal of Economics Vol. 21, No. 6, 729-44.


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No.570

本多修郎『近代数学の発酵とヘーゲル弁証法』現代数学社、1989年8月
投稿者---柳林南田(2002/01/28 06:08:37)
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=6710


題名の本を読んだかた、同じ著者または同じテーマの本をよんだかたがいらっしゃいましたら感想を聞かせて下さい。

それと復刊投票お願いします。

No.179

音學のこと。
投稿者---國府田 麻子(2001/05/19 01:56:07)


昨日、「ルル」(ツェルハ版)のDVDを教授から借りて早速観てみました。なんだかかなり映像が暗くて目が疲れましたが、流石によかったです。ツェルハのを観るのはこれで2回目ですが、最初に観たときとは少し感想が異なり、「なんとオーソドックスな!」と思いました。ベルクの指示(!)に忠実な演出だ、と改めて感じたわけです。それにしても、ヴィデオではなくてDVDが出ていたなんて、知りませんでした。それから、チョット“いいもの”が当たりました。メトロポリタン・オペラの公開リハーサルのチケットです。シェーン・ベルクの「グレの歌」。指揮はレヴァインです。ずーっと観たかったオペラなので、嬉しくて、自慢です。フェニーチェのほうも当たるといいな、と期待してしまいます。

 


No.185

シェーンベルク
投稿者---prospero (管理者)(2001/05/19 23:12:55)


『グレの歌』ですか。それは羨ましい。まだ後期ロマン派の情緒たっぷりで、分厚いオーケストレーションをやっていたこの頃のシェーンベルクなら、レヴァインは合っているでしょうね。私は最近、シェーンベルクはさっぱりです。一頃は『モーゼとアロン』や『ヤコブの天の梯子』など、良く聴いていたものでしたが。どれか一つと言うと、弦楽四重奏曲の第二番でしょうか。

シェーンベルクを良く聴いていた頃、同時に関心を持っていたのが、画家のカンディンスキーでした。シェーンベルクが後期ロマン派から無調を経て12音技法に到達する経緯と、カンディンスキーが抽象絵画へ移っていく経緯が妙に重なって見えて、両者が同じ相の下に見えてしまうような感覚さえありました。

そう言えば最近、世評高いギュンター・ヴァントのブラームス全集を入手しました。確かに良く考え抜かれ、各声部が十分に練られているのが判りますが、個人的にはあまり好みのタイプの演奏ではありませんでした。

No.227

Re:シェーンベルク
投稿者---βεκκ(2001/05/30 20:16:03)


御無沙汰しています。ずっと掲示板を読めずにいて議論にも入れなかっ
たのですが、久しぶりに書く余裕ができたのでスレッドの短いこちらに
コメントします。

》どれか一つと言うと、弦楽四重奏曲の第二番でしょうか。
ヴォーカルが入るのが異色の曲ですね。あと第一番は初めて聴いたシェ
ーンベルクの弦楽四重奏曲なので愛着があります。

》まだ後期ロマン派の情緒たっぷりで
新ウィーン楽派ではベルクもウェーベルンも結構聴いていましたが、
ウェーベルンなんかでも初期の 'Langsamer Satz fuer Streich-
quartett' などはまさにそんな感じで、通常のウェーベルンのイメー
ジとは懸け離れているのが面白いです。

》シェーンベルクが後期ロマン派から無調を経て12音技法に到達する経
》緯と、カンディンスキーが抽象絵画へ移っていく経緯が妙に重なって
》見えて、両者が同じ相の下に見えてしまうような感覚さえありました。
カンディンスキーとの交流と言えば、みすずから『シェーンベルク/カンディンスキー 
出会い 書簡・写真・絵画・記録』という本が
出ていました。シェーンベルクは一時期本気で画家になることも考え
ていたようですね。以前ウィーンに行ったときにたまたまできたばか
りのシェーンベルク博物館を訪れたのですが、アメリカ時代に考案し
た新式のチェスなんかも展示してあって、興味関心はずいぶん広かっ
たようです。多数の図版と書簡で構成された分厚いカタログもあって
買ってきたのですが、これはほとんど読めていない……。ちなみにこ
のカタログ、編者がシェーンベルクの娘 Nuria Nono-Schoenberg な
のですが、名前から察せられるように作曲家 Nono と結婚した人だと
いうことを初めて知りました。


No.230

表現主義
投稿者---prospero (管理者)(2001/05/31 21:40:49)


>βεκκさま

 お久しゅう。時間的に一段落されたようでなによりです。

>シェーンベルクは一時期本気で画家になることも考えていた

 そうらしいですね。彼の描いた画というのも見たことがありますが、一瞥して作者を当てられそうな感じがしました。やはりシェーンベルクが絵を描いたらこうなるだろうなという感じで…。いわゆる「表現主義風」ですね。かなり前、ワイマール共和国ものが流行った前後に、表現主義がまとめて紹介された時期がありましたよね。あのときに、表現主義時代の映画なども含めて、この時代の美術や音楽には少し入れ揚げたことがあります。シェーンベルクのカルテットの二番も、サロンのような小さなホールで、目の前で演奏してもらったこともあり、ひどく感動したものです。

 表現主義は浪漫主義の亜種のように受け取られがちですが、私は正直言って、その両者の繋がりはよく分かりません。表現主義の場合は、浪漫主義が持っていた伝統回帰のような側面を投げ捨ててしまったようなところがあって、どうも上手く連繋が見えないのですよ。浪漫主義の中に働いている「崇高」美学のようなものも、表現主義の中にストレートに流れているようにも見えませんしね。

>できたばかりのシェーンベルク博物館

 そんなものがあるんですか。やはり現地は行ってみるもんですね。今日はホテル・ニューオータニで、19世紀の鳥類博物図鑑を出したジョン・グールドについての荒俣宏氏の講演会があったので、覗いてきたのですが、彼もやはり倫敦の博物館でグールド展を見て、蒐集熱に火がついたとか。私はこの夏、フライブルクで哲学関係のコロキウムに出た後、スイスに周ることになりそうです。ニーチェの永劫回帰で有名なシルス・マリーアも候補地です。でも私自身としては、あの近辺なら、シルス・マリーアよりもダヴォスの方によほど思い入れがあります(「魔の山」!、カッシーラー!)。

No.242

Re:表現主義
投稿者---βεκκ(2001/06/03 10:32:44)


こちらではお久しぶりです

>表現主義は浪漫主義の亜種のように受け取られがち
>その両者の繋がりはよく分かりません

そういう風に見られることもあるのですか。表現主義はあまりよく知らなかったのですが、おっしゃるようにあまり繋がらないような感じもしますね。全然関係ありませんが、昔マッキントッシュ用の数式エディタで Expressionist というのがありましたが、表現主義を意識した命名では全くないようです。

>私はこの夏、フライブルクで哲学関係のコロキウムに出た後、スイスに周>ることになりそうです。ニーチェの永劫回帰で有名なシルス・マリーアも>候補地です。でも私自身としては、あの近辺なら、シルス・マリーアよりもダヴォスの方によほど思い入れがあります(「魔の山」!、カッシーラー!)。

いよいよですね。旅の御様子是非こちらでもお知らせください。ノートPCで海外からのアクセスなどいかがでしょう;-)


No.249

バーゼル、林達夫
投稿者---花山薫(2001/06/05 00:56:08)


prosperoさんはスイスへ行かれるのですね。実り多いご旅行になることをお祈りしております。

3年ほど前、ジュネーヴからバーゼルへ足を伸ばしたことがあるのですが、バーゼルではドイツ語一色で閉口したことを覚えています。しかし、すばらしい町でした。なにしろ町の骨董屋すら博物館さながらの様相を呈しているのですから。これでドイツ語さえわかれば、とくやしい思いをしたものです。

ところで、バーゼルといえば思いだすのが林達夫ですが、彼の「書簡集」、続篇がいっこうに出ませんね。このあたりの事情、もしかしてご存じありませんでしょうか。


No.252

Re:バーゼル、林達夫
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/05 23:05:33)


林達夫書簡集は、手紙を受け取った側が資料を提供しているのでしょうから、さすがに有名な激怒の手紙というのはありませんね。いろいろな人が証言している、彼が人の仕事ぶりを叱りつけた激烈な叱正の手紙というのを見てみたいのですけど。その後の刊行予定は残念ながら良く分かりません。そういえば、林氏が亡くなった直後にはノート類も編集して出すようなことを取り巻き連(山口昌男氏、中村雄二郎氏辺り)が言っていたような気がしますが、それもどうなったんでしょうね。

そうそう、林達夫と言えば、明治大学に蔵書が寄贈されて、元の書斎の書架の配列がそのまま再現されているそうですね。その目録も(非売品だったと思いますが)出されたようです(古書店の目録で見掛けたこともあります)。明治大学には一度見に行こうと思いながら、いまだに果たせていません。

それにしても、「バーゼルといえば思いだすのが林達夫」という花山さんの連想が私なんかには何よりも嬉しいです。この夏は、まずフライブルクで5日ほど滞在しなければならないのですが、そこからは、まず真先にバーゼルに行きたいと思っていました。林達夫からバーゼルというのは、やはりブルクハルトという項を通して、あるいは、いつかバーゼルの精神を書きたいといっていたご本人のプログラムを通しての連想ですね。

バーゼルはフランス語・ドイツ語が半々というイメージがあったのですが、ドイツ語の方が強いんですか。どこかこれは見所というようなところがありますか?ゲーテアヌムくらいは見ようかと思いますが。それから、バーゼルには付き合いのある古書店(その名もエラスムス・ハウス!)があるので、そこも覗きたいと思います。

No.255

林達夫、バーゼル
投稿者---花山薫(2001/06/07 00:05:56)


そうです、私も林達夫のいわゆる憤激書簡を読んでみたいと思っているひとりです。しかし、たしかにこれは世に出るべき性格のものではありませんね。だれしも自分の恥を世間にさらしたくはないでしょうから。

prosperoさんの書きこみを読んでいてふと思ったのは、別巻Iが書簡集だったからといって、II以降も書簡集であるとはかぎらない、ということです。もしかしたら、おっしゃるようにノート類が編集されて刊行される予定だったのかもしれませんね。それでもいいから早く出してほしいものです。

それと蔵書の件ですが、これはまったく知りませんでした。散逸せずにまとまって保管されているというだけでも安心です。しかし、いつでも見られると思うと、逆に見る機会を逸してしまいそうなのが心配ですが。

バーゼルではドイツ語のプレッシャーに耐えかねて、ほうほうのていで逃げだしてしまったので、落ちついてじっくり見物できなかったのが残念です。解剖学博物館、ユダヤ博物館などは、個人的には非常におもしろかったのですが、はたしてひとに勧められるかどうかとなると自信がありません。ただ、美術館だけはなにを措いても見にゆかれることをおすすめします。おおまかなラインとしては、ホルバイン以下の北方ルネサンスからネーデルラント派を経てベックリンのコレクションへ、という流れで、私が行ったときには臨時で(?)ブルクハルト関連の資料なども展示されていました。

というわけで、たいして参考になるようなことも申しあげられないのは残念ですが、prosperoさんのようにちゃんとした予備知識があり、かつドイツ語もできるかたと私とでは目のつけどころもおのずから違うでしょうから、私としてはむしろ自分の見聞の及ばなかったところをprosperoさんの目を通じて見ることができれば、と考えています。


No.262

バーゼル、チューリヒ
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/08 19:57:26)


>たいして参考になるようなことも申しあげられない

とんでもない。「解剖学博物館」、「ユダヤ博物館」など、こちらの好みを狙い撃ちするかのような博物館、名称だけでも痺れてしまいます。そう言えばベックリンはバーゼル出身だったんですね。これも良いことを聴きました。美術館は愉しめそうです。もしかするとチューリヒも通るのですが、ここはフュースリの出身地ですから、何かないかと捜しています。ホドラーなどとならんで、やはり美術館には比較的彼の作品があるように聞きますが(ただフュースリの場合、活躍の場はほとんどイギリスですから、本当のところはどうなんでしょう)。スイスはフュースリに理論的支柱を与えた美学上のスイス派(ボードマー、ブライティンガー)の本拠地なので、古書で何かないかと思っています。彼らのものはリプリントでも結構高くなってしまっているので。

因みに林達夫文庫の情報はたいして公開されていませんが、一応明治大学図書館のwebに記載はされています。

No.264

フュースリ
投稿者---花山薫(2001/06/08 23:42:46)


林文庫、さっそく見てきました。雑誌をあわせても1万5千冊と意外に少いですが、たぶんありきたりの本は除いて、貴重なものだけ収蔵されているのでしょう。となると、やっぱり目録が見てみたくなります。

ところでフュースリで思い出しましたが、彼の描く「夢魔」について、以前からふしぎに思っていることがあります。それは、どうしていつも馬が顔を出しているのか、ということです。夢魔は英語でナイトメアというので、これにメア(牝馬)をかけて「夜の(ナイト)牝馬(メア)」という洒落になっているのでしょうか。しかし洒落にしてはあまりにも馬の存在感が強烈すぎて、主役であるはずの小鬼(メア?)が完全に食われているようにも見えます。このあたり、どう解釈したらいいのかわからずにいます。

ちなみに、私の感覚では、馬と悪夢とのあいだにはなにかしら必然的な結びつきがあるような気がしてなりません(フュースリの絵を離れて、一般的にいっても)。


No.266

林文庫&『夢魔』
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/09 02:14:49)


林達夫の蔵書数が意外と少ないのは、彼自身、戦災などでいくどか蔵書を焼いているためだそうです。吉田健一にしてもそうですが、あの位の代の知識人は、多かれ少なかれそうした目に遭っているようですね。林氏のことを、和辻の妹を嫁にしてかなり資産があったので、楽をして学問ができたというようなことを言っていた人がいますが、そういうのは下司の勘繰りというやつでしょう。誰とは言いませんが、その人はさらにその折りに、持つべきものは資産のついた嫁だというようなことまで言っていました。これはちょっと許しがたい。

話変わって『夢魔』ですが、ドイツ語でもNachtmahr=Nacht(夜)+Mahre(馬)となります。この画の馬は、いわゆるincubusと言いますか、情欲の具現のようです。ですから、仰るように、この画ではこの馬こそが主役なのでしょう。スウィフトのフイヌム国の馬は高貴な動物ですけど、一般的に馬は生命の豊饒さ、多くの場合は好色のシンボル(「エレミア」5・8とか)になるようです。しかもこの『夢魔』のキャンバスの裏にはある女性像が描かれているらしいのですが、これはフュースリ本人が結婚まで考えた相手だそうです。なんと、その女性、あの観相学のラーファターの姪だそうですよ。まあ、そんなこんなを考えるとかなり意味深長な画であるわけで、当時の美術アカデミーからはポルノグラフィー扱いされたというのも無理のないところでしょうね。またフロイトがこの画を好んだというのも至極もっともに思えて来るというわけです。


No.273

Re:『夢魔』
投稿者---花山薫(2001/06/10 20:47:52)


なるほど、「夢魔」にはそういったいろんな含みがあるわけですね。いつもながらご教示ありがとうございます。じつは、ふと気になって由良君美の「泰西浪漫派文学」を見ると、そのなかの一章「悪夢の画家」に私の書いた疑問がそっくりそのまま出ているではありませんか。以前たしかに読んでいながら、内容はおろか読んだという事実すらきれいに忘れているのです。まったくお話にならない貧弱な記憶力ですね。まあ、おかげで初読に近い感興をもって再読できたのは幸いでした。由良君美にはべつにフュースリに関する詳細な(?)モノグラフィがあるらしいので、機会があったら見てみたいと思います。


No.281

『ディアロゴス演戯』
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/11 02:35:56)


そうでした。フュースリは由良氏が熱心に紹介していましたね。私も『椿説浪曼派文学談義』を引っ張り出してまたパラパラ眺めてしまいました。あの中で触れられている「夢魔と恐怖のエピファニー」は、『ディアロゴス演戯』(青土社)に所収のものでしょう。ここでは、フュースリと件のスイス派との関わりが触れられています。日本語で、フュースリとスイス派を並べて論じた数少ない文章ではないでしょうか。この『ディアロゴス演戯』には、ジョン・マーチンもよく紹介されていて、『失楽園』の図版などは一応すべてが収められています。しかし、やはりマーチンのメゾチントが表現する漆黒の闇は、印刷ではいかんとも再現しがたく、何だか白っぱくれて気の抜けたものになっているのは残念。

おまけ:我が家のフュースリ。チャールズ・ナイト版『シェイクスピア全集』の『夏の夜の夢』です。

No.284

Re:『ディアロゴス演戯』
投稿者---花山薫(2001/06/11 23:06:39)


題名からすると、なんだか対話篇みたいな感じですね。「泰西〜」にもいくつか対話篇がはいっていますが、あの調子でえんえんとやられたら私にはちょっときついかも。いずれにせよ、見つけしだい買うつもりです。いま思えば、由良君美の本はもっと買っておくべきでしたね。

フュースリの挿絵入りのご本、拝見しました。じつにりっぱなものをお持ちで、羨望にたえません。こういった版本で読むシェイクスピアの味にはまた格別のおもむきがありそうですね。ヨーロッパの古書はほんとうにすばらしくて、目の保養どころか、ほとんど目に毒といってもいいくらいです。この夏スイスの古書店を周られるそうですが、あちらのひとは商品の並べかたもうまいですよ。陳列窓をのぞいただけで、ぐっと引きこまれる感じがします。

版画のモノトーンのすばらしさを印刷で伝えるのは、簡単そうで意外にむつかしいみたいです。色彩画などは、実物よりも写真のほうがきれいだったりする場合もありますが、版画の場合、そういったことはまずありえません。わりあい雑だと思っていたゴヤの版画でさえ、刷られたものを見るとじつに繊細で、思わず絵のなかに吸いこまれてしまいそうになります。ドレの版画なんか、実物を見たらめまいを起すかもしれませんね。


No.287

みみずく&ドレ
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/13 00:16:54)


『ディアロゴス演戯』は、一編を除いて普通の論述になっています。『みずゑ』などに書いている美術関係のものを一冊に纏めたものです。本人が後書きで書いていますが、「ディアロゴス」はバフチンの連想で、一つの文章の中にいろいろな「声」がポリフォニックに絡んでいることを象徴的に表したかったようです。

ところでその由良君美氏ですが、BK1の読者書評にこんなものがありました(因みにこの書評子のペンネームが「ミミズク」)。それによると「由良君美の主著は、一部で無闇に特権化されたあげく、まともに一般には紹介されないまま、ほぼすべて品切または絶版となってしまい、現在古書のマーケーットで異常な高値にて取引されている」とのことですが、そういうことがあるのでしょうか。

そういえば、林達夫のノート編集ではありませんが、由良氏についてもコールリッジ関係のものを一冊に纏めるというような話を(亡くなった直後だったかに)ちらりと聞いた覚えがあるんですが、これは実現していませんよね。彼の「論文」は、ワーズワースとコールリッジをめぐるものなどを、慶應の「紀要」で調べたことがありますが、それはそれで手堅く、エセーとはまた違った意味で面白いものでした。

>ドレの版画

 代表的なものはぼちぼちと蒐めたのですが、これらはとにかく大きさに圧倒されます。ドレの大抵の原本は四折りかフォリオという特大本で、そこに目一杯、木口木版の図版が入るので、相当の迫力です。ものによって出来不出来にムラがありますが、テニスンの三部作などはとりわけ質が高いようです(ただ所蔵のGuinevereはひどく状態が悪いので、いずれ買い換えたいと思っているんですけど)。

 しかしドレは、荒荒しい風景や壮大かつ荒涼とした光景を描くに巧みですが、女性像だけはいま一つではありませんか?

 ゴヤの版画は現物を見たことがありません。確かに画集だと、まあこんなもんかというくらいの感じですが、実際に刷られたものはそんなに違いますか。仰るように、白黒のグラデーションこそ版画がもっとも得意として、印刷が最も不得手なものなのかもしれませんね。

No.293

Re:みみずく
投稿者---花山薫(2001/06/17 01:40:14)


由良君美の本、古書店でもほとんど見かけないなと思っていたら、そんなことになっていたのですか。まるで聖遺物ですね。これはもう復刊されるのを気長に待つしかなさそうです。

ところで、ご紹介いただいたbk1の書評(高山宏「奇想天外・英文学講義」)、なかなかおもしろくて、ほかのもぜんぶ読んでしまいました。どれを見ても、まさに絶賛という感じですね。高山氏の本は私も楽しんで読みましたが、そんな、名著といえるほどのものかどうか疑問に思っています。そもそも論述の基調がデジャヴュですから、読者のほうもわけがわからないまま、わかったような気にだけはなってしまうというちょっと困った本でもあります。この本については、prosperoさんも書評集でちょっと触れてらっしゃいましたね。

コールリッジは由良氏のフェヴァリットですか、「泰西〜」でもかなり大きくクローズアップされていましたね。しかし、氏の熱心な勧誘にもかかわらず、岩波文庫の「コウルリヂ詩選」を読んだだけであとが続きません。名高い「クリスタベル」なんかも、あまりぴんと来ませんでした。もしかしてこれはキーツの「レイミア」になんらかの影響を与えたのではないか、と漠然と思ったくらいですね。


No.294

みみずく&コールリッジ
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/18 00:36:10)


書評で「ミミズク」さんが書いているのは少々大袈裟なような気もしますので、由良氏の本も気長に捜せばある程度安価に見つけられると思います。でも『泰西浪曼派文学談義』をおもちなら、差し当たりはそれで十分のような気もしますが。ただ、唯一の日本関係のもの『風狂虎の巻』(青土社)は、見つけたら入手されると良ろしいかと思います(あるいは既におもちでしょうか)。これは件の高山宏の『黒に染める』(ありな書房)に対応すると言ったところでしょうか。映画関係の『セルロイド・ロマンティシズム』と文学論『メタフィクションと脱構築』(ともに文遊社)はもしかするとまだ入手可能かも。

しかし、林達夫 → 山口昌男(とりわけ『本の神話学』) → 由良君美 → 高山宏(あいだに澁澤龍彦・種村季弘辺りか?)というのは、ある種の感覚の人たちが共通して辿るラインなんでしょうか。私も『アリス狩り』の三冊は、その書誌を含めて随分と利用させてもらいました。全体が「デジャヴュ」というのは、まったくその通りですね。連想の束みたいなものですよね。でも『奇想天外英文学講義』は、Studia Humanitatisのほうにも少し書きましたが、『アリス狩り』の三冊を知っているものを失望させるようなところがあるような気がします。『アリス狩り』の4『綺想の饗宴』(青土社)辺りから少しおかしなことになっているとは思っていたんですけど。でもそんな読者を見越したように、失望したであろう読者に向けて、「そんな君の遅い若さを、どこかでこっそり笑ってあげよう」などと「あとがき」で書いているのは食えないところ。

ところでコールリッジと言えば、ボルヘスが『イギリス文学講義』(国書刊行会)で、『老水夫行』 → 『クリスタベル』 → 『クーブラ・カーン』を、ダンテ『神曲』の地獄篇 → 煉獄篇 → 天国篇になぞらえているくだりがあり、この講義の中で唯一面白い箇所だったので、記憶に残っています。ただ『老水夫行』=地獄篇、『クーブラ・カーン』=天国篇というのは何となく判りますが、『クリスタベル』=煉獄篇というのは、いささか釈然としません。そうそう、コールリッジのこの三作は、件の高山宏が『夜の勝利』(国書刊行会)で新訳をやっていましたっけ。でも私にとって、コールリッジは何と言っても、『文学評伝』の著者です。

No.295

Re:高山宏&コールリッジ
投稿者---花山薫(2001/06/18 21:45:48)


「泰西〜」だけでとりあえずは十分ではないか、というのは私のひそかに考えていたことでもあったので、大いに意をつよくしました。由良氏の他の本、ちらりと見たかぎりでは軽いエッセイふうのものだったので、そんなにあわてて買うほどのこともあるまい、とたかをくくっていたのです。まさかこんなにきれいさっぱり消えてなくなるとは思ってもいませんでした。

林達夫以下の系譜、たしかにいわれてみればどこか脈絡がありそうですね。それぞれアプローチはことなるといえ、なにか共通の磁場を感じてしまいます。ひとくちにいえばヘテロドキシーへの嗜好でしょうか。そのほかにも、たとえば無類の本好きといった面でも共通するものがありますよね。以前、高山氏がラジオでみずからの蔵書について語りつつ、彼の知るかぎりでの理想的な蔵書として、澁澤龍彦と由良君美のものをあげていたのが印象に残っています。

その高山氏ですが、じつをいえば彼の本を買うのは「奇想天外〜」がはじめてです。雑誌論文などはちょくちょく目を通していたのですが、語り口に独特のくさみがあるでしょう? あれになかなかなじめませんでした。自分のことを「ぼく」と書くのもちょっと気持わるかったものです。といっても、そんな枝葉にこだわっていてもしかたないので、おすすめの「メデューサの知」あたりから読んでみようと思います。

「クリスタベル」が煉獄篇というのは、もしかしたら試練、イニシエーションの詩ということでむりやりこじつけたのかもしれませんが、しかしこれはさかさまの煉獄というか、地獄に通じる煉獄ですね。カタバシスとしての煉獄。いずれにしても魂の浄化とはあまり関係なさそうです。

コールリッジの「文学評伝」はそんなにすばらしいものなのですか? あまり難解な英文でなければ読んでみたいと思いますが、これのどういったところがprosperoさんのご関心を惹くのか、もしよろしければお聞かせいただければ幸いです。


No.298

『アリス狩り』&『文学評伝』
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/20 02:02:13)


由良氏は差し当たり『泰西浪曼派文学談義』で十分というような英断(蛮勇?)を貫くなら、高山氏は『アリス狩り』三部作(四は除く)で十分と言い切ってしまいたいところです。私が「四」以降(四はかなりあいだが空いて出たので、時期的にはもっと前からですが)おかしなことになってきたと感じたのは、まさに仰られる「くさみ」というか、まさに「ぼく」の肥大化というところかもしれません。いつの間にやら自分自身の宣伝マンになってしまった感じなのですよね。これはある程度スタイルを確立した(しかも量産型の)著者が良くも悪くも辿る道なのかもしれませんけど。私がこの高山氏を最初に「凄い!」と思ったのは、『アリス狩り』(アリス狩り1)所収のメルヴィル論でした。あそこでは、余分な「ぼく」などを切り捨てて、テクストの運動に果敢に飛び込む颯爽とした読み手が語っていました。その後、文化史的に圧倒的な広がりを見せた『目の中の劇場』と、理論的な方向に延長線を引いた『メデューサの知』と、立て続けに目を見張る大冊(しかもその文献表たるや!)を出してくれたのは、私にとっても愉しい時期でした。と言うわけですので、「アリス狩り」の三冊、少しでもお読みになられたら、感想をお聴かせ願えればと思います。

一寸気になったので、もう一度ボルヘスの『イギリス文学講義』を見てみたら、コールリッジの件は私が勘違いをしていたのに気づきました。彼が言っていたのは、『クリスタベル』=地獄篇、『老水夫行』=煉獄篇、『クーブラ・カーン』=天国篇という図式でした。これだと、『老水夫行』は贖罪が主題なので、魂の浄化という煉獄に合うわけですね。まあ、どっちにしてもかなり強引だとは思いますけど。

ですが、本文を見直した余徳で、『文学評伝』についてのボルヘスの記述を見つけました。「そこには無数の脱線に交じって、ワーズワスの詩論に対する反論や、……フィヒテとシェリングの剽窃が含まれている。ド・クィンシー、カーライルとともに、彼はイギリスで最初にドイツ哲学を広めた人であった」。そうそう、私が反応するのもこうした点でした。まずは「脱線」。次に混成。やはり「ヘテロ」な感性といったところでしょうか。それからこの『文学評伝』は法政大学出版局から翻訳が出ています(いま入手可能かどうか分かりませんが)。

ドイツ哲学とイギリス文学の混成という点では、(話は戻りますが)由良氏は、お父上が由良哲次というディルタイ派の哲学の紹介者でもあったわけで、この辺は案外侮れない出自なのかとも思ってしまいます。高山氏のお父上も哲学関係者のようですし。

No.305

Re:『アリス狩り』&『文学評伝』
投稿者---花山薫(2001/06/22 00:14:25)


私が高山氏のことを「すごい!」と思ったのは、澁澤龍彦の箱シリーズにあるアーカート版ラブレーの翻訳を見たときです。渡辺一夫など問題にもしない訳しっぷりはみごとというほかありません。ラブレーをうまく訳せるのは南方熊楠くらいしかいまい、といままで思っていましたが、やはりすごいひとはいるものですね。

コールリッジの「文学評伝」、どうやら品切みたいです。法政大学出版局のものでは、「コールリッジとその周辺」(だったか?)が出ているだけで、それも取り寄せになるとのことでした。幸いにして、洋書の棚にオックスフォード版のペーパーバック「コールリッジ名作集」があったので、それを買ってきましたが、なにしろ大部のものだし、文章はむつかしいしで、最後まで飽きずに読み通せるか、いささかこころもとない次第です。ざっと見たところ、これは日本でいわゆる「評伝」とはだいぶ勝手がちがいますね。

英文学とドイツ哲学というのも、いままであまり考えたことはありませんでいたが、いわれてみれば林達夫なんかにもそんな感じはありますね。いまふと思い浮んだのは、青年時代をドイツで過ごしたというメレディスです。ボルヘスの本でも言及されているかしらん。「エゴイスト」を読むかぎりではドイツ的なるものの影響はあまり感じられませんが、もしかしたらあの異様な文体そのものにドイツ観念論哲学の影がさしてるのかもしれません。この本の平田禿木による初訳は、第一ページから思いきり笑わせてくれます。ちんぷんかんぷんとはこのことですね。


No.307

「評伝」
投稿者---森 洋介(2001/06/22 01:13:36)
http://y7.net/bookish


 割り込み失礼します。
 私もやはり林達夫、山口昌男、由良君美、高山宏といった面々の著書はかつて一頻り読み耽ったことがある口でして、今でも気になる名前です。
 一つだけ、お尋ね。

>[……]これは日本でいわゆる「評伝」とはだいぶ勝手がちがいますね。
>
 たしか由良君美だったと思ふのですが、どこかで、「評伝」なるものは批評と伝記とをどちらも中途半端なまま綯ひ混ぜにした日本独特の代物であって、まづは精確なる歴史的実證に基づく伝記を出すのは当り前、その上で論を展開した批評を見せるものだ――と苦言を呈してゐました。(勿論、コールリッジの『文学評伝』は訳題ですからこの指摘には当て嵌まりません)
 しかしいま手元の由良著書何冊かをめくってみてもこの言葉を見つけられません。記憶違ひでせうか。
 出典お心当りの方、いらっしゃいませんか。

No.309

Re:「評伝」
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/22 19:14:38)


日本的「評伝」に対する批判は、日本的「批評」における方法理解の欠如とともに、由良氏が事あるごとに言っていたことでしたね。くだんの「評伝」についての文言、まさしく法政大学出版局のコールリッジ『文学評伝』翻訳を機に書かれた「ロマン派的詩学の白眉 ―― トリスタラム的頭脳体操」(『みみずく古本市』p. 57)で、「<評伝>という日本独特の意味は、コールリッジの原本とは、いささか食い違うのではないか」と言った直後に見えますし、もう少し大々的には、「モダニスト横光利一研究の二書」同書p. 163s.)で言われています。他にもあるかもしれませんが、思いつくのはその辺りです。

いまそれを確認するために久しぶりに『ミミズク古本市』の上記の文章を見て、由良氏が『文学評伝』を「トリストラム(・シャンディ)的」と一言で括っているのに吃驚しました(すっかり忘れていたので)。やはりこれも「脱線」と「混成」を言わんとしたものでしょう。

ところで、「評伝」に限らず、由良氏が展開した上記のたぐいの「批判」はそれ自体としては大賛成なんですが、果たして由良氏本人の書かれたものに、どれほどそれを越えるものがあったかというと、少々疑問に思っています。もちろん彼の書いたものが言われるところの「評伝」にすぎないということではありませんが、彼自身の著作の書き方と構成は、どうもいわゆる「文士ふう」と言いますか、少なくとも、「方法」や「体系」を謳うご当人の主張とは大分違ったものになっていると思うのです。ですから、方法的・理論的に全面武装したコールリッジ論が彼の手によって書かれることを心待ちにしていたのですが、あえなく亡くなられてしまいましたし。やはり道半ばという思いを強く抱きます。彼の著書は『椿説泰西浪曼派文学談義』だけで「とりあえず」十分などと言いたくなるのは、そんな思いもあったんです(哀悼と失望)。

No.310

由良父子、横光利一
投稿者---森 洋介(2001/06/22 19:33:24)
http://y7.net/bookish


 すみません、本棚を引っ繰り返した挙句、私が由良君美の「評伝」に就ての言を知った文献が出てきました。
 見つからなかったのも道理、由良君美自身の文章ではなく、井上謙「学縁」が出典でした。東京大学教養学部由良ゼミ準備委員会編『文化のモザイック――第二人類の異化と希望 由良君美還暦記念画文集』(緑書房、1989.9)所収の一文。
 この一文にて、件の言は井上著『評伝横光利一』(桜楓社、1975)への書評中で由良君美が述べたものとして引用してありました。「批評のような伝記のような鵺的ジャンルが、もっとも好評を博」する国文学界の傾向に釘を刺しつつ、「〈評〉ではなく、〈伝〉にかんする限り、評者はこの書の長を買う」と評価するもの(これは多分、prosperoさんの指摘した『みみずく古本市』所収のものでせう。私、由良君美生前刊行書のうち恰度『古本市』と『ディアロゴス演戯』だけが持ってゐないんです)。
 そもそも由良君美の父・由良哲次は横光利一とは親しい先輩の仲であり、且つ『横光利一の藝術思想』(1947)等の著書もあった由。それで後進の横光研究家として井上謙氏は由良哲次に教へを受けたのだとか。曰く、はじめ英文学の由良君美がその息であるとは知らずにゐたが、件の書評を契機に接点を生じ、さらにその後由良君美の発表した横光研究の諸論文に示唆を受けた、云々。
 横光論に限らず、由良君美の『國文學』等各誌に寄稿した日本近代文学方面の仕事、結構数がある筈。コールリッジ論と並んでまとめて本にしようといふ奇特な出版社は……ありませんかねえ。

No.315

Re:評伝
投稿者---花山薫(2001/06/22 23:33:05)


「文学評伝」の原題、BIOGRAPHIA LITERARIA; or Biographical Sketches of My Literary Life and Opinions となっています。ほかにも「文学的自伝」「文学的伝記」などいろいろあるようですが、どれもしっくりきませんね。いっそ原題をカタカナ表記して「ビオグラフィア・リテラリア」としておいたほうがいいのかも。副題のほうは、たしかに「トリストラム・シャンディ」を連想させます。


No.316

『文学評伝』その他
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/23 15:37:42)



>森さん

 なるほど、『文化のモザイック』ですか。あの執筆陣も豪華でしたね。仰る通り、あそこでの井上氏の文章で引用されているのが『みみずく古本市』所収の文章です。見比べてみましたが、井上氏が引かれている部分で過不足はないようです。この「評伝」という問題に関しては、それ以上のことは本文のほうでも言っていません。

 >コールリッジ論と並んでまとめて本にしようといふ奇特な出版社

 本当にそういうものを出してくれるところがあればと思うことしきりです。せめてリストなりとも欲しいですね。

>花山さん

 >アーカート版ラブレーの翻訳

 それも高山訳があるんですか。これは迂闊でした。このアーカート訳というのは、元のラブレーの原書よりも悪口雑言のたぐいを肥大化させているという超訳のことですね。これは捜さねば。

 >メレディス

 私は『エゴイスト』は後の朱牟田訳でしか知りません。この平田禿木訳というのは『我意の人』というやつですね。國民文庫刊行會「世界名作大觀」のこの巻を以前注文してはずれた覚えがあります。この「世界名作大觀」のメレディスでは、ペーター『享楽主義者メイリアス』と抱き合わせになった『シャクバットの毛剃』をもっていますが、実はこれ、まだ読んでいない。

 >Biographia litteraria

 『文学評伝』、このBiographiaというのは一つのジャンルとして考えることができるんでしょうか。どうも後にも先にもこのコールリッジ的意味でのbiographiaというのは思いつきません。古いところでのプルタルコス的『列伝』でもなければ、アウグスティヌス的『告白』ともちがう、どうも類例を求めにくいような気がします。試みに、ドイツ語の大きな『歴史的修辞学辞典』でBiographieの項をj引いても、コールリッジには一言の言及もない。ドイツらしく、20世紀の生の哲学の「自伝・伝記研究」というディルタイ風のプログラムが紹介されているのが精々でした。ある人は、これを古代ルキアノスからのメニッペアのジャンルに入れてジャンル全体を通観するようなことをやっています(鈴木善三『イギリス諷刺文学の系譜』研究社出版)。バフチンがラブレー論で有名にした混成的ジャンルですね。当然『紳士トリストラム・シャンディの生活と意見』に連なるということになり、この整理は私としては好きなタイプです。

 アンガス・フレッチャーという批評家が、「コウルリッジにおける境界、系列、擬人化」(『思考の図像学』〔法政大学出版局〕所収)という良い文章を書いているのですが、そのなかでこんな風に言われています。「『文学評伝』は……たんに説明しているのではない。実演しているのである。それは語りながらも、この詩人自身の批評的かつ詩的人生の最後の配剤に参入した一連の学問を実演している。……評論が評伝を実演している、しかもきわめて方法的に」。伝記をマイムする批評。批評の擬人化。観念の「方法的」物質化、「方法」による受肉。フレッチャーの狙うアレゴリーのラインが仄見えても来ます。

No.319

Re:『文学評伝』その他
投稿者---花山薫(2001/06/24 12:59:07)


高山氏のラブレーは、おそらくは「脱線の箱」のために訳しおろした抄訳、というより部分訳で、いわば見本みたいなものです。意地わるい見かたをすれば、自分にとって訳しやすいところを選んで訳したともいえるわけで、もとよりこれだけをもって高山訳が渡辺訳を越えていると判断することはできません。部分的に名人芸を見せるのはそんなにむつかしいことではありませんから。しかしまあ、ハッタリにしてもよくできていると思います。

由良君美批判(?)も私には興味ぶかく読まれました。彼は自分でも「文士」体質を標榜していたようですが、やはりそれが裏目に出て、アカデミズムとジャーナリズムとのあいだで引き裂かれてしまったのでしょうか。……

「ビオグラフィア・リテラリア」は、私としてはやはり「自伝的文学評論」とでも解するよりほかなさそうです。ご紹介いただいたフレッチャーの意見、じつに興味ぶかいですね。私もそのような立体的な見かたができるようになれば、と思いますが、じっさいにはとてもとても。

ともあれ、ここで教えてもらわなければコールリッジなんて一生読まなかったかもしれないので、いい機会をつくっていただいたことに感謝します。


No.232

ウェーベルン
投稿者---國府田 麻子(2001/06/01 17:42:56)


βεκκ様。
初めまして。國府田と申します。
プロスペロウ様の大きな事典のお写真はβεκκ様が撮影なすったのですよね!毎日見ているので、眼を瞑っても背表紙の姿が瞼の裏に浮かびます。

>ウェーベルンなんかでも初期の 'Langsamer Satz fuer Streichquartett'

私も好きです。でも何と云ってもウェーベルンで好きなのは“Passacagla”でしょうか。一時期、エンドレスで聴いていたこともあります。
カンディンスキーとシェーンベルクについて、面白い本があるのですね。見つけてみたいと思います。今後とも宜しくお願いいたします。

プロスペロウ様。
久しぶりの“書き込み”です。何故か緊張しますね。今日は、久しぶりに古書店に寄って、本を購入いたしました。暑くなってきましたね。衣替えです。



No.239

Re:ウェーベルン
投稿者---βεκκ(2001/06/02 11:32:45)


初めまして、國府田様(^^。

>プロスペロウ様の大きな事典のお写真はβεκκ様が撮影なすったのですよね!

物好きで冩眞(機)道楽にはまっているもので、私から管理者様に頼み込んで撮らせていただきました(^_^;)。

>でも何と云ってもウェーベルンで好きなのは“Passacagla”でしょうか。

'Passacagla' もいいですね。私はカラヤンのを持っていますがお薦めの演奏は誰のでしょうか?
音楽と言えば、どうも私は好みが片寄ってしまっているので、いろいろお教えいただけると幸いです。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m。


No.245

ベルクQ!
投稿者---國府田 麻子(2001/06/03 12:53:33)


βεκκ様。

貴方様のHP、アチコチ拝見させていただきました。素敵なお写真が沢山で、暫しみとれてしまいました(*^_^*)。日記も拝読させていただきました。
ワタクシは本当に暢気な學徒の身ですので、、、。

>'Passacagla' もいいですね。私はカラヤンのを持っていますがお薦めの演奏は誰のでしょうか?

私もそんなに聴き込んでいる訳ではないので何とも、なのですが。カラヤンの棒はどの様な感じなのでしょうね?私はケーゲルので持っております(ライプチィヒ放送交響楽団だったような)。此方こそ、音楽の好みは近現代に偏っております。お忙しくないときに、いろいろとご教示くださいませ。

ウェーベルンにしても、ベルクにしても、作曲者の意志を忠実に再現出来るのは、やはり何と云っても“アルバン・ベルク・Q”だと思っているのですが、如何でしょう、βεκκ様。


No.247

ラサール
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/05 00:11:28)


割り込み失礼します。

アルバン・ベルク弦楽四重奏団も好きですが(とりわけモーツァルト!)、ラサール弦楽四重奏団の新ウィーン楽派のセットも忘れがたいものがあります。シェーンベルクはとりわけ良かったように記憶します。しかもこのレコードには、本に匹敵するような資料集がついていました(CDでも縮刷で入っているようです)。

ラサールはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲が最高だったので、この前CDで買い換えたんですが、これがちょっとがっかり。音がすっかり痩せてしまっています。元ともブタペスト弦楽四重奏団のような骨太の音を作るカルテットではありませんが、それにしてもチェロがヴィオラのように聞こえてしまっては……。どうもある時期のグラモフォンのものは、CDになると音が貧弱になっているような気がします。

ところで、國府田さんのブラームスの演奏会はいかがでしたか?

No.248

演奏会に行った一部外者の感想
投稿者---こば(2001/06/05 00:46:56)


さらに、割り込みをさせて下さい。

私は個人的に、作曲家の善し悪しは弦楽四重奏によって決まる、と考えているのですが、皆様、何かお勧めの弦楽四重奏を紹介してください。私としては、ベートーベン「ラズモフスキー」、シューベルト「死と乙女」、スメタナ「わが生涯」が好きなのですが。

先日、國府田さんの所属する中央フィルハーモニア管弦楽団の演奏会に行かせてもらいました。曲目はJ・シュトラウス「こうもり」、ブラームス「ハイドン・バリエーション」、同「交響曲2番」でして、私はヴァイオリン二年生としてヴァイオリンばかりを眺めていたのですが、テクニックは高級なものばかりでした。とりわけ、交響曲2番の第4楽章については、よく合わせられるな、と感嘆致しました。

と、ここまで書いて何ですが、私の素人耳の拙い感想よりも、あとは演奏したご当人が詳しく語ってくれることを期待しましょう。

No.250

定期演奏会ご報告
投稿者---國府田 麻子(2001/06/05 00:58:59)


プロスペロウさま。

演奏会のこと、読んでいただくお手数も省みずに、ご報告いたします。中央フィルハーモニア管弦楽団に入団してたったの3ヶ月で本番を迎えてしまったワタクシ。今回は本当に緊張いたしました。プログラムは以前に書き込みました通り、シュトラウス「こうもり」序曲、ブラームス「ハイドン・ヴァリエーション」、ブラームス「交響曲第2番ニ長調」でした(因みにアンコールはシュトラウスの「アンネンポルカ」)。大學オケ時代は結構堂々と(?)コンミスなどもやっていたのですが、この演奏会、場所が憧れの“きゅりあん(大ホール)”であったことも手伝って、久しぶりに舞台で足が竦んでしまいました。演奏会後にオーディエンスから感想をいただいたのですが、なかなか好評だったようで安心しました。私はいままで女性ばかりのオケで演奏し続けていたので、男性の弾く(又は吹く)楽器から発せられる音の力強さには、同じ舞台に立っていながら驚きました。自分の演奏については、「反省点多し!」です。特にシュトラウスについては、気付いたときには終盤に差し掛かっていた、というありさまで、殆ど楽しんで弾いている余裕がありませんでした。ブラームス2曲は自分なりに楽しみながら弾けたような気も致しております。私のオケ生活も、早5年目を迎えましたが、これからもチャレンジしてみたい曲は沢山あります。マーラーなどは是非演奏してみたいな、と思っております。取り敢えず次回の演奏会の出し物(!)はフランクです。雨の中お越しくださったきゅーさま、こばさまからの深紅の薔薇の花束は、何より嬉しいものでした。
_________________
>ラサール

ラサール。気にしてみたいと思います。以前に図書館でベートーヴェンを借りて聴いたことはあるのですが。

なんだか長くなってしまいました。



No.257

演奏会&弦楽四重奏曲
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/07 02:12:04)


>國府田さん

 やはり音を作り出す側として舞台で直接に聞えて来る音楽というのは、客席で聞くのとはまた違ったものなのでしょうね。私も中学のときからヴァイオリンをやっていましたが、生来の集団嫌いのため、結局大学でもオーケストラに入らずじまいで、これは多少心残りです。いまとなっては外国語という譜面を日本語の音に置きかえる翻訳という演奏が愉しくなってしまって、楽器の方はとんとご無沙汰です。次回はフランクですか。これもなかなかの大曲ですね。フランクと言えば、吉田秀和の『主題と変奏』の中に「フランクの勝利」という、短いが良い文章がありましたっけ。

>こば殿

 弦楽四重奏曲ですか。弦楽四重奏曲こそが作曲家の真価を決めるという思い入れはいかにも哲学学徒らしいところかも。私もそう思っていた時期があります。それにしても、こば殿が挙げた曲はどれもまた、思いつめたと言うか、生半可でないものばかりですね。この伝だとヤナーチェクやバルトークも追加しましょうか。

 演奏としては、ベートーヴェンの中期は、すでに話に出たアルバン・ベルク弦楽四重奏団などはいかがでしょう。彼らの演奏は、どれも聴いてもそれぞれに刺激的だと思います。スタンダードという気の抜けたようなお薦めではなく、かなり積極的な推薦です。個人的にはバリリとかウィーン・コンツェルトハウスという古風なものも好きですが、この辺は好みでしょう(でもバリリの後期14番などは是非聴かれると良いかと)。「死と乙女」はアマデウス弦楽四重奏団辺りはいかが。これは何種類かの録音がありますが、年を経るごとに厚化粧になっていくのも面白い。

 尋ねられてもいないのに思い出したので追加すると、スメタナ弦楽四重奏団とヤナーチェク弦楽四重奏団がやったメンデルスゾーン弦楽八重奏曲は伝説的な名盤ですので、是非一度どうぞ。

No.291

100万ドルトリオ
投稿者---こば(2001/06/16 20:48:23)


弦楽四重奏について。アルヴァンベルクQは大勢の人が薦めてくれるので、今度是非試してみたいと思います。

ところで、手許にはブッシュQやジュリアードQによる「ラズモフスキー」があります。CDの紹介文によれば、前者は2,30年代にかけて世界最高の四重奏団と書かれているのですが、個人的には後者のほうがスマートで良いように感じます。

近頃、ヴァイオリニスト・ハイフェッツのものを集めておりまして(生誕100周年企画でNAXOSが安く出しているため)、その関係で、ハイフェッツ、ピアティゴルスキー(チェロ)、ルービンスタイン(ピアノ)による所謂「100万ドルトリオ」のピアノ三重奏曲に凝っています。今日、このトリオによるチャイコフスキー「ある偉大なる芸術家の思い出のために」のCDを購入。聞き惚れてしまいます。

No.292

NAXOS
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/16 23:21:43)


NAXOSは、NAXOS Historicalも、通常のリリースも健闘していますね。クラシック界の価格破壊といったところでしょうが、新譜として出されるものも、演奏家は無名でもかなり力の入った良質のものが多いと思います。とりわけ曲目の選定がかなりマニアックで、イギリスものなどは相当に飢えを充たしてくれます。ハイフェッツは、私もNAXOSでエルガーとウォルトンを入手しましたが、このウォルトンは実にいい演奏でした。

ブッシュとジュリアードは殆ど対極とも言えますね。しかしブッシュのベートーヴェン後期(とりわけ15番)は恐るべき演奏でした。音楽の「精神性」のようなことをことさらに強調する評価は好きではありませんが、このブッシュに関しては、どうしたってそんなことを言ってみたくもなります。

「偉大な芸術家…」は私も懐かしくて久しぶりに手に入れてきたばかりです。デュプレ、バレンボイム、ズーカーマンです。これもかなりの熱演です。ちょっとズーカーマンの音程が甘いけど。

そう言えば、ヴァイオリン関係でこんなサイトがあります。なかの「演奏家ライブラリー」なんかはそこそこ重宝します。

No.265

演奏と鑑賞
投稿者---βεκκ(2001/06/09 00:38:19)


>國府田様
 
 お返事遅くなってしまい申し訳ありません。ただ今少々ばたばたしていまして、なかなか書き込めませんでした。すでにみなさまがいろいろコメントしていらっしゃるので、今さら書くのも気が引けるのですが……

>ウェーベルンにしても、ベルクにしても、作曲者の意志を忠実に再現
>出来るのは、やはり何と云っても“アルバン・ベルク・Q”だと思っ
>ているのですが

アルバン・ベルク弦楽四重奏団は私も大好きです。月並みな表現ですが、やはりウィーン風に艶っぽい音といった感じでしょうか。かなり前ですが、サントリーホールで聴いた演奏も大変素晴らしいものでした(曲目はなんだったか……)。また管理者殿が書いておられるように、ラ・サール弦楽四重奏団の新ウィーン楽派のセットは、演奏とともに詳しいブックレットもついていてとてもいいものですね。私も数年前にCDで入手しました。

でも、國府田さんのように御自身で演奏なさると、やはり聴き方も違ってくるのでしょうね。その点はとても羨ましく感じます。楽器が弾けるというのは聴くのとは全く別の楽しみなのでしょうね。弦ではないのですが、実を言いますと私はいつかピアノを習いたいと思っています……。といってもいまさらバイエルから一歩ずつやるなんていうのは我慢できないので、見栄えばかり気にする浅薄な私は、格好よく聞こえるわりには演奏技術的に比較的易しい(と聞いた)ドビュッシーを弾きたいと無謀にも考えています……。

>貴方様のHP、アチコチ拝見させていただきました

お恥ずかしい限りです(^^;)。←こんなふうに私は本来顔文字などを使ってしまう人間で、美的=倫理的=修辞的統一性を誇るこちらのようなサイトとは比べるのも失礼な、ああいった雑然としたものしか作れません……。作製者をよく反映しているという意味ではウソではないのですが(笑)。

國府田さんはオーケストラに入っていらっしゃるのですね。練習曲ではなく、本格的な曲を演奏できるというのは素晴らしいですね。音楽のことも、御専門の国文学についても、またいろいろお教えくださいm(__)m。


No.267

ドゥビュッシー
投稿者---國府田 麻子(2001/06/09 15:04:47)


βεκκさま。

お忙しいのに御返事有り難う御座いましたm(_ _)m。
>サントリーホールで聴いた演奏

私も昨年、彩の国さいたま芸術劇場で彼等の演奏を聴いたときは(前から2列目!)本当に「コレハ!」と思ったものです。鋼のような音、とでもいいましょうか。どうしたらあんな音が出せるのでしょうね。CDで聴いても解らないから、実際に見に(!)行ったのですが、結局解らず終いでした(-_-;)。必ずプログラムの一つに「現代音楽」を入れてくれるんですよね!私が聴きに行ったときはバルギュルスキの弦楽四重奏曲第4番「燃焼する時間」でした。

も大変素晴らしいものでした(曲目はなんだったか……)。また管理者殿が書いておられるように、ラ・サール弦楽四重奏団の新ウィーン楽派のセットは、演奏とともに詳しいブックレットもついていてとてもいいものですね。私も数年前にCDで入手しました。

>ピアノを習いたいと思っています……。

ピアノですか、いいですね。私は全く弾けません。10本の指を総動員するなんてトテモトテモ。ドゥビュッシーはいいですね。「月の光」「亜麻色の〜」とか窓辺で一人でうっとりと奏でるなんて、憧れます。

>お恥ずかしい限りです(^^;)。

何を仰有いますやら(^o^)。とっても素敵なサイトではないですか(井の頭公園のお写真がとってもスキになりました)。私は写真を見るのは好きなのですが、撮るセンスは全くありません。なんとなく人物を撮ってしまうので、風景や静物を印象的に捉えるβεκκさまの力量にはただただ恐れ入ります<(_ _)>。

お忙しいこととは思いますが、時々は私のつまらない話にお付き合いくださいませ。



No.259

『グレの歌』
投稿者---國府田 麻子(2001/06/07 18:05:26)


プロスペロウさま。またしても報告です。

本日、メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団のコンサート『グレの歌』の公開リハーサルを聴いてきました。朝早くから上野に出掛けたのですが、その甲斐がありました。まず、楽団のストリングス層の厚さに驚きました。あれだけの濃密な弦の響きは、なかなか日本のオーケストラでは出せない音でしょう。また、E・ヘフリガーの“語り”は絶品でした。勿論、他の歌い手達の力量にも圧倒されましたが。レヴァインは、存外繊細なマエストロのようでした。「みんなで音を一つに!」「次の物語に繋がる音を!」「其処はもっと大きく(ノビノビと)だしてもいい」など、細かな注意を団員に与えていました。ただ同時に、人を誉める指揮者でもありました。彼が団員を、また合唱隊を賛美すると、其の次の瞬間にはガラッと音質が変わるのが分かりました(語学に不得手なワタクシ。レヴァインの指示をもっとシッカリ聞ければよかったのですが)。総勢350人からなる大編成のオケと合唱団が一つになったとき、それはもう、私の耳には快感以外の何ものでもありませんでした。ステリハでしたが、大・大・満足です。

プロスペロウさまもヴァイオリンをなさっていたなんて!嬉しいです。お得意の曲は?

No.263

Re:『グレの歌』
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/08 20:02:06)


>『グレの歌』の公開リハーサル

何かを作り出す現場に立ち会うというのは良いですね。最近、ショルティの『指環』の録音風景を収めた白黒のドキュメントを見ましたが、これもひどく面白いものでした。でき上がったものを聴いていただけでは、なかなか気づかないような点に注意が向くようになりますね。

>お得意の曲は?

私なんかは、バッハのコンチェルトを練習していた辺りでだんだんと弾く機会が減って行ってしまいましたので、お得意どころか、きちんと弾ける曲すらほとんどありません。ヘンデルのソナタは好きでしたが、グリュミオーの演奏を聴いて、とても同じ曲をやっているとは思えずに愕然としたものです。ヴァイオリニストでは誰がお好きですか。

No.268

お気に入り
投稿者---國府田 麻子(2001/06/09 15:27:09)


プロスペロウさま。

>ショルティの『指環』の録音風景を収めた白黒のドキュメント

ヴィデオでしょうか?観てみたいです。

>バッハのコンチェルト

ドッペルコンチェルトなどは私も弾きました。……難しいですね。一人で弾くのも大変ですが、相手がいるのはもっと。
私の好きなヴァイオリニストは、ギドン・クレーメル、アイザック・スターン、グリューミオも勿論大好きです。私はスターンの「ある天使の思い出に」に愕然としています。

*βεκκさまへの書き込み、不注意でβεκκさまの本文をそのまま載せてしまいました。大変失礼を致しました。以後気を付けます。


No.269

ヴェンゲーロフは?
投稿者---prospero (管理者)(2001/06/09 23:12:12)


 ドッペルコンチェルトですか。私もやりました。二人でやると、競争のようにどんどんテンポが上がってしまったり、どうにも悲惨な出来映えでしたけど。このダブル・コンチェルトは、古いものですけど、ブッシュのものを聴いて、やはり愕然としました。これは別の曲だと。

 クレーメルがお好きですか。ヴェンゲーロフなどはどうですか。彼などは、ちょっとクレーメルと似たところがあるような気がするんですけど。

 私は変な条件をいろいろ付けずにとにかく一人だけと言われたら、グリュミオーでしょう。彼のフランコ=ベルギー派の衣鉢を継いでいるのは、デュメイ辺りということになるんでしょうか。ただ私、なぜかデュメイは苦手です。色遣いが濃すぎると言うか、表現が濃厚で、こってりしすぎている感じで…。

 ショルティの録音風景はLDで出ているようです。私は知人にLDからビデオに起こしてもらったんですけど。1・2年前にBSでもやっていたようですよ。あの頃のニルソンとヴィントガッセンは本当に凄い。若きフィッシャー=ディスカウも登場します。グンター(『神々の黄昏』)という、ある意味では割の合わない役柄を圧倒的な存在感で歌っていました。リート歌手としての彼は私は苦手ですが、このグンターは何とも立派です。

No.272

ヴェンゲーロフも好き。
投稿者---國府田 麻子(2001/06/10 18:22:26)


プロスペロウさん。
梅雨の入り、大風邪をひいて熱を出し、寝込んでおります。論文が進みません。

>二人でやると、競争のようにどんどんテンポが上がってしまったり

そうなんですよ、そうなんですよ!いくら師匠に注意を受けても駄目でした。

>ヴェンゲーロフなどはどうですか。

好きです。なんというか、力強いと云いますか…。以前N響アワーでチャイコフスキーのコンチェルトを聴いたのですが、とてもよかったと記憶しております(ただ、若き頃、現在と比較しても、あまり顔に変化が見られないのは驚くところです)。仰有るように、クレーメルと似ているところ、あるかも知れません。

>グリュミオー

本日、クレーメルと、グリューミオのバッハのシャコンヌを聴き比べましたが、全く違いますね(当たり前ですが)。クレーメル、幼いときにシュニトケの「聖夜」を聴いてとっても驚いてから、ファンになりました。あの心地よい不協和音(!)には何とも云えない引力があるような。

オーギュスタン・デュメイは苦手でいらっしゃいますか。私は「苦手」と云えるほど聴きこんでおりませんので、誰の演奏も「エクセレント!」と思ってしまいます。でもデュメイ、一時期モーツァルトをよく聴いておりました。ジャケットの写真まで覚えております。

>若きフィッシャー=ディスカウ

彼が、マーラーの歌曲を歌っているのを何かで聴いたことがあります。歌曲にはワタクシ、まだまだ解らないことだらけです。第一、“歌詞”が理解できません。いろいろご教示願えれば、嬉しく思います。

『指輪』のLD情報、有り難う御座いました。
 

 


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