蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ

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R. Mendoza, The Acentric Labyrinth. Giordano Bruno's Prelude to Contemporary Cosmology, Element 1995.
(メンドーサ『中心なき迷宮 ―― 現代宇宙論の先駆けとしてのジョルダーノ・ブルーノ』)
 
ブルーノの宇宙論的理論を科学論の視点から考察しようという研究書。最後の一章では、ブルーノとニーチェが対比させられている(「螺旋と指輪 ―― ブルーノ対ニーチェ?」)。伝統的な価値観の破壊や「英雄的」精神という点でニーチェと共通点をもつブルーノも、古代以来存在する「永劫回帰」の思想は認めないという点で、ニーチェを先取り的に批判しているというのが著者の見解。そのために、両者の宇宙論を象徴する形象として、ブルーノに螺旋、ニーチェに指輪を当てて対比を強化している。しかし、ブルーノが永劫回帰を認めない論拠として引用されるラテン語著作の一節は興味深い。「同一物というあり方は、数の点に関しても、同じものであったためしはないし、これからも同じものであることはないだろう。なぜなら、二つの異なった瞬間において同一のままにとどまり続ける真理なるものを肯定することなどは断じてできないからである」。ニーチェの文章として引用されてもおかしくない文章である。それを考えると、「永劫回帰」を是とするか否かということよりもさらに根本的なところで、ブルーノとニーチェが重なってくることも考えられそう。何しろ、両人とも、名にし負うメニッペア作者でもあることだし。

H. Aarens, Sprachwissenschaft. Der Gang ihrer Entwicklung von der Antike bis zur Gegenwart, Verlag Karl Alber 1955.(アーレンス『言語学 ―― 古代から現代までの発展の歩み』)
 
言語学・言語哲学に関する古代から現代(ソシュール辺りまで)に至るまでの通史。全体が500頁を越す大著。公刊後すでに半世紀が経っているが、これだけ浩瀚な通史はなかなか得がたいうえに、情報量も圧倒的なので、事典としても使える。

M. Serres, La legende des anges, Flammarion 1993.
(セール『天使の伝説』)
 先ごろ法政大学出版局より翻訳の出た『天使の伝説』の原著。邦訳はテクストのみが公刊されたが、実はこの原著、画集と見まがうばかりに美しいカラー図版に彩られた大冊。惚れ惚れするような造本と図版が見事。この種のものを見せつけられると、本造りに関する環境の違いに圧倒される。

『中世思想原典集成 別巻 ―― 中世思想史・総索引』(平凡社 2002)
 
10年にわたる「中世思想原典集成」全20巻が、最終配本「シャルトル学派」をもってついに完結した後、ほとんど間を置かずに、20巻全体にわたる総索引が公刊された。この種の著作集にとっては、索引は命ともいえるものなので、この心地よいテンポでの仕上げは、その呼吸を十分に心得た会心の仕事ぶり。何しろ初期ギリシア教父から、14世紀の近世スコラ学や自然学までをカバーした一大伽藍とも言える叢書の索引だけに、その情報量は圧倒的である。古典古代の著者の引用頻度なども一目瞭然であり、いわば「影響活動史」がそっくり形になっているとも言える。味読することのできる立派な索引である。
 これまで、中世の書名・人名の表記に関しては、ある程度の水準の書物でも、ずいぶんといい加減に処理されてきた。翻訳の場合には特にそれが顕著で、原著の表記に引き摺られて何人ともわからない奇妙な人名表記がなされることが多かったが、中世事典とも言えるこの総索引が出たからには、もうそのようなことは許されない
(もちろん、いままでも「許され」はしないのだが)

川崎寿彦『ダンの世界』(研究社1970〔初版 1967〕)
 
詩的言語のパラドキシカルな閉域の中で洗練を究めた若きダンから、後年の行動する説教者としてのダンへの転身を追う。この著者らしく、背景となっている新プラトン主義に対する言及なども抜かりがない。著者自身が、同時に出た高橋康也『エクスタシーの系譜』
(アポロン社〔その後、筑摩叢書〕)との類似を述べているが、ダンを始めとする形而上詩人やパラドクス文学全般に対する関心も、ある時代に同時発生的に起こった知的現象だったのかもしれない。ホッケの一連の邦訳なども同時期のものだった。
 川崎氏のこの著作は随分と探していたが、いまではそれなりに値もあがっている。『マーヴェルの庭』も入手したので、これで川崎氏に関しては一段落と言ったところ。


W. Wilgden, Das kosmische Gedächtnis. Kosmologie, Semiotik und Gedächtnistheorie im Werke Giordano Bruno (1548-1600), Peter Lang 1998.
(ヴィルグデン『宇宙論的記憶 ―― ジョルダーノ・ブルーノにおける宇宙論・記号論・記憶論』)
 序章で伝記的な記述をしたのちに、ルルスの「大いなる術」などとの対比でブルーノの記憶論をかなりの細目にわたって詳述して行く。イェイツ、ロッシを踏まえながら、具体的なテクストに即して、その記憶論の個々の図像(figura)を丁寧に紹介している。
 
D. P. ウォーカー『古代神学 ―― 15‐18世紀のキリスト教プラトン主義』
榎本武文訳(平凡社 1994年)
 ヴァールブルク・コレクションのうち、入手しそびれていたものを古書店で。「<古代神学>という語で私が指すのは、成立年代を誤って想定されたテクストにもとづくキリスト教護教神学の伝統である」とウォーカーが言うように、本書で語られるのは、ヨーロッパ思想の底流を成している脈々たる「偽書」の歴史である。「ヘルメス文書」、「オルフェウス文書」など、圧倒的な影響を与えながらも、実はその由来が明らかではない謎めいた文書・イメージの総体である。その点で、パウロと同時代の人物を装った5世紀のディオニュシオス・アレオパギテスも、本書の主題の一つである。一つの伝統が形成されるのは、かならずしも実証可能な権威にばかりもとづくのではない。歴史を形成する際の「象徴」の役割が実感される。

大熊昭信『ブレイクの詩霊 ―― 脱構築する想像力』(八潮出版社 1988年)
 ブレイクのイメジャリ‐の総体はなかなか全貌が掴みがたい。「ブレイクの詩と挿画の迷宮への本格的なチチェローネたろうとする」と謳っている本書は、思想的な体系を軸に、ブレイクの個人神話を整理し、挿画を読み解こうとしている点で手引きとして有用だろう。

岩波講座『文学 9 ―― フィクションか歴史か』(岩波書店 2002年)
 先ごろ配巻が始まったばかりの岩波の新しい「講座 文学」の第一回配本。ニューヒストリシズム以降、文学と歴史の境界は俄かには定めがたくなっているので、「文学と歴史」とも言える巻がこの講座の最初の巻として公刊されたのは象徴的とも言えるだろう。それにしても、こうした議論のいわば大元とも言えるホワイトの『メタヒストリー』の翻訳がいまだに実現していないのが惜しまれる。そういう意味では、ポール・ド・マンの一連の著作なども邦訳がないのが不思議。
 因みに、岩波のこの「講座」という形態は昔からいま一つ性格が良く分からない。アカデミックな「講義」の延長なのだとするなら、文献表や索引をまったくつけないのは、どうにも不親切に思えるのだが。まして、本書のように、文学と歴史の両方に跨る主題だと、邦訳の有無一つにしても、記載があると助かる読者も多いだろう。

原克『死体の解釈学 ―― 埋葬に怯える都市空間』(廣済堂出版 2001年)
 
名著『書物の図像学』(三元社)の著者による、埋葬をめぐる言説とメディアとの関連を追った著作。18世紀ベルリンの墓地の移転から、『若きヴェルテルの悩み』における埋葬の記述など、死体をめぐるイメージをさぐってゆく。そのなかでは、「生前埋葬」
(生きながら埋葬されること)への恐怖が大きな位置を占めていたとされる。そのような恐怖を払拭しながらも、死体をめぐる言説はむしろメディアの力によって、恐怖を売り物にする娯楽の対象となっていった。科学的言説以上にメディアがもつイメージ操作が力を持っているという議論なのだが、そのストレートな論旨が意外と見えにくい。本書最後の数頁をむしろ冒頭に持ってくれば、そのあたりの論旨が最初から明瞭になっただろうと思えて、少々残念。文体も、『書物の図像学』ほどの緊張感はない。

八巻和彦・矢内義顕編『境界に立つクザーヌス』(知泉書館 2002年)
 
クザーヌスを哲学のみならず、社会思想や、日本思想(とりわけ西田)との関係で論じた論文を収めた論文集。ここのところ、クザーヌス関係は、原典翻訳『神を観ることについて』
(岩波文庫)を始め、八巻和彦『クザーヌスの世界像』(創文社)、ブルーメンベルク『近代の正統性 III』(法政大学出版局)などと、関連書の公刊が相継いでいるので、これを機会に、この境界の思想家クザーヌスがより広い文脈で受け入れられるようになることが望まれる。

リシェ『ヨーロッパ成立期の学校教育と教養』岩村清太訳(知泉書館 2002年)
 上記の『境界に立つクザーヌス』もそうだが、これも新興の学術出版社である「知泉書館」の公刊物。立ち上げ早々に、このような本格的な二冊の大著(しかもこのリシェのものは600頁に及ぶ)を世に送り出すというのは、並大抵のことではないだろう。このリシェの著作は、カロリング期における「学校」の成立を各国別に追跡した斯界の基本図書。文献表だけでも150頁を越そうという腰の座ったもの。レイノルズ/ウィルソン『古典の継承者たち ―― ギリシア・ラテン語テクストの伝承に見る文化史』
(国文社)で大枠の理解が得られる問題だが、それをさらにカロリング・ルネサンスの時代に絞って、より詳細に概観するには恰好の書物。本文の記述を裏づける資料の引用なども豊富で、巻末の史料集は、さらに理解を具体的なものにしてくれる。そうした意味で、書物としての作り方が実に丁寧な著作。

N. Ordine, Giordano Bruno und die Philosophie des Esels, Wilhelm Fink Verlag 1999.
(オルディーネ『ジョルダーノ・ブルーノと驢馬の哲学』)
 
『キッラの驢馬』やら『天馬のカバラ』といった不思議なタイトルの書物を書いたブルーノは、紛れもなくメニッペア作者だが、そのメニッペアぶりを象徴するような形象である「驢馬」を焦点にブルーノを論じるという異色作。巻末には、驢馬をめぐるルネサンス期の図像集まで収められていて愉しめる。

K. Kerenyi, Romandichtung und Mythologie. Ein Briefwechsel mit Thomas Mann, hg. zum siebzigsten Beburtstag des Dichters 6. Juni 1945, Rhein Verlag 1945.
(ケレーニィ『物語創作と神話学: トーマス・マンとの往復書簡 ―― 作家70歳の誕生日に』)
 トーマス・マンは『ファウストゥス博士』の音楽理論を書くときにはアドルノの協力を得ているが、『ヨゼフとその兄弟たち』を書くに当たっては、神話学者ケレーニィを相談相手としている。その対話の記録が本書で一冊にまとめられている。

Fr. E. Manuel, The Eighteenth Century confronts the Gods, Atheneum 1967.
(マヌエル『18世紀における神々との邂逅』)
 標題は直訳すれば、『18世紀が神々と出会う』といったところ。理性と合理性、偶像破壊に徹した啓蒙の世紀が、その実、神々や神話といったものを独自の仕方で扱っていた模様を追う。啓蒙主義の世紀である18世紀は、脱神話化のプログラムを麗々しく掲げると同時に、ヘルダーやヴィーコに見られるように、神話的世界の再興をも果たしている。啓蒙と神話が通底しているという「啓蒙の弁証法」の一事例と言ったところか。フレッチャーの『思考の図像学』
(法政大学出版局)の註にあったので入手。

Ed. F. Byrne, Probability and Opinion. A study in the medieval presuppositions of post-medieval theories of probability, Martinus Nijhoff/Den Haag 1968.
(『蓋然性と見解 ―― 中世以降の確率理論、中世におけるその諸前提)
 Probability (Wahrscheinlichkeit)は、普通には「ありがちなこと」、「起こりうること」だが、漢語にすると「蓋然性」などとなる。しかもこの同じ言葉は、数学では「確率」である。実は、この蓋然性にしても、確率にしても、その成立は、近代以降のこと。「確率」という考えは、パスカル的な「賭け」を意味すると同時に、裏返せば、「保険」といった考えの基盤にもなっている。その意味では、近代的思考というものを考えるには、デカルト的な「確実性」だけでなく、この「蓋然性/確率」にも注目しなくてはならない。本書は、そうした蓋然性の理解の出発点を中世にまで遡って論じたもの。

R. L. Colie, Paradoxia Epidemica. The Renaissance Tradition of Praradox, Princeton U. Pr. 1966.
(コーリー『パラドクシア・エピデミカ ―― パラドクスのルネサンス的伝統』)
 かなり以前から捜していたものをようやく古書で入手。否定神学の言語的パラドクスの問題を文学的遺産として捉え、ルネサンス文学と十七世紀形而上詩にその開花を見ようとするもの。この研究書が公刊されたのは、フーコー『言葉と物』と同じ1966年。実存的には人生の葛藤という問題として深刻に扱われてしまいかねない「パラドクス」という問題を、あくまでも「言語」の領域で捉えようとしたのが、この時期に特有の感性と言えるかもしれない。

P. Dronke, Verse with Prose from Petronius to Dante. The Art and Scope of the Mixed Form, Harvard U. Pr. 1994.
(ドロンケ『ペトロニウスからダンテまでの詩と散文の混淆 ―― 混合形式の芸術と話法』)
 中世文学の大家ドロンケによるメニッペア研究。「混合話法」(discours concordia)を、『サテュリコン』から、ボエティウス『哲学の慰め』などのラインを追う。バフチンの『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』や『ドストエフスキー論』の中世版。ただし本書では、バフチン流の「民衆文化」のほうではなく、詩と散文の混淆という形式面に力点が置かれている。その意味では、終着点となるのは、『哲学の慰め』と同じ形態をもつダンテ『新生』である。さらに本書では、マグでブルクのメヒティルトやマルグリット・ポレートなど、いわゆる「中世の女性神秘家」たちのテクストが詳しく取り上げられているのも目を引く点である。

『中世の女性神秘家』(『中世思想原典集成』15 平凡社 2002年)
 上記のドロンケを理解するのに最も便利な論集が実に良いタイミングで公刊された。ビンゲンのヒルデガルト『スキヴィアス』やマルグリット・ポレート『単純な魂の鏡』など、ほとんどが本邦初訳。エリオットが『四つの四重奏曲』で活用したノリッジのジュリアンなども、初めて現物に触れることができるようになったのは、慶賀すべきことだろう。この大規模で画期的な『中世思想原典集成』も、あと一巻を残すのみで、全20巻完結となる。軟弱になった出版状況に活を入れるような快挙になるだろう。

ギルマン『ニーチェとパロディ』(青土社 1997年)
 ニーチェのテクストは大体がパロディや当てこすりが大量に盛り込まれているが、これはそうしたニーチェのエクリチュール上の特質を浮彫りにした良書。『メッシーナ牧歌』や『プリンツ・フォーゲルフライの歌』などのパロディ精神の横溢した作品も、これまでかならずしも正面から論じられてきた訳ではないので、この辺りからニーチェのテクストの「表面」を今一度眺め渡してみるというのも、大きな課題になるだろう。
 本書自体はきわめて読みやすいもので、訳者の「あとがき」なども充実しているが、残念なことに註での出典表記がムザリオン版の全集、および英訳の頁数になっている。ニーチェの「文章」が問題になっている以上、やはり原典なり邦訳本文に遡りたい読者もいることだろうから、本書での出典表記は個々の著作タイトルと章・節番号に戻すというくらいの配慮が欲しかった。ドイツ語ができる読者にしても、ニーチェ全集を買うのに、いまどきムザリオン版をわざわざ手に入れる奇特な人も少ないだろうし。

ニーチェ『如是説法ツァラトゥストラー』登張竹風訳(昭和10年 山本書店)
 日本におけるニーチェの最初の紹介者登張竹風による『ツァラトゥストラ』の訳は、手を加えられて数種類公刊されている。これはその最も流布した版だろう。1921年に最初に訳されたときのタイトルは、『如是経序品 光炎菩薩大獅子吼経』である。ツァラトゥストラ=ゾロアスター(拝火教の祖)が「光炎菩薩」。仏典を意識し、「永劫回帰」を「輪廻」と重ねようとする目論見である。この光炎菩薩のほうも、いずれ入手したい。因みに、しばらく前にここに掲げた登張信一郎『新式獨和大辭典』
(大倉書店 明治45年)はこの同じ著者によるもの。こちらは日本初の独和辞典であった。

The Poem of John Donne, Edited from the old editions and numerous manuscripts with introductions & commentary by Herbert J. C. Grierson, The Clarendon Press 1912.
(『ジョン・ダン詩集 ―― グリアソン編』)
 
17世紀の形而上詩人ジョン・ダンの批判版全詩集。20世紀になってエリオットが再評価して急速に復権の進んだ形而上詩だが、その代表者ダンの決定版。この版自体は本来はバックラムの装釘だが、今回入手したものは、前の所有者が特別に装幀に出したもので、赤モロッコ皮三方金、金箔押し装幀で、見返しへの織り込み部分にまで箔押しをするという手の込んだもの。20世紀に入ってからの「批判版」などにこれだけの装幀を施した前の所有者の思い入れが伺える。バックラムのエディションでもいまはかなり値が上がっているので、これはかなりの拾い物。本来この「新着図書」では、純粋な文学書や装幀類の記述はしないつもりだったが、一応理論にも関係のあるダンのものなので、例外でご紹介。

S. H. Monk, The sublime. A Study of critical theories in XVIII-Century England, The U. of Michigan Pr. 1960.
(モンク『崇高 ―― 18世紀英国の批判的理論の研究』)
 
初版が1935年に出た崇高論の古典的研究を著者の新しい序文をつけて1960年に再刊したもの。文学論の中で崇高論がブームになるきっかけの一つを作った著作だろう。崇高論は、今となっては、哲学にまでその余波が及んでいる主題となった。

English Men and Manner in the eighteenth Century. An illustrated and narrative by A. S. Turberville, Clarendon Press 1926.
(『18世紀英国の人と風習』)
 
18世紀英国もの。当時のパンフレットや図版をふんだんに盛り込んで、ヴィジュアル面で当時の生活風景を活写しようとした有名な著作。

L. Stephen, Hours in a Library, 3 vols., 2nd ed., Smith, Elder, & Co., London 1877.
(レスリー・スティーヴン『図書館の中の時間』)
 壮大な『イギリス人名辞典』の編集者、イギリス思想の研究者、さらにメレディス『エゴイスト』中の作中人物のモデルとしても知られるスティーヴンのエッセイ集。扱われている対象は、デフォー、リチャードソン、ポープ、サミュエル・ジョンソン、フィールディングなど、18世紀の文人が中心。

Athenäum: Jahrbuch für Romantik, Ferdinad Schöningh 2002
(『アテーネウム:ロマン主義年報』)
 シュレーゲルらが1797年に初めたロマン主義の雑誌タイトルをそのまま取ったロマン主義の研究年報。創刊時から付き合っているが、今回で第11巻目。この論集の良いところは、書評にかなりの分量を割いている点。今回も全体300頁のうち、後半三分の一くらいが書評に当てられている。なかなかに食指の動く文献あり。編集者は、シュレーゲル研究者E・ベーラー、ロマン主義と現代哲学のM・フランク、ヘーリッシュなど。今回は、すでに物故したベーラーの「ニーチェとフーコーに対する初期ロマン派言語論の影響」などという論考が掲載されている。しかし、以前から感じていることだが、このベーラーという研究者は発想がかなり平板なので、ロマン主義とそれほど相性が良いとは思えない。

R. Gooding-Williams, Zarathustra's Dionysian Modernism, Stanford U. Pr. 2001.
(グッディング=ウィリアムズ『ツァラトゥストラのディオニュソス的モダニズム』)
 
ニーチェの『ツァラトゥストラ』を哲学的ノヴェルとして読み直すことを通じて、近代にとってのツァラトゥストラの意味を探る。ポープ『人間論』、ディドロ『ラモーの甥』、トーマス・マン『魔の山』などと並ぶ哲学的フィクションとして『ツァラトゥストラ』を読解する視点は、哲学と文学が分離しがちな私たちの環境からすると、最も必要な観点かもしれない。

H. Rombach, Der kommende Gott. Hermetik - eine neue Weltsicht, Rombach Wissenschaft 1991.
(ロンバハ『来るべき神 ―― ヘルメス学、新たな世界観』)
 
「構造存在論」の提唱者として知られるロンバハはその後「ヘルメス学」なるものを展開し、神話や宗教を題材として、イメージの哲学を展開しようとしている。図式的な適応に見えてしまうような議論も多く、どこまで斬新なものであるか見究めがたいところがあるが、展開の方向としては興味を引かれるところ。ただドイツの哲学者の常として、この種の問題を展開するにも、民俗学や神話学の具体的な知見をあまり導入せず、一挙に思弁に走ってしまうようなところがあるので、そうなると、折角他の領域と対話が可能な分野に足を踏み入れながら、自分でその対話を閉ざしてしまいかねない。

R. Kearney, Poetics of Imagining. Modern to Post-modern, Fordham U. Pr. 1998.
(カーニー『想像することの詩学 ―― モダンからポスト・モダンへ』)
 現代哲学の中での想像力論を整理したもの。フッサール、ハイデガー、サルトル、バシュラールといった現象学系の思想から、ラカンなども網羅しする。

D. C. Lindberg, Theories of Vision. From Al-Kindi to Kepler, U. of Chicago U. Pr. 1976.
(リンドバーク『視覚論 ―― アル・キンディーからケプラーへ』)
 中世における光と視覚の理論について少しまとまって知りたいと思っているので、その導入として入手。光学は
13世紀にアラビア自然科学がヨーロッパに導入されることによって飛躍的に発展したもの。本書ではそうした自然学系の光の理論が主題となっているが、ヨーロッパ中世には、より形而上学的な光の理論(アウグスティヌスの照明説など)が存在する。その両者の絡み合いが描き出せるとかなり面白いことにはなるのだろうが。

Nicolaus von Cues, Die Kunst der Vermutung. Auswahl aus den Schriften, besorgt und eingeleitet von Hans Blumenberg, Carl Schünemann Verlag 1957.
(クザーヌス『憶測の技術 ―― 著作抜粋(編集・序文H・ブルーメンベルク)
 
ブルーメンベルクが編集したクザーヌスの一巻ものの著作抜粋。ブルーメンベルクはこの仕事にもとづいて、『近代の正統性』の第四部で、クザーヌスとブルーノを、近代を敷居の両側に位置する思想家として対比し、詳細な分析を繰り広げることになる。かなり長いこと捜していたものをネット古書店にて無事入手。

D. P. Haney, The Challenge of Coleridge. Ethics and Interpretation in Romanticism and Modern Philosopy, The Pennsylvania U. Pr. 2001.
(ヘイニー『コールリッジの挑戦 ―― ロマン主義と近代哲学における倫理学と解釈)
 ガダマーの解釈学、レヴィナスの他者論、リクールの自我論、ヴァッティーモのニーチェ読解などに依拠しながら、コールリッジの思想を解釈するという気宇壮大な試み。ロマン主義はもっと哲学として読まれて良いと思っているので、呼び水としては歓迎すべき試みだろう。もちろん、あまりに理論的な枠組に頼りすぎてしまうと、解釈としての強引さを産んでしまうことにはなるだろうが。

清水徹『書物について ―― その形而下学と形而上学』(岩波書店 2001)
 物質としての書物がもっている意味合いを、歴史上のいくつかのポイントに即して考察した書物論。前半は、ごく普通の書物史となっており、ことさらに新味はないが、著者の専門であるマラルメ、ビュトールを論じた後半は流石に読み応えがある。それにしても、この本の帯のコピーはいただけない。本文のスタイルとあまりにも違いすぎる。書物のトータル・デザインが問題になる本書のようなものにとってはかなりの痛手のような気がするが。

フムボルト『教養への道』(全2巻、モダン日本社 昭和17年)
 原題は『或る女友達への書簡』。若い頃出会った女性と晩年になって文通を再開したもの。この往復書簡は晩年の10年間に及んでおり、自分の個人的な事柄を多く語らないフンボルトの周辺を知るには貴重な資料となっている。この邦訳は、後に原題通りに改題されて春秋社より再刊された。邦題の付け方や「フムボルト」という表記に時代を感じさせる。装幀は東郷青児。

E. G. Gilman, The Curious Perspective. Literary and Pictorial Wit in the Seventeenth Century, Yal U. Pr. 1978.
(E. G. ギルマン『奇妙な遠近法 ―― 17世紀における文学と絵画における諧謔』)
 
長いあいだ古書で捜していたが、ようやく入手。絵画における「騙し画」の意味でのパースペクティヴを、文学との境界を乗り越えながら論じた著作。具体的にはシェイクスピア、ダン、ジョージ・ハーバート、マーヴェルといった、いわゆる形而上詩人の系譜に属する作品が主題となる。

The G. B. Matthews, The Augustinian Tradition, U. of California Pr. 1999.
(マシューズ『アウグスティヌスの伝統』)
 アウグスティヌスをめぐる論文集。取り上げられている主題の幅の広さといい、バランスの良さといい、論文集としてかなりの水準を誇っている。中世への影響史として、アンセルムスやダンテとの比較、近代ではデカルト、カント、ルソー、ロック、現代ではウィトゲンシュタインといった具合で、アウグスティヌスと結びつけることを真先に思い浮かべられるような思想家はおおむね取り上げられているような趣がある。

今泉文子『ロマン主義の誕生 ―― ノヴァーリスとイェーナの前衛たち』(平凡社 1999年)
 初期ロマン派の誕生を、ノヴァーリスを中心として、人間関係の側面から描き出したもの。この書物の一番の特徴はその叙述スタイルである。実際の手紙・著作などを用いながら、それらを自由に翻案しながら、一遍の「物語」として、ノヴァーリスの周辺のシュレーゲル、ヴァッケンローダー、ティーク、シュレーゲル兄弟を取り巻く女性たちが小説風に活き活きと描き出されている。そうした叙述スタイルのため、一気に読めてしまう。そうしたスタイルを考慮して註などは一切ついていない。ただ、やはり一つ一つの引用の具体的出典の指示なども欲しかったような思える。正確を期してというよりは、著者がどのような翻案の手腕を発揮しているのかを確認するという別の楽しみのために、原典を参照できるとより楽しみが膨らんだかもしれないというないものねだりではあるのだが。

エミール・エック『模範彿和大辞典』(白水社 大正10年)
登張信一郎『新式獨和大辭典』
(大倉書店 明治45年)
 文語訳の仏和・独和辞典。例えば前者の
"lâcheté"には「懦弱、遊惰、懶惰」(普通は「怠惰」)といった訳語が並び、後者の"beängstigen"には「戦々恐々たらしむる」(普通は「脅かす」)"beanlagt"の用例の"gut beanlagter Mensch"には「天資頴邁の人」(普通は「才能のある人」)といった訳語が当てられている。古い語学辞典は、単語の意味を知るというのではなく、むしろ日本語を知るのに役だってくれる。翻訳で適当な訳語が思い浮かばずに思いあぐねたときなどは、こういうものが突破口になったりもするので、大いに助かるツールである。

K. S. Guthke, Gotthold Ephraim Lessing, Metzler 1979.
(グツケ『ゴットホルト・エフライム・レッシング』)
H. Koopmann, Friedrich Schiller I 1759-1794, Metzler 1977.
(コープマン『フリードリヒ・シラー?』)
H. Koopmann, Friedrich Schiller II 1794-1805, Metzler 1977.
(コープマン『フリードリヒ・シラー?』)
 
メッツラーが出している研究ガイドシリーズ
(Realien zur Literatur)のなかのもの。新書版でコンパクトながら、影響史や研究史の基本的情報と、基本的文献の案内が盛られていて便利なシリーズ。すでに200冊くらい出ているのはないだろうか。各冊とも版を重ねていて、そのたびに文献情報などは増補されているようだ。

L. Lipking (ed.), High Romantic Argument. Essays for M. H. Abrams, Cornell U. Pr. 1983.
(リプキング〔編〕『ロマン主義論考 ―― エイブラムズ論文集』) 
 名著『鏡とランプ』
(研究社)や『自然と超自然』(平凡社)で有名なロマン主義研究者エイブラムズをめぐる論文集。執筆者が、W・ブース、J・カラー、J・ハートマンと、豪華な顔ぶれ。巻末にはエイブラムズのBibliographyが付されていて嬉しい。

クローナー『ドイツ観念論の発展 ―― カントからヘーゲルまで』?・?(理想社 1998/2000)
 カントからヘーゲルまでのドイツ観念論を追った古典的大著(原著は1921/24年刊)の邦訳。全体が四分冊になる予定なので、その半分が公刊されたことになる。内容的には初期シェリングまで。何分にも大著なので、数名の共訳というかたちになっており、各巻の訳者も異なる。こういう形態での翻訳は往々にして遅延をきたしやすいので、残り二分冊のすみやかな完成を願わずにはいられない。それにしても、この装幀と、本文の文字種の選択は、もう少し垢抜けたものにならないものだろうか。古典的著作に相応しい、堂々とした雰囲気が欲しいところ。

『ダヴォス討論(カッシーラー対ハイデガー)(<リキエスタ>の会)
 かつてみすず書房のPR誌『みすず』に掲載されたものをオンディマンド出版のかたちで公刊したもの。内容は、スイスのダヴォスで開かれた国際会議でのハイデガーとカッシーラーの討論と、カッシーラー夫人の回想録からの抄訳。ハイデガーの『カントと形而上学の問題』に結実する新カント派批判に対して、カッシーラーが論戦を挑んだこの討論は、すでにその直後に、由良君美の父親・由良哲次が『思想』(1929)で紹介していた。本書は、カッシーラー夫人の回想の部分がなかなか面白い。彼女は後にハイデガーがフライブルク大学の学長に就任した当時について、「私には彼の激しい誠実さとまったくのユーモアの欠如が最も憂慮すべきものであった」と振りかえっている。「激しい誠実さ」と「まったくのユーモアの欠如」 ―― 確かにこの二つの結びつきは最悪である。
 この会議については、E.ベンツ「ヤーコプ・ベーメにおける言語の創造的意味」
(エラノス叢書『言葉と語り?』平凡社)にも回想があるが、ここでは若きカルナップがハイデガーの講演を茶化した模様が語られていた。

E. Auerbach, Romance Languages and Literature: Latin/French/Frovencal/Italian/Spanish, Capricon Books 1961
(アウエルバッハ『ロマンス諸語と文学』)
 
かのアウエルバッハが、イスタンブールでの亡命生活の中、トルコの学生たちのために行った講義の内容。原書はフランス語だが、入手はやや難しい。本書の英訳も、簡単なペイパー版ではあるが、いままでなかなか見つからなかったものを無事入手。

H. Frierich (Hg.), Dante Alighieri. Aufsatze zur Divina Commedia, Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1968
(フリードリヒ『ダンテ・アリギエリ ―― 『神曲』をめぐる論文集』)
 ロマン主義の哲学者シェリングのダンテ論(1803)から始まり、クローチェ、グラープマン、クルティウスなど、代表的なダンテ論をまとめた便利なアンソロジー。原文がイタリア語の論考も独訳されて収録。

新田義弘『世界と生命 ―― 媒体性の現象学へ』(青土社 2001年)
 フッサール・ハイデガーそれぞれの後期思想を十分に血肉にしたうえで展開される現象学的思索。現代の日本の哲学における最高峰の成果とも言ってもいいだろう。四六版で260頁程度なので、外見は簡単に読めてしまいそうだが、この内容の集中力は生半可なものではないので、読み通すには相当の努力を要する。何よりも、著者自身のこれまでの『現象学』
(岩波書店)や『現象学とは何か』(紀伊國屋書店)、『現象学と近代哲学』(岩波書店)、『現代哲学 ―― 現象学と解釈学』(白菁社)といった、それ自体きわめて密度の濃い著書の議論が前提とされており、本書を理解するにはとりわけ後者の二著作の繙読が不可欠になる。しかし、そうした前提を踏まえた読者にとっては、本書は文献的な煩瑣な裏づけを介さずにいきなり事柄の本質に向かっているという点で、論の見通しが得やすいものとなっている。全篇がとにかく緊張感溢れる議論で満ちている。本編の最後の一節を引用しておく。「他者経験は、その最も奥深い次元で、その非性のゆえに、<不在の現前>のゆえに、死の経験にあい通じている。だが他者経験の場合、生きられた非性であるがゆえに、生命の共感(相互触発による共振)が起きることは否定できない。これに反して死はまったく生と断絶する出来事であり、一切の存在理解の可能性を阻む<絶対的退去性>(フィンク)の出来事である。それは個体の消滅であり、個体を介して出現する世界の現象そのものの<消え>である。ここでは他者との関係もすべて死において無と化する。だがまさにここにおいてこそ、個体の個体性が成り立っている。媒体性のとしての知の作動を担う個体がまさにこの死の出来事に見舞われ、生滅する運命にあることにこそ、媒体の非性の深さが読み取られるである」。この最後の一節まで議論を追い続けた読者には、これが現代の日本語の哲学的散文の頂点であることが分かるはずである。因みに、本書本編の最後の章の註では、山下志朗『天使の記号学』(岩波書店)が共感をもって参照されている。

マッキーン『アレゴリー』(研究社:文芸批評ゼミナール14 1971年)
ポラード『諷刺』
(研究社:文芸批評ゼミナール7 1971年)
ルスベン『コンシート』
(研究社:文芸批評ゼミナール4 1971年)
 かつて研究社が出していた文芸理論の概念解説のシリーズ。それぞれに簡潔にして、コンパクトながら具体例も盛り込まれている便利なシリーズだった。とりあえずこの三冊は、バロック論を押さえるには必要な線なので捜していた。特に「アレゴリー」などは、ベンヤミン・ブームのお蔭もあって、言葉だけがすっかり先行して、やたらに「廃墟」だのの概念と結びつけられてしまうが、もう少し落ちついた議論展開が欲しいところ。このマッキーンのものなどは、そのための手頃な手引きだと思うのだが。

P. Parker, G. Harman (eds.), Shakespeare & The Question of Theory, Routledge 1993 (1st ed. 1985)
(パーカー/ハートマン『シェイクスピアと理論の問題』)
 現代の批評理論によるシェイクスピア論の論文集。全体の部立てが、「第一部:言語・修辞学・脱構築」「第二部:女性の役割」「第三部:政治・経済・歴史」「第五部:ハムレットの問題」となっているなど、その問題設定からしていかにもいまふう。新歴史学のグリーンブラットなども論考を寄せている。

『ルネサンスを彩った人びと ―― ある書籍商の残した『列伝』』岩倉具忠・岩倉翔子・天野恵訳(臨泉書店 2000年)
 ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』などでも特筆されていたルネサンス時代の書籍商ヴェスパシアーノ・ダ・ヴィスティッチの有名な『列伝』の抄訳(とは言っても500頁以上)。手写本の作成・販売を手がけ、教皇にまで及ぶ当時の著名人・大文化人と交流を持ち彼らの知的源泉となることで、ルネサンスを裏で支えた大商人ヴィスティッチ。その彼が残した、顧客についての記録である。エウゲニウス四世、フェデリコ・モンテフェルトロ、レオナルド・ブルーニ、コシモ・デ・メディチと、その「客層」は半端でない。彼が活躍したのはグーテンベルクによる活版印刷の出現の直前の時代であり、やがては時流に押されて手写本が後退するぎりぎりの頃であった。このヴィスティッチについては、例えば清水純一『ルネサンス ―― 人と思想』(平凡社 1994年)にも紹介があるが、一般的にはそれほど著名というわけにはいかないだろう。その点を考慮して、この翻訳でも長文の解説が付されていて、紹介として親切。しかし、標題や扉にヴィスティッチの名前がないというのは少し淋しい。私も見落とすところだった。ヴィスティッチの名を知っている人への配慮も少し欲しいところ。

ヘンリヒ/ペゲラー他『続・ヘーゲル読本』(法政大学出版局 1997年)
 
本書が「続」となっているのは、すでに日本人研究者たちの手になる『ヘーゲル読本』が出ているため。しかし、『ヘーゲル読本』のほうは一遍一遍の論文の割り当て枚数が少ないためどうにも物足りない。それに比べてこの『続・ヘーゲル読本』は、代表的なヘーゲル研究者の論文を分量的にたっぷりと収録しているので、充実感がある。値段的にもお買い得感あり
(定価2800円)。現在、ヘーゲルは、ヘーゲル・アルヒーフの全集の進行に連れて、その全体像を換えつつある。今となっては、うかつにヘーゲルの「体系」などと言うことを口にすることも憚られるほどである。「体系の完成者」ヘーゲルというかつてのイメージから、体系を求めながらも紆余曲折を経る「生成するヘーゲル」に焦点がずれつつあるようだ。しかし、哲学という観念の構築物の性格から考えると、あまり「生成」や成立史といった事実に拘泥すると、逆に見えなくなってしまう本質的なこともあるだろう。この辺のバランス感覚はなかなか難しいところかもしれない。

金子晴勇『ルターとドイツ神秘主義』(創文社 2000年)
 エックハルト、遡ってはアウグスティヌスに遡源する「根底」
(Grund)の思想を主題としながら、近世に至るまでの神秘思想の流れを追う。神秘思想の理解は、狭い意味での信仰だけでも、また純粋に観念的な哲学的分析だけでも不十分な領域であるため、扱うことはなかなか難しい。これは一口で「霊性」と言われる主題なのだが、この言葉自体、鈴木大拙の『日本的霊性』という有名な著作があるにしても、日本だと耳慣れない言葉に属すだろう。翻訳では『キリスト教神秘思想史』(全3巻、平凡社)も、原著タイトルは『キリスト教霊性史』(Histoire de spiritualite chretienne)だったが、「霊性史」という言葉の馴染みにくさのために、平易に『神秘思想史』などと言い換えた事情があるが、本来「思想史」と「霊性史」とは、まったく違うものである。この『ルターとドイツ神秘主義』や、最近では國府田武『ベギン運動とブラバンの霊性』(創文社)などを通じて、「霊性」という言葉が市民権を獲得し、宗教史と思想史の中間とも言える「霊性史」が認知されることを願う。

ポプキン『懐疑 ―― 近世哲学の源流』(紀伊國屋書店 1981年)
 
Yahooのオークションで入手。原書は持っているが近代の懐疑主義関係の古典なので邦訳も捜していた
(現在絶版)。古代で哲学の出発点とされた「驚き」に対して、近代では「懐疑」が占める位置が大きい。もちろん古代にも懐疑主義は存在し、デカルトの背景となったのもそうした古代のピュロン主義などの懐疑主義の近代版だが、哲学の出発点に対して持っている意味合いは大分異なっている。本書は近代初期に限定された議論だが、近代哲学の出発を動機付けた「懐疑」は、フッサールの現象学の「エポケー」にまで及んでいる。これに時代という意味での「エポック」という用法を絡み合わせるという荒業をやって見せたのがブルーメンベルクである。

J. Scott, Salvator Rosa: His Life and Times, Yale U. Pr. 1995.
(スコット『サルヴァトール・ローザ ―― 生涯とその時代』)
 
18世紀の崇高の美学の火付け役となった画家の一人、サルヴァトール・ローザの画集兼概説書。クロード・ロランなどとは大局的に、荒涼たる風景や魔女狩りの模様など、暴力と混沌を好んで描いた綺想の画家。本人は音楽家、喜劇役者など、多彩な側面をもつが、その狷介な性格は、パトロンとの関係などでかなり問題を起こしたらしい。18世紀の崇高絵画という点では、あとはユベール・ロベールの大型画集を手にいれたいと思う。

G. Böhme, H. Böhme, Feuer, Wasser, Erde, Luft. Eine Kulturgeschichte der Elemente, C. H. Beck 1996.
(G・ベーメ/H・ベーメ『火・水・土・気 ―― 諸元素の文化史)
 いわゆる四大と言われる四元素を古代から中世・ルネサンスの錬金術に至るまで通史的に追ったもの。バシュラール的な心理学的アプローチではなく、あくまでも文化史として正面から主題を扱っている。ただ、素材とされているのが、リパの『イコノロギア』や錬金術図譜など、図像的な多く取り込んでいるのが特徴。

『ニーチェ全集』生田長江訳(全12巻、日本評論社、昭和11年)
 きわめて早い時期のニーチェの個人訳全集。第12巻は全巻にわたる事項総索引になっているなど、本としての作りもなかなか良心的。このなかではやはり『ツァラトゥストラ』の文語訳が特徴的だろうか。「日に十度
(とたび)、汝は笑ひて快活ならざるべからず。しかざれば夜かの、憂悶の父なる胃腑汝をなやまさむ。……我にして我が隣人の婢に垂涎せむか。これらのこと総て皆、よき眠と相協(かな)はざるなり」といった具合。この全集については、日夏耿之介が以下のように評している。「ニイチェ全集は明治文化史上に永久の残る好い記念だ。翻訳も氏の訳案中ではあれが一番よい。もっと広く深く読まるべき古典だ」(「生田長江氏」、『輓近三代文學品題』所収)

清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(創文社)
 
日本で唯一のブルーノの本格的な研究書。創文社のものは一旦品切れになるとかなり入手が難しくなってしまう。この『ブルーノ研究』も長いあいだ気にしていて、ようやく手に入れた。同じ著者の『ルネサンスの偉大と頽廃』
(岩波新書)は、ブルーノと時代背景に重きが置かれているのに対して、この『ブルーノ研究』のほうがよりテクストに即した論述になっている。ブルーノの著作のなかで、哲学的なものだけでなく、『燈火を掲げる者』などという喜劇的作品が取り上げられているのも特徴の一つ。ただ、ブルーノにはほかにも『キッラの驢馬』や『奢れる野獣の追放』などのメニッペア的作品もあるので、そうした包括的なブルーノ像を提示するものがそろそろ望まれるところ。東信堂から始まったブルーノ著作集も第一回配本の『原因・原理・一者について』が出ただけで止まっている。なかなか後続が難しい企画かもしれない(一応全10巻、別巻2巻が予定されてはいるのだが)

岩倉具忠『ダンテ研究』(創文社)
 これも創文社で、現在入手はやや難しい。書名は『ダンテ研究』とは銘打っているが、ダンテの全体像を追うものではなく、『俗語詩論』を中心とした、ダンテの言語・文体観を主題とする。『新生』や『神曲』について作品に即した詳細な分析があるわけではない。この著者は、『俗語詩論』を翻訳・注解した立派な仕事を残してもいる
(東海大学出版会)。それにしても、イタリア関係でまとまった業績は実に限られている。ダンテ、ブルーノ以外では、個人の思想家を主題とした大きな著作では、近藤恒一『ペトラルカ研究』(創文社)があるくらいだろうか。

S. Giedion, Die Herrschaft der Mechanisierung. Ein Beitrag zur anonymen Geschichte, Europaische Verlagsanstalt 1994 (1. Aufl. 1982); Originalausgabe: Mechanization takes Command, Oxford U. Pr. 1948
(ギーディオン『機械化の支配 ―― 匿名の歴史』)
 いざ届いてみて驚いた。A4版800頁以上、図版満載の大冊だった。ここで「機械化」と言われているのは、工業機械のこと出はなく、生活を快適にするために導入されたさまざまな工夫のこと。最も言及の多いのは安楽椅子のたぐい。ちょうど多木浩二がやっているような主題なのだが、この本のオリジナルが1948年という出版年なのでさらに驚く。戦後すぐ辺りにこの種の生活の中の小さな小道具に着目して、それを一つの歴史として追おうとした感覚はかなり先端的だったのではないだろうか。

G. Hassler, Sprachtheorien der Aufklärung zur Rolle der Sprache im Erkenntnisprozess, Akademie-Verlag 1984
(ハスラー『啓蒙主義における言語論 ―― 認識過程における言語の役割』)
H. H. Christmann, Beiträge zur Geschichte der These vom Weltbild der Sprache, Verlag der Akademie der Wissenschaften und der Literatur in Mainz 1966
(クリストマン『世界像としての言語』)
 ともに啓蒙主義時代(とりわけフンボルト)の「世界観としての言語」という思想を追跡した研究書。前者のほうが包括的な概論で、最終的な到達点は同じくフンボルトだが、その前段階として、ヴィーコ、ランベルト、ハリスなどについての言及も多い。しばらく捜していたが、ネット上の古書店で入手。

D. C. Allen, Mysteriously Meant. The Rediscovery of Pagan Symbolism and Allegorical Interpretation in the Renaissance, John Hopkins U. Pr. 1970
(アレン『神秘的象徴 ―― ルネサンスにおける異教の象徴主義と寓意的解釈』)
 
ルネサンスにおける古代の象徴・寓意表現を追った基本的研究書。ギリシア・ラテンの象徴と新約・旧約聖書が、後の文学・美術表現に大きな影響を与えているのは当然だが、ここにはさらにエジプトの表象などが絡んでくる。ヨーロッパにおけるエジプトというのも、古代のヘルメス・トリスメギストス崇拝から始まって、ナポレオン時代における再発見に至るまで、その象徴的意味はかなり複雑な様相を呈しており、さらに最近のオリエンタリズムの議論などを考え併せると、その意味の広がりは相当なものがある。本書でもエジプトの象徴に一章が割かれている。

スタール夫人『ドイツ論? ―― ドイツ概観』(鳥影社)
 
フランス革命期のサロンの女主人として名高いスタール夫人のあまりにも有名な『ドイツ論』が日本語で読めるようになりつつある。表面的な比較論に終わらないその行論は興味深い見解を多数含んでいる。フランス人ではあるが、ドイツ語にも通じていたため、言語についても面白いことを言っている。「ドイツ語は……すべてを言いたいときには非常に役立つ言語である。しかしどんどん出てくる多種多様の主題をこなす場合フランス語のようにいかない」。「話し合いが日常的な関心事の範囲を越えて思想の領域に入るや否や、ドイツでの会話は形而上学的になりすぎる。俗なものと崇高なものとの間の中間地帯がない。ところが話術が効果を発揮するのは、まさにこの中間地帯なのである」。なかなか穿っていて、思い当たる節が多い。
 この翻訳第一巻は、巻末にそこそこ詳しい訳註があるが、解説・あとがきの類は一切ない。完結する巻に付されるのだろうか。それにしても、この本の体裁はあまりに慎ましい。いたずらに声高でないのは良いのだが、それにしても、帯などの文言などでもう少しこの原著自体が持っている歴史的意味などを謳っておかないと、折角翻訳が出てもその重要さに気づかれない可能性がある。やはり重要な書物は、たとえ翻訳でもそれなりの「姿」をもって世に出てほしい。

Ch. S. Singleton, Journey to Beatrice, John Hopkins U. Pr. 1977
(シングルトン『ベアトリーチェへの旅』)
Ch. S. Singleton, An Essay on the Vita Nuova, John Hopkins U. Pr. 1977
(シングルトン『<新生>論』)
 
ともにシングルトンによるダンテ研究の古典。前者の『ベアトリーチェの旅』は、元来『ダンテ研究?』として公刊されたもの。『ダンテ研究?』も『神曲の構造の研究』として再刊されているが、これは未入手。「もしベアトリーチェが奇跡でなかったとしたら、ダンテの身に生じたことは、起こることがなかっただろう」という一文で始まる『新生』論のほうは、『新生』の中の数字9の象徴を追って行くもの。その議論は、ハリスン『ベアトリーチェの身体』
(法政大学出版局)でも紹介されている。

H. Blumenberg, Löwen, Suhrkamp 2001
(ブルーメンベルク『獅子』)

 ブルーメンベルクはまだ歿後も「新刊」が出続けている。これも遺稿を編集して公刊されたもの。「ライオン」のメタファーを文学・哲学の両面にわたって追う小著。邦訳のある『難破船』
(哲学書房)と同じく、ブルーメンベルク特有の「メタフォロロギー」の実践である。

A. W. Schlegel, Kritische Schriften und Briefe, Bd. 1: Sprache und Poetik, Stuttgart 1962; Bd. 2: Die Kunstlehre, Stuttgart 1963
(シュレーゲル『批判的著作と書簡』第1巻「言語と詩学」、第2巻「芸術論」)
 シュレーゲル(兄)の理論的な論文はこの二冊でおおむねまかなえるので便利な論集。現在入手不能だが、フライブルクの古書店にて。

ブルーメンベルク『近代の正統性』?(法政大学出版局 2001年)
 全三分冊のうちの第二巻。「理論的好奇心」という、『近代の正統性』の中で最も有名な議論が本書に当たる。おそらくは、この邦訳が出たあとは、ハイデガー『存在と時間』の「好奇心」とこの「理論的好奇心」を並べるような議論も出てくることだろう。本当はもっと早く指摘されて良いことなのだが。すでに邦訳の出ている第一巻よりも、議論自体の大筋が掴みやすいので、もしかしたらこの巻から読み始めるのが、『近代の正統性』攻略法としてはお薦めかもしれない。ペトラルカによる風景の発見など、おなじみの主題も散見するので、議論を追うにも手掛かりが見つけやすいとも言えるだろう。

W. Muensterberger, Sammeln. Eine unbändige Leidenschaft, Suhrkamp 1999
(ミュンスターベルガー『蒐集 ―― 御しがたき情熱』)
 「好奇心」という点では、役にも立たないものをひたすら蒐める「蒐集」はその最たるものだろう。ブルーメンベルクの「理論的好奇心」の議論には、こういった観点のものも繋げてみたい。さらに欲を言えば、17世紀にあって、蒐集を限りなく学に接近させ、科学革命などとも接点を持つペイレスクなどにも一言あってほしいが、いまのところ、邦文でコレクションの文脈のなかでペイレスクに触れたものを知らない。


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