蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ

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<6月>

『ボルヘスの「神曲」講義』(国書刊行会:ボルヘス・コレクション)
 本文は100頁弱なので、簡単に読めてしまう。同じボルヘス・コレクションの『イギリス文学講義』などに比べると、はるかにボルヘス色がよく出ている。本書終わりの「ベアトリーチェの最後の微笑」はなかなか感動的だし、「ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち」でのベーダ・ウェネラビリス『イギリス教会史』との対比なども面白い。『神曲』は、最終的には天国に至る旅である以上、その地獄行きも危険のないものとみなす見解に対して、作者としてのダンテと登場人物のダンテとを明確に区別し、『神曲』という「テクスト」を作り出す旅を敢行する作者ダンテの危険を強調しているのもボルヘスらしいところかもしれない。さらに、本書の造本上の特色は、ブレイクの挿絵8葉がカラーで入っていること。この色合いが実に良い。ブレイクのものはあまりに発色が良すぎると、元の水彩の風合いを消して、妙に漫画のようになってしまうが、本書での挿絵は、水彩の淡い色彩を再現して美しい。訳註も丁寧。

ディドロ『逆説・俳優について』(小場瀬卓三訳・未来社〔てすぴす叢書〕)
 八雲書店のディドロ著作集に収められていたものを、関連する小品(ディドロ以外のもの)と抱き合わせて小冊にしたもの。


<5月>

パノフスキー『墓の彫刻』 (哲学書房)
 定価の半額以下で。図像学のパノフスキーによる大冊。図版が全体の半分以上を占めて、その写真の一点一点もかなり判が大きく贅沢な作り。それにしても定価の\19,000は高い。半額以下の\7,000で手に入ったというのはゾッキに流れたからだろうか。以前の『デューラー』
(日貿出版)も定価\7,500で、当時としてはかなり高かったが、やはりゾッキで\2,000で買った覚えがある。『デューラー』の場合は、大量の図版を付した形態は、なかばデューラーの画集のようなものとして受け取ることもできたので、あれはあれで悪くなかったが、この『墓の彫刻』などは、主題もかなり特殊なので、もう少し図版を整理してコンパクトな形で出したほうが良かったのではないかとも思う。この定価で、この主題では、なかなか買い手がいないだろうということは目に見えているのだから。

レェート『弁証法の哲学』(以文社)
 「弁証法」
Dialektikという語は厄介な言葉である。中世でのdialecticaは、弁証論としてほぼ哲学と同じ意味で使われることが多かったし、近世に入ってもカントはその意味合いを引き継いだ仕方で「超越論的弁証論」を展開している。その意味では、われわれに馴染みの「弁証法」が姿を現すのはやはりヘーゲルにおいてだが、本書はそうした経緯を近世から現代まで辿ってみせる。考えてみると、アドルノ/ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』なども、果たして「弁証法」という訳で良いのかどうか。理性が本質的に孕む誤謬の陥穽ということならば、むしろカント的な「弁証論」に近いとも言えるだろう。さらにアドルノの場合は、「否定弁証法」なるものが絡んでくるから事情はますます複雑である。

レーヴィット『近世哲学の世界概念』(未來社)
 ナチス時代には日本で教鞭を執っていたという縁もあり、一時期レーヴィットのものはずいぶんと翻訳が出ていた。「世界」というのはレーヴィットにとってはキーワードに当たる。ニーチェを解釈するにもレーヴィットの場合は、世界概念に力点が置かれる。レーヴィット以降では、現象学のフィンクがそうした系統の問題意識をさらに展開している。

グラープマン『聖トマス・アクィナスの文化哲學』(中央出版〔エンデルレ書店〕昭和19年)
 中世哲学研究の泰斗グラープマンの小著の翻訳。グラープマン自身のものはもう少し翻訳があっても良いように思えるが、意外と翻訳が進んでいない。この小著の翻訳、奥付を見ると発行部数が3,000部となっている。今の出版状況を考えるとこれは少し驚かされる数字だろう。現在だとこの手の主題だと1,500部でも難しいだろう。せいぜい700部、それも何かの補助金でもついてようやく出版に漕ぎ着けるというようなものではないかと思う。別にトマスのものを読まないと文化的ではないとは言わないし、思想状況にも流行り廃りがあるのは確かだが、果たしてわれわれの文化度というのはその当時より上がっているのか下がっているのか、少し考えさせられてしまう。

Karl S. Guthke, Der Mythos der Neuzeit. Das Thema der Mehrheit der Welten in der Literatur- und Geistesgeschichte von der kopernikanischen Wende bis zur Science Fiction, Francke 1983
(グトゥケ『近代の神話 ―― 文学史・精神史における複数世界の主題:コペルニクスからSFまで』)
 「複数世界」をめぐる言説を論じた刺激的な研究書。主題そのものは古代にも見られるが、本格的に展開されたのはコペルニクスの周辺、クザーヌスやブルーノ辺りだろう。フォントネルやジョン・ウィルキンズ、ゴドウィンといった異世界旅行譚の著者を含み、最後はH.G.ウェルズまで。とかく「人間中心主義」や「主体性」が前景に押し出されがちな18世紀において、複数世界論とは、反・人間中心主義であり、その意味では18世紀版脱構築というような側面さえももっている。ところでこのGuthkeという著者は、レッシングハウプトマンについての単著、『シラーの演劇』という研究書を出しているようだが、ドイツ文学研究者としての評価を寡聞にして知らない。つい最近、
Der Blick in die Fremde. Das Ich und das andere in der Literatur(『他者への眼差し ―― 文学における自我と他なるもの』)という、いかにも今風のタイトルで450頁もの大著を出している。

斉藤渉『フンボルトの言語研究 ―― 有機体としての言語』(京都大学出版会 2001年)
 フンボルトについては亀山健吉『フンボルト』
(中公新書)以来のまとまった紹介ということになるだろうか。亀山健吉『フンボルト』は、シラーを始めとする同時代人との交わりを通してフンボルトの全体像を描く名著であったが、この『フンボルトの言語研究』は、学位論文をそのまま出版したもので、主題もかなり限定されている。同時代の言語起源論などとの関係を踏まえながら、フンボルトの言語論を図解しながら明確化しているという点で、学位論文としては手堅い仕上りだろう。しかし一般読者としてこの書物に接すると、かなり物足りなさを感じるのは事実である。まずは、この論考の全体の狙いが、フンボルトの言語思想の歴史的位置づけにあるのか、言語論としての原理的な解明にあるのかが判然としない。本書の前半では、ハーマン、ヘルダー、カントとの対比など、歴史的なアプローチがなされるが、後半になると、フッサール現象学を(さしたる理論的考察なしに)導入して、フンボルト自身は使っていない「外部地平・内部地平」などという用語で議論が展開されていく。
 こうしたスタンスのため当然のことではあるが、本書ではフンボルトの言語論がもっている現代との対立関係がまったく意識されていない。本書の議論を読んでいると、フンボルトの言語理解が現代でもそのまま通用するかのような錯覚さえ抱いてしまう。しかし少し考えれば分かるように、たとえチョムスキーによるフンボルト擁護などがあるにしても、現代言語学はフンボルトに対してけっして好意的ではないし、そもそも言語哲学的アプローチというもの自体が、現代の実証的言語学にとっては傍流にすぎないのである。そうした現状から、あらためてフンボルトを(アナクロニズムを自覚しながら)取り上げるといったような論の緊張感は、本書においては望むべくもない。
 また「有機体としての言語」という主題そのものにしても、現代では、そこに言語に関するある種の実体化を見て、これを忌避する傾向すら認められるだろう。「有機体としての言語」という思想を、国民国家誕生と並列する「国語」の成立という一つのイデオロギーを支えるものと捉える酒井直樹『死産される日本語・日本人』
(新曜社)の議論を例として思い出しても良いだろう。もとよりそうした問題関心は本書では言及されることはない。もちろんこれは、あくまでもスタンスの違いであって、このことをもって本書の価値そのものを云々するつもりは毛頭ない。フンボルトの言語理解そのものについては、有益な指摘も数多くなされている。したがって、非難の意味ではなく、本書は良くも悪しくも学位論文であって、それ以上でもそれ以下でもないと言うことができるだろう。ないものねだりをするつもりはない。「フンボルト研究」の専門書としての価値は別として、私は本書のようなものを「人文書」とは呼ばない、ただそれだけのことである。
 これに対して、たとえばトラバントの一連のフンボルト論(『アペリオテス ―― 東風』、
『フンボルトの伝統』〔ともに未邦訳〕)は「人文書」と呼ぶにふさわしいだけの、問題の現代的広がりをもっている。とりわけ『アペリオテス』は、フンボルトの言語哲学の時代錯誤的な性格を意識的に引き受け、失われてしまったがゆえに現代においてこそ復興するに足る地下水脈として、フンボルトの言語感覚を鮮やかに描き出している(近々平凡社より邦訳公刊の予定〔邦訳名未定〕)

Historische Wörterbuch der Rhetorik, Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2001.
(『修辞学:歴史的用語事典』)
 ドイツで進行中の大規模な修辞学事典の第五巻。各冊が四折版で1500頁以上という大冊なので、お値段の方もかなりなもの(出版社直送で\20,000を超えるので、国内だと\30,000-35,000といったところか)。今回の第五巻でようやくL - Musi の項目。本巻には、Leser(読者)、Lesen(読解)、Lexikographie(辞書編纂)、ミメーシス、マニエリスム、メタファーといった重要項目が目白押し。年間一冊くらいのペースでは出ているようだが、それでも完結にはあと4、5年はかかるだろう。

シモンヅ『ダンテ』(橘忠衛譯、櫻井書店 昭和21年)
 大冊で翻訳の良し悪しがよく分からなかったので遠慮していたが、安く転がっていたので入手。改めて見てみると、原典はダンテ入門の古典とされるだけあって、さすがに堂々たるもの。ダンテに関してはなかなか全体像を見渡す良い和書が得がたいので、もしかするとこの翻訳辺りは、案外いまだに有効なのかもしれない。

立川健二『<力>の思想家ソシュール』(水声社)
 丸山圭三郎以降のソシュールとして気になっていたものをようやく入手。この著者の共著『現代言語論』
(新曜社)もコンパクトながら、随所に目を瞠かせるような見解が鏤められていたが、このソシュール論は、本格的にソシュールを読解しようとしているものだけにさらに期待がもてる。

U. Ricken, Sprache, Anthropologie, Philosophie in der französischen Aufklärung. Ein Beitrag zur Geschichte des Verhältnisses von Sprachtheorie und Weltanschauung, Akademie-Verlag 1984.
(リッケン『フランス啓蒙主義における言語・人間学・哲学 ―― 言語理論と世界観との関係の歴史』)
 18世紀の言語思想というとどうしてもドイツ人文主義系のものに傾きがちだが、そういた系統の最高峰に位置するフンボルトでさえ、若い頃にフランス言語思想の洗礼を受けているように、フランス啓蒙主義もまた独自の言語論をもっている。ポール=ロワイヤルに由来する記号論の伝統である。そうした伝統が概観できる貴重な研究書。

N. Bryson (ed.), Calligram. Essays in New Art History from France, Cambridge U. Pr. 1988.
(ブライソン編『カリグラム ―― フランス新美術史論文集』) 
 新美術史は、従来の美術史と哲学の中間のような性格をもっているが、そうした方向にとって大きな役割を果たした論文を蒐めたアンソロジー。フーコーは「『侍女たち』」
(要するに『言葉と物』の冒頭部分)。クリステヴァの「ジヨット」やミシェル・セールの「ターナーがカルノーを翻訳する」、その他、ムカジョフスキー、ボードリヤール、ロラン・バルトなど。このクリステヴァ「ジヨットの喜び」はかつて、『IS(ポーラ文化研究所)の増刊号、特集「色」に翻訳があった。セールのものは『ヘルメス� 翻訳』(法政大学出版局)に入っている。そのように、細かく捜すと翻訳や紹介がある有名な論文ばかりなのだが、新美術史という観点で一冊になっているのがいい。それにしても、本書に取られている著者はほとんどが哲学畑の人だというのも面白い、というか羨ましい。

J. Koch (Hg.), Humanismus, Mystik und Kunst in der Welt des Mittelalters, E. J. Brill 1959.
(コッホ編『中世世界における人文主義、神秘思想、芸術』)
Th. van Velthoven, Gottesschau und menschliche Kreativität. Studien zur Erkenntnislehre des Nikolaus von Kues, E. J. Brill 1977.
(フェルトホーフェン『神の直視と人間の創造性 ―― ニコラウス・クザーヌスの認識論の研究』)
 前者はヴィルペルトの書いた有名なクザーヌス論「ニコラウス・クザーヌスの哲学における<対立物の一致>の問題」が収録されているので入手。結構昔の論文集を古書で買ったのに、届いてみたら、一頁も頁が切ってなかった。後者もクザーヌス論のなかでは有名なもの。大きく二部に分かれていて、第一部が「知の力と無力」、第二部が「数えることと語ること」。クザーヌスの逆説に盈ちた思考の中では数学によるパラドクスと言語的パラドクスが大きな位置を占めているので、その辺を理解するには有益な手掛かりになりそう。

K.-H. Voklmann-Schluck, Von der Wahrheit der Dichtung, Känigshausen und Neumann 1984.
(フォルクマン=シュルック『詩作の真理について』)
 哲学研究者である著者が、『ハムレット』からカフカにいたるまで、文学・芸術を論じたエセーを蒐めたもの。「芸術と人間 ―― シラーの美的教育についての書簡」、「ノヴァーリスの魔術的観念論」、「ニーベルンクの指環 ―― 意識の危機」など。『ニーベルンクの指環』の解釈は多少図式的な印象も受けるが、ノヴァーリス論などは、フィヒテやカントとの関係を論じてなかなかに本格的。日本の外国文学研究はひたすら実証的になるか、一挙に実存的になるかという極端に走るような気味があって、なかなかこうした議論が十分に展開しずらい恨みがあるような気がする。文学を思考の事柄として捉える感性はなかなか根づきにくいのだろうか。


<4月>

G. Vattimo, Belief, Stanford U. Pr. 1999.
(ヴァッティーモ『信仰』)
 ニーチェ・ハイデガーの路線でポスト・モダン的な解釈学を代表するイタリアのヴァッティーモが、いきなり「信仰」を主題にしているので驚かされる。開巻早々に、本書は「失われた時(temps)を求めて」ならぬ「失われた神殿(temple)を求めて」だなどと言われている。主に主題となっているのはケノーシス
(神性離脱)である。この主題の内に、特定の宗教の神(道徳的・形而上学的神)とは異なった、開かれた超越性を見て行くのが狙いのようだ。最近は、哲学の中に神学の用語や着想を導入する傾向が比較的多く見受けられるようになってきた。

後藤末雄『中国思想のフランス西漸 1・2』(平凡社 1969年)
 初版は昭和8年に第一書房から公刊されている
(『支那思想のフランス西漸』)。近代ヨーロッパ(17・18世紀)の中国表象を文献的に追った古典的著作。サイード『オリエンタリズム』などと平行する問題だが、もちろん本書のほうは、それほど理論的な背景を徹底して詰めているわけではない。しかし、この種の問題を扱った邦語著作という点では、いまだに最重要文献なのではないだろうか。この本の初版を出した第一書房の長谷川巳之吉は、前年(昭和7年)に出した茅野簫々の『ゲヨエテ研究』ともども、この後藤末雄の大冊にかなりの自信をもっていたらしい。因みに、『ゲヨエテ研究』を私は昭和8年の「学生版」というものでもっているが、いまだったらこの手の硬い研究書を異なった版で二つ出すなど考えられないだろう。

『ドイツ神秘思想』〔中世思想原典集成 16〕(平凡社 2001年)
 1000頁を越す超弩級の大冊。しかしこれは、この一冊でドイツ神秘思想を概観することを狙ったものというよりは、すでにかなりの数の日本語訳の出ている状況を鑑みて、その補いをすることに主眼が置かれている。当然、エックハルトなどの著作が多く収録されているが、これも有名なドイツ語著作ではなく、
(『高貴なる人間について』を除いて)すべてラテン語著作の翻訳である。エックハルトのラテン語著作の重要性が認識されてすでに久しいので、この判断は的確だろう。そのため、『離脱について』などの著名著作は『キリスト教神秘主義著作集』(教文館)などに求める必要がある。すでにある程度ドイツ神秘思想に親しんでいる読者には従来の翻訳の欠を埋めるものであり、願ってもない贈物である。本書にはメヒトヒルトなど、ドイツの女性神秘家の著作は含まれていないが、この『中世思想原典集成』では、さらにこのあと『女性の神秘家』の巻が予定されているので、そこでノーリッジのジュリアンなどとともにドイツの女性神秘家も取り上げられる予定になっている。

M. Handeck, Welt und Zeit. Hans Blumenbergs Philosophie zwischen Schöpfungs- und Erlösungslehre, Echter Verlag 2000.
(ハンデック『世界と時間:創造論と救済論の間 ―― ハンス・ブルーメンベルクの哲学』)
 ここのところ相継ぐブルーメンベルク関係の研究書の一冊で、400頁を超える大著。ブルーメンベルク関係はようやく入門書や概括的な論述を超えた本格的な研究書が出始めたところだが、そのなかでもこれはとりわけ内容的に踏み込んでいるようで期待がもてる。グノーシス問題でヨナスとの関連が取り上げられ、『近代の正統性』のなかでも、通常はあまり取り上げられないクザーヌス論に多くの紙幅が割かれるなど、構成の上からも、踏み込んだ議論を展開しようという構えが読み取れる。
Bonner Dogmatische Studien(ボン神学研究叢書)の一冊として公刊されているように、ブルーメンベルクは哲学の側よりは神学の側からのほうがアプローチしやすい側面もあるかもしれない。古代・中世・近代という垣根を作ってその枠の中で安閑としているような哲学研究者には、所詮手の出せない相手なのだ。

H. Jackson, Anatomy of Bibliomania, Avenel Books 1981.
(ジャクソン『愛書家の解剖』)
二冊本の初版はかなり高くなっているので、合本となった後のエディションで入手。世紀末文学・芸術の古典的著作『1890年代』(邦訳『世紀末イギリスの芸術と思想』松柏社)の著者にして、バートン『憂鬱の解剖』の編者だけあって、「解剖」のジャンルへの精通ぶりは信頼が置ける。ジャクソンは序文で、「バートンを踏まえているからといって、諷刺や駄文や戯作、揶揄や、面白可笑しく突拍子もない読み物を期待されてはいけないので言っておくと、本書の意図はあくまでも真摯なものである」などと書いているが、どこまで信用して良いのやら。その証拠に、バートン流にしっかりと「逸脱」Digressionという「章」までもがある。

ディルタイ『18世紀の大音樂』(河出書房 1947年)
 ディルタイの『ドイツ文学と音楽』の「18世紀音楽」の部分と「クロプシュトック論」を合わせて一冊とした翻訳。ディルタイは戦前から戦後に掛けて良く紹介されており、創元社から著作集も企画されたが一巻を出したのみで立ち消えになってしまったはず。法政大学出版局から出る予定の大規模な著作集でようやくその実像が紹介されることになるのだろう。

O. Mandelstam, Gespräch über Dante, russisch und deutsch, Gustav Kiepenheuer Verlag 1984.
(マンデリシュターム『ダンテについての対話』)
 この著者のことについては、ロシア産まれのモダニズムの詩人ということ以外、まったく知らない。ただ、G.スタイナーが『言葉への情熱』(法政大学出版局)の「普通でない読者」の最後で、理想の「創造的読書」として、ハイデガーのソフォクレス論と並んで、「マンデリシュタームのダンテ論」が挙げられていたので興味を持って入手。果たしてスタイナーが言っているのが、手に入れたこの本のことなのかどうかも自信がないのだが。本書は見開きでロシア語とドイツ語の対訳になっている。ロシア語は皆目分からないが、こういうかたちで出版されているほどだから、十分にその価値が評価されている著作なのだろう。

J.-P. Lange, Theoretiker des literarischen Manierismus, Fink 1968.
(ランゲ『文学的マニエリスムの理論家たち』)
 フィンク社の「人文主義叢書」(
Humanistische Bibliothek)の一冊で、編集者がかのエルネスト・グラッシ!ここで取り上げられるマニエリスムの理論家とは、具体的にはグラシアン、ペレグリーニ、テサウロ。これでようやくテサウロの『アリストテレスの望遠鏡』の内容をかなり具体的に知ることができそう。グラッシが産婆役を務めたホッケの『文学におけるマニエリスム』のほぼ十年後に、同じくグラッシによって世に送り出された本書、期待するなというほうが無理というものだろう。

W. Iser, The Fictive and the Imaginary: Charting Literary Anthropology, The John Hopkins U. Pr. 1993.
(イーザー『虚構と想像 ―― 文学的人間学の諸相』)
 イーザーのものは英語圏でも反応がいいらしく、1991年にドイツ語原著が出て、二年後には英訳されていることになる。ファイヒンガーやネルソン・グッドマンらを用いながら、文学作品の「虚構」としてのありようを浮き彫りにする。イーザーはコロキウム「詩学と解釈学」の常連でもあり、このコロキウムでもフィクションをめぐる大会があった。本書のドイツ語原典はすでにもっているが、この英訳は100円だったので思わず入手。

三木清編『新編 現代哲學辭典』(日本評論社 1941年)
 大項目主義の哲学辞典。三木清の執筆分は全集で知っていたが、こうして全体を改めて見直すとかなり充実した辞典だったことがわかる。大項目ということもあって、一点一点が比較的読み応えがある。時局柄、イタリア哲学なども詳しい。とりわけ当時は、哲学的解釈学などが、三木の留学などを通じて最先端の学問として紹介されていたため、「解釈学」
(樺俊夫)や「言語学」(泉井久之助)、「哲学史」(三木清)の項目などは、現代のどの哲学辞典よりも充実しているほど。

J. Ortega y Gasset, Der Prinzipbegriff bei Leibniz und die Entwicklung der Deduktionstheorie, G. Müller Verlag 1966
(オルテガ『ライプニッツにおける原理の概念と演繹理論の発展』)
 
オルテガによるライプニッツ論。オルテガには、ライプニッツに絡めてパースペクティヴ論があるのだが、本書はそれとは別。イタリア語は最近少しだけ分るようになってきたが、スペイン語は文字通り目に一丁字もないので、やむなく独訳で。前記のパースペクティヴ論もそうだが、これなども白水社の『オルテガ著作集』に収録されていない。白水社のあの類の著作集は、原典を大量に提供した意味は大きいが、ジンメルにしても、このオルテガにしても、もう一度新しい企画での全集なり選集が必要な著者だろう。

W. H. Coates, H. V. White, J. S. Shapiro, The Emergence of Liberal Humanism: an intellectual history of Western Europe. Volume 1: from the Italian Renaissance to the French Revolution, McGraw-Hill Book Company 1966
(コーツ/ホワイト/シャピロ『自由学芸による人文主義の誕生 ―― 西欧の知性の歴史』)
 
14世紀末期から18世紀まで、いわゆる「近代」が成立する時代を、人文主義的学知という観点から考察した論著。シャピロの提案に二人が乗って、実質上の共著というかたちを取って成立したもの。そのため、執筆分担などは取りたて明記されてはいない。18世紀の部分は、『自由の科学』のピーター・ゲイが校閲をした模様。

R. E. Prior, J. Wohlberg, 501 Latin Verbs fully conjugated in all the tenses, Barron's 1995
(プライオー/ウォールバーク『ラテン語動詞501 全時制の変化形』)
 純粋に実用書。ラテン語の動詞のすべてのテンスの変化表を纏めただけの一覧表(それでも、単語一つにつき一頁相当なので、全体は500頁を越す)。ラテン語は、やはりいろいろと面倒な事情があるので、こういった便利な準・辞典のようなものもいまだに新しく編まれている。ラテン語の動詞に悩まされている私のようなラテン語弱者にはありがたい助っ人。


<3月>

西村晧・牧野英二・舟山俊明〔編〕『ディルタイと現代 ―― 歴史的理性批判の射程』(法政大学出版局 2001年)
 
法政大学出版局で出版が企画されているディルタイ著作集に先駆けて、その露払いとして出されたガイドブック。30人以上の著者が文章を寄せているのだが、論文集という体裁を取らずに、一貫した章立ての下に全体が構成されている。かなり企画がしっかりしていないと成立しにくいやり方であるが、そこそこ上手く整った仕上げになっている模様。もちろん、これだけ多くの著者がいると流石に完全に破綻がないというわけにもいかない。構成的にとりわけ問題なのが、「ファクシミリと体験/理解」という論考の位置づけで、これだけは全体の構成からすると浮いてしまっている。美術史家ヴェルフリンが自分自身の著作に写真図版を入れなかったということをめぐっての議論で、ディルタイとの関係も弱いのだが、この文章自体は内容的に実に面白い。もしかしたら、読み物としてはこの本のなかで一番かもしれない。
 それはともかく、本書はディルタイの全体像を見渡すためにはかなり手頃な一冊となっている。安直な論文集が続々と出てしまうなか、堅実な企画で全体を組みたてているのは立派。伝記・書誌的な基本的データから文献リストと、インフラ面での配慮もなかなかのもの。ディルタイの基本図書としていつまでも凡庸なボルノウのものが居座っているのは釈然としないので、丁度良い案内書だろう。請合っても良いが、解釈学がボルノーなどを頼りにしているようでは、せいぜいのところ、どっちつかずの「寛容」を美徳とする程度の長所しか持ちえないだろう。

佐山栄太郎『17世紀中葉の詩人 ―― マーヴェルとカウリー』(研究社 1956年)
 研究社新書は全体がかなり高くなってしまって、これなどもなかなか手頃な値段でなかったのだが、あっさりと200円で入手。著者の佐山栄太郎は、この時期、最も精力的に形而上詩を紹介していた人物。マーヴェルに関しては、これ以降では、川崎寿彦『マーヴェルの庭』
(研究社)という名著がある。

加藤龍太郎『コウルリジの言語哲学』(荒竹出版 1981年)
 
ドイツのシュレーゲルもそうだが、ロマン主義の詩人・文学者たちは同時に相当な思弁的知性の持ち主であることが多い。このコールリッジなどはイギリスでのその種の知性の代表格だろう。『文学評伝』(法政大学出版局)などは、評論でありながら、それ自体17世紀的な「解剖」(anatomia)の伝統に棹差す奇書と言ってもいいくらい。シュレーゲルも晩年は言語哲学を展開しているように、むしろ正統的な哲学の中では主題になりにくかった問題を、彼らが集中して取り上げているような節がある。
 因みに、私が入手した『コウルリジの言語哲学』には、ペイターの翻訳者で名高い工藤好美宛ての献辞があった。

菊池武一『ディ・クィンシー』(研究社 1934年)
福原麟太郎『グレイ』
(研究社 1935年)
李歇河『ランドー』
(研究社 1937年)
 すべて研究社英米文學評傳叢書。このシリーズは、いまでもまだ他に情報の少ない著者について有益な案内になる。『空想の対話』で名高いランドーなど、いま他に読める評伝があるのだろうか。

K. Peter, Friedrich Schlegels Ästhetischer Intellektualismus. Studien über die pradoxe Einhiet von Philosophie und Kunst in den Jahren vor 1800, (diss.) Frankfurt a.M.
(ペーター『フリードリヒ・シュレーゲルの美的知性論 ―― 1800年以前の哲学と芸術の逆説的統一に関する研究』)
 
ドイツ・ロマン派研究で有名になったクラウス・ペーターの学位論文なので、それらしくタイトルは矢鱈に長い。学位論文はなかなか入手が難しいが、たまにはネット洋古書店にも転がっていたりする。対象となっているのは、ドイツ・ロマン派という文学運動の主導者でありながら、文学作品と言えるものは小説『ルツィンデ』くらいしか書かずに、ひたすら理論に没頭して行ったシュレーゲル(弟)。この論文の各章の表題を拾うと、シュレーゲルはわれわれの同時代人なのかと思えてくる。「イロニー」「自己反省」「関心」「アレゴリー」「断片」「愛」「神話」。まるでベンヤミンである。ドイツ観念論が抱えていた問題を、より先鋭なかたちで表現しているような趣もある。ドイツ観念論イコール体系という古臭い感覚に囚われなければ、ここに挙げられたキーワードでシェリングを読み解くくらいは訳のないことだろう。
 この論文で扱われているのは1800年までのシュレーゲルだが、後年のシュレーゲルは、歴史哲学や言語哲学をめぐって集中的に講義を行っている。いまになってわざわざ大騒ぎをするまでもなく、ディコンストラクションの問題などは、ここではとっくに取り上げられている。現代的な意味での蘇生が有望な著者の一人だろう。

C. Brauers, Perspektiven des Unendlichen. Friedrich Schlegels ästhetische Vermittlungstheorie, Erich Schmidt Verlag 1995.
(ブラウアース『無限なるものの多様な遠近法 ―― フリードリヒ・シュレーゲルの美的媒介の理論』)
 同時に注文したシュレーゲル文献。上述のペーターが、シュレーゲルを現代に接合するものだとすると、こちらのほうはむしろ超越思考の強い中世に繋がりそうな論点で攻めている。だいたい、『無限なるものの多様な遠近法』という標題自体、クザーヌスの研究書のタイトルとしても可笑しくない。実際、その逆説的な思考形態といい、無限をめぐる遠近法主義的思想といい、シュレーゲルは近代版クザーヌスと言えるような側面を多分にもっているように思える。この両者が、凡百の浅薄な「遠近法主義」と一線を画する点は、何よりもその「無限性」の理解の内に求めることができるだろう。

P. N. Miller, Peiresc's Europe. Learning and Virtue in the Seventeenth Century, Yale U. Pr. 2000
(ミラー『ペイレスクのヨーロッパ ―― 17世紀における学知と美徳』)
 二月の最初の『みすず』の読者アンケートで見つけて注文したものが到着。骨董を学問にしてしまったペイレスクをめぐる心浮き立つ研究書。同時代のガッサンディが彼についての伝記を書いていて、本書でもそれが典拠の一つになっている。それにしても、ガリレイ、ハーヴェイ、ルーベンスと、さまざまな同時代人との接点を持つペイレスクは、時代の精神的状況を描くにはうってつけの人物かもしれない。久しぶりに大いに期待がもてる新刊。

R. Stadelmann, Vom Geist des ausgehenden Mittelalters, Fr. Frommann Verlga 1966 (1. Aufl 1929)
(シュターデルマン『中世末期の精神』)
 過去の研究書のなかでも古典的なものを復刊したシリーズの一冊。同じシリーズには、マーンケ『無限の宇宙と中心の遍在』(D. Mahnke, Unendliche Sphäre und Allmittelpunket, 1. Aufl., 1937)がある。本書のシュターデルマンは、中世末期から近世初頭に掛けてのメンタリティの変遷を追ったもの。各章の主題は、「懐疑」「断念」「解放」「ペシミズム」といった構成。これと前記のマーンケなどは、翻訳があっても良いように思う。分量的にも比較的手頃なのだが。

H. White, The Content of the Form: Narrative Discourse and Historical Representaiton,The Jons Hopkins U. Pr. 1989 (1st ed. 1987)
(ホワイト『形式の内容 ―― 物語的言説と歴史的表象』
 歴史の物語論の主導者的存在の論文集。「形式の内容」とは奇妙な標題だが、物語という「形式」が実は歴史の「内容」を成しているという主張を端的に表現したもの。歴史の物語論とは、構造的歴史理解などに対抗して、再び歴史を「語る」ことの意義を復権しようというもの。かつてホイジンガなども「歴史の形態変化」(『ホイジンガ選集4』〔河出書房新社〕)という講演などで、人間不在の歴史記述に対して、再び「形象」を導入することの必要を説いていたが、そうした傾向を非常に洗練したかたちで展開しようとしているのがこのタイプの理論。これはまた、語りの技法である修辞学の復権の一つでもある。ひところホイジンガの議論は、構造的歴史学のコンツェなどにも利用され、ホイジンガの言う「形象」というのは、「構造」のことなのだといったふうな議論が見られたようだが、流石にそれは無理がある。もちろん、だからと言って、ホワイト流の歴史の物語論にホイジンガがもろ手を上げて賛成するとも思えないが。

藤原藤男『聖書の和訳と文体論』(キリスト教新聞社 1974年)
 
1837年のギュツラフの『約翰福音之伝』から始まって、聖書の和訳の歴史を1970年まで辿ったもの。有名な、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まるギュツラフの「ヨハネ福音書」や、万葉の長歌形体のチェンバレン訳「詩篇」など、例文もなかなか面白い。このチェンバレンの訳は、新共同訳では「主は御名にふさわしく/私を正しい道に導かれる....」となる「詩篇23」(われら死の谷を歩むとも...)を、「うるはしきみの。率(ひき)のまに。みのりの杖と。かしこくも。たがねてゆけば。ぬば玉の。くらきみくにに。伊往(いゆく)とも。あにおぢめやも。」と訳している。「くらきみくに」(「死の陰の谷」)に「ぬば玉の」などと枕詞が掛かっていたりして泣かされる。

杉橋陽一『ユダヤ的想像力の行方 ―― ベンヤミン、アドルノ論集』(世界書院 1992年)
N. Bolz, W. van Reijen (Hg.), Ruinen des Denkens . Denken in Ruinen, Suhrkamp1996
(ボルツ/レイエン『思考の廃墟。廃墟の思考』)
 ともにベンヤミン関連。前者のメインとなっているのは、ベンヤミンのカール・クラウス論についての論考。後者は、いまをときめくメディア美学の旗手ボルツらによる編集で、直接にベンヤミンだけを主題としたものではないが、標題からして露骨にベンヤミンを匂わせている。しかし一方では、こういう主題を論じるのに、ベンヤミン・ブームを俟たなくてはならなかったドイツ論壇の田舎臭さというのも感じざるをえない。ここ10年ばかり、ボルツらを中心にズールカンプは矢鱈にこの手の論集を出している。

Ch. S. Singleton (ed.), Interpretation: Theory and Practice, Johns Hopkins Pr. 1969.
(シングルトン『解釈 ―― その理論と実践』)
 ルネサンスおよびダンテ研究の泰斗シングルトン編集の論文集。ウルマン『中世における個人と社会』(Individuum and Society in Middle Ages, 1966)や『ルネサンスにおける芸術・科学・歴史』(Art, Science, and History in Renaissance, 1967)を産んだThe Johns Hopkins Humanities Seminarsの一冊。後者も最近手に入れたが、4toの大冊で恐ろしく立派なもの。本書『解釈 ―― 理論と実践』は、実は、ポール・ド・マン「時間性の修辞学 ―― アレゴリー・シンボル・アイロニー」(Paul de Man, The Rhetoric of Temporality, Allegory and Symbol, Irony)が初出で掲載されているもの(後にポール・ド・マン自身の論文集『盲目と明察』[Blindness and Insight, U. of Minnesota Pr. 1971]に収録)。60年代以降、ホーニヒ『漆黒の綺想』(E. Honig, Dark Conceit)やトゥーヴ『アレゴリー的想像力』(R. Tuve, Allegorical Imagery)辺りを皮きりに、英米圏でのアレゴリー復興も目覚しいものがある。ポール・ド・マンのこの論文は、そうした運動の里程標とも言えるもの。

E. Bons, Der Philosophe Ernesto Grassi. Integratives Denken: Antirationalismus: Vico-Interpretation, Fink 1988
(ボンス『哲学者エルネスト・グラッシ ―― 統合の思想・反合理主義・ヴィーコ解釈』)
 
論評のコーナーで取り上げた翌日にグラッシの研究書到来。いま一番知りたい編集者としてのグラッシについてではなく、純粋に哲学者としての思想を論じたものだが、ヴィーコ解釈を始め、グラッシについてはなかなかまとまった情報がないのでありがたい。詳細なBibliographyが付されている。これを見ると、単行本は主にドイツ語だが、やはり夥しい数のイタリア語論文を書いていることが分かる。著者の言葉によると「15冊の著作と、約130篇の論文」だそうだが、この文献表が、雑誌論文を含め、探求の強力な武器になるのは間違いない。

松平千秋・国原吉之助『新ラテン文法』(東洋出版)
 
Web上のラテン語教科書批評
「ラテン語教科書を斬る!」の対象になって、細かい点の検証がされているので、興味をもって入手。


<2月>

最近手に入った絶版文庫類のなかから。最後の三点(これらは流石に古い)を除いて、新刊や復刊として出ていることを知りながら買いそびれて、いつのまにか手に入りにくくなってしまったもの。今ごろようやく古書として入手。新刊を嗤う者は古書に泣くという自戒を寵めて。
ユゴー『エルナニ』
(中公文庫):フランス・ロマン主義の幕開けとなった「エルナニ論争」の火元
ラングランド『農夫ピアズの夢』
(中公文庫):中世末期のアレゴリー文学の代表作
ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』
(中公文庫):『魔女』で知られる異形の歴史家ミシュレによるジャンヌ・ダルク
ヴォルテール『ルイ14世の世紀』
(全四巻、岩波文庫):啓蒙主義の代表者による歴史書
『ゲーテ=カーライル往復書簡』
(岩波文庫):ドイツ贔屓の英国人の筆頭カーライルとゲーテの書簡
シャトーブリアン『アタラ、ルネ』
(岩波文庫):前者はアメリカを舞台にしたフランス・ロマン主義の小説。
スピノザ『神学・政治論』
(全二巻、岩波文庫):フランスでのスピノザ復権の火付け役となった著作
カイヨワ『妖精物語からSFへ』
(サンリオ文庫):『遊びと人間』のカイヨワによる想像力論
シラー『三十年戦史』
(全二巻、岩波文庫):歴史家という本職の方でのシラーの業績
コンドルセ『人間精神進歩の歴史』
(角川文庫):18世紀フランスの思想家のものだが、角川も昔はこういうものを出していた
『リッケルト論文集』
(改造社・改造文庫):昭和4年(1929年)のものだから、新カント派はほとんど同時代的に訳されていたことが分かる
メレディス『喜劇論』
(岩波文庫):これも美文好みの当時(昭和10年)は流行ったものらしい

クラフト・エヴィング商會『らくだこぶ書房 21世紀古書目録』(筑摩書房)
 すでに『クラウド・コレクター』(筑摩書房)、『すぐそこの遠い場所』
(晶文社)などの、詩画集の趣のある、写真入りの不思議な文集を出してきたコンビによるもの。『クラウド・コレクター』は、どこにもない場所への旅行記の体裁で、そこで蒐められたと称するさまざまな奇妙なオブジェの写真を鏤めていたが、今回の『古書目録』は、存在しない「古書」、いわば「未来の古書」を図録入りで紹介したこれまた変わったもの。これらの写真と文章は、筑摩書房のPR誌『ちくま』の表紙を二年間にわたって飾ったものだが、一冊にまとめるにあたって、さらにまたいろいろと追加されている。一点一点、オブジェとして良く造り込まれている。かつてニューアカデミズム(すでに死語か)華やかなりし頃、週刊本というシリーズがあって、そのなかの一冊に坂本龍一『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)というものがあったが、それと似た趣向。ただ、変に斜に構えたところがないだけ、この『21世紀古書目録』のほうが清々しい。本の「形」を見ているだけでも嬉しくなるという奇特な人にはとりわけお薦め。
 因みにこのクラフト・エヴィング商会は、現在『ちくま』誌上では「ないもの、あります」という小さな連載を開始した。言葉では良く聴くが実物を見たことがないという商品を取り揃えて販売する、そのためのカタログという触れ込み。第一回が「左うちわ」、第二回が「先輩風」。

E. Grassi, Reise, ohne anzukommen, Rowohlt: Hamburg 1957.
(グラッシ『果てしなき旅』)
 
イタリア出身でハイデガーの下で学んだ人文主義研究の一人者が、現地へ幾度も足を運び、中米の古代文化についての考察を行ったもの。人文主義といえば、その要は言語と歴史である。そうしたフィールドで研究を重ねてきた著者にとって、インカ文明などはその対極にあるとも言えるだろう。もちろんインカ文明に言語と歴史が欠落しているわけではないが、そこでの言語的伝統や歴史は、ヨーロッパ型の人文主義と同じ基準で理解できるものではない。こうした対極のモデルに直面したときに哲学者が往々にして陥る罠が普遍化である。一挙に抽象的な
(実存的であれ、文化類型的であれ)形式へと飛び越えるのではなく、どれだけ中間の具体的な次元に留まれるかというところが、むしろ腕の見せ所だろう。

清水哲郎『パウロの言語哲学』(岩波書店:双書現代の哲学)
 
書評のコーナーで触れた山内志朗『天使の記号学』と同時に出た、同じシリーズのもの。著者は14世紀の思想家ウィリアム・オッカムを中心に、論理学的な方向を取ってきた人なので、いきなりパウロというのは少し驚くが、あとがきを見ると、かなり長いこと温めてきた主題らしい。インターネット上での討論にも応じる用意があるそうだ。

イェイツ『ヴァロワ・タピスリーの謎』(平凡社)
 
ワールブルク・コレクションの最初のほうの巻で、買いそびれていたものを古書で入手。最初のころ、次から次へと出て、すべてをフォローするのも難しかったワールブルク・コレクションも、いまや消滅同然である。それまで事情通の一部のマニアしか知らなかったものを一般読者に提供して、基本的な常識の底上げが一挙になされた感があったが、それも一時の徒花に終わりそうな気配が濃厚。こうなってくると、知的スノビズムというものが却って魅力になってしまいそうだ。

Hans Urs von Balthasar, Kleine Diskurs über die Hölle: Apokatastasis, Johannes Verlag 1999
(ハンス・ウルス・フォン・バルタザール『地獄小論 ―― アポカタスタシス』)
L. Kretzenbacher, Versö:hnung im Jenseits, Verlag der Bayerischen Akademie der Wissenschaften 1972
(クレッツェンバッハー『彼岸での宥和』)
W. van Laak, Allversöhnung. Die Lehre von der Apokatastasis, Sankt Meinrad Verlag für Theologie 1990
(ヴァン・ラーク『万物の宥和 ―― アポカタスタシス論』)
 いずれも小著だが、三冊とも「アポカタスタシス」という神学上の概念を扱ったもの。出版社がどれも未知のもの。このアポカタスタシスというのは、最後の審判のやり直しのようなもの。一回の審判で救われなかった罪人たちを救済するための敗者復活戦のような考えで、古代のオリゲネスに由来するが、正統の教義にとってはもちろん異端。しかしこの怪しげな理論は、神学思想の底流のようにして、思想史のところどころに顔を出す。少しまとめて知りたいと思って調べたところ、差し当たり入手可能なのが上記のものだった。このアポカタスタシスについての包括的な
Bibliographyを付したG. Müller, Identität und Immanenz(『内在と超越』)はすでに入手済みだが、どうもこの概念、一筋縄ではいかないようだ。ちなみに、最初の著書のバルタザールは、オリゲネス研究や神学の分野ではかなり知られた人。

E. Cook, C. Ho?ek, etc.(eds.), Centre and Labyrinth. Essays in Honour of Northrop Frye, U.of Toronto Pr. 1983.
(『中心と迷宮 ―― ノースロップ・フライ献呈論文集』)
 四季の移り変わりという神話論的な分類と、文学上のジャンル論とを結合させた文芸理論家フライへの献呈論文集。執筆陣も、哲学者リクール、文芸理論家G・ハートマン、ハロルド・ブルーム、A・フレッチャーと、なかなか豪勢。この中の論文の一つに「サン=ヴィクトルのフーゴーの全体論的ヴィジョン」というものがあって、中世の教会暦・典礼暦とフライの四季の循環の理論を比較している。一見意外に思えるが、考えてみれば、中世の聖書解釈学というのは、今日文芸理論としてあれこれ論じられていることの大抵のことをすでに実践してしまっているのだから、この比較もあながち無茶というわけでもない。意味の多層性だとか、作者の死などの問題も、中世の解釈学の中ではすでに織り込み済みの話しだ。もちろん、そこは聖書解釈のことだから、多層的な意味といっても、それらのあいだには安定した秩序があるわけで、意味のアナーキーを孕んだようなものではない。しかし、中世末期から近世初頭は、そうした意味秩序が揺らぎ始めた時代でもあるのだから、そうなってくると中世末期は、文芸理論的にはすでにポスト・モダンを経験してしまったとは言えないだろうか。中世解釈学を介して考えるなら、アルカイックな神話理解どころか、相当に精緻な議論を巻き込んだかたちで、文芸理論を再考することができるかもしれない(ここでも鍵となるのはオリゲネス!)。

ディドロ『演劇論』(弘文堂〔世界文庫〕1940年)
 
ディドロの『演劇論』の(おそらく)いまのところ唯一の訳が偶然にも手に入ってしまった。これはいまとなっては見つけるのがかなり困難なもの。この弘文堂の世界文庫や、春陽堂の世界名作文庫、改造社の改造文庫など、昔の文庫では時折こうした貴重なものがある。このディドロの訳者、小場瀬卓三氏はディドロの研究書なども出しているが、確か『ディドロ研究』は上巻だけで、下巻は出なかったはず。かつて八雲書店というところから『ディドロ著作集』が企画されたことがあるらしく、その一巻には、この『演劇論』がそのまま収められているようだ。ちなみに、日本語で読めるディドロ関係の書誌は、『思想』1984.10「ディドロ ―― 近代のディレンマ」の巻末文献表にまとまっている。これはたいへんに良い特集だし、今でも古書として入手は容易。
 ディドロのこの『演劇論』は、1758年に公刊されるや、二年後にはレッシングが独訳して出したほどのもの。その序文でレッシングは、ディドロのこの論考を「アリストテレス以来、演劇に関する哲学的議論では最高のもの」と絶賛している。訳書は入手困難とはいえ、原典は
Classique Garnierの廉価版のペーパーバックで簡単に手に入るし、レッシングによる翻訳もレクラム版が出ている。

ベックフォード『ヴァテック 亜刺比亜譚』矢野目源一訳・生田耕作補訳校註(牧神社)
 
これまで純粋な文学書は意図的に外してきたが、偶には例外で。本訳書は、奇書を自家薬籠中にしたうえで訳者独自の日本語に変換するという点で、平井呈一訳のウォルポール『おとらんと城綺譚』と双璧をなすもの。訳者の矢野目源一という人がまた面白い人で、ヴィヨンの翻訳などもやっていて、そのなかの「卒塔婆小町」の訳などは、鈴木信太郎も脱帽したという名人芸。しかもそうしたいわゆる文学書のほかに、矢野目氏の著作活動の多くは艶笑小話やいわゆる閨房術(ars amatoria)に割かれている。『お化粧讀本』『閨房秘薬90法の研究』『精力絶倫その七つの鍵』『実用強精秘薬』と、タイトルだけでも元気が出そう。オウィディウスが『変身物語』と同時に『恋愛技法』(Ars amatoria)を著しているのを思い出してもいい。生田耕作が共感する訳だ。
 この矢野目訳『ヴァテック』もそうだが、文章としては古いが独自の日本語作品として成り立っている翻訳を一度まとめて考えてみたい。それこそ、森田思軒訳の『十五少年漂流記』、上田敏『海潮音』や堀口大學のモオラン『夜ひらく』などの歴史的名作から始まって、日夏耿之介のポオ、ワイルド、石川道雄のホフマン、平井呈一のサッカレイなど、見直すとまだまだいいものが相当にあると思うが。

『ボルヘスのイギリス文学講義』(国書刊行会〔ボルヘス・コレクション〕)
 「ボルヘス+英文学」ときては読まずにはおれないとばかりに、タイトルだけ見てネット書店で注文したものが到着。しかし残念ながら期待したようなものではなかった。本文はバラッと組んだ150頁ほどのものなので、30分もあれば読めてしまう。今しがた手に取って、次に置いたときには読み終わっていた。その程度の内容。特別に悪くはないが、ごくごく一般的でしかも簡潔すぎる英文学史。ボルヘスらしさというような特色も捜し出すのに苦労するほど。「ボルヘス」の名前がなければ出版されたかどうか。英文学の常識的で簡単な通覧という意味では悪くはないが、それなら他にもっといいものが沢山ある。似たようなスタイルのものでいうなら、われらが西脇順三郎の『近世英文学史』
(『西脇順三郎全集』第9巻、筑摩書房)はこれに優に優っている。ラフカディオ・ハーンが東大でやった講義『英文学史』(『ラフカディオ・ハーン著作集』第11/12巻、恒文社)なども、『ベーオウルフ』が渡辺綱の鬼退治と比べられていたり、読み物としても面白いし、優れた教育者ハーンの一面が窺える(本当に血肉の通った英文学講義)。また同じくメタ・ノヴェル的作家の文学講義ということなら、イタロ・カルヴィーノの傑作講義『カルヴィーノの文学講義』(朝日新聞社)をお薦めしたい(これはいずれ「推薦書目」へ)
 ただし、このボルヘスの『イギリス文学講義』は、本としての作りは丁寧で、国書刊行会独自の例の別刷り「翻訳書誌」が付いていたり、訳者が長文の解説めいた文章を寄せたりと、それなりの誠実さが窺える。この訳者の文章はそこそこ面白く、特にボルヘスとクィンシーとの関係への言及などは嬉しくなるが、ボルヘスのこの講義そのものとは直接にはまったく関係がない。ボルヘスの文章そのものに関しては、既刊分も含めボルヘス・コレクションの他の巻に期待したい。

H. V. White (ed.), The Uses of History. Essays in Intellectual and Social History. Presented to William J. Bossenbrook, Wayne State. U.Pr. 1968.
(ホワイト編『歴史の活用 ―― 観念史および思想史論集』)
 
『メタヒストリー』のヘイデン・ホワイトが編集しているので入手。歴史の分析論のアーサー・ダントーなども論文を寄せている
(「本体論的証明」について)。標題の「歴史の活用」というのは、観念を現実に変換するにあたって、歴史は宗教や形而上学と同じような形でその媒介物になるという、やや抽象的な「理屈」を指しているものらしい。そう言われてみると、この5年後に出るホワイト自身の『メタヒストリー』では、「物語」というものが、そうした媒介物として捉えられているのではないかということが朧げに予感できる。

ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』(新潮社)
 
新刊のときに買いそびれてしまって捜していたものを、やっとネット古書店で入手。人類学の観点からの身ぶり言語や言葉についての考察。

実川敏夫『メルロ=ポンティ ―― 超越の根源層』(創文社)
 
序論でいきなり、「〔この著作は〕半世紀に及ぶメルロ=ポンティ研究の流れに掉さすものではない。メルロ=ポンティ研究は、一切をご破算にして初めからやり直されなければならない」という思いきった宣言がなされる。フッサール的現象学からハイデガー的存在論へといった図式の中にメルロ=ポンティを安易に置き入れてしまうことへの反撥がなせる業である。テクストの事柄に即して、メルロ=ポンティ独自の問題を炙り出そうとしている点で大いに期待がもてる。

Giordano Bruno. Ausgewählt und vorgestellt von Elisabeth von Samsonow, dtv 1999.
(『ジョルダーノ・ブルーノ ―― 精選著作と案内』)
 『シニカル理性批判』のP・スローターダイクが編集している
Philosophie Jetzt(今こそ哲学を!)シリーズの一巻。このシリーズは、おおむね各巻を哲学者一人に割り当て、伝記・文献案内などの序文を添えて、本文は哲学者本人の文章のアンソロジー。ペーパーバックとはいえ、全体として500頁くらいあるので、かなり充実した資料が収められている。このブルーノでも『英雄的狂気について』や『モナス・数・像』、『無限、宇宙、諸世界について』といった哲学的著作の主要部分から、『天馬のカバラ』や『奢れる野獣の追放』などの風刺的著作まで、かなり満遍なくトレースされている。「今こそ哲学を」というからには、口当たりのいい「〜入門」などではなく、これくらい本格的に取り組もうという心意気がなければ意味がないだろう。このシリーズには二巻で『中世哲学』が予定されているので期待できそう。
 今ふと思い出したが、このスローターダイクが以前編集したものには、
Weltrevolution der Seele: Ein Lese-und Arbeitsbuch der Gnosis(『魂の世界改革 ―― グノーシス読解ハンドブック』)という二巻本もあった。これは歴史的意味でのグノーシス主義から、シオラン、アドルノといった、現代における「グノーシス的なるもの」を扱った、1500頁を優に超える一大アンソロジー。「某」研究所の重複本ということで500円で引き取ったものだが、まだ内容を追いきれていない。ということで、これはそのうちにご紹介。

『みすず』478号(2000.1)
 恒例の「読書アンケート特集」。以前ほど心躍るものではなくなっているが
(こちらの感覚が鈍くなったせいかもしれない)、やはり愉しみには違いない。推薦図書の紹介文という一種の書評として見ると、今回もまた中川久定氏のものは傑出している。書目のバランスといい、紹介の文章といい、実に素晴らしい。けっして、ご自身が専門のフランス文学の「専門書」などを挙げたりはしていない。関心の高いアマチュア読者のための高級な読書案内になっている。やはり恐るべき人のようだ。もう一人挙げるとすれば、シャルチエのアンケート。例によって、やたらに偏った専門書(それも洋書)ばかりを挙げている人もいるが、そういうものは何となく、ご当人の見栄が透けて見えて感心しない(あまり人のことは言えないが)
 ネット書店・古書店などを当たりながら逐一チェック、注文すべきものは注文を済ませた。そのなかから数点。
・薩摩秀登『プラハの異端者たち ―― 中世チェコのフス派にみられる宗教改革』
(現代書館)
・村瀬雅俊『歴史としての生命 ―― 自己・非自己循環理論の構築』
(京都大学学術出版会)
・チェントローネ『ピュタゴラス派 ―― その生と哲学』
(岩波書店)
Peter Miller, Peiresc's Europe, Yale U.Pr. 今回一番の収穫がこれ。推薦者があのポーコック。この本の主題のペイレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc 1580-1637)は、フランスの古物蒐集家とは言われるが、そのスケールは生半可ではない。ガリレオ、ルーベンスなどとも付き合いがあり、ニュートンはこの人の光学の著作を利用しているし、ハーヴェイの血液循環論を最初に実証したのもこの人のはず。言ってみればアマチュアリズムの鑑のような人(そういう意味ではニュートンだってそうなのだが)。ポーコックの推薦文がまた泣かせる。「哲学および生き方としての古物蒐集学の研究」。こう言われてしまっては手に入れるしかないだろう。


<1月>

レーダー『ワーズワースと現代詩の始まり』(松柏社)
 現代詩の基本的主題は意識分析であると規定したうえで、その出発点にワーズワースを置く。確かに言われてみれば、彼の『序曲』
(The Prelude, 1850)は、その副題にGrowth of a Poet's Mindとあるように、 要するに詩的精神の系譜学、あるいは自己意識の発生論といったところか。訳文は平明で読みやすいが、固有名詞表記などには若干の問題あり。開巻早々に、ピーター・ロンバート、セント・ビクトールのリチャード、フローレンス会議と英語読み珍名さんが連打される(それぞれ「ペトルス・ロンバルドゥス、サン=ヴィクトルのリカルドゥス、フィレンツェ<公>会議」)。また、この自己意識論という枠組で論じられているなら、Self-presenceは、「自己存在」(p.314)ではなく、「自己現前」ではないか(「自己」は「存在するもの」ではなく、「自己の自己にとっての<現れ>」だというところは、外せないポイントのはず)。さらに終わり近くに、「レヴィ=ストラウス」が登場して、しかもその著書Tristes tropiquesは欧文のままで投げ出してある。レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(『悲しき南回帰線』という邦訳タイトルでも出ていた)を、この手の本を訳す人が知らないとは思えないので、どうにも腑に落ちない。いっそのことジーンズメーカーと取り違えてくれているのなら、素直に笑えるのだが。
 この松柏社という出版社、良い書目を揃えていて、大いに注目されていい
(したがって今後も触れていきたい)のだが、仕事の詰めが少々甘いところがあるのかもしれない。実を言うと、「推薦書目」で持ち上げたファマトン『文化の詩学』も、いかにも引用されそうな一節に誤植があるのは返す返すも残念(「ポストモダンの現代にあって、私たちはとりわけ断片的なものや不連属性〔 → 不連続性〕、あるいはナオミ・ショアが<細部重視>と呼んだものに敏感である」p.26)。たまたま目に触れたものにそうした不注意を含むものが多かっただけであることを願う。

R. Elm, K. Koechy, M. Meyer (Hgg.), Hermeneutik des Lebens. Potentiale des Lebensbegriffs in der Krise der Moderne, Alber 1999.
(エルム他編『生の解釈学。現代の危機における生命概念の可能性』)
 
標題が多少気になるし、アルバーのシリーズなのでとりあえず入手。書いている著者はまったく知らない人ばかりだが、なかなか力作ぞろいと見うけられる。内容をざっと眺めていると、不思議とブルーメンベルクの名前がよく目に飛び込んでくる。改めて裏表紙を見るとこんな文句が。「本書では以下の思想家の位置付けが試みられる。シェリング、キルケゴール、ニーチェ、ディルタイ、ベルクソン、ジンメル、ハイデガー、メルロ=ポンティ、そしてブルーメンベルク」。ブルーメンベルクもこういう流れに組み入れられる「大思想家」になりつつあるらしい。

Sergio Moravia, Beobachtende Vernunft. Philosophie und Anthropologie in der Aufklärung, Ullstein Bücher 1977 (Hanser 1970).
(モラヴィア『理性は観察する。啓蒙主義における哲学と人類学』)
 18世紀後半のフランス思想家を主題として、哲学的人間学から現代的な人類学が成立してくる経緯を追ったもの。ここで触れられる思想家は、エルヴェシウス亡き後、その未亡人の下に集った「観念学派」(イデオローグ)と呼ばれる思想家たち。デステュット・ド・トラシーやカバニス、有名なところでは『第三階級とは何か』のシエース。ナポレオンが彼らを「イデオローグ」(机上の空論を弄ぶ連中)と呼んで、これがいわゆる「イデオロギー」という言葉の元となったというのは、マンハイムの『イデオロギーとユートピア』などによっても良く知られているが、この学派自体の実体が(私には)今一つ良く分からない。若きフンボルト(兄)は、パリでシエースの食客となって、この「観念学派」とも付き合っている。そんな関係でも、この学派のことをもう少し知りたいと思っていたが、哲学の方ではなかなか引っかかってこない。そんななか、この本が到着して少し方向が分かってきた。なるほど、彼らはむしろ人類学や民俗学の方に流れ込んで行くということらしい。だがそうなると、後のフンボルトの「比較人類学」の成立ということに関しても、やはりこの「観念学派」を考慮に入れるべきなのだろうか。

Reinhard Lauth, Die transzendentale Naturlehre Fichtes nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre, Felix Meiner Verlag 1984.
(ラウト『フィヒテの超越論的自然理論 ―― 知識学の原理による』)
Hans-Juergen Mueller, Subjektivität als symbolisches und schematisches Bild des Absoluten. Theorie der Subjektivität und Religionsphilosophie in der wissenschaftslehre Fichtes, Forum Academicum (Anton Hain Meisenheim) 1980.
(ミュラー『主観性 ―― 絶対者の象徴的・図式的像。フィヒテ「知識学」における主観性理論と宗教哲学」)
 ともにフィヒテの研究書。前者はフィヒテ研究の大御所ラウトによるカントの自然哲学とフィヒテの知識学との対応関係について。フィヒテの場合によく分からない「構想力」の問題が、カントの「反省的判断力」との関係で扱われている。後者はフィヒテのいわゆる「像」(Bild)論をめぐって。両者とも、議論を総括した何やら複雑なダイヤグラムのようなものがついている。ロマン派関係の人々(およびその研究者)は結構こういうことが好きらしい。

河底尚吾『改訂新版 ラテン語入門』(泰流社)
 章の最初に、半頁ばかりの古典からのテクストが挙げられていて、その後でそこに含まれる文法上の問題を解説して行く。使われているテクストはオウィディウス『変身物語』とキケロの『カティリーナ弾劾』であるというのも嬉しい選択。因みに
Metamorphosesの冒頭はこんな具合。In nova fert animus mutatas dicere formas corpora.凄い。一つとして近代語で予想される語順に従っていない。英語のラテン語教科書に、『オウィディウスでラテン語を学ぼう』(N. Goldman, J. E. Nyenhuis, Latin via Ovid. A First Course, Wayne State U. Pr.1977)というのがあって、これはこれで愉しいのだが、残念ながらここで使われているオウィディウスの文章は、いわば少年少女用にリライトされているので、ちょっと肩透かしを喰う。

Herbert Dieckmann, Diderot und die Aufklärung. Aufsätze zur europäischen Literatur des 18. Jahrhundert, J. B. Metzlersche Verlagsbuchhandlung 1972.
(ディークマン『ディドロと啓蒙主義。18世紀ヨーロッパ文学論集』)
 
下記の記念論文集『ヨーロッパの啓蒙主義』が捧げられたディークマン本人の論文集。このディークマンは、カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』の英訳が出たときに長文の書評を書いて、アザールやディルタイなどとも比較していた。その書評は、『ヨーロッパ啓蒙主義研究』(
Studien zur europäischen Aufklaerung, Wilhelm Fink 1974)に収録されているのだが、この論文集を編集したのが、コンスタンツ受容美学の代表格、イーザーとヤウス。もしかするとこのディークマンを中心に、また研究者同士の面白い「繋がり」が見えてくるかもしれない。ちなみにこのディークマンは冒頭の書名にもあるように、ディドロを研究の中核に据えている。日本語で読めるディドロ研究書は、なんと言っても一連の中川久定のもの。とりわけ『啓蒙の世紀の光のもとで』(岩波書店)は充実している。\10,000と高価なのは痛いが、それくらいの価値はある。もっとも私は函なしのものを古書店で\3,000で買ってしまったのだけど。

Jean Cousin, Livre de perspective, Verlag Walter Uhl 1974
(クーザン『遠近法の書』)
 
1560年の大冊フォリオ版のリプリント。図版をさまざまに入れて、こんな風にやれば誰でも簡単に複雑な図形が立体的に描けますよということを指南する手引書。考えて見れば、16世紀当時、幾何学的「遠近法」というのは、最先端の「数理科学」だったわけだ。当時五万と出たこの類の遠近法指南書は、現代で言うなら、「誰でもホームページが作れます」というのと感覚的に似ていたのかもしれない。ちょうど私がいまHTMLの初歩の初歩をいじくっているように。

高松雄一編『想像力の変容 ―― イギリス文学の諸層』(研究社出版 1991年)
 『キケロ ―― ヨーロッパの知的伝統』
(岩波新書)の高田康成や河村錠一郎、富山太佳夫、水之江有一といった才気煥発な書き手たちが集まった論集。

Liliane Weisberg, Geistersprache. Philosophischer und Literarischer Diskurs im späten achtzehnten Jahrhundert, Königshausen & Neumann: Würzburg 1990.
(ヴァイスベルク『霊を語る ―― 18世紀後期における哲学・文学の言説』)
 ドイツ語でGeistという語は、「精神」でもあれば、「幽霊」でもあり、はたまた「聖霊」でもあるという厄介な代物。ここでとりわけ主題となっているのは、「幽霊」、「お化け」のGeist。対象となるテクストはカントの『霊視者の夢』、シラーの『招霊妖術士』、そしてフィヒテ。これはちょっと期待できそう。

Fritz Kaufmann, Das Reich des Schönen. Bausteine zu einer Philosophie der Kunst, Kohlhammer: Stuttgart 1960.
(カウフマン『美の王国 ―― 芸術哲学のための礎石』
 このカウフマンは1920年代に芸術論を「像」の理論として立ち上げようとしていた理論家。

近藤恒一『ペトラルカ研究』(創文社 1984年)
 同じ著者の『ペトラルカと対話体文学』
(創文社)もなかなか良かったので、旧著のこれを捜していたが、創文社のものは一旦切れると見つけにくい。これも散々捜した挙句にようやくネット古書店にて入手。ある古書店などは\15,000の値をつけていたところがあったが、これは\4,000にて無事落手。それにしても、この本は、日本では修辞学の伝統を正面から取り上げた数少ない著書ということになるだろう。

H. Friedrich, F. Schalk (Hg.), Europäische Aufklärung, W. Fink: München 1976.
(『ヨーロッパの啓蒙主義』)
 18世紀思想の専門家ディークマンの還暦記念論文集。イーザー、ヤウス、J.プルースト
(『百科全書』の研究者)、セズニック(名著『神々は死なず』の著者)、スタロバンスキー、そしてブルーメンベルクと、何とも豪華絢爛な執筆者たち。

E.リード『魂から心へ ―― 心理学の誕生』(青土社 2000年)
 
メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』や、あのダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンなど、彼らのロマン派的メンタリティーから出発して、いわゆる現代的な「心理学」が成立してくる過程を祖述した読み物。主題の設定がいい。

Dorothy Koenigsberger, Renaissance Man & Creative Thinking. A History of concepts of Harmony 1400-1700, The Harvester Press 1979.
(ケーニクスベルガー『ルネサンスの人間と創造的思想 ―― 1400-1700年の調和の概念の歴史』
 アルベルティ、ダ・ヴィンチ、クザーヌスといったルネサンスの思想家に関して、「調和」または「類比」といった思考を追跡した研究書。

Ronald Raveo, Renaissance Minds and Their Fictions, U. of California Pr. 1985.
(ラヴェオ『ルネサンス精神と虚構』)
 クザーヌス、サー・フィリップ・シドニー、シェイクスピアの三人を主題としており、それぞれに、「憶測の詩学」、「虚構の詩学」、「演劇的虚構」という標題が割り当てられている。序を見ると、なんとグリーンブラットへの謝辞などがある。こういう繋がりを発見するには、いわゆるAcknowledgementというのもなかなかばかにできない。

Jacob Burckhardt, Historische Fragmente, Aus dem Nachlaß gesammelt von Emil Dürr, Benno Schwabe & Co.n.d.
(ブルクハルト『歴史学 断簡零墨 ―― エミール・デュルによる遺稿からの編纂』)
 最近邦訳の出た『ブルクハルト文化史講演』(筑摩書房)とは異なり、これは纏まった講演ではなく、講演の素材になったものを主題毎に配列したもの。いま翻訳しているある本の原註で触れられていたので、正体を確かめるために入手。ちなみに、このブルクハルトの著作を使いながら、その原註はこんな愉快なことを言っている。「アレイオス主義が勝利を収めていれば、アレイオス主義に与したユダヤ人たちは安全に生き延びたことであろう。なぜならアレイオス主義の教義によれば、彼らは神である<人の子>を殺害したことにはならないため、彼らを取り巻く環境ははるかに暮しやすいものとなったに違いないからである。そうすれば彼らは「一・二世紀後にはあらゆる財産の所有者となり、当時にしてすでに、ゲルマン人とローマ人を自らにかしずかせ、労働に従事させるということになったであろう」(この部分がブルクハルトの文章)。言い換えれば、資本主義的中世なるものが存在したかもしれず、そうすれば近代は不要となっていたかもしれないのである」。ありえたかもしれない別の歴史。

Karin de Boer, Thinking in the Light of Time. Heidegger's Encounter with Hegel, State U. of  New York Pr. 2000.
(ドゥ・ベーア『思索 ―― 時間の光の下で。ヘーゲルに出会うハイデガー』)
 この研究書や、ロックモア『ハイデガー、ドイツ観念論、新カント主義』(T. Rockmore (ed.), Heidegger, Germean Idealism & Neo-Kantianism, Humanity Press 2000)など、最近は英語圏でも、ハイデガーとドイツ観念論という問題設定が見られるようになってきた。流石にファリアス以来の「ハイデガーと政治」というどんちゃん騒ぎにも飽きたのだろうが(いまだに騒いでいるのは誰?)、英語で論じられるドイツ観念論はいまひとつ迫力に欠ける。


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