口舌の徒のために(過去ログ) 

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誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/13 20:14:07)

私のほうでは、いま一つの翻訳書の仕事が終了間近になっています。中世末期から近代初頭の思想史に関するものです。ラテン語と古イタリア語の引用が頻出して頭を抱えましたが、どうにかこうにか、終了にまで漕ぎ着けました。

ここで引用される中世ラテン語の引用文なのですが、文体の選択には悩まされました。中世哲学や西洋古典の分野では、原文に忠実な訳というのが規範となっていて、接続詞一つ、主語一つ補うにも、訳者の補記の〔 〕を入れたり、日本語としては多少変でも、原文がそうなっていれば、そのことを理由に読みやすさのほうを犠牲にするというのが普通になっています。確かに原文に忠実で、語学的に間違いがないことを重視するのはわかるのですが、やはり本当は、その翻訳を誰が読むのかということが大切なのではないかという気がします。その点では、学術書の翻訳は、専門を同じくする人から間違いを指摘されないようにという、仲間向けの意識が強く働いて、本来その翻訳を必要としている「一般読者」の方をあまり向いていないような印象を受ける場合もあります。

日本語としての読みやすさか、語学的な正確さか
―― 翻訳にいつまでもついて回る悩ましい問題ではあります。



No.636

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---花山薫(2002/03/15 01:48:31)


本題からちょっとはずれてしまいますけど、そのラテン文の訳には関心があります。ひとつサンプルを出していただけませんでしょうか? 原文に忠実な訳と、日本語に忠実な(?)訳と、それから原文と。

あと、蛇足をつけ加えておきますと、一般読者に対して過度に親切になる必要はないと思います。しょせんは引証、少しくらいわかりにくいところがあっても、勘所さえちゃんと伝えられればそれでいいのではないでしょうか。極端なことをいえば、原文をそのまま載せて、それに大意をつけておくだけでも充分のような気もします。そのほうがかえって親切な場合もあるでしょうしね。



No.644

専門語の定訳
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/15 22:52:31)


>
そのラテン文の訳には関心があります。ひとつサンプルを出していただけませんでしょうか?

実際に翻訳をやっているときには、そういう例が五万と浮かぶのですが、とりあえず作業を終えてしまうと、そうしたものは意外と覚えていないことに気づきます(あるいは、無意識にも忘れてしまいたいのでしょうかね)。

ということで、文章ではないのですが、引っかかるものの一つに、専門語の「定訳」というものがあります。たとえば、
ratioは、「理性、理由、根拠、論理、推論」など、実にさまざまな局面で使われますが、この言葉がキーワードになる思想家の場合(カンタベリーのアンセルムスなど)、この一つ一つを訳し分けるより、一貫して同じ言葉を当てるということがよくなされます。その場合には「理拠」などとやります。そうなると、「理解可能である」であるという程度の文章を、「理拠を有する」などと訳すことになるわけです。こういうものを、元の用語の一貫性を棚上げして、日本語として不自然でないように訳し分けるか、それともあくまでも一つの「術語」(テクニカル・ターム)として、「理拠」というやや聞きなれない言葉で押し通すか、なかなか判断に迷うところです。

ちなみに、以前も話題になった長谷川宏訳のヘーゲルでも同じことで、あの翻訳では、有名な
aufheben(「止揚」と訳されてきたもの)を、場面場面で、訳し分けています。

文章単位で何か良い例を思い出しましたら、サンプルをお見せしたいと思います。



No.645

Re:専門語の定訳
投稿者
---こば(2002/03/16 00:58:11)


場面場面で訳し分けて、ルビで「ラチオ」と書くというのはどうでしょう?

No.660

カタカナ・ルビ
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/17 23:35:39)


>
場面場面で訳し分けて、ルビで「ラチオ」と書く

私もカタカナ・ルビというのは好きで多用するほうです。「愛」のうえに「アガペー」を振り、「普遍学」の上に「マテーシス・ウニウェルサーリス」を振るといった具合です。

ただ、このラティオのようなケースだと、訳があまりにばらつきすぎて、それもうまく行かない場合があります。たとえば、「ラティオを有する」というのを「理由がある」
「納得がいく」などとやった場合、さすがに「納得」の上に「ラティオ」と振るのは抵抗がありますから。こういう一見詰まらないことが、結構引っかかってしまうのが、翻訳の厄介なところではあります。

No.662

Re:カタカナ・ルビ
投稿者
---こば(2002/03/17 23:54:05)



>
たとえば、「ラティオを有する」というのを「理由がある」「納得がいく」などとやった場合、さすがに「納得」の上に「ラティオ」と振るのは抵抗がありますから。こういう一見詰まらないことが、結構引っかかってしまうのが、翻訳の厄介なところではあります。

もし「納得がいく」で使われる
ratioがテクニカルタームの一つであって、且つルビを振るのが不自然な場合、訳注で事情を記すのが一般的ということになりましょうか。

No.637

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---こば(2002/03/15 02:54:06)


発せられる言葉の語られ方は、それを受け取る人間たちと、その言葉が発せられる場の雰囲気の如何によって決定されます(修辞学はそういったことを主題としているのではありませんか)。

このことは、その言葉が書かれたものであろうが語られたものであろうが差し当って区別なく当て嵌まります。例えば、書物として書かれたものが出版されるか、講義用ノートだったものが出版されるか、説教として発せられたものが書き取られて出版されるか、書簡集として出版されるか、儀式の暗唱文とされていたものが出版されるか、神話や伝承として語り伝えられてきたものが書き取られて出版されるか、断片的な文章の書かれたノートが警句集として出版されるか、様々なケースがあることでしょう。具体的には、ヘーゲルでも『精神現象学』は書物として書かれ、『美学講義』は講義が書物として後に出版された例ですし、同じことはハイデガー『存在と時間』『形而上学入門』でも同じことが言えます。

説教や演説や講義といった類の書物は、比較的聴衆の常識を訴えかける文章が多いように思います。例えば、古代で言えばアリストテレスがホメロス『イリアス』を盛んに引用したり、ハイデガーが『形而上学入門』でヒトラーの長靴を持ち出したり、またよくは存じませぬがエックハルトの説教やキケロの演説といった類はそういった受け取り手の常識を加味した語り方が盛んになされていたのではないでしょうか。

しかし、語ることと違って書くことは受け取り手の常識を余り考慮に入れることがなくなります。書き手にとって受け取り手の存在が見えにくくなります。それでも書き手は何らかの仕方で受け取り手を意識しているのではないでしょうか。書き手はその語る主題によって受け取り手を選んでいる、と言ってもよいかと思います。極端に言えば、「誰にでも分りやすい」本だと自称していても、矢張り一定の理性を持った(漢字が読める、その主題に何らかの関心があるなど)或る受け取り手を想定して書かれているわけでしょう?

原著者がラテン語や古ドイツ語を現代語に訳すことなく引用しているとすれば、それはそれで書き手が受け取り手を選別しているのではないでしょうか。ある国にいるある書き手が、それを理解できる受け取り手に、何らかの受け取り手の「常識」を期待して、この時代の雰囲気に支配されながら、何らかの本を書く、ということでしょうか。
しかし難しいのは、それを日本語に翻訳するに当って、原著者がその国の受け取り手に期待している「常識」を同じように日本の受け取り手に期待してよいのか、といった点にあります。というのは、その国の或る受け取り手が有する(と期待される)「常識」と日本の或る受け取り手が有するだろう「常識」は異なるものだからです。彼の国でラテン語が「常識」であると期待されるようには、日本でラテン語が「常識」として期待されはしないわけで、だからこそ翻訳が必要とされます。要するに、原著者が期待する「常識」を加味しつつ、翻訳者が何を日本の読者に「常識」として期待するか、という問題なのでありましょう。

私としては花山さんと同じ考えです。原文をそのまま載せてその横に大意を載せることによって、専門分野を「常識」とする読み手は原文をそのまま読めば良いし、もっと幅広い関心を持つ「一般読者」はその大意を読めばよいとなればすっきりできると思うのですが。
とはいっても、引用文が長ければ紙数を食いますし、非常に難しい問題ですね。ご苦労の程、お察し申し上げます。

No.638

非専門家向けの翻訳を
投稿者
---柳林南田(2002/03/15 05:08:46)


専門家は、原書を読むでしょう。あるいは原書が手に入る環境(図書館含む)にあって、翻訳を読んでも疑問点があれば原書を参照できるでしょう。

従って、非専門家向けの翻訳をするべきだと私は思います。ただし、訳者が補ったところはちゃんとそう示すことが必要だと思います。また、可能な限り訳注を付けてほしいと思います。

No.648

訳註
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/16 10:02:50)


翻訳というのは、関心と理解度を共有できる人たちを読者に想定する場合がいちばんやりやすいのですが、一方でやはり「翻訳」である以上、「啓蒙」といっては口幅ったいですが、少なくともオーディエンスの拡大を考慮しなければならないわけで、その意味では、「非専門家向けの翻訳」というのは、尤もなことだと思います。

訳註もそうした配慮の一つですが、これも程度が厄介です。比較的最近の例ということで、スタイナー『バベルの後に 上』(法政大学出版局)では、すべての人名に訳註がついているので、とても煩雑になっています。やはりこの本の読者なら、あそこまでは必要ないような気がします。私の場合も、たとえば、いきなり「一二七七年のパリ大学の禁令」などとあった場合は、やはり大方の読者はピンと来ないでしょうから、歴史的状況を含めた訳註をつけます。デカルトの「欺く霊」くらいは微妙なところです。中身は分かっていても出所が思い出せない人もいるだろうからと、こんな場合は出典を訳註にしたりします。人名も判断に迷うところで、カント、フィヒテのランクはもちろん何も註を付けませんが、ヤコービあたりになるとちょっと微妙です。文脈によっては何かを補う必要が出てきそうです。この辺も線引きが難しい
……

No.639

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
--- 洋介(2002/03/15 08:46:20)
http://y7.net/bookish


 誰に飜譯を讀ませるかの問題、以前にもここで話題に上ったと記憶します。そこで過去ログを探してみたのですが……見當らず。
 いまアップロードされてゐる分以降の過去ログは保存せられてゐるのでせうか。もし讀み返せるなら有り難く存じます。

 このあひだ飜譯書を見てゐましたら、たまたま或る二册がどちらもキケロの『トピカ』を引用してをりまして、それがどうやら同じ箇所から引いたもの臭い。しかしそれぞれ日本語の文章としては別物の觀があり、ただ大意が相通じるのでやうやくそれと察しられるわけです。けれどもその一部原文を示してゐる所を校合すると綴りが一致しないし、引用箇所を示す章節番號らしきものも合致しない。すると元來參照するテキストが異なる所爲でもあるのか? ラテン語原文なんて讀めるわけもなし、刊行中の『キケロ選集』(岩波書店)にもなぜか收められない樣子なので、確認できずにゐます。
 譯し方次第では同じ原文に基づくとは思へないヴァリエーションを生じるといふ一例でした。かうなると餘りくだきすぎた意譯も考へ物で、今少し原文に忠實であってほしい。大意をつけるだけといふのも私は賛成しません。原語が讀めれば何も邦譯に就きはしません。一體さうした「中世末期から近代初頭の思想史に関する」本を讀むやうな「一般読者」であれば、そもそも一般讀者とはいっても單に專門家ではない(ラテン語は讀めない)だけで、好學心を有するアマチュアと見做すべきではありませんか。であれば補記のやうな學問的配慮にも理解を示してくれるのではないかと存じますが如何。

No.641

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---國府田麻子(2002/03/15 12:41:45)


私は、全く語学がダメなので、殆ど凡ての外国文学(文学に限らず)は翻訳書に頼るしかありません。なので、「この翻訳は優れているヨ」などと言う紹介・書評を見たり、聞いたりして訳書を選ぶ、とそれが精一杯です。古典的になった外国文学でも、新訳がだされれば、興味津々で以前のものと比較しながら読んでみます。それも楽しみの一つですね。本題から逸れた、素人意見です。
日本古典文学でも、矢張り同様なのでしょうね。例えば「源氏物語」なども、現代語訳という問題が出てきますね。与謝野源氏・谷崎源氏あたりは、訳文ですらスンナリ読める若い人たちは、ごく希になってきているように思われます。訳文そのものが、既に訳の対象になってきてしまっている感があります。ですから、その時代の風俗なり、習慣なりをどの程度
現代の読者に伝えればよいのか?「あまり丁寧過ぎても」と専門家に遠慮(配慮?)していたら、それこそ、古典文学の世界自体が消えかかってしまう?(ア、語尾あげ?)

確かに、丁寧すぎる訳、ゴチャゴチャした訳注・脚注はどこの国の書物でも、度を過ぎるとなんとなく目障りになってしまったり、原書(原文)の持ち味を損ね兼ねない結果にもなるでしょう。ただ、訳書にもそれぞれの趣がでてくるのは何故か?と考えると、一概に「これがイチバンの訳!」などと言えないのかも知れませんね。翻訳は
読み手の力を信じて、委ねる、という面が大きい分野のような気がいたしますが……。全くの門外漢が、皆様のお話をから感じたことを感じたまま少し書かせていただきました。




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No.650

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/16 23:30:59)


>森さん
>餘りくだきすぎた意譯も考へ物

確かに、引用や典拠として引き合いに出される文章なら、多少堅くても、「原文に忠実」というほうを取ったほうがいいのかもしれませんね。ただ、それが延々と続いたり、地の文章でそれをやられると、読む意欲が大幅に削がれるという惧れなしとしません。

翻訳の問題というのは、国語によっても事情が多少異なるようで、英語・フランス語の場合は、比較的日本語を優先した訳文を作りやすいのに対して、ドイツ語・ラテン語はなかなかそういう具合にはいかないような気もします。もちろん、書かれた文章の質にもよるでしょうが、概してドイツ語・ラテン語の学問的著作は、完成度を追求するようなところがあって、勢い表現の密度が非常に高くなるということもありそうです。

その点、すべてを見ているわけではありませんが、今回の『キケロ選集』は、日本語としても「読める」物になっているように思うのですが、いかがでしょう。

>國府田さん
>丁寧すぎる訳、ゴチャゴチャした訳注・脚注はどこの国の書物でも、度を過ぎるとなんとなく目障りになってしまったり、原書(原文)の持ち味を損ね兼ねない結果にもなるでしょう。

これで思い出しました。
G・スタイナーの「英国紳士の教化のために ―― <英文科>はこれでいいか」(『言語と沈黙』上〔せりか書房〕所)で、シェイクスピアの作品のなかでの古典への言及に註をどれほど付けるかという問題で、スタイナーはこんなことを言っていました。古典の教養が失われるに連れて、「<脚注>はますます長くなり、<巻末単語表>もますます程度が低くなる」。いまのところは、「トロイラス」という人名くらいに脚注が付く程度で済んでいるが、やがては『イーリアス』にも脚注が必要になるだろう、と。これは日本の古典に関しても同様で、私たちも一昔前の人たちが当たり前に呼吸していた知識を大幅に欠落させているわけですから、笑ってもいられないでしょう。日本の古典など、まさにそうした先行作品のアリュージョン(仄めかし)に溢れかえっているわけでしょうから。

No.643

取り急ぎ、まず過去ログを
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/15 20:09:49)


一斉に反応を頂戴し、ありがとうございます。やはりこういう問題ですと、皆様それぞれにお考えがあるようですね。

>いまアップロードされてゐる分以降の過去ログは保存せられてゐるのでせうか。もし讀み返せるなら有り難く存じます。

これはずっと気になっていたことで、無精をしていて申し訳なく思っています。保存はしてありますので、とりあえずこの主題に関してのスレッドを
こちらに掲げておきます。体裁もあまり整えてありませんが、取り急ぎ。全体のアップロードはいましばらくお待ち願えればと思います。

本論の「翻訳」問題に関しては、また追って。


No.649

Re:誰に翻訳を読ませるか
投稿者
---ねあにあす(2002/03/16 22:26:19)


お久しぶりです。
翻訳をめぐって議論が盛り上がりつつありますね。
そこで、奇をてらった意見をもひとつ。

「専門家」向けと「素人」向けに別々に出す!ってのはいかがでしょうか。
1)まず「専門家」向けに、原語が透けて見えそうなほど語学的正確なバージョンで出版する。あまり売れないだろうから、装丁は、ハードカバーで、あのオブラートみたいなのでくるんで、箱にも入れて、一冊あたり高く売って出版社は収支をトントンにする。ただし、高くても(研究費で)買ってくれる「専門家」の目にとことん適う翻訳を。
2)それから「素人」向けに、とことん日本語として読みやすいバージョンで出版する。価格は限りなく
お求めやすく!、 装丁は「岩アクティブ新書」ってな感じで新書ででも。
(なお、翻訳者の知的ステイタスの評価に関わるので、1
2の順序であって、逆ではないほうがいいのでしょう。)

こんな企画をとりあってくれる出版社はあるかしら。
でもこうすると、出版社の営業の人もターゲットがはっきりして助かるはず。
1は大学の研究室と図書館まわって、2は一般書店で平積みしてもらう!
一冊の外国語文献に複数の翻訳があってもいいでしょ。
『存在と時間』だって7つも日本語訳があるらしいし。

No.655

いっそ対訳を
投稿者
---prospero(管理者)(2002/03/17 10:21:04)


>
ねあにあす殿
お久しぶりです。

>「専門家」向けに、原語が透けて見えそうなほど語学的正確なバージョンで出版する。

これの最も徹底したやり方は「対訳」ということになるでしょうね。ラテン語の古典などは、語学的な注釈と、がちがちの直訳をつけて対訳として出してもらいたいという希望もあります。知り合いの編集者にも、ラテン語古典対訳叢書のような企画を長年温めている方がおられるのですが、実際にはなかなか難しいようです。

そういえば、大正末期頃に出ていた国民文庫刊行会の「世界名作大観」などは、前半が翻訳、後半が原文というかたちで作られていました。もちろん、組み方が違うので、右開きで日本語、左開きで欧文という作りで、そのちょうど真中に「奥付け」がつくという、なかなかに不思議なものでした。

「専門家向け」翻訳と「素人向け」翻訳の両方は、同じ人にはできないような気もします。これは能力の問題というよりも、性格の問題に関わりそうです。「専門家向け」翻訳をやる人は「厳密」志向が強いので、「素人向け」にやろうとすると、ご自分の節を曲げているように感じる人が多いのではないでしょうか。ならば、「素人向け」の方は、別の職分として独立させてしまうとか。ラムの『シェイクスピア物語』のような「翻案」というのも、一つの考え方でしょうか。

No.672

対訳といえば
投稿者
---柳林南田(2002/03/27 21:34:50)


久留間鮫造の記念碑的名著『マルクス経済学レキシコン』(15)が思い浮かびます。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=5303

また、『ドイツ イデオロギー(Die deutsche Ideologie)』の広松版
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=5301
も。


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No.780

Re:いっそ対訳を
投稿者
---翠蓮(2002/07/28 15:39:35)


アメリカなどでは古典類のほかにも外国語の詩集などにbilingual editionと称し対訳の体裁をとっているものが多くでているようです。この対訳にも色々あって比較的正確というか逐語的な英訳から、英訳だけ見せられたら原典の想像のつきそうにもないものまで様々です。また、一つの作品についても例えば「神曲」の英訳はこれでもかこれでもかと次から次へと出版されているようです。対訳を読む愉しみは、原典を読んでその翻訳と比較してゆくことです。
こうしたヴァラエティを見ていると翻訳って何だろうと思います。受容者としてはテキストの森に踏み迷うのも魅惑的な経験です。しかし、供給者としてはそう気楽なことも言っていられないでしょう。

No.782

誰が翻訳をやるか
投稿者
---prospero(管理者)(2002/07/29 17:36:49)


>
翠蓮さん
お久しぶりです。

複数の翻訳がある場合、それぞれが対象読者を充分に考慮し、それなりの独自性を発揮するものであってほしいものです。ただ、そういうことを自覚的に考えている訳者というのは、実は意外と少ないらしく、その意識にかなり疑問を持たざるを得ないものがあるのも事実のようです。「誰に翻訳を読ませるか」という問題は、どういう意識をもった翻訳者が翻訳に当たるべきかということと不可分の関係にあるようです。

ところで、別のスレッドでご紹介した「翻訳通信」でも以前書かれていたことですが、翻訳を読者との関係ではなく、正誤の定まる英文和訳の延長と捉えるような訳者が、特に大学人のなかに多いという事実があると思います。この種の訳者は、「誤訳」というものを異様に恐れることになりますが、それはいわば、答案でバツがつくというのと似たような発想です。しかし、悪い翻訳というのは「誤訳」とイコールではなく、むしろ日本語としての悪さこそが一番の問題だと考えるべきだと思います。

とりわけ人文書の専門的な翻訳の場合、もっぱら誤訳を避けることだけに神経を使うという悪癖を拭い去ることが難しいようです。そうしたやり方で、最終的に日本語が悪くなった場合に持ち出される言い訳が、「原文がそうなのだから仕方ない」というものです。専門家が専門家のために翻訳をするという発想が、日本語として通りの良い、思いきった翻訳をすることを妨げているようなところがあるようです。誤解を惧れずに言ってしまうと、実は「専門家」を自称する人ほど翻訳に不向きなものはないのです。なぜなら、翻訳に必要とされるのは、専門知識以上に、総合的な判断力だからです。

 

No.785

Re:誰が翻訳をやるか
投稿者
---翠蓮(2002/07/31 01:25:27)


 所謂「専門家」の方々が翻訳をする場合に読者としてまず念頭にあるのは、同僚とか昔の指導教官とか生意気な後輩の大学院生だったりするのでしょうか。知的な共同体がある種の閉鎖性をもっていることは必ずしも悪いことではないと思いますが、翻訳の場合には(少なくとも日本では)その閉鎖性が翻訳の質を矮小化する方向に働いているのかもしれません。精神論的な物言いになってしまいますが、原典に忠実な訳だろうが意訳であろうが、翻訳者には自らが選んだ或いは創造した訳語訳文を読者に向けてたたきつけてくるような蛮勇さが欲しいような気がします。勿論、「蛮勇さ」は「丁寧さ」や「細心であること」と対立する意味で言っているのではありません。翻訳という行為は探検や冒険として捉えられるのではないかと思うのです。翻訳者に必要な「総合的な判断力」は探検家に必要な判断力に通じるものがあるのではないでしょうか。
 ただ、翻訳も含めて凡そ文化的な事象の質はその供給者だけで決まるものではないのかもしれません。ずいぶん前にギュンター・グラスが新聞にインタビューで「優れた文学作品は優れた読者なしでは生まれない。戦後ドイツ文学がイマイチなのは優れた読者であったユダヤ人を失ったからだ」というようなことを言っていたと記憶します。事の正否は私には判断がつきませんが、面白いと思いました。ダメなものはダメだと騒がれると返って蔓延るようなところがあるので、ダメなものの前では沈黙するというような見識と痩せ我慢が受け手には必要なのかもしれません。と、ここまで書いて思うのですが、どうして最も身近な読者である「専門家仲間」からの視線が翻訳を萎縮させる方向に多く働いてしまうのでしょうか。日本の知的世界が何か酸欠状態にあるのでしょうか。

No.790

翻訳批評
投稿者
---prospero(管理者)(2002/08/03 11:25:13)


>
 ただ、翻訳も含めて凡そ文化的な事象の質はその供給者だけで決まるものではないのかもしれません

その意味では、やはり翻訳というものの性格をきちんと見究めたうえでの批評が必要ということもあるでしょう。日本にはきちんとした「書評」の文化が育っていないと言われて久しいと思いますが、翻訳についての批評はなおさらです。かつては、林達夫がブリュンティエールの岩波文庫訳を完膚なきまでに叩き、山口昌男がみすず書房旧版のピーター・ゲイ『ワイマール文化』を酷評し、いずれも絶版になったようですが、そこまで激烈なものでなくとも、もう少し歯に衣着せぬ批評があっても良いような気がします。

翻訳というのは一般的には、「ヨコのものをタテにする」だけというふうに思われがちかもしれませんが、翠蓮さんも仰るように、翻訳は実のところは「創造」だと私も思います。それは訳文を創造するというだけでなく、ある著作を別の文化圏、別の時代にもたらすという意味で、文化越境と時代の越境の冒険だと思います。ある著作が、どのような文脈で読まれ、どのようなコンテクストで議論されるべきかといったことも見究めた「総合的な判断力」が必要な所以でしょう。

それにもう一点、翻訳には、書物を創造するという意味合いも強いと思います。どんなに卓れた原著でも、間違いや体裁上の不備はあるもの。記載が不親切だったり、もう少し解説が必要だと感じたりする部分もあるでしょう。翻訳では、そうした点を、註なり、翻訳上の工夫なりで補うことができるわけですから、いわば翻訳者は、自分の入れ込んだ原著を自分の母国語で再創造できるわけで、これほど悦ばしいことはありません。どのような文脈で読まれたいかということも、「解題」なりのかたちで、メッセージとして伝えることもできるわけですから。

それを思うと、翻訳者たるもの、与えられた手段のすべてを尽くして、書物を「創造」してもらいたいと思います。それを十分に尽くしていない訳者は、やはり怠慢といわれて仕方ないでしょう。

No.792

飜譯批評未滿?
投稿者
--- 洋介(2002/08/03 12:55:18)
http://y7.net/bookish


 飜譯批評といへば、別宮貞徳氏が頻りに書いてゐましたね。なかなか「歯に衣着せぬ」辛辣なもので、門外漢がたまに読む程度でも尤もだと思ふことがありましたが、絶版どころか出版社・飜譯者とも一向に痛痒を感じぬ風であるのはどうしたことでせう? 
 例へば別宮氏がウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』(晶文社、
1984)の譯者を徹底的に批判してゐたことがありました。しかしその白石和也氏はその後もゴンブリッチ等の飜譯に當たってゐます。いづれも私にとって氣になる書物なのですが、譯者が惡い所爲で購入するのに二の足を踏んでゐます。
 グロータース神父の『誤訳』(初版1967)等、刊行時は評判を取って、いささか論爭を喚んだりしたやうですが、あまり實のある結果を生んだ風でもありません(蓮實重彦『反=日本語論』に嫌味が書かれてゐましたっけ)。張明澄『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち!』(久保書店、1967)にしても果して折角の忠告が生かされたのかどうか……寡聞にして存じません。
 以上は飜譯批評といふよりむしろ誤譯批判といふべきなのかもしれません。多くは誤りを指弾してまはるばかりで、單なる技術論を脱して批評の域にまで達した文章は尠い(單なる技術論で躓いてゐる低レベルな譯書が如何に多いかを示すとも云へます)。それが批判者の優位を誇るかのやうにも見られる所爲か、どうも誤譯を指摘されると反撥が先に立って、虚心に檢討する前に多くは默殺の憂き目に遭はされるもののやうです。

No.796

むしろ「訳者あとがき」の批評を
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/05 01:00:15)


別宮貞徳氏の「翻訳時評」などは、単に「誤訳」を指摘するというよりは、日本語としての出来映えが問題にされていることが多かったように思いますので、随分と共感をもつところがありました。その別宮氏が批判したものの一つにスミスの『国富論』がありましたが、最近出た新訳も、あまりこの批判を真摯に受け止めた風はなく、どうにも解せない部分の多い翻訳のようです。「絶版どころか出版社・飜譯者とも一向に痛痒を感じぬ風である」という一例のようです。

誤訳やケアレス・ミスなどは、いかに注意しても避けられないもので、それをあまりに大袈裟に言いたてるのは好ましくないと思います。むしろ問題にされ、批評の対象になるべきは、訳者の姿勢そのものだと思います。一冊の書物を作る以上、それが本人の創作であるか翻訳であるかを問わず、同じだけの意気込みと目論見があって然るべきなのですが、こと翻訳となると、どうも訳者は黒子という意識が働くせいか、書物を創造するという意識が弱くなるようです。しかし、本当はその逆で、一旦は原著のかたちで世に送り出されたものを、違う言語とはいえ、もう一度それを作り出そうとするには、自分自身の創作以上の意識的な目算が働いていなければいけないはずです。その点では、「訳者あとがき」なり「解題」なりが、訳者の意識を伺わせる恰好の場所となるわけで、これ自体を一つの「批評」の対象としてもいいのかもしれません。

しかし、現況では、とりわけ学術書の場合、業績稼ぎのような意識が濃厚で、訳者自身がその書物に惚れ込んで紹介するという気迫に乏しいものがあまりに多いような気がします。いきおい、訳者あとがきも、延々と言い訳を書き連ねているだけのものが目だって辟易させられます。共訳の訳者分担や閲読の手順など、読者にとってはどうでもいいことなのですけどね。

「批評」に耐える「訳者あとがき」が増えることを願ってやみません。

No.800

譯者あとがき再考
投稿者---森 洋介(2002/08/06 01:23:01)
http://y7.net/bookish


>「批評」に耐える「訳者あとがき」が増えることを願ってやみません。

 云はれて思ひ出しましたが、譯者あとがきについては、去年の夏もここで話題に擧がったはず。何を書いたやら忘れてしまって、パソコン損壞で過去ログを失ったので確かめられませんが……。以下もし既出でしたらお宥しあれ。
 「譯者あとがき」を本文から獨立させてそれ自體で取り上げられる體裁にするといふと、例へばいま池田香代子氏が
「あとがき図書館」と稱して飜譯した本の跋文をまとめ、ネットで公開してゐます。
 無論この手の編輯は前例あることで、昔、ゾッキ本屋で田邊貞之助
『夢想の詩学 フランス幻想文学散策』(牧神社、1977)を見かけた時、中味を改めると田邊貞之助譯書のあとがき類を輯録したもので、そのためか物足りぬ解説文が多いやうに感じ、うち何篇かは既に所藏する譯書に含まれてゐることではあり、買はずにしまったことがあります。田邊貞之助の佛文學に就ての自著はこれだけみたいなので、やはり買っておけばよかったかも。
 いづれにしろ、そのやうに集めて見ると、譯者あとがきにも色々なタイプがあるのに氣づかされ、いささか分類學的欲望をそそらぬでもありません(e.g.
「全訳って? 「訳者あとがき」あれこれ」)。
 最近讀んだジェラール・ジュネット
『スイユ テクストから書物へ』(水声社、2001)は、タイトル・序跋・推薦文・註釋等々、これら書物にあってテクスト本文ではないがテクストの外部でもない閾上のものを「パラテクスト」と總稱してその分類學を展開してをり、これを森銑三・柴田宵曲共著『書物』(初版1944)の筆法で和漢の例を補って書かれたらなほ發見があって面白からうと思はされました。日夏耿之介『黄眠零墨』(1942)等は、パラテクストを本文テクスト化して再刻した例になりますか。ともあれ、日本的書物事情を加味してパラテクストを再考せんとすれば、「譯者あとがき」の項目は必ずや追加さるべきものでせう。

No.811

あとがきばかり
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/16 16:58:13)


>池田香代子氏が「あとがき図書館」と稱して飜譯した本の跋文をまとめ、ネットで公開してゐます。

面白いもののご紹介をありがとうございます。「訳者あとがき」は、「役者」がメークを落とさずにインタビューに答えているようなものだというのは、経験者ならではの穿った表現ですね。それにしても、森さんは本当によくいろいろな情報を蒐めておられるものと、感心します。

「あとがき」だけを独立させたといえば、高山宏『ブック・カーニヴァル』(自由国民社)なども、そうしたものの一種ですね。キルケゴールの『序文ばかり』ならぬ、『あとがきばかり』といったところでしょうか。尤もこの書物は、さまざまな書き手の寄せた短文やら、推薦書目一覧など、大量の付加的な情報を加えて、膨大な情報量を誇る一種の事典のような存在になっていますが。

>日夏耿之介『黄眠零墨』(1942)等は、パラテクストを本文テクスト化して再刻した例になりますか

『黄眠零墨』には、具体的にどのような文章が収められていたのでしょうか。手元には河出書房新社の『全集』しかなく、これは元の著作の構成を辿るのが結構面倒なので、無精をしてお尋ねしてしまいます。「パラテクストを本文テクスト化して再刻した」というのが具体的にどういったことか、関心がありますで。
 

No.814

斷簡零墨集
投稿者---森 洋介(2002/08/16 23:20:02)
http://y7.net/bookish


>『黄眠零墨』には、具体的にどのような文章が収められていたのでしょうか。

 私も『黄眠零墨』を架藏してゐないため具體的に收録各篇の名を擧げることができませんけれども、大體のところ、日夏耿之介による自著・他著への序文や跋文、新刊書籍の推薦文などから成り、斷片的な書簡なども入ってゐたやうに思ひます。
 それらは初出時は、正にジュネットの謂ふ「パラテクスト」でしたが、集められて『黄眠零墨』といふ一卷の書を成すに際して本文テクストと化したわけです。ふつうその手の斷簡やら零墨だのは、個人全集で後の方の卷に「雜纂」と稱して集められるのが通例で、そこで甫めてパラテクストから本文テクストへと昇格するわけです。
 『露伴全集』に漏れてゐた逸文が肥田晧三・谷澤永一・浦西和彦三氏によって拾遺され、上下計千ページに及ぶ別卷を出した例があります。全集の價値は未收録のまま埋もれてゐたパラテクストをどれだけ拾ってあるかにかかってゐると思ひます。尤もこれは、當方が貧書生ゆゑ、全集類も揃ひではなく古書展にて端本でしか買へないので、さういふ後の方の卷(所謂
キキメ)ばかり目がゆくのかもしれません。
 全集といへば、豫約購讀者を募る内容見本のパンフレットがつきものですが、そこに掲げられる推薦の辭などがこれまた逸文になりやすいものです。單行書ですと腰卷(帶)の文に相當しませうか(cf.
帯、または腰巻)。これら落ち穗拾ひの愉しみを解する人種が書誌學者になるのでせう。また讀書家には後書きを先に讀んでしまふ人や序文だけ目を通す人など、本文以上にパラテクストの讀者であるやうな人も少なくないでせう。さういった性分の者にとって、『黄眠零墨』や『退讀書歴』(柳田國男)のやうな編輯の仕方で作られた本が、殊に心惹かれるものになります。キェルケゴールの『序文ばかり』といふのは不勉強にして存じませんでしたので、こんど圖書館ででも見てきます。

No.802

Re:むしろ「訳者あとがき」の批評を
投稿者---ながしま(2002/08/09 11:00:48)


みなさま、はじめまして。m(_ _)m

不勉強ながら別宮貞徳氏の「翻訳時評」は読んでないのですが、氏の監訳されたメア
リー・カラザース『記憶術と書物』を、特にトマスの引用部分などの訳文を、首をな
んども傾げながら読まずにはいられなかった私には、氏が他人の訳文に痛烈な批判を
されているということに大きな驚きを感じます。

まあ、そんなことはともかく、

>むしろ問題にされ、批評の対象になるべきは、訳者の姿勢そのものだと思います。
>一冊の書物を作る以上、それが本人の創作であるか翻訳であるかを問わず、同じだ
>けの意気込みと目論見があって然るべきなのですが、こと翻訳となると、どうも訳
>者は黒子という意識が働くせいか、書物を創造するという意識が弱くなるようです。
 私の師匠が以前おっしゃっていたのですが、研究書の翻訳などは、翻訳者自身が
その研究書と同じレベルの研究書を書けるくらいその分野に通暁してないと、まとも
な翻訳はできないのではないか、と。私はそれを聞いて身が縮む思いだったのですけ
ど。
 皆さんの書き込みで読者を分けて考えるというのはあったのですが、むしろこのよ
うな問題では翻訳される本の種類によって対処の仕方をかえるべきではないかと、
私には思われます。つまり、文学と思想では訳者のスタンスは異なるべきでしょうし、
思想でも一次原典と研究書、それから概説書では訳す際の配慮はぜんぜん異なって
然るべきでしょう。
 原典(特に「古典的」といわれるようなもの)は、複数の異なったスタイルの翻訳
があるのが望ましいと思われますし、その翻訳の中には実直に(?)直訳調のものさ
えあってもよいのではないかと思います。

いかがでしょう?
 

No.804

一次文献と研究書
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/13 15:00:08)


>ながしま様、はじめまして。ご挨拶、遅れて失礼しました。

仰る通り、対象となる著作の種類によって翻訳の性格を考えるというのは、まず真っ先に抑えるべき点でしょうし、そうしたアプローチが先ずは正攻法であることは間違いないでしょうね。とはいっても、やはり物事にはいろいろなニュアンスがあって、一次文献と研究書の境界線一つにしても、そう簡単には引けない場合もあろうかと思います。例えば、哲学関係では、レヴィナスなど、20年くらい前なら、フッサール、ハイデガー周辺の「研究書」という扱いだったでしょうが、いまでは堂々たる一次文献の仲間入りを果たしたりもしています。ジャンケレヴィッチなどもそうでしょうし、ベンヤミンでも、そうした傾向が見られるのではないでしょうか。要するに、著者に対する評価如何によって、その著書が一次文献なのか、二次文献なのかという類別も変わってくるような気がします。

翻訳者の仕事というのは、その辺の見究めも含んでいると思います。今の日本語環境での需要のされ方を考えたうえで、その翻訳スタイルを決めていくということが、やはり翻訳に対しては要求されるのではないでしょうか。ですから、後に一次文献とみなされるようになるほどのテクストなら、翻訳というものが十分に役割を果たしているのなら、その時々の需要状況に応じて、何種類もの翻訳が出るというのは、当然になされるべきなのかもしれませんね。

>〔別宮〕氏の監訳されたメアリー・カラザース『記憶術と書物』を、特にトマスの引用部分などの訳文を、首をなんども傾げながら読まずにはいられなかった私

この『記憶術と書物』(工作舎)は、基本的に名著だと思っていますし、私自身は、翻訳それ自体に強い不満を抱いたことはなかったように記憶しています。確かに中世関係の部分は、議論自体がやや細かくて、追いかけるのに多少苦労したような覚えはありますが。

その引用個所など、具体的に例示して話題としていただけると面白いかもしれませんね。


No.809

翻訳とその評価、批評と自己批判
投稿者---ながしま(2002/08/16 10:49:50)


prospero様
コメントありがとうございます。

>翻訳者の仕事というのは、その辺の見究めも含んでいると思います。今の日本語環境で
>の需要のされ方を考えたうえで、その翻訳スタイルを決めていくということが、やはり
>翻訳に対しては要求されるのではないでしょうか。
 まったくその通りだと思います。そういう意味でも(その他の意味でも)翻訳という
のは多くの実力と労力をもとめられ、大変な仕事だと思います(割には評価が低いのが
嘆かわしく感じるのですが)。

>その時々の需要状況に応じて、何種類もの翻訳が出るというのは、当然になされるべき
>なのかもしれませんね。
 はい、そしてそのような数種類の中には、研究者仲間やこれから専門として学ぼうと
する後輩たちに向けられた、原文に忠実な翻訳もあってよいのではないかというのが、
さきの私の発言の主旨です。(伝わりづらかったかもしれませんが。そしてこれ同じ
ような理屈を、「古典的」と呼ばれるようなテキスト以外にも安易に適用しようとは
思っていない、というのが翻訳されるテキストの性格も考慮にいれるべきだと書いた
理由でした)。
 だからそういう意味でも(「何種類もの翻訳が...なされるべき」という意味でも)
古典作品で、「『〜』は○○先生の手による翻訳が既にあるのだから、改めて翻訳す
る必要もないし、またすべてきでもない」という空気になるのは、よろしくないこと
だなぁと思ってしまいます。確かに、新しい訳が必ずしもより良い訳になるとは限ら
ないというのは事実ですけれども。

>その引用個所など、具体的に例示して話題としていただけると面白いかもしれませんね。
 読んでからもうしばらくたちますし、あの分厚い本を誤訳(かもしれない語)の指摘
のためにもう一度読み直すのは勘弁いただきたいのですが。(^^;; それに、人の翻訳に
ケチを付けるというのは私の意図していることではありません。
 正直、驚きを感じたということをそのまま(他意なしに)そう書いただけだったので
すが。(^^; とはいえ、どういうことについて自分がそういう感情を持ったのか、改め
て考えますに、私がそこで感じたのは、別宮氏が行なった批判は自分のことを棚に上げ
たものではなかったということだったのだろうと思います。
 批評・批判というのは、自らに反ってくるという自覚と自分の仕事に対する責任を
持って行われる時に初めて、迫力といえば陳腐ですが、そういう説得力を持つと思っ
ております。しかし世に見かける批評というのは、言葉上は「歯に衣せぬ」などと派
手でも、実質は無責任に自分のことは棚に上げたむなしいものが多いのではないでし
ょうか?
 前の発言にも書きましたとおり、私は「翻訳時評」を読んでないので、別宮氏の批
評がそういうものだったかどうかは判断できませんが、もしそうだったのなら非常に
悲しいと感じずにはいられません。

# いかん、また長くなってしまった (^^;;


No.810

腐った卵
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/16 12:41:51)


>ながしま様

翻訳が労多くして報われることの少ない作業と言われるのは、ある面でその通りかもしれません。「業績作り」などという下世話な面から見たら、なおさらでしょう。自分の書き下ろしならば、自分の分かっていることだけを自分の責任で書けば良いのですが、翻訳となるとそうはいかず、自分の不得手なことも何とかして消化して、自分だけでなく読者に伝わるかたちにしなければならないのですから、その作業量はなかなか大変なものです。「研究書の翻訳などは、翻訳者自身がその研究書と同じレベルの研究書を書けるくらいその分野に通暁してないと、まともな翻訳はできないのではないか」と書かれていたのは、かなりの程度当たっているのではないかと思います。

しかし、以前にも書きましたが、自分の入れ込んだ書物を母国語で再創造するという愉悦は何物にも代えがたいので、そういった点では、翻訳は第一級の「娯楽」だと思っております。止めろと言われても止められない。

翻訳の批評は、その批判者自身が翻訳に携わっている者ならば、その当人にも撥ね返ってくるというのも、倫理的にはその通りでしょう。しかし私はそこまで厳密に考えていません。(気の利いた格言というとかならず引き合いに出される)チャーチルが、ある作品を酷評して、作家自身から「それなら自分で書いてみたら良かろう」と反論されたときに、こう応じたとか。「私は自分で卵を産んだことはないが、腐った卵は見分けがつく」。

批評をすることと、その批評で要求した水準を自分でクリアすることとは別物です。あえて言うなら、批評家と翻訳者は、たまたまそれが同一人物であっても、テクスト上はまったく別のものと考えて良いのではないかとすら思っています。現実の倫理とテクスト上の論理は別ものだという感覚が私などには強いので。

『記憶術と書物』の疑問の個所を所望したのは、もちろん誤訳指摘をして溜飲を下げようということではなく、中世哲学の用語などが、どの程度の必然性があってそういうかたちを取っているかを検討してみるのに良い例になるかと思ったからにすぎません。お気になさらぬよう。

しかし、一般的にはやはり翻訳批評というのは難しいものです。誤訳指摘に終始するような翻訳批評は、あまり品格が上等ではないと思いますが、実際には翻訳批評というと、どうしてもそうなりがちで困ります。もちろん、森さんが仰っていたように、「單なる技術論で躓いてゐる低レベルな譯書が如何に多いか」ということの現れでもあるのでしょうけど。

No.817

現実の倫理とテクスト上の論理は別もの
投稿者---ながしま(2002/08/17 15:52:29)


翻訳が「愉悦」「娯楽」という考え方にはなるほどと思いました。本来そうであるは
ずでしょうし、またそうでなければならないと、わが身を省みて反省しきり。(^^;

それから、「現実の倫理とテクスト上の論理は別もの」という考え方ですが、確かに
その通りなのかもしれないとも思いつつ、テキスト上の主張と現実の倫理がかけ離れ
ている、というかまったく逆な先生方のお顔が思わず思い浮かび(「ああなってはい
けない」という逆の意味での師匠と申しましょうか (^^;;; )やはりどうも首肯きか
ねるものがあります。
 もちろん「批評で要求した水準を自分でクリアできない者は批評をする資格はない」
などと主張するつもりは毛頭ありませんが。単に「わが身を省みればどうだ?」とい
う緊張感無しに行われた批評は、見た目は痛快でも、内実は虚しいのではないか、逆
にそういう緊張感をもって書かれたものは言葉上は地味でも実のある批評になるので
はないか、というごく一般的な常識論を改めて書いているだけです。

No.812

『記憶術と書物』抄
投稿者---森 洋介(2002/08/16 18:21:59)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/topos.htm#Viehweg


>その引用個所など、具体的に例示して話題としていただけると面白いかもしれませんね。

 ながしまさんのおっしゃるトマスの引用ではありませんが、以前このスレッドの
「No.639 Re:誰に翻訳を読ませるか」で申したキケロの引用が、實は、正に別宮貞徳監譯『記憶術と書物』中のものだったのでした。
 キケロの『トピカ』から同じ箇所を引用したものらしいのに、『記憶術と書物』と
『トピクと法律学』(テオドール・フィーヴェク著/植松秀雄譯)とは、それぞれ原文が同一とは思はれない程のヴァリアント(異文)をなしてゐます。
 兩書から問題の箇所を拔萃したものを、私のサイトの
或るページに竝記してあります。殊にカラザース『記憶術と書物』の方は原註にラテン語原文をも引いてありますので、對照しやすい。語學力無き私にはLatin is all Greek to me ですが、この掲示板をご覽の方には適譯なりや否やを判定できる人もをられませうから、ご參考まで。


No.813

推測するに
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/16 20:00:04)


Ut igitur earum return ... のreturn を rerum、argumentum autem rationum quae ...の部分のrationum を"rationem"と訂正した上で両者を比べてみると(後者は『記憶術と書物』自体の誤植でしょう)、やはり別宮氏の訳は正確でわかりやすいものだと思います。フィーヴェクのほうのargumentum autem orationemのorationemは、rationem の誤植でしょうか(ただし、その直後の訳の「答弁」を見ると、原本もorationemだったのでしょうか)。私の手もとの十八世紀刊本の『キケロ全集』を確認したところでは、rationemでした(ちなみに、この刊本は、かなり近代語に近いかたちで句点が施してあって、テクスト自体が結構読みやすくなっています。しかし四折版で相当に重いので、引っ張り出すのに骨が折れます)。

フィーヴェクのほうの訳文は、文章の形からすると、ラテン語原典から直接訳したものではなく、キケロの文章をフィーヴェク自身が訳したもの(独訳でしょうね)を、日本語の訳者が重訳したものではないかと推測されます。訳文にある「素材」という言葉は、ラテン語の文章からは思いつきにくい訳語ですが、もしラテン語のres(rerum)(ごく普通に「もの」の意味)をドイツ語にすると、"Stoff"という訳を当てるのは大いにありうるでしょうし、これをさらに日本語にしようとすると、「素材」と訳されてしまうのは十分に考えられます。さらに、最後のfaciat fidem(「確たるものにする」)も、ドイツ語で"zur Bewaehrung fuehren"などとなっていると、訳にある「確認にまで連れ出される」という、やや耳慣れない言い方になると思われるからです。もちろんこれは当て推量なので、いずれ機会があったら、フィーヴェクの原著で確かめてみたいと思います。

ということで、この引用に関しては、明らかに別宮氏訳に分があるのではないかというのが、私の判断です(ただし、出典はもしかするとフィーヴェクのほうのTopica, 2, 7のほうかも。私の18世紀刊本ではそうなっています。しかし現在の批判版ではどうなのでしょう。これも機会があったときに調べておきましょう)。

No.816

LoebのTOPICA
投稿者---ながしま(2002/08/17 15:30:25)


Loeb版のTOPICAでは「rerum」と「rationem」でした。
ちなみに、Loebの訳文の方は...

It is easy to find things that are hidden if the hiding place is pointed out and marked; similarly if we wish to track down some argument we ought to know the places or topics: for that is the name given by Aristotle to the "regions", as it were, from which arguments are drawn. Accordingly, we may define a topic as the region of an argument, and an argument as a course of reasoning which firmly establishes a matter about which there is some doubt.



原文に忠実でわかりやすい英訳だと思います。
 私はThe Book of Memoryの方を持ってませんので、この英訳をカラザースが使ったのかそれとも独自に訳したのか知りませんが、明らかに「なんらかの疑いのある事象をしっかりと確立する一連の論法である」などはLoeb訳の影響が見て取れます。
 『記憶術と書物』と『トピクと法律学』との二つの訳文の違いは、英訳と独訳の違いの反映でしかない可能性もありそうです。


No.818

Re:webのTOPICA
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/17 16:48:48)


なるほど、この英訳をみると、カラザースでの引用はこのLoeb訳を使った公算が大きそうですね。カラザースの引用が元々このLoeb訳だったのかもしれませんね。そうなると、フィーヴェクのものよりこの部分の訳が良いのは、(日本語の翻訳者より)むしろLoebの功績に帰すべきでしょうか。

ちなみに、web上のThe Latin Libraryでも
『トピカ』のテクストが参看できます(エディション不明ですが)。そのほかのラテン語テクスト類も、しばらく見ないうちに随分と充実してきているようです。



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No.821

校合感謝
投稿者---森 洋介(2002/08/18 12:12:11)
http://y7.net/bookish


 prosperoさん、ながしまさん、ご照合いただき有り難うございました。
 
件のページは、“return”の誤植は“rerum”に訂し、The Latin Libraryへのリンクを貼っておきました。
 “orationem”の方は、邦譯『トピクと法律学』の原文ママです。フィーヴェクが使ったキケロのテキストが既にさうなってゐたのか、Viehweg原著の誤寫誤植か、邦譯版での誤寫かは判りません。しかしいづれにせよ原書に古典からの引用があった場合、氣の利いた邦譯者ならば原典とその定譯に當たってみる位のチェックはするものでせう。そこまでする程の本ではない、といふなら是非もありませんが。
 ともあれ、キケロの『トピカ』に邦譯が無いらしいのは殘念に思ってゐます。Loeb對譯叢書で讀めばいいやうなものですが、私の英語力は中學生なみでして。


No.842

「訳者あとがき」
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/08 21:28:44)


あいだが空いてしまいましたが、先週の朝日新聞の
書評に「訳者あとがき」についての記事がありましたので、ご紹介しておきます。ここで言われるような意味での訳者は、原著の最も熱心な読者であり、かつ紹介者としても最適ということになるのでしょう。

 


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