(旧)口舌の徒のために(過去ログ) 4月1日〜4月9日

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新居のご案内 投稿者:庵主  投稿日:04月09日(月)19時58分05秒

きゅー氏とのやり取りに出ていたように、新しい掲示板を取得しました。本日中に本体のStudia humanitatisも改装をいたします。ここはまだしばらく開けておきますが、過去ログの整理などを済ませたら閉鎖いたします。今度のところ(↓)はツリー型なので、お互いの応答の流れが見やすくなるはずです。本投稿以降の書き込みは、新掲示板にてお願いいたします。 ブックマークその他の変更をお願いいたします。

http://www2.realint.com/cgi-bin/tbbs.cgi?humanitas

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ヴァイオリンその他 投稿者:こば  投稿日:04月09日(月)19時20分37秒

こばから皆様への質問誰か一人、本の著者或いは作中の登場人物に会うことが出来るとしたら、あなたは誰に会いたいですか?その人に向かって何を言いたいですか?或いは何を尋ねたいですか?(ユーモア歓迎)

ヴァイオリン話で思い出したこと去年の夏休みにドイツ・オーストリアに旅行に行き、そのついでにザルツブルクに寄ったときにコンサートに行きました。コンサートと言っても100人位が入れる部屋で行われたモーツァルトのコンサートで、『ザルツブルク交響曲』や『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』といった、要するにザルツブルクに来れば誰でも聞くような曲目のコンサートだったのです。演奏者についても5,6人のアンサンブルで、実力の程は知れません。その人達が客観的に上手いのかどうかはともかく、少なくともそれ程有名な人達ではなかったと思います(比較的若い人たちのように見えました)。ですが、驚いたのは会場設定で、日本と違って席は完全に自由、椅子が整然と並んでいるだけで勝手に座れます。また、演奏者と聴衆の席の区別がなくて、同じ部屋で同じ高さで演奏がされるのです。ちょうど演奏者から4,5メートルしか離れていないところに長椅子が置かれていて、わたくしはそこに座って演奏を聴きました。というのは、わたくしはヴァイオリンをその年の5月に習い始めたばかりで、そのときまだ二,三ヶ月しか経っていなかったので、プロのヴァイオリニストがどう演奏するか見てみたかったからです。間近でその演奏を見てみると、ヴァイオリン初心者のわたくしにはやはり脅威と言うしかありませんでした。弓は4弦の上を自由自在に渡り歩き、なおかつ脅速の運弓、魅惑的なヴィブラート(音を震わせる技術)、、、しかもそれらが複数の演奏者によって一体となって一つの音楽を構成してゆくのです。わたくしはただただ単純に「凄い」と思いました。休憩時間になると、演奏者たちは楽譜を残して別室に引き上げて行きます。そこで、その楽譜を覗いてみると、おたまじゃくしの大群がうようよと紙の上を泳いでいるのが見えます。要するに相当込み入っていて複雑そうでした。(そのくらいのことしかわかりません。)普段何気なく聴いている『アイネ・クライネ・・・』があんなに難しいとは思いもよりませんでした。あれは魔術です。弓に生命を吹き込み、自在に弦の上を走らせる魔術です。 ちなみにわたくしは、8万のヴァイオリンを非常に高いと思っている、スタッカート(一音一音を強く区切る技術)に苦しんでいる、(来月から)ヴァイオリン2年生です。

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13日にあの場所で集合 投稿者:きゅー  投稿日:04月09日(月)02時57分09秒

>なぜ庵主さまは『宿命の交わる城』にまで触手を伸ばしているのですか。

イタロ・カルヴィーノだけは他の誰にも譲らんと思い続けている作家の一人なのに・・・20世紀のイタリアといったらモラヴィアではなくましてウンベルト・エーコなどでもなく絶対カルヴィーノだ!といきまいている私への衝撃的な打撃です。嗚呼、何度『見えない都市』を読み返したことか。

>國府田様 お帰りなさいませ。

ところでヴァイオリンってやたら高いですよね。知り合いにも何人かオケでヴァイオリンを弾く人間がいるのですが、「これ? 安い、安い、50万だったもん。」などと私の理解を超えたことを言う輩がいまして、聞いた話では音大などに入っている人間は当然のように数百万のヴァイオリンを持ってるそうで、(その人の妹が音大にいるので)ちょっと想像を超えた話です。でも確かにヴァイオリンは良いですよね、本当に。知り合いのベース弾きはギターとベースの良さを私に語るのですが、あんなのアンプやらエフェクターを通さなきゃぺろんぺろんという音しかしないし、エレキギターの最初からアンプやらに音を通して音を加工してる時点であんなのは紛い物だ、と強く思ってます。(こばへ、これは内緒です)

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ただいま、帰って参りました。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月08日(日)22時16分40秒

皆さま。《ただの》旅から帰って参りました。房総は暖かく、ミカンがなっておりました。蛙が鳴いておりました。田圃は田植えの準備が済んでいました。一日見ない間に、また真剣な議論が巻き起こっていますね。驚きです。 こばさまが、庵主さまの「書評」について書かれていたので、私もお尋ねしたいことがあったのを思い出しました。ちょっと間があいてしまったのですが、庵主さま、宜しいでしょうか??でも、今日は書き込めません。昨日、今日のアルコールが抜けず、徹夜で楽器を弾いていたせいでとても眠いのです。。。(つまりは合宿だったのです)。 友人が、バルトークのクァルテットを弾いているのを聴いて、「ナカナカイイナ」と思ったりしました。 オヤスミナサイ。

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闘争はいつ始まるか 投稿者:庵主  投稿日:04月07日(土)23時02分21秒

>こばさま

 私の「活字」のほうものも含めて、内容を良く消化していただいたようで恐縮です。簡単に言って、ニーチェは自己完結的な「力への意志」として近代的なシステムを完成させる一方で、その多元論という面では同時に近代の克服者なのではないかということでしょう。完成と克服の交差する地点を良く捉えていただいていると思います。しかし、やはり後者の論点はなかなか微妙です。一口で言って、多元論や「抗争」を主張する場合、その諸々の視点を「複数」として理解し、その対立関係までをも理解しているのはいったい「誰」なのかという問題がどうしても残ってしまうからです。

 『侍女たち』に関してですら、実は視点の複数性くらいは言えるのです。『侍女たち』を想い起こしていただくとお分かりのように、あそこで描かれている人々の「視線」は一つとして交差していません。視線は次々と先送りされるだけなのです。ここには「抗争」や対面する他者はいませんが、だからと言ってこれが視点の複数性ではないということにはなりません。やはりこれもある種の多元論を含みうるのです(近代的表象のしたたかさ!)。

 しかしご指摘のように(そして私自身のお気に入りでもあるように)、『大使たち』に代表される「アナモルフォーズ」(多視点画像)は、見ている側の視点の動揺をモデル化できるという意味では有利な図像です。この場合だと、「誰が見ても同じ」というわけではないのですから、ベラスケス・モデルとは異なったタイプの理解を提示できるのは確かでしょう。ただ、翻ってニーチェ本人にとってこの視点の動揺にあたるものをどこに求めれば良いのかとなると、話は俄然込み入ってきます。「闘争」とうものがどこで見抜けるかという点については、系譜学や永劫回帰といった他の装備を持ち込まないことには、上手く整理がつかないでしょうが、それはここでやるにはあまりにも野暮ったく大袈裟です。ということで、この同じ問題を、ここでは「遠近法の複数性」という論点で、本体のStudia humanitatisのほうにいずれ書き込みたいと思います。これは「思想の中の他者」の議論に盛り込もうと思いながら、複雑になるのを避けて省略した点でもあります。今しばらくお待ち下さい。

>きゅーさま

 無料掲示板の情報ありがとうございます。覗いてみました。Real Integrityなるところのものが良さそうな気がします。ただ移行するとなると、過去ログを整理して纏めたりするのが億劫でもあります(すでに消去されたものも保存はしてあります)。『宿命の交わる城』、無事入手できると良いですね。あれは良いですよ。でもそんなに高くなっているとは。

>こばさま、きゅーさま両氏へ

 内々だけで分かる人名への言及は止めにしましょうよ。「現実の脱色」云々と言ったのは、一番のところは、「大学的世界の消去」ということなのですよ。大学あるいは学科というような枠組ではない形で知性のあり方を考えてみようというのがここのコンセプトなのですから。まあ、現実の大学とは関係なく、気楽にやりましょう。

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大安 投稿者:きゅー  投稿日:04月07日(土)21時24分03秒

イタロ・カルヴィーノの「宿命の交わる城」を2000円で注文。土日出かけているそうなので返事は月曜になるとのこと。先着順だそうだ。もし手に入ったらお祝いだ。今までネットでは10000円というのしか見たことがなかった。ついでに探してたシルヴィア・プラスの「自殺志願」(原題 THE BELL JAR)をも注文。嬉しいな。またあとで

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タグちゃんと出来てるかな? 投稿者:きゅー  投稿日:04月07日(土)19時34分54秒

>庵主さま

掲示板についてはタダものではない!というタダで手に入る掲示板・カウンター・素材集なんかのリンクサイトがありますのでそこを覗いてみると良いのでは?有料だとさすがにいろいろな機能が付いたのがあるのですが、無料だと私のところのように当然バナー広告が入ってきます。 オルランドのそんなすごいものをお持ちでしたか。そのような本を買い集めて生活ができるところがすごいです。

>こばはプリントアウトなんぞしちゃいけません。手でメモを取るのです。怠けちゃなりません。 またあとで。

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まずは『オルランド』 投稿者:庵主  投稿日:04月07日(土)13時46分18秒

きゅーさま

『狂乱のオルランド』ですか。次から次へと奇書を繰り出してきますね。  私のところに架蔵しているOrlando furioso は二つのエディションです。一点は、19世紀のギュスタフ・ドレが渾身の挿絵を大量に添えている仏訳版。ドレ自身の木口木版の圧倒的迫力もさることながら、フォリオというその特大の版型もその異形ぶりに華を添えています。アストルファの月世界旅行の場面の図版を始め、ドレの劇的な画面構成と視点の特異さは、版画版ハリウッドとでも言ったところ。  もう一点は、18世紀の英訳(1799年)です。これは、ストザードの原画をブレイクが彫った図版(18世紀なので、これはエッチング)が添えられているものです。『オルランド』は、ヴィヴァルディやヘンデルによってもオペラ化されており、ヴィヴァルディの方はビデオでももっています(ヴィヴァルディを侮ってはいけない。因みに国内版はなし)。そういう意味で、この『オルランド』は、もちろん端から端まで読んだと豪語はできませんが、ちょうど『指環』のリブレットに親しんだ程度の馴染みはあります。

 実は、いま挙げた二点のような、挿絵入り稀覯書や18世紀稀覯書を紹介するコーナーをこのペイジでも作るつもりでいたのですが、やはりどうも手と時間が足りません。これは残念ながらしばらく断念します。掲示板の件は私も考えていたのですよ。本体の改装を済ませたら、どこかで借りれる掲示板を物色したいと思います。何か良いものがあったら教えてください。

 そうそう、『中二階』は愉快でしたね。SFと言えば、最近、巽孝之『メタフィクションの思想』(ちくま学芸文庫)が出たようですが、これはかつて『メタフィクションの謀略』として出ていたものです。お間違えなきよう(元のタイトルの方が良いのに)

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アメリカ文学 投稿者:こば  投稿日:04月07日(土)04時20分45秒

庵主様、きゅーさま、質問へのご返答ありがとうございました。早速プリントアウトして検討してみたいと思います。

>きゅー。リチャード・パワーズをマークしときます。ちなみに、Oは大橋のO。さすがにね。

>庵主様。ビートジェネレーションが流行だったみたいですね。「現実の脱色」は下記の具合でいかがでしょう?

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聡明なる小学生様へ 投稿者:こば  投稿日:04月07日(土)03時58分44秒

書評についての正面突撃。粉砕された遊び心。

書評Q5,A5について。ニーチェは二重に捩れた意味で「近代形而上学の完成者」である、と書かれています。ニーチェは、「力への意志」概念によって、それまで意識されずに隠されてきた「表象の自己完結」を系譜学的に暴露した、という意味では、ニーチェは「近代形而上学の完成者」でありましょう。「力への意志」は、確かに、互いの通約不可能性によって、モナドの無窓性によって、また主体措定の拒否によって、自己完結しているのであります。というのは、ニーチェは、一方で、恰も無視点であるかのような「客観的」認識を、身体による直接的な世界開示の次元へと解体し、他方で、機械論的因果性の根拠であるところの認識主体としての意識の直接性を批判、相対化しているからです。そして、力への意志の「客観化(無視点化)」を拒否した時点で最早互いに同じ質でそれらの視点を比較することもできなくなるわけです。ここまでの議論では、力への意志における世界解釈はそれ自身に基づいている、と言えましょう。しかしながら、力への意志はその質的差異において相互に「闘争」しあうものでもあります。というのは、各々の力への意志が、その世界解釈の自己拡張に基づいて、自らが全体であることを主張するからです。即ち、力への意志は「真理への意志」でもあるからです。「闘争」に議論が及ぶにつれて、力への意志においてはベラスケスの絵画『侍女たち』中の「国王夫妻」の近代表象モデルが当てはまらないことがわかってきます。思い出していただきたいのは、『侍女たち』においては、誰が見てもどこで見ても「国王夫妻」が鏡に映っていることがその要点でした。しかし、力への意志は解釈するとともに闘争するのであって、世界解釈は質的差異として複数であることが前提されるようになります。つまり、力への意志はそれぞれ違った視点を持っているのであり、とすると、同じ一つの場で様々な視点が拮抗しているモデルが必要となってきます。そこで挙げられるのが、ホルバインの絵画『大使たち』です(以下のリンク参照)。この絵は主題である二人の大使を正面から見ることができるのですが、その足元の図柄が視点を変えて斜めから見ると髑髏として見えるのです。近代表象モデルの『侍女たち』に対して、この絵を、世界解釈の多元性、複数性のモデルとして考えるならば、最早ニーチェを「近代形而上学の超克者」と呼んでも差し支えないのではないかと思います。と同時に、力への意志にとっての「他」視点をどう考えればよいかが問題となります。その「他」視点は主体に対する他者ではありえないものの、書評においてニーチェが持ち出された以上、「思想としての他者」における力への意志にとっての「他」視点がどう扱われるのか伺いたいと思います。

   http://www17.freeweb.ne.jp/art/jjdorian/H/Holbein/ho03.jpg

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(無題) 投稿者:きゅー  投稿日:04月07日(土)01時09分08秒

>こばへ、

まず必須はリチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」みすずから柴田訳で出てる。搦め手はニコルソン・ベイカーの「中二階」もしくはポール・ラドニックの「あそぶが勝ちよ」(どちらも白水Uブックス)。SFではカール・セーガンの「コンタクト」(新潮文庫)、すばらしすぎる。モダンホラーではディーン・R・クーンツの「ファントム」。劇ではマーシャ・ノーマンの「おやすみ、母さん」(劇書房)ぐらいしか思いうかばん。一応アメリカに限定すると儂にはこんなのしか思い浮ばん。最近読んだ小説で一番良かったのは(小説かどうかちょっと分らんが)エドゥアルド・ガレアーノの「火の記憶 第一部誕生」(みすず書房)。早く続刊出せ。哲学科のO先生とは荻野ちゃんですか?もしそうだったら私は失神します。

>庵主さま、今日ペンギンクラシックスのアリオストの「狂えるオルランド」を買おうかどうか日本橋丸善で実物を見て判断したところ、買うのはやめました。第一高い(上下巻で一万ぐらい)。第二に長い。庵主様もさすがに読んでないですよね?提案なのですが。ここの掲示板は皆書き込みが多いので、ツリー型(見出しだけ表示されててクリックすると全文が見れるやつ)にした方がよろしいのでは?それに返信も読みやすくなりますし。あと、貴重な感想や意見、議論が多いので古い書き込みが削除されない掲示板にした方がよろしいのでは?

>國府田さま、旅に出るとのこと、実際の旅のことで安心しました。私のまわりには旅に出ると言って現実から逃避していくような人間が色々いますので、嗚呼またか、と思ってしまいました。杞憂で良かったです。善い旅を。

>鏡谷さまへ、

お越しになられる際は銃機器類にセーフティーロックを。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

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春と言えばキルケゴール 投稿者:庵主  投稿日:04月07日(土)00時32分50秒

>きゅーさま

 「中古CDオペラ特集のセール」の情報、ありがとうございます。四月になって、私もそろそろ「プロ」の仮面を被ってあちこち出歩くことになり、金曜は丁度寄れると思います。エルガーのチェロ協奏曲はどの演奏を買われましたか。映画で有名になったデュプレ/バレンボイム辺りでしょうか。もし曲が気に入って、かつこの演奏でなかったら、一度この盤をお聴きになることをお薦めします。ウェーバー/メニューインなどもオーソドックスで良い演奏ですが。そうそう、鏡谷さま、身軽ですね。

 陽気が良くなると、私はキルケゴール、とりわけ『あれか、これか』を読み返したくなってきます。とりわけモーツァルト『ドン・ファン』論が。私にとってキルケゴールはなぜか春の著者です。

>こばさま

 そんな私ですから、流行について何かを訊いても甲斐はありません。しかも「現代」と「アメリカ」の組み合わせに至っては、何をか言わんやといったところでしょう。「現代アメリカ文学」というジャンルで考えたことがほとんどないので、いま思い返すと、ピンチョンやバースなんかはそうだったななどとぼんやり思う程度で、てんで情けない有り様です。どちらかというと、まだ「SF」という括りの方がピンと来るかもしれません。その意味では、ル=グィンやヴォネガット、ディーレーニ、ギブソンなどは読みましたね。

 それから、こばさま、もうちょっと現実を脱色できないもんでしょうか。「22,3歳の頃どんな本を読んでいたか」という過去形の質問で、現実の私を知らない人にも、私が小学生ではないということがバレてしまったではありませんか!まあ、それは兎も角、ここのHPで、「推薦図書」として挙げてあるものの大半が、ちょうど学部生から大学院初年度に読んでいたようなものです(もちろん、グリーンブラットやファマトンは違いますが。その辺は出版年度で見当がつくでしょう)。その意味では、これまでは想い出を語るといったような要素が大きかったので、そろそろ違う展開を加味したいと思います。一週間くらいのうちに、全体の構成の模様替えをしたいと思います。その時には、もう少しだけ、現在の私の関心に引き寄せたいと思います。その節はまたご感想などを。

>國府田さま

 お気をつけてお出かけを。告知も構いません。本来の「掲示板」の機能ですから。私ももう少し時間的余裕があれば、いろいろなところに出かけて行けるのですけど....。

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再び公開質問状 投稿者:こば  投稿日:04月06日(金)23時15分38秒

>皆様。

突然ですが、現代アメリカ文学(戦後以降)について皆様のお気に入りを教えてくださいませ。

>庵主様。

一昔前にジャック・ケルアックが流行っていた、と小耳にはさんだのですが、1.庵主様が大学生の頃どんな文学が流行っていたのですか?2.庵主様は22,3歳の頃どんな本を読んでおられましたか?わたくしは勉強が嫌になって全てをほったらかしてオースターの『ムーンパレス』を読了いたしました。今『偶然の音楽』を読んでおります。オースターは最近の流行作家ですので見る人が見れば凡庸な作家ということになるかもしれませんが。ではダグラス・アダムス、カート・ヴォネガットなどはいかがでしょう?持っているだけで読んだことはありませんが、2,3年前に我が大学の哲学科О先生が前者の『宇宙の果てのレストラン』(邦訳ハヤカワ)を英語で読んでいて妙に印象深かったのを覚えております。>國府田様。地酒を片手にバイオリン、というのが妙にリアルですね。

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旅に出ます。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月06日(金)21時08分38秒

皆さま。明日から房総へ旅立ちます、地酒「燦爛」を片手に、楽器を持って。日曜の夜には帰ってきます。 きゅーさま。クラシック館情報、有り難う御座います。13日には屹度行ってみます。鏡谷さまが愛機『紫の太陽』号で金城さまのHPに遊びにいらしたみたいで、よかったですね。

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本で破産。庵主様お気をつけくだされ 投稿者:きゅー  投稿日:04月06日(金)02時11分06秒

國府田様・庵主様:ディスクユニオンお茶の水クラシック館は4月9日(月)に移転オープンするそうです。詳しくは下のリンクから行ってください。13日には中古CDオペラ特集のセールをするそうです。谷崎は早速買います。ところで今日ネットの古本屋を眺めていたら谷崎の自筆書簡などを売ってました。約20万円から120万円くらいまで色々(笑)。良かったらどうぞ。

http://www.diskunion.co.jp/top.html

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嬉しい日は団鬼六を読んで踊るの 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月05日(木)20時14分18秒

庵主さま。

レヴァインの『指輪』、是非知人に頼んで見せてもらうことにします。教えていただき、有り難う御座います。ツェムリンスキーですが、私は今も大好きでよく聴いています。カメラータ・トウキョウから出ている『ツェムリンスキー、ベルク&ウェベルン弦楽四重奏のための作品集』はとくに気に入っています。ウィーン弦楽四重奏団の音がレトロな響きを持っていて。夫れに、ベルクの「抒情組曲」とツェムリンスキーの「抒情組曲」を聴き比べて、「お前は私のものだ」問題(!)に悩まされたこともありました。。 きゅーさま。演奏会にいらして下さるとのこと、嬉しいです。最後に【ご案内】を軽く書かせていただきます。モーツアルトはいいですね。私もオーボエコンチェルトとか「レクイエム」はよく聴きます。夫れに、エルガーのチェロコンチェルトは最高です。CDは持ってはおりませんが、スキです。クラシック館の大売り出し、私も行けばよかった。。。さて、谷崎のオススメですが。。。ウ〜ン、いざとなると迷うところ。ですが、『刺青・秘密』(新潮文庫)、『人魚の嘆き・魔術師』(中公文庫)などは如何でしょう。『刺青〜』には私が一番好きな短篇「二人の稚児」が入っています。「人魚〜」は沢山挿絵も入っていて、「魔術師」は私の研究対象です。どちらも簡単に手に入ります。でも、『少将滋幹の母』(角川文庫)が私の谷崎との出会いとなった作品です。とても雅な美しいお話しです。

是非。 こばさま。きゅーさまとご一緒に、是非是非、聴きにいらして下さい!でも、ヴァイオリンをやってらっしゃるのですか。。私もですよ。でも仰有るような「大コンサート」とはほど遠いモノかも知れませんが。入院後はナカナカ忙しいことが解ってきました。毎日学校です。

【中央フィルハーモニア管弦楽団第41回定期演奏会】2001年5月27日(日) きゅりあん 指揮:鈴木織衛

*ヨハン・シュトラウス:歌劇「こうもり」序曲

*ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲

*ブラームス:交響曲第2番ニ長調

チケット等の詳しいことは、もう少し近くなりましたら、メールでご案内させていただきます。 此方で宣伝して、済みませんでした。。

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真冬から初夏へ 投稿者:こば  投稿日:04月05日(木)00時23分38秒

>みなさま。

わたくしが紛れ込んだこの掲示板の当初からそうでしたが、ここ最近の皆様の話題はとりわけ、火星人と土星人と水星人と冥王星人の会話のような印象を受けました。わたくしなぞは、クラシックに至っては、リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を聴いて、「あ、コーヒーの宣伝だ」、と思う程度故、人類が火星に到達している頃にようやくわたくしはこの掲示板の内容の一部を理解していることでしょう。庵主様、何卒それまでこのHPを残しておいてくださいませ。 >國府田様。入院する程のお方なら当然あなた様も「異様な人」に入っているでしょう。『ロングロングアゴ−』を弾いて喜んでいる「似非ヴァイオリニスト」たるわたくしめのような者でも、國府田様の大コンサートを拝聴奉ることができますでしょうか?

>きゅー。「偽神学徒」ではない!失敬な。「アマチュア神学学徒」と呼び給へ。考えてみれば、わたくしが大学に入学した年に中学生だった連中が今年入学してくることを思うと、愕然とする次第であります。「年を食いたくないよなー」。わかるよ、きゅー 明日の気温は、朝真冬並、昼初夏の陽気、だそうです。皆様、お体にお気をつけてくださいまし。それではごきげんよう。

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病膏肓に入る 投稿者:きゅー  投稿日:04月04日(水)22時36分48秒

國府田様:私などのお薦めした本をわざわざ買ってくださるなんて嬉しいです。実は私も今日は神田三省堂へ行きまして谷崎を捜してたんですけど何がよいのかよく分からないのでお聞きしてから買おうと思った次第です。教えてください。三省堂行ったあとここの掲示板の皆さんの熱気にやられて久しぶりにお茶の水のディスクユニオンのクラシック館に行きました。そうしたらクラシック館がどっかに移転するそうで今日がその最後の日で大売り出しをやってました。殺気だったサラリーマンの隣で素人の私はCDを選びながら、でもこれをカウンターに持っていったら「お客さん、しろーとだね」とか言われないかびくびくしながらCDを3枚買いました。モーツァルトが好きなのでヴァイオリンコンツェルトの3・4・5番とシンフォニーの41番、それにエルガーのチェロコンツェルトを買いました。指揮者や誰の演奏か、等に気を配る余裕は全くありません。モーツァルトは何がよいのでしょうか?昔マレイ・ペライアのモーツァルト、ピアノコンツェルト1番を聞いて泣き出して以来モーツァルトファンです。國府田様のオケのコンサートには是非お伺いしたいと思います。こばも連れて行きます。彼は偽神学徒なだけではなく似非ヴァイオリニストです。 今日は上智は入学式でした。入学式自体は国際フォーラムでやり、学科別にキャンパスをうろちょろするのです。それでですね非常に憂鬱なのです、嗚呼私も新入生やりたいなーとか思いながら人の来ない図書館の窓から新入生を見やるのです。どっかのサークルに紛れ込もうかなー、とか思いながら(笑)。年は食いたくないよなーとか思いながら・・・ふー。ところで今、大学の図書館には人が来ません。CD、ヴィデオなどの視聴するコーナーのカウンターに今日は2時間いたんですけど、一人も利用者が来ませんでした。私は寝てました。昨日はずっと本を読んでました。その昔は人に頼まれた人名索引のリストアップのアルバイトをやってました(笑)。割のいいアルバイトだと思います。

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音楽いろいろ 投稿者:庵主  投稿日:04月04日(水)22時13分44秒

>國府田さま

 新国立劇場の『指環』、乗りかかった舟というわけでもありませんが、4年掛けて、全曲を見てみたいと思います。國府田さまはこれが完結する頃には、博士後期過程ということになるわけですね。 そういえば、オットー・シェンクの演出のメトロポリタンでのレヴァインの『指環』は、かなりオーソドックスなもので、まず『指環』の全体を見るには安心できそうです。LDの機械の調子が悪く、まだ『ラインの黄金』だけしか見ていないのですが、かなり台本通りです。マーラーは今となっては少々食傷気味という感覚は私も同じです。私はどちらかというと、5,6,7,9と、オーケストラだけのもののほうを好んで聴いていました。かつてはあの周辺で、シェーンベルクの師匠、ツェムリンスキーなども好きだった覚えがあります。最近買ったCDでは、コルンゴルトの『室内楽曲&歌曲』などがあります。この辺は、もしかすると鏡谷さまもお好きかもしれませんね。

>鏡谷さま

 あっぱれ、見事なご帰参。お久しぶりです。クレメンス・クラウスの『指環』は、Laudis 1987(Milano)となっています。イタリアはかつてのLP時代のメロドラムなど、バイロイトの海賊版のようなものを結構出していたのですよね。アンゲルブレシュトも、かなり前(もしかしたら10年近く)前のもので、確か同時に『ペレアス』も発売されたはずなのですが、これは私も買いそびれてしまいました。 Boweのハリー・クラークは結構高くなっているんですね。もう一冊のGraphic Artのほうは、すでに\10,000-\20,000になっているようです。『生涯と業績』は、large 8voと言いますか、日本の本だとA5版を一回り大きくした程度で、さほど大きくはありませんが、アート紙なので、カラーの発色は綺麗です。お気に召すと良いのですが。 ご武運長久ならんことを祈りつつ。

>きゅーさま

 催しとしての「プロムス」そのものにさほどの思い入れはありませんが、英吉利音楽全般は最近かなり良く聴いています。ドイツ音楽離れ(ヴァーグナーを除く)に比例して、英吉利音楽の比重が上がっています。ブリテンなどは最近少し注意しています。誰か一人を挙げろと言われると、フィンジというマイナーな作曲家の、それも歌曲ということになるんですけど。それにしてもきゅーさまはなかなか面白い線に反応されますね。

>こばさま

 私も含む皆さんの大量の書き込みに押されて、おそらく次頁にまわってしまったものへの応答です。エリアーデ関係サイトは消滅してしまいましたか。おそらくアドレスでも替えたんでしょう。また捜しておきます。『妖精たちの夜』は残念ながら未読ですが、『ホーニヒスベルガー博士の秘密』は良いですよ。大量の蔵書を蒐集した宗教学者が失踪したあと、その残された蔵書の中から失踪の謎を解き明かすなど、堪えられない設定ですから。

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2800円(+税)。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月04日(水)17時26分31秒

きゅーさま。「異様な人」って私も入るのでしょうか?お教えいただいた本、早速購入致しました。『鳥と〜』は取り寄せになってしまう、ということでガッカリしてとぼとぼ歩いていたところ、『禅とオートバイ修理技術』があるではありませんか!きゅーさまの熱き《思い》にお応えするために金欠なのに本を買った健気なアタクシ。既に電車で読み始めましたが、面白いです。ペーパーバックなところが如何にもアメリカですね。大学院、知人の中には「入院」と云っているものもおります。でも、どっちでもいいです、こんなことは。こばさまも院に行かれるのですか。お仲間です。 クラシック、お好きではないのですか?今度(5月ですが)私の所属しているアマチュア・オケの演奏会があります。聴きにいらっしゃいませんか??近づきましたら、ご案内させていただきます。徹底的に「クラシック嫌い」になれるやも。。。

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哀しい日はリルケを読んで誤魔化すの 投稿者:きゅー  投稿日:04月04日(水)03時35分30秒

何故ここの掲示板は異様な人が多いのでしょうか。鏡谷様:金城久生と申します。お初にお目もじ致します。貴殿の御言葉達に対してなんとコメントして良いのやら。庵主様と國府田様がさらりと流しているところから見ると貴殿は普段からあのような方なのですか?今後ともよしなに。 國府田様:大学院ご進学おめでとうございます。私は院には関係のない人間なのですがやはり院に行くことを“入院”とか呼ぶのでしょうか?気になるところです。来年こばも入院するはずです。彼は社会復帰ができるのでしょうか。まだしも“病院”の方がましな気も・・・ 皆様:私はクラシックには全く知識がないので皆様の書き込みを見てふーんと分かったような分からないような顔をしています。ただ私はイギリスの“プロムス”は大好きなのです。誰かプロムス好きの人いらっしゃいます?

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6481

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『ラインの黄金』!! 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月03日(火)23時06分30秒

庵主さま。

『指輪』のご感想、楽しく拝読いたしました。やはり、朝日新聞評にあった通りだったのですね。ヴォータン、ローゲの出で立ちも、大分従来の演出とは違っていたのですね(ローゲがシルクハットにマント…)。「剣のモティーフ」のところで、実際に《剣》を登場させてしまうのも驚きですね。メルクルの棒は、東フィルにはどうなんでしょう。東フィルは、繊細かも知れませんが、音に力が感じられないオケですから。。。新国立劇場の音響効果などは、如何でしたか?『ヴァルキューレ』は絶対観に行こうと思います。夫れにしても、舞台演出にスクリーンを使う、というのは所謂《斬新》な演出には付き物のようですね。以前にテレビで観たタン・ドゥンのオペラも確か舞台上にスクリーンが…。嗚呼、でも羨ましいです。私はオペラはテレビやヴィデオでしか観たことがありません。私がオーソドックスな舞台を観る前に、どんどん斬新化されてしまう舞台。。。少し焦ってしまいます。庵主さまは、勿論今後、『指輪』全部をご覧になるのですよね??御書評ヘの感想、チョットお尋ねしたいことは、また日を改めまして。 鏡谷さま。実に鮮やかなご登場ぶり。戦闘は長くは続きますまい。マーラー、お好きとお聞きして、嬉しい限りです。しかし、私も近頃では聴き過ぎのせいで飽きています。ブラームスに惚れ直しております。ご無事の帰還、お待ち申し上げております。

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独白『ラインの黄金』 1 投稿者:庵主  投稿日:04月03日(火)20時34分09秒

あまりあいだが空くと間が抜けるので、皆様の熱い応答を差し置いて、鏡谷さまの景気づけ(?)を受けて、家主自ら暴走して、『ラインの黄金』のご報告。  演出のおおよその雰囲気は、朝日新聞の劇評にありましたように、良く言えば「斬新」、悪く言えば「突拍子もない」といったもの。いずれにしても、もはや『指環』を演出する人たちは、いかにしてヴァーグナーの台本通りにやらないかということに心血を注ぐ傾向にあるので、それはそれで構いません。幕開きは映画館。ライン川の様子が映し出されるスクリーンを背景に、客席のあいだをラインの乙女とアルベリヒが悪ふざけをして、ラインの黄金を取り合うという設定。続く、ヴァルハラも、机と椅子の事務所のような設えで、ヴォータンはちょっとした会社の社長、フリッカは共同経営者といった趣。巨人族は、資金を提供している怪しげな金融業者と言ったところか。そうした設定なので、ニーベルハイムも、さながらヴォータンの会社の子会社といったところ。

 こういった演出傾向なので、全体はかなり軽く、新聞評にもあったように、ときおり客席からも笑いが漏れることも。今回の演出で特徴的なのは、ヴォータンとアルベリヒの権力関係が、さほど強調されていないことが挙げられるかもしれません。ヴァルハラ前からニーベルハイムへの場面展開でも、「垂直」方向が強調されることがありません。今回、この展開は、幕を一旦降ろすでも、せり上がりにするでもなく、舞台装置の「水平」方向の移動で処理されています。これからも分るように、やはり神々とニーベルンク族の対立は、険しい垂直的なものではなく、ある意味では水平的な、永遠に続く(最後に勝つ者のいない)、権力抗争のような印象を強めています。今回は、アルベリヒがヴォータンたちに連れ去られた後、その後釜にミーメが座るといった珍しい演出があるのですが、それもそうした同じ考えによるものでしょう。これと対比すると、以前バイロイトでブーレーズがやったときのパトリス・シェローの演出は、あからさまにプロレタリアート対ブルジョワという垂直方向の対立を強烈に押し出し、『神々の黄昏』の最後には大群衆を舞台上に乗せるという、これまたヴァーグナーの台本と関係ない演出をしたわけですが、今回のものはそうした演出の対極にあると言えるかもしれません。やはり、東対西、富める者と貧しい者という分かり易い大きな対立がなくなった現代には、舞台演出とはいえ、あまり壮大な対立は描けなくなっているのかもしれません。

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独白『ラインの黄金』 2 投稿者:庵主  投稿日:04月03日(火)20時33分23秒

 オーケストラは東京フィルハーモニーで、演奏は丁寧ですが、舞台を圧倒するというようなタイプのものではありません。普段聞こえない声部もよく聞こえる透明感のある演奏です。そのため物足りない部分も多いのですが、そうした演奏のために今回は、巨人族と指環をめぐっていさかうヴォータンを諌めるエルダが絶品でした。生成のモチーフと黄昏のモチーフが交互する中でのエルダの予言は、諦念と畏怖が相半ばする戦慄に満ちたものになりました。この傾向だと、4年後の『神々の黄昏』のノルンの三重奏などが期待できます。ローゲのミュラー=ローレンツも好演。

 モチーフの解釈のうえで、今回面白かったのは、ヴァルハラへの入場の際に、ローゲがヴォータンに聖剣ノートゥングを渡す演出がされていたことです。確かにここは、音楽的にも堂々と「剣のモチーフ」が入るのですが、ヴォータンは普通「槍」しかもっていないので、元々無理がある箇所です。この剣のモチーフの意味が分るのは『ヴァルキューレ』第一幕になってからなので、ここはどうにも処理に困る場面です。そこで今回は、剣そのものを早々と舞台上に出して、多少なりとも説明してしまおうとしたわけです。  しかし私は個人的には、この種の「説明」は不要だと思っています。いまだに舞台上に現れていないものが音楽のうえで先取りされているヴァーグナーの手法を、ブロッホなどは「未来向きの精神分析」などと言っていますが、そうした印象に賛成だからです。ヴァーグナーのライト・モチーフは、過去の出来事を音楽的に沈澱させ、音の古層に埋め込む一方で、いまだ起きていない出来事を予言的・先取り的に暗示するものでもあって、それはすべてがすべて舞台で視覚的に説明される必要はない(またそれは不可能である)とも思います。

 役割上の配分では、今回に限らず、最近の『指環』の演出全体は、ますますローゲの役割を強調する傾向にあります。大きな対立が崩れるのと平行したことでしょうが、すべてをローゲの掌中にある出来事とする解釈は、アドルノなどがローゲを「この劇を支配する火の魔術師」として、『指環』全体の主人公と考えようとした線に沿うものです(『ヴァーグナー試論』〔未邦訳〕)。しかも、今回の演出では、ローゲはまさに、黒のマントににシルクハットという「魔術師」のいでたちでした。  といったところで、『ラインの黄金』のご報告でした。長くなりましたので、クレメンス・クラウスその他の演奏のことなどはまたいずれ機会があれば。今回は独白のみにて失礼。

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わが愛機 『紫の太陽』 投稿者:鏡谷眞一  投稿日:04月03日(火)19時46分37秒

形体:ブレリオ型複葉機。機体のキルマーク:勇敢なゲルマン傭兵隊のはく沓の絵が六足。

垂直尾翼:地獄の薔薇夫人(クンドリー)選書、または携帯用黙示録:ユイスマンス『さかしま』(黒と銀の革装釘)/小栗虫太郎『黒死館殺人事件』/三島由紀夫『F-104』

武装:決闘用拳銃(西班牙製)/フワイエの仕込み杖

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アクセル城参殿 投稿者:鏡谷眞一  投稿日:04月03日(火)19時38分24秒

猛師ダヌンツィオ中佐の戦闘飛行団『ラ・セレニシマ』から離隊し、『黒い森』のそばの村で旧知の老夫婦にわが機体を預けると聖森麗林わけいり進みゆく先にひらけたるは、知の旗と情の大砲と意のファンファーレにて三位重装したる、未来の十字軍挙兵の大城塞(・・・・・または、ド・ブランジ公爵の秘密の館)

庵主さま>鏡谷、参上いたしました(靴の踵を打ち鳴らす)。

クレメンス・クラウスは、ぼくがもっとも好きな指揮者の一人です。今年の初めあたりから、Tes tamentでクラウスの録音集が発売され始めているようでして、『英雄の生涯』と『ツァラトゥストラかく語りき』の維納フィル演奏盤を、最近は溺聴しております。ベートーヴェンの『英雄』、『皇帝』と同じく『英雄の生涯』の調性をなす、わが師の文体さながらの変ホ長調(『ラインの黄金』も同様でしたね)を、鷹の城の帝室一門の落胤とも伝えられたこの貴公子が錬達と鞭さばくさまは、ウィンナ・ワルツの名馬たちをだれよりも華麗に曲藝させる至絶とはまた異なる、絢爛たる宇宙の翳りに身をさらすような圧倒を感ぜずにはおられません。『ニーベルングの指環』、この血と欲望の大叙事詩の録音を、庵主さまはどのようにして入手されたのでしょうか。クレメンス卿は、ことヴァーグナーにおいては怨みがましいほど一握りしか録音を残しませんでした。それだけに、先日の書きこみには衝撃をうけました。アンゲルブレシュトの『聖セバスチャンの殉教』の捜索は現在難航しております。

國府田さま>おひさしゅうございます(ひざまずく)。

カルロス・クライバーの『こうもり』。庵主さまもいわれるように、あの棒の切れ味は維納情緒とはいささか違うものがございますね。ぼくはエーリッヒの録音の『こうもり』序曲のほうを好みます。カルロスはその音楽原体験というと、ナチを嫌ってアルゼンチンに亡命した父の仕事場であるテアトル・コロンの空気なのでしょうね。エーリッヒは、子供の「カール」を劇場に連れていくといつしか、当時もっとも親しかったヴァイオリニストの名で、息子を呼ぶようになったとか。マーラーは、大好きな作曲家(ヴァーグナーよりも)ですが、惑溺するほど聴きつづけていたかつてを思い返すと、いささかうんざりもします。第三、第四、第五、第九、大地の歌が特に好き。そうそうここで大事なことを。

庵主さま>

先日の日曜ですが、新宿の紀伊国屋で、『月下の宿帳』にてお教えいただきました、N.G.BOWE著『ハリー・クラークの生涯と業績』を注文して参りました。もうハードカバー版は絶版だそうですが、ペーパー版でも六千円近くしましたので、あるいはそこそこ大判の本なのでしょうか? 手元に届きましたら、読後感などこちらに書かせていただきます。 (城の窗から、遠い空が戦の炎に染まる様が見える)ああ、あれはわが師の航空隊ですね。大空戦です。詩の爆弾です。故国の命運に身を捧げて挙兵する姿を清廉だとはお認めしますが、結局最大の関心事は、危険に身をさらす自分自身にあるようで。ぼくも部隊に戻ります。また必ずかえってまいります(敬礼)。

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ウォー・クライ 投稿者:鏡谷眞一  投稿日:04月03日(火)18時52分15秒

エイ、エイ、アララ! エイ、エイ、アララ!

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ネイチャーライティング再々。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月03日(火)18時18分28秒

今日は院の入學式でした。明日から院生です。 きゅーさま。いろいろお教えいただき、有り難う御座います。『夜の国』の引用は、まさしく、散文詩ですね。まるで『善(!)の華』。『禅とオートバイ修理技術』、「有名」というお言葉でしたが、私は知りませんでした。。でも、金城さまの書き込みを拝読して、「読んでしまった」かのようです。私がここで、何かを申し上げることは、本当におかしな事なのですが、一つだけ。〈私〉って誰?の問いは、どの分野にも見られるような感じがしてしまいます。でも、「〈私〉のスタイルは?」となってしまうのが虚構文学なのかも知れません。スタイルを凝らす事に重点を置き、読者に解釈を委ねるのが虚構文学、なのかな?などと思っています(無視なすって下さいませ)。私は、読んでいるモノにも偏りがあって、金城さまに教えていただいたネイチャーライティングや、庵主さまにお教えいただいていることは、とても新鮮で、貴重な知識だと思っております。ネイチャーライティング、出来るだけ時間を作って、一作読んでみます。。まずは『鳥と砂漠と湖と』を探してみます。ASLEのHPもチョット覗いてみたのですが、難しそうです。。。 こばさま。『変容の象徴』の読みどころ、お教えいただき、有り難う御座います!グノーシスの事、知りたかったので、購入してヨカッタです。ポオの『大鴉』の記述を論文用に探していたのです。「旧約ヨナ書」の分析、読んでみます。きゅーさまは本当に〈熱い〉かたですねぇぇ。。。

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訂正 投稿者:こば  投稿日:04月03日(火)06時07分25秒

ボフ、ではなくて、ポスト、でした(全然違いますね、失敬)。あの『カラハリの失われた世界』(ちくま)を書いた、ヴァン・デル・ポストです。それでは、みなさんごきげんよう(神様があなたの嫌いな人を地獄に叩き落しますように。) --------------------------------------------------------------------------------

クールダウン再び。 投稿者:こば  投稿日:04月03日(火)05時25分35秒

お久しぶりです。2,3日見ない間に熱戦が繰り広げられているようですね。

>きゅー。熱すぎるぜ、君の想いは。

>庵主様。エラノス宗教会議といえば、ユングの他にエリアーデやボフや河合隼雄が出てくるので論評がとても楽しみです。以前リンクを張っていただいたエリアーデ関連のHP、jwaltzはユング絡みの、ということは、エラノスも少なからず絡んでいるHPなのでしょうか?というのは、リンクを張って頂いて誠に有難かったのですが、どうやらまた消滅しているらしくて見ることができないのです。jwaltzで検索するとユング関連のHPが出てくるので想像はできるのですが。。。エリアーデの小説『妖精たちの夜』(作品社)はどう思われますか?あの東欧の暗さと時代の雰囲気が堪らなく好きなのですが。その内『ホーニヒスベルガー博士の秘密』も読んでみたいと思います。>國府田様。ユング『変容の象徴』は脱線の集大成で、絵が沢山付いていて、神話がイメージ化されていてとても面白いですよ。グノーシスのシンボルについても書かれていたと思います。個人的には旧約ヨナ書の分析が好きです。それではみなさん、ごきげんよう。

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ネイチャーライティング再び(上) 投稿者:きゅー  投稿日:04月03日(火)04時05分01秒

國府田様へ

ネイチャーライティングの分類については幻想文学をどう定義するか、SFとはなにかか、という問題と同じように困難だと思います。私個人についてはネイチャーライティングとは人間の内と外の神秘について語るものと考えています。自分の言葉ながらあまりに抽象的で意味を為さないとは分かっているのですが・・・紀行文・ルポタージュについては私は良い印象を持っていません。(別にだからといって絶対読まないということではないのですが)ただそのようなジャンルにあっては主眼が自然や外界にありすぎるように感じるのです。そしてまた基本的に文学性を欠いていますし、特に日本人の書く紀行文は浅薄な気がします。お薦め本の一つはローレン・アイズリー『夜の国』工作舎です。彼は考古学者であり、また科学史家としても有名でアメリカでは文系・理系の人間に問わず愛されているようです。体裁はエッセイです。一番好きなところは「一夜の死」です。部分だけ読んでも分からないと思いますがちょっと引用しますと、 “ああ神よ、私は念じた。自分の終局を絶望的にただ見つめるだけのこの物体の中に、いかにして捕らわれることになってしまったのか。ほんの束の間でも、子供の誕生や思想が私たちをこの死の体から救うなどと想像することができるだろうか。この時間(とき)の流れの中ではだめだ。私の中で絶望が鐘を鳴らす。限りある生の時間ではなく、この場所でもない。流れる血を止め、不正を正し、分かれた者が出会うところでもない。” 彼の言葉は散文詩と呼ぶのにふさわしい。そしてその詩の内容は人間という不完全な動物に関する暗さに満ちている。たかが数万年生きてきただけの不完全な動物、それでいながら彼は人間が昇ることのできる高みをも見ることができる。人間の獣性と神性これら二つを同時に並べるならばそれは感動に値することだと思います。 (再び容量が多くて入り切らぬので下に続く)

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ネイチャーライティング再び(下) 投稿者:きゅー  投稿日:04月03日(火)04時03分49秒

急ぎ足であと二つ。ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』めるくまーる これはその筋では有名なのでご存知かも。筆者はもと大学の哲学の教授。彼が精神を病んだことにより電気ショック療法を受けるがその副作用でもとの記憶・人格の多くが無くなってしまいます。その後パーシグはテクニカルライターとして働くようになった。その彼がオートバイに精神を病んだ息子と乗りアメリカの大平原ひたすら駆け抜けるのです。荒野を走り抜ける彼に少しづつ昔の彼の記憶(彼は記憶をなくす以前の自分のことをパイドロスと呼ぶ)がよみがえる。パイドロスはクオリティーの哲学というものを構築した。その時の彼の記憶が戻って来るにしたがってパイドロスの狂気が再び<私>を襲う。<私>とは誰?<パイドロス>は何を求めようとしていたのか?このように明らかにフィクション性の強い作品でありながら全編語られるのはソクラテス・プラトンから現代に至る哲学です。前回の私の言葉に反するようですがこの作品は物語性に富みつつ<私>とは誰。という問いから決して離れません。『ソフィーの世界』のように誰でも分かりやすくて面白い、というものではありません。でも読んで損をすることはないと思います。最後にテリー・テンペスト・ウイリアムス『鳥と砂漠と湖と』宝島社。彼女はソルトレークシティーに住んでいます。ソルトレークは実はアラスカなど北からコロンビアなどの南に行く渡り鳥の重要な中継地点なのです。それがある年ソルトレークの水位が異常に上がりはじめました。冬の間に山々に積もった雪が溶けて流れてきたのです。水位の上昇と共に木の根本などに巣を作る渡り鳥の卵が孵化できなくなり、さらには植物も枯れ、当然昆虫そして渡り鳥も次々に死んでゆきます。それと同じ頃テリーの母親の乳ガンが再発します。母は化学療法を拒否し尊厳死を選びます。ソルトレークの水位はどんどん上昇し、ある調査によればソルトレークを渡りの中継にしているある種の鳥の八割が死に、その他の渡り鳥にも甚大な被害が出ています。人々が考えるのは水位の上昇による幹線道路の水没、空港に対する浸水、しかし渡り鳥保護区では毎日必死に渡り鳥が生きようとし、テリーはそれらの鳥を助けようとします。人々の懸念をよそに結局水位の上昇は自然に止みもとの湖に戻ります。しかし流された木々、昆虫、それを餌にしている鳥たちは種としての危険な数まで削減し、テリーの母は亡くなります。こうした事柄が抑制された文体で淡々と述べられます。制御できない自然、避けられない死、そうして最後の章で話は急展開します。ここでは書きませんが、人間の愚かさ、欺瞞、そして言葉の持つ力が強調されます。ここではストーリー性のあるものを中心に三作品紹介しました。どれもすばらしい作品だと思います。三っつとも絶版ではないはずです。ただ大きな書店でもちょっと見つけるのは大変かもしれませんが。では追伸:ネイチャーライティングに関して活動をしているASLEの日本支部(ASLE-Japan/文学・環境学会)に下のところでリンクを張っておきます。

http://irene.akita.reccs.akita-pu.ac.jp/Irene%20Home%20Page/ASLEJ_HP/aslejhomepage.html

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雑然と 投稿者:庵主  投稿日:04月03日(火)00時13分39秒

>きゅーさま

 以前リクエストしたものに、ここで応じていただいたわけですね。なるほど、そういうものですか。『ユリイカ』の特集も存在を知っていただけで、中身を見ているわけではないので、たとえば漠然とウォルトン『釣魚大全』のようなものを予想していましたが、どうもそうでもないみたいですね。あの手のものよりも、さらに意味や「笑い」さえも脱色しているようなものなのでしょか。数週間前に、現代の美学のゼール『自然の美学』(Martin Seel, Eine Asthetik der Natur, Suhrkamp 1996)が届いて、少し読んでいましたが、これなどは問題意識として少し重なるところがあるのかもしれません。出発点は『ものの味方』のフランシス・ポンジュです。 ネイチャーライティングの現物を読まずにはどうとも判然とは言えませんが、私なんかも國府田さまの感覚に近く、真実の復権を願うより、「虚言の衰退」を嘆く方に向かいがちかもしれません。しかし、嘘も付き通すと、これはこれでまた「人間的原理」を超えてしまうところがあるのではなかろうかと愚考する次第。その「人間原理」を茶化す手段として、脱線その他、不埒な技も歓迎です>きゅーどの。

>國府田さま

 私も『こうもり』、帰宅して最後のほうだけ、ちらりと見ました。『指環』については少し長くなりそうなので、もう一回だけ先送りということで。ユング絡みのものは、何か書目を入れたいと思っているところです。少なくとも、『エラノス叢書』(平凡社)は、いずれ何かのかたちで論評めいたものをやりたいと思います。しかしBookOffは、小豆に廻ると思わぬ収穫もあるようですね。ただ、必要のないものまで、矢鱈に買い込んでしまう危険もありそうですが。 私のもの、通読していただいたそうでありがとうございます。では、その感想を楽しみにさせていただきます。

>yamanakaさま

 大した応答もできずに申し訳ありません。お教えいただいた谷崎のものは、今日注文を出しました。また本文を読んでから、私なりに考えてみたいと思います。漠然とした予想を申し上げると、映画への接点という繋がりだとすると、『ラオコオン』的なジャンル論の否定はもとより、視覚的な現象に向かう積極的なモチーフも必要になってくるのでしょうね。おそらくそれが『ファンタスゴマリア』ということではないかと想像するのですが。いずれもしても、これについてはまた追って。

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ネイチャーライティング。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月02日(月)13時50分31秒

きゅーさま。ネーチャーライティングにご興味を抱かれているご様子。私は恥ずかしながらその様なジャンルがあると云うことすら殆ど知らなかった次第です(紀行文やルポルタージュの類もネーチャーライティングに属するのでしょうか?無知でスミマセン)。でも、金城さまの書き込みを拝読いたしまして、知らなかったタイプの文学に驚きました。金城さまのご興味の対象のネーチャーライティングは、私が研究している分野とはまるで正反対のように感ぜられますね。私の対象は谷崎潤一郎ですが、彼の芸術は御存知かとは思いますがあくまで虚構に満ちています(彼が影響を受けたポオ、ワイルド、ボオドレエルもそうですね)。そこには巧緻な糸で織りなされたようなプロットが存在し、読者は夫れに捕らわれることに快楽を感じていて、「自然」はそんな芸術(「芸術」という観念すら、ワイルドに云わせれば「善も悪も芸術家にとっては芸術の素材に過ぎぬ」『ドリアングレイ〜』序文とされてしまうほどです)には存在しないかのように見えます。でも私は今のところ、夫れを「面白い」と思っております。下でyamanakaさんが話題としていた『金色の死』などは、其の最たるものと云えましょう。と、云うことなので、私はネーチャーライティングには全く知識がありません。でも、知ってみたい気が致しました。何かオススメの本をお教え願えませんでしょうか。「ありのまま」を知ることで「虚構」がより美しく輝くことがあり、またその逆もあるでしょうから。どうぞ宜しく!!『ティンカー・クリークのほとりで』の引用が《無意味な人間原理に対する反論》を象徴するものだとすれば、夫れは「作られた《美》」ではなく、「真実の《美》」なのでしょうネ。*纏まらない書き込みで、ごめんなさい。。。金城さまの「ネイチャーライティングヘの思い」に圧倒されてしまいました。沢山考えさせられました。

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花見決行(上) 投稿者:きゅー  投稿日:04月02日(月)02時11分26秒

國府田様お怒り召されぬよう。悪気は全くないのです。ところで今日花見をしました。純粋なあのござを敷いて場所取りをしてやる花見です。私も初めての体験でした。場所は四ッ谷の上智前の真田堀でやりました。人がものすごくいて私が到着した一時頃には当然の事ながら場所が空いてなかったのですが、たまたまうろついていたらもうお帰りの人がいて場所をもらいました。一時から九時ぐらいまで花見をし、その後さらに靖国神社に歩いていきました。今、頭がガンガンしてます。薬飲みました。明日は上智の図書館アルバイトの新年度最初の日で、新しく入る人もいるというのに多分私はへろへろです。 『伊勢海老のルンバ』とはどのようなものでしょうか?私にも教えて欲しいところです。下で庵主様が学問的な書き込みをしているそのうえにこのような書き込みがあるというのはなかなか台無しにしている感じがしますな。どうも最近は自然科学に対して非常な親近感を抱いているので人文・社会科学の話題にはついていけません。 (容量が多くて一度に書き込めなかったので下に続きます)

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花見決行(下) 投稿者:きゅー  投稿日:04月02日(月)02時10分17秒

ネイチャーライティングも良く読むようになったのですが、その理由をちょっと考えてみました。文学批評には完全の素人である私が思うにネイチャーライティングにおいては筋書き、プロットが大して意味を為さず、その語られる思索的な内容、詩的言語、自然に対する人間の位置などといった事に重点が置かれているからだと感じました。今世紀においては小説こそが創造的な行為であり、ノンフィクションは非創造的、もしくは事務的のように見なされる傾向にありました。しかし私がネイチャーライティングを読んでいて感じるのはその詩的想像力の強さであり、自己とそれを取り巻く世界に対するより鮮烈な認識です。例えばH・Dソローの最も正当な系譜と称されることの多い作家、アニー・ディラードはピュリッツァー賞を取ったその著作『ティンカー・クリークのほとりで』(金坂留美子・くぼたのぞみ訳 めるくまーる発行)のなかでこう語りはじめます。

“暑かった。あまり暑くて、鏡まで温かく感じられた。鏡の前で、立ち眩みながら顔を洗う。よじれた夏の眠りが、まだ海藻のようにからみついている。これはなんの血?この薔薇は?それは契りの薔薇、殺人の血、あるいはあらわな美としての薔薇、口にはできない生贄の血、それとも誕生の血だったのかもしれない。私のからだについた痕跡は紋章、でなければただの汚れ、王国への鍵、あるいはカインの刻印だったのかもしれない。私には知るよしもなかった。体を洗うと、血は筋になって、薄れ、とうとう消えてしまった。自分を浄めていたのか、それとも過越の血のしるしを消してしまったのか、それもわからない。目覚める・・・神秘、死の予兆、美、暴力に対して完全に目覚めるなんてことがあるのだろうか・・・”

ここでは“血”に対して両極端の評価、感情に揺られながらそれを客観化せずにむしろそのような価値判断自体を疑っています。そのような言明がこれほど優雅に語られることもめったにないように思われます。ネイチャーライティングにおいて最も重要なファクターは自然ではなく、自然の中に生きる自分を意識することであるように思います。なのでそこで語られるものは今ここにある自分であって、否応なく語られることは思索的であり、そして一部の優れたネイチャーライターにおいてはさらに詩的なスタイル(文体)を用い、自我を語ることができるのです。小説の一つの制約はプロットであってどうしてもそこに重点が置かれてしまいますが、ネイチャーライティングにおいてはプロットは副次的な作用しか持ちません。ピーター・マシーセン『雪豹』においても著者は数ヶ月に及ぶネパールの奥地の調査において結局雪豹には一度も会うことはできず、テリー・テンペスト・ウィリアムスの『鳥と砂漠と湖と』においても水かさを増し氾濫しようとするソルトレイク湖に対して人々は様々な対応策を講じるのですが水はやがて自然に収まり、平穏な日々に戻るのです。(もちろんこれは人間に対してであって書名に出てくる鳥たちにとってでは無いのですが)自然において起こることにはいかなるプロットもハッピーエンドもアンチクライマックスもありません。自然はただあるだけです。そこに意味を見つけるのは人間の意識だけです。遺伝子が利己的であろうが恐竜が彗星によって滅びようが何百もの銀河を巻き込んで爆発するスーパーノヴァにも何ら教訓的なことなど無いのです。ネイチャーライティングにおいて語られるのは無意味な人間原理に対する反論でしょう。このこと故に私はネイチャーライティングを愛してやまないのです。 追伸:私達のいたところの真上の桜がどうも鳥たちに気に入られたようでそいつらはひたすらに桜の蜜を吸って、そして吸ったあとの桜を下に落とすのです。おかげで私達のところだけ上からぼたぼたと桜の花が落ちてきてギャラリーの目を引いてました。

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金色の死 投稿者:yamanaka  投稿日:04月02日(月)02時02分53秒 yamanakaです。

庵主さま、早速こんなにお手間のかかるお答えをしていただきまして有り難う御座いました。まだこれからどうしようかといった段階で、しかも先行研究でも「金色の死」での「ラオコオン」について深く突っ込んだものはないようで、美学的アプローチとしてはどういったものがあるのかというのを探っていたところでした。否、一つだけ特異な論考がありました。三島由紀夫が死の直前に「金色の死」論を相当突っ込んで書いていまして、あたかも自死の解説の如くです。(「金色の死」は中公文庫『お艶殺し』収録、三島の論は同じく中公文庫三島『作家論』収録)。お察しのように、ジャンル論という立場でお答えいただき有り難うございます。挙げていただいた文献は、早速参考にしてみたいと思います。ただやはり、谷崎自身の綿密な美学的思索がこの作品からうかがわれるかといったらそうでもなく、一読されればおわかりと思いますが、その批判はけっこう大ざっぱです。しかし、後の作品などを考えると、谷崎がこの時期に打ち出してくる視覚重視の美感というものの源泉が、「ラオコオン」にあるように思われ、・・・まあこれからどうなるかわかりませんが、兎も角有り難う御座いました。本当に助かります。取り急ぎ御礼まで。長々とスミマセンでした。

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楽しみにしております。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月02日(月)00時52分25秒

庵主さま。『指輪』のご感想、楽しみにしております。昨日の朝日新聞には「かなり斬新」なような事が書いてありましたが(でも、オーケストラは生粋のワグナー?)。お時間のある時にゆっくりとお聞かせ下さいませ。私は、教育テレビ「芸術劇場」で、シュトラウスの「こうもり」ハイライト(パリ・オペラ座)を観ましたが、これもモノトーンを基調とした色使いの舞台装置で《斬新》でした。夫れから、昨日は嬉しい収穫がありました。地元のB・Oで、ユングの『変容の象徴』(筑摩書房)をナント¥100にて手に入れました。これも探していたもの。ユング、庵主さまは如何お思いでしょうか?? 御書評、とうとう最後まで拝読させていただきました。また後日、私が「考えたこと」を書き込みさせていただきます。宜しくお願いいたします。

*yamanakaさんへのお答え、『ラオコオン』について、私まで勉強になりました。。。

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『ラオコオン』 投稿者:庵主  投稿日:04月02日(月)00時27分55秒

 谷崎の「金色の死」という作品は、寡聞にして存じませんが、yamanakaさまのご説明で俄かに関心が湧いて参りました。早速捜してみたいと思います。yamanakaさまのご議論も、いずれお聴かせ願えれば幸いです。さて、お尋ねのレッシングですが、はかばかしい情報を差し上げられるかどうか。

 とりあえず、あの『ラオコオン』に対する、時代的に最も近い反論としては、ヘルダーの『批判的論叢、あるいは輓近の著作に照らしての学問・芸術・美に関する諸考察』(Kritische Walder Oder Betrachtungen, die Wissenschaft und Kunst des Schonen betreffend, nach Maasgabe neuerer Schriften, 1796)の第一部(Erstes Waldchen)といったところでしょうか。ただ、これは論点としては、『ラオコオン』の各論に入り込む細かい議論だったように思います。この辺のことは、例えば、Robert E. Norton, Herder's Aesthetics & the European Enlightenment, Cornell U.Pr. 1991, Chap. 3 "Toward an Ontology of the Arts"が扱っています。彫刻作品としての「ラオコオン」をめぐっての解釈の是非は、ゲーテなどにもありますが、yamanakaさまのご主旨からすると、ご関心のあるのは、『ラオコオン』全体のジャンル論そのものに対する反論なのだろうと推察します。 そういう全体的な観点に関してのものになると、すぐにはこれといったものが思い浮かびません。あの『ラオコオン』が扱った問題は、古代ではホラティウス辺りに発する「詩は絵の如く」(ut picutura poesis)という問題系、パラゴーネ(芸術比較論)という系譜に属するものですよね。これは、「美学」という概念すら存在しなかった18世紀以前には、かなり大雑把に諸芸術の類比関係ということだけが押さえられてきたのを、ご存知のように、レッシングが大鉈を振るって整理したものだといえるでしょう。それ以前だと、修辞学の中で「エクフラシス」などという概念で扱われてきた問題を、時間性や記号論といった精緻な問題意識を組み込んで理論化したわけです。しかし、こうした系統の議論は、その後のドイツ美学の中でストレートに受け継がれてはいないように思います。実際、カント『判断力批判』にも、ヘーゲル『美学講義』にも、『ラオコオン』が直接の主題になった箇所はないようです(と記憶します)。

 ただ、問題意識としては、『ラオコオン』のジャンル論は、ロマン主義以降、ますます旗色が悪くなっていくのが時代の趨勢ではないでしょうか。大雑把な印象で言えば、レッシング以前にかなり漠然と考えられていた諸芸術の平行関係を、18世紀の芸術の技法上の進歩などを考慮しながらレッシングが整理し、それを踏まえた上で、ロマン主義は再び、諸芸術の統合に向かったというような気がします。ペイターの「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」やボードレールの「万物照応」に向かうような運動ということになるでしょう。ドイツの文脈だとショーペンハウアー辺りでしょうか。 20世紀に入っても、Irving Babitt, The New Laokoon. An Essay on the Confusion of the Artsなどがあって、レッシング的なものの復権を図った人物もいますが、やはり全体的な趨勢を変えるまでには至らないと思いますが。このバビットは、1910年出版ですから、時代的には谷崎に近いわけですけど。

 どうも、長々と書いた割には大した内容がなく、恐縮です。今日は新国立劇場で『指環』を見てきたところで、まだ頭がヴァーグナー風になっているような按配でして(長くて中身がない?)...。また何か思いつきましたら、書き込ませていただきます。  『指環』のご報告も、また追って。

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きゅーさま(怒)。 投稿者:國府田麻子  投稿日:04月01日(日)02時26分26秒

宇都宮が雪だからといって、笑わないでくださいまし。北関東ですし、雪にもなります。でも笑いは堪えてください。妙に哀しくなるではありませんか。ところで志賀直哉、お好きなのですか?志賀はいいですね。私も今年の始め、全集の一部を手に入れました(新書版ですが)。志賀さんも、闇夜のなかお墓を探してもらえて、幸せ気分で土のなか、でしょう(微笑)。私は『玄人素人』がスキです。彼処までマングースに拘るとは…。谷崎君から貰った犬のアトガマのクマも可愛い。さて、金城さまのHPで『うめき笑い』(3つの御題のうちこれが一番ピッタリかと…)を拝見したとき、震撼致しました。そしてそんな自分に驚きました。私の親友T嬢の作詞した『伊勢海老のルンバ』を髣髴とさせる力があったからです。『うめき笑い』には楽曲はついているのでしょうか?あれだけ完成度が高く、シュールであるとこれはもう、絶対でしょうが。夫れから、木蓮はご覧にならない方が…。カナリ危険です。

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ファンタスマゴリア 投稿者:yamanaka  投稿日:04月01日(日)01時59分33秒

どうも御無沙汰しております。掲示板に書き込み有り難う御座いました。何故「ファンタスマゴリア」かといいますと、今谷崎で論文を書いているのですが、谷崎と視覚的想像力ということをひとつのテーマとしているからなのです。大正4年の「金色の死」という短篇で、「ラオコーン」を批判し、想像力を介さない、目で全てを把握できる全的な官能美とかいうことを谷崎が打ち出して、その後プラトンを持ち出してきて映画の実製作にはいっていくので、こういう文献を探していたのです。そこで、ちょっとお聞きしたいのですが、「ラオコーン」に対する反論というか、そういう定番的なものにはどのようなものがあるか御存知でしょうか。もしよろしければ是非ご教示していただきたく御願いします。何だかひとりだけ個人的な御願いを投稿してしまってすみません。

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Las Meninas 投稿者:庵主  投稿日:04月01日(日)00時33分38秒

ベラスケスの『侍女たち』はこんなところでも見ることができます。ついでにピカソ・ヴァージョンも。


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