口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ


バフチンとカッシーラーNo.830,prospero(管理者)(2002/08/25 17:05:14)
 ・Re:バフチンとカッシーラーNo.835,森 洋介(2002/09/03 01:52:44)
  ・迂闊にもNo.837,prospero(管理者)(2002/09/04 00:25:20)
   ・嗤笑はアイロニーかユーモアかNo.846,森 洋介(2002/09/15 10:20:16)
    ・毒のある「嗤い」No.847,prospero(管理者)(2002/09/15 23:05:19)
     ・笑ひの方法No.848,森 洋介(2002/09/18 21:09:59)
      ・ゴーゴリNo.849,こば(2002/09/19 04:26:36)
      ・嗤いから笑いへ?No.869,prospero(管理者)(2002/10/15 21:10:12)
       ・ボードレール「笑ひの本質について」No.871,森 洋介(2002/10/27 22:10:12)
        ・トラジェコメディNo.872,prospero(管理者)(2002/11/03 12:19:07)
         ・認識論的笑ひNo.873,森 洋介(2002/11/03 17:15:57)
          ・カッシーラー再び(+ドレ)No.876,prospero(管理者)(2002/11/07 20:41:29)
         ・宇宙論的笑いNo.874,花山薫(2002/11/06 00:57:00)
          ・神と猿のさんざめきNo.875,prospero(管理者)(2002/11/07 19:01:48)
  ・カッシーラー・ドキュメントNo.862,prospero(管理者)(2002/10/04 22:58:05)

No.830

バフチンとカッシーラー
投稿者
---prospero(管理者)(2002/08/25 17:05:14)


no. 826
で予告しておいたカッシーラーの話題の続行です(変に間が空いてしまいましたが)。

カッシーラーとバフチンという組み合わせは、一見すると、それほどすんなりと繋がるようには見えないのですが、実は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』を書いていた時期、バフチンはカッシーラーの著作(『象徴形式の哲学』だけでなく、『ルネサンスにおける個と宇宙』など)を熱心に読んで、その抜書きノートなどが残されているそうです。とりわけ驚くのは、ラブレー論の中での『リグ・ヴェーダ』をめぐる註の記述(せりか書房、邦訳
p. 310)は、バフチン自身、何の出典表記も行っていませんが、完全に『象徴形式の哲学』第二巻「神話的思考」(岩波文庫、邦訳 p. 184)の引き写しになっていることです。さらに、「嗤い」の文化という、ラブレー論の核心部分に関して、バフチンとカッシーラーを繋いでいるのが、シャフツベリのユーモア論のようです。私としては、漠然と関心をもっていたラインがドミノ倒しのように繋がった感覚があって、少々感激したような次第です。

だいたいバフチンは新カント学派そのものにも随分と親しんでいたらしく、コーエンのユダヤ的メシアニズムなどにも共感をもっていたようです。


No.835

Re:バフチンとカッシーラー
投稿者---森 洋介(2002/09/03 01:52:44)
http://y7.net/bookish


 バフチンのカッシーラー攝取のこと、意外な取り合はせのやうで、云はれてみればありさうなことと思はされます。
 といふか、岩波の
『思想』8月號が「特集=バフチン再考」だったんですね。迂闊にも知らずにゐました。北岡誠司「バフチンのカッシーラー 「剽窃」 問題を超えて――文脈変更・曖昧な関係・黙殺――」、B. プール「バフチンとカッシーラー――カーニヴァル・メシアニズムの哲学的起源――」あたりをお讀みになったのでせうか。遠藤知巳氏も書いてゐるとあっては、これぁそのうち古本屋で買って讀まずばなりますまい。
 ところで、カッシーラーを讀むバフチンもさることながら、もしバフチンを讀むカッシーラーといふものが存在したらば、そちらの方がもっと「そそる」氣がします。イエ、何となく、ですけど。

No.837

迂闊にも
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/04 00:25:20)


>『思想』8月號が「特集=バフチン再考」

お教えいただきありがとうございました。今日早速図書館で見てきました。お恥ずかしながら、私もこの号のことを迂闊にも知りませんでした。私のほうは、ある大学の紀要論文でたまたま引用の件を知り、そこから少し思いをめぐらせてみたというのにすぎませんでした。しかし、知らぬこととはいえ、ちょうどタイムリーな話題だったようですね。

B. プールの「バフチンとカッシーラー ――カーニヴァル・メシアニズムの哲学的起源―― 」がこの問題の火付け役だったらしく、事は「剽窃」というやや穏やかでない問題にまでなっているようですね。この論文だけを読んできましたが、正直言って、事実としてそういうことがあるというだけのことで、それほど掘り下げた議論を展開しているわけではありません。落とし所がシャフツベリの「嗤い」の理論ですが、これもとうに予想できることでした。

やはり、ここはシャフツベリの見なおしというところまで遡りたいところです。18世紀という啓蒙と合理性の時代の中で、(時代錯誤的にも)新プラトン主義を信奉しながら、近代的な批評意識を研ぎ澄ましたシャフツベリを考え直すことは、実は森さんの仰る「バフチンを讀むカッシーラー」に近づく迂回路かもしれないと愚考する次第です。

No.846

嗤笑はアイロニーかユーモアか
投稿者---森 洋介(2002/09/15 10:20:16)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>落とし所がシャフツベリの「嗤い」の理論ですが、これもとうに予想できることでした。

 少し氣になってゐたことなので、この際お訊ねします。
 しばしば「嗤い」とお書きになってゐますね。この字を用ゐてをられるのは何か理由がおありなのでせうか。
 といふのも、字書には「嗤」は「あざわらふ・さげすみわらふ」の意とあり、おっしゃるやうなユーモア(フモール)としてよりもむしろ攻撃的なアイロニーといふ語感で受け取られるからです。
 イロニーとフモールの異同については
No.690No.696でも述べられてゐた通り、笑ひの質が異なるわけです。ひところ柄谷行人なども頻りとその差を言ひ立ててゐましたっけ(『ヒューモアとしての唯物論』)。ドゥルーズの『マゾッホとサド』然り。
 勿論、ユーモアといへども廣義のアイロニーのうちに含まれる筈、兩者をことさらに對立させてユーモアだけ賞揚するやうな態度は考へ物です。ですからそんなに峻別してこだはらずともよいことかもしれませんが。
 ちなみに昔アイロニー論を少し漁った時、ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』は書名に期待して讀んだら失望した憶えがあります。相性があるのでせうかね。アイロニーを論じた本で今でも時に讀み返すのは、福田恆存『批評家の手帖 言葉の機能に關する文學的考察』(新潮社、1960.5)です。福田の反語的精神が好みなもので。

No.847

毒のある「嗤い」
投稿者---prospero(管理者)(2002/09/15 23:05:19)


> しばしば「嗤い」とお書きになってゐますね。この字を用ゐてをられるのは何か理由がおありなのでせうか。

やはり、この種の機微には敏感に反応なさいますね。

それほど意識的というのではないにしても、私自身は、バフチン的カーニヴァル的なものを「笑い」、自意識過剰なイロニーの所作を「嗤い」といった具合に、漠然と感じている節があります。厳密にどう分けられるというものでもないかもしれませんが、民衆的・カーニヴァル的「笑い」のほうは、もちろん秩序の転覆といったある種の攻撃的な要素が含まれるとは言えるかもしれませんが、しかし重点はどちらかというと宇宙論的な哄笑、規制の秩序にとらわれることのない力の爆発のようなところにあるような気がしています。それに比べて、より近代的なアイロニカルな「嗤い」は、仰るような「あざわらふ・さげすみわらふ」という色合いが濃いとも言えそうです。シャフツベリなども、批判の武器として「嗤い」を考える以上は、やはり後者の系列に入るということになりますか。

しかし、このイロニーの「嗤い」は果たして攻撃というだけに終わるものなのかどうかは、少し考えてみたいところではあります。「嗤い」が「笑い」に突き抜けていく場面とでも言いますか、批判のエネルギーが高まりすぎて、もはや攻撃にとどまらなくなってしまうような姿が考えられはしないかと愚考する次第です。

ですから、正直なところ、シャフツベリ → カッシーラー → バフチンというラインは、一応文献的な追跡はできたにしても、その間には、内容のうえでまだ埋められていない飛躍があるような気がしているのです。

No.848

笑ひの方法
投稿者---森 洋介(2002/09/18 21:09:59)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>ですから、正直なところ、シャフツベリ → カッシーラー → バフチンというラインは、一応文献的な追跡はできたにしても、その間には、内容のうえでまだ埋められていない飛躍があるような気がしているのです。

 それはバフチンに即すと、先行するドストエフスキー論からラブレー論への展開を促すにあたって何が介在したか、といふことになりますか。
 當てずっぽうで申します。笑ひといふことでロシア文學の文脈を參照したらまづゴーゴリが擧がってきませんか。と云っても、バフチンがゴーゴリをどう讀んだかについては無知です。多分ミッシング・リンクそのものではないかもしれません。が、補助線くらゐにはなりませんか。念頭にあるのは、後藤明生『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』(福武文庫、1990.11)です。後藤明生にドストエフスキーの「笑ひの方法」を論じさせたらどうなるだらうか。或いは、バフチンに『ドストエフスキーの詩學』の要領で「ゴーゴリの詩學」を解讀させたらどうなったらうか、といふことでもあります。
 チト哲學から離れすぎましたか。

No.849

ゴーゴリ
投稿者---
こば(2002/09/19 04:26:36)
http://www.h3.dion.ne.jp/~sabato/index.htm


ゴーゴリ『死せる魂』第一部はとても面白いですね。当時の中産階級に対する皮肉というか諷刺というかユーモアというか、とにかく声に出して笑いたい小説に初めて出会いました。不思議なことに、ロシアのキリスト教神秘主義がドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に与える影響は良好なものですが、ゴーゴリ『死せる魂』第二部に与える影響は最悪なものでした。ゴーゴリは真面目になればなるほど作品が詰らなくなる、天性の諷刺作家だと思います。森さんにはいつもながら良い御本を紹介して頂きました。早速探してみることにします。

No.869

嗤いから笑いへ?
投稿者---prospero(管理者)(2002/10/15 21:10:12)


>バフチンがゴーゴリをどう讀んだか

確かに、バフチンが論じたものの中で、ゴーゴリという結びつきはあまり印象に残っていません。むしろプーシキンについてのほうが、よほど詳しく論じているのではないでしょうか。この辺りのことは、もう少し調べてからあらためて考えることとして、ご紹介の後藤明生『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』を読んでみました。実を言うと、私自身は、ゴーゴリの作品は随分以前に読んだ折にも、あまり「笑った」記憶がありませんでした。ゴーゴリ自身の作品を読み返していないのですが、後藤氏のものに関して、少しばかり感想を。

ゴーゴリの「笑い」が諷刺ではない ―― なぜなら諷刺とは一つの立場に依存するものであり、それ自体として何らかの思想を前提するから ―― という主張はまずは有効な出発点のように思います。諷刺でいう笑いは、いまの私たちの文脈で言うなら「嗤い」に相当するものでしょうから、後藤氏の論は、こうした批判の具としての「嗤い」から、より広い意味での「笑い」に開いていこうという狙いをもつものと受けとめました。

しかし、「笑うものは、その者自身が笑われることになる」という著者の「笑い地獄」という着想は、私にはまだ不十分なような気がします。この「笑い」の対称的関係は、最終的には、「人間自身が元来滑稽なものだから」というところに帰着するわけでしょうが、やはりそうした人生論風の結論に跳んでいく手前で、もう少し「笑い」そのものの内実の考察が欲しいような気がしてしまいます。

とりわけ、「笑うものは笑われる」というときに想定されている「笑い」は、まだ「嗤い」という性格を ―― 言いかえれば「諷刺」の性格を ―― 抜け切れていないような気がします。その意味では、この関係はむしろ、「嗤う者は嗤われる」と書いたほうがピンと来るようです。ここでは「笑い」というものに、ある種の蔑視の意味合いが残っているように思えるのです。

それに比べると、ラブレー=バフチン的な「笑い」には、そうした蔑視や「笑い地獄」から抜け出た宇宙論的な闊達さがあるようにも感じられるのですが、如何なものでしょう。

No.871

ボードレール「笑ひの本質について」
投稿者---森 洋介(2002/10/27 22:10:12)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 間が空きましたが、お返事を。
 prosperoさん曰く、

[……]ここでは「笑い」というものに、ある種の蔑視の意味合いが残っているように思えるのです。 それに比べると、ラブレー=バフチン的な「笑い」には、そうした蔑視や「笑い地獄」から抜け出た宇宙論的な闊達さがあるようにも感じられるのですが、如何なものでしょう。


 お言葉から、いささか方角違ひながらボードレールの批評文を想ひ出しました。「笑ひ」論の古典としてしばしば優越理論に分類されるものですが、むしろボードレールは蔑視や優越といったせせこましい人間心理を笑ひ飛ばすやうなものを見ようとしてゐます。つまり、「嗤いから笑いへ」と。
 阿部良雄譯「笑いの本質について、および一般に造型美術における滑稽について」(『ボードレール全集 第三巻』筑摩書房、1985.7)より引きます。

[……]それは、人間の笑い、しかも真の笑い、自分の同類たちの弱さの徴[しるし]でも不幸の徴でもない対象を眺めての、激しい笑いだ。グロテスクによって惹き起される笑いのことを言おうとしているのであることは、容易に察していただけるだろう。[……]これは、腹も裂け気絶せんばかりのとめどもない笑いとなって表出される。[……]つまりこの場合には、笑いが、人間の人間に対する優越の觀念の表現ではなく、人間の自然に対する優越の觀念の表現である、と言いたいのだ。[……]

 今後私は、グロテスクを、普通の滑稽への対立物として絶対的滑稽と呼び、普通の滑稽の方は、有意義的滑稽と呼ぶことにしよう。


 ボードレールはこの絶對的滑稽の見本にホフマン、就中『ブランビラ王女』を擧げます。ところがラブレーは認めない。以下『ボードレール全集4』(人文書院、1978)の阿部良雄舊譯より(この部分は新譯より良いので)。

 フランス、明瞭な思考と論証の国であり、芸術が自然にまた直接に功用性を目指すこの国では、滑稽は一般に有意義的だ。[……]同様に、わが国のグロテスクが絶対にまで達することも稀だ。

 グロテスクにおけるフランスの巨匠ラブレーは、法外この上ない奇想を展開している最中でも、何かしら功用的で理性的なところを失わずにいる。彼は直接に象徴的だ。彼の滑稽はほとんどいつも、寓話さながらに見え透いたところがある。[……]


 どうも隣の芝生は青く見え、自國の文學には點が辛くなるもののやうです。嚴密に「窮極の絶対という見地に立てば」、ホフマンだとて相對的な滑稽でせう。絶對なるものは地上に存在し得ないはずですから。ラブレーも亦然り。prosperoさんが慎重にも「ラブレー=バフチン的」と記した通り、それはラブレーそのものといふよりはラブレーをダシにしてバフチンが語った「笑ひ」です。同樣に、バフチン=ドストエフスキー的とか、ボードレール=ホフマン的な「笑ひ」と言ってもいいわけで。實際ボードレールは、笑ふ對象が滑稽を備へてゐるのではなくて「滑稽がひそんでいるのは、特に笑う者の裡、観る者の裡であること」に注意を促してゐました。ラブレーやホフマンといった個々の作品が「滑稽」である(或いは滑稽でない)のではない、笑ひの本質はそれらを笑ふ我々讀者の心の中にある、といふことになりませうか。


No.872

トラジェコメディ
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/03 12:19:07)


>森さん

いつもながら、読み応えのある文章をありがとうございます。私のほうも、間が空いてしまいましたが、少々思ったことを。

>むしろボードレールは蔑視や優越といったせせこましい人間心理を笑ひ飛ばすやうなものを見ようとしてゐます。

なるほど、優劣や効用を離れた「絶対的滑稽」、曰く「グロテスク」ですか。確かに仰るように、「嗤いから笑いへ」ということで漠然と思い描いたのは、この種のことかもしれません。単に面白おかしいという意味での「笑い」ではなく、また「人間は所詮滑稽なもの」という人間的諦観に通じるものでもなく、一種の「認識論的」困惑を惹き起こすようなパラドキシカルな事柄に対する反応として「笑い」を考えていました。おそらく、笑いというものには、いま接している現実が唯一のリアリティーとは限らないというような、現実の複数性の感覚に対応しているような気がします。これに対して、「嗤い」が有効なのは、自分の主義主張こそが紛れもない真実で不動の真理だと思いなしている呑気な(それゆえに現実的には最も力を握っている)族(うから)に対して、その現実に揺さぶりをかけるという場合でしょう。その意味では、「嗤い」は戦略的である分、逆に自分の批判する相手に縛られてもいるということになるかもしれません。

その点「絶対的滑稽」に対する感覚は、現実から巧みに距離を取り、その複数性を堪能できる大らかさをもっているとも言えるかもしれませんね。そのように考えると、ここでいう「絶対的」というのは、かならずしも「究極的」である必要はなく、その絶対性は、時々の視点の転換なり、風景の逆転に柔軟に対応できるか否かということにのみかかっているような気もします。その点、ボードレールが『ブランビラ姫』を挙げているのは、面白いと思います。あの作品も、普通の意味で大笑いをするというようなものではなく、むしろ認識上の混乱を幾重にも惹き起こすような重畳した仕掛けで作られているからです。この辺の感覚は、シェイクスピア晩年のロマンス劇が、悲劇とも喜劇ともつかない、名づけるとしたらtragedy+comedy → tragecomedyとでも言われるような性格をもつのと似ているかもしれません。それに比べると、ラブレーの場合は、単純な「引っくり返し」や言語遊戯が主なので、その程度ではボードレールには飽き足らなかったのかもしれませんね。

「笑い地獄」も、もしかすると「笑い-笑われる」という対称的な関係の中に、そうした相対化を含み込ませているのかもしれませんが、「地獄」という言葉がもつある種の「重さ」が何となく気になるところです。

蛇足でが、ホフマン『ブランビラ姫』の初版はカロの絵を入れたものなので、いつか入手したいと思い、古書店に現物が出たときに見に行ったことがあります。しかし、実物を見てがっかりしました。版型は小さいし、厚紙装の実にみすぼらしいものでした。やはりドイツは18世紀中盤はおろか、後半から19世紀のロマン主義の時代でも、書物の作りはいたってシンプル(というかむしろ「貧相」)で失望させられます。やはり文化的にはフランス・イギリスの後塵を拝しているという感は否めません。というような次第で、『ブランビラ姫』は購入を断念しました。

No.873

認識論的笑ひ
投稿者---森 洋介(2002/11/03 17:15:57)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 prosperoさんのご考察、興味深く拜讀しました。特に「認識論的」笑ひといふのは成程と思ひます。その「認識論的」な要請から、カッシーラーが召喚されるわけでせうか。もしカッシーラーがその邊りについて何か考察してゐるのでしたら教へて下さい。
 「認識論的」笑ひと云ふと、私は、例によって『言葉と物』序文、ボルヘスの紹介する支那の百科事典がフーコーに催させた笑ひを想起します。實際、『思考集成』等のインタヴュー記事を讀んでゐると、フーコーは「(笑)」がよく似合ふ人だと思ひます。蓮實重彦に言はせると「その笑い方そのものがテープに入ってそれを耳で聞いていると、これはもう猿のけたたましい叫びとしか思えない。猿だなあと思って」「しかもけたたましいのは他人を苛立たせるだけではなくて、自分にも半ば苛立っちゃって、でキャッキャッと笑うんですね。しかも半分は自嘲に近いその笑いが、なおかつ人智を超えたもののはにかみのようで。」云々(鼎談「猿とデリディエンヌ」、渡辺守章『フーコーの声』所收)――まあこれだと、取りやうによっては「笑い地獄」止まりのやうでもありますけど。
 或いは、中沢新一『はじまりのレーニン』の哄笑……ドリンドリン、とかでもいいのかもしれません(?)。

 蛇足ですが、私もジャック・カロを好みます。といふか、19世紀以前の銅版畫であれば、ヴェルヌ「驚異の旅」シリーズの插繪でも博物圖鑑でもグランヴィルでもドレでも見境ひ無く好きです。當然、それらを材料にしたマックス・エルンストの『百頭女』をはじめとするコラージュも大好きです。しかも白黒で非彩色であるとなほ好く感じる。で、つらつら省みますに、どうも私が好きなのは個々の畫家の畫風や繪の内容といふ以上に、エッチングといふ細密な線描の形式なのではないか。つまり書物を好む延長で、版畫といふ複製印刷物を好んでゐるに過ぎぬらしい。……「すなわちそれは、他のあらゆる感覚的要素を奪われ、そのうえ灰色の単彩画に変えられてしまった可視性なのだ」(『言葉と物』邦譯156頁)。

No.876

カッシーラー再び(+ドレ)
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/07 20:41:29)


直接に今の「笑い」ということに結びつくわけではありませんが、「認識論的」笑いということで持ち出した現実の多元性ということでしたら、カッシーラーと縁がないというわけでもありません。

カッシーラーの『象徴形式の哲学』は、科学的認識一辺倒だったカントの認識論を、芸術・神話、あるいは広く文化現象一般に拡げて、それぞれの領域の独自性を認めていこうという野心をもって展開されたものでしょう。その点では、各々の領域ごとの象徴形式を勘案するという仕方で、現実の多様性を承認する議論が含まれていたと思います。

しかし、『国家の神話』あたりにになると、むしろそうした多元性が、下位の象徴形式から上位の象徴形式への発展という「啓蒙主義」的な図式に収められてしまった気配があります。結局問題となるのは、象徴形式同士のあいだの移行だと思うのですが、その点もカッシーラーはどのように考えていたのか、いまのところ、私にはよく分かりません。これは少し気長に考えてみたいと思っています。

>書物を好む延長で、版畫といふ複製印刷物を好んでゐる

やはりそうですか。私もまた、絵画一般というよりも、書物に挟んであってテクストと相渉っているという点で、挿画の銅版画・木版画を好んでいます。とりわけ、仰るように、表現の細密さから、エッチングや小口木版が趣向に合います。ご指摘のドレもそれなりに蒐めました。畏友のHPに、撮影してもらった
『失楽園』の写真がアップされています。やはり、ドレの版画は、テクストと同じく、凸版で圧されているというのが魅力というところもあるかもしれません。私にとって、挿絵入り本の魅力は「灰色の単彩画に変えられてしまった可触性」にあるのかもしれません。しかし、19世紀の挿絵入り本はサイズがとにかく大きく、ドレのものも、この掲示板上のベールの辞典よりも大きく、これが収まるような書棚がなく、困っているほどです。

No.874

宇宙論的笑い
投稿者---花山薫(2002/11/06 00:57:00)


どうも、お久しぶりです。私のほうは間があきすぎて、いまさら書きこみするのも間抜けな感じなのですが、ちょっと感想など。

prosperoさんのおっしゃる「宇宙論的笑い」ですが、どういう笑いが「宇宙論的笑い」なのか、私にはいまひとつよくわかりません。私たちが無意識に笑っている笑いにも、そのような壮大な(?)ものがあるのでしょうか。「超越論的笑い」というのなら、なんとか理解できるような気もするのですが。

ボードレールといえば、彼の笑いに関する考察かなにかに「それは爆発であり、流出であり、云々」とあるのが妙に頭にひっかかっています。もし笑いにプロチノスの哲学に通じるものがあるとすれば、そこを詳しくつつけば「宇宙論的」なるものに達するのかもしれないな、と漠然と考えました。

それにしても、ボードレールはホフマンをちょっと褒めすぎですね。彼が最上級の折り紙をつけた「ブランビラ王女」にしろ、「クライスレリアーナ」にしろ、私などにはあまりありがたくないものでした。もっとも、翻訳でおかしみを出すのは非常にむつかしいことでしょうけれども。


No.875

神と猿のさんざめき
投稿者---prospero(管理者)(2002/11/07 19:01:48)


>花山さん

お久しぶりです。
確かに仰られるように「宇宙論的笑い」とは、大仰でわかりにくい表現かもしれませんね。ただこれは、笑いそのものの性格が「宇宙論的」ということではありませんで、笑いの対象が、人間的な失敗や滑稽ではなく、現実の様相全体に関わるような場合のことを想定していました。その意味では、森さんがまとめられた「認識論的笑い」も、そしてもしかすると花山さんが「超越論的笑い」ということでお考えのことと同じかもしれません。

ただ、わざわざ「宇宙論的」といったのは、やはりバフチンによる連想が働いたからで、世界の始源に神が笑ったであるような笑いを思ったということもあります。「創世記」の神の「よしとされた」というのを、そんな宇宙論的笑いの原型と考えてみたいような誘惑にも駆られます。

それにしても、森さんが引用されたフーコーの猿のような笑いというのは、何だか耳について離れなくなりそうな描写ですね。これなどは、それ自体が「笑い/嗤い」という両義性のあいだを動いているような印象も抱いてしまいます。

No.862

カッシーラー・ドキュメント
投稿者---prospero(管理者)(2002/10/04 22:58:05)


ネット上を検索していたら、カッシーラーについてのドキュメント番組に遭遇しました。
こちらで一部分の音声が聴けますし、マニュスクリプトもあります。この音声の中では、クリバンスキーの声を聴くこともできます。目新しいことはありませんが、ヴァールブルク文庫との関係などを語っています。ちなみに、最初のアッペルバウムというのは、カッシーラーの娘だそうです。

マニュスクリプト部分では、例によって現代哲学の証人ガダマーの言葉が採られています。カッシーラーの文章は明快で「すべらか」なので、深遠な次元を指し示す暗示力に欠けているというようなことを語ったうえで、現象学がこれだけ認知された状況では、カッシーラー・ルネサンスを興すのは難しいのではないかなどとも言っています。この辺りは、カッシーラー評価云々というよりも、ガダマー自身の学問理解の狭さを、はしなくも露呈しているような気がするのですが。私などにとっては、いまとなっては、ガダマーの『真理と方法』などより、カッシーラーの『象徴形式の哲学』のほうが、よほど魅力的に思えます。

ちなみに、このページを
機械翻訳に掛けて英訳してみました。結構珍妙な訳になって驚きます ―― というか、むしろ笑えます。何しろ、Ich sageがI legendですから。確かにSageは名詞では「伝説」ですけど……。ドイツ語から英語という翻訳で、I sayというレベルのものをこんな具合に「誤訳」してしまうようでは、何とも心許ない次第です。

古い辞書の効用No.754,prospero(管理者)(2002/07/12 23:37:35)
 ・岩波『哲学・思想事典』VS平凡社『哲学事典』No.759,ねあにあす(2002/07/20 03:22:53)
  ・平凡社『哲学事典』No.760,柳林南田(2002/07/20 05:21:28)
   ・Re:平凡社『哲学事典』No.761,柳林南田(2002/07/20 05:29:42)
  ・哲学事典あれこれNo.762,prospero(管理者)(2002/07/20 15:26:35)
   ・Re:哲学事典あれこれNo.763,ねあにあす(2002/07/20 20:08:23)
    ・方法論の欠如No.764,prospero(管理者)(2002/07/20 22:44:34)
     ・Re:方法論の欠如No.772,Juliette(2002/07/26 16:18:18)
      ・ドイツ語の思想書No.773,prospero(管理者)(2002/07/26 19:52:34)
       ・Re:テクストの織り目からNo.774,Juliette(2002/07/27 09:34:12)
   ・Re:哲学事典あれこれNo.765,森 洋介(2002/07/23 02:13:29)
    ・正統表記No.766,柳林南田(2002/07/23 02:58:26)
    ・学知の考古学No.767,prospero(管理者)(2002/07/23 23:33:15)
     ・新カント学派No.768,ねあにあす(2002/07/24 00:38:22)
      ・Re:新カント学派No.769,prospero(管理者)(2002/07/25 10:54:01)
       ・由良哲次・カッシーラー・中田祝夫No.803,森 洋介(2002/08/09 23:12:29)
        ・カッシーラーその他No.805,prospero(管理者)(2002/08/14 01:57:03)
         ・Re:カッシーラーその他No.806,ねあにあす(2002/08/14 15:36:50)
          ・カッシーラー論No.815,prospero(管理者)(2002/08/17 14:46:52)
           ・Re:カッシーラー論No.819,森 洋介(2002/08/17 17:52:49)
            ・Re:カッシーラー論No.826,prospero(管理者)(2002/08/19 14:48:15)
      ・Re:新カント学派(追加)No.808,prospero(管理者)(2002/08/15 22:30:19)
     ・文獻學……?No.771,森 洋介(2002/07/25 21:06:06)
      ・文献学とPhilologieNo.775,prospero(管理者)(2002/07/27 13:13:41)
       ・訂正(と追補)No.776,森 洋介(2002/07/27 15:29:00)

No.754

古い辞書の効用
投稿者
---prospero(管理者)(2002/07/12 23:37:35)


クライストの「ロカルノの物乞い女」を読んでいて、unterschuettenというよく分からない単語に直面。「物乞い女に藁をunterschuettenした」というような文章なのだが、最初のunterをはずしてschuttenで小学館の大辞典や、現役の独和からDudenを引いても「液体を注ぐ」というような訳しか出ていない。そこで思い立って、明治45年の登張信一郎『獨和大辭典』を引いたら、Pferden Futter schuettenで、「馬に飼葉を投げ与ふ」という訳が。なるほど。動物に餌を与えるような蔑視を籠めて、物乞いに藁を「くれてやった」というわけですね。この『獨和大辭典』、いまだに使えるものかもしれません。

No.759

岩波『哲学・思想事典』VS平凡社『哲学事典』
投稿者
---ねあにあす(2002/07/20 03:22:53)


>
いまだに使えるものかもしれません。
といえば、平凡社『哲学事典』。
70年代に出版されたものですが、90年代に出版された岩波書店『哲学・思想事典』にまだまだ乗り越えられてないように思います。
<岩波>で載ってない項目が<平凡社>で載ってたり、また、<岩波>でわけのわからなかった解説が、平凡社のでよく分かったことがあります。
この掲示板のみなさんもそんな経験がおありではないでしょうか。「この項目は平凡社のほうが優れてるっ」など、ぜひとも返信カキコしてくだされ。

No.760

平凡社『哲学事典』
投稿者
---柳林南田(2002/07/20 05:21:28)


哲学事典 / 達夫 (品切れ)
1993
1697P 22cm
ISBN: 4-582-10001-5
9,223
(税別)

これですか?「改訂新版」(71)が最終版ですね?
Yahoo!93年と書いてあるのは最終刷のことでしょう。

No.761

平凡社『哲学事典』
投稿者
---柳林南田(2002/07/20 05:29:42)


平凡社『哲学事典』は二種類あるようなのですが、どっちを指しているのでしょう。

哲学事典
/ 下中邦彦編. -- 平凡社, 1976
哲学事典. -- [改訂新版]. -- 平凡社, 1971

No.762

哲学事典あれこれ
投稿者
---prospero(管理者)(2002/07/20 15:26:35)


下中邦彦編『哲学事典』(平凡社, 1976)というのはどのようなものだったか、思いつきません。

ねあにあす殿が話題にされたのは、
1954年に初版が出て、その後1971年に改訂版が出たもののことですね。この事典は、例えば1991年に、「精神薄弱」の項目に偏見表現があるという指摘を受けたこともあり、部分的にはやはり古くなっているのでしょうが、哲学のとりわけ基本的用語に関しては、仰るように岩波の『哲学・思想事典』にいまだに優っている部分があると思います。

一つには編集方針の相違ということもあると思います。『哲学・思想事典』は、「事項や人名などの総花的立項は排し、<読む事典>の性格を強める」と謳っているように、基本的に中項目主義なのでしょうが、正直なところ、これがかえって中途半端な印象も招いているようです。例えば「〔神の〕本体論的証明」などの項目は、平凡社にあって、岩波にはありません。ならばより大きな項目なら岩波が常に優っているかというとそうでもなく、「ヘレニズム」という項目も、平凡社に取られているにもかかわらず、岩波には存在しません(これは少し驚きます)。

しかし、「レトリック」(平凡社では「修辞学」)、あるいは人名ですと、「ヴィーコ」などの項目は、その後の思想状況の変化もあって、明らかに岩波が優っています。また岩波の事典は、今回は書名を多く項目にとっているのが一つの特徴なのですが、果たしてこれは必要だったかという気もします。

読む哲学事典という点では、三木清編『現代哲學辭典』(昭和
16年)は、今見てもなかなか充実しています。

欧文の哲学事典では、現在では
Historisches Woerterbuch der Philosophieが最大規模のものでしょうが、これはまだ完結していません。そのために、意志(Wille)などという項目を引こうと思うと、いまのところはEislerの哲学事典ということになりそうです。

No.763

Re:哲学事典あれこれ
投稿者
---ねあにあす(2002/07/20 20:08:23)


prospero
様、フォローをありがとうございます。平凡社から他に哲学事典が出てたとは知りませんでした。今まで哲学やってる人と話すとき「平凡社の哲学事典」と言えばそれで支障なかったので、つい不十分な書き方をしてしまいました。

そうですか、両事典の編集方針が違うのですね。それでは単純な比較はすべきではないのでしょう。
<岩波>ので中途半端に思われた項目に対しても、その執筆者も仕方なくそうした面もあったのかもしれませんね。

執筆者、と言えば、
<岩波>のには各項目の最後に誰が書いたのかが記されている点は、<平凡社>のより便利な点だと思います(<平凡社>のには記されてない)。読む時には、その項目の執筆者がどの分野に強い/弱いかを考慮に入れて読むことができるわけですから。

それにしても
<岩波>の項目の中には、prospero殿も挙げられた『Historisches Woerterbuch der Philosophie』のほとんど書き写しではないか、と思われるものがあります。もちろん、たとえ書き写しだったとしても欧文のものを和訳したことになるわけですから、無意味ではないのでしょう。しかし、それでも項目末の「参考文献」欄に名を挙げてられてないところをみると、『Historisches Woerterbuch der Philosophie』は日本の哲学研究者が素人を相手にする時の重要なネタ元なのではと思ってみたりしてしまいます。ちなみに、私が同事典の存在を知ったのは大学を出てからで、やはり大学の教員も学生に自分のネタがばれるのが嫌だから教えなかったのではと思ったりしたのでした。

No.764

方法論の欠如
投稿者
---prospero(管理者)(2002/07/20 22:44:34)


事典関係の情報が知られていないというのは、大学の、とりわけ文科系の教育に、きちんとした方法論を伝える意欲が欠けているというのも大きな原因のような気もします。基礎的な語学の辞書を始め、そうしたツールの使い方、その分野での代表的な事典・雑誌、いまどきならインターネット上のサイトなど、基本的な事柄を調べるためのノウハウを組織だって教授するということは、かならずしもなされていないと思います。しかしこれらは、学問の基礎体力に関わることなので、そうした知識なしにひたすら無手勝流にやるのは実に危ういことのはずなのです。

それこそ、この掲示板でもたびたび話題になった固有名詞の表記の仕方や、翻訳についての考え方などは、そのような学問の方法論の一環としてきちんと論じられて良いはずでしょう。各国語のごくごく基礎的な事項や、固有名詞の読み方などもその折に簡単に示すこともできると思います。そのくらいのことをしておけば、いくら「専門外」だといっても、オリゲネスの『原理論』を『君主論』と「訳」したり、「十字架のヨハネ」を「デ・ラ・クルス」という人名に変換したりといったことは避けられると思うのですが(共に実例です)。


No.772

Re:方法論の欠如
投稿者
---Juliette(2002/07/26 16:18:18)


久しぶりにお邪魔をいたします。

>事典関係の情報が知られていないというのは、大学の、とりわけ文科系の教育に、
>きちんとした方法論を伝える意欲が欠けているというのも大きな原因のような気もします。
>基礎的な語学の辞書を始め、そうしたツールの使い方、その分野での代表的な事典・雑誌、
>いまどきならインターネット上のサイトなど、基本的な事柄を調べるためのノウハウを組織だって
>教授するということは、かならずしもなされていないと思います。

本当におっしゃるとおりです。私などは、この
BBSStammgastの皆様のようにレベルの高い
文献を読んでいるわけではないのですが、それでも、どうしても辞書どおりでは意味が通じない
単語などにも出会います。
小学館の独和大辞典で追いつかないと
DUDENなども利用していますが、使いこなせているとは言えません。

たとえば、先日も 
respektiv という語が出てきた時、小学館では「() そのつどの、その時その時の」となっておりますが
これではどうも通じない。結局、その場合は「反省的な」ととるのだと教えてもらいました。
言われてみれば
"Respekt""Rueck-sicht"の意から来ているのですから、すごく納得なのですが、
私のような素人は仮にも独和大辞典が言っていることを無視もできないのです。

ところで、哲学系の本(主にドイツ語の)を読むときにはどのような辞書を手元にそろえておけばいいのですか?
たとえば、独独などに関しては何も情報がないので、この機会に教えていただけると嬉しいのですが・・・。


No.773

ドイツ語の思想書
投稿者
---prospero(管理者)(2002/07/26 19:52:34)


>Juliette
さま

お久しぶりです。

例として出された
"respektiv"ですが、確かに小学館や木村・相良でも「個々の」とか「それぞれの」というような意味しか載っていませんね。ですが、哲学関係の文章を見慣れていると、respectiv < re + speclare、仰るようにRueck-sicht(blick)という方向の意味の方が、逆に真っ先に思い浮かんでしまいます。この辺は、どの辞書が良いというよりは、どの種類の文章に接している時間が長いかによって決まってくるようなところかもしれません。

ただ、引き合いに出したついでに、登張信一郎『獨和大辭典』を見てみたら、なんとここにはしっかりと、「それぞれ、各自に」という訳語の前に、「関係的に、斟酌して」というものが、しっかりと載っていました。立派なものです。

Dudenも、思想関係の文章のためにとりわけ有利ということもなさそうです。語彙数の上でも、さほど利点はないようで、大独和でも見つけられない語をDudenで調べることができたという経験はあまりなかったように思います。

やはり、ある程度のレベルになってしまうと、辞書よりも経験知が物をいってくるような気がします。しかも、思想的な文章では、文脈と論理を飽くまでも考え抜くという力のほうが、語学的能力よりも強く要求されるようです。テクストを上下・左右あらゆる方向から読むとでも言いますか、テクストが出がらしになるまで意味を抽出してやるという意気込みが肝心かと思います。しかも、ドイツ哲学は、そうした忍耐を裏切らないようなところがあって、その点では、考え甲斐のあるテクストを提供してくれているようです。


No.774

Re:テクストの織り目から
投稿者
---Juliette(2002/07/27 09:34:12)


> prospero
さま

さっそくのお返事、ありがとうございました。
聞けば聞くほど、登張信一郎『獨和大辭典』が欲しくなってきました。

確かに日本語の場合を考えてみても、辞書が我々が個々の言葉に与えている多様な意味のすべてをくみ尽くせるはずはないわけで、
むしろ、その時々の使われ方から、つまりコンテクストの中から浮かび上がってくる意味こそが大切なのですね。
本当に、テクストというのは繊維の一本一本にまで何かしらの意味が込められているんだなあと、痛感するこのごろです。
縦横無尽に読む、食い尽くすように読む、まだまだ修行が足りませんが、そういうのはとても楽しい作業です。

夏休みが始まりました。たくさんの本に出会える季節です。
末筆ながら、この
HPへお越しの皆様に、「書中お見舞い申し上げます。」


No.765

Re:哲学事典あれこれ
投稿者
--- 洋介(2002/07/23 02:13:29)
http://y7.net/bookish


>
読む哲学事典という点では、三木清編『現代哲學辭典』(昭和16年)は、今見てもなかなか充実しています。

 これ、私もたまたま持ってゐます。昭和十六年三月發行の『新版 現代哲學辭典』(日本評論社)のことですよね。元版は昭和十一年發行、昭和二十二年に第二版が出た模様。私蔵本は昭和十六年八月十日刊で何と四十八版を重ねてゐます。それだけありふれた本だったわけで、道理で賣價も安かったはず――早稻田の古本屋で金三百圓也でした。
 ただし、買っておいたきり、あまり活用はしてゐません。おっしゃる通り、これは「大項目主義を一貫して採用して」「引かれる辭典である以上に讀まれる辭典であることを期した」(「序」)もので、項目と執筆者によっては興を惹く記述もないわけではありませんが、今日から見ては如何にも古びてしまってゐる感は否めません。だから私は、現役の事典としてではなく、當時の學問の水準をうかがふための、謂はば知の考古學的關心から購入したのでした。その點でこの本は、哲學と銘打ちながらも「映畫」だの「ジャーナリズム」だの「人類學」だの「民俗學」だのとむしろ哲學以外の諸學百般が立項の大半を占めてゐるのが嬉しい所です。就中「統制論」や「獨裁主義」などは1941年當時の「現代」をモロに反映した項目でせう。
 ついでながら。かつて頻りに古いブリタニカの效用を説いてゐたのは渡部昇一氏でしたが、私も何を血迷ったのか冨山房の『國民百科大辭典』全十四卷+別巻一(1934〜1937)を買ひ込んでしまって、以來置き場所に苦労してをります。
 ともあれ、過去の學知を探るためには古い辭書事典に效用あること、大いに首肯しますが、現役に使って有用なものといふことになればやはり尠いと思ひます。くだんの登張信一郎『獨和大辭典』にしても、クライストの「ロカルノの女乞食」のやうな古い小説を讀めばこそ役に立ったのではありませんか。現代ドイツ語文を前にしても果して「いまだに使えるもの」なのか、私はいささか懷疑します。
 固より、ドイツ語は皆目存じぬ身で推量するのですから、これは見當外れかもしれません。三木清編『現代哲學辭典』にしても、(私如き門外漢でなく)哲學專科の見識を以て讀めば、1941年時の「現代」ではなく21世紀の現代から見ても優れたところがあるのかもしれません。「なかなか充実」とはどの邊りを評價されてゐるのか、もし宜しければご教示いただけると幸ひです。

No.766

正統表記
投稿者---柳林南田(2002/07/23 02:58:26)
http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/


ところで、森さんは「旧かな」「旧字」を使っていますが、何か意味あってのことでしょうか。

私は、「現代かなづかい」にやや文法的におかしいところがあるとは思います。「旧かな」のほうが良い面もあるでしょう。しかし、旧字体には断乎反対です。漢字制限をつよめ、徐々に漢字廃止を進めていくべきだと思います。


漢字制限を強める 常用漢字を減らす
漢字の訓よみの禁止(やまとことばを大事にする。やまとことばを漢字で書かないこと)
国語以外の学校教科書のローマ字化

などを進めていくべきだと思います。

http://www1.ocn.ne.jp/~kanamozi/
こちらを参照

No.767

学知の考古学
投稿者---prospero(管理者)(2002/07/23 23:33:15)


古い事典・辞典類への関心を、「當時の學問の水準をうかがふための、謂はば知の考古學的關心から」と仰るのはまさに当を得ていると思います。私などが、「今見てもなかなか充実」というのも、そういうところに重なる面もあるように思います。

元々、哲学・思想の内実は、事典項目を読んだだけで得心の行くようなことは少ないので、ことに私の場合、この種の事典を「読む」ときには、その項目を著者がどのように処理しているかという関心に引っ張られて読むことが多いような気がします。その点では、事典を引っ張り出した時点ですでに「考古学的関心」が働いていると言えるのかもしれません。

しかし純粋にそれだけではなく、知識を得るという単純なことだけにしても、古い事典が役立つ場合があります。渡辺昇一氏が旧版のブリタニカの効用を説いていたのも、文系の項目の場合は、版を追う毎に縮小され記述が簡単になる傾向があるので、古い版だと、現行の版では載っていない情報が調べられるというような意味合いだったと記憶します。文系の場合は、前の時代のものが後の時代の「進歩」によって「乗り越えられる」という部分は少なく、むしろ事典の記述の大小は、流行によることが大きいと思います。それを思うと、古い事典の記載もなかなかに捨てがたいというわけです。

三木清編『現代哲學辭典』の場合、なにしろ1941年公刊で、ガダマー『真理と方法』(1960年)以前なわけで、「解釈学」の項目なども、せいぜいがハイデガーどまりです。ですから、今の段階で、解釈学についてのトータルな知識を得ようとするのなら、これは当然に不充分なのですが、その代わりにこの事典では、近代の解釈学の歴史をベックの文献学が説き起こし、それにかなりの分量を割くという、いまだと考えにくい記述を行っています。ですから、このベックについての記述などは、現在の哲学事典にはかえって求められない有益な情報と言えるでしょう。

また当時の流行の圧倒的な傾向として、新カント学派の席捲ということが挙げられます。ですからこの事典も、どこを切っても、その記述は新カント派だらけです。そしてこの新カント学派こそ、その後の凋落著しく、現在のわれわれはその概要を簡単に知る手立てを意外ともっておりません(その欠を補うべく、私なども以前ある雑誌に、新カント派関係の年表を作って載せたことがあります)。そうした点では、この事典はなかなかの情報源になります。「価値論」などがそうした項目の一つかもしれません。「言語学」などという項目も、当然、構造主義の思想などは盛られていませんが、それでもこの観点からはよく書けているものではないかと思います。奇しくもこのなかの最後の小項目が「国字問題」ですが……。さらには、当時の存在論を代表していたハルトマンについての情報なども、他ではなかなか得がたいところかもしれません。

登張信一郎『獨和大辭典』が「いまだに使えるもの」と書いたのは、私にとっての「いま」が奈辺にあるかを露呈した恰好になったようです。やはり基本的には古い文章を相手にするのが私にとっての「日常」なので、ついそうした言い方になりました。もちろん一般化できません。きちんと言いなおすなら、「古いものを読むときには<いまだに使える>」といったところでしょう。その点では、古典的な「木村・相良」も同じで、これも古いものを読むときには、その訳語も含めてなかなかよく使えます。

No.768

新カント学派
投稿者---ねあにあす(2002/07/24 00:38:22)


>その欠を補うべく、私なども以前ある雑誌に、新カント派関係の年表を作って載せたことがあります

prospero様、もしよければその「雑誌」をお教え願えないでしょうか(「理想」あたりかしら?)。
そのことで貴兄のアイデンティティに支障があるようでしたら、
かわりに何か新カント学派に関する参考文献でもかまいませんので、お願いできないでしょうか。

ちょうど私、最近「新カント学派」について調べたいと思っていたところでして、
とはいえ何をしていいやらわからず、ドイツ語でゴリゴリとコメンタールの読み比べでもするしかないかな、などと考えていたところなのでした。
情報を書き込むべき掲示板でお願いとは場違いかもしれませんが、よろしくお願いします。

No.769

Re:新カント学派
投稿者---prospero(管理者)(2002/07/25 10:54:01)


くだんの「新カント派関係の年表」というのはさほど完全なものではなく、日本における受容を中心にしたものですが、ご見当の方向は当たっておりますので、その線で調べていただけると容易に見つかるかと思います。

古いものですが、高坂正顕『カント学派』(弘文堂)などは、リッケルトとコーエンを中心に要領良く内容をまとめていました。

あまり詳しいことは分かりませんが、ここ10年ほどで、ドイツでも新カント派関係の掘り起こしがなされているようです。考えてみると、新カント学派の機関誌だった『ロゴス』というのも、学知の組み替えの意志に富んだ立派なものだったようです。この編集委員には、クローナー、フッサールなどの哲学研究者以外に、社会学のM・ヴェーバー、歴史学のトレルチ、さらには美術史のヴェルフリンなどが名を連ねていましたから。以前、全巻を所蔵している某大学図書館に赴いて、全号の目次をコピーしてきたことがあります。しかし私個人としては、やはり新カント学派の中で一番関心があるのはカッシーラーですが。


No.803

由良哲次・カッシーラー・中田祝夫
投稿者---森 洋介(2002/08/09 23:12:29)
http://y7.net/bookish


>しかし私個人としては、やはり新カント学派の中で一番関心があるのはカッシーラーですが。

 カッシーラーに關心がおありといふのは、やはり彼一流の言語哲學のあるところ、また理論だけでなく歴史をやったところに惹かれてのことでせうか。

 ところで今日、古書展で雜誌を拾ひ讀みしてゐたら、『新選古語辞典』(小学館)の完成を機に編者・中田祝夫氏(1915〜)にインタヴューした記事が目に止まりました。なんでも若き日の中田氏は、東京文理科大學(筑波大學の前身)で由良哲次に教はったことで、カッシーラーに相當惚れ込んだ由。由良哲次は以前ここの掲示板でも話題になった、あの由良君美の父である哲學者です。しかし、實證的なことをやった方が君の氣質に合ってゐるよと由良先生に云はれてさうかと思ひ、今の道に進んだのだとか。
 ご存知でもありませうが、中田祝夫氏の專門は國語學、殊に訓點語の大家です。その中田氏の教養形成に由良哲次やカッシーラーが與ったとは、意外な取り合はせでした。少々驚きついでにここに書きつける次第。下手な三題噺で失禮。
 ちなみに訓點語學會は、國語學會の中でも最も文獻學的な國語學の氣風を有する一派と目されますが……。

No.805

カッシーラーその他
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/14 01:57:03)


> カッシーラーに關心がおありといふのは、やはり彼一流の言語哲學のあるところ、また理論だけでなく歴史をやったところに惹かれてのことでせうか。

おおむね、関心のありようはご指摘の通りです。一番最初にカッシーラーに関心をもったのは、ヴァーグナー絡みで神話学などに入れ込んでいた学部生の時期に、『象徴形式の哲学』の第二巻「神話的思考」を読んだ辺りのことでした。あの頃には、現在の木田元氏の全訳はもちろん存在せず、彼の友人の生松氏の訳した第一巻の翻訳のみ、それ以外は矢田部達郎氏の抄訳版しかなく、それも古書でかなり高価だったので、いきおい原書で読むほかはなかったのですが、その時に触れたカッシーラーのドイツ語がまた私などにはひどく魅力的に見えました。後に、ある人が「無表情の名文」と評しているらしいことを知りましたが、まさにそういった趣のある、変な装飾のない、かといって単純なわけでもないその文章にひどく惹かれた覚えがあります。

言語哲学の部分を読んだのはそれから大分あとのことで、その間には『啓蒙主義の哲学』の邦訳(紀伊國屋書店)を古書で捜して読んだりしましたが、これは邦訳自体も中野好之氏の立派なもので、随分と感激したものです。

カッシーラーの哲学史の記述は、該博な知識を背景にして、骨太な通史を描いて見せるという点で、傑出した歴史感覚を伺わせるような気がします。ある人から聴いたところでは、カッシーラーはイギリスで、しかも歴史学を専門としている人にファンが多いとか。実証性と歴史感覚という意味では、これも分からなくもありません。現代で、カッシーラーの衣鉢を継ごうとしていたのが、すでに故人ですがハンス・ブルーメンベルクという思想史家だったようです。

実証性という点では、中田祝夫氏のことは、興味深く読ませていただきました。由良氏の父君は、元々がディルタイなどを専門としていた人のはずなので、歴史感覚と実証性ということには鋭敏な感覚が働いたのかもしれませんね。

No.806

Re:カッシーラーその他
投稿者---ねあにあす(2002/08/14 15:36:50)


>カッシーラーのドイツ語がまた私などにはひどく魅力的に見えました。
>後に、ある人が「無表情の名文」と評しているらしいことを知りましたが、
>まさにそういった趣のある、変な装飾のない、
>かといって単純なわけでもないその文章にひどく惹かれた覚えがあります。

そういえば私の友人が、カッシーラーの『Das Erkenntnisproblem』を、大学院入試のドイツ語上達にと薦められたと言っていました。それもその「名文」ゆえにのことだったのでしょうね。


No.815

カッシーラー論
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/17 14:46:52)


そういえば、カッシーラー自身はたいへんに魅力的なのですが、そのカッシーラーを論じた文章で面白いものにあまり出会った記憶がありません(欧文のものも含めて)。
Uber Ersnt Cassirers Philosophie der symbolischen Formen(『エルンスト・カッシーラーの<象徴形式の哲学>をめぐって』)というものがズーアカンプに入っていて、特にその中の「カッシーラーの著作における精神科学の問題 ―― ヴァールブルク文庫との関係で」というものに期待したのですが、これもたいしたことはありませんでした。カッシーラーの『象徴形式の哲学』の形成に当たって、ヴァールブルク文庫がどういう利用のされ方をしたのか、具体的に検証したような論考があったら嬉しいのですけど。

No.819

Re:カッシーラー論
投稿者---森 洋介(2002/08/17 17:52:49)
http://y7.net/bookish


 林達夫と久野収の對談『思想のドラマトゥルギー』に、「無表情の名文家=カッシーラー」と見出しを振った一節がありましたね。平凡社ライブラリー版で137〜141頁。久野収がカッシーラーに色々註文をつけてゐて、最後に「カッシーラーは、無表情の名文の大家だと言えますね」と。まあこの評言は、久野収が言ひ出したわけではなくて別に出典があるのかもしれませんが。
 尤も久野収は、林達夫の書いたものが「どんな小さな文書でも、どんな大きな論文でも、みんな表情がある」のに對し、しかるにカッシーラーは……と述べるわけですから、ここで「無表情の名文」は必ずしも襃め言葉ではない。林達夫の方はカッシーラーを久野の批判からちょっと擁護してゐます。
 どのみち座談の餘談に過ぎないわけですが、ここで述べたカッシーラー批判を久野収はどこかでちゃんとした文章にしてゐないのでせうか。

No.826

Re:カッシーラー論
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/19 14:48:15)


> 林達夫と久野収の對談『思想のドラマトゥルギー』に、「無表情の名文家=カッシーラー」と見出しを振った一節がありましたね。

そう言われてみると、随分と以前、まだ平凡社選書の版だった頃ですが、この書物には私も随分と入れ揚げたので、その記憶が残っていたのかもしれません。ご指摘、ありがとうございました。

林達夫の座談集ということでは、のちに出た『世界は舞台』(岩波書店)よりも、この『思想のドラマトゥルギー』のほうが数段格が上でしたね。

カッシーラーは現在、ドイツで全集と遺稿集の編集が同時進行中なので、その進展と共に、また見なおしが進むことが期待されます。ただ、私も遺稿集の第一巻は入手したのですが、かなり断片的で、全体像を掴むのには骨が折れます。

カッシーラー関係では、最近思いついた話題がもう一つあるのですが、このスレッドも大分重くなってしまったので、これは「新規投稿」で改めて。

No.808

Re:新カント学派(追加)
投稿者---prospero(管理者)(2002/08/15 22:30:19)


少々思い立って、トランク・ルームに別置きしてあった哲学関係の書物をひっくり返してみたら、新カント学派関係で以下のものが出てきました。

K.Chr. Koehnke, Entstehung und Aufstieg des Neukantianismus, Suhrkamp 1993(ケーンケ『新カント学派の成立と興隆』)

初期の新カント学派の成立史を追った600頁を越す大著なのですが、後半の80頁あまりが文献表と資料集なので、これがまた痺れます。とりわけ、新カント学派の人々が世紀末にどのような講義をしていたかが年代順に整理されている一覧表なども付されていて、眺めているだけで飽きません。ご参考までに。私自身、もっていることをすっかり忘れていたのですが、お蔭様で良いものを思い出させていただきました。

No.771

文獻學……?
投稿者---森 洋介(2002/07/25 21:06:06)
http://y7.net/bookish


>[……]近代の解釈学の歴史をベックの文献学が説き起こし、それにかなりの分量を割くという、いまだと考えにくい記述を行っています。[……]

 文獻學から解釋學へといふのはフーコーの『言葉と物』でも述べてゐましたね。
 この文獻學――フィロロジーなるものは、前から氣になってゐるのですが、何せもう時代遲れの學問といふことで片づけられてしまって現代の概説書の記述からは容易にその仔細がつかめない。それこそ古い事典や書物に見える斷片的記述を綴り合はせてボンヤリと把握するばかり。
 英語學方面では今なほ敢へてlinguisticではなくphilologyを自稱する先達がゐる(ゐた)やうですが、してそのフィロロジーとは如何なる意味なりやとなるとやはりどうも判然としません。さういへばJ・R・R・トールキンもフィロロジストでしたっけ――大室幹雄「二人のポエタ・ドクトゥス――『指輪物語』と『死者の書』の世界」(『アレゴリーの墜落』新曜社、1985.5、所收)の論ずる所でした。

>登張信一郎『獨和大辭典』が「いまだに使えるもの」と書いたのは、私にとっての「いま」が奈辺にあるかを露呈した恰好になったようです。やはり基本的には古い文章を相手にするのが私にとっての「日常」なので、ついそうした言い方になりました。

 ご同樣、「古くさいぞ私は」(©坪内祐三)といふ有樣なのですが、西洋古典ではなく、なぜか中學生の頃から漢文が好きといふ爺むささ。今思へば、あの漢文特有のallusionのシステム、一字一句にも出典を有せしむる如く文章を草するといふ間テクスト性の極致みたいな所に、魅せられたのでせう。それと共に、言語文字への關心や考證癖や――總じて「文獻學」的關心とも言ふべきものが芽生へつつあったやうに思ひます。
 とはいへこれでも現代人ですから、一方で「現代思想」やサブ・カルチャー等にも關心を持って追ひかけました(その時點で既に「遲れてきた」ニュー・アカ世代なのかも……)。「新著を閑却するはホントウの讀書家に非ず」(©内田魯庵)といふわけです。それが單に併行して交はらないのではなく、レトロスペクティヴな古物漁りの裡にも“私にとっての「いま」”が反映してゐる筈なのですが、しかしその「いま」はやはり昨今の當世風とはズレてゐるらしくて、この邊の機微を他人に理解して貰ふには苦勞します。つまりそれは、文獻學の現代的意義を説くやうな仕事になるわけでせう。

 ついでに。柳林南田さんへ。
 prosperoさんが「奇しくもこのなかの最後の小項目が「国字問題」ですが……」とおっしゃるその項目(泉井久之助執筆)では、假名遣ひ改定やカナモジ運動等々の解決案を列擧したあとで、かう述べてゐます。

 さて右の運動の一つを決行するとした場合、政治的なGewaltの發動によつて一齊的な實行―― 一齊的な實行でなくては決して成功しない――をはかるより外に道はない。多少の無理はやむを得ないのである。


 そして敗戰後、正に無理無體なGewaltの發動によって、國語改革は斷行されたのでした。私の表記法にはこのゲバルトへのささやかな抵抗の意味もある――といへばお答になりませうか。
 國語國字問題の論議は、しばしば不毛な言ひ爭ひに陷ります。さうせぬ爲には人を選びます。また、ここはその場でもないわけでせう。
 一往ご參考までに、戰後國語改革への代表的反論として福田恆存『私の國語教室』を擧げておきます。これは先頃文春文庫で復刊されました。もし本當に國語國字問題に關心があるのでしたら、とうに一讀してをられることでせうが。


No.775

文献学とPhilologie
投稿者---prospero(管理者)(2002/07/27 13:13:41)


>森さん

まずは校正を。
「近代の解釈学の歴史をベックの文献学 → から説き起こし」でしたね。失礼いたしました。

確かにこの「文献学」という言葉、日本語で受ける印象と、英語でのPhilology、さらにはドイツ語でのPhilologieのあいだには微妙な違いがあるようですね。いずれにしても、Philology, Philologieのほうが、日本語の「文献学」よりも広い範囲を指しているようです。何しろ、ベックの場合のPhilologieの定義などは、「認識されたものについての認識」(Erkenntnis des Erkannten)ですから、もうこれは解釈学の定義の原形のようなものですし。

ドイツ語の場合、Sprachwissenschaft(言語学)とPhilologyのあいだには、かなり大きな区別があるにもかかわらず、英語の場合、その区別が、PhilologyとLinguisticの区別に必ずしも対応してはいないようですね。そういえば、英語学(English Philology)に関して、中島文雄『英語学とは何か』(講談社学術文庫)が、ベック、ウーゼナーといったドイツ系の「文献学」から英語圏の「フィロロギー」を概観していました。少しこの辺を、あらためて整理したい気になってきました。

仰るようにフーコー『言葉と物』でも、この「文献学」が大きな位置を占めていましたが、この場合の文献学は、ほぼ「比較言語学」と同義と言えるような気がします。比較言語学の意味で歴史を含んだ言語観と、十八世紀的な「記号論」との関係が問題とされていたわけですね。

>なぜか中學生の頃から漢文が好きといふ爺むささ

なるほど、まさしく「栴檀は双葉より芳し」、あるいは「三つ子の魂……」というわけですね。私も漢文にはそうした魅力を遠巻きに感じながらも、さして深く踏み込むことなく今日に至っているのが残念です。中学三年の夏にドイツ語の文法書を終えた覚えがありますので、やはりその辺の年代で、趣味趣向というのはある程度下地が作られるものなのでしょうか。

No.776

訂正(と追補)
投稿者---森 洋介(2002/07/27 15:29:00)
http://y7.net/bookish


 すみません、私も訂正をさせて下さい。
 英語で言語學はlinguisticでなくlinguisticsでした。お愧づかしい。

 と、これだけだと愛想無いので、ちょっと「文獻學」に關聯しさうな學を擧げてみます。

 河井弘志著
『ドイツ図書館学の遺産――古典の世界』第1章第2節「学識史の時代」。やはり忘れられた學問、しかもそれ自體、文獻を通じて學知を再認識するやうな、さうした學問の系譜を辿ってゐます。以前はウェブで全文公開してゐましたが、昨年刊本になったためか削除。今はInternet Archiveによって讀めます。

 
「古典学の再構築」といふ共同研究も進行中の模様。「本文批評と解釋」「傳承と受容」等のテーマを立てて和漢洋の古典諸學者が參加。ニュースレター『古典学の再構築』をPDFで公開してゐます。

 これらのやうな視線で、もう少し新しいところ、古典ではなく近代の(特に日本の)知を總浚へしてくれる仕事が出ると嬉しいんですけどね。謂はば、現在をも過去と見做し歴史の相の下に觀る態度で――これはディレッタントの態度だと三木清あたりが言ってゐたやうな憶えがありますが。
 それと、對象は「學(問的)知」に限らない方がいい――近年、フーコーの言説分析を學説史や科學史に矮小化するやうな應用が目立つので。
 『知の考古學』に曰く、「考古學が記述しようと努めるものは、その特殊的構造における科學ではなく、それとは極めて異なった、〈知〉の領域である」と。知とは、學問的でないものをも含む概念であった筈。忘れ去られた珍説奇説や擬似科學のやうないかがはしい非科學をもふんだんに取り込んだところが、フーコーの歴史記述の魅力だと思ふのです。糞眞面目に政治的イデオロギーの摘出しかしない俗流カルスタ式研究は呪はれてあれ。

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