口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ


過去ログ

音楽の捧げ物


No.956

ドビュッシーの歌曲
投稿者---花山薫(2003/03/07 21:33:10)


だいぶ前のMSGに「クラシックの声楽は苦手」と書いたと思いますが、最近ドビュッシーの歌曲をあつめたCDを聞いて、完全に嵌まってしまいました。ピアノの伴奏に歌がついているだけの単純なものですが、単純なだけに音楽の構造が透けてみえるような気がして、メロディ・メイカーとしてのドビュッシーがどれほど恐るべき才能の持主であるか、私のようなアマチュアにもはっきりわかってしまうのです。一曲終っては聞きなおし、終っては聞きなおし……こんなに音楽に熱中したのは久しぶりのことでした。

また、楽曲のすばらしさもさることながら、クラシックの歌手の技倆にも驚かされます。声とは鍛えればこれほどの境地にまで達するものなのか、と。それは人間の声でありながら、もはや人声であるというよりはりっぱに楽器のひとつ、それもきわめて感性度の高い楽器のひとつであるといっても過言ではないと思いました。

声がほかの楽器よりもすぐれているところは、メロディーの表現のみならず、歌詞をも表現できることですが、聞きこんでいくにつれ、だんだん歌詞のほうも気になってきます。ドビュッシーの歌曲のもとになっているのはボードレールやヴェルレーヌといった、日本でもよく知られた詩人の作品ばかりなので、いまさら……と思いながら詩を読んでみると、これがまた驚きなのですが、詩に曲がつくことで詩の世界が広がっている、というか、すぐれた翻訳家によって原詩にべつの趣が加わるのと同様に、どの詩もそれぞれ個性を失わないままに、ドビュッシーの色に強烈に染めだされて、全体があたかもドビュッシーによって翻訳されたアンソロジーのような様相を呈しているのです。私はいままでわりあい外国の詩の音楽的な側面はなおざりにしてきた、というかよくわからないので放りだしていたのですが、今回ドビュッシーの歌曲集を聞いて、そういう面にまで神経が向くようになったのもよかったと思っています。

今回聞いたのはEMIの輸入盤で、"DEBUSSY -- MELODIES" と題された三枚組のCDです。EMIの赤い背中のCDは安くていい演奏が入っていそうな気がするのですが、どんなものでしょう。


No, 958
歌曲いろいろ

投稿者---prospero(管理者)(2003/03/12 00:48:55)


花山さん
お久しぶりです。

フランス歌曲はしばらくご無沙汰していて、仰られているアルバムも(おそらく)知らないものだと思いますが。一曲一曲の歌手はそれぞれ別なのでしょうか。

しかし、「一曲終っては聞きなおし、終っては聞きなおし」という感覚は分るような気がします。歌曲というのは、そのような仕方で熱中させるところがありますね。一曲一曲を味わい尽くしてみたいという思いに駆られるようなところがあるかもしれません。以前私も、古いところでは、アメリンクのシューベルト、少し近いところでは、シュターデのフォーレ、オッターのシベリウス、ナンシー・アージェンタのパーセルなどを、そんな思い入れで聴きました。イギリスものになりますが、グレアム・ジョンソンというテノール歌手の歌ったSongs to Shakespeare (hyperion 1991)というアルバムは私にとっては、イギリス歌曲開眼のような思いをさせてくれた傑作CDでした。それこそ、詩の世界が新たに拡がるというような経験をしたものです(ピアノ伴奏がまた絶妙でした)。

お聴きになったドビュッシーの歌曲集について、もう少し詳しいデータが分りますでしょうか。

「メロディ」
投稿者---花山薫(2003/03/12 22:14:59)


繰り返し聞く、というのは、やっぱり一曲あたり短いからでしょうね。もっとやってほしい、と思っても、残念ながら2、3分で終ってしまいますから。もともと私はなにごとによらず漸悟のほうで、音楽に関してはとくにそうですから、どうしても繰り返し聞くということになるのです。

ドビュッシーの「メロディ」はかなり前の録音で、1970年代のものの再発のようです。歌手はソプラノがエリー・アメリング、マディ・メプレ、ミシェル・コマン、フレデリカ・フォン・シュターデ、バリトンがジェラール・スーゼーとなっています。ピアノの伴奏はダルトン・ボールドウィンというひと(読み方、まちがっているかもしれません)。

このうちではとくにアメリングが気に入りました。フレージングといい表情のつけかたといい絶妙です。おっしゃっておいでのシューベルトもこの歌手ですかね。

反対に、バリトンにはまだなじめません。どうも男の声はダメですね。

曲は60曲も入っていて、だいたい制作年代順に並んでいるようです。14歳かそこらで書いた「星の夜」から、晩年の「家なき子らのクリスマス」まで。

ドビュッシーのサイトもいくつか見てみましたが、歌曲に力をいれているところは少いみたいです。しかし、個人でよくもここまで、と驚くようなHPもあります。まあ、そういうのも参考にしながら、なんとかワグナーまでたどりつきたい。

大田黒元雄の「ドビュッシイ」という本をちょっと期待して読んでみたのですが、片々たる小伝ですこぶる慊りません。でも、写真がたくさん入っていて、字づらや本のつくりも第一書房らしいものなので、売らずに手元に置いておこうと思っています。

林達夫の「みやびなる宴」のことも思い出して読みなおしてみましたが、いま読むとあまり大したことを書いているわけでもないのですね。それにしても、1920年代にすでにこういうものが日本でも聞かれていたとはちょっと驚きです。レコードが出ていたのか、それとも楽譜を取り寄せてだれかが演奏していたのか。……


No.960

現物を知らない効用
投稿者---prospero(管理者)(2003/03/13 21:03:44)


データをありがとうございます。これですね。ただこのHMVのデータだと枚数が一枚ものになっていますが、価格からするとそんなはずはないので、これは誤記でしょう。

ところで、大田黒元雄は、林達夫よりも年代が上でしょうが、両者には学生時代に交流があったようですね。林達夫の『三つのドン・ファン』という講演(録音が市販されています)の中で、学生時代に、ニキシュ指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン『運命』のSPが日本で数組しか入っていなかった、そのうちの1組を大田黒がもっていて、一高でレコード・コンサートをやってもらったなどということを言っていたと記憶します。この頃の西洋音楽受容などの状況はおよそそんなところだったのでしょう。その『運命』もおそらくは、SPで一曲が10枚ほどに分割されているようなもので、それをハンドルを回しながらせっせと聴いていたわけでしょう。われわれがいかに恵まれているかが分ります。

絵画にしても同じことで、絵画論などを書く場合でも、この世代の人々は絵画の現物を目にすることも滅多になく、多くは(白黒の)複製で見ていたのではないかと思います。むしろ現物に接していないからこそ、その隙間を情熱や空想で埋めて、創造的な仕事に転回することもできたのかもしれませんね。現代のように何でも「本物」に接することができると、かえって簡単に分ったような気になってしまうのかもしれません。

No.961

ドビュッシーの受容
投稿者---花山薫(2003/03/14 21:55:57)


大正から昭和の初期にかけての海外文化の受容ということでは、たしかに文字によるもの以外はかなり情報が制限されていたでしょうけど、林達夫が「みやびなる宴」を書いたときには、やはりドビュッシーの音楽になんらかのかたちで接していたのでしょうね。文献による知識だけで書ける文章ではありませんから。それと、ブリュンチエールの誤訳を指摘した文章があります。そこにヴィヨンの詩が引用されていて、「このバラードは……ことにドビュッシーの節附けによってそれはかなり一般の人たちにも知られている」とあるところからみても、それが知識人特有のはったりでないとすれば、「かなり」かどうかはべつとして、少くとも一部のひとびとには聞かれていたような気がするのです。

で、なにかないかと思ってふと思い出したのが辰野隆の「信天翁の眼玉」です。これの1918年8月の分にちょっと長めのドビュッシー論(論ともいえないものですが)があって、そこに「ドビュッシイについては、既に今迄度々邦人が彼の曲目を演奏するのを聴いて見た。が、皆つまらなかつた。……然るに僕は先頃ビヤストロ及びミロウィッチ氏に依つて始めてドビュッシイの卓れた解釈を与へられたのである。曲目は『沈める寺院』であつた。……然し乍らドビュッシイが面白くないと云ふ点に就ては到底自説を翻へす気になれなかつた」とあります。要するにドビュッシーの重要さは認める、しかしその音楽はつまらない、というのです。

まあそれはともかくとして、1918年(大正7年。ドビュッシーはこの年に死んだ)という時期に、すでに「度々邦人が彼の曲目を演奏」しているというのは──たぶんピアノ曲や歌曲でしょうが──私には驚くべきことに思われます。

ちなみに、辰野はそのドビュッシー論の付記に「渡仏後、ドビュッシーに対する自分の考えは大きく変った。もう一度論じてみたい」というようなことを書いています。たぶん本場の演奏を聞くことで、そのよさがわかったのでしょう。しかし、その後ドビュッシー論がふたたび書かれたのかどうかは定かではありません。

いずれにせよ、レコード以前の時代の話であることには違いありません。


No.1190

Re:ドビュッシーの受容
投稿者---あがるま(2004/12/26 23:13:20)


SP時代には歌曲が主なレパートリーだつた訳でドビュッシ
ーもバトリやクロワザの録音などで日本人が良く知ってゐたのでせう。
野村湖堂や西条卓夫の本を見ても戦前の定番名曲になつ
てゐたのが分かります。(録音は作曲者の死後でせうが)
私はLP時代ですが残念乍らアメリンクを含めて最近の
ものは聞いてゐません。語り物のやうなドビュッシーの
歌曲は外国人の手に負へないのではないでせうか。
私の頭の中にはジャヌ・バトリの『ビリチスの3つの歌』
がまだこびりついてゐます。
甚だ不正確な情報ですが遅蒔きながら。



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No.1203

歌手の新旧
投稿者---花山薫(2005/04/27 22:15:43)


「時代を感じさせる本場もの」というのははドビュッシーの歌曲の鑑賞には欠かせないものでしょうが、いかんせんCDがなかなか手に入らないので困っています。しかし、それもまあ仕方ないかと諦めております。どうせ一部の好事家が相手では限定盤にするしかありませんものね。

それと、私があまり真剣に古い録音をあさる気になれないのは、1950年あたりを境に歌唱法が変化したような気がするからで、「以後」の歌唱に親しんだものには「以前」のそれがどうにも古臭く感じられてしまうのです。私はアメリンクさんの歌でクラシックに開眼したようなものですから、やはり70年代前後が私的なスタンダードになっていて、それを「モダン」と表現するとすれば、「ポスト・モダン」も「プレ・モダン」もそれなりのよさにとどまっています。

この、同時代の一つ前のものが自分にとってのスタンダードになるのがふしぎでなりません。音楽だけでなくて、なにごとにおいてもそうですからね。おかげで、いつも時代のあとから歩いていっているような印象があります。いわば万年遅刻者で、いつまでたっても先覚者にはなれそうもありません。



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No.1206

あれこれと
投稿者---prospero (管理人)(2005/04/29 10:32:55)


花山さん、お久しぶりです(というか、私自身が、この掲示板にご無沙汰だったりした訳ですが)。

「同時代の一つ前のものが自分にとってのスタンダードになるの」というのは、なるほどと思いました。ちょうど自分の生まれた頃か、子供の頃のものが自分にとってしっくりくるというのは、私自身にもあるような気がします。別のスレッドでも出ている60-70年代というのは、思想的にも肌に合うようなところがあります。

音楽も、このところCDがいよいよ廉価になってきて、とりわけ60-70年代のものをまとめ買いしてしまうことがあります。この時代のグラモフォンのものなどが、オリジナル・ジャケットの写真を入れて廉価版で復刻されたりもしているので、懐かしく、ネット上の気軽さもあって、ついつい注文してしまいます。

もちろん、新しい演奏家もそれなりに凄いと思う人はいます。最近ではバッハの無伴奏チェロをAlexander Kniazevというチェリストで聴きましたが、これはなかなか新鮮でした。ヴァイオリンでは、ヒラリー・ハーンなどはやはり感心します。しかし、この人たちのものをこれからも繰り返し聞き続けるか、つまり自分の中のスタンダードにするかというと、いくらか疑問です。

花山さんのアメリンクに当たるものは、私だとヴァイオリンのグリュミオーというあたりになりそうです。これはいまだに引っ張り出して聴いていますものね。同じくフランコ・ベルギー派を継ぐとされているデュメイはというと、たいていは一回聴いて感心して終わりという有様です。

思いつきついでにもう一つ。ヴァイオリニストでは、以前はさほど好きでなかったアンネ・ゾフィー・ムターにいま関心があります。いまのヒラリー・ハーンのような天才少女ふうの売り出しからはずいぶんと変わって、時代的には逆行しているような濃厚な味わいになってきました。カルメン幻想曲や、ブラームスのコンチェルトにカップリングで入っているシューマンの幻想曲にはまりました。

雑然と思いつくままに。


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No.1208

Re:あれこれと
投稿者---花山薫(2005/05/02 22:45:41)


同時代の一つ前ということを大きくとれば、二十世紀に対して十九世紀を基準にするということでもあります。そうすると、二十世紀は未来完了、十八世紀以前は過去完了といったところでしょうか。

グリュミオーというのは聴いたことがありません。アンネ・ゾフィー・ムターも、新聞などで名前は見ていますけど、どんな人だかまるで知らないので、これから注意しておくことにします。ムターといえば、名前のよく似たアンネ・ソフィー・フォン・オッターの「グリーグ歌曲集」をずいぶん前に注文したのですが、まだ入荷しないところを見ると、もしかしたら品切かもしれません。フォン・オッターは気になる存在ですが、メッゾ・ソプラノというのがちょっと気にかかるところです。というのも、私はいままでメッゾはほとんど外していますからね。例外はフォン・シュターデですけど、この人の声はどちらかというとソプラノに近いのではないでしょうか。



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No.1209

オッターなど
投稿者---prospero (管理人)(2005/05/03 19:31:10)


>二十世紀は未来完了、十八世紀以前は過去完了といったところでしょか。

それでいく21世紀などは、完全にSFの世界ですね。

私の中の印象では、アメリンクとグリュミオーというのは漠然と繋がっているのですよね。ジャンルは違いますが、音色が艶やかで、nobleでありながら華やいで色気があるという点でも共通した印象があります(技術的なことがまるでわからない素人的な言いようで申し訳ありませんが)。何となく花山さんもお好みのような気もするのですけど。

オッターを最初に注目したのは、ガーディナー盤のモンテヴェルディ『オルフェオ』でMessengerをやっていたのを聴いたときでした。エウリディーチェの死を伝える歌唱を見事に表現したいたのでその名を覚えていたのですが、その後『シベリウス歌曲集』に驚嘆し、コルンゴルトなども聴いてみました。マーラー・ヴォルフ歌曲集も聴きましたが、これは意外と癖が強く、あまり感心しませんでした。表現力が大きいので、マーラー、ヴォルフあたりだと、くどくなりすぎるのかもしれません。グリークは聴いていませんので、もし手に入りましたら、ご感想などを。

シュターデもお気に召すのではないかとも思います。とりわけフォーレはいいですよ。



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No.1211

ドビュッシー「メロディ」の補足
投稿者---花山薫(2005/05/05 20:12:44)


フォン・シュターデのフォーレは私も聴きました。彼女はとくに美声というわけでもないけれど、フォーレの曲想にはうまくマッチしていますね。選曲も前期の親しみやすいものばかりでいいと思います。フォーレの後期歌曲は私にはどうもとっつきにくく、4枚組の全集も買いましたけど、聴くのはもっぱら1枚目と2枚目です。

私がこの歌手を最初に聴いたのは、このスレッドの最初に書いたドビュッシーの歌曲全集においてです。このCDでは「忘れられた小唄」という、わりと地味な曲集を割り当てられていて、しかも全部で60曲くらい入っているうちのわずか6曲しか歌っていないので、当初の印象は薄かったものですが、聴いているうちにだんだんと味わいが増してきて、いまではこの曲集には彼女以外の歌手が思い浮かばないくらいになっています。「忘れられた小唄」はドビュッシーの歌曲のうちでもデカダンな色彩が濃厚で、そんなうらぶれた(?)曲想に彼女のちょっと暗めの声がじつにみごとにはまっているのですね。ことに3曲目などは、印象的な(これぞドビュッシーといわんばかりの)ピアノ伴奏とあいまって、出色の出来だと思います。

ドビュッシーの全集に参加している歌手は、ミシェル・コマン、マディ・メスプレ、アメリンク、フォン・シュターデ、ジェラール・スゼーの5人ですが、このうちコマン、シュターデ、スゼーには「ペレアスとメリザンド」の録音があり、アメリンクにもオランダのラジオ局からメリザンド役のオファーがあったといいますから、やはりしかるべき人選だったと思わざるをえません。

おのおのの受け持ちについては、ピアニストのボールドウィンが、それぞれの声質にあわせて分担を決めたとのことです。コマンには「ボードレールの五つの詩」と「ビリティスの三つの歌」、アメリンクには「みやびなる宴(第一集)」と「叙情的散文」と「マラルメの三つの詩」、シュターデには「忘れられた小唄」、スゼーには「みやびなる宴(第二集)」と「フランソワ・ヴィヨンの三つのバラード」、メスプレには初期の小曲をと、各自の持ち味をうまく引き出せるような選曲がなされていて、この点においてもボールドウィン氏の貢献には多大なものがあります。

ボールドウィン氏は、伴奏ピアニストとしてかなりの量の録音を残していて、そのどれをとってみても曲の精髄をうまく引き出しているのには感服します。典型的な職人気質の人だと思いますが、いろいろなスタイルをみごとに弾きわけるその手腕には天才的なものを感じてしまいます。

というわけで、このCDは私にとっての出発点みたいなものですから、ここでなじみになった6人についてはその後も折にふれてCDを買い求めています。最近買ったものでは、マディ・メスプレがフランス歌曲ばかり歌った3枚組のCDがあります。このCDでは、レイナルド・アーンやアルベール・ルーセルといった、あまりほかでは聴かれない作曲家のものをまとめて聴くことができるのが嬉しいところです。アーンについてはスーザン・グラハムという歌手もCD一枚分録音していて、非常に芸術性の高いりっぱな演奏だとは思いますが、アーンの歌曲がもっている庶民性みたいなものはメスプレ盤のほうにつよく感じられるような気がします。

ちょっと長くなりましたが、ドビュッシーその後ということでお許しください。

グリュミオーは室内楽(ラヴェル、ドビュッシー)を2枚発注しておきました。バッハの無伴奏でもよかったのですが、もうこれは何枚もほかのを買っていて、さすがにこれ以上の出費はためらわれます。私にとってもグリュミオーの演奏がヴァイオリンに関してなんらかの啓示をもたらしてくれることを期待しております。


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No.1212

Re:「メロディ」の補足
投稿者---あがるま(2005/05/05 23:17:33)


繊細なフォレの歌曲は、フランス語をよく知つてゐれば別でせうが、俗耳には縁遠いやうです。室内楽は和音が魅力的で分かり易いのですが。
フランス歌曲ならデュパルクが誰にも好まれさうです。LPで親しんだスゼーとボルドウインのコンビのフイリップス盤はCDが出てゐますか。最近は12曲だけではなくもつと沢山の曲が発見されてゐるやうですね。(パンゼラは聞いたことがありません。)

マスネーとかグノーの歌劇が好きになれば通なのでせうが、ワーグナーも駄目だし、イタリア・オペラもモーツァルトやチマロザのブッファが私には適当です。ワーグナーの一番好んだのはペルゴレジのスタバト・マーテルだと聞いたことがありますが、これも不思議ですね。
R.シュトラウスはウイーンで薔薇の騎士を始めて見て老若男女に人気があるのが分かるやうに思ひました。台本の言葉も気になります。C.クラウス指揮のCDが欲しいと思つたのですが、ミュンヒェンでの録音しか無いやうなのは残念です。彼がヨゼフ2世と小間使との間の子供だと云ふウィーン子の噂についてはW.ハースの文学的回想録で読んだ覚えがあります。

私の同世代でもアメリンクのファンは多いでせうが、オランダ人と云ふだけで敬遠してゐました。
A.−S.ムッターがもう死んだと思つてゐたA.プレヴィンと結婚して居ると聞いて驚きました。彼女は現代音楽の方が向いてゐるのでは?でも決して非難してゐる訣ではありません。
最後に、グリュミオのグアルネリの低音は本当に魅力的ですね。




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No.1217

メロディ、オペラ
投稿者---花山薫(2005/05/19 22:27:33)


フォーレに関しては私はまったく逆で、歌曲は詩の意味などわからなくても楽しんで聴けるのに対し、室内楽はどうにも退屈で、BGMとしてたまに聴く程度にとどまっていました。今回指摘されたのを機に、あらためて注意深く耳を傾けてみましたが、あいかわらずどうも冴えない印象のみ残ります。フォーレ自身の言によれば、「音楽は現実を超えた高みに人を連れ出すものでなくてはならない」とのことですが、こと彼の室内楽に関するかぎり、私はいっこうにどこにも連れ出されないままです。CD4枚分を聴いて、どうにか気に入ったのが、「ヴァイオリンとピアノの初見のための譜」という2分にも満たない小曲だけだったというのは……

しかしまあ、自分の感性くらいあてにならないものもないので、あまり断定的なことはいえないのですが。

スゼーとボールドウィンのデュパルクは、EMI盤を聴いています。フィリップスのは見かけないので、たぶん廃盤でしょう。スゼーは歌い方にちょっと癖があって、好き嫌いがはっきり分れそうですね。ただ私は、好き嫌いでいえばたぶん「嫌い」のほうですが、だからといって無下に否定し去ることもできないといった、微妙なスタンスにいます。声としては好きではないのだけれど、なぜか長く印象に残る存在感があるとでもいえばいいでしょうか。……一方、ボールドウィンのピアノはここでも冴え渡っていて、私なんかはピアノを主に、歌を伴奏に聴いております。変則的ではありますが、そのほうがマスネやグノーといったロマン派(?)に遡行するにも便利なのではないか、と考えている次第です。

しかしオペラは……じっさいの舞台に接したことはありませんが、テレビなどで見るかぎり、私には無縁のものだと思わざるをえません。あんな不自然なものをじっと客席で見ているなんて、考えただけでもいたたまれない気持になります。もう、音だけにしておいてほしいですね。つまりCDによる「架空のオペラ」で自分には十分だ、ということです。これも変則的ですが、いまのところそれ以外に活路を見出せません。



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No.1218

Re:メロディ、オペラ
投稿者---あがるま(2005/05/20 20:52:14)


実は歌曲(歌手)と云ふのが苦手なのです。我々の頃フォレのメロディのまとまつたものは(SPのパンゼラを除けば)C.モラヌの一枚が殆ど唯一で、評判は良かつたやうですが微温的で好きになれませんでした。
その後J.ユボを中心として室内楽のレコードが出され始めたと云ふ訣です。つまり流行の波があるので私はそれの室内楽に乗せられたと云ふことでせう。

シューマンも歌曲より室内楽の方が好ましく思ひます。
楽器の音の方が人間の声より魅力があるのです。
私も歌手よりピアノを聞いてゐるのでせう。
しかしピアノも好きではありません。矢張りヴァイオリンが一番です。(子供の意見のやうですが)

シューマンとフォレの音楽學的比較は出来ませんが、私の中では同じやうな位置にあります。一番大きいのはリズムの取り方でせう、これがうまくないと纏まりのない詰まらないものになりさうです。

オペラもそれですから縁遠かつたのですが、私の知つたのはアンサンブルとしての面白さですから聴衆がゐないことは考へられません。

楽譜も読めない素人の感想です。


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No.963

大田黒元雄
投稿者---森 洋介(2003/03/14 23:02:26)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>ところで、大田黒元雄は、林達夫よりも年代が上でしょうが、両者には学生時代に交流があったようですね。

 音樂鑑賞の機がなくその方面は無教養なのですが、大田黒元雄はちょっと興味ある人物だと思ひます。
 都下杉竝區には大田黒公園といふのがありまして、舊大田黒邸が寄附されたもの。それでもわかるやうに裕福な生れでして、元雄は金持ちの御曹司、本物のブルジョアだったんです。それゆゑ歌曲を始め西洋文化をふんだんに攝取して、筋金入りのディレッタントだったやうで。慥か第一書房も大田黒の父親から出資して貰ってゐたはず。
 百册を越す大田黒元雄の著書中、その殆どを占めるのは洋樂關係のもの。だから大田黒の肩書も音樂評論家といふことになってしまふのでせうが、しかしむしろ音樂以外の隨筆雜文にディレッタントらしい關心の廣さがうかがはれて、氣を惹かれます。これは私が音樂に沒交渉な所爲ばかりではないと思ふのですが、如何でせう。例へばカスパール・ハウザーを紹介した『奇妙な存在』なんて本も第一書房から出してゐます。……といってもまだ古書で探してゐるだけですが。音樂以外の本は、案外出回らないんですよね。
 いま檢索したら、去年「大田黒元雄とその仲間たち」なんて展覽會もあったんですね。


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No.964

大田黒元雄 &辰野隆
投稿者---prospero(管理者)(2003/03/16 14:31:07)


>慥か第一書房も大田黒の父親から出資して貰ってゐたはず

そうでしたね。大田黒は、第一書房の長谷川巳之吉と懇意でしたね。彼の父親の重五郎は、九州電気軌道株式会社と芝浦製作所の社長を歴任した有数の実業家だったそうで、元雄はその資産でディレッタントとしての活動を行っていたようです。林達夫・福田清人・布川角左衛門篇『第一書房・長谷川巳之吉』(日本エディタースクール)によれば、その鷹揚な出資者ぶりは、まさに「ある時払いの催促なし」。第一書房の『近代劇全集』は営業的に大失敗だったそうですが、その頃には、「利益が出たときには折半、失敗した時は出資者の損失で良い」という条件だったそうです。まことに大らか。文化への出資者というのは、こうでなければいけないという鑑のようなものです。規模こそ違え、ボーリンゲン財団なども、こんな感じだったのでしょうね。

大田黒公園、『奇妙な存在』というのは、知りませんでした。こう考えてみると、この人物、かなり面白い存在かもしれませんね。

辰野隆も、しばらく前に出口裕弘『辰野隆・日仏の円形劇場』(新潮社)で、大正期のその留学ぶりが紹介されていました。彼の場合は、現物に触れる機会がずいぶんとあったわけです。「オペラは二十種類も見ているうちに飽き飽きしてしまった。どうも何を見ても通俗芸術の範囲を出ない」などと嘯いているところから、西洋文化に対するコンプレックスなどもないようです。彼の場合も、父親が辰野金吾、東京駅を設計したエリート建築家でしたね。やはり資産は食いつぶしてこそ活きるようですね。



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No.965

アメリング
投稿者---花山薫(2003/03/18 00:22:46)


すみません、ちょっと話を戻してしまうようなのですが、アメリングという歌手があまりにもすばらしく、もっとほかに聞きたくなってしまいました。シューベルトのものは An die Musik という題名のものでしょうか。


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No.966

アメリンクのシューベルト
投稿者---prospero(管理者)(2003/03/18 18:37:39)


確かにアメリンクの美声と表情の絶妙さは見事ですね。私も一時期ずいぶんと熱中して聞きました。シューベルトのゲーテ歌曲集、とりわけ「昔トゥーレに王ありき」や「糸を紡ぐグレートヒェン」なども忘れがたいものがあります。An die Musikというのもシューベルト歌曲集のはずなので、はずれはないと思います。ただ最近は組み物がいろいろと廉価になっていて、シューベルト歌曲集のようなものもお徳かもしれません。ちなみに私もいま妙にシューベルトが聴きたくて、交響曲の全集(グッドマン指揮、ハノーヴァー・バント)などを入手したばかりです。

ちなみに、出口氏の著作ですが「日仏の円形劇場」は「日仏の円形広場」の誤記でした。失礼しました。



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No.967

アメリンク、フィンジ
投稿者---花山薫(2003/03/22 00:13:13)


アメリンクの情報をありがとうございます。こちらでもちょっと調べてみましたが、どうもかなり有名なソプラノみたいですね。知らずに聴いていたのが恥ずかしいような感じです。

「メロディ」がフランス語で「歌曲」の意味だということもはじめて知りました。ドイツ語なら「リーダー」ですね。英語だと「ソングス」。

ところで、この掲示板で名前を知ったフィンジのものも聴いてみました。ナクソスから出ている「チェロ・コンチェルト」で、ほかに「エクローグ」と「グランド・ファンタジア・アンド・トッカータ」が入っています。ちょっと感想など書いておこうかと思って、その前に掲示板の記事をもういっぺん読んでみようと「過去ログ」を探してみましたけど、うまく見つけだすことができませんでした。どこに入っているのでしょうね。



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No.968

Re:アメリンク、フィンジ
投稿者---prospero(管理者)(2003/03/23 22:37:29)


アメリンクの美声は本当に聞き惚れてしまいますね。随分と昔ですが、一度だけ上野の東京文化会館で生の演奏に触れたことがあります。その時はサティーなども歌って、その瀟灑な歌い振りがたいへんに印象的でした。

ナクソスのフィンジをお聴きになられたのですね。ティム・ヒューは好きなチェロ奏者なのですが、あのチェロ協奏曲の演奏は期待したほどではありませんでした。それよりも、あのディスクは何といっても『エクローグ(牧歌)』ですね。儚げでメロディアスなあの雰囲気は、彼の歌曲にも通じる情緒です。

過去ログの保管も無精をしております。また近いうちに、保存してあるデータをアップしたいと思いますので、しばらくお待ち下さい。

***

ここ数日、再び『ラインの黄金』などを聴いていました。力づくでニーベルハイム(地下の国)の王者アルベリヒを押さえ込み、世界の富の源である「指環」を奪おうとする主神ヴォータンの所作が、あまりにも「いま」を思わせます。


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No.969

Re:アメリンク、フィンジ
投稿者---過去ログ(2003/03/24 23:09:36)


>どこに入っているのでしょうね。

過去ログに入るにはまだ早いのでは。現在も見られます。

フィンジその他
http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?humanitas+880#881



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No.970

フィンジ
投稿者---花山薫(2003/03/25 21:43:28)


あ、ほんとですね。うっかり見落していたようです。

でも、どうも私の記憶にあるものとは印象がちがうようで、題名にフィンジと書かれていなくても、本文のほうで触れられていたべつの記事があったのかもしれません。

フィンジのことが気になったのは、たぶんそのイギリス人らしからぬ名前の響きに惹かれたんでしょう。名前だけで妙に気になる存在というのがあるものです。フィンジもそのひとり。

で、たまたま見かけたのを買ってきて聴いたわけです。

このナクソスのCD、音質がずいぶん軽くて、2001年録音というのが信じられないほどです。この薄っぺらな音でだいぶ損をしていますね。

それはともかく、このCDに聴くフィンジの印象をひとことでいえば、アナクロニズムの作曲家、といったところでしょうか。

アナクロニズムということばに賞讃も貶下もないのですが、20世紀前半という時代にこのような音楽をつくることの意義が私にはよくわからないのです。それはとくにチェロ・コンチェルトにつよく感じるところです。

でも、たしかに「エクローグ」などはその美しいメロディに思わず引きこまれる感じですね。ジャンルは違いますけど、フランシス・レイの「ビリティス」などを思い出してしまいました。

とくに映像喚起的というわけではありませんが、心象喚起的とでもいうのでしょうか、映画音楽などに向きそうだな、と思いました。フランシス・レイを想起したのもそういうことかもしれません。

こういう雰囲気の延長線上に彼の歌曲があるのなら、一度聴いてみたい気がします。いまちょうど歌曲に目ざめつつあるときですし。



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No.999

アメリンク、ペレアス
投稿者---花山薫(2003/05/27 19:05:49)


前に紹介していただいたアメリンクのシューベルトは、廃盤とのことで入手できませんでした。HMVは廃盤のものも削除せずにそのままリストに載せているようですね。なにしろ数が厖大ですから、いちいちチェックしている暇がないのかもしれませんが。……

シューベルトを待っているあいだに、彼女のCDを何枚か購入して聴いてみましたが、いまのところはずれはありません。ことによかったのはラヴェルの「シェエラザード」で、これにはドビュッシーの「選ばれし乙女」もカップリングで収録されているのが私にはうれしかったです。(余談ですが、この「うれしかったです」という言い方、子供の作文みたいで変ですね。しかし、ほかにうまい表現がみつかりません。「うれしゅうございました」ではちょっと丁寧すぎますし)

さて、ドビュッシーといえば、歌曲でその魅力の虜になってから、管弦楽、室内楽、ピアノ曲、舞台音楽と、ほとんどすべての作品を聴きあさり、かたがた関連の文献も集めたりで、かなりのお金と時間がかかってしまいました。やはりいちばんの問題作は「ペレアスとメリザンド」でしょうか。オペラを聴くのははじめてですが、それがこの作品でよかったのかどうか……

ひそかに思うのに、ドビュッシーがこのメーテルリンクの戯曲にとびついたのは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のことが念頭にあったためではないでしょうか。題名が似ているだけではなくて、「ペレアス〜」はもうひとつのトリスタンものといってもいいような内容だからです。で、これを使ってワーグナーに対抗するようなものを書いてみようと思い立ったのではなかったか、と。

それはともかくとして、さすがにこれを全曲通して聴くのはきつく、どうしても映像がほしくなります。音楽だけ聴いていると、ペレアスはひたすら痴呆的で、ゴローはどこまでも悪魔的で、メリザンドは意志のない人形、アルケルは耄碌した老人のように思われますが、じっさいに舞台で見ると、また違った印象をうけるのでしょうね。調べてみると、つい最近、日本人による上演が行われたばかりのようで、これは惜しいことをしたと思わずにはいられません。



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No.1003

オーディオ機器
投稿者---prospero(管理者)(2003/07/27 00:09:03)


このところ、長年愛用していたメリディアンのCDプレーヤーがとうとう使えなくなってしまい、新しい機器を導入したりして、音楽というよりもまずは「音」の調整ばかりをしていたので、音楽のことに応答できずに失礼しました。

Meridian 207の代わりに入手したのがAirbowというブランドのプレーヤーなのですが、これにはかなり衝撃を受けました。Meridianも間接音の表現の美しい良いCDプレーヤーだと思っていましたが、このAirbowを聴いたら、CDという音源にはこれほどの情報量が詰まっていたのかと吃驚させられます。ホールの雰囲気から、楽器や歌手たちの距離感までが表現され、いままで塊として聞えていた弦楽器群などが、一つ一つの楽器の集合として精細に再現され、これまでのCDのイメージが一新されるような思いです。

しかし、オーディオ機器の買い替えというのは曲者で、一つを弄るとどうしてもほかの組み合わせも考え直したくなってしまいます。この際、アンプ、とりわけスピーカーも入れ替えてみようかなどという良からぬ思いがむくむくと湧き起こってきます。B&WがSignature800という破格の高級スピーカーのノウハウを、ブックシェルフ型に投入したSiganture 805などというものを出したので、そんなものをオーディオ店で試聴させてもらったりしているところです。

機器が新しくなると、いままで聴いていた(あるいは長いあいだ聞いていなかった)ソースを引っ張り出してきて、いろいろ試しては時間を費やしてしまいます。そんななか、しばらく行方がわからなかったカラヤン盤『ペレアスとメリザンド』が出てきたので(メリザンドがフリーデリカ・フォン・シュターデ)、また旧交を温めたいと思います。『ペレアス』は、シベリウスやシェーンベルクも作曲していますね。

ちなみに私の場合、音楽は音だけのほうが集中できるので、映像をあまり好みません。随分と昔LDなども導入して、イギリスのグラインドボーンのオペラのLDなども手に入れたのですが(ブリテン『夏の世の夢』、ナッセン『怪獣たちのいるところ』などが入っていました)、二、三度見ただけに終わってしまいました。ヴァーグナーなども、下手に映像があると、物が物だけに、かえって滑稽になってしまって興が殺がれるようなところもありますし。どうも私自身、演劇的な感覚があまりぴんと来ないのかもしれません。

取り止めありませんが、近況と感想でした。



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No.1004

喫茶から「脱線」へ
投稿者---こば(2003/07/27 23:29:00)
http://www.01.246.ne.jp/~magnific/abitur.htm


私はその手のオーディオ機器には疎いもので、細かい名称の区別などさっぱり分かりません。専ら地元図書館で目当てのCDを借りて、MDに落としたものを録り貯めてます。そうするとCDの音源はあまり損なわずに、しかも原価の十分の一くらいの値段で音楽が手に入るので。
それでも、家のヘボMDプレイヤーで飽きたときには名曲喫茶に行って気分転換をします(上記リンク参照)。特に渋谷『名曲喫茶ライオン』と中野『カフェクラシック』はお気に入りでして、再生機器環境が如何に大事かをそういうところで身をもって学ぶことがあります。と言ってもそれも最近はしなくなってしまいましたが。

そう言えば、プロスペローさんは演劇は好まず音楽を好むとのことですが、最近、林達夫×久野収の『思想のドラマトゥルギー』を読みまして不思議に思ったのは、あれだけ演劇を含めた広範囲のことに関心がありながらクラシックの話題が殆ど皆無だったことです。何かそういう趣味の偏向というのがあるのでしょうかね。

『思想のドラマトルゥギー』は元々林達夫著作集の解説執筆をする人が病気か何かで書けなくなって、それで解説の代わりとして急遽、初めはやる気がなかった林が久野との対談を引き受けたという経緯があったと思います。プラトン『国家』中心巻でのイデアを巡る三つの類比(線分、太陽、洞窟の比喩)も、ソクラテスは元々話す気ではなかったのが対話相手の要請に仕方なく応じる形で語られたという経緯があります。どちらも本人が当初望まなかった話を進行状況によってやむを得ず進めるという意味では「脱線」だと思うのです。
いや、こんなことを書くのも、大分前のスレッドで恐縮ですが、どなたかライプニッツに絡めて脱線という鍵語を話題にされたかと思うのですが、あのときの「脱線」では本人が或る話題を元々あった文脈から自ら進んで逸脱させるということが強調されていたので、本人が元々望んでいなかった「脱線」も付け足してみてはどうだろう、と今更ながら思いつきました。ほんとに思いつくままに書いてしまいました。失礼。


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No.1005

聞き上手
投稿者---森 洋介(2003/08/03 11:57:11)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>いや、こんなことを書くのも、大分前のスレッドで恐縮ですが、どなたかライプニッツに絡めて脱線という鍵語を話題にされたかと思うのですが、

 No.978以下のことなら、言ひ出しっぺは私です。

>本人が元々望んでいなかった「脱線」も付け足してみてはどうだろう、と

 先に「脱線」で「もっとうまくつつけばまだまだ面白い話が湧き出て來た人なのかも」「知識が死藏されぬよう外に出る機を與へるのは後進たる讀み手の仕事」と書いたのは、さういふ話者の意圖を外れた餘談や所謂「語るに落ちる」と言ふものをうまく誘發するにはどうしたらよいのかと考へてゐたからでもありました。
 柳田國男の談話筆記や對談を通覽して思ったのですが、そこが聞きたい、談ってもらひたい、といふところをうまく聞き出せずにをはってゐるものが多いと感じます。ガードが堅くてしりぞけられたり、既に訊く時機を逸して忘却の彼方だったり、問ふに人を得ず聞き過ごしてしまったり……。
 先日『二葉亭四迷全集 第四卷 評論・談話』(筑摩書房、1985.7)を買ったら、有名な「余が言文一致の由來」をはじめとして、これが無かったらどんなにさみしからうと思ふやうな逸品が多い。文責在記者ゆゑ信頼できないところもあるのかしれませんが、それでも柳田にせよ二葉亭にせよ漱石その他にせよ明治末期『文章世界』の談話記事はなかなか面白くて看過ごせません。編輯者の手腕でせう。
 昔『柳田國男研究』といふ雜誌の聞き書き連載で池上隆祐といふ人の回が内容もさることながら語り口そのものが興趣溢れる口語で大いに氣に入りましたが、別の座談(有賀喜左衞門『文明・文化・文学』所收だったかな?)を見たら何だかかしこまってしまって談論風發の良さが無くなってゐたのにガッカリしたものでした。同席者と打ち解けなかったのか、編輯者が口語をきれいに整理しすぎたのか……。
 うまく脱線させるのも簡単なことではない、といふ話でした。


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No.1006

雑誌・編集者
投稿者---國府田麻子(2003/08/04 04:04:53)


最近『改造』に興味を持っているのですが、目次だけ眺めていても面白いものですね。編集者の意図というか、作戦というかが浮かび上がってきます。大正半ばから終わりにかけて、政治社会動向に殊更熱心だった『改造』は、総合雑誌として(ディレッタントではない!)知識人の獲得を目指していたのかもしれませんね。その対極に位置する『中央公論』もまた妙に庶民的なのも何か凄いですが。
例えば谷崎(またもやこの人のことか?…すみません)が大正10年12月号に、自らの身辺のゴタゴタ(妻譲渡の小田原事件)に題材を求めたと思われる「愛すればこそ」と云う作品の前半を『改造』に載せています。でもその後半は『改造』にでは無く、「堕落」と改題して『中央公論』(大正11年1月)に載せているのです。何故でしょう?考えているのですがなかなか理由が見えてきません。
才能発掘の恩人である滝田樗陰に頭の上がらない谷崎は、作品のクライマックスをこそ『中央公論』に載せるべきだと思ったのでしょうか(それとも樗陰に頼まれたとか?)?妻を奪い合った相手である佐藤春夫が『中央公論』に多くを書いているから、そこに谷崎のものを並んで載せれば、確かに話題性はあるでしょうけれど。…でも、『改造』のほうは途中で放り出してしまって、どうするつもりだったのでしょうね?『改造』にだって、恩はあるだろうに。谷崎が雑誌という媒体を利用して、自らを売り込んでいるのか、それとも編集者側が谷崎を利用して雑誌を売ろうとしているのか。…恐らくはお互いが利用しあっているのでしょうけど(なんて考えると、どこまでいってもきりがありませんね)。編集者と作家との密接にして打算的とも思える関係が、作品自体に如何に関わっているかを考えていくのは必要なことなのですね(…今まで作品ばかりを見てきたこと、反省です)。
『雑誌『改造』の四十年』という本を今読んでいるのですが、雑誌制作者側の裏事情というか、が具に分かって楽しいです。著名人の招聘(例えばラッセル)一つにしても、雑誌総ぐるみ・年単位の地道な作業なんだな、って。

二葉亭とか、美妙とか、「読みたいな」と思いながらも実際には本に手が伸びません。…。ライオンにでも行って、珈琲片手に、リラックスしながら明治文学、も偶にはよいかもしれません…。とりとめもなく、(最近はやりの)失礼致しました。




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No.1008

エディターシップ
投稿者---森 洋介(2003/08/10 19:57:34)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


>『雑誌『改造』の四十年』という本を今読んでいるのですが、

 本の本を蒐集する一環として、編輯者や出版者の回想ものもなるべく買ふやうにしてゐまして、かういふ話は大好きです。
 『雑誌『改造』の四十年』(光和堂・1977)は、横山春一編『改造目次総覧』を併收してくれたのは有り難いけれど、執筆者索引が省かれてしまったので檢索の便が無いのが惜しいと思ひませんか。他に水島治男(元『改造』編輯長)の『改造社の時代』(図書出版社、1976)が戦前編・戦中編と出てゐますが、これは大正年代は扱ってゐません。
 『改造』のワンマン社長山本實彦に對して老舖『中央公論』は瀧田樗陰と嶋中雄作の二者で代表され、瀧田・嶋中兩者は編輯ぶりも異なってゐたやうです。杉森久英による傳記『瀧田樗陰』が中公新書でありましたが、あれは『中央公論社の八十年』(1965、非賣品)から分立させたものなので、買ふならこちらでせう。そして缺かせないのが木佐木勝『木佐木日記』全四卷(現代史出版会、1975)。樗陰の部下の元編輯者の日記に基づき、雜誌の内情のみならず執筆者たる文壇人の生態を語った資料として文學史研究にも必讀です――が、實は高名のみ聞き知って、まだ讀んでゐません。自分の關心からしていづれ必ず買ふに違ひないんだから、それから手許でじっくり讀まう――と思って、手に入れぬ儘はや幾星霜。「いづれ」はいつの日になるやら、かういふのも一種の積ん讀でせうか。古書價も高くて入手難なのですから、そろそろ諦めて圖書館にでも行って通讀してくるべきなのかしれません。
 ちなみに『中央公論』は、いまだにちゃんと作った總目次が無く、原誌各號の目次ページを縮刷したものがあるだけなのが不便です(『文藝春秋』も然り)。九段下の昭和館へ行くと著者名・件名で檢索できるやう電子データ化したものがあるのですが……情報公開して頒布して貰ひたいものです。
 洋物では、この間、フランク・ハリス『わが生涯と恋愛』合本版(三宅一朗譯、あまとりあ社、1957.2)を買ひました。かの『土曜評論 Saturday Review』の編輯長だった男の裏話で、日夏耿之介曰く「例のペンを持つ文学与太フランク・ハリス」(『風雪の中の対話』中公文庫版25頁)。大久保康雄譯『わが生と愛』全五卷(河出書房新社〈人間の文学〉1965〜66)も持ってゐたのですが、先行するあまとりあ社版の譯者・三宅一朗なる人は、『ヴィドック回想録』『出世の道』(ともに、作品社・1988)と特異な書を譯した三宅一郎(朗に非ず)と同一人物らしいので、いかにも相應しいと思ひまして。
 編輯者ものの本に惹かれるのは、書誌學的關心もさることながら、ジャーナリズト特有の人間的興味 Human Interest といふ奴のためでせうかね。惡くいへばゴシップ趣味ですが。


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No.1009

『木佐木日記』など。
投稿者---國府田麻子(2003/08/10 23:49:53)


森さま、お久し振りです。

>執筆者索引が省かれてしまったので檢索の便が無いのが惜しいと

思います。『改造目次総覧 執筆者索引』(新約書房)でいちいち調べなくてはならないのはとても面倒ですね。目次総覧を全部コピーしたら結構お金かかっちゃいましたし…。でも仕方ないです。『改造社の時代』は先日戦前編だけパラパラと(不真面目!)読みました。而も「あまり使えないな」と思って、直ぐに返却してしまったことは内緒です。『中央公論の八十年』は後ろに年表も付いていて便利ですよね!装幀も『日本の文学』や『世界の名著』に似ていて気に入っています。読み物としても面白かったです。嶋中が山本に誘われた事があった時、「月給を二千円出す」と云われた箇所を読んで、へえと思いました。当時の(円本大当たりの)『改造』が如何に羽振りが好かったか、ということが分かりましたし。最近『「文藝春秋」にみる昭和史』も漸く手に入れました。興味のある記事がちょっとずつ読めて、これも大変便利で楽しいですよね。これで目次がついていればいいのに…。

それにしても
>木佐木勝『木佐木日記』全四卷(現代史出版会、1975)。
…。これは私も是非是非読みたいな、と思っているのです。図書館に行けば当然あるのですが、欲しいですよね。皆さん「高価だ」と仰るので、相当なのでしょうね…。想像もつきませんけど。でも私は図書館で見るだけでいいわ、です。それすら横着してまだしてませんが。

『中央公論』の総目次、早く出して欲しいものです(…抑ももうそんな企画はないのかも知れませんが)。谷崎なんて、明治四十四年から昭和四十年まで書いているのですもの、縮小版でもコピーが大変なんですってば!(杉山平助評するところの)「一世の名編集者」の滝田樗蔭も、屹度天国から「総目次くらい、出版してあげればいいのに」と思っていることでしょう。






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No.1007

さらにとりとめなく
投稿者---prospero(管理者)(2003/08/09 01:11:27)


>再生機器環境が如何に大事かをそういうところで身をもって学ぶことがあります

当たり前のことですが、やはり音楽は実際に感覚に響いてくる「音」が命なので、再生機器の影響も莫迦にならないようです。その器械の組み合わせにとって、どういう音楽を再生するのが得意かによって、聴き手の好みも結構変わって来たりもするようです。

実は最近、もうひとつ驚く経験をしました。まだAirbowが部分的にいまの環境に馴染んでいないような気がしていたので、CDプレーヤーとアンプを繋ぐケーブルをかなり良いものに変えてみました。ラックスマンのケーブルで、ミニコンポが買えてしまうような値段なのですが、このお陰で、突如として別次元の音がし始めたのには、ちょっと腰を抜かすような思いです。いままでもAirbowはかなり繊細に間接音を再現しているとは思っていたのですが、ケーブルを変えることによって、一転してホールが目の前に出現したと言いますか、その激変振りは驚異的でした。これまで面で聞えていた音がすべて立体になって、トゥッティになっても、弦楽器のボーイングの表情がわかるような微細な表現で鳴り始めています。ソロの楽器や歌手は、一人の演奏の音量でありながら、広いホールの中に冴え冴えと響いていくような感覚をまざまざと感じさせます。これまでも馴染んでいたCDがまるで違って聞えてきて、いままで自分が聴いていたのは一体なんだったのだろうかと思えてしまうような経験です。やはりケーブル一本といえども、立派なオーディオ機器なのだと、認識を改めたような次第です。あなどれません。

>林達夫×久野収の『思想のドラマトゥルギー』を読みまして不思議に思ったのは、あれだけ演劇を含めた広範囲のことに関心がありながらクラシックの話題が殆ど皆無だったことです。

林達夫には、かなりあとになってから、山口昌男や中村雄二郎などが中心になった座談集『世界は舞台』(岩波書店)がありますね。こちらのほうでは、比較的音楽について語っていたようです。これには、林氏がなくなった後に行われた座談も含まれているのですが、そこで山口昌男が、「林さんの絵画の知識に比べれば、音楽に関することはあんまりブリリアントとは思わなかったけれど、一生懸命書生風にモーツァルトを聴いていらした」(p. 213)などと言っていました。そのモーツァルト云々というのは、『三つのドン・フアン』という岩波の文化講演会で話されたもので、これは録音が残っています(岩波書店/NHKサーヴィスセンター)。若々しい声に感激した思いがあります。

対談・座談の脱線という点では、『世界は舞台』に収められたものは、どれも著しくパワーが落ちています。林氏があまりに祭り上げられすぎて、対談者との丁丁発止という感じがまるで出ていません。のちにノーベル賞作家となった人も、「やはり林先生の蓄積を、座談をつうじてどんどん出していただく会というのが必要ですね」など、そんなにまで持ち上げなくてもと思えるほどです。やはり対談や座談というのは、予期しえない要素がいろいろあって、むずかしいようですね。



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No.1103

大田黒元雄「奇妙な存在」
投稿者---花山薫(2004/05/21 20:32:59)


森さま

「日本の古本屋」でこの本が5000円くらいで出ていますが、一度お問い合わせになったらいかがでしょうか。たまたま目についたのでお知らせします。


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No.1104

Re:大田黒元雄「奇妙な存在」
投稿者---森 洋介(2004/05/22 00:59:11)
http://y7.net/bookish


 お知らせありがたうございます。 
 しかし貧書生の購入基準からすると、一册五千圓は嚴しいのです。とかいひながら、頗るつきの名著とわかってゐる大册五千圓は先送りにしても、五百圓の雜本十册を掘り出して買ひ込んでしまふ貧乏性なわけですが。 
 大田黒元雄の隨筆集では『氣樂な散歩』(第一書房・1934)『休日の書』(第一書房・1937)も狙ひ目です。 



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No.1055

Re:「メロディ」
投稿者---エマ・バルダック(2004/02/29 14:12:50)


アメリンクのドビュッシー歌曲全集の録音って詳しくは何年のものなんでしょうか、今知りたいんですが、誰か、知りませんかねえ。





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No.1056

Re:「メロディ」
投稿者---花山薫(2004/03/01 00:43:58)


手元のCDを見ても、レコーディング・データの詳しいことはわかりません。

1971年4月
1977年1月、12月
1978年10月、12月
1979年1月、2月

とおおざっぱに書いてあるだけです。

アメリンクさんは1933年生れと1938年生れの二つの説がありますが、写真などで見ると1933年説のほうが正しいような気がします。そうすると、彼女の38歳から46歳までの録音ということになりますね。いずれにしろ、歌手としていちばん油の乗りきった時期の録音ではないでしょうか。

ちなみにアメリンク、スゼーによる「フォーレ歌曲全集」の録音のほうは、

1970年6月
1973年12月
1974年1〜3月

と、これまたおおざっぱに書いてあります。

当時の日本盤にはもっと詳しいデータがあるかもしれません。私も知りたいです。


No.1058

その後
投稿者---prospero(管理者)(2004/03/07 11:53:26)


>エマ・バルダックさん
始めまして。

>花山さん
早速の応答をありがとうございました。

確かにCDになってから、データの表記が簡略になって、特にかつてレコードで出ていたものの再発売はそれがはなはだしいようですね。再発売の年の記載しかないような場合すらあって、どうにも弱ります。ドビュッシーといえば、最近ジュリーニ60年代に録音した『海』がれマスターで再発売になりました。かなり録音が良くなっていて、オーディオ的にも楽しめました。エマ・バルダックさんはフランス音楽をよくお聴きですか。

ところで花山さんのヘッドフォンも大分使い慣れてきましたでしょうか。こちらのスピーカも少しずつエージングが進んでいるようではありますが、それに伴って癖も見えてきます。少々反応が良すぎるところがあって、聴き疲れがするところがあります。様子が落ちついてきたところで、そろそろスピーカ・ケーブルを弄ろうかと思っています。手をかける部分としては、とりあえずこれが最後になるので、これは失敗できません。もう一歩だけ、理想に近づけたいと思っていますが、どうなることでしょう。

No.1032

ワーグナー協会
投稿者---prospero(管理者)(2003/12/30 11:34:34)


つい先日、ワーグナー協会の講演会というものがあったので、少し覗いてきました。『指環』の集中セミナーの一環で、今回は『神々の黄昏』第二幕について。これがきわめて面白いものでした。講演者の一人は、三澤洋史氏という、新国立劇場合唱団の指揮をしていて、バイロイトの合唱指揮の経験もある方なので、ピアノを弾きながら解説をし、部分的には唄も歌うといった熱の入ったもので、Th.マンの『ファウストゥス博士』の登場人物クレッチマーの講演もかくやと思わせるようなものでした。

ライトモチーフの生成の過程を『神々の黄昏』第二幕に即して、微視的に分析してもらえたので、その流れが実によくわかって、ワーグナーの手法にあらためて感心しました。元々ライトモチーフというのは、ある種の記号という側面を持っていて、「剣のモチーフ」やら「契約のモチーフ」やら、かなり恣意的な約束事に思える側面があると同時に、一方ではその内容を音楽的にその表している象徴のような性格ももっています。ですから一方で、モチーフ同士を単語のように組みたてて文章を作るようなこともできれば、その音楽的な流れが独自の雰囲気を表現するということもできるわけです。その点で、ワーグナーがレヴィ=ストロースのような「構造主義者」の関心を引く一方で、ボードレールのような「象徴主義者」の感性を掴んだというのも納得のいくところです。

ところで、もう一人の講演者が紹介していた文献に、ピッデ『ドイツ刑法から見た<ニーベルンクの指環>』という、笑ってしまうようなものがありました。現代ドイツ刑法で『指環』の登場人物を裁くというもので、それぞれの刑期が一覧表になっていました。

それによると、
  • ローゲ:「指環略取、放火幇助」の罪 → 12年以下の懲役
  • ヴォータン:「指環略取、ジークムント殺害幇助、フンディング殺害、ブリュンヒルデ昏睡、放火」の罪 → 五年以上の懲役(何で!?)。
  • ジークフリート:「動物虐待(『ジークフリート』第一幕の熊のことでしょう)、ミーメ撲殺、ブリュンヒルデ誘惑」の罪で → 五年以上一〇年以下の懲役
  • アルベリヒ:「指環強奪、ジークフリート殺害教唆」の罪 → 終身刑
何となく辻褄が合わないような……。今年この本は復刊されたそうですが、流石にこれを取り寄せようというほど酔狂ではありません。


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発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事>Tokyo-Ring1083prospero(管理者)2004/04/11 21:31:46


No.1083

Tokyo-Ring
投稿者---prospero(管理者)(2004/04/11 21:31:46)


忘れた頃にやってくるワーグナーの話題です。

先日、四年がかりの『ニーベルンクの指環』日本公演(Tokyo Ring)の最終夜『神々の黄昏』の公演がありましたので、出かけてまいりました。思えばこのHPを立ち上げた最初の頃に『ラインの黄金』の公演があったのでした。実はそのときの序夜にいささか失望して、『ヴァルキューレ』と『ジークフリート』には行かなかった(『ジークフリート』はチケットを取り損ねた)のですが、やはり今回は最後なので付き合おうと思い、発売当日にチケットを押さえました。今回は発売して1時間も経たないうちに完売になっていたようです。

さて公演内容ですが、これが予想以上に素晴らしいものでした。オーケストラがN響に変わっていたのも良かったのかもしれません。劇場で4時間以上に及ぶ楽劇本編を聴いたのは初めてでしたので、実演でワーグナーを聴くという得がたい体験となりました。やはりCDやDVDで聴いているのとはその経験の質が違うようです。歌手陣もほぼ安定していて、ジークフリート役のトレレーヴェンも、音程の甘さはあるものの、最後まで良く歌い切っていました。特筆すべきは、第一幕のヴァルトラウテ役の藤村実穂子です。ともするとだれてしまいがちな第一幕の後半を見事に引き締めてくれました。あとでパンフレットを見ると、この藤村さんは、日本人で初めてバイロイトに主役級の役で出演した人だそうです。冒頭のノルンの三重唱も、第三幕冒頭のラインの乙女たちの三重唱もきわめて出来が良く、特に第三幕冒頭は、こんなによくできた音楽だったかと認識を新たにさせられました。

演出キース・ウォーナーの「ポップな」演出で、しばしば苦笑を誘いますが、今回は演奏の素晴らしさもあって、それがあまり気になりませんでした。見終わった後には、これはこれでまとまっているのかもしれないと、それなりに納得するようなところもあります。やはり『指環』は四夜すべてが終わって、初めて得心の行くものだということも今回再認識させられたことです。大詰めのヴァルハラの炎上も、視覚的にはどうしようもなく貧相な演出ですが、それも音楽の力で乗り切れてしまうのが不思議です。あの圧倒的な音楽の力に視覚面でも対抗しようと思ったら、劇場を本当に燃やしてしまうくらいの勢いが必要でしょう。

いずれにせよ、今回の『神々の黄昏』は、これまで私が経験したコンサートやオペラの中でも屈指の演奏でした。


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No.1098

Wagner entrevu
投稿者---花山薫(2004/05/07 00:32:06)


値段の安さにひかれてクナッパーツブッシュ「ワーグナー名演集」を買ってみました。私にとってはワーグナー初体験だったわけですが、これがなんともすごい演奏で、完全に参りました。こういうものが千円で買えるとはいい時代になったものです。

解説を読むと、クナッパーツブッシュはワーグナーの演奏家としてフルトヴェングラーと覇を競うほどの人だったらしいですね。私が聴いた印象では、クレンペラーなんかに近い資質をもつ人のような気がします。こまかいことはあまり気にせず、ひたすら音楽のスケール感を重視するというか……まあ、素人のあてずっぽうですけど。

フラグスタートという歌手もすごいですね。60歳を超えてこの声の張りとつやはいったいなにごとでしょう……全盛期のレジーヌ・クレスパンと比べても遜色ありません。この人の若いころの録音を聴いてみたくなってしまいました。といっても、年代が古くなればなるほど音質もわるくなるので、そのあたりが問題といえば問題ですが。

ともあれ、いままで漠然と頭のなかに思い描いていたワーグナー像をくっきりと浮き彫りにしてくれるような演奏で、とりあえずは大満足の一枚でした。このディスクはデッカ盤で、録音が古い(58〜60年)にもかかわらず非常に音がいいです。もしワーグナーを聴かず嫌いの人がいたら、ぜひこれを聴いてみられることをおすすめします。

さて、べつのところでちょっと触れたジュディット・ゴーチエの「ワーグナー訪問記」ですが、これは彼女の自伝的作品「日々の首飾り」の三冊目(1909年)を改題して出したものだそうです。

VISITES A RICHARD WAGNER, Judith Gautier, Le Castor Astral, Bordeaux, 1992,

1869年、当時24歳だったジュディットは、夫のカチュール・マンデスとヴィリエ・ド・リラダンを伴って、スイスのトリープシェンに隠棲していたワーグナーを訪問するのですが、そのときの体験をのちになってまとめたもののようです。登場人物は、ワーグナー夫妻はもちろん、ルートヴィヒ二世、フランツ・リスト、ハンス・リヒター(この人がクナッパーツブッシュの師だったこと、今回のCDの解説で知りました)など多士済々で、ジュディットらの一行はいたるところで彼らの款待を受けながらミュンヘンまで特権的な(祝祭的な?)旅行をつづけるといった内容です。ジュディットは若さと美貌と才気を兼ねそなえていましたから、まさに行くところ可ならざるはなかったわけです。

ヴィリエの奇行については書きだすと長くなるので……彼がいつも言語不明瞭で、初対面のワーグナーを面食らわせたこと、ワーグナーの飼い犬の鼻面に手が当っただけでもう狂犬病になったと思いこんで、トリープシェンからリュツェルンまでいっさんに薬を買いに走っていったこと、紳士貴顕のあつまる夜会での朗読の最中、なぜかパニック状態におちいり、やおらズボンのベルトをゆるめて靴を脱ぎ、そばにあったピアノの上に座りこんでしまったこと、等々。

彼の奇行にはそれなりの理由があるのですが、それはごく身近な友人たちにしかわからないていのものなので、いつもまわりの人を唖然とさせたり、ひんしゅくを買ったりしていたようですね。とにかく健康状態には異常なほど気を配っていたようで、その点、カントに似ているような気がします。カントも足の血行を気にしたあげく、特製の靴下どめかなにかを発明したのではなかったでしたっけ。ディ・クィンシーの本にそんなことが書いてありましたね。

ところで、前から一度お訊ねしようと思っていましたが、管理人さんの音楽生活において、ワーグナーはどのような位置をしめているのですか。「私とワーグナー」みたいなかたちで書いていただけるとありがたいのですが。



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No.1102

フラグスタートなど
投稿者---prospero(管理者)(2004/05/18 21:17:52)


花山さま

本来なら、飛びつくような話題なのですが、少々事情があって、応答が遅れてしまいました。

クナッパーツブッシュとフラグスタートですか。ともにワーグナーを語るのに欠かせない名前ですね。私も『指環』の演奏を一つだけ挙げろと言われたら、50年代後半のクナッパーツブッシュのものを挙げることになりそうです。しかし、この時期のブリュンヒルデは、フラグスタートではなく、アストリッド・ヴァルナイなのです。私個人としては、ヴァルナイはかなり買っているので、これはこれで構わないのですが、仰るようにフラグスタートは独特ですね。

ワーグナー歌手は、60年代くらいまでは、一つの系譜が描けるくらいに、大物の歌手が輩出しましたが、それ以降の弱体化はいかんともしがたいものがあります。ブリュンヒルデ役などは、それこそフラグスタート → ヴァルナイorマルタ・メードル → ビルギット・ニルソンなどと、途切れることなく一級の歌手が続いたので、彼らがワーグナー演奏史に果たした貢献は計り知れないと思います。しかし現在のところ、押しも押されぬワーグナー歌手というのは、おそらく思いつかないでしょう。

フラグスタートでは、『トリスタン』をお聴きになったのでしょうか。フルトヴェングラー盤の『トリスタンとイゾルデ』では、フラグスタートを存分に聴くことができます。同じフルトヴェングラーの『指環』では、フラグスタートがブリュンヒルデを歌ったミラノ・スカラ座の演奏が有名ですが、これはあまりに録音が悪いうえに、オーケストラが練習不足でしばしば破綻します。

しばらく前、Naxosレーベルで、1936年でフリッツ・ライナー指揮で、フラグスタートの『トリスタンとイゾルデ』全曲が出たので、手に入れてみました。1936年ですよ。ですが、これが結構聴けるのです。雑音こそかなりありますが、何よりも40歳くらいのフラグスタートが聴けるのが魅力です。ライナーの演奏もかなりよいものです。このNaxosレーベルは一枚1,000円くらいですし、Naxos historicalと銘打って、フラグスタートものも何枚か出しています。お探しになられるのも手かと思います。

花山さんは、レジーヌ・クレスパンもお好きですか。ワーグナー絡みだと、ショルティ盤の『ヴァルキューレ』ではクレスパンがジークリンデを歌っており、思い返すと、この第一幕が私にとっての『指環』開眼だったような気がします。ジェームズ・キングのジークムントも素晴らしく、何よりもクレスパンのニュアンスに富んだ美声が、『ヴァルキューレ』第一幕での危機的な愛情を表現して巧みでした。

そういえば、トーマス・マンに『ヴァルキューレ』第一幕と、兄妹のインセストを重ね合わせた『ヴェルズンゲンの血』という短編がありましたっけ。

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リラダンのエピソードと、書物のご紹介もありがとうございました。去年の夏、ロンドンの古書店を訪ねたのは、この掲示板でも書かせてもらいましたが、実はそのあとに、くだんのトリプシェンを訪れてきました。スイスに近いフライブルクで学会があったので、再び足を伸ばしてスイスに入り、ルツェルンからバスで20分ほど行くと、ワーグナーがコジマと過ごしていたトリプシェンにつきます。ルツェルン湖を眼下に見渡せるとても良い場所でした。ここにはニーチェもワーグナー詣でにやってきたはずです。

どうもワーグナーの周辺には、さまざまな文学者・思想家を引きつける磁場のようなものが働いているようですね。

そんなもののあり様を、またいずれゆっくりと考えてみたいと思います。


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