licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus) 真理を求めるときには、舌を自由にせよ
(過去ログ)
私は今もってふつうの文学読者の知的関心のひろがりかたがよくわからない。たとえば、三島由紀夫の読者というのは日本に何十万人といるに違いない。ところが、彼らは、三島がくり返し、くり返し引用するコクトーにもヴィリエ・ド・リラダンにも何の関心も示さないらしい。[……]しかも、この国の読者は作品よりも作家そのものに強い関心を持っているというのだ。 森田暁「翻訳紹介と読者」(『世界幻想文学大系33 十九世紀フランス幻想短篇集』「月報39」)
續けて森田氏は「幻想文学の読者はそういった意識的な無関心とは無縁であろうことを確信する」と持ち上げます。……さうでせうか。幻想文學讀者といってもそんな芋蔓式探求心がどれだけあるものか、怪しいものです。 その〈世界幻想文學大系〉の責任編輯者だった紀田順一郎氏は、'70年代のミステリやSFのブームを前に「失われた“異端者の栄光”」を慨きました。「サブカルの中に育ち、サブカルを足がかりにして生活(たつき)の道に入った者として、あまりこういうことは申しあげたくないのですが、私が若いころのサブカルと現在のそれとは根本的に異質なものがある」と苦言を呈します。曰く「それはマイナーカルチャーとマスカルチャーのちがいです」「「読者」から「消費者」へ」「「知」のアナーキー」……云々(『読書戦争』三一新書、1978)。 それぁ擴散と變質はあったでせうとも。ですが紀田氏の如く高踏的態度で難じてみせても始まらない氣がします。筒井清忠氏らによっても明らかにされた通り、戰前の教養主義からして劃然たるエリート文化といふよりは大衆文化と地續きだったのですから(その筒井氏も新教養論をぶち出したには失望させられましたが)。異端者の榮光といふものがあるにせよ、それを誇らかに語ってしまふのはいかがなものか。 >むしろ「ハイ・カルチャー」を「サブカルチャー」のように消費していくところに、「教養主義」の醍醐味がある これ全く我が意を得たり、です。逆に、サブカルチャーをハイ・カルチャーのやうに調査研究してみることの愉快さもあります。カルチュアル・スタディーズといふものが出て來た時にもそれを期待したのですが、その邊の機微を察せぬ糞眞面目な學者ばかりでイヤになってしまひました。それといふのも教養主義の惡しき面がなほ色濃く殘るがゆゑではありませんか。 だから、「あれもこれも」は教養主義に内包された原理ではありましたが、それを徹底してゆくともはや「教養主義」を脱した別物と化してゐると見た方がよいのかもしれません。それを何と呼べばよいのか、妙案はありませんけれど。
先へ 12, 11, 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2, 1 HOME