口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ


ブルーメンベルクをめぐって

No.1268
ブルーメンベルクの博士論文
くま(2006-07-13 05:53:25)

いつも拝見しております。興味深い話題の数々から刺戟を得ております。ドイツにてブルーメンベルクの博士論文を閲覧する機会がありました。目次だけでもみなさまにお知らせしたく、書き込みをさせていただきます。


Beitraege zum Problem der Ursprueglichkeit der mittelalterlich-scholastischen Ontologie

I. Einleitung
§ 1. Das Problem der Urspruenglichkeit des ontologischen Ansatzes bei Martin Heidegger
a) Geschichtlichkeit und Tradition
b) Destruktion als Freigabe der Geschichtlichkeit
c) Auszeichnung der Scholastik im Zusammenhang des Urspruenglichkeisproblems
d) Descartes als Fazit der Scholastik?
e) Integration der Urspruenglichkeitsidee
§ 2. Voraussetzungen und Moeglichkeiten eines urspruenglichen Seinsverstaendnisses in der mittelalterlichen Scholastik
a) Kontinuitaet des Wirklichkeitsbewusstseins als Boden der "Rezeption"
b) Einheit und Totalitaet der christlichen Erfahrung
c) Direkte Rezeption und Spaltung des Erfahrungshorizontes
d) Lebendige und autoritaere Tradition
II. Die Durchbrechung der traditionellen ontologischen Interpretationsweisen
§ 3. Die Interpretation des Seins als Hergestelltsein
a) Destruktion und "ens creatum"
b) Ursache und Grund in der griechischen Ontologie
c) Der biblische Schoepfungsgedanke
d) Schoepfung und Seinsgrund bei Augustinus
e) Schoepfung und Bewegungskausalitaet bei Thomas von Aquino
f) Die Persoenlichkeit des Seinsgrundes in der augustinischen Scholastik
g) Kosmologie und Ontologie bei Duns Skotus
h) Leistung und Ertrag
§ 4. Die Interpretation des Seins als Vorhandenheit
a) Der Inbegriff der Destruktionskritik
b) Der Umschlag der exemplarischen Orientierung
c) Analogie und Univozitaet des Seins
d) Erkenntnisschema und Seinsauslegung
e) Ueberblick
§ 5. Die Interpretation des Seins als Wesenheit
a) "Existenz" als Kontrastbegriff
b) Die Verschuettung des Existenzproblems in der Antike
c) Vorzeichnung der christlichen Existenzerfahrung
d) Das Individuationsproblem bei Thomas von Aquino
e) Die Entwurzelung der Individuationsfrage
f) Aktualitaet als Auslegungsmodus von "existentia"
g) Substanz und Faktizitaet
h) Ueberwindung der Wesensontologie?
§ 6. Die Interpretation des Seins als Gegenstaendlichkeit
a) "Welt" als urspruenglichstes Problem der Ontologie
b) Weltphaenomen und "ontische Illumination"
c) Die Einheit ontischer und intellektualer Illumination
d) Leistung und Gefaehrdung des Illuminationsgedankens
e) Das Sein als "primum obiectum" bei Duns Skotus
f) Weitere Fragemoeglichkeit
§ 7. Das aussertheoretische Fundament der Seinsinterpretation
a) Radikalisierung des ontologischen Phaenomenbegriffs
b) "Weisheit" als Totalitaet des Seinsbezuges
c) Grundbefindlichkeit und Illumination
III. Letze metaphysische Positionen
§ 8. Die Frage nach dem Sinn von Sein
a) Sinn und Sinnverstehen
b) Seinsverstaendnis als illuminative Methexis
c) Die ontologische Exemplaritaet des Menschen
d) Grenzen des Urspruenglichkeitsproblems
Anmerkungen



No.1269
これは凄い
prospero(管理者)(2006-07-13 16:53:17)

くまサン、詳しい情報をありがとうございます。これだけの量のドイツ語目次を正確に記していただいて大助かりです。ずいぶん手間がかかったことでしょう。

この博士論文は常々気になっていました。目次の細目をみると、やはりこれはハイデガーですね。しかもそこには最初から歴史性と伝統という議論を組み合わせてくるとなると、『存在と時間』のプログラムをむしろ逆に辿って、存在論史の解体の議論から始めて、存在論へ向かうという方向すら垣間見えます。創造の教義を「被製作性」という仕方で整理していく辺りもハイデガーを思わせます。存在の一義性と存在の類比の議論なども興味深いところがあります。

 「実存」(existentia)概念は、中世的な概念から出発しながら、本質形而上学の克服という視点から、「事実性」に結び付くようですね。第6節のIllumination というのは何でしょう。アウグスティヌス的な照明説のことでしょうか。おそらくそんな意味で、知性論と存在論の融合というかたちで、存在了解に繋げているのでしょうね。実に興味深い内容です。

これは、国内からコピーなどを海外の図書館に要請することは可能なのでしょうか。いずれ調べてチャレンジして入手したいと思います。教授資格論文のDie ontologische Distanzも見てみたいところです。


No.1271
Re:これは凄い
あがるま(2006-07-13 23:09:25)

キール大学図書館には2つともありますね。
http://kiopc4.ub.uni-kiel.de:8080/DB=1/SET=1/TTL=31/NXT?FRST=41
目次から見て大部なのかと思つたら、それぞれ100枚か200枚のもののやうで
A4版のタイプ印刷なのでせうね。
彼の教へてゐたボッフムとかギーセンはどうでせうか?

ユダヤ人で大学に行けなく、神学校で学んだと云ふ彼の経歴を示すやうな論文ですね。
でも何と云ふ神学校なのでせうか、フランクフルトは有名なザンクト・ゲオルゲンでせうか、
またキール大学での博士論文と教授資格論文は誰の許で書いたのでせうか?
戦前にはシュテンツェルやヒルデブラントなどがゐたやうですが。
彼の経歴は未だに謎に包まれてゐるのやうですね。

ハバマスの学位論文(シェリング論)も余り見ませんが、
これは未公刊ではなくボンのブーヴィエ書店から出てゐるので、
沢山あるのでせうね?


No.1275
経歴
くま(2006-07-14 02:27:11)

わたしが閲覧したのはゲッティンゲン大学図書館所蔵のものです(残念ながら教授資格申請論文はキール大学図書館にしかないようです)。A4版のタイプ印刷で107ページ(注を含む)。しかし上から下までぎっちり詰まっています。指導教官はルートヴィヒ・ラントグレーべのようです。付せられたLebenslaufには次のようにあります。

Geboren am 13. Juli 1920 zu Luebeck als Sohn des Kaufmanns J. C. Blumenberg, deutscher Staatsangehoerigkeit, habe ich nach der Grundschule das Gymnasium des Luebecker Katharineums besucht und dort 1939 das Reifezeugnis erhalten. Sodann studierte ich scholastische und neuthomistische Philosophie, und zwar 1 Semester an der Philosophisch-theologischen Akademie in Paderborn und 2 Semester an der Philosophisch-theologischen Hochschule St. Georgen bei Frankfurt am Main, hier vor allem bei Casper Nink. Nachdem ich 1941 mein Studium abbrechen musste, setzte ich meine Arbeiten, insbesondere auf dem Gebiet der mittelalterlichen Philosophie, bis 1943 privat fort. Dann nahm ich eine Taetigkeit in der Industrie auf. Nach Kriegsende brachte ich mein philosophisches Studium an der Universitaet Hamburg, vor allem bei Ludwig Landgrebe, zum Abschluss. Als Nebenfaecher waehlte ich Griechisch und Deutsche Literatur.

キールには当時ヴァルター・ブレッカーもいたはずです。ハンス・ヨナスの回想録に、1952年にブリュッセルで国際会議が開催された折、ブレッカーの遣いとして若きブルーメンベルクも来ており、キールへの招聘を打診されたというエピソードが書かれております。


No.1278
教授資格申請論文
くま(2006-08-26 00:46:36)

ブルーメンベルクのHabilitationsschriftの閲覧がついに叶いました。目次は以下の通りです。

Die ontologische Distanz. Eine Untersuchung ueber die Krisis der Phaenomenologie Husserls

Einleitung

Erster Teil
Aufweisung und Entfaltung des Distanzproblems
§ 1. Die Infragestellung der Wissenschaftlichkeit der Philosophie
§ 2. Die Herkunft der wissenschaftlichen Selbstauslegung der Philosophie
§ 3. Die ontologische Entschiedenheit des wissenschaftlichen Gewissheitsentwurfes
§ 4. Die Radikalisierung des wissenschaftlichen Gewissheitsentwurfes in der Phaenomenolgie
§ 5. Das Distanzproblem der phaenomenologischen Reduktion
§ 6. Die Umwendung des cartesisch-phaenomenologischen Ansatzes

Zweiter Teil
Durchblicke zur historischen Morphologie der ontologischen Distanz
§ 1. "Mythos" und "Logos"
§ 2. Die sokratische Situation und der Logos
§ 3. Die metaphysische Festlegung der theoretischen Distanz
§ 4. Die Entmaechtigung des kosmischen Logos
§ 5. "Sehen" und "Hoeren"
§ 6. Die "doppelte Wahrheit" und der Ursprung der Gewissheitskrise
§ 7. Die Selbstbehauptung der Vernunft von der Gewissheitsfrage
§ 8. Die ontologische Entschiedenheit der "Aufklaerung" und das Erwachsen des historischen Sinnes

Dritter Teil
§ 1. Historische Vergangenheit und geschichtliche Gegenwart
§ 2. Die urspruengliche Gestalt der philosophischen Frage
§ 3. Die Genesis des geschichtlichen Bewusstseins als originaere Gegenstandsbildung
§ 4. "Welt" und Gegenstand
§ 5. "Welt" als geistige Leistung
§ 6. Die Grundlagen der phaenomenologischen "Welt"wissenschaft in ihrer Urspruenglichkeitsproblematik
§ 7. Der Ertrag des phaenomenologischen "Horizont"begriffes fuer die "Welt"hermeneutik
§ 8. Die passive Genesis des Welthorizontes

Vierter Teil
§ 1. Der unendliche Entwurf der Phaenomenologie als Anspruch geschichtlicher Unbefangenheit
§ 2. Der Zusammenbruch der universalen Vertrautheitsstruktur der Welt
§ 3. Die Destruktion der ontologischen Grundlagen des unendlichen Gewissheitsentwurfes
§ 4. Die Reduktion der Seinsvergessenheit und das neue Denken des Seins

Anmerkungen


No.1279
理論的良心論
prospero(管理者)(2006-08-26 16:25:49)
くまサン
いつも貴重な情報をありがとうございます。これもまた、きわめて刺戟的な情報で、想像が膨らみます。

全体としては、「知的誠実さ」というフッサールの現象学のモチーフを、ハイデガーの良心論と重ね合わせて現象学的世界論を展開するという狙いのようですね。全体として、「差異性」という標題から予想していたのとは違って、存在論的差異そのものを主題とするわけではなく、むしろ中心は世界論、およびその展開の方法論としての良心論にあるように思えます。しかもそこはブルーメンベルクらしく、良心論を現存在の構造として捉えたハイデガー『存在と時間』とは異なり、良心の歴史的生成を見ていくものらしく、興味をそそられます。第二部の「存在論的差異の歴史的形態学の概観」というが、いかにもブルーメンベルクですね。「形態学」という語が用いられているのは、例えばディルタイの形態学を評価したレーヴィットなどの反響でしょうか。2-6「二重真理説と良心の危機の起源」というのは、どうことなのでしょうね。13世紀のブラバンのシゲルスあたりの、あの「二重真理説」のことでしょうか。

第三部で世界論の歴史的展開を概観し、最後に「受動的発生」という観点を持ってくるというのも、現象学の継承者らしい姿勢です。第四部の「無限なる良心の投企の存在論的基礎づけの解体」というのも気になります。これは最終的に良心問題を歴史化することへの反論なのでしょうか。あるいは逆に徹底した歴史化を狙っているのでしょうか。

ブルーメンベルクに関しては、協会が作られ、ズールカンプから、雑誌論文を始め、未刊の遺稿なども続々公刊されているので、学位論文・教授資格論文が公刊されるのが待たれます。


No.1287
Re:関心と憂慮
あがるま(2006-09-14 00:41:09)

 ブルーメンベルクの場合、「理性」がいかにそれ自身の生を全うするかという観点から思想史を描いている。近代は理性が生き延びる(ueberleben)ために最も強力なモデルを提供した・・・というのが、大筋のシナリオだと思います。<

私の『近代の正当性』の読書が挫折してしまつたのは、細かな処に目を奪はれ大きな流れが掴めなかつたからです。

改めて貴『蒐書記』を見てみると、松岡正剛ばりの広範囲ですね。
新田義弘の評価が高いのにやつと気付きました。

木田元の方が分り易くて − 同じ三宅剛一の弟子だし − 読者に親切さうだと思つて、殆ど読んだこともなかつたのですが、文章の緊密さや思想の明確さから推測すると慥かに世界水準の達成かも知れません

さう云へば『存在と時間』は殆ど『論理研究』の述語と文体で成り立つてゐると言つても良いくらいだし、ガダマーが「存在を伝統に置き換へる」ことにより現象学を貧困化させてしまつた(『現代哲学』206頁)と云ふのも適切なのでせう。
ブルーメンベルクも現象学に属するのだとすれば、そこから(例へば古代の本質哲学に戻る道などに)更に展望が開けるのでせうか?


No.1289
訂正です
prospero(管理者)(2006-09-18 13:19:49)

この掲示板を見ていただいている畏友から、ある指摘をいただき、とんでもない間違いにきづきました。ブルーメンベルクの教授資格論文の要を「良心論」にあるとした前段の書き込み、GewissheitをGewissenと思い込んだための誤解でした。

ですから、論旨は「確実性」Gewissheit概念の歴史的展開ということになるわけで、論調としてはフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のような着想をベースとしながら、そこにハイデガー的な世界論・存在論を接合していくというところにあるようです。私の方でGewissheitをGewissenと読み間違えたのは、それ以前のSorge um Vernunft(理性の憂慮)という議論が頭にあったからでしょう。そうなると『近代の正統性』の存在論的基礎づけのような話になって面白いと思ったわけです。

しかし、きちんと眼を据えてGewissheitと読み直せば、議論はむしろ近代における学的確実性の起源という文脈で読めてきます。そうなると、例えばクザーヌスが、累積的な無限概念を、置ある無知の厳密性から区別して「非厳密性」と呼びながらも、かえってそれが近代的な漸近的な無限理解を成立させるといった経緯などと重なってくることでしょう。確実性の危機が、確実性の確立に繋がるというパラドクスです。

いずれにしても、いつか現物を覧てみたいものです。


No.1290
ブルーメンベルクに絡めて
prospero(管理者)(2006-09-18 15:07:08)

先ほど、ブルーメンベルクの博士論文の件では、訂正をしておきました。

加えて、引用していただいた私の文章、これも今みると変な文章ですね。引用の際にはそこを巧みに省略していただいて、脈絡が通るようにしていただきましたが。

こんな風に訂正してみます。
「理性が世界の意味づけをする際に、どのモデルがその問題を一番破綻なく処理できるかという観点から見ると、近代こそ理性が生き延びる(ueberleben)ために最も強力なモデルを提供した、だからこそ「近代の正統性」ということが語れるのだ」。

つまり、近代における「理性の自己保持」というのは、さまざまに可能なモデルの一つの選択肢にすぎないものではあるが、ただし最も強力で破綻のないモデルであるというのが、「正統性」ということの意味合いになると思います。しかし、この「自己保持」という観点そのものが、近代思想の側から見られた論点だという具合に切り返すこともできるので、ここにおいて今一度、現象学やハイデガーとの徹底した対話が必要になる場面が生じてくると思います。仰るような「古代の本質哲学への道」というのも、その辺りから再考する余地が出てくるのではないでしょうか。

ブルーメンベルクは、やはり細かい部分をあまり気にせずに一挙に眺め渡してしまう気でいないとなかなか先に進めなくなるようなところがあるようです。もちろん思想史というものは、細かい部分が勝負どころのようなところがあるのですが、あれほど大規模な著作となってしまうと、まずは全体の見取図がないと、方々で迷子になってしまいそうです。

「松岡正剛ばり」とは恐縮です。とても1000冊の書物を供養するような体力はありませんし、最近とみに更新も滞って、面目ない限りです。

新田義弘氏の『現代哲学』は、『現象学と解釈学』というより適切な標題に改題されて、ちくま学芸文庫から再刊されました。やはりこれは(『現象学と近代哲学』<small>〔岩波書店〕</small>や『世界と生命』<small>〔青土社〕</small>などとともに)現代の古典だと思います。確かに木田氏のものは、読者のレベルに応じてそれぞれの愉しみ方ができるという点で、それなりに良い本だと思いますが、新田氏の場合は、読者の理解度がそれによって測られる基準点のようなところがあります。評者のなかには、新田氏の文章の難解さを難ずるような方々もいるようですが、それはまったく当たっていないと思います。有り体に言って、それは評者の読解力の不足を露呈しているにすぎません。有名な西田幾多郎の「悪文」についてもそうですが、必要があっていわゆる「明快な文章」から外れてしまっているものを、その姿かたちだけで難ずることはできないでしょう。「分かりやすさ」を盲進する傾向のある現状では、一文一文が思考に重い、こうした散文は貴重だと思います。


No.1312
Re:もう一点
あがるま(2006-12-24 10:38:35)

待望のBlumenbergの新著Beschreibung des Menschenが出たやうですね、遺稿からM.Sommerが編集 − といつても完成されてゐたさうですが。
今までの遺稿出版と違つて今度は現象学的人間学と云ふ千頁もありさうな大著です。

読みかけのJ.-F.CourtineのInventio analogiaeを少し中断しても目を通す価値がありさうです。

猶Ruth GrohのC.シュミット論Arbeit an der Heillosigkeit der Welt,(1998.stw,1383)の第5章S.156-184と

Ulrich Ruh の学位論文Saekularisierung als Interpretationskategorie,1979,第2章S.61-122はブルーメンベルク論でした。
一度目を通してからと思つたのですが、忘れないうちにご報告。

それからGoogle scholarと云ふのには色々(学位)論文が引つかかりますが、無料の論文だけを探すうまい方法がありますか?

既にご存知でせうがJean Grondinのホーム頁には彼の論文が沢山出てゐました
http://mapageweb.umontreal.ca/grondinj/textes.html
彼は本当に多作なのですね!


No.1313
Re:もう一点
くま(2006-12-25 01:56:06)

Beschreibung des Menschen、わたしもよろこび勇んで購入し、しばらく矯めつ眇めつしておりましたが、900頁にも及ぶ大著、さわりのところに目を通しただけで結局つん読状態です。これからも続々遺稿集(ブルーメンベルクの死後、彼の仕事部屋には3000頁にも及ぶ完成原稿が残されていたとか)が刊行されるようで、次回はヴァレリー論との噂もあります。
また、Aesthetische und metaphorologische Schriften の編者 Anselm Haverkamp による、Paradigmen zu einer Metaphorologie 注解版、さらに Fruehe Schriften も近刊予定と聞きます。


No.1314
個人的なことを
あがるま(2006-12-25 06:51:19)

お聞きして申訳ないのですが、差障りのない限り!
『くま』さんはゲッティンゲンでブルーメンベルクを研究なつて居られるのですか?

ドイツでは200年前フランスでは100年前の事件であつた世俗化の問題に興味を持つ日本人が今頃ゐるとは思つてもみませんでした。
ネット上でもウイーンのF.M.Wimmerの処での無名氏とリエージュJ.Bauberot?の処でライシテの問題を研究されてゐる方を見てゐます。

ドイツの来月から付加価値税が3%上がるさうですから、本も買つて置き度いのですが、ユーロが高くて困りますね、来年になつたらこれも上がるかしら?


No.1318
Re:個人的なことを
あがるま(2006-12-25 10:16:33)

私は精々本を買ふのが趣味と云ふだけの全くの素人ですから、カテゴリー論と云はれてもどんな切り口があるのか見当もつきません。

知つてゐる本の題名で云へば、トレンデレンブルクとかE.ラスクのことかなと思ふ程度で − それとも古代や中世か?
プロスペロさんもラスク全集を持つて居られるさうですが、ドイツの大学でも学生にabratenするほど難しいさうでうから、三木清はよく翻訳など出来たものだと学力に感心します。

フランクフルトと云へば、大分前にショーペンハウアー協会を尋ねたことがあります、H.マルクーゼの資料と一緒でしたが、愛用したフルート(複数)や書き込みのあるウプネカトなどを見せて戴きました。
ライン河沿ひの家は空襲でなくなつてしまつたさうですね。

メールで質問出来るやうになれば良いのですが!



No.1320
『人間の記述』
prospero(管理者)(2006-12-25 22:28:54)

Beschreibung des Menschen、私も入手して、Studia humanitatisを更新しようかと思っていた矢先でした。もちろんすべて眼を通すというのはできませんし、いまのところばらばら眺める程度ですが、やはりブルーメンベルクの「人間論」への関心が強く伺える論集になっていますね。第一部が「現象学と人間論」、第二部が「偶然性と可視性」となっており、やはり近代論プラス人間論というモチーフを強く感じます。「フッサールの神」という比較的大きな論文が収められているのも目を惹きます。

今後、註解版のMetapher論というのは楽しみです。初期論文集が企画されているということは、学位論文やHabilitationもそろそろお目見えということでしょうか。

**

カテゴリー論そのものは私も審らかにしませんが、ラスクとの関係で最近関心をもっている人物に、土井虎賀壽がいます。彼はニーチェの紹介者であると同時にラスクの翻訳者なのですよね。おまけに仏典の独訳者!しかも全体的にかなりセンスが良い。現代の日本哲学の紹介でもなかなか触れられることのない人物ですが、少し気長に付き合ってみたい相手ではあります。


No.1322
土井虎賀壽
森 洋介(2006-12-26 11:27:03)

 ご無沙汰してゐます。 
>カテゴリー論そのものは私も審らかにしませんが、ラスクとの関係で最近関心をもっている人物に、土井虎賀壽がいます。

  Miscellaneaでも取り上げてをられましたが、土井虎賀壽で檢索してもラスク著が出ないと思ったら、久保虎賀壽だった頃の譯なんですね。國會圖書館OPACすら同一著者標目に入れてないのは困りもの。
 哲學には頓と無知ですが、敗戰後に既に四十代ながら佛文科に再入學して話題となった奇人學者の噂は何かで讀み覺えてゐて、あと、『現代文学<small> 研究と批評</small>』(「現代文学」の会、1988.10)といふ、創刊號限りで終刊した大學教員による研究同人誌に、紅野謙介「土井虎賀壽と野間宏――《大地》と《生成》のコスモロジー」が載ってゐたのは以前見ました。 
 土井虎賀壽をモデルにした青山光二『われらが風狂の師』(新潮文庫)はいづれ讀まうと思ひつつ、ツイ小説を遠ざけてずっと見送ってゐるのですが、面白いのでせうか。 


No.1292
ネット上のテクスト
prospero(管理者)(2006-10-15 14:22:36)

先日、ちょっとした必要があって、ネット上でフッサールの<a href="http://www.cc.jyu.fi/~rakahu/kirjat/krisis_kleine.html">ウィーン講演</a>を参照してみました。ネット上で原典が公開されていることを兼ねてより非常に心強いことと思っていましたが、実際に少し詳しく使ってみると、(当たり前ですが)かなり精度の低いものがあることに気づきました。この「ウィーン講演」、おそらくスキャナーでテクストを読み込んだらしく、1頁辺りに3, 4個(あるいはそれ以上)の誤植があります。特に多いのが、r n とm の読み間違いです。こんなかたちで誤植されなければ、その類似にさえ気づかないような類い(要するに肉眼でテクストを読んでいるときには間違えようのないのもの)ですが、これがかなり頻繁にエラーとして現れています。

本編Studia humanitatisのarchiv上でもこの種の原典を多数集めてありますが、お使いの際は皆さまも一度かなり詳しくご覧になったうえのほうがよろしいかと思います。「取り扱い注意」というわけです。
以下未整理

No.1430
Re:触発されていろいろと
あがるま(2007-11-17 17:59:00)

>クラーマーのその本<

W.Cramer自身の論文集ではありません。彼について書かれた論文をテーマ別に集めたものです。念のため!

>フランクやリーデルにしても、優秀な研究者という印象で、「思想家」というイメージからは遠いような気がします。<

フランスやオランダ・ベルギーには輩出してゐる(?)のに、ドイツやイタリアは駄目になりましたね。ノヴァリスの未出版の手稿が、旧東ドイツのWeissenfelsの彼が住んでゐたお城に沢山あるさうです。

>ヘムステルホイスは…しかしOLMで出されてしまうと、あそこの復刻は印刷が粗くて、こうなると髭文字も結構苦痛です。第一値段が、高いですし。これからはいっそのことDC-ROMですかね。

ドイツ語版は見たことがありませんが、復刻されるとすればフランス語の全集(と云つても2巻本が一冊になつてゐる。第二版?)でせう。
OLMSの復刻が印刷が粗いと思つたことはありませんが、最近大分安く売られてゐるので、WBのやうにもう復刻は已めたのかも知れませんね。他の新興出版社が沢山安く出すやうになりましたから。
原版のコピーではなく活字化して出版(やCD-ROM化)するまでにはならないでせう。

No.1429
触発されていろいろと
prospero(管理者)(2007-11-17 14:04:04)

ヘンリヒが活躍し始めた頃、60年代70年代というのは、概してヨーロッパ哲学の威勢が良かった頃ですね。クラーマーのその本は知りませんでした。しかしタイトルと出版社(Suhrkampなどではなく、Cottaという点でも)だけからでも、いかにもクラーマーらしいという気はします。いま検索したら、アマゾン・ドイツだと、マーケット・プレイス扱いになっていて、これだと海外への送付ははじかれてしまいました。ABEに出ているのは結構高いので、図書館で探してみます。

60年代・70年代の活況は、リアルタイムで知っているわけではありませんが、フランスのサルトル以降の現代思想の展開が賑やかに行われ、ドイツでもガダマー・ハーバーマスのイデオロギー論争やアルバートたちの実証主義論争など、論争という形態がプラスに作用していた時期でもありましたね。その辺りの論集も遅ればせに手にしてせっせと読んだのもずいぶん昔のことになります。いまのドイツ哲学は、ハイデガーたちの「神々の時代」から、ガダマーやヘンリヒの「英雄時代」を終えて、だいぶ小粒になっているようで、特にこの著者だけは何が何でも追いかけようというような存在が見当たらないというのが実情でしょうか。フランクやリーデルにしても、優秀な研究者という印象で、「思想家」というイメージからは遠いような気がします。

ナウマンの註解は、HPに書いたように、各部毎に分かれているので通しページがないのですが、だいだい各部が200-300頁なので、優に1000頁を越えます。髭文字もなれると特に何ということはないのですよね。読んでいるうちに次第にことさらに髭文字を見ているという意識もなくなってきます。ヒトラーにはたった二つだけ功績があって、一つはこの髭文字の廃止、そしてもう一つがアウトバーンの建設だと言われますね。

ポーダッハの『ニーチェの精神崩壊期の著作』は1961年、それに先立って1930年にご指摘の『ニーチェの精神崩壊』(Nietzsches Zusammenburuch)というのが出ています。『崩壊期の著作』のほうは、『ニーチェ対ワーグナー』、『アンチクリスト』、『この人を見よ』、『ディオニュソス讃歌』の成立過程を分析したうえで、それぞれのテクスト全文をポーダッハによる校訂で掲載しているものです。そのため400頁ほどある本文は、結果的にほとんどがニーチェのテクストというものです。『崩壊』の方は見たことがないのですが、おそらくこのテクストの分析の部分だけが最初に独立して出されたのではないかと思います。私もアンドレールの伝記は見たことがありません。

ヘムステルホイスは、ノヴァーリスやロマン派の自然理解全般にとって気になる存在ですね。しかしOLMで出されてしまうと、あそこの復刻は印刷が粗くて、こうなると髭文字も結構苦痛です。第一値段が、高いですし。これからはいっそのことDC-ROMですかね。

そういえば、グロイターのニーチェ全集は、ここ数年に出たものはCD-ROMが付くようになりました。それにはニーチェの手書きの草稿がそのままデータとして収められています。本の方は、それを活字に起こしているわけですが、ついに誰でも生の資料が見られるようになり始めてです。

No.1428
由良哲次『仏教の意識論』
あがるま(2007-11-17 10:06:20)

>由良哲次が写楽=北斎説を提示した『総校日本浮世絵類考』
>どうもこの著作は、私などが漠然と考えていたような、哲学者の余技、好事家の余興といったものではなく、その内容の点では反駁は可能でも、その存在自体はこの分野では無視できないもののようです。<

彼の大乗仏教論『仏教の意識論』はドイツ人学生のため書いた80頁足らずのエッセーで、内容は博士論文の副論文のやうな学究的なものではないやうです。

「それ故大乗は超越論的観念論或は意識の純粋現象学の理論で、大乗仏教の意識論は、厳密な意味で、認識する意識の学問的な探求ではない。その根本意図が根底に於いて、単に、宗教的自己意識とその方法を達成するための道を示すに過ぎない。…今日の意識についての学問的、認識論的研究と比較すれば仏教の認識論は不明確な点を持つてゐる。」(43頁)

が結論のやうなものですが、その後に「カルマと意識」「アーヤラ識と真理の発生」最後はナーガルジュナの空の概念の簡単な解説で空海の「十住心論」で結んでゐるのは、論文としての体裁を考へたものだと思ひます。

しかし何故北斎と寫楽のやうな(様式的には似てゐるものがあるとしても)丸で違つた画家が同一人だと鑑定するのでせうか?



No.1425
Gustav Naumannのコメンタール
あがるま(2007-11-16 21:09:27)

>考えてみると、W. Cramer, H. Krings、そしてD. Henrichといったラインは、私などが最初に「哲学」に触れたときに、強い印象を受けた流派でした<

そんな時代があつたのですね!
ヘンリッヒはガダマーのお気に入りで、米国にも弟子がゐて、世界中で有名でしたが、クラーマーはフランクフルトでアドルノの影に隠れて目立たない存在だつた。最近Rationale Metaphysik,1990.(Klett-Cotta)と云ふ2巻本の彼についての論文集を求めました。

ナウマンの註釈は全部で千頁以上になるでせうから、45?ならコピーするよりお徳ですね。
Frakturと云ふヒゲ文字を止めたのは、ヒットラーの命令だつたさうです。

前からアンドレールのニーチェ伝が欲しかつたのですが(前にガリマールに行つたら表紙のラミネートの剥がれたものなら全部揃つてゐましたが)ありさうでありません。やつと新刊本屋で第3巻だけ求めました。

ポダッハ『精神崩壊期におけるニーチェの著作』はフランス語訳が文庫本で出てゐたと思つたら、これは1930年に出たNietzsches Zusammenbruchと云ふ小冊子(抄録でせうか?)の翻訳でした。

ドイツ版もあるさうですが、ドイツ浪漫派には気になるHemsterhuisの哲学全集は、何十年も前にOLMSから復刻の案内が出てからも一向出ませんね。










No.1421
由良哲次『総校日本浮世絵類考』
prospero(管理者)(2007-11-13 23:03:47)

これも前のスレッド、とりわけ<a href="http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?humanitas+1343">no. 1343</a>に絡んでのことですが、由良哲次が写楽=北斎説を提示した『総校日本浮世絵類考』についての記述を眼にしたので、ご報告です。中野三敏『写楽』<small>(中公新書)</small>という大変洒脱な新書で、由良氏の『総校日本浮世絵類考』の評価が記されています(p. 34, 71参照)。この著作、写楽の情報源としても重要な斎藤月岑『浮世絵類考』の成立史をさまざまな写本を通じて交合した文献学的考究ということなのですが、どうもこの著作は、私などが漠然と考えていたような、哲学者の余技、好事家の余興といったものではなく、その内容の点では反駁は可能でも、その存在自体はこの分野では無視できないもののようです。

 「前者<small>〔『総校日本浮世絵類考』〕</small>は、月岑本を底本としながら、以下昭和初期までの浮世絵師伝の類を網羅して、1515名に及ぶ項目を立てて諸本の本文を引用列記し、さらに詳細な「浮世絵類考成立史」を付載するという、文字通り老哲学者の力作である」とのこと。この中野氏の『写楽』でも、最終的には中野自身が公表した『江戸方角分』という書物の信憑性を、由良氏が『総校日本浮世絵類考』が頭から否定していることへの反駁が大きな部分を占めています。中野氏の新書全体の記述も面白いのですが、とりあえず由良哲次関連のご報告を。


No.1420
まさしく
prospero(管理者)(2007-11-12 22:13:40)

ちょっと驚くというのか、笑ってしまうというか、私がFrankと一緒に頼んだのも、ヘンリヒのその著作です。(もう一冊は、ザフランスキの『ドイツ・ロマン主義』でした。こちらはこの著者らしい、読み物風の紹介です)。

考えてみると、W. Cramer, H. Krings、そしてD. Henrichといったラインは、私などが最初に「哲学」に触れたときに、強い印象を受けた流派でした。大学に入ったときにすでにある程度ドイツ語が読めたので、助手の方が面白がって、一緒にKringsやApelを読んでもらったのを思い出します。Cramerの記念論文集でヘンリヒが書いたフィヒテ論、ヘンリヒ60歳の記念論文集『主観性の理論』などは、戦後ドイツ哲学の一つの頂点だったのではないかとも思っています。

しかしヘンリヒも大著を書く癖があるので、大部の二冊のヘルダーリン論などは、手に入れたまままだ読むに至っていません。

ブルーメンベルクも、歿後本当によく本が出ますね。これもなかなか追いきれません。少し内容を紹介したいとも思うのですが、年内はほかの用事が目一杯詰まっているので、まず無理そうです。レヴィナスとの平行関係というのも、是非伺ってみたいと思います。


No.1419
ネット上の論文
あがるま(2007-11-12 21:35:56)

>よくこういうものを見つけられますね。

少し前までは上枝美典氏の福岡大学の頁にトマスについての論文が載せられてゐて、とても参考になつたのですが、何時の間にか見られなくなつたやうです。彼がフォダム大学に留学して「若きハイデッガー」を書いてゐる時のヴァン・ビュレンの講義を受けたことなども触れられてゐたのですが。残念です!
さう云へばE.ラスクの論文がウエッブ上に沢山あつたのも、再度出版されるやうになつたのか、コピーしないうちに消えてしまひました。
ネット上の情報と云ふのは本当に寿命の短いものなのですね。



No.1417
Re:Amazonの誘惑
あがるま(2007-11-12 06:51:45)


>FrankのAuswege aus dem deutschen IdealismusもAmazon.deで注文してしまいました。そうすると例によって関連書籍が引っかかってくるので、ついつい一緒に頼んでしまったりします。

一緒に何を買はれましたか?
私はD.ヘンリッヒの『思考と自己存在』を求めました。
80歳になつたヘンリッヒの最近の本は大部で高価な上に、TuebingerStiftでヘーゲルなど三人組に影響を与へた補習教師Dietzなどドイツ観念論の細かい処への言及なので手が出ませんでしたが、ワイマールでの一般講演なので読めるかと思つて。
弟子のフランクも云ふやうに彼がドイツ観念論(史)について(米国のFrederic Beiserなどと並んで)一番良く知つてゐるし、W.Cramer, H.Krings、或いは早世したM.Brelageを嗣ぐ超越論哲学の代表者なのですから貴重です。
序でに初期ヘーゲル研究で名高いA.Peperzakのレヴィナス入門書To the Other,1993.(Purdue UP)も特価が出てゐたので頼みました。
読んでも直に忘れてしまふので、一向腰の定まつた読書が出来ませんが、読み散らかしてゐるうちにブルーメンベルクとレヴィナスの平行関係が少し分つて来たやうな気がします。

寧ろprosperoさんにはブルーメンベルクのC.シュミット論や彼との往復書簡集の方が適してゐるかも知れませんね。






No.1412
翻訳批評の難しさ
prospero(管理者)(2007-11-07 22:01:01)

よくこういうものを見つけられますね。

グラントの翻訳書に対する検討、大変細かく丁寧な作業で、まず訳者は、これほどの熱心な読者に恵まれたことを喜ぶべきでしょう。おそらくこれほど細部にまでわたって読んでくれる読者はそうそういるものではありません。

すべてをじっくり見るだけの余力はありませんが、確かにこれらの指摘の一つ一つは尤もなようですね。ただ、これをもって、「通常の翻訳書にあってはならないレベル」かどうかはにわかには判断できません。こうした部分的な訳の粗さが、全体の理解にとってどれほど致命的かという点から、全体を見渡してみないことには、何とも判断のしようがないからです。誤訳指摘というものは、やり始めると面白く、ついつい語学教師風の理不尽な潔癖さをもって訳者を攻めるということになりがちなので、なおさら配慮が必要でしょう。

翻訳批評というのは、むしろそれをやる側のリスクが大きいようにも思います。それは何も、訳者から怨まれるという理由からではなく、何を大きな誤りとみなすかで、評者側の判断力の質が逆に顕わになってしまうようなところがあるからです。

そういえば、ヴァールブルク文庫を一躍有名にした山口昌男『本の神話学』のくだんの論考も、みすず書房旧版のP・ゲイ『ワイマール文化』の激烈な誤訳指摘でしたし、古くは林達夫『書籍の周囲』での仮借ない誤訳指摘が思い出されます。これらが単に揚げ足取りに終わっていないのは、語訳指摘を元にそこに文化史なり思想史なりの文脈を浮かび上がらせたからでしょう。

それにしても、つねづね英語の翻訳は怖いと思っています。特に英語の場合は、ごく簡単な文章が逆に足を引っ張ったりすることが多いので、油断がなりません。今回のグラントの本の場合も、かなりそういう部分があるようなので、そんな思いをより強くします。その点は、ドイツ語のほうがまだ安心できるような気もします(私自身のそれぞれの言語への馴染み方の違いにすぎないのかも知れませんが)。


No.1411
Re:中世の科学論
宇宙人(2007-11-07 00:39:15)

>『中世における科学の基礎づけ』誤訳リスト

暇ですよね、まったく。


No.1410
Re:中世の科学論
あがるま(2007-11-06 06:49:14)

<最近グラントの『中世における化学の基礎づけ』の翻訳がでましたね。>

余計なことですが、2チャンネルで
福岡大学の上枝美典氏の
ueeda.sakura.ne.jp/memo/fmm-j.html
『中世における科学の基礎づけ』誤訳リスト
と云ふのが紹介されてゐました。

<原書は、近代科学の基礎となる部分が、その前の時代である中世において、どのようにはぐくまれてきたかを、豊富な実例を用いて明快に論じた好著ですが、訳書には、以下に示すような大量の誤訳が含まれています。しかも、よくある専門用語の訳出ミスではなく、ほとんどが英文解釈上の誤りです。>

内容はよく見てゐませんが、ウエッブ上での筆者の論文から見ても誠実なものだと思ひます。

CUP版は25$くらいで買へるのでprosperoさんには関係ないでせうが。


No.1407
百学連環
prospero(管理者)(2007-11-05 22:03:18)

この「驚異」ということに絡み、さらに百科全書という主題で、展覧会<a href="http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/070922/index.html">「百学連環」</a>が、印刷博物館(水道橋)で開催中です。この印刷博物館、凸版印刷のビルの地下のかなりのスペースを占めていて、通常展示もかなり愉しめます。ミュージアム・グッズも見落とせません。この展覧会、時間があったら行ってみたいと思います。ちなみに、この凸版印刷ビル一階の「トッパン・ホール」もなかなか良いホールで、室内楽の意欲的なコンサートを継続的に企画しています。以前、深山尚久さんのヴァイオリンを聴きに行きました。来年はチェロのウィスペルウェイの演奏会があるのですが、気づいたときにはチケット完売でした。


No.1406
Amazonの誘惑
prospero(管理者)(2007-11-04 09:43:42)

HPのほうにも入れましたが、山口昌男に関しては、大塚信一への手紙を編集したものが出ました。もう本当に一昔どころか、一世代前ということになってしまったのですね。『本の神話学』は本当に衝撃的でした。紹介されている文献をせっせと漁るという経験をした著者という点では、由良君美や高山宏も共通していました。いまはどうでしょうね。こちらの感性も鈍っているのかも知れませんが、なかなかそういう著者に出会うことがなくなってきたようにも思います。

『モーウィン』、面白そうですね。すでに版元切れのようですが、Amazonには紹介が出ていましたし、マーケット・プレイスに出品されていたので、注文してしまいました。先日、あがるまさんにご紹介いただいたFrankのAuswege aus dem deutschen IdealismusもAmazon.deで注文してしまいました。そうすると例によって関連書籍が引っかかってくるので、ついつい一緒に頼んでしまったりします。あがるまさんと違い、海外に出る機会も少ない私には便利であると同時に、危険なツールではあります。


No.1405
Re:由良の弟子
あがるま(2007-11-02 02:28:50)

> イェイツのCollected Essaysのほうは、やはりあの三冊で完結なのですね。一冊目が出たときに、神保町の北沢書店で大喜びで手に入れたのを思い出します。その北沢書店もずいぶん変わってしまいましたね。<

山口昌男『本の神話学』で我々がF.イエーツの名前を初めて聞いてから一代以上経つてゐるのですね。
由良君美はG.スタイナーの翻訳で私には記憶に残つてゐます。スタイナーがトルストイに匹敵する大小説家と呼んだJ.C.Powysの小説も(創元文庫の『モーウィン』も含め)買つたまま読んでもゐません。
でも由良の弟子の誰もポウイスの翻訳もしさうにありませんね!
さう云へばヘンリー・ミラーもポウイスの賛美者でした。
彼の”Visions & Revisions”と云ふ評論集やポウイス3兄弟についての本には北澤書店のシールがついてゐました。


No.1401
Re:西田幾多郎の手紙
あがるま(2007-10-14 03:13:21)

>由良が訳したのは、「叡知的世界」ですね。高橋文訳の「真・善・美の統一」というのは、元は何でしょうね>

『叡智的世界』は論文集『一般者の自覚的体系』の第4論文で昭和3年10月に発表され、述語の論理の概略を素描したものですから、最も論理的(でなくてはならないやう)な論文で、これを

<「あの論文だけでは、ほとんど小生の考えが分らず、余程詳しい全体の叙述がなければ、だめと思います。あの論文の訳だけでは、きっとドイツの学者には、訳の分からぬ東洋人の囈としか思われないであろうと思います。>
と云ふのです。結局
この論理を基礎づけるのに、アリストテレスの「主語となつて述語となることがない」と云ふ実体(個物)の定義を逆立ちさせて、それに普遍を述語しただけですから、論理的におかしくなつたやうで気になるのでせう。
それとも同書の最後にある『総論』なら翻訳を許可したのでせうか?

『真善美の合一点』(大正10年9月発表)は論文集『藝術と道徳』の中の一文で、その合一点とは宗教である(而して道徳の最終点に於ける統一は最早藝術ではなくて宗教でなければない)と云ふ論議ですが、結局主張してゐることは同じで、真善美が超越範疇だと云ふ哲学史上の常識を確認したに過ぎません。
それを西欧がノエマ(主語、実体、個物)からイデアを強調するに対しノエシス(述語、一般概念、主体)の立場からでも辿り着けると云ふ話しで、彼の主張する、「述語の論理」やノエシスからの論理が、精々西欧の鋸が押して切るのに対して日本の鋸が引いて切るやうな違ひ、としか見えないと云ふ危惧は誰でも抱くでせう。

>**
>フランクはしばらく前、Selbstgefuehl『自己感情』(2002)という単著を、またまたご贔屓のズーアカンプから出していましたね。手元に届いていましたが、うっかり失念していました。ただ、題材的には、いますぐに読みたいという感じではありません。

最近『ドイツ観念論からの出口(結末?)』に初期ロマン派に関する過去の逸文をまとめたやうですね。彼はズアカンプ書店の編輯顧問でもあるやうです。


No.1400
イタリア新作ヴァイオリン
prospero(管理者)(2007-10-11 21:51:46)

オールドのヴァイオリンでも、ドイツ製は分が悪いというか、お買い得で、80万くらいから手に入るようですが、これは次に処分するときに手放しにくく、その点ではよほどその楽器が気に入った場合は別として、あまりお薦めはできないとのことでした。

さて、「コンテンポラリー」、いわゆる新作ヴァイオリンですが、この分野でもイタリア、とりわけクレモナの優位は圧倒的なようです。モラッシなどの巨匠の元で研鑚を積んで、そこから独立したような人々がコンクールに入賞したり、数々の実績を重ねることで、そのブランド力は維持されているようです。しかしなかには不心得な作家もいて、中国辺りで作られた白木のヴァイオリン(ニスを塗っていない無垢の状態)を調整して、ニスを塗って「イタリア製」のラベルで売りに出すなどということも行われているとか。いくつの店で、Scolari, Morassi, Cassi, Portanti, Montagneといった作家たちの新作を見せてもらってきました。このなかでは、Morassiがかなり格が上のようです。私如きの試奏でも、各楽器の違いはそれなりにわかって、面白いものです。

しかし小さなお店だと、特に試奏室があるわけでもなく、店主はさりげなく席を外しはするものの、結構緊張します。プロの弾き手でも、いろいろなプレイヤーを見てきた楽器店主の前での試奏はそれなりに緊張するとか。しかしそんなことも言っていられないので、いくつかの店で試奏をすることで、段々に慣れて、というか厚顔無恥になってきました。そんなことで、目当ての楽器を徐々に絞り込みつつあります。


No.1398
ヴァイオリン探訪
prospero(管理者)(2007-10-06 18:08:57)

ヴァイオリンを探すのも、しばらく事情があって、そのままになっていましたが、夏ごろから少し動いています。

この前のチャイコフスキー・コンクールでは、神尾真由子さんが、千住真理子さん以来のヴァイオリン部門優勝というニュースで、陰に隠れてしまいましたが、チャイコフスキー・コンクールにもヴァイオリン製作部門があって、<a href="http://strings.miyajimusic.jp/Tchai.php">報告</a>によると、前回は日本人が上位を独占しました。一位、二位、四位を独占という恐るべき実績です。日本人は、この分野でもかなり頑張っているようで、心強い限りです。

さて、肝心のヴァイオリンなのですが、昨年は普通の販売店(YAMAHAとか、山野とか)を訪ねて、量産品を見てきました。この夏は、工房を兼ねている販売店(おおむね小さなお店)のいくつかで、マスター・メイドの作品(基本的に一人の職人さんが最初から最後まで制作したもの)を見せてもらってきました。

まず分かってきたのは、やはりヴァイオリンという楽器はそれなりの相場が決まっているものの、それはかならずしも「音」を評価したものとは限らないということです。ある意味、骨董品や工芸品一般ときわめて近い感覚で評価がなされているようなところがあるようです。要するに、有名な作家で残した数の少ないものは高いという原則です。新しく作られた楽器にも同じことが言えて、いわゆるモダンとコンテンポラリーという区別はそうしたことに関わっているようです。つまり一般的に「モダン」と云われるのは、20世紀に入ってからの制作者で、現在すでに歿している人の作、「コンテンポラリー」は現役で活躍している作家のものというおおまかな区別です。これは、楽器の成立という点から言えば、ほとんど意味のない区別のように思えますが、要するに「モダン」と言われるものは、すでに制作者が歿しているので、作品が増えないというところが大切のようです。その意味では、作者が現存していても、すでに作品作りを辞めてしまっているような場合は、「モダン」扱いをされるようです。

そんなわけで、定評のある「モダン」の作家(とりわけイタリア)の楽器は、基本的には値下がりすることはないということになります。あがるまさんが挙げておられたファニョラなども、1939年歿なので、「モダン」、それもきわめて評価の高い「モダン」ということになりそうです。この辺りは、例えば神田侑晃『ヴァイオリンの見方・選び方 応用編』<small>(レッスンの友社)</small>などが一覧表と評価などを載せています。しかしこうなると、価格的には500万からというとんでもないことになりそうです。この辺りは、相場が相当しっかりしていて、基本的に掘り出し物はないと考えたほうが良さそうです。素人がオークションで落とすなどは危険この上ないことでしょう。

段々分かってきたのは、ヴァイオリンの相場というものは、稀覯書とも似たところがあるということです。価格の評価が上に書いたようなシステムに乗っている以上、高い楽器がかならずしも音が良いとは限らないわけで、そこにはある種の歴史的価値が大幅に加算されるということです。モダン・エディションのほうが、テクスト校訂としては優れているが、それでも例えば誤植だらけの初版のほうが圧倒的に高価だというのと似ているかも知れません。ちなみに、秋に<a href="http://park10.wakwak.com/~jsima/fairinfo/fair2007/fairinfojp.html">弦楽器フェア</a>が開催されるのも、古書市と同じで面白く思います。ちなみに開催場所も、神保町にも近い、科学技術館です。

いずれにしても、私に関係のあるのは、やはり「コンテンポラリー」の作品ということになります。ということで、次回はこの辺りのお話を。

No.1397
『驚異と自然の秩序』
prospero(管理者)(2007-09-28 20:57:20)

「新着図書」のコーナーに記しましたが、『驚異と自然の秩序』を手に入れました。図版入り500頁の大冊で、ひさしぶりに胸ときめく書物です。本当によいものを教えていただき、ありがとうございました。


No.1396
由良の弟子
prospero(管理者)(2007-09-26 21:07:08)

前のスレッドの続きの話題とも言えますが、由良君美の系譜に属する最大の人物といえば高山宏でしょう。その「われらが高山宏」(?)が最近また活動を始めつつあるようです。『超人 高山宏の作り方』<small>(NTT出版)</small>から、<a href="http://mgw.hatena.ne.jp/?url=http%3a%2f%2fbooklog%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2ftakayama%2f&noimage=0&split=1">書評サイト</a>など、このところ動きが活発になってきました。楽しみではあります。『超人 高山宏』などでは、ご本人はご自身を「学魔」と称していますが、もはや「芸人」に徹したそのパフォーマンスが見事といえば見事<small>(けっして好ましくはないけれど)</small>。10年ほど前に、生前追悼文集のような『ブックカーニバル』<small>(自由國民社)</small>を出していましたが、今回のは自己暴露本のようなもの<small>(自爆本?)</small>。歿後しばらく経ってからようやく弟子の一人によってその学のありようが語られ始めた由良君美などとは、だいぶ芸風が違うようです<small>(ましてや、外国語での発表でも勝負しようとしたその父君とも)</small>。ちなみに、高山氏の書評サイトでも、ヴィント『シンボルの修辞学』が取り上げられていました。

>宇宙人さま
 イェイツのCollected Essaysのほうは、やはりあの三冊で完結なのですね。一冊目が出たときに、神保町の北沢書店で大喜びで手に入れたのを思い出します。その北沢書店もずいぶん変わってしまいましたね。


No.1395
Re:イエィツのことなど
宇宙人(2007-09-21 11:50:13)

>この論文選集は完結したのでしょうか

Routledge から十冊の選集として Yates の著作がまとめられて出版されており、その最後の三冊が、いわゆる Collected Works に当たるのではないかと思います。

> Thorndike

あまりに大部ですし、逆に抄訳では削除されてしまうような細かい記述にこそ、彼の著作の真価があるように思われます。

No.1394
ソーンダイク
prospero(管理者)(2007-09-20 20:32:20)

前の項目に入れ忘れました。やはり錬金術なども絡めて中世科学史ということでは、<font face="times new roman">Thorndike, <i>History of Magic and Experimental Science</i>の邦訳<small>(せめて抄訳でも)</small></font>欲しいですね。

ちょっとした追加でした。


No.1393
イエィツのことなど
prospero(管理者)(2007-09-20 20:28:19)

良いものを教えていただきました。Wonders and the Order of NatureはPaper Backが出ているのですね。早速注文を出しました。それにしてもAmazonは助かります。各国のAmazonのUsed価格までざっと見て、送料とのバランスで最も廉価なものを注文することができますから。以前は主にABEを使っていましたが、最近のEuro高や送料の高騰を考えると、結局は国内のAmazonが一番安いこともしばしばです。

仰るように、Yates の Giordano Bruno and the Hermetic Tradition がいつまで経っても出ませんね。いろいろな訳者や出版社の名前が取り沙汰されていて、時期に出るような話を聞くこともありますが、それも二転三転しているような様子。例えば、その代わりにCollected Essaysの第一巻Lullu & Brunoでも良いですよね<small>(『ヴァールブルク年報』に発表された論文が集められれている。ちなみにこの論文選集は完結したのでしょうか)</small>。イエィツの場合、邦訳も晶文社、平凡社、水声社、東海大学出版会とばらばらで、見通しが悪いのもいけません。どこかで、「コレクション」のようなかたちでまとめてくれるとだいぶインパクトがあるのではないかと思います。

David Lindberg の研究書は、私も以前、必要があって入手したことがあります<small>(『アル・キンディからケプラー』のほう)</small>。ダンテ辺りの光のイメージというのが少し気になって、<font face="times new roman">S. A. Gilson, <i>Medieval Optics and Theories of Light in the Works of Dante</i></font>も入手してみました<small>(もちろん、著者はGilsonはGilsonでも、あの有名なE. ジルソンではありません)</small>。

ドロンケの編集した書物も面白そうです。いろいろ有益な情報をありがとうございます。またいろいろお教えくださいませ。


No.1392
Re:中世の科学論
宇宙人(2007-09-19 15:38:41)

>『中世における科学の基礎づけ』

現在の中世科学史の研究状況は大変進んでおり、グラントの本は「古典」的な著作のうちの one of them といった位置づけが今は妥当だと思います。比較的最近の中世科学史の成果を総覧するには、Park and Daston, Wonders and the Order of Nature, 1150-1750 (New York: Zone Books, 1998) の前半がご参考になると思います。

>中世後期の自然論が、コペルニクス革命を「準備する」予備的なものとみなされたいた状況は確実に変わりつつあるように思います。

仰る通りです。ただ、(きちんと公刊されている)一次文献の量や、その議論の多彩さという点もあり、どうしても初期近代をどう見るか、そしてそれに先立つものとして中世の議論をどう位置づけるか、という視点は避けることができないのかもしれません。その点にかんしても Park and Daston は(少なくとも現在の研究水準での)とても良い見通しを与えていると思います。ただし、この四半世紀の議論に決定的な影響を与えたと思われる Yates の Giordano Bruno and the Hermetic Tradition の邦訳が未だ為されていないのが、(私が言うまでもないと思いますが)現状をより見えにくくしているのかもしれません。

>例えば12世紀のシャルトル学派の自然学や、古代から近代まで意外なほど連続性のある「光学」の流れなど。

「光学」の系譜にかんしては、David Lindberg が開拓したので、かなり分かっている部分が多いと思われます。この分野にかんしては本邦への紹介が致命的に遅れているということに過ぎません(Theories of Vision from al-Kindi to Kepler や Roger Bacon and the Origins of Perspectiva in the Middle Ages など)。ただし、Roger Bacon を近代的な意味での経験的科学者だと考えるような見方に対しては、近年再考が為されています。12 世紀の自然学ということにかんしてですが、アリストテレスとアヴェロエスの本格的な受容という点で、13 世紀以後のスコラ的自然哲学を、12 世紀までのプラトン主義的な自然哲学からいったん分けて考えるのが、現在でも主流なのではないかと思います。ただし、現在では占星術、錬金術、そして医学の受容などを、より重要な問題として考える傾向があり、その点で単なるプラトン的、アリストテレス的という区分は意味がないとも言えます。12 世紀の自然学にかんしては、ある程度標準的な総覧という意味では Peter Dronke (ed.), A History of Twelfth-Century Western Philosophy (Cambridge: Cambridge UP, 1988) が。より個別の事例にかんしては、近年の Charles Burnett や Thomas Ricklin の諸論考が有益です。失礼しました。



No.1389
西田幾多郎の手紙
prospero(管理者)(2007-09-18 13:43:21)

由良が訳したのは、「叡知的世界」ですね。書簡を見ると、その翻訳の話を聞いた最初の頃の西田は、「私如きものの考えを独語にて紹介せられること、過分の光栄と存じます」(1930/12/15)、あるいは「あの論文をそういう風にして訳し印刷に付せられることは、君の自由にまかせてよい(12/19)と言いながら、一月も経たない内に、にわかに雲行きが変わっています。「あの論文だけでは、ほとんど小生の考えが分らず、余程詳しい全体の叙述がなければ、だめと思います。あの論文の訳だけでは、きっとドイツの学者には、訳の分からぬ東洋人の囈としか思われないであろうと思います。彼らには、たんに東洋人の顔色はいやに黄色いとか、下駄や傘は妙なものだというような好奇心を満たすに過ぎないでしょう。……君が折角苦心して訳せられたものを打ち壊すのは、情においてまことに忍びないが、どうか、あれを出版することは断然やめてもらうようにはゆかないか」(12/23)と変わっていっています。

これを見ると、由良の訳を承認しなかったのは、訳文の問題よりも、論文の選択というところに引っかかっていたようです。確かに「叡知的世界」のようなものだけを、いきなり出されても、理解しづらいというのは、西田の考えた通りだと思います。お手元におもちの高橋文訳の「真・善・美の統一」というのは、元は何でしょうね。そう言えば、浅見洋という人は、西田の講義録を下記残していて、小さな雑誌に発表していたようです。

**
フランクはしばらく前、Selbstgefuehl『自己感情』(2002)という単著を、またまたご贔屓のズーアカンプから出していましたね。手元に届いていましたが、うっかり失念していました。ただ、題材的には、いますぐに読みたいという感じではありません。

No.1388
中世の科学論
prospero(管理者)(2007-09-18 13:15:48)

そうですか、ご関心の中心は中世の科学論ですか。最近グラントの『中世における化学の基礎づけ』の翻訳<small>(知泉書館)</small>がでましたね。以前のみすず書房から出ていた『中世の自然科学』とは別物で、著者自身が大幅に増補したものになっています。

中世の科学論は、それこそカンギレーム辺りの影響もあって、だいぶ見方が変わってきたのではありませんか。特に、中世後期の自然論が、コペルニクス革命を「準備する」予備的なものとみなされたいた状況は確実に変わりつつあるように思います。ただ、グラントのものも、13世紀のアリストテレス受容からコペルニクス革命という流れを追ったものなので、中世の自然論そのものと言えるのかどうか。例えば12世紀のシャルトル学派の自然学や、古代から近代まで意外なほど連続性のある「光学」の流れなど、面白そうな主題がいろいろありますね。特に「光学」などは、ボナヴェントゥラの光の形而上学から、ロジャー・ベーコンの光学、さらにデカルトの屈折光学など、ラインとしては面白そうに思えるのですが。


No.1386
Re:エピステモロジー
宇宙人(2007-09-17 23:55:49)

>新カント学派の場合は、科学基礎論を謳いながらも、科学における「実証性」をある種の構成された意味として考えるために、最終的にカント的な統覚の着想の範囲内にあります。これに対して、フランス的エピステモロジーは、「実証性」ということを梃子にして、むしろ統覚する主体という考え方そのものを転換していこうとしているように思います。

なるほど。大変丁寧な御回答感謝いたします。私は現在中世の自然哲学を勉強しているものですが、カッシーラー(の『認識問題』のような問題設定)と、以後の科学論のようなものとの断絶にも多少興味があり、質問させていただきました。ご回答いただき、ありがとうございました。以後も質問させていただければと存じます。


No.1385
エピステモロジー
prospero(管理者)(2007-09-16 17:28:57)

>宇宙人(!)さま

仰るところの「概念の哲学」というのは、いわゆる「エピステモロジー」ということでしょうか。<br>
フーコーの晩年の論文「生命 ―― 経験と科学」<small>(『ミシェル・フーコー思考集成X』筑摩書房)</small>がこの辺りの経緯について語っていますね。フーコーはここで、20世紀後半の哲学の潮流を二つに分けています。「経験、意味、主体の哲学」と、「知、合理性、概念の哲学」という二つです。前者に属するものとして、「サルトルとメルロ=ポンティ」、後者の系譜として、「カヴァイエス、バシュラール、カンギレム」に触れています。この後者がいわゆる「エピステモロジー」の流れになるでしょう。この整理でいくと、カッシーラーなどの新カント派は、むしろカント的な「経験、意味、主体の哲学」という前者の系列に入ることになります。

つまり、同じように認識論・科学論といっても、ドイツ的な新カント学派とフランス的なエピステモロジー(概念の哲学)のあいだには、少し関心のずれがありそうなのです。それはおそらく「実証性」というものをどう考えるかという点に由来するような気がします。新カント学派の場合は、科学基礎論を謳いながらも、科学における「実証性」をある種の構成された意味として考えるために、最終的にカント的な統覚の着想の範囲内にあります。これに対して、フランス的エピステモロジーは、「実証性」ということを梃子にして、むしろ統覚する主体という考え方そのものを転換していこうとしているように思います。だからこそ、その後フーコーなどが、「考古学」や「系譜学」という着想で、主体そのものの形成を問題にすることができたのだろうと思います。

差し当たり、こんな整理はいかがでしょうか。「宇宙人」さんのご関心の方向などもお知らせいただければと思います。


No.1384
ご指摘、ありがとうございます
prospero(管理者)(2007-09-15 12:01:14)

コンピュータを替えてからというもの、HPの弄り方がわからなくなって、しばらく放置してありました。少し時間ができたので、いろいろ試した結果、エディターでHTMLを直書きするという最も原始的なやり方に戻りました。面倒なので、あまり細かい工夫はできませんが、過去ログなどもとりあえず救い出してアップしつつあります(そろそろ終わりです)。その他、音楽関係の頁を増設してみました。今後どれほどの更新ができるか分かりませんが、とりあえず方向だけは作っておいたような次第です。

「新着図書」のリンクの件、ご指摘ありがとうございます。気がつかずにいました。これでは、いくらページそのものを更新しても無駄だったわけですね。直しておきました。その他、不都合などありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


No.1383
Re:少々弄りました
LMN(2007-09-15 00:54:16)

ホームページのほうにいくつか更新があったので嬉しく思いました。
ところで新着図書ですが、リンクページが2006年のままになっています。調整していただければ幸いです。


No.1382
Re:ロマン派など(承前)
宇宙人(2007-09-14 16:46:53)

>カッシーラーなどが「象徴形式」を語る際には、『純粋理性批判』の認識論の拡張のように見えながら、「象徴を操る人間」という議論にまで拡大するときには、「象徴」に理論と実践の媒介という役割を担わせるているのではないでしょうか。

無知ながら失礼します。フランスで言われる「概念の哲学」というのは、このカッシーラー的なモチーフの展開といえるのではないでしょうか。

No.1381
西田幾多郎の翻訳
あがるま(2007-09-14 01:52:02)

ミッシュの大著もお持ちのやうですね。
ベンヤミンのロマン派芸術論も読んでゐないので話しを続けられないのですが、
M.フランクの論点と重なつてゐたやうな気がします。

四方田犬彦の『先生と私』を店頭で見てみました。
由良哲次は西田幾多郎の論文の翻訳をしたが、西田の許可が出なかつたさうですね。これはこの欄で既に知つてゐたのですが、
手許に、西田の”Die Einheit des Wahren,des Schoenen und des Guten“ のコピーがあります(Journal of the Sendai Cultural Society,pp.116-166) 、高橋文(たかはし・ふみ)訳Oskar Benl校閲です。
何時頃のものか知りませんが、由良と同じ頃でせう。日本発行された雑誌だつたからか、翻訳者が西田の姪であり、協力者が『枕草子』などの翻訳で有名な日本学者なので西田も許可したのでせうか?
高橋文については金沢の浅見洋と云ふ方が本を出されてゐるやうですが、読んだことがありません、私の知つてゐる限りでは東北(帝国)大学で哲学を学び、その機関誌『文化』にスピノザについての(卒業?)論文を発表してゐるやうです。フライブルク大学に留学したが、やがて修道院に入り、現地で亡くなつたさうです。




No.1380
ロマン派など(承前)
prospero(管理者)(2007-09-09 11:32:14)

<a href="http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?humanitas+1378">前のスレッド1378</a>の続きなのですが、階層が深くなりすぎたので、便宜上スレッドを改めます。

カントの着想は、直観と悟性的認識というかなり性格の違った能力を、人間の能力として一括して精査しようとするところから、ああいったかたちになったのではないかと思います。「直観」という場合、アリストテレスでは最低次の認識であると同時に、最終的には神的な認識も直観的な性格をもつとされていたわけで、その点でもカントがやろうとしたのは、それを「判断」という能力で繋ぐという方向でしょう。図式論というのは、言葉だけ聴くと非常にスタティックに聞こえますが、これこそが認識という「行為」を表すのですよね。「実定的なキリスト教の信仰との妥協」というのは、『実践理性批判』での理念の問題などが含まれるのでしょうか。そうだとすると、カントの場合は、それを可能な限り「実定的」な性格をそこから拭い去ろうと努力はしているような気はします<small>(上手くいっているかは兎も角)</small>。

ロマン派は仰るように、フィヒテの前期に大きく感化されていますが、その場合でも、自我の絶対性の替わりに反省の無限性を強調するなど、方向の微妙な転換をやっているように思います。シュレーゲルなどを主題に、そうした議論をやったのがベンヤミンのロマン派論でしょう。

ミッシュの本がいま見つかりません。まだ本がいろいろと片づいていなくて、いま少々時間ができたのを機会に、少しずつ段ボールを開けたり、配列を考えたりごそごそやっているところです。いずれミッシュにも再開できるかもしれません。そうそう、ミッシュには、ディルタイの影響を大きく受けた大きな伝記研究がありましたね。

No.1379
少々弄りました
prospero(管理者)(2007-09-08 17:46:09)

かなり長いこと放ってあったので、過去ログなども溜って気になっていました。今表示されている掲示板でも、そろそろ最後のスレッドが消去されかかっているので、これは<a href="http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/scriptorium.html">Scriptorium</a>の中に、「これまでの議論」というかたちで収納させていただきました。またそれ以外の<a href="http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/gewesen15.html">過去ログ</a>も少々アップしました。お書きくださった方々、ご了承ください。

書式をこれまでと合わせようとしてうまくいかないまま放置していたので、今回は掲示板のソースをそのまま貼り付けるという簡単なかたちを取らせていただきます。これなら何とか、先が繋げられそうです。ということで、とりあえずご報告です。

何か問題点がありましたら、ご指摘ください。細部の不備は仕方ありませんが、致命的な問題がなければ、当座はこんなかたちで過去ログのアップを続けてみようかと思います。

No.1378
Re:『判断力批判』の展開
あがるま(2007-09-05 18:36:05)

>ドイツロマン派などは『判断力批判』に定位しているということにならないでしょうか。<

M.フランクやW.Hogrebeを読んでみるとその辺が分るのかもしれませんが、ドイツロマン派(ヘルダーリンはその枠外になるのでせうか)の哲学と云ふのもよく分らないのです。
カントよりもフィヒテの影響が強いのだと思ひますが。

それよりもカントが構想力(想像力)や目的論(実践理性もさうです)を理性批判の中に持ち込むことの意味(聯関)が良く分らないのです。
純理批判は古代中世の(つまりスコラ哲学の)形而上学の人間理性の限界と云ふ前提から出発して、そこに目的論や実体論が(理性の誤謬推理から)接合されるのを拒否したのだとすると、それ以後は理論と実践を媒介するのではなくて、その当時の通念(実定的なキリスト教の信仰)との妥協にしか思へないのですが。
超越論的演繹もさうですが、図式論(これは象徴論だつたのでせうか?)と云ふ曖昧で良く分らないものが既に実践上での妥協であつたやうに思へます − 『可能性の条件』と云ふ思ひつきは傑作ですが、飽くまで懐疑論に踏み留まるべきだつたのではないかと。

>ちなみに、ミッシュのドイツ語はかなり厄介ではありませんか。ちょっと難渋した記憶だけが残っています。<

易しさうだと読み始めたのですが、日本語にしようとすると、短い文章が入り組み、うまく組み立てられない処がありますが、読む分にはハイデガーより遥かに明晰だと思ひます。名評論と云はれる所以でせう。

>『アリアドネ』は、R・シュトラウスのなかでは、『サロメ』や『エレクトラ』のように気疲れせずに聴けますね。レヴァイン盤も結構良かったと思います。<
ホフマンスタールとの共作で一番洗練されたものだとか、でも流行りのメタ小説のやうで余り気持ちは良くないですね。
このDVDは(TV用録画で)録音に豊かさがなくGristの折角の熱演も疲れさせます。
一緒に買つて来たザグロセクとストゥットガルト歌劇場での『指輪』は、今までこの劇場の現代風演出が嫌でためらつてゐたのですが、録音も指揮も良いし何よりも画面が明るいので愉しめます。 No.1377
『判断力批判』の展開
prospero(管理者)(2007-09-05 15:56:08)

カントから始まるラインのなかでも、例えばフィヒテの前期などは、『実践理性批判』での自我の能動性を中心に議論を組み立てるのに対して、ドイツロマン派などは『判断力批判』に定位しているということにならないでしょうか。『判断力批判』を延長する方向というのは、理論と実践の接合を問題にするなかで、「目的論」という一種の媒介の論理を展開するという線だと思います。カッシーラーなどが「象徴形式」を語る際には、『純粋理性批判』の認識論の拡張のように見えながら、「象徴を操る人間」という議論にまで拡大するときには、「象徴」に理論と実践の媒介という役割を担わせるているのではないでしょうか。理論がすでに何らかの象徴に媒介されているということは、理論が実践的な関与によってそのつど変貌する可能性を認めることになるからです。その点では、理論・実践両面にわたる主観的な構想力の位置づけを強化することになると思います。この方向はブルーメンベルクのメタファー論でも共有されているのではないかと思います。

それに対してハイデガーのダヴォス討論での議論は、そうした主観の能動性に逆らって、むしろ「被投性」という有限性の側面を強調するものだと思います。有限的直観の重視というのもそうした流れから来るものでしょう。

>今読むとよく分らない『存在と時間』が(誤読だと云はれながらも)何故短時間のうちに九鬼周造、和辻哲郎、高橋里美などの日本人に理解されたのか不思議です。彼らの能力が優れてゐたのか、それとも時代の流れが自然に生んだ産物だつたのでせうか?

本当にこの時代の理解の勘所はかなり正確だと思います。新カント派辺りから、日本の哲学界はドイツとほとんどリアルタイムで進行している感があります。ただ、彼らに共通しているのは(高橋里美は少し違うかもしれませんが)、解釈学的な発想に親近感を持って、そこからハイデガーを理解するという路線でしょう。これはハイデガーのなかでのカント的要素の継承という側面をもつ点なので、うまく消化できたのかもしれません。ですから彼らも、30年代以降のハイデガーにはついていけないところがあって、三木清なども、『芸術作品の根源』を評して、時代が政治色を帯びると哲学が芸術に逃げ込むといったような半ば悪口を書いていたような覚えがあります。

ちなみに、ミッシュのドイツ語はかなり厄介ではありませんか。ちょっと難渋した記憶だけが残っています。

**

『アリアドネ』は、R・シュトラウスのなかでは、『サロメ』や『エレクトラ』のように気疲れせずに聴けますね。レヴァイン盤も結構良かったと思います。

No.1376
Re:カッシーラーとブルーメンベルク
あがるま(2007-09-04 05:16:01)

仰るやうに『判断力批判』を軸に哲学を組み立てるとどう云ふことになるのか、良く分りませんが、ブルーメンベルクのやうにメタファーを多用すると云ふことになるのでせうか?

今読むとよく分らない『存在と時間』が(誤読だと云はれながらも)何故短時間のうちに九鬼周造、和辻哲郎、高橋里美などの日本人に理解されたのか不思議です。彼らの能力が優れてゐたのか、それとも時代の流れが自然に生んだ産物だつたのでせうか?
目移りばかりして何だか定位が出来なくなり、少しG.ミッシュの『生の哲学と現象学』を読んで見ると、彼がハイデッガーより明確に(?)彼の云ふ(べき)ことを把握してゐのに驚かされます。真面目にやるには今でも多分この本から出発しなくてはいけないのでせう。

カッシーラには何か媒介項が必要なやうに思へます。それが最近復活したR.ヘニヒスァルトなのかどうかは分りませんが。

Prosperoさんの影響で、R.シュトラウスの『ナクソスのアリアドネ』K.ベーム指揮1965年ザルツブルク音楽祭(モノラル白黒)のDVDを買つて来ました。Reri Gristのゼルビネッタにやられました。

四方田犬彦の本は何だか面白さうですね。でも本当にそんな時代があつたのでせうか?



No.1375
カッシーラーとブルーメンベルク
prospero(管理者)(2007-09-03 22:40:30)

管理者がすっかりご無沙汰になってしまいました。少し話を戻しつつ、話題に乗りたいと思います。

>あがるまさん

由良哲次の独語の学位論文をご覧になったとのこと。羨ましい。Skopologieが一種の目的論の復興だとするなら、やはりドイツ観念論やロマン派が「判断力」に籠めた思い入れが、新カント学派の中で現代的な装いを獲得した経緯をトレースしているようですね。カッシーラーのシンボル形式、あるいは由良の歴史論も、第三批判の創造的発展という側面をもっているのに、面白いことにハイデガーのカント解釈では、第三批判がほとんど問題にされていません。むしろ、彼が強調するのは、『存在と時間』刊行と同年の講義『<純粋理性批判>の現象学的解釈』でも、認識の「直観」的性格なのですよね。もちろん最終的にそれを図式論に解消していくのですが、カントの「本源的直観」と区別される「派生的直観」という認識の有限性に固執し、さらに「直観」というあり方の内に、「現象学」の寄りどころを確保するという戦略のようです。この辺の問題の絡み合いはかなり複雑なような気がします。

igさんが仰るように、「このあたりのことを一大精神史的なスケールで」描くというのは、きわめて興味深いものだと思いますが、それほど本格的な論究を見た覚えがありません。むしろ哲学の専門家でない人が好んで言及する題材になっているというのは勿体ないと思います。

>igさん

触れておられたM. Friedmann, Carnap, Cassirer, Heideggerは、探したら迂闊にも私のところにもありました。そんなに大きな書物ではないので、ざっと眺めてみようかと思います。

カッシーラーの中途半端な位置(というか、うまく整理のつかない多面性)は、もう少し腑分けして面白く語られればと思っています。最近のシリーズ『哲学の歴史』(中央公論社)でも、新カント派を含む19世紀の巻に、カッシーラーの項目が入りましたが、これもさほど大文脈が分かるようなものではありませんでした。ディディ=ユベルマンのヴァールブルク論に匹敵するようなカッシーラー論が欲しいところです。

それと同時に、やはりブルーメンベルクがあいかわらず人気がありませんね。哲学に限らず、総じてほとんど言及されているのを知りません。ブルーメンベルクのクーノー・フィッシャー賞の受賞記念演説でのカッシーラー讚を含め、何となくメンタリティの近さを感じさせます。ただ、ブルーメンベルクはあまりにも古色蒼然と見えるのでしょうね。概念の作り方などの点で、ブルーメンベルクは不器用とも言えますし。もう少し端的に内容を示すような(意表を衝きながらも、気を引くような)主題の立て方をしてもらえたらという思いもあります。

あがるまさんは、イタリアにお出かけでしたか。かなり活動的なご様子ですね。またお話、伺わせてください。

**

ちなみに、四方田氏の由良君美論は、単行本になったようですね。昨日、BSの書評番組で取り上げられていました。もちろん見当違いな感想ばかりで、何の参考にもなりませんでしたが。


No.1374
折角買つたブルーメンベルクの
あがるま(2007-08-31 18:33:28)

新著も(忘れないやうに翻訳をしながら読み始めたのですが)これから面白くありさうな百ページまで行かないうにち放り投げてしまひました。後期フッセルについての知識が必要なやうです。

例の由良哲次の学位論文(1931年)を友達に頼んで送つて貰ひました。普通の日本人には書けないやうな立派な独文です。矢張りダヴォスでのカッシラーの立場、第二、第三批判の目的論的なSymbolism (Typik)に沿つたもので、カントが出発点であり目的点ではないとした − 第一批判の理論的認識には知的直観がないので已むを得ず使つた − ハイデッガーの図式論の乱用は無理だ云ふことがあり、『理解されたものと対象との一致』と云ふフィヒテの洞察に基づいてゐるやうです。

問題のSpopologieの節(S.99-108)を見ますと、プラトン(何処に出て来るのか出典が出てゐません)の意味での、一つの目的ειs σκοποsの概念、とありZieleinheitと云ひ替へられてゐますので「蓋しプラトーが、直観する素料に対して、すべてこれを目的々に生かし、意味的統一をもつものとして認識することを言へる用法に従つたものである。」(由良哲次『歴史哲学研究』目黒書店、昭和12年、三九八頁)そのままです。

彼はそれをそれまで述べ来たつた『意志』の観点から道徳的な意味ではなく歴史的な根本機能として使ひます ― それは『善のイデアの最終的優先に関しての純粋な運動、純粋意識の原統一力Ureinheitskraft』(102頁)であり、次頁では『時間自体を作る意志』と云ひ替へられてゐます。『根源的な意志の法則のみが凡ての直観と明証を保障する』(105)さうで、それをカッシーラ風にSymbol, Sinngebildeなどと云ひ変へても、もう一人の指導教官W.Sternに従つて性格学(107)と云ひ、歴史の中で人間だけが核であり不変なものであると言つても、結局歴史に定位することになればハイデッガーの歴史的決意主義と変はらなくなりさうです。

根本的には、精神科学(理解、sollen、自由)と自然科学(説明, muessen,因果性)の方法論的対比など当時の新カント派から一歩も抜け出さないのですが、大乗仏教と結びつけることにより新機軸を出したつもりかも知れません。しかしこれも中断してイタリアに行きました。

MEL,Gulliver,Edisonなどの書店で特価書籍を扱つてゐるのと、古典叢書が沢山出てゐるのに改めて驚きました。MondadoriではPleiadeと同型版の普及版が新刊でも12.90ユーロで出てゐて、それが10ユーロ以下ですし、
ギリシアやローマも古典対訳も同じです(これは赤の表紙)。
以前Einaudiから出てゐたホメロスなどは定価が7.90ユーロですが4ユーロ以下で売られてゐました。
Bonpianiで出てゐのは、英・仏・独語、チェコ語(パトチカ)アラビア語の対訳もあり、プロチノス、プロクロス、カルキディウス、スアレス、アヴィケンナやギリシア教父など多彩です。
今まではペーパー・バックのBUR(「Biblioteca Universale Rozzoli)しか買つたことがなかつたのですが、ハードカヴァーは重いのですが少し荷物に入れました。





No.1372
Re:1929年冬のダヴォス
ig(2007-06-01 14:56:33)

>>ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」(…)次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

ここ、補足しておきます。<BR>
<blockquote>
C「ハイデガーは新カント主義という名のもとに何を理解しているのか。ハイデガーが立ち向かった相手は誰なのか。思うに、新カント派という概念ほど明瞭に記述されることが少なかった概念は他には殆どない。(……)ひとは「新カント主義」という概念を実体的にではなく、機能的に規定しないければならない。重要なのは、独断的な教説体系としての哲学ではなく、問題定立の方向である。」<br>
H「まず名前を挙げよということであれば、コーヘン、ヴィンデルバント、リッケルト、エルトマン、リールの名を挙げよう。(……)フッサールでさえ、1900年から1910年の間は、或る意味では新カント主義の手の中に落ちてしまった。<br>私が新カント主義ということで理解しているのは、『純粋理性批判』の次のような把握、すなわち「超越論的弁証論」に至る純粋理性の部門を自然科学との関連において認識の理論として説明するような把握である。」(岩尾龍太郎訳『ダヴォス討論』15-16頁)
</blockquote>
フーコーは『啓蒙主義の哲学』の書評にあたって、上のカッシーラーの記述に敬意を払う形で、機能主義的に新カント派を捉えて見せた、というのは読み込みすぎでしょうか。


>現象学的な存在論が伝統的な新カント派的な認識論に勝利を納めたものと思つてゐたのですが、
>反対にカッシーラーのハイデッガー批判が的外れではなかつたことが、その後の政治状況の推移や、Hが自らのカントの暴力的な解釈を認め、転回をしたので証明されたことになるのでせうか。

カントの本当に深いところを私がつかみきれていないのと、ボルノーとリッターの記録は要約であり完全な再現でないと言われているので、私には容易に判断が下せないとしか言えません。でも、論争という場がその人の主張の本質的なものを露呈するものだとすれば、ダヴォスの討論は、表面的な勝ち負けの問題ではなくて、より深く掘るべき事象、解釈を要請する事象であるといえましょう。周囲の若い世代のその後の思想方向も含めて、興味深いものです。ハイデッガーを研究している人は日本にも多いですが、このあたりのことを一大精神史的なスケールで描いている人はいるのでしょうか?

ちなみに、パノフスキーの『イコノロジー研究』の「序論」前半部分の原型となった、「造形芸術作品の記述と内容解釈の問題」は、雑誌『ロゴス』に掲載されたものですが、ハイデッガーによる暴力的なカント解釈への批判が彼の解釈論、とりわけ解釈の矯正法についての議論のきっかけになっています。ここにもダヴォスの波紋が及んでいるのです(英語版ではなくなりましたが)。


>(彼は討論よりスキー目的で来たのでせうか)

両者が対峙して写っている写真の背景には、スキー板が並べてありますね。
カッシーラーはスキーはしなかったようですが(熱を出していたということもありますが、そもそもスポーツする人ではないみたい)。

>現場には双方の信奉者が従つてゐて、C側にはJ.リッター、K.グリュンダー、E.レヴィナスが、HにはO.F.ボルノウやE.フィンク、K.リーツラー(彼はユダヤ人ですが、講師として参加してゐた)がゐた。(後にアリストテレスの権威になつた、フランスのP.オーバンクはどちらの側だつたのでせうか?)
>当時の政治的状況によるユダヤとゲルマンの対決の様相も呈してゐたやうですし(レヴィナスが思想から云へばH側のやうなのにC側と見做されたのはユダヤ人だからでせうか?)

ハンブルクにいた由良哲次も、リッターの報告を参考にまとめていますね。P・オーバンクが書き残したものがあるようですが、見たことがありません。レヴィナスの件、彼は現象学の側だけれども、たしか、学生たちがおふざけで再現劇をしたときに、レヴィナスがカッシーラーの役をさせられた、という話ではないでしょうか。どこで聞いた話か忘れましたが。


>フランクフルトで病床のF.ローゼンツワイクもそれについて書いてゐるさうですから。

「取り替えられた戦線」の話でしょうか。ローゼンツヴァイクは、ハイデッガーこそがコーエンの継承者であるとする逆説的主張をしていたと思います。むかし『現代思想』か何かに訳が出ていました。

もう一人、注目すべき証人にカルナップがいて、三者のかかわりについては、フリードマン『道の分かれ目』(Friedman:A Parting of the Ways, Carnap, Cassirer and Heidegger)という本が明瞭な視界を与えてくれそうです(これさえ読了せずにほうりだしてありますが)。


No.1371
パウル・カッシーラー
ig(2007-05-30 05:30:17)

>従兄弟と云ふのはBruno Cassirerで出版をしてゐた人ですか?

エルンストにもブルーノにも従兄弟に当たる、パウルのほうです。カッシーラー画廊を構え、印象主義以降のフランス絵画を紹介したり、分離派運動を推進してベルリンのアートシーンの牽引者となっていました。

<blockquote>
「『パンの会』のことは誰でも知っていると思うがあの名は伯林でマイヤー・グレーフェがやって居た雑誌の名に因んで太田君がつけたものである。マイヤー・グレーフェの雑誌は文学・美術・政治等の綜合評論雑誌で表紙にはシュトゥックの描いた大きな牧神の顔がついて居た。美術史家のヴェルフリンなども其主要な寄稿家の一人であった。夫を出版して居たパウル・カッシラーは有名な画商で僕もよく知って居たが後に細君の恋愛事件の為に気の毒な死に方をして了った。ブルノー・カッシラーの弟である。之は余談だ。」(児島喜久雄「太田君の雑然たる思い出」『ショパンの肖像』255頁)
</blockquote>


ベルリンのブランデンブルク門の傍、画家マックス・リーバーマンのアトリエ跡が整備されて小美術館になっています。そこで以前、ベルリンの分離派運動を推進したパウルの諸活動が紹介されていました。俳優がパウルを演じたドラマ仕立てのビデオが映じられていました。
<a href="http://www.stiftung.brandenburgertor.de/kultur/ausstellungen/cassirer/index.html">http://www.stiftung.brandenburgertor.de/kultur/ausstellungen/cassirer/index.html</a>

引用文中では兄弟とありますが、実際は従兄弟です(でも義理の兄弟でもあるらしい)。「細君」というのは、女優のTilla Durieuxのことです。太田君というのはもちろん木下杢太郎。

ブルーノのところでも『芸術と芸術家』なんて雑誌を出していたりしたのだから、児島も知己であったかもしれませんね。

二つの「パン」の開始時期ですが、ベルリンでのPan-Presse設立が1908年なのですが、雑誌の創刊は1909年にはいってのことです。これに対して、太田らのパンの会は1908年(明治41年)12月にはもう始まっているのです。驚くべき同時代性といってよいかと思います。(と書いたのですが、マイヤー=グレッフェのほうの「パン」は先行していて、創刊号(1895年)〜終刊号(1900年)のようなので、カッシーラーのものとは一応別雑誌と見たほうがいいのかもしれません。現物を見ないことには、二つのパンのつながりは確かめられません。)


No.1368
Re:直観的判断力
あがるま(2007-05-27 03:13:14)

>学位をとり、副論文ともども刊行まで成し遂げた由良は、この掲示板でも議論になった「外国語での発信」という点で、すでに高い意識を持っていた人物の一人であると言えるのではないでしょうか。<

慥かに2つとも自費出版ではなくドイツのきちんとした出版社からですね。『意識論と仏教』の方は東亜細亜研究の叢書で第2版も出てゐるやうですし。もう一つの『精神科学と意志法則』のPan-Verlagと云ふのはその頃(Kant-Studienを出してゐた?)有名な出版社だと思ひます。

>あと、児島喜久雄ですが、画集が用美社というところからでています。
ちなみに、児島は従兄弟のほうのカッシーラーとも親しかったようです。

画集も出てゐたのですか!
児島は『古代彫刻の臍』しか読んだことがありませんが,矢崎美盛と並んで岩波で重宝されてゐたやうですね。
さう云へば雑誌『図書』の表紙の解説もさうだつたか?

従兄弟と云ふのはBruno Cassirerで出版をしてゐた人ですか?


No.1367
1929年冬のダヴォス
あがるま(2007-05-27 02:38:16)

>ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」(…)次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

1929年冬のダヴォス論争について少し見てみました。
よく1924年公刊のTh.マン『魔の山』での非合理主義者ナフタと啓蒙主義者セッテムブリニとの対話を思ひ出させると云はれるこの論争は、 
現象学的な存在論が伝統的な新カント派的な認識論に勝利を納めたものと思つてゐたのですが、
反対にカッシーラーのハイデッガー批判が的外れではなかつたことが、その後の政治状況の推移や、Hが自らのカントの暴力的な解釈を認め、転回をしたので証明されたことになるのでせうか。

結核療養中の学生の発案で欧州統合を目指した2週間の各種ゼミナール(学生200人、講師30人が参加)での、この関連の講義は2日間に渉り、午後カッシラーが人間学について、午前中ハイデッガーはこの後一気に書き上げられたカント本のスケッチをした。
Cは常に『存在と時間』の現存在分析を有限性の観点から問題にしたが、Hは自分のカント解釈だけを述べたらしい。
その頃、基礎存在論は人間学の書と思はれてゐたので、役割が反対になつた格好になるが、
Hは伝統的な実体形而上学を組み替へる試みをしてゐたし、Cは新カント派と云ふよりも、それを包むゲーテ的な人文主義の伝統に立ち、伝統的形而上学ではなく機能概念(象徴=構想力)によるその克服を考へてゐたとするなら、
Hは直感の悟性に対する優先を図式論の助けを借りたそれ自身時間性である超越論的想像力により綜合に齎さうとするのですから、
図式を象徴(像)と考へると二人の間に余り径庭はなささうです。

Cと握手もしなかつたHが歩み寄れば、もつと有意義な討論になつたものと思はれますが、討論を翌日の持ち越すことはHにより退けられたため曖昧になつてしまつたやうです。
(彼は討論よりスキー目的で来たのでせうか)

現場には双方の信奉者が従つてゐて、C側にはJ.リッター、K.グリュンダー、E.レヴィナスが、HにはO.F.ボルノウやE.フィンク、K.リーツラー(彼はユダヤ人ですが、講師として参加してゐた)がゐた。(後にアリストテレスの権威になつた、フランスのP.オーバンクはどちらの側だつたのでせうか?)
当時の政治的状況によるユダヤとゲルマンの対決の様相も呈してゐたやうですし(レヴィナスが思想から云へばH側のやうなのにC側と見做されたのはユダヤ人だからでせうか?)、チューリッヒ新聞やフランクフルト新聞が大いに書きたてたので当時一般の話題にもなつたやうです。
フランクフルトで病床のF.ローゼンツワイクもそれについて書いてゐるさうですから。









No.1364
Re:直観的判断力
ig(2007-05-23 20:55:37)

prospero様

>解説をお願いしておきながら、反応がすっかり遅くなってしまいました。

とんでもないことです。ここには通俗的で性急な時間感覚は似つかわしくないでしょう。


>ちなみに、『新潮』の例の文章、やはりあの教師論のくだりで辟易されたようですね。

ある種の防衛線を張らないと語りにくい主題であるというのは十分わかっているのですけれども。

それにしても、由良ゼミについての記述を読むと、学生のころに戻ってそれこそ自分の知が根底から試されるようなゼミに参加してみたくなったりします。日本の人文知の青春時代だったと言えましょうか。


>さて、問題のSkopeologieですが、引用を拝見して、何となく思い起こしたのが、カントの判断力でした。カントの判断力も、規定的判断力・反省的判断力の両者はともに、「目的」に関わる能力でしたね。しかもそこにある種の直観が認められるとなると、これはさらに一歩を進めて、カントからゲーテの線との繋がりも見えてきそうな気もします。ゲーテの目指したのは、カント的な反省的判断力をある種の直観によって捉えるということだったように思えるからです。
>
>自己理解を遂行する実体という点では、ライプニッツ的なモナドロギーも想起されます。ライプニッツ的な多元主義も「歴史主義」の成立に力を貸したものと理解できますから(マイネッケ『歴史主義の成立』)、この辺の問題意識との関係も面白そうです。
>
>ライプニッツ、カント、ゲーテという線を考えると、やはりそこには紛れもなく、カッシーラーの問題意識が潜んでいるように思えます。カッシーラーも初期のモノグラフが「ライプニッツ論」でしたし。

たしかに、実証主義的な記述以上の意味を歴史に求める由良の念頭にあったものは、特殊から普遍を発見しようとする「反省的判断力」なのかもしれません。さらに御指摘なされた思想形象の系譜は、おそらく、由良の歴史哲学の背後にあるものへの精確な洞察であると感じます。一方で、由良は、カッシーラーが歴史そのものをあまり論じていないことには飽き足らないところがあったように見うけられます。(由良にはゲーテ論の著作もあります。また、山口等樹の論考中に、ライプニッツとの関係に言及して、「由良君のアルバイトに期待」という記述があります。唐突に書かれていて「由良君」って誰?って感じですが。)


>あがるまさんが仰るように、『人間』と『国家の神話』は、私もがっかりした覚えがあります。両方ともアメリカ亡命、あるいは亡命後、最晩年の著作ですね。カッシーラーはもう少し前の思想史的著作が、歴史と思想の緊張溢れる展開をしていて私は好みです。とりわけ『啓蒙主義の哲学』、『個と宇宙』(ルネサンス論)あたりでしょうか。

晩年については、構造主義についての論考などのほうがまだしも面白いと思います。『国家の神話』については、昨今では、そのマキャヴェリ解釈が論題となっていますね。

バフチンによる『個と宇宙』アプロプリエーションの話題でさえ、バフチンの「スキャンダル」としてしか捉えられず、カッシーラー再考の契機になかなか結びつかないのは、同年代のラスク、シェーラーよりは長生きしたこの哲学者の、今日におけるある種中途半端な位置づけを物語っているのかもしれません。

このスレッド(?)の冒頭に話を戻すことになりますが、ブルーメンベルクを精読することで、カッシーラーも含めた、あらたな精神史的鉱脈が開拓されるのではないかという可能性もあるのでしょうか?(クーノ・フィッシャーメダルの講演以外に両者の接点を知りませんけれども)

ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」は、雑誌『ロゴス』の目次が示されているこのサイトにとっても意味深いものではないでしょうか。次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

<blockquote>
カッシーラーは「新カント派」である。この新カント派という言葉で示されるものは、哲学上の「動向」とか「流派」である以上に、カントがつくりだした断絶を西欧思想が乗りこえられなかったということなのである。新カント派とは、−−この意味では私たちはみな新カント派だ−−この断絶をよみがえらせるようにたえず命じ、断絶の必要性を再認識すると同時にその全体の規模をつかまえようとするもののことである。(鷲見洋一訳、『エピステーメー』II、0号から)
</blockquote>


>あがるま様

学位をとり、副論文ともども刊行まで成し遂げた由良は、この掲示板でも議論になった「外国語での発信」という点で、すでに高い意識を持っていた人物の一人であると言えるのではないでしょうか。

あと、児島喜久雄ですが、画集が用美社というところからでています。たしか、限定本だったと思います。児島の手によるレオナルドの絵の研究模写の図版が口絵についています。これには驚きます。彼の素描で、比較的眼にすることがあると思われるものとして、岩波文庫の『九鬼周造随筆集』の表紙にある九鬼の肖像が挙げられます。ちなみに、児島は従兄弟のほうのカッシーラーとも親しかったようです。


No.1363
直観的判断力
prospero(管理者)(2007-05-20 21:35:49)

ig さま
解説をお願いしておきながら、反応がすっかり遅くなってしまいました。ちなみに、『新潮』の例の文章、やはりあの教師論のくだりで辟易されたようですね。

さて、問題のSkopeologieですが、引用を拝見して、何となく思い起こしたのが、カントの判断力でした。カントの判断力も、規定的判断力・反省的判断力の両者はともに、「目的」に関わる能力でしたね。しかもそこにある種の直観が認められるとなると、これはさらに一歩を進めて、カントからゲーテの線との繋がりも見えてきそうな気もします。ゲーテの目指したのは、カント的な反省的判断力をある種の直観によって捉えるということだったように思えるからです。

自己理解を遂行する実体という点では、ライプニッツ的なモナドロギーも想起されます。ライプニッツ的な多元主義も「歴史主義」の成立に力を貸したものと理解できますから(マイネッケ『歴史主義の成立』)、この辺の問題意識との関係も面白そうです。

ライプニッツ、カント、ゲーテという線を考えると、やはりそこには紛れもなく、カッシーラーの問題意識が潜んでいるように思えます。カッシーラーも初期のモノグラフが「ライプニッツ論」でしたし。

あがるまさんが仰るように、『人間』と『国家の神話』は、私もがっかりした覚えがあります。両方ともアメリカ亡命、あるいは亡命後、最晩年の著作ですね。カッシーラーはもう少し前の思想史的著作が、歴史と思想の緊張溢れる展開をしていて私は好みです。とりわけ『啓蒙主義の哲学』、『個と宇宙』(ルネサンス論)あたりでしょうか。


No.1362
ハンブルク
あがるま(2007-05-18 05:27:06)

傍系ですが、安部民雄と云ふ(安部磯雄の息子?)デヴィスカップ日本代表のテニス選手がハンブルクでカッシーラーに学んだと聴いたやうな気がします。

戦前の日本留学生は物見遊山ばかりのやうですが、由良哲次はきちんと学位を取つたのですね。

児島喜久雄は絵の方の腕も大したものだつたさうで、ブルックハルトやウェルフリンなどは全くの素人だと云つてゐたさうですから − 一度見てみたいのですが、学習院か東京大学に残つてゐるのでせうか?

カッシラーは『人間』と『国家の神話』と云ふのを眺めただけですが、何だか魅力に乏しく、弟子のS.K.ランガーの方が断然面白かつた。



No.1361
Re:スコポロジックな直観
ig(2007-05-14 19:51:09)

>が飛躍的な本質essentia salientalisと実体を認識するなら、それは知的直観とでも云ふべきものになりさうですね。
>また慌てて早とちりしてるのでせうか。

「原因―結果」に基づいて(しかし実証的な論証を超えて)根源に迫るという議論が中心で、モレルリ的な意味での「部分(細部)―全体」の関係にはあまり論及しないという印象です。その意味では、極めて「知的」な直観と言えるかもしれません。

>由良哲次の本は良く古本屋に並んでましたが手に取ることもありませんでした。

筋のいい読書人はあまり手を出さないものだと思います。ヴァールブルク、カッシーラーなど、ハンブルクの知的空気につながる記述を期待して読んでも、なかなかうまくいきません。ただ、新カント派の原書を読むのは大変なので、彼の研究はいろいろと助けになる、という具合です。


さて、ようやく四方田氏の新潮の文を読むことができました。
由良ゼミの描写などは心を揺さぶられるものがあります。
でも、師弟論のようなものをさしはさむあたりでウンザリしてしまいました。

細かいことですが、四方田氏は見あたらないと述べていますけれども、『歴史哲学研究』にカッシーラーの名前はちょっぴり出てきます。また、「象徴形式」を論じた箇所もあります。(ただし、四方田氏の見解の大枠は揺るぎません。)

さらに細かいことですが、カッシーラーのところに留学した日本人は由良だけではありません。山口等樹(「きへん」は「さんずい」に)という、東京帝大の伊藤吉之助の弟子がカッシーラーについています。あと、これは留学とは言えませんが、美術史家の児島喜久雄が、1920年代初期にハンブルクに滞在し、カッシーラーの講義を聴いています(そしてパノフスキーのゼミに参加しています)。「ハンブルクの思い出」というエッセイが、『ショパンの肖像』という本に収められています。このエッセイには、たしか、日本人がドイツで本を片っ端から買い求めるという、当時の状況の描写もあったように記憶しています。

ちょっと話題がずれてきてしまいますのでこれくらいで。


No.1359
スコポロジックな直観
あがるま(2007-04-23 00:56:22)

が飛躍的な本質essentia salientalisと実体を認識するなら、それは知的直観とでも云ふべきものになりさうですね。
また慌てて早とちりしてるのでせうか。
由良哲次の本は良く古本屋に並んでましたが手に取ることもありませんでした。






No.1358
『歴史哲学研究』より
ig(2007-04-22 22:36:02)

>もちろん、由良氏の考えはどういうものなのかわかりませんか。もしよろしければ、一端なりともご教示を。

prosperoさま、あがるまさま、皆様

igです。不躾に引用が長いのは、当方の要約力の欠乏によるものです。
<blockquote>
[Skopologische Anschauungについて]<br>「蓋しプラトーが直観する素料に対して、すべてこれを目的々に生かし、意味的統一をもつものとして認識することを言へる用法に従つたものである。」(由良哲次『歴史哲学研究』目黒書店、昭和12年、三九八頁)
<br><br>
「歴史的認識の真理性に到達するに完全なる<U>再現</U>の認識が必須のものであるならば、歴史的真理は絶望さるべきであらう。しかして歴史的真理は歴史的現実の完全なる再現描写によつてのみ成立すると考へるこの思想は、認識論上の<U>模写説</U>の上に立つてゐる。歴史的認識論に於ける模写説の成立しえざることは、自然認識に於ける以上に明瞭なること上述の如くである。(中略)しかし又他面、歴史的認識の真理は単なる観念論的見地、主観的理解にても成立し得ざることも既に上に見た。(中略)歴史的認識の対象は、即ち歴史的現実を作る実体は、如何様にでも構成され解釈されうべきものではなく、それ自ら一の意思決定態、自らに生産と綜合を持つ根源的本質 essentia salientalis であり、個性的なる実体 substantia individualitas である。それは無限定のものではなくして、既にそれ自身一の意味をもつ実体であり、意思決定態である。吾等は歴史的認識にては単なる模写説によることも出来ず、又単なる観念論によることも出来ず、歴史的認識の真理性は、現実と理解との合致の基礎たる歴史的実体の本性に於てのみ、その妥当性を求め来らねばならぬ。かくしてのみ歴史的対象の特有の性質上、及び歴史的認識主観の個性的多様に基づく、歴史的認識の相対主義より免るゝことをえるであらう。<br><br>
然らば、歴史的真理の成立する現実と理解との一致とは如何なるものであらうか。それは究極に歴史的実体が歴史的実体を把捉することに帰する。即ち実体と実体とが合一することである。先に歴史とは畢竟根源の<U>自覚</U>であると言つた。歴史の認識は、一般に根源の自覚を通して実体が実体と合一することによつて成立する。しかしてかかる実体把捉、実体の自覚には、その根底に一つの<U>直観</U>がある。そは、実体の根源的創造始原に於ける総合的直観力である。言はゞ実体的構想力の直観である。私はかつてこれをスコポロギッシュな直観と名づけた[註7]。(中略)かくして歴史的認識は畢竟一の<U>直観論</U>によつて基礎づけらるゝの外ない。」(四二四頁〜)
</blockquote>

[旧漢字はあらため、傍点は下線にしました。]

プラトンが挙げられているところから見ても、Skopologieの語義上の起源は、あがるまさまのおっしゃる方向なのでしょう。いま手元の希独辞典を引きましたが、skopos→Ziel, Zweckとあるのに目がいきました。この語はskeptomaiという形に関係するようですが。「目的的に」というのは、そうした含みなのでしょうか?プラトン著作中の具体的典拠については、当面宿題とさせてください。

ちなみに「註7」には、由良自身の学位論文が挙げられています。Geisteswissenschaft u. Willensgesetz.1931(『精神科学と意志法則』)、III. Teil. S.99、Skopologie als Methode der geisteswissenschaftlichen Erkenntnis.

もう少し先には、具体例を示しつつ歴史の方法について議論している箇所もあるのですが、うまく切り出せません。この叙述をさらに解釈するには私の力が及ばず、ただ、現象学の空気を感じ、さらに、由良の学位記に署名のあるエルヴィン・パノフスキーがかの『イコノロジー研究』の「序論」で述べるところの「総合的直観」を連想するものであると言うにとどめるしかありません。

肝心の学位論文のほうも複写をしたものがあるはずなのですが、室内整理が行き届かずすぐには見当たりません。首尾よく発見できましたらまた報告させていただきます。副論文の Die idealistische Weltanschauung und moralische Kausalitaet --- Einfuehrung in die Psychologie, Erkenntnislehre und Metaphysik des MAHAYANA-BUDDHISMUS(『唯識論世界観と善悪因果律』)のほうはすぐに出てきたのですが、仏典の知識が無いゆえに、こちらはさらに歯が立ちません。


No.1357
鑑識と徴候
prospero(管理者)(2007-04-22 10:19:34)

igさま

投稿を見落としていました。遅くなって済みません。
スコポロギィ(or Spokeologie?)とは耳慣れない言葉ですが、由良哲次の歴史哲学のキーワードになっているとは興味を惹かれます。

あがるまさんが仰るように、「鑑定」に由来するのだとすると、まさに「神は細部に宿る」という精神の実践のようにも思えてきます。実際に、フロイトが「モーセと一神教」にも徴候の識別の例としてモレッリがあがったり、それを現代でギンズブルグが評価したりと……、「鑑定」ということ自体が面白い主題になっていますね。

もちろん、由良氏の考えはどういうものなのかわかりませんか。もしよろしければ、一端なりともご教示を。


No.1356
Skopeologie
あがるま(2007-04-22 01:25:55)

とはσκοπεωから来て
鑑定学と云ふことでせうか?
モレッリやビーズレーを思ひ出すやうな。
美術品の蒐集もされてゐたのでせうね。

下村寅太郎も古美術品を集めてゐたさうで、コレクシヨンが小冊子になつて関係者に分けられたさうですが。

>高等師範学校から京都大学という系譜を想定したとき、由良哲次とともに思い起こすべきは先輩の土田杏村でしょう
戦後文理科大学の学長をされた務台理作と云ふ方も居られましたね。
犬田四方彦も関係なくはないですね。

No.1354
Re:「先生とわたし」
ig(2007-04-13 18:16:02)

はじめて書き込みさせていただきます。

>父哲次についての記述はそれなりに面白い。彼が利殖の達人で、数億に及ぶ資産を遺し、それを遺言ですべて古墳保護や橿原考古学研究所などに寄付していったこと、由良君美の曽我蕭白への趣味などが父譲りであったことなど、驚くようなこともあります。


わたくしは由良哲次に関心を抱いている者です。四方田氏の記事は未見ですが、参照してみようと思います。
基本は、非売品ですが、『由良哲次博士を偲ぶ』(由良大和古代文化研究協会発行)でしょうか。由良哲次が整えた『叡知的世界』の独訳の刊行を断る西田の手紙なども紹介されております。木村文彦「由良先生の金銭哲学」なる記事もありますね。

もちろん、由良の本領は歴史哲学でしょうが、中心概念である「スコポロギィ」についてはちょっと捉えあぐねております。独文で書かれたハンブルク大学での学位論文はかなりしっかりしたもので、途中まで読んで投げ出しております。仏教哲学について書かれた副論文もあります。

後年、日本史上、諸説紛糾する二つの謎である「写楽」と「邪馬台国」の両方にエントリーしているところなど、思わずニヤリとしてしまいますね。自身の解釈学の実践なのでしょうけれども。

高等師範学校から京都大学という系譜を想定したとき、由良哲次とともに思い起こすべきは先輩の土田杏村でしょう。『土田杏村とその時代』(上木敏郎編、こちらも非売品)に、由良哲次の文章が見られます。杏村の依頼で、由良哲次は一度自由大学に出講しています。


最後に別の話題ですが、『われらが風狂の師』、わたくしはそれなりに楽しく読むことができました。ちょっと長いですが。
お邪魔いたしました


No.1346
「先生とわたし」
prospero(管理者)(2007-03-01 10:37:55)

いままでもしばしばこの掲示板でも話題になった由良君美・由良哲次について、四方田犬彦が「先生とわたし」という長文(400枚)の思い出話を書いています(『新潮』3月号)。だらだらと長く、師である由良君美との後年の(不本意な)確執を自分なりに整理するというような動機に貫かれているので、全体としてしまりがなく、書き物としては上等ではありませんが、情報的にはそれなりのことはわかります。由良君美については、本人が書いていること以上の収穫はありませんが、父哲次についての記述はそれなりに面白い。彼が利殖の達人で、数億に及ぶ資産を遺し、それを遺言ですべて古墳保護や橿原考古学研究所などに寄付していったこと、由良君美の曽我蕭白への趣味などが父譲りであったことなど、驚くようなこともあります。

ただ、由良君美を語るのに、四方田氏ほどの人がなぜ一編の「喜劇」を草さず、こうした凡庸な「評伝」スタイルを取ったのかが不可解でなりません。草葉の陰で由良氏ご本人も歯がみしていそう……

ちなみに、由良君美の英語力の検証ということで、彼の書いた文章が引用され、それが絶賛されているのですが、私にはごく普通の英文に思えて、何がどう凄いのがさっぱり分かりませんでした。physical, metaphysicalの並列などが、「ギリシャ語に基づく語呂合わせ」などと言われたり、Werkeというドイツ語が出てくるからといって、「英語を母国語としない外国人が執筆した文章とは思えない」と言われても、唖然とするばかりです。


No.1343
先師先人
あがるま(2007-01-12 13:46:38)



あるサイトでDiscoursと云ふ言葉について頼まれもしないのに素人解説をしながら連想したのは、
デカルトの本を『方法叙説』と最初に訳したのは誰か?他ならぬ落合太郎ではないかと思ひ付き、筑摩書房の竹之内静雄が彼に就いて書いてゐたこと、さらにその本には土井虎賀壽のこともあつたと思ひ出しました。同じ頃読んだのですがそちらの方が青山光二より遥かに印象的でした。

河野與一にも『形而上学叙説』(ライプニッツ)などがありますが、出所は落合だと勝手に想像します。『落合太郎集』を買ひ損ねたことも苦い思ひ出です。

折角『叙説』と云ふエレガントな日本語があるのに『言説』などと云ふ下品な言葉を使ひ始めたのは一体誰でせう。私には(事業を)『立ち上げる』と並んで、使ひたくない日本語の最右翼です。特に女性には使つて欲しくない!

個人的には京都学派は好きではないのですが、周辺に興味深い連中が居るので、三宅正樹などに思ひ出を語つて貰へば面白いことがあるかも知れません。


No.1332
いいものを
prospero(管理者)(2007-01-08 22:12:22)

YouTubeにはこんなものもあるんですか。良いものを教えてもらいました。

件のビデオに出てくるハイデガーの山小屋は数年前に知人に連れられて訪ねたことがあるので、懐かしく見ました。あのちょうど向かい側に、ロープウェイが建てられていて、連れていってくれた知人は、ハイデガーはあれを見て「技術論」を思いついたのだなどと、冗談ともつかぬことを言っていました。

一瞬芸のようなHeidegger & Benjaminもちょっと笑いました。


No.1331
哲学者たち
あがるま(2007-01-08 10:30:29)

YouTubeを彷徨つて居たらこんなのがありました
http://www.youtube.com/watch?v=d6KsSp43rhg&mode=related&search=
J.B.Lotz,W.Schulz,O.F.Bollnow,J.Beaufretなども出て来ますね。
古いお話です
No.1328
岩波文庫創刊書目復刊
prospero(管理者)(2007-01-03 19:36:48)

今年は岩波文庫創刊80周年だそうで、<a href="http://www.iwanami.co.jp/hensyu/bun/">創刊書目復刊</a>という企画があるそうです。思想関係で、カント『実践理性批判』を始め、リッケルト、ポアンカレといった書目選定が時代を感じます。ストリンドベリ『令嬢ジュリ』が、ストリンドベルク『令嬢ユリェ』とドイツ語読み風になって、茅野蕭々が訳者になっているので、これはドイツ語からの重訳でしょうね。岩波文庫創刊の1927年というのは、ハイデガー『存在と時間』が出た年でもあります。創刊80年という刻み方がよく分かりませんし、いずれにしても何だか的を外した企画のような印象は拭えません。苦戦しているという焦りのみが感じられてしまう企画とでもいいますか。ただ、最近は大人が古典を見直しているようなところもあるらしいので、団塊の世代の定年に合わせた企画なのかもしれませんね。

No.1327
貧乏臭い……
prospero(管理者)(2006-12-29 18:05:35)

>安藤は別に変人でもないと思ひますが、骨董の蒐集など趣味が沢山あり、貧乏臭い大学教授とは一線を画してゐたのでせう。

笑いました。そう、大学教員というのは、経済的な意味で貧乏なはずはないのに、なぜか「貧乏臭い」……。自分が好きでやっているはずのことを、いちいち「研究費」やら「科学研究補助費」などを申請して、ちまちましていることの現れなのでしょうか。あらゆるものを、どうしたら公費で落とせるかなど画策しているさまは、なかば憐れですらあります。

一昔前の「文士」というのも、意図的に「貧乏臭い」ところもあったようですね。谷崎がそんな気風を嫌って、できるだけ文士臭く見えないように振る舞っていたら、生意気だということで小山内薫などに疎んじられたとか。


No.1326
Re:『われらが風狂の師』
あがるま(2006-12-26 22:36:52)

投稿した後少しネットを見てゐたら、この下巻(新潮文庫では一冊です)に北森嘉蔵のことも出てゐたさうです、北森にも関心を持つてゐたはずですが丸で覚えてゐませんでした。
『神の痛みの神学』は田辺哲学の種の論理の焼き直しのやうですが、彼の『神学的自伝I』は面白かつた(IIは出なかつたのでせうか?)。

安藤は別に変人でもないと思ひますが、骨董の蒐集など趣味が沢山あり、貧乏臭い大学教授とは一線を画してゐたのでせう。
田辺の弟子でありながら弁証法など問題にもしなかつたので変人扱ひされたのでせうか。それともM.ナイホフと云ふ一流出版社から本を2冊も出し国際的な学者になつたので嫉妬されたのかも知れません。




No.1324
『われらが風狂の師』
prospero(管理者)(2006-12-26 22:00:06)

『われらが風狂の師』は新潮社の元版で上・下二分冊でした。華厳経の独訳を始め、彼の著作名などもそのままのタイトルで触れられていて、いったいこれは小説なのか何なのか首を傾げるようなものでした。同時代の田辺やら天野貞祐やらも実名で言及されていて、その点では、信頼できる内容なのかもしれません。しかし評伝でもないので、なんとも不思議な書物です。

土井氏はニーチェについての『ツァラトゥストラ ―― 羞恥・同情・運命』などを見て、そのセンスに驚き、それ以来、少しずつ彼の書物を漁っています。少し時間ができたら、まとまって考えてみたいと思っているのですけど。

安藤孝行は、アリストテレスなどを中心にした著作がありましたっけ。奇行で知られている人だったようですね。ただ、著作は割合にまっとうだったような記憶があります。それに比べると、土井虎賀壽の場合は、残している著作、扱った問題そのものが奇矯というか、意表を衝くところがあって、面白いと思っています。


No.1323
Re:土井虎賀壽
あがるま(2006-12-26 21:38:39)

青山光二のその本は新潮文庫で読んだことがありますが、すつかり忘れてゐて高橋英夫の『偉大なる暗闇』岩本禎に関する本と混同して居ました。
長かつたことだけ覚えてゐます。

白崎秀雄『当世畸人伝』には安藤孝行に一章が割かれてゐました、短いものですが私の贔屓の哲学者なので記憶に残つてゐます。

No.1322
土井虎賀壽
森 洋介(2006-12-26 11:27:03)

 ご無沙汰してゐます。 
>カテゴリー論そのものは私も審らかにしませんが、ラスクとの関係で最近関心をもっている人物に、土井虎賀壽がいます。

  <a href="http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/newbooks2006.html">Miscellanea</a>でも取り上げてをられましたが、土井虎賀壽で檢索してもラスク著が出ないと思ったら、久保虎賀壽だった頃の譯なんですね。國會圖書館OPACすら同一著者標目に入れてないのは困りもの。
 哲學には頓と無知ですが、敗戰後に既に四十代ながら佛文科に再入學して話題となった奇人學者の噂は何かで讀み覺えてゐて、あと、『現代文学<small> 研究と批評</small>』(「現代文学」の会、1988.10)といふ、創刊號限りで終刊した大學教員による研究同人誌に、紅野謙介「土井虎賀壽と野間宏――《大地》と《生成》のコスモロジー」が載ってゐたのは以前見ました。 
 土井虎賀壽をモデルにした青山光二『われらが風狂の師』(新潮文庫)はいづれ讀まうと思ひつつ、ツイ小説を遠ざけてずっと見送ってゐるのですが、面白いのでせうか。 


No.1320
『人間の記述』
prospero(管理者)(2006-12-25 22:28:54)

Beschreibung des Menschen、私も入手して、Studia humanitatisを更新しようかと思っていた矢先でした。もちろんすべて眼を通すというのはできませんし、いまのところばらばら眺める程度ですが、やはりブルーメンベルクの「人間論」への関心が強く伺える論集になっていますね。第一部が「現象学と人間論」、第二部が「偶然性と可視性」となっており、やはり近代論プラス人間論というモチーフを強く感じます。「フッサールの神」という比較的大きな論文が収められているのも目を惹きます。

今後、註解版のMetapher論というのは楽しみです。初期論文集が企画されているということは、学位論文やHabilitationもそろそろお目見えということでしょうか。

**

カテゴリー論そのものは私も審らかにしませんが、ラスクとの関係で最近関心をもっている人物に、土井虎賀壽がいます。彼はニーチェの紹介者であると同時にラスクの翻訳者なのですよね。おまけに仏典の独訳者!しかも全体的にかなりセンスが良い。現代の日本哲学の紹介でもなかなか触れられることのない人物ですが、少し気長に付き合ってみたい相手ではあります。


No.1299
ハイフェッツ
prospero(管理者)(2006-10-28 21:49:22)

ハイフェッツの魔法のような<a href="http://youtube.com/watch?v=Mag2mc5Vva0">Hora Staccato</a>を映像でみることができます。これなどをみると、やはりヴァイオリンは大道芸だと思えてきます。尤も、ハイフェッツのスタイルそのものは、G 線を弾くときに腕が綺麗に水平になるなど、まるで教科書のようなのですが。同じところに沢山の演奏が収められていて、ヴェンゲーロフのカルメン幻想曲など、画質は悪いですが、かなり笑えます。


No.1298
フィンランドの
あがるま(2006-10-28 05:29:23)

サイトですね、同じ場所にあるディルタイの『ヘーゲルの青年時代』もエス・ツェットの替りに大文字のBが使はれてゐたり、それが抜けてゐたりするやうです。フィンランドのスキャナーでは読み取れないのでせうか?
でもここから辿つて、ヘーゲルやCharles Taylor関係の資料が出てきました。


No.1297
R. シュトラウス
prospero(管理者)(2006-10-21 20:49:04)

以前に書いた作文をご覧いただいたようでありがとうございます。岡田暁生『<バラの騎士>の夢』は、書物としてやはりかなりよく書けていると思っています。ただ、おそらく彼の視点には、純粋に音楽的な分析と音楽社会史とでもいうような部分が同居していて、それが時に混乱を招くことがあるのかもしれません。「現代のポピュラー音楽がロマン派の音楽の正統的な後継者」という理解も<small>(それ自体がどの著作のことかわかりませんが)</small>、おそらく社会史的に見れば、とりわけ19世紀のオペラは一部の特権階級のものではなかったという意味でそういう言い方になっているのではないでしょうか。音楽的な内容がポピュラー音楽と同じという、「質」の問題ではないような気がします。

『薔薇の騎士』自体は私も好きです(だいたいR・シュトラウスは結構好きな部類です)が、岡田氏の評価で、それをある種の折衷的作品としているのも、『薔薇の騎士』を貶めているわけではなく、むしろ意識的に換骨奪胎を行った技倆を讚えているのだと思います。だいだいR・シュトラウスは既存のものを採り入れながら、それを複雑かつ巧妙にする技にきわめて長けていた人だったのではないでしょうか。私としては、個人的に『ナクソス島のアリアドネ』なども好きですが、これなどもWagnerへの当てこすりなどとも言われるように、この作曲家、およそ一筋縄ではいかないようです。その点では、まさに音楽におけるさまざまな要素の相対化や自己の対象化というような意識が伺えそうです。


No.1296
岡田暁生
あがるま(2006-10-21 08:56:03)

は全く読んだことがないのですが、
プロスペロさんの岡田暁生『<バラの騎士>の夢』感想を改めて読んで見て、少し反感を持ちました。

私の貧しい音楽体験ではウィーンで見たこのオペラが最高でした。
Bプロで私の知つてゐるのは指揮者のL.ハーガーくらいなものでしたが、とにかくアンサンブルが良いし、ホフマンスタールの台本もよく出来てゐて、若い人も老人も聴衆が一緒になつて楽しめる最高の雰囲気を満喫しました。J.シュトラウスのワルツも効果的に使はれてゐるしこれがウィーンの社交界(或は夜の世界)だと納得してしまひます。
多分年配の聴衆は若い時から何度も見てゐても飽きないのでせう。
勿論ウィーン・フィルの『マシュマロのやうな音』もそれに調和します。

岡田氏の言はれるやうにポピュラー音楽との折衷的な妥協だとはとても思へません。台本もフィガロの結婚の焼き直しだと往々非難されるやうなものではなく哲学的な反省に富んだ立派なものです。

私はモーツァルト(と同じやうにか寧ろそれよりも)チマローザのオペラが好きなのですが、『秘密の結婚』は『フィガロ』を十分に研究した傑作で(音楽は素晴しいけれど、舞台を見ると筋が単純で面白くありませんが)、それに匹敵するのが『ロゼン・カヴァリエ』だと云ふ意見です。(こちらは見ても聞いても面白い)。
勿論両者とも大衆に妥協してゐると云はれればそれまでですが。それならば既にモーツァルトも迎合してゐるのです。

岡田氏に一番賛成出来ないのは(これは他の感想文から拾つたのですが)現代のポピュラー音楽がロマン派の音楽の正統的な後継者だと云ふ話で、私見ではポピュラー音楽はダンス音楽が基盤でそれと同化するしかないものですし、クラシック音楽は聴きながらその聞いてゐる自己を対象化出来ることに大きな違ひがあると思つてゐるからです。



No.1295
イコノロジーなど
prospero(管理者)(2006-10-21 00:17:46)

エクフラーシス・エンブレム・インプレーザというものは、おそらく正確に再現してその意味を厳密に読み取るということはかなり難しいとは思います。しかし、これはやはり何といっても、いまのわれわれの思考のあり方とは決定的に異なる感覚を示しているという点ではきわめて面白いと思っています。また、従来の文字資料だけに頼っていてはわからないことが見えてくるというのも新鮮な驚きだと思います。

ただ、イコノロジーなどを通じて復権したこれらの思考は、いまではやや通俗化されすぎて、その衝撃力を失いつつあるのも事実のようです。図像と言葉を一対一対応で繋ぐだけではたいした面白味はないわけで、問題となるのは、そうした組み合わせを作っていく過程の一種の力学のようなものだと思います。その点で、ディディ=ユベルマン『残存する形象』<small>(人文書院)</small>は非常に刺戟にになりました。記憶術もその点では似ているかもしれません。イエイツは『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』の翻訳が待たれます。

そういえば、最近、上村忠男氏の訳でプラーツ『バロックのイメージ世界 ―― 綺想主義研究』<small>(みすず書房)</small>が出ましたね。これは元本は、ありな書房からすでに翻訳がある『綺想主義研究』と同じものでしょう。翻訳の中身を見ていないので、なんとも言えませんが、差し当たり、あれだけ大冊でおそらくは読者も少ないものを複数の翻訳で出すより、『生の家』や『家族の肖像』などを早く訳して欲しいところです。

ちなみに岡田温司さん、加えて岡田暁生さん、ともに良いですね。中公新書はこの二大岡田氏を抱えたこともあって、雨後の筍のような新書業界の中では、クオリティを保っていますね。岡田暁生さんの『オペラの運命』はとりわけ面白かった。『西洋音楽史』のほうは若干食い足りない思いが残りましたが、それでも良い本であることにかわりはありません。知り合いの中公新書の編集者に聞くところ、まだまだ今後も期待できそうです。


No.1288
ヴァイオリンのことなど(続)
prospero(管理者)(2006-09-15 12:46:54)

No.1294
Re:エンターテイメント三題
あがるま(2006-10-20 03:27:17)

>イエイツの歴史物などのほうが、ヴィジョンもいかがわしさもよほど強烈です。<
最近やつと彼女の記憶術を見たのですが、何だか良く分りませんでした。
勿論記憶が良くなる訳もありません。
薔薇十字団など、実在もしなかつた団体について書く大胆さにも恐れ入ります。

エクフラーシス・エンブレム・インプレーザなどにもプロスペロさんは興味を
お持ちのやうですが。これらの膨大な集積から個人が何かを読み取ることが果たして出きるのでせうか。

同じ時に岡田温司の『マグダラのマリア』(中公新書)を借り出しました、
『ダヴィンチ・コード』とはさすがに違ひますね。


No.1293
エンターテイメント三題
prospero(管理者)(2006-10-18 21:08:34)

最近、知人との遣り取りの中で、テッド・チャン『あなたの人生の物語』を思い出す機会があったので、SF絡みの旧いスレッドをサルベージして追加を。

『あなたの人生の物語』でも扱われていた言語関係を主題にしたSFで、飛浩隆『象<small>(かたど)</small>る力』(ハヤカワ文庫)、その表題作。複数の惑星の文明を理解する手がかりとして「図像」が用いられ、とりわけそのクリエーターが「イコノグラファー」として登場します。図形が、言語や音楽と同様に、人間の感情や思考を呼び出すためのコマンドとして使用される世界の中、すべての機能の「強制終了」のコマンドとなる「見えない図形」をめぐって話が展開されます。ライプニッツ的普遍言語構想と現代のイコノロジーを取り混ぜたような発想で、ちょっと考えさせられます。尤も、テッド・チャンの思弁的なテイストに比べれば、はるかに活劇風ですが。

瀬戸川猛資『夢想の研究 ―― 活字と映像の想像力』<small>(創元ライブラリー)</small>が、軽く読めるにもかかわらず、きわめて面白いものでした。活字と映像を関わらせながら語るとなると、意外と似たり寄ったりのものになりがちですが、これは活字メディアの側の質が高いのが特徴。そのために、連想が思いきり拡がるのが気持ちいい。最初文庫で読んだものの、より図版の收録が多い元版もネット古書店で入手してしまいました。

全体の中では瑣末なエピソードですが、『スターウォーズ』を東洋との関係で読んでいったくだりでは、目から鱗が落ちるような思いを。ヨーダが「老子」をイメージしているというのは兎も角としても、「ジェダイ」の騎士が、Jidai-gekiとして輸出された日本映画(しばしばJidaiとだけ呼ばれたりするとか)が影響しているというのも面白い。その傍証に、彼らがフェンシングふうに片手で剣をもつのではなく、日本刀のように両手で構えて立ち回りを演じている点を挙げていたりもする。オビ・ワン・ケノービーが、obi-one kuroobi(黒帯初段)とか。よく知られたネタなのかもしれませんが、私は気に入ってしまいました。

イコン、活字と映像という点では、ついでに今年の前半に読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』。あれだけ騒がれていたので、ついつい読んでしまいましたが、まあ何ということはない。ごくありきたりな歴史ネタのミステリー。あれだけ浅い蘊蓄にもかかわらず、仰々しく飾り立てたのにむしろ感心したくらいです。キリスト教や異端などに多少でも一般の関心が拡がるなら悪くはないでしょうが、物の分かっている人に薦める本ではない。有名になった分、いろいろと毀誉褒貶もあるようですが、言ってみれば、考古学者が『インディー・ジョーンズ』をどう思うかを想像してみればよろしいかと。「まあ、あれはあれ」といったところでしょうね。イエイツの歴史物などのほうが、ヴィジョンもいかがわしさもよほど強烈です。

大蟻食いのサイト、やはりそういう印象をおもちでしたね。日常的に見るには少々灰汁が強すぎて……。小説の文体はきわめて硬質で美しいのに、地声になるとちょっと。福田和也などと書評をした『皆殺しブック・レヴュー』は、本を人にあげることのない私が珍しく友人にあげてしまいました。批評というのは悪口である必要はないと思うのですけどね。

閑話休題。ヴァイオリンの話に戻ると、<a href="http://violinmasterclass.com/mc_menu.php">violin masterclass</a>というサイトでは、ヴァイオリンのテクニックを動画・音声入りで解説し、レッスン風景を公開しています。ただ動画が重いので、私のマシンでは、なかなかすべてを見る気にはなれませんが。

最近は、ブリリアントに限らず、とにかくBoxもののCDが安いですね。Masters of the Stirngsといった往年のヴァイオリニストの演奏を収めた10枚のボックスなども入手しました。これには、イーダ・ヘンデル、エネスコ<small>(最近は「エネスク」と表記するようですね)</small>、フーベルマンなどが入っています。

DVDで面白かったのは、『アート・オブ・ヴァイオリン』。これはついつい繰り返し見てしまいます。パールマンが案内役になって、古いフィルムをいろいろと紹介しています。音声ナシのイザイの映像とか。若い頃のハイフェッツが凄まじい。若きシゲティも長身で直立不動、「電話ボックスの中で弾いている」と言われたその端正な容姿が見られます。こういうのを見ると、やはりヴァイオリンは、視覚に訴えるものが大きく、まさに大道芸の延長だと思えてきます。とりわけ、昔のヴァイオリニストは個性が強く、運指からボーイングに至るまで画一化された現代の演奏家と違って、まるで一人一人が違う種類の楽器を弾いているかのようです。エルマンなど、よくあんな格好であれだけの音が出るなと、変な意味で感心してしまいます。聴かせるだけでなく、見せる技術というのも、プロには必要なのかも知れませんね。


No.1286
Re:ヴァイオリンのことなど
あがるま(2006-09-14 00:39:04)

佐藤嬢の頁は、殆ど喧嘩腰だし、その後の展開が面白さうだと思つてゐたのですが、さすがに品がないと思つて中止したのでせうか。
出版社との間でトラブルがあつたのも始めてそこで知りました。

ルーマニアの楽器もスカランペッラの音も聞いたのは『弦楽器ストラッド』でした。

ダマーズのフォレは勿論ピアノ(プレイエル?)ですし、Accordでブリリアントからではありません。弁解ばかりですが念のため。






No.1285
ヴァイオリンのことなど
prospero(管理者)(2006-09-12 23:47:55)

佐藤亜紀さんの作品は、『鏡の影』を読んだことがあり、これはなかなか面白かった記憶があります<small>(これは、平野啓一郎『日蝕』とのあいだで問題になった作品でしたね)</small>。HPは大蟻食い云々というやつですね。そのヴァイオリンの記述は以前見たことがあるのですが、あまりに首を傾げてしまうような記述が多かったように思います<small>(いまもう一度見てみましたが、やはり印象は同じでした)</small>。

ヴァイオリン関係は<a href="http://www.strad.co.jp/index.html">ストラッド</a>のページを見ています。これは新入荷のヴァイオリンを試奏した音も聴けて面白かったりします。ヴァイオリンは本当にいろいろな要素で変化します。やはり右手の役割、そして弓は大きいでしょうね。まだまだ選択には時間がかかりそうです。ストラッドのトップで宣伝している新作発表会にも出かけてみたいとは思うのですが、なにぶんにも出不精なもので。

ブリリアントは、ロカテッリの『ヴァイオリン協奏曲全集』も手に入れました。バロックのパガニーニと言われるだけあって、その超絶技巧ぶりは思わず笑ってしまうほどです。

ダマーズも機会があったら聴いてみたいと思います。


No.1284
Re:難しいものです
あがるま(2006-09-11 23:08:59)

佐藤亜紀と云ふ小説家のHPにヴァイオリンについて書いてあつたのです
が、彼女が何処かの大学の教師になつたら、更新されなくなり残念です。

ルーマニア製の楽器も良ささうですね。

20万円の楽器に10万円の弓では納得しないからでせうか、
入門セットには楽器の四分の一くらいの価格の弓が付いてますね。
良く楽器より弓の方が大切だと云ふのですが、大分上達してからのことなのでせう。

ブリリアントのフォレ歌曲集(アメリング・スゼー、4枚)は前に花山さんが言及されてゐたEMIの原盤だと云ふので買つてみたのですが、LPから移したのかスクラッチ音がします。私には初期の方が魅力的です。
他のところにも投稿したことがあるのですが、ダマーズ演奏の舟歌(全集)と夜想曲(4ー6番)は75分も這入つてゐて、録音(モノラル)も演奏も秀逸でした。


No.1282
難しいものです
prospero(管理者)(2006-09-06 20:25:14)

ヴァイオリンも少しずつ練習を重ねるに連れて、難しさを実感します。弦楽器の場合は、上達度がダイレクトに音に跳ね返ってくるので、同じ曲を「弾ける」といっても、その完成度は千差万別です。鍵盤を押せばその音が出るピアノ<small>(などというと、ピアノをやっている方には怒られそうですが)</small>と違って、その楽器の音がよく鳴るようになるまでに時間がかかるのが、弦楽器の難しさと楽しさのようです。ピッチを若干高めあるいは低めに取るなどというのも、弦楽器ならではですし。

楽器選びも、そうそう簡単にはいきません。何か情報でもいただければと思っていたので、話題に乗っていただき、ありがとうございます。ヴァイオリンは、個体差が非常に大きなものなので、制作者の名前や値段よりも、現物を確かめるのが大事だとはよく言われることです。しかし、その楽器の作りの善し悪しなど、素人がそんなに簡単に分かるものでもなく、ここはやはり専門家に頼るほかはなさそうです。だいたい、楽器が真作かどうかということさえ、決定的なことが言えるのはストラディヴァリウスの場合だけ(データが比較的よく分かっている)で、あとはプロの目でも予測にとどまるとか。ファニョラなども真作だと相当の価格になりそうです。仰るように、中国製というのが最近はリーズナブルなもので出回っているようですね。

この前はドイツ製、ハンガリー製の現代楽器を試奏させてもらってきました。弓も含めてとなると、まだまだ時間はかかりそうです。フランス製をみてみたいと思っているのですが。家の近所にも、ヴァイオリンの工房が何件かあるので、近々覗いてみようと思います。あとの情報は、いま教えてもらっているプロの方にお願いして、口をきいてもらうというかたちになりそうです。

ヒラリー・ハーンは、最近パガニーニを出しましたね。これが期待外れでした。前回のモーツァルトといい、どうも優等生的な面が目立ってきて、面白みに欠けます。最初の頃のバッハやショスタコーヴィチには感心したのですけど。

Brilliantは頑張っていますね。Boxものの価格破壊ぶりは頼もしい限りですし、内容的にも立派なものが多く楽しみです。最近はレオニード・コーガンのBoxものを手に入れました。フランクのソナタのオーケストラ伴奏版などというのも収録されていました。

モーツァルトは、ホ短調のソナタを練習しています。これは素人が弾きたがり、プロは避けるという曲のようです。一見簡単だが、仕上げるのは難しいということのようです。まあ、気長に愉しみたいと思いますが。


No.1281
ヴァイオリンを
あがるま(2006-09-06 04:51:36)

お弾きになるのを忘れてました。
10年ほど前に楽譜も読めないのに − 楽器があれば読めるやうになるのではと思つて − 
買つたものの、押入れにつつこんだまま最近は触れることもなくなりました。

さう云へば、ブリリアントのモーツァルト全集を求めてからCDも滅多に買ふことがなくなりました。

H.ハーンはヴィョームを使つてゐるとのことですが、
ファニヨラとかスカランペッラなどと聞くと自分にも買へさうに思へるのが不思議です。
出来立ての楽器でも良いものがありさうですが。
情報は何処から仕入れるのですか?

クレモナに行つたことはありませんが、何処にでも中国人沢山来てがゐるので、
将来は彼らが中心になるのかも知れませんね。
日本人にも頑張つて貰はなくては!


No.1280
惑星
prospero(管理者)(2006-08-28 14:19:43)

冥王星がなくなりましたね。結局は、ホルスト『惑星』通りに戻ったわけです。こんな話題のせいか、このところHMVなどでも、<a href="http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1273701">ラトルの惑星</a>がよく売れているようです。このエディションは、お節介なことに、のちにコリン・マシューズなる別人が、「冥王星」を作曲して、ホルストの曲につけ加えたというもの。しかし、もはやそんな必要もなくなったわけで、別人の曲を知らない間に追加されて鬱陶しかったであろうホルストも、これで一安心というわけです。

音楽関係では、先日東京音楽コンクール(弦楽器の部)なる催しに出かけてきました。20代の人たちの気迫に満ちた演奏は頼もしい限り。会場も予想以上に盛況で、日本のクラシック界も裾野が拡がっている実感があります。

私の方も、最近ヴァイオリンの交換を考えていて、少し調査を始めました。国による個性など、楽器そのものも結構面白いものですね。決まるまでにはまだ時間がかかりそうです。


No.1279
理論的良心論
prospero(管理者)(2006-08-26 16:25:49)

くまサン

いつも貴重な情報をありがとうございます。これもまた、きわめて刺戟的な情報で、想像が膨らみます。

全体としては、「知的誠実さ」というフッサールの現象学のモチーフを、ハイデガーの良心論と重ね合わせて現象学的世界論を展開するという狙いのようですね。全体として、「差異性」という標題から予想していたのとは違って、存在論的差異そのものを主題とするわけではなく、むしろ中心は世界論、およびその展開の方法論としての良心論にあるように思えます。しかもそこはブルーメンベルクらしく、良心論を現存在の構造として捉えたハイデガー『存在と時間』とは異なり、良心の歴史的生成を見ていくものらしく、興味をそそられます。第二部の「存在論的差異の歴史的形態学の概観」というが、いかにもブルーメンベルクですね。「形態学」という語が用いられているのは、例えばディルタイの形態学を評価したレーヴィットなどの反響でしょうか。2-6「二重真理説と良心の危機の起源」というのは、どうことなのでしょうね。13世紀のブラバンのシゲルスあたりの、あの「二重真理説」のことでしょうか。

第三部で世界論の歴史的展開を概観し、最後に「受動的発生」という観点を持ってくるというのも、現象学の継承者らしい姿勢です。第四部の「無限なる良心の投企の存在論的基礎づけの解体」というのも気になります。これは最終的に良心問題を歴史化することへの反論なのでしょうか。あるいは逆に徹底した歴史化を狙っているのでしょうか。

ブルーメンベルクに関しては、協会が作られ、ズールカンプから、雑誌論文を始め、未刊の遺稿なども続々公刊されているので、学位論文・教授資格論文が公刊されるのが待たれます。


No.1278
教授資格申請論文
くま(2006-08-26 00:46:36)

ブルーメンベルクのHabilitationsschriftの閲覧がついに叶いました。目次は以下の通りです。

Die ontologische Distanz. Eine Untersuchung ueber die Krisis der Phaenomenologie Husserls

Einleitung

Erster Teil
Aufweisung und Entfaltung des Distanzproblems
§ 1. Die Infragestellung der Wissenschaftlichkeit der Philosophie
§ 2. Die Herkunft der wissenschaftlichen Selbstauslegung der Philosophie
§ 3. Die ontologische Entschiedenheit des wissenschaftlichen Gewissheitsentwurfes
§ 4. Die Radikalisierung des wissenschaftlichen Gewissheitsentwurfes in der Phaenomenolgie
§ 5. Das Distanzproblem der phaenomenologischen Reduktion
§ 6. Die Umwendung des cartesisch-phaenomenologischen Ansatzes

Zweiter Teil
Durchblicke zur historischen Morphologie der ontologischen Distanz
§ 1. "Mythos" und "Logos"
§ 2. Die sokratische Situation und der Logos
§ 3. Die metaphysische Festlegung der theoretischen Distanz
§ 4. Die Entmaechtigung des kosmischen Logos
§ 5. "Sehen" und "Hoeren"
§ 6. Die "doppelte Wahrheit" und der Ursprung der Gewissheitskrise
§ 7. Die Selbstbehauptung der Vernunft von der Gewissheitsfrage
§ 8. Die ontologische Entschiedenheit der "Aufklaerung" und das Erwachsen des historischen Sinnes

Dritter Teil
§ 1. Historische Vergangenheit und geschichtliche Gegenwart
§ 2. Die urspruengliche Gestalt der philosophischen Frage
§ 3. Die Genesis des geschichtlichen Bewusstseins als originaere Gegenstandsbildung
§ 4. "Welt" und Gegenstand
§ 5. "Welt" als geistige Leistung
§ 6. Die Grundlagen der phaenomenologischen "Welt"wissenschaft in ihrer Urspruenglichkeitsproblematik
§ 7. Der Ertrag des phaenomenologischen "Horizont"begriffes fuer die "Welt"hermeneutik
§ 8. Die passive Genesis des Welthorizontes

Vierter Teil
§ 1. Der unendliche Entwurf der Phaenomenologie als Anspruch geschichtlicher Unbefangenheit
§ 2. Der Zusammenbruch der universalen Vertrautheitsstruktur der Welt
§ 3. Die Destruktion der ontologischen Grundlagen des unendlichen Gewissheitsentwurfes
§ 4. Die Reduktion der Seinsvergessenheit und das neue Denken des Seins

Anmerkungen



No.1275
経歴
くま(2006-07-14 02:27:11)

わたしが閲覧したのはゲッティンゲン大学図書館所蔵のものです(残念ながら教授資格申請論文はキール大学図書館にしかないようです)。A4版のタイプ印刷で107ページ(注を含む)。しかし上から下までぎっちり詰まっています。指導教官はルートヴィヒ・ラントグレーべのようです。付せられたLebenslaufには次のようにあります。

Geboren am 13. Juli 1920 zu Luebeck als Sohn des Kaufmanns J. C. Blumenberg, deutscher Staatsangehoerigkeit, habe ich nach der Grundschule das Gymnasium des Luebecker Katharineums besucht und dort 1939 das Reifezeugnis erhalten. Sodann studierte ich scholastische und neuthomistische Philosophie, und zwar 1 Semester an der Philosophisch-theologischen Akademie in Paderborn und 2 Semester an der Philosophisch-theologischen Hochschule St. Georgen bei Frankfurt am Main, hier vor allem bei Casper Nink. Nachdem ich 1941 mein Studium abbrechen musste, setzte ich meine Arbeiten, insbesondere auf dem Gebiet der mittelalterlichen Philosophie, bis 1943 privat fort. Dann nahm ich eine Taetigkeit in der Industrie auf. Nach Kriegsende brachte ich mein philosophisches Studium an der Universitaet Hamburg, vor allem bei Ludwig Landgrebe, zum Abschluss. Als Nebenfaecher waehlte ich Griechisch und Deutsche Literatur.

キールには当時ヴァルター・ブレッカーもいたはずです。ハンス・ヨナスの回想録に、1952年にブリュッセルで国際会議が開催された折、ブレッカーの遣いとして若きブルーメンベルクも来ており、キールへの招聘を打診されたというエピソードが書かれております。




No.1271
Re:これは凄い
あがるま(2006-07-13 23:09:25)

キール大学図書館には2つともありますね。
http://kiopc4.ub.uni-kiel.de:8080/DB=1/SET=1/TTL=31/NXT?FRST=41
目次から見て大部なのかと思つたら、それぞれ100枚か200枚のもののやうで
A4版のタイプ印刷なのでせうね。
彼の教へてゐたボッフムとかギーセンはどうでせうか?

ユダヤ人で大学に行けなく、神学校で学んだと云ふ彼の経歴を示すやうな論文ですね。
でも何と云ふ神学校なのでせうか、フランクフルトは有名なザンクト・ゲオルゲンでせうか、
またキール大学での博士論文と教授資格論文は誰の許で書いたのでせうか?
戦前にはシュテンツェルやヒルデブラントなどがゐたやうですが。
彼の経歴は未だに謎に包まれてゐるのやうですね。

ハバマスの学位論文(シェリング論)も余り見ませんが、
これは未公刊ではなくボンのブーヴィエ書店から出てゐるので、
沢山あるのでせうね?




No.1269
これは凄い
prospero(管理者)(2006-07-13 16:53:17)

くまサン、詳しい情報をありがとうございます。これだけの量のドイツ語目次を正確に記していただいて大助かりです。ずいぶん手間がかかったことでしょう。

この博士論文は常々気になっていました。目次の細目をみると、やはりこれはハイデガーですね。しかもそこには最初から歴史性と伝統という議論を組み合わせてくるとなると、『存在と時間』のプログラムをむしろ逆に辿って、存在論史の解体の議論から始めて、存在論へ向かうという方向すら垣間見えます。創造の教義を「被製作性」という仕方で整理していく辺りもハイデガーを思わせます。存在の一義性と存在の類比の議論なども興味深いところがあります。

 「実存」(existentia)概念は、中世的な概念から出発しながら、本質形而上学の克服という視点から、「事実性」に結び付くようですね。第6節のIllumination というのは何でしょう。アウグスティヌス的な照明説のことでしょうか。おそらくそんな意味で、知性論と存在論の融合というかたちで、存在了解に繋げているのでしょうね。実に興味深い内容です。

これは、国内からコピーなどを海外の図書館に要請することは可能なのでしょうか。いずれ調べてチャレンジして入手したいと思います。教授資格論文のDie ontologische Distanzも見てみたいところです。


No.1268
ブルーメンベルクの博士論文
くま(2006-07-13 05:53:25)

いつも拝見しております。興味深い話題の数々から刺戟を得ております。ドイツにてブルーメンベルクの博士論文を閲覧する機会がありました。目次だけでもみなさまにお知らせしたく、書き込みをさせていただきます。


Beitraege zum Problem der Ursprueglichkeit der mittelalterlich-scholastischen Ontologie

I. Einleitung
§ 1. Das Problem der Urspruenglichkeit des ontologischen Ansatzes bei Martin Heidegger
a) Geschichtlichkeit und Tradition
b) Destruktion als Freigabe der Geschichtlichkeit
c) Auszeichnung der Scholastik im Zusammenhang des Urspruenglichkeisproblems
d) Descartes als Fazit der Scholastik?
e) Integration der Urspruenglichkeitsidee
§ 2. Voraussetzungen und Moeglichkeiten eines urspruenglichen Seinsverstaendnisses in der mittelalterlichen Scholastik
a) Kontinuitaet des Wirklichkeitsbewusstseins als Boden der "Rezeption"
b) Einheit und Totalitaet der christlichen Erfahrung
c) Direkte Rezeption und Spaltung des Erfahrungshorizontes
d) Lebendige und autoritaere Tradition
II. Die Durchbrechung der traditionellen ontologischen Interpretationsweisen
§ 3. Die Interpretation des Seins als Hergestelltsein
a) Destruktion und "ens creatum"
b) Ursache und Grund in der griechischen Ontologie
c) Der biblische Schoepfungsgedanke
d) Schoepfung und Seinsgrund bei Augustinus
e) Schoepfung und Bewegungskausalitaet bei Thomas von Aquino
f) Die Persoenlichkeit des Seinsgrundes in der augustinischen Scholastik
g) Kosmologie und Ontologie bei Duns Skotus
h) Leistung und Ertrag
§ 4. Die Interpretation des Seins als Vorhandenheit
a) Der Inbegriff der Destruktionskritik
b) Der Umschlag der exemplarischen Orientierung
c) Analogie und Univozitaet des Seins
d) Erkenntnisschema und Seinsauslegung
e) Ueberblick
§ 5. Die Interpretation des Seins als Wesenheit
a) "Existenz" als Kontrastbegriff
b) Die Verschuettung des Existenzproblems in der Antike
c) Vorzeichnung der christlichen Existenzerfahrung
d) Das Individuationsproblem bei Thomas von Aquino
e) Die Entwurzelung der Individuationsfrage
f) Aktualitaet als Auslegungsmodus von "existentia"
g) Substanz und Faktizitaet
h) Ueberwindung der Wesensontologie?
§ 6. Die Interpretation des Seins als Gegenstaendlichkeit
a) "Welt" als urspruenglichstes Problem der Ontologie
b) Weltphaenomen und "ontische Illumination"
c) Die Einheit ontischer und intellektualer Illumination
d) Leistung und Gefaehrdung des Illuminationsgedankens
e) Das Sein als "primum obiectum" bei Duns Skotus
f) Weitere Fragemoeglichkeit
§ 7. Das aussertheoretische Fundament der Seinsinterpretation
a) Radikalisierung des ontologischen Phaenomenbegriffs
b) "Weisheit" als Totalitaet des Seinsbezuges
c) Grundbefindlichkeit und Illumination
III. Letze metaphysische Positionen
§ 8. Die Frage nach dem Sinn von Sein
a) Sinn und Sinnverstehen
b) Seinsverstaendnis als illuminative Methexis
c) Die ontologische Exemplaritaet des Menschen
d) Grenzen des Urspruenglichkeitsproblems
Anmerkungen



No.1262
Re:『千夜千冊』その他
prospero(管理者)(2006-07-01 21:43:16)

なるほど、なかなか手厳しいですが、そういう面はありますね。ただ一つ、認める点があるとすれば、松岡正剛氏自身は、自ら「編集工学」と名乗って、さまざまな知識のエディティングをしているというのを明記している点です。やたらに独創性を掲げる底の浅いものが幅を利かしている現状では、それも一つの解毒作用があるのかと思ってみたりもします。私も彼の書物でまともに読んだのは『フラジャイル』くらいしかありませんので、あまりよく分かりませんが、確かにさほど強固な思想性のようなものは感じません。ただ、『情報の歴史』<small>(NTT出版)</small>という巨大な年表は面白く、わりあいよく眺めています。こういうものには、編集者としての利点が出るような気もします。

それにしても、『千夜千冊』は、なぜああいう値段になるのでしょうね。澁澤龍彦のようなタイプの書き手なら、図版や装幀に凝った愛蔵版という線も考えられるでしょうが、松岡氏はそういうタイプでもなさそうですし。確かに分量はかなりあるようですが、それでもせいぜい3万くらいが関の山でしょう。

ちなみにウェッブの扱いという点ですが、確かに海外(特に欧米)では、公共機関やプロの研究者がかなり本格的なサイトを作っていますね。古典テクストのweb化などもハイスピードで進んでいますし。その点は、日本の場合、むしろ素人のほうが余程力の籠ったサイトを作っているような現状でしょう。きちんとした発表場所として認知されている感じでもありませんし。英語でかなり専門的なwebを立ち上げている人に対して、海外から学会発表のオファーがあったということを又聞きで知りましたが、その真偽も定かでありません。大学の紀要などは一応電子化が進み始めているようですが、まあ紀要論文というものは、産業廃棄物のようなものですからね。


No.1261
Re:『千夜千冊』
あがるま(2006-06-29 17:05:05)

松岡正剛と云ふとどうしても松岡映丘、松岡静雄そして柳田國男
との連想なしには考へられません。

ウェッブ上で見ただけですが、彼には独自の思想や個性を形づくる
上昇志向が余り見られず、既存のものを適当につまみ食ひして、
アレンジする、またそれが同時に創造的だ、と云ふ姿勢は、
既に親の代で最高レヴェルを達成してしまつた2代目(或は3代目)
の態度でせうか。

つまり何にも意見を持つ(持ち度い)と云ふ意味での『解釈家』
と云ふことで、誰でも良い他人の意見を知り度い時に、ウィキペディア
のやうな百科事典の替りには役立ちますが、書物 −それも個人が
買ふことが出来ない価格で − にする理由は分かりません。

外国ではきちんとした学者が自分のサイトで公表するのに、
日本の学者は(恥をかくのを懼れて)出し惜しみしますから、
その代用でせうか?

今まで彼の本を買つたことはありませんから、
どんな人が買ふのか私も興味があります。




No.1259
『千夜千冊』
prospero(管理者)(2006-05-31 13:19:18)

松岡正剛の<a href="http://www.kyuryudo.co.jp/">『千夜千冊』</a>が来月発売になりますね。web上に連載してたものを編集して7巻本にしたもので、編集上の新たな工夫もある(年表も別巻でつくらしい)とのこと。興味はあるのですが、88,200円というその値段は強気ですね。書店では覧られるのでしょうか。ご覧になられた方はお教えいただければと思います。


No.1258
送料の事情
prospero(管理者)(2006-05-30 22:01:31)

確かに海外からの輸入の際に、送料は大きなネックになりますね。

以前は、紙ベースのカタログを作っているところからまとめて買うことが多かったので、一冊辺りの送料がかなり割安でしたが、最近ではABEで個別に引っかかるもので用を足しているので、どうしても送料が割高になってしまいます。Amazonなども見るようにしていますが、あまり変わりはないようですね。

何よりも、ABEなどの場合はメールの返信もすべて自動化されていて、個別に何かを対応してくれるということがなく、寂しい限りです。個々の古書店と付き合いの多かった頃は、関心のありそうな書目のリストを別途に送ってくれたり、いろいろとサービスがあったものですが。

便利になった分、交流が失われるというのは、ネット古書の場合も同様のようです。ただそうなると、稀覯書類の値の張るものを少々買いにくくなってしまいます。やはり見ず知らずの書店で、コンディションの記述なども制約があり、個別の対応をしてくれないとなると、なかなか発注するまでにいきません。しかも紙のカタログのように、そうそう書影の画像があるわけでもありませんし。

そういう意味では、最近再び国内の洋古書店も使うようになってきています。流石に以前の遠隔地貿易のような暴利を貪っていては成り立たないことが明らかになってきたので、レート換算もずいぶん安くなってきて、送料を考えると国内の古書店の方が安い場合さえも出てきたようです。これはこれで、ネットがもたらした怪我の功名というものでしょうか。


No.1255
Re:ネット書店事情
あがるま(2006-05-20 04:46:02)

>その他、皆さんがお薦めのネット書店などがありますでしょうか。

イタリアは送料が高く時間がかかるのが有名のやうですが。
最近偶然にIBS(Internet Bookstore Italia)に注文する機会がありました。

そこの50%オフの本だけ(ヴァッティモ、P.ロッシ、スレザク『プラトンを読む』など)
を試しに取り寄せてみたのですが、約1万8千円の本代に1万2千円の送料。
DHL便で日本まで3週間で着きました。
基本約14ユーロプラス品代の何%と云ふ送料計算ですから、
5割引きでもないと間尺に合ひませんね。



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No.1435
児島喜久雄とクリンガー
prospero (管理者)(2007-12-20 21:33:12)

白樺美術館どころか、印刷博物館の「百学連環」の企画展も見逃して、悔しい思いの管理人です。K. Akiraさんにご紹介いただきながら、レスポンスも遅れて失礼しました。

実は、「児島喜久男」のことが、以前気になっていた時期があって、それが何を切っ掛けとしたものだったのかが、思い出せなかったのですが、やっと気がつきました。『白樺』で企画した「マックス・クリンガー特輯」でした。

『白樺』第1巻第9号に、児島は60頁に及ぶ大きな記事でクリンガーを取り上げ、さらにはクリンガーの芸術論を翻訳し、紹介に努めたようです。その号の雑誌をクリンガー自身に送ったところ、児島宛にクリンガーからのお礼状が来て、それを切っ掛けに、第2巻第5号で、クリンガー特集を組んだようです。その口絵には、児島自身の "An Max Klinger"という口絵が掲載されました。これなどを見ると、クリンガー風でもあり、フォーゲラー風でもあり、いずれにしてもあの時期のドイツ芸術の影響が窺えます。『白樺』が紹介したのは、ロダンばかりでなく、同時にクリンガーであり、そこには児島喜久雄が大きく関わっていたというのは、興味深く思います。


No.1434
Re:児島喜久雄の作品について
ig(2007-12-14 14:36:19)

igです。お久しぶりです。
K.Akira様、あがるま様、いろいろ情報ありがとうございます。

白樺美術館で企画展を開催中なのですか。
今回は無理ですが、いつか展観の機会を得たいところです。

東北大学には児島文庫がありますね。もしかしたら、絵入りの
書き込みがあるのではないでしょうか。


No.1433
Re:児島喜久雄の作品について
あがるま(2007-12-09 22:35:00)

>児島の作品や研究ノートなどの資料は、山梨県の清春白樺美術館に所蔵されています。レオナルド作品の模写などは、たしか、弟子であり娘婿でもあった西洋美術史研究家の三輪福松氏が亡くなった際に遺族より同美術館へ寄贈されたと聞いています。

三輪福松が女婿だと云ふことも知りませんでした!
せつかく寄贈されても倉庫に眠つてしまつては勿体無いです!
清春白樺美術館の展覧会の案内にも、画像は一向見られません。
大学教授の肖像画が多いやうに想像してゐたのですが、それらは児島家のものではないでせうから、元の所有者の家族や大学が大切に保存してゐるのでせうか?
東北大学の資料館に彼の写真がありました
http://www2.library.tohoku.ac.jp/tua-photo/photo-disp-s.php


No.1432
Re:児島喜久雄の作品について
K.Akira(2007-11-29 16:32:37)

>児島喜久雄は絵の方の腕も大したものだつたさうで、ブルックハルトやウェルフリンなどは全くの素人だと云つてゐたさうですから − 一度見てみたいのですが、学習院か東京大学に残つてゐるのでせうか?


あがるま様
児島の作品や研究ノートなどの資料は、山梨県の清春白樺美術館に所蔵されています。レオナルド作品の模写などは、たしか、弟子であり娘婿でもあった西洋美術史研究家の三輪福松氏が亡くなった際に遺族より同美術館へ寄贈されたと聞いています。

ちなみに、現在清春白樺美術館では、『生誕120年 児島喜久雄と白樺派の画家たち』を2007年11月20日〜12月27日まで開催中で、児島作品も出展されているようです。


No.1430
Re:触発されていろいろと
あがるま(2007-11-17 17:59:00)

>クラーマーのその本<

W.Cramer自身の論文集ではありません。彼について書かれた論文をテーマ別に集めたものです。念のため!

>フランクやリーデルにしても、優秀な研究者という印象で、「思想家」というイメージからは遠いような気がします。<

フランスやオランダ・ベルギーには輩出してゐる(?)のに、ドイツやイタリアは駄目になりましたね。ノヴァリスの未出版の手稿が、旧東ドイツのWeissenfelsの彼が住んでゐたお城に沢山あるさうです。

>ヘムステルホイスは…しかしOLMで出されてしまうと、あそこの復刻は印刷が粗くて、こうなると髭文字も結構苦痛です。第一値段が、高いですし。これからはいっそのことDC-ROMですかね。

ドイツ語版は見たことがありませんが、復刻されるとすればフランス語の全集(と云つても2巻本が一冊になつてゐる。第二版?)でせう。
OLMSの復刻が印刷が粗いと思つたことはありませんが、最近大分安く売られてゐるので、WBのやうにもう復刻は已めたのかも知れませんね。他の新興出版社が沢山安く出すやうになりましたから。
原版のコピーではなく活字化して出版(やCD-ROM化)するまでにはならないでせう。




No.1429
触発されていろいろと
prospero(管理者)(2007-11-17 14:04:04)

ヘンリヒが活躍し始めた頃、60年代70年代というのは、概してヨーロッパ哲学の威勢が良かった頃ですね。クラーマーのその本は知りませんでした。しかしタイトルと出版社(Suhrkampなどではなく、Cottaという点でも)だけからでも、いかにもクラーマーらしいという気はします。いま検索したら、アマゾン・ドイツだと、マーケット・プレイス扱いになっていて、これだと海外への送付ははじかれてしまいました。ABEに出ているのは結構高いので、図書館で探してみます。

60年代・70年代の活況は、リアルタイムで知っているわけではありませんが、フランスのサルトル以降の現代思想の展開が賑やかに行われ、ドイツでもガダマー・ハーバーマスのイデオロギー論争やアルバートたちの実証主義論争など、論争という形態がプラスに作用していた時期でもありましたね。その辺りの論集も遅ればせに手にしてせっせと読んだのもずいぶん昔のことになります。いまのドイツ哲学は、ハイデガーたちの「神々の時代」から、ガダマーやヘンリヒの「英雄時代」を終えて、だいぶ小粒になっているようで、特にこの著者だけは何が何でも追いかけようというような存在が見当たらないというのが実情でしょうか。フランクやリーデルにしても、優秀な研究者という印象で、「思想家」というイメージからは遠いような気がします。

ナウマンの註解は、HPに書いたように、各部毎に分かれているので通しページがないのですが、だいだい各部が200-300頁なので、優に1000頁を越えます。髭文字もなれると特に何ということはないのですよね。読んでいるうちに次第にことさらに髭文字を見ているという意識もなくなってきます。ヒトラーにはたった二つだけ功績があって、一つはこの髭文字の廃止、そしてもう一つがアウトバーンの建設だと言われますね。

ポーダッハの『ニーチェの精神崩壊期の著作』は1961年、それに先立って1930年にご指摘の『ニーチェの精神崩壊』(Nietzsches Zusammenburuch)というのが出ています。『崩壊期の著作』のほうは、『ニーチェ対ワーグナー』、『アンチクリスト』、『この人を見よ』、『ディオニュソス讃歌』の成立過程を分析したうえで、それぞれのテクスト全文をポーダッハによる校訂で掲載しているものです。そのため400頁ほどある本文は、結果的にほとんどがニーチェのテクストというものです。『崩壊』の方は見たことがないのですが、おそらくこのテクストの分析の部分だけが最初に独立して出されたのではないかと思います。私もアンドレールの伝記は見たことがありません。

ヘムステルホイスは、ノヴァーリスやロマン派の自然理解全般にとって気になる存在ですね。しかしOLMで出されてしまうと、あそこの復刻は印刷が粗くて、こうなると髭文字も結構苦痛です。第一値段が、高いですし。これからはいっそのことDC-ROMですかね。

そういえば、グロイターのニーチェ全集は、ここ数年に出たものはCD-ROMが付くようになりました。それにはニーチェの手書きの草稿がそのままデータとして収められています。本の方は、それを活字に起こしているわけですが、ついに誰でも生の資料が見られるようになり始めてです。


No.1428
由良哲次『仏教の意識論』
あがるま(2007-11-17 10:06:20)

>由良哲次が写楽=北斎説を提示した『総校日本浮世絵類考』
>どうもこの著作は、私などが漠然と考えていたような、哲学者の余技、好事家の余興といったものではなく、その内容の点では反駁は可能でも、その存在自体はこの分野では無視できないもののようです。<

彼の大乗仏教論『仏教の意識論』はドイツ人学生のため書いた80頁足らずのエッセーで、内容は博士論文の副論文のやうな学究的なものではないやうです。

「それ故大乗は超越論的観念論或は意識の純粋現象学の理論で、大乗仏教の意識論は、厳密な意味で、認識する意識の学問的な探求ではない。その根本意図が根底に於いて、単に、宗教的自己意識とその方法を達成するための道を示すに過ぎない。…今日の意識についての学問的、認識論的研究と比較すれば仏教の認識論は不明確な点を持つてゐる。」(43頁)

が結論のやうなものですが、その後に「カルマと意識」「アーヤラ識と真理の発生」最後はナーガルジュナの空の概念の簡単な解説で空海の「十住心論」で結んでゐるのは、論文としての体裁を考へたものだと思ひます。

しかし何故北斎と寫楽のやうな(様式的には似てゐるものがあるとしても)丸で違つた画家が同一人だと鑑定するのでせうか?



No.1425
Gustav Naumannのコメンタール
あがるま(2007-11-16 21:09:27)

>考えてみると、W. Cramer, H. Krings、そしてD. Henrichといったラインは、私などが最初に「哲学」に触れたときに、強い印象を受けた流派でした<

そんな時代があつたのですね!
ヘンリッヒはガダマーのお気に入りで、米国にも弟子がゐて、世界中で有名でしたが、クラーマーはフランクフルトでアドルノの影に隠れて目立たない存在だつた。最近Rationale Metaphysik,1990.(Klett-Cotta)と云ふ2巻本の彼についての論文集を求めました。

ナウマンの註釈は全部で千頁以上になるでせうから、45?ならコピーするよりお徳ですね。
Frakturと云ふヒゲ文字を止めたのは、ヒットラーの命令だつたさうです。

前からアンドレールのニーチェ伝が欲しかつたのですが(前にガリマールに行つたら表紙のラミネートの剥がれたものなら全部揃つてゐましたが)ありさうでありません。やつと新刊本屋で第3巻だけ求めました。

ポダッハ『精神崩壊期におけるニーチェの著作』はフランス語訳が文庫本で出てゐたと思つたら、これは1930年に出たNietzsches Zusammenbruchと云ふ小冊子(抄録でせうか?)の翻訳でした。

ドイツ版もあるさうですが、ドイツ浪漫派には気になるHemsterhuisの哲学全集は、何十年も前にOLMSから復刻の案内が出てからも一向出ませんね。










No.1421
由良哲次『総校日本浮世絵類考』
prospero(管理者)(2007-11-13 23:03:47)

これも前のスレッド、とりわけ<a href="http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?humanitas+1343">no. 1343</a>に絡んでのことですが、由良哲次が写楽=北斎説を提示した『総校日本浮世絵類考』についての記述を眼にしたので、ご報告です。中野三敏『写楽』<small>(中公新書)</small>という大変洒脱な新書で、由良氏の『総校日本浮世絵類考』の評価が記されています(p. 34, 71参照)。この著作、写楽の情報源としても重要な斎藤月岑『浮世絵類考』の成立史をさまざまな写本を通じて交合した文献学的考究ということなのですが、どうもこの著作は、私などが漠然と考えていたような、哲学者の余技、好事家の余興といったものではなく、その内容の点では反駁は可能でも、その存在自体はこの分野では無視できないもののようです。

 「前者<small>〔『総校日本浮世絵類考』〕</small>は、月岑本を底本としながら、以下昭和初期までの浮世絵師伝の類を網羅して、1515名に及ぶ項目を立てて諸本の本文を引用列記し、さらに詳細な「浮世絵類考成立史」を付載するという、文字通り老哲学者の力作である」とのこと。この中野氏の『写楽』でも、最終的には中野自身が公表した『江戸方角分』という書物の信憑性を、由良氏が『総校日本浮世絵類考』が頭から否定していることへの反駁が大きな部分を占めています。中野氏の新書全体の記述も面白いのですが、とりあえず由良哲次関連のご報告を。


No.1420
まさしく
prospero(管理者)(2007-11-12 22:13:40)

ちょっと驚くというのか、笑ってしまうというか、私がFrankと一緒に頼んだのも、ヘンリヒのその著作です。(もう一冊は、ザフランスキの『ドイツ・ロマン主義』でした。こちらはこの著者らしい、読み物風の紹介です)。

考えてみると、W. Cramer, H. Krings、そしてD. Henrichといったラインは、私などが最初に「哲学」に触れたときに、強い印象を受けた流派でした。大学に入ったときにすでにある程度ドイツ語が読めたので、助手の方が面白がって、一緒にKringsやApelを読んでもらったのを思い出します。Cramerの記念論文集でヘンリヒが書いたフィヒテ論、ヘンリヒ60歳の記念論文集『主観性の理論』などは、戦後ドイツ哲学の一つの頂点だったのではないかとも思っています。

しかしヘンリヒも大著を書く癖があるので、大部の二冊のヘルダーリン論などは、手に入れたまままだ読むに至っていません。

ブルーメンベルクも、歿後本当によく本が出ますね。これもなかなか追いきれません。少し内容を紹介したいとも思うのですが、年内はほかの用事が目一杯詰まっているので、まず無理そうです。レヴィナスとの平行関係というのも、是非伺ってみたいと思います。


No.1419
ネット上の論文
あがるま(2007-11-12 21:35:56)

>よくこういうものを見つけられますね。

少し前までは上枝美典氏の福岡大学の頁にトマスについての論文が載せられてゐて、とても参考になつたのですが、何時の間にか見られなくなつたやうです。彼がフォダム大学に留学して「若きハイデッガー」を書いてゐる時のヴァン・ビュレンの講義を受けたことなども触れられてゐたのですが。残念です!
さう云へばE.ラスクの論文がウエッブ上に沢山あつたのも、再度出版されるやうになつたのか、コピーしないうちに消えてしまひました。
ネット上の情報と云ふのは本当に寿命の短いものなのですね。



No.1417
Re:Amazonの誘惑
あがるま(2007-11-12 06:51:45)


>FrankのAuswege aus dem deutschen IdealismusもAmazon.deで注文してしまいました。そうすると例によって関連書籍が引っかかってくるので、ついつい一緒に頼んでしまったりします。

一緒に何を買はれましたか?
私はD.ヘンリッヒの『思考と自己存在』を求めました。
80歳になつたヘンリッヒの最近の本は大部で高価な上に、TuebingerStiftでヘーゲルなど三人組に影響を与へた補習教師Dietzなどドイツ観念論の細かい処への言及なので手が出ませんでしたが、ワイマールでの一般講演なので読めるかと思つて。
弟子のフランクも云ふやうに彼がドイツ観念論(史)について(米国のFrederic Beiserなどと並んで)一番良く知つてゐるし、W.Cramer, H.Krings、或いは早世したM.Brelageを嗣ぐ超越論哲学の代表者なのですから貴重です。
序でに初期ヘーゲル研究で名高いA.Peperzakのレヴィナス入門書To the Other,1993.(Purdue UP)も特価が出てゐたので頼みました。
読んでも直に忘れてしまふので、一向腰の定まつた読書が出来ませんが、読み散らかしてゐるうちにブルーメンベルクとレヴィナスの平行関係が少し分つて来たやうな気がします。

寧ろprosperoさんにはブルーメンベルクのC.シュミット論や彼との往復書簡集の方が適してゐるかも知れませんね。






No.1412
翻訳批評の難しさ
prospero(管理者)(2007-11-07 22:01:01)

よくこういうものを見つけられますね。

グラントの翻訳書に対する検討、大変細かく丁寧な作業で、まず訳者は、これほどの熱心な読者に恵まれたことを喜ぶべきでしょう。おそらくこれほど細部にまでわたって読んでくれる読者はそうそういるものではありません。

すべてをじっくり見るだけの余力はありませんが、確かにこれらの指摘の一つ一つは尤もなようですね。ただ、これをもって、「通常の翻訳書にあってはならないレベル」かどうかはにわかには判断できません。こうした部分的な訳の粗さが、全体の理解にとってどれほど致命的かという点から、全体を見渡してみないことには、何とも判断のしようがないからです。誤訳指摘というものは、やり始めると面白く、ついつい語学教師風の理不尽な潔癖さをもって訳者を攻めるということになりがちなので、なおさら配慮が必要でしょう。

翻訳批評というのは、むしろそれをやる側のリスクが大きいようにも思います。それは何も、訳者から怨まれるという理由からではなく、何を大きな誤りとみなすかで、評者側の判断力の質が逆に顕わになってしまうようなところがあるからです。

そういえば、ヴァールブルク文庫を一躍有名にした山口昌男『本の神話学』のくだんの論考も、みすず書房旧版のP・ゲイ『ワイマール文化』の激烈な誤訳指摘でしたし、古くは林達夫『書籍の周囲』での仮借ない誤訳指摘が思い出されます。これらが単に揚げ足取りに終わっていないのは、語訳指摘を元にそこに文化史なり思想史なりの文脈を浮かび上がらせたからでしょう。

それにしても、つねづね英語の翻訳は怖いと思っています。特に英語の場合は、ごく簡単な文章が逆に足を引っ張ったりすることが多いので、油断がなりません。今回のグラントの本の場合も、かなりそういう部分があるようなので、そんな思いをより強くします。その点は、ドイツ語のほうがまだ安心できるような気もします(私自身のそれぞれの言語への馴染み方の違いにすぎないのかも知れませんが)。


No.1411
Re:中世の科学論
宇宙人(2007-11-07 00:39:15)

>『中世における科学の基礎づけ』誤訳リスト

暇ですよね、まったく。


No.1410
Re:中世の科学論
あがるま(2007-11-06 06:49:14)

<最近グラントの『中世における化学の基礎づけ』の翻訳がでましたね。>

余計なことですが、2チャンネルで
福岡大学の上枝美典氏の
ueeda.sakura.ne.jp/memo/fmm-j.html
『中世における科学の基礎づけ』誤訳リスト
と云ふのが紹介されてゐました。

<原書は、近代科学の基礎となる部分が、その前の時代である中世において、どのようにはぐくまれてきたかを、豊富な実例を用いて明快に論じた好著ですが、訳書には、以下に示すような大量の誤訳が含まれています。しかも、よくある専門用語の訳出ミスではなく、ほとんどが英文解釈上の誤りです。>

内容はよく見てゐませんが、ウエッブ上での筆者の論文から見ても誠実なものだと思ひます。

CUP版は25$くらいで買へるのでprosperoさんには関係ないでせうが。


No.1407
百学連環
prospero(管理者)(2007-11-05 22:03:18)

この「驚異」ということに絡み、さらに百科全書という主題で、展覧会<a href="http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/070922/index.html">「百学連環」</a>が、印刷博物館(水道橋)で開催中です。この印刷博物館、凸版印刷のビルの地下のかなりのスペースを占めていて、通常展示もかなり愉しめます。ミュージアム・グッズも見落とせません。この展覧会、時間があったら行ってみたいと思います。ちなみに、この凸版印刷ビル一階の「トッパン・ホール」もなかなか良いホールで、室内楽の意欲的なコンサートを継続的に企画しています。以前、深山尚久さんのヴァイオリンを聴きに行きました。来年はチェロのウィスペルウェイの演奏会があるのですが、気づいたときにはチケット完売でした。


No.1406
Amazonの誘惑
prospero(管理者)(2007-11-04 09:43:42)

HPのほうにも入れましたが、山口昌男に関しては、大塚信一への手紙を編集したものが出ました。もう本当に一昔どころか、一世代前ということになってしまったのですね。『本の神話学』は本当に衝撃的でした。紹介されている文献をせっせと漁るという経験をした著者という点では、由良君美や高山宏も共通していました。いまはどうでしょうね。こちらの感性も鈍っているのかも知れませんが、なかなかそういう著者に出会うことがなくなってきたようにも思います。

『モーウィン』、面白そうですね。すでに版元切れのようですが、Amazonには紹介が出ていましたし、マーケット・プレイスに出品されていたので、注文してしまいました。先日、あがるまさんにご紹介いただいたFrankのAuswege aus dem deutschen IdealismusもAmazon.deで注文してしまいました。そうすると例によって関連書籍が引っかかってくるので、ついつい一緒に頼んでしまったりします。あがるまさんと違い、海外に出る機会も少ない私には便利であると同時に、危険なツールではあります。


No.1405
Re:由良の弟子
あがるま(2007-11-02 02:28:50)

> イェイツのCollected Essaysのほうは、やはりあの三冊で完結なのですね。一冊目が出たときに、神保町の北沢書店で大喜びで手に入れたのを思い出します。その北沢書店もずいぶん変わってしまいましたね。<

山口昌男『本の神話学』で我々がF.イエーツの名前を初めて聞いてから一代以上経つてゐるのですね。
由良君美はG.スタイナーの翻訳で私には記憶に残つてゐます。スタイナーがトルストイに匹敵する大小説家と呼んだJ.C.Powysの小説も(創元文庫の『モーウィン』も含め)買つたまま読んでもゐません。
でも由良の弟子の誰もポウイスの翻訳もしさうにありませんね!
さう云へばヘンリー・ミラーもポウイスの賛美者でした。
彼の”Visions & Revisions”と云ふ評論集やポウイス3兄弟についての本には北澤書店のシールがついてゐました。


No.1401
Re:西田幾多郎の手紙
あがるま(2007-10-14 03:13:21)

>由良が訳したのは、「叡知的世界」ですね。高橋文訳の「真・善・美の統一」というのは、元は何でしょうね>

『叡智的世界』は論文集『一般者の自覚的体系』の第4論文で昭和3年10月に発表され、述語の論理の概略を素描したものですから、最も論理的(でなくてはならないやう)な論文で、これを

<「あの論文だけでは、ほとんど小生の考えが分らず、余程詳しい全体の叙述がなければ、だめと思います。あの論文の訳だけでは、きっとドイツの学者には、訳の分からぬ東洋人の囈としか思われないであろうと思います。>
と云ふのです。結局
この論理を基礎づけるのに、アリストテレスの「主語となつて述語となることがない」と云ふ実体(個物)の定義を逆立ちさせて、それに普遍を述語しただけですから、論理的におかしくなつたやうで気になるのでせう。
それとも同書の最後にある『総論』なら翻訳を許可したのでせうか?

『真善美の合一点』(大正10年9月発表)は論文集『藝術と道徳』の中の一文で、その合一点とは宗教である(而して道徳の最終点に於ける統一は最早藝術ではなくて宗教でなければない)と云ふ論議ですが、結局主張してゐることは同じで、真善美が超越範疇だと云ふ哲学史上の常識を確認したに過ぎません。
それを西欧がノエマ(主語、実体、個物)からイデアを強調するに対しノエシス(述語、一般概念、主体)の立場からでも辿り着けると云ふ話しで、彼の主張する、「述語の論理」やノエシスからの論理が、精々西欧の鋸が押して切るのに対して日本の鋸が引いて切るやうな違ひ、としか見えないと云ふ危惧は誰でも抱くでせう。

>**
>フランクはしばらく前、Selbstgefuehl『自己感情』(2002)という単著を、またまたご贔屓のズーアカンプから出していましたね。手元に届いていましたが、うっかり失念していました。ただ、題材的には、いますぐに読みたいという感じではありません。

最近『ドイツ観念論からの出口(結末?)』に初期ロマン派に関する過去の逸文をまとめたやうですね。彼はズアカンプ書店の編輯顧問でもあるやうです。


No.1400
イタリア新作ヴァイオリン
prospero(管理者)(2007-10-11 21:51:46)

オールドのヴァイオリンでも、ドイツ製は分が悪いというか、お買い得で、80万くらいから手に入るようですが、これは次に処分するときに手放しにくく、その点ではよほどその楽器が気に入った場合は別として、あまりお薦めはできないとのことでした。

さて、「コンテンポラリー」、いわゆる新作ヴァイオリンですが、この分野でもイタリア、とりわけクレモナの優位は圧倒的なようです。モラッシなどの巨匠の元で研鑚を積んで、そこから独立したような人々がコンクールに入賞したり、数々の実績を重ねることで、そのブランド力は維持されているようです。しかしなかには不心得な作家もいて、中国辺りで作られた白木のヴァイオリン(ニスを塗っていない無垢の状態)を調整して、ニスを塗って「イタリア製」のラベルで売りに出すなどということも行われているとか。いくつの店で、Scolari, Morassi, Cassi, Portanti, Montagneといった作家たちの新作を見せてもらってきました。このなかでは、Morassiがかなり格が上のようです。私如きの試奏でも、各楽器の違いはそれなりにわかって、面白いものです。

しかし小さなお店だと、特に試奏室があるわけでもなく、店主はさりげなく席を外しはするものの、結構緊張します。プロの弾き手でも、いろいろなプレイヤーを見てきた楽器店主の前での試奏はそれなりに緊張するとか。しかしそんなことも言っていられないので、いくつかの店で試奏をすることで、段々に慣れて、というか厚顔無恥になってきました。そんなことで、目当ての楽器を徐々に絞り込みつつあります。


No.1398
ヴァイオリン探訪
prospero(管理者)(2007-10-06 18:08:57)

ヴァイオリンを探すのも、しばらく事情があって、そのままになっていましたが、夏ごろから少し動いています。

この前のチャイコフスキー・コンクールでは、神尾真由子さんが、千住真理子さん以来のヴァイオリン部門優勝というニュースで、陰に隠れてしまいましたが、チャイコフスキー・コンクールにもヴァイオリン製作部門があって、<a href="http://strings.miyajimusic.jp/Tchai.php">報告</a>によると、前回は日本人が上位を独占しました。一位、二位、四位を独占という恐るべき実績です。日本人は、この分野でもかなり頑張っているようで、心強い限りです。

さて、肝心のヴァイオリンなのですが、昨年は普通の販売店(YAMAHAとか、山野とか)を訪ねて、量産品を見てきました。この夏は、工房を兼ねている販売店(おおむね小さなお店)のいくつかで、マスター・メイドの作品(基本的に一人の職人さんが最初から最後まで制作したもの)を見せてもらってきました。

まず分かってきたのは、やはりヴァイオリンという楽器はそれなりの相場が決まっているものの、それはかならずしも「音」を評価したものとは限らないということです。ある意味、骨董品や工芸品一般ときわめて近い感覚で評価がなされているようなところがあるようです。要するに、有名な作家で残した数の少ないものは高いという原則です。新しく作られた楽器にも同じことが言えて、いわゆるモダンとコンテンポラリーという区別はそうしたことに関わっているようです。つまり一般的に「モダン」と云われるのは、20世紀に入ってからの制作者で、現在すでに歿している人の作、「コンテンポラリー」は現役で活躍している作家のものというおおまかな区別です。これは、楽器の成立という点から言えば、ほとんど意味のない区別のように思えますが、要するに「モダン」と言われるものは、すでに制作者が歿しているので、作品が増えないというところが大切のようです。その意味では、作者が現存していても、すでに作品作りを辞めてしまっているような場合は、「モダン」扱いをされるようです。

そんなわけで、定評のある「モダン」の作家(とりわけイタリア)の楽器は、基本的には値下がりすることはないということになります。あがるまさんが挙げておられたファニョラなども、1939年歿なので、「モダン」、それもきわめて評価の高い「モダン」ということになりそうです。この辺りは、例えば神田侑晃『ヴァイオリンの見方・選び方 応用編』<small>(レッスンの友社)</small>などが一覧表と評価などを載せています。しかしこうなると、価格的には500万からというとんでもないことになりそうです。この辺りは、相場が相当しっかりしていて、基本的に掘り出し物はないと考えたほうが良さそうです。素人がオークションで落とすなどは危険この上ないことでしょう。

段々分かってきたのは、ヴァイオリンの相場というものは、稀覯書とも似たところがあるということです。価格の評価が上に書いたようなシステムに乗っている以上、高い楽器がかならずしも音が良いとは限らないわけで、そこにはある種の歴史的価値が大幅に加算されるということです。モダン・エディションのほうが、テクスト校訂としては優れているが、それでも例えば誤植だらけの初版のほうが圧倒的に高価だというのと似ているかも知れません。ちなみに、秋に<a href="http://park10.wakwak.com/~jsima/fairinfo/fair2007/fairinfojp.html">弦楽器フェア</a>が開催されるのも、古書市と同じで面白く思います。ちなみに開催場所も、神保町にも近い、科学技術館です。

いずれにしても、私に関係のあるのは、やはり「コンテンポラリー」の作品ということになります。ということで、次回はこの辺りのお話を。


No.1397
『驚異と自然の秩序』
prospero(管理者)(2007-09-28 20:57:20)

「新着図書」のコーナーに記しましたが、『驚異と自然の秩序』を手に入れました。図版入り500頁の大冊で、ひさしぶりに胸ときめく書物です。本当によいものを教えていただき、ありがとうございました。


No.1396
由良の弟子
prospero(管理者)(2007-09-26 21:07:08)

前のスレッドの続きの話題とも言えますが、由良君美の系譜に属する最大の人物といえば高山宏でしょう。その「われらが高山宏」(?)が最近また活動を始めつつあるようです。『超人 高山宏の作り方』<small>(NTT出版)</small>から、<a href="http://mgw.hatena.ne.jp/?url=http%3a%2f%2fbooklog%2ekinokuniya%2eco%2ejp%2ftakayama%2f&noimage=0&split=1">書評サイト</a>など、このところ動きが活発になってきました。楽しみではあります。『超人 高山宏』などでは、ご本人はご自身を「学魔」と称していますが、もはや「芸人」に徹したそのパフォーマンスが見事といえば見事<small>(けっして好ましくはないけれど)</small>。10年ほど前に、生前追悼文集のような『ブックカーニバル』<small>(自由國民社)</small>を出していましたが、今回のは自己暴露本のようなもの<small>(自爆本?)</small>。歿後しばらく経ってからようやく弟子の一人によってその学のありようが語られ始めた由良君美などとは、だいぶ芸風が違うようです<small>(ましてや、外国語での発表でも勝負しようとしたその父君とも)</small>。ちなみに、高山氏の書評サイトでも、ヴィント『シンボルの修辞学』が取り上げられていました。

>宇宙人さま
 イェイツのCollected Essaysのほうは、やはりあの三冊で完結なのですね。一冊目が出たときに、神保町の北沢書店で大喜びで手に入れたのを思い出します。その北沢書店もずいぶん変わってしまいましたね。


No.1395
Re:イエィツのことなど
宇宙人(2007-09-21 11:50:13)

>この論文選集は完結したのでしょうか

Routledge から十冊の選集として Yates の著作がまとめられて出版されており、その最後の三冊が、いわゆる Collected Works に当たるのではないかと思います。

> Thorndike

あまりに大部ですし、逆に抄訳では削除されてしまうような細かい記述にこそ、彼の著作の真価があるように思われます。


No.1394
ソーンダイク
prospero(管理者)(2007-09-20 20:32:20)

前の項目に入れ忘れました。やはり錬金術なども絡めて中世科学史ということでは、<font face="times new roman">Thorndike, <i>History of Magic and Experimental Science</i>の邦訳<small>(せめて抄訳でも)</small></font>欲しいですね。

ちょっとした追加でした。


No.1393
イエィツのことなど
prospero(管理者)(2007-09-20 20:28:19)

良いものを教えていただきました。Wonders and the Order of NatureはPaper Backが出ているのですね。早速注文を出しました。それにしてもAmazonは助かります。各国のAmazonのUsed価格までざっと見て、送料とのバランスで最も廉価なものを注文することができますから。以前は主にABEを使っていましたが、最近のEuro高や送料の高騰を考えると、結局は国内のAmazonが一番安いこともしばしばです。

仰るように、Yates の Giordano Bruno and the Hermetic Tradition がいつまで経っても出ませんね。いろいろな訳者や出版社の名前が取り沙汰されていて、時期に出るような話を聞くこともありますが、それも二転三転しているような様子。例えば、その代わりにCollected Essaysの第一巻Lullu & Brunoでも良いですよね<small>(『ヴァールブルク年報』に発表された論文が集められれている。ちなみにこの論文選集は完結したのでしょうか)</small>。イエィツの場合、邦訳も晶文社、平凡社、水声社、東海大学出版会とばらばらで、見通しが悪いのもいけません。どこかで、「コレクション」のようなかたちでまとめてくれるとだいぶインパクトがあるのではないかと思います。

David Lindberg の研究書は、私も以前、必要があって入手したことがあります<small>(『アル・キンディからケプラー』のほう)</small>。ダンテ辺りの光のイメージというのが少し気になって、<font face="times new roman">S. A. Gilson, <i>Medieval Optics and Theories of Light in the Works of Dante</i></font>も入手してみました<small>(もちろん、著者はGilsonはGilsonでも、あの有名なE. ジルソンではありません)</small>。

ドロンケの編集した書物も面白そうです。いろいろ有益な情報をありがとうございます。またいろいろお教えくださいませ。


No.1392
Re:中世の科学論
宇宙人(2007-09-19 15:38:41)

>『中世における科学の基礎づけ』

現在の中世科学史の研究状況は大変進んでおり、グラントの本は「古典」的な著作のうちの one of them といった位置づけが今は妥当だと思います。比較的最近の中世科学史の成果を総覧するには、Park and Daston, Wonders and the Order of Nature, 1150-1750 (New York: Zone Books, 1998) の前半がご参考になると思います。

>中世後期の自然論が、コペルニクス革命を「準備する」予備的なものとみなされたいた状況は確実に変わりつつあるように思います。

仰る通りです。ただ、(きちんと公刊されている)一次文献の量や、その議論の多彩さという点もあり、どうしても初期近代をどう見るか、そしてそれに先立つものとして中世の議論をどう位置づけるか、という視点は避けることができないのかもしれません。その点にかんしても Park and Daston は(少なくとも現在の研究水準での)とても良い見通しを与えていると思います。ただし、この四半世紀の議論に決定的な影響を与えたと思われる Yates の Giordano Bruno and the Hermetic Tradition の邦訳が未だ為されていないのが、(私が言うまでもないと思いますが)現状をより見えにくくしているのかもしれません。

>例えば12世紀のシャルトル学派の自然学や、古代から近代まで意外なほど連続性のある「光学」の流れなど。

「光学」の系譜にかんしては、David Lindberg が開拓したので、かなり分かっている部分が多いと思われます。この分野にかんしては本邦への紹介が致命的に遅れているということに過ぎません(Theories of Vision from al-Kindi to Kepler や Roger Bacon and the Origins of Perspectiva in the Middle Ages など)。ただし、Roger Bacon を近代的な意味での経験的科学者だと考えるような見方に対しては、近年再考が為されています。12 世紀の自然学ということにかんしてですが、アリストテレスとアヴェロエスの本格的な受容という点で、13 世紀以後のスコラ的自然哲学を、12 世紀までのプラトン主義的な自然哲学からいったん分けて考えるのが、現在でも主流なのではないかと思います。ただし、現在では占星術、錬金術、そして医学の受容などを、より重要な問題として考える傾向があり、その点で単なるプラトン的、アリストテレス的という区分は意味がないとも言えます。12 世紀の自然学にかんしては、ある程度標準的な総覧という意味では Peter Dronke (ed.), A History of Twelfth-Century Western Philosophy (Cambridge: Cambridge UP, 1988) が。より個別の事例にかんしては、近年の Charles Burnett や Thomas Ricklin の諸論考が有益です。失礼しました。



No.1389
西田幾多郎の手紙
prospero(管理者)(2007-09-18 13:43:21)

由良が訳したのは、「叡知的世界」ですね。書簡を見ると、その翻訳の話を聞いた最初の頃の西田は、「私如きものの考えを独語にて紹介せられること、過分の光栄と存じます」(1930/12/15)、あるいは「あの論文をそういう風にして訳し印刷に付せられることは、君の自由にまかせてよい(12/19)と言いながら、一月も経たない内に、にわかに雲行きが変わっています。「あの論文だけでは、ほとんど小生の考えが分らず、余程詳しい全体の叙述がなければ、だめと思います。あの論文の訳だけでは、きっとドイツの学者には、訳の分からぬ東洋人の囈としか思われないであろうと思います。彼らには、たんに東洋人の顔色はいやに黄色いとか、下駄や傘は妙なものだというような好奇心を満たすに過ぎないでしょう。……君が折角苦心して訳せられたものを打ち壊すのは、情においてまことに忍びないが、どうか、あれを出版することは断然やめてもらうようにはゆかないか」(12/23)と変わっていっています。

これを見ると、由良の訳を承認しなかったのは、訳文の問題よりも、論文の選択というところに引っかかっていたようです。確かに「叡知的世界」のようなものだけを、いきなり出されても、理解しづらいというのは、西田の考えた通りだと思います。お手元におもちの高橋文訳の「真・善・美の統一」というのは、元は何でしょうね。そう言えば、浅見洋という人は、西田の講義録を下記残していて、小さな雑誌に発表していたようです。

**
フランクはしばらく前、Selbstgefuehl『自己感情』(2002)という単著を、またまたご贔屓のズーアカンプから出していましたね。手元に届いていましたが、うっかり失念していました。ただ、題材的には、いますぐに読みたいという感じではありません。


No.1388
中世の科学論
prospero(管理者)(2007-09-18 13:15:48)

そうですか、ご関心の中心は中世の科学論ですか。最近グラントの『中世における化学の基礎づけ』の翻訳<small>(知泉書館)</small>がでましたね。以前のみすず書房から出ていた『中世の自然科学』とは別物で、著者自身が大幅に増補したものになっています。

中世の科学論は、それこそカンギレーム辺りの影響もあって、だいぶ見方が変わってきたのではありませんか。特に、中世後期の自然論が、コペルニクス革命を「準備する」予備的なものとみなされたいた状況は確実に変わりつつあるように思います。ただ、グラントのものも、13世紀のアリストテレス受容からコペルニクス革命という流れを追ったものなので、中世の自然論そのものと言えるのかどうか。例えば12世紀のシャルトル学派の自然学や、古代から近代まで意外なほど連続性のある「光学」の流れなど、面白そうな主題がいろいろありますね。特に「光学」などは、ボナヴェントゥラの光の形而上学から、ロジャー・ベーコンの光学、さらにデカルトの屈折光学など、ラインとしては面白そうに思えるのですが。


No.1386
Re:エピステモロジー
宇宙人(2007-09-17 23:55:49)

>新カント学派の場合は、科学基礎論を謳いながらも、科学における「実証性」をある種の構成された意味として考えるために、最終的にカント的な統覚の着想の範囲内にあります。これに対して、フランス的エピステモロジーは、「実証性」ということを梃子にして、むしろ統覚する主体という考え方そのものを転換していこうとしているように思います。

なるほど。大変丁寧な御回答感謝いたします。私は現在中世の自然哲学を勉強しているものですが、カッシーラー(の『認識問題』のような問題設定)と、以後の科学論のようなものとの断絶にも多少興味があり、質問させていただきました。ご回答いただき、ありがとうございました。以後も質問させていただければと存じます。


No.1385
エピステモロジー
prospero(管理者)(2007-09-16 17:28:57)

>宇宙人(!)さま

仰るところの「概念の哲学」というのは、いわゆる「エピステモロジー」ということでしょうか。<br>
フーコーの晩年の論文「生命 ―― 経験と科学」<small>(『ミシェル・フーコー思考集成X』筑摩書房)</small>がこの辺りの経緯について語っていますね。フーコーはここで、20世紀後半の哲学の潮流を二つに分けています。「経験、意味、主体の哲学」と、「知、合理性、概念の哲学」という二つです。前者に属するものとして、「サルトルとメルロ=ポンティ」、後者の系譜として、「カヴァイエス、バシュラール、カンギレム」に触れています。この後者がいわゆる「エピステモロジー」の流れになるでしょう。この整理でいくと、カッシーラーなどの新カント派は、むしろカント的な「経験、意味、主体の哲学」という前者の系列に入ることになります。

つまり、同じように認識論・科学論といっても、ドイツ的な新カント学派とフランス的なエピステモロジー(概念の哲学)のあいだには、少し関心のずれがありそうなのです。それはおそらく「実証性」というものをどう考えるかという点に由来するような気がします。新カント学派の場合は、科学基礎論を謳いながらも、科学における「実証性」をある種の構成された意味として考えるために、最終的にカント的な統覚の着想の範囲内にあります。これに対して、フランス的エピステモロジーは、「実証性」ということを梃子にして、むしろ統覚する主体という考え方そのものを転換していこうとしているように思います。だからこそ、その後フーコーなどが、「考古学」や「系譜学」という着想で、主体そのものの形成を問題にすることができたのだろうと思います。

差し当たり、こんな整理はいかがでしょうか。「宇宙人」さんのご関心の方向などもお知らせいただければと思います。


No.1384
ご指摘、ありがとうございます
prospero(管理者)(2007-09-15 12:01:14)

コンピュータを替えてからというもの、HPの弄り方がわからなくなって、しばらく放置してありました。少し時間ができたので、いろいろ試した結果、エディターでHTMLを直書きするという最も原始的なやり方に戻りました。面倒なので、あまり細かい工夫はできませんが、過去ログなどもとりあえず救い出してアップしつつあります(そろそろ終わりです)。その他、音楽関係の頁を増設してみました。今後どれほどの更新ができるか分かりませんが、とりあえず方向だけは作っておいたような次第です。

「新着図書」のリンクの件、ご指摘ありがとうございます。気がつかずにいました。これでは、いくらページそのものを更新しても無駄だったわけですね。直しておきました。その他、不都合などありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


No.1383
Re:少々弄りました
LMN(2007-09-15 00:54:16)

ホームページのほうにいくつか更新があったので嬉しく思いました。
ところで新着図書ですが、リンクページが2006年のままになっています。調整していただければ幸いです。


No.1382
Re:ロマン派など(承前)
宇宙人(2007-09-14 16:46:53)

>カッシーラーなどが「象徴形式」を語る際には、『純粋理性批判』の認識論の拡張のように見えながら、「象徴を操る人間」という議論にまで拡大するときには、「象徴」に理論と実践の媒介という役割を担わせるているのではないでしょうか。

無知ながら失礼します。フランスで言われる「概念の哲学」というのは、このカッシーラー的なモチーフの展開といえるのではないでしょうか。


No.1381
西田幾多郎の翻訳
あがるま(2007-09-14 01:52:02)

ミッシュの大著もお持ちのやうですね。
ベンヤミンのロマン派芸術論も読んでゐないので話しを続けられないのですが、
M.フランクの論点と重なつてゐたやうな気がします。

四方田犬彦の『先生と私』を店頭で見てみました。
由良哲次は西田幾多郎の論文の翻訳をしたが、西田の許可が出なかつたさうですね。これはこの欄で既に知つてゐたのですが、
手許に、西田の”Die Einheit des Wahren,des Schoenen und des Guten“ のコピーがあります(Journal of the Sendai Cultural Society,pp.116-166) 、高橋文(たかはし・ふみ)訳Oskar Benl校閲です。
何時頃のものか知りませんが、由良と同じ頃でせう。日本発行された雑誌だつたからか、翻訳者が西田の姪であり、協力者が『枕草子』などの翻訳で有名な日本学者なので西田も許可したのでせうか?
高橋文については金沢の浅見洋と云ふ方が本を出されてゐるやうですが、読んだことがありません、私の知つてゐる限りでは東北(帝国)大学で哲学を学び、その機関誌『文化』にスピノザについての(卒業?)論文を発表してゐるやうです。フライブルク大学に留学したが、やがて修道院に入り、現地で亡くなつたさうです。




No.1380
ロマン派など(承前)
prospero(管理者)(2007-09-09 11:32:14)

<a href="http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?humanitas+1378">前のスレッド1378</a>の続きなのですが、階層が深くなりすぎたので、便宜上スレッドを改めます。

カントの着想は、直観と悟性的認識というかなり性格の違った能力を、人間の能力として一括して精査しようとするところから、ああいったかたちになったのではないかと思います。「直観」という場合、アリストテレスでは最低次の認識であると同時に、最終的には神的な認識も直観的な性格をもつとされていたわけで、その点でもカントがやろうとしたのは、それを「判断」という能力で繋ぐという方向でしょう。図式論というのは、言葉だけ聴くと非常にスタティックに聞こえますが、これこそが認識という「行為」を表すのですよね。「実定的なキリスト教の信仰との妥協」というのは、『実践理性批判』での理念の問題などが含まれるのでしょうか。そうだとすると、カントの場合は、それを可能な限り「実定的」な性格をそこから拭い去ろうと努力はしているような気はします<small>(上手くいっているかは兎も角)</small>。

ロマン派は仰るように、フィヒテの前期に大きく感化されていますが、その場合でも、自我の絶対性の替わりに反省の無限性を強調するなど、方向の微妙な転換をやっているように思います。シュレーゲルなどを主題に、そうした議論をやったのがベンヤミンのロマン派論でしょう。

ミッシュの本がいま見つかりません。まだ本がいろいろと片づいていなくて、いま少々時間ができたのを機会に、少しずつ段ボールを開けたり、配列を考えたりごそごそやっているところです。いずれミッシュにも再開できるかもしれません。そうそう、ミッシュには、ディルタイの影響を大きく受けた大きな伝記研究がありましたね。


No.1379
少々弄りました
prospero(管理者)(2007-09-08 17:46:09)

かなり長いこと放ってあったので、過去ログなども溜って気になっていました。今表示されている掲示板でも、そろそろ最後のスレッドが消去されかかっているので、これは<a href="http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/scriptorium.html">Scriptorium</a>の中に、「これまでの議論」というかたちで収納させていただきました。またそれ以外の<a href="http://members.at.infoseek.co.jp/studia_humanitatis/gewesen15.html">過去ログ</a>も少々アップしました。お書きくださった方々、ご了承ください。

書式をこれまでと合わせようとしてうまくいかないまま放置していたので、今回は掲示板のソースをそのまま貼り付けるという簡単なかたちを取らせていただきます。これなら何とか、先が繋げられそうです。ということで、とりあえずご報告です。

何か問題点がありましたら、ご指摘ください。細部の不備は仕方ありませんが、致命的な問題がなければ、当座はこんなかたちで過去ログのアップを続けてみようかと思います。


No.1378
Re:『判断力批判』の展開
あがるま(2007-09-05 18:36:05)

>ドイツロマン派などは『判断力批判』に定位しているということにならないでしょうか。<

M.フランクやW.Hogrebeを読んでみるとその辺が分るのかもしれませんが、ドイツロマン派(ヘルダーリンはその枠外になるのでせうか)の哲学と云ふのもよく分らないのです。
カントよりもフィヒテの影響が強いのだと思ひますが。

それよりもカントが構想力(想像力)や目的論(実践理性もさうです)を理性批判の中に持ち込むことの意味(聯関)が良く分らないのです。
純理批判は古代中世の(つまりスコラ哲学の)形而上学の人間理性の限界と云ふ前提から出発して、そこに目的論や実体論が(理性の誤謬推理から)接合されるのを拒否したのだとすると、それ以後は理論と実践を媒介するのではなくて、その当時の通念(実定的なキリスト教の信仰)との妥協にしか思へないのですが。
超越論的演繹もさうですが、図式論(これは象徴論だつたのでせうか?)と云ふ曖昧で良く分らないものが既に実践上での妥協であつたやうに思へます − 『可能性の条件』と云ふ思ひつきは傑作ですが、飽くまで懐疑論に踏み留まるべきだつたのではないかと。

>ちなみに、ミッシュのドイツ語はかなり厄介ではありませんか。ちょっと難渋した記憶だけが残っています。<

易しさうだと読み始めたのですが、日本語にしようとすると、短い文章が入り組み、うまく組み立てられない処がありますが、読む分にはハイデガーより遥かに明晰だと思ひます。名評論と云はれる所以でせう。

>『アリアドネ』は、R・シュトラウスのなかでは、『サロメ』や『エレクトラ』のように気疲れせずに聴けますね。レヴァイン盤も結構良かったと思います。<
ホフマンスタールとの共作で一番洗練されたものだとか、でも流行りのメタ小説のやうで余り気持ちは良くないですね。
このDVDは(TV用録画で)録音に豊かさがなくGristの折角の熱演も疲れさせます。
一緒に買つて来たザグロセクとストゥットガルト歌劇場での『指輪』は、今までこの劇場の現代風演出が嫌でためらつてゐたのですが、録音も指揮も良いし何よりも画面が明るいので愉しめます。



No.1377
『判断力批判』の展開
prospero(管理者)(2007-09-05 15:56:08)

カントから始まるラインのなかでも、例えばフィヒテの前期などは、『実践理性批判』での自我の能動性を中心に議論を組み立てるのに対して、ドイツロマン派などは『判断力批判』に定位しているということにならないでしょうか。『判断力批判』を延長する方向というのは、理論と実践の接合を問題にするなかで、「目的論」という一種の媒介の論理を展開するという線だと思います。カッシーラーなどが「象徴形式」を語る際には、『純粋理性批判』の認識論の拡張のように見えながら、「象徴を操る人間」という議論にまで拡大するときには、「象徴」に理論と実践の媒介という役割を担わせるているのではないでしょうか。理論がすでに何らかの象徴に媒介されているということは、理論が実践的な関与によってそのつど変貌する可能性を認めることになるからです。その点では、理論・実践両面にわたる主観的な構想力の位置づけを強化することになると思います。この方向はブルーメンベルクのメタファー論でも共有されているのではないかと思います。

それに対してハイデガーのダヴォス討論での議論は、そうした主観の能動性に逆らって、むしろ「被投性」という有限性の側面を強調するものだと思います。有限的直観の重視というのもそうした流れから来るものでしょう。

>今読むとよく分らない『存在と時間』が(誤読だと云はれながらも)何故短時間のうちに九鬼周造、和辻哲郎、高橋里美などの日本人に理解されたのか不思議です。彼らの能力が優れてゐたのか、それとも時代の流れが自然に生んだ産物だつたのでせうか?

本当にこの時代の理解の勘所はかなり正確だと思います。新カント派辺りから、日本の哲学界はドイツとほとんどリアルタイムで進行している感があります。ただ、彼らに共通しているのは(高橋里美は少し違うかもしれませんが)、解釈学的な発想に親近感を持って、そこからハイデガーを理解するという路線でしょう。これはハイデガーのなかでのカント的要素の継承という側面をもつ点なので、うまく消化できたのかもしれません。ですから彼らも、30年代以降のハイデガーにはついていけないところがあって、三木清なども、『芸術作品の根源』を評して、時代が政治色を帯びると哲学が芸術に逃げ込むといったような半ば悪口を書いていたような覚えがあります。

ちなみに、ミッシュのドイツ語はかなり厄介ではありませんか。ちょっと難渋した記憶だけが残っています。

**

『アリアドネ』は、R・シュトラウスのなかでは、『サロメ』や『エレクトラ』のように気疲れせずに聴けますね。レヴァイン盤も結構良かったと思います。


No.1376
Re:カッシーラーとブルーメンベルク
あがるま(2007-09-04 05:16:01)

仰るやうに『判断力批判』を軸に哲学を組み立てるとどう云ふことになるのか、良く分りませんが、ブルーメンベルクのやうにメタファーを多用すると云ふことになるのでせうか?

今読むとよく分らない『存在と時間』が(誤読だと云はれながらも)何故短時間のうちに九鬼周造、和辻哲郎、高橋里美などの日本人に理解されたのか不思議です。彼らの能力が優れてゐたのか、それとも時代の流れが自然に生んだ産物だつたのでせうか?
目移りばかりして何だか定位が出来なくなり、少しG.ミッシュの『生の哲学と現象学』を読んで見ると、彼がハイデッガーより明確に(?)彼の云ふ(べき)ことを把握してゐのに驚かされます。真面目にやるには今でも多分この本から出発しなくてはいけないのでせう。

カッシーラには何か媒介項が必要なやうに思へます。それが最近復活したR.ヘニヒスァルトなのかどうかは分りませんが。

Prosperoさんの影響で、R.シュトラウスの『ナクソスのアリアドネ』K.ベーム指揮1965年ザルツブルク音楽祭(モノラル白黒)のDVDを買つて来ました。Reri Gristのゼルビネッタにやられました。

四方田犬彦の本は何だか面白さうですね。でも本当にそんな時代があつたのでせうか?



No.1375
カッシーラーとブルーメンベルク
prospero(管理者)(2007-09-03 22:40:30)

管理者がすっかりご無沙汰になってしまいました。少し話を戻しつつ、話題に乗りたいと思います。

>あがるまさん

由良哲次の独語の学位論文をご覧になったとのこと。羨ましい。Skopologieが一種の目的論の復興だとするなら、やはりドイツ観念論やロマン派が「判断力」に籠めた思い入れが、新カント学派の中で現代的な装いを獲得した経緯をトレースしているようですね。カッシーラーのシンボル形式、あるいは由良の歴史論も、第三批判の創造的発展という側面をもっているのに、面白いことにハイデガーのカント解釈では、第三批判がほとんど問題にされていません。むしろ、彼が強調するのは、『存在と時間』刊行と同年の講義『<純粋理性批判>の現象学的解釈』でも、認識の「直観」的性格なのですよね。もちろん最終的にそれを図式論に解消していくのですが、カントの「本源的直観」と区別される「派生的直観」という認識の有限性に固執し、さらに「直観」というあり方の内に、「現象学」の寄りどころを確保するという戦略のようです。この辺の問題の絡み合いはかなり複雑なような気がします。

igさんが仰るように、「このあたりのことを一大精神史的なスケールで」描くというのは、きわめて興味深いものだと思いますが、それほど本格的な論究を見た覚えがありません。むしろ哲学の専門家でない人が好んで言及する題材になっているというのは勿体ないと思います。

>igさん

触れておられたM. Friedmann, Carnap, Cassirer, Heideggerは、探したら迂闊にも私のところにもありました。そんなに大きな書物ではないので、ざっと眺めてみようかと思います。

カッシーラーの中途半端な位置(というか、うまく整理のつかない多面性)は、もう少し腑分けして面白く語られればと思っています。最近のシリーズ『哲学の歴史』(中央公論社)でも、新カント派を含む19世紀の巻に、カッシーラーの項目が入りましたが、これもさほど大文脈が分かるようなものではありませんでした。ディディ=ユベルマンのヴァールブルク論に匹敵するようなカッシーラー論が欲しいところです。

それと同時に、やはりブルーメンベルクがあいかわらず人気がありませんね。哲学に限らず、総じてほとんど言及されているのを知りません。ブルーメンベルクのクーノー・フィッシャー賞の受賞記念演説でのカッシーラー讚を含め、何となくメンタリティの近さを感じさせます。ただ、ブルーメンベルクはあまりにも古色蒼然と見えるのでしょうね。概念の作り方などの点で、ブルーメンベルクは不器用とも言えますし。もう少し端的に内容を示すような(意表を衝きながらも、気を引くような)主題の立て方をしてもらえたらという思いもあります。

あがるまさんは、イタリアにお出かけでしたか。かなり活動的なご様子ですね。またお話、伺わせてください。

**

ちなみに、四方田氏の由良君美論は、単行本になったようですね。昨日、BSの書評番組で取り上げられていました。もちろん見当違いな感想ばかりで、何の参考にもなりませんでしたが。


No.1374
折角買つたブルーメンベルクの
あがるま(2007-08-31 18:33:28)

新著も(忘れないやうに翻訳をしながら読み始めたのですが)これから面白くありさうな百ページまで行かないうにち放り投げてしまひました。後期フッセルについての知識が必要なやうです。

例の由良哲次の学位論文(1931年)を友達に頼んで送つて貰ひました。普通の日本人には書けないやうな立派な独文です。矢張りダヴォスでのカッシラーの立場、第二、第三批判の目的論的なSymbolism (Typik)に沿つたもので、カントが出発点であり目的点ではないとした − 第一批判の理論的認識には知的直観がないので已むを得ず使つた − ハイデッガーの図式論の乱用は無理だ云ふことがあり、『理解されたものと対象との一致』と云ふフィヒテの洞察に基づいてゐるやうです。

問題のSpopologieの節(S.99-108)を見ますと、プラトン(何処に出て来るのか出典が出てゐません)の意味での、一つの目的ειs σκοποsの概念、とありZieleinheitと云ひ替へられてゐますので「蓋しプラトーが、直観する素料に対して、すべてこれを目的々に生かし、意味的統一をもつものとして認識することを言へる用法に従つたものである。」(由良哲次『歴史哲学研究』目黒書店、昭和12年、三九八頁)そのままです。

彼はそれをそれまで述べ来たつた『意志』の観点から道徳的な意味ではなく歴史的な根本機能として使ひます ― それは『善のイデアの最終的優先に関しての純粋な運動、純粋意識の原統一力Ureinheitskraft』(102頁)であり、次頁では『時間自体を作る意志』と云ひ替へられてゐます。『根源的な意志の法則のみが凡ての直観と明証を保障する』(105)さうで、それをカッシーラ風にSymbol, Sinngebildeなどと云ひ変へても、もう一人の指導教官W.Sternに従つて性格学(107)と云ひ、歴史の中で人間だけが核であり不変なものであると言つても、結局歴史に定位することになればハイデッガーの歴史的決意主義と変はらなくなりさうです。

根本的には、精神科学(理解、sollen、自由)と自然科学(説明, muessen,因果性)の方法論的対比など当時の新カント派から一歩も抜け出さないのですが、大乗仏教と結びつけることにより新機軸を出したつもりかも知れません。しかしこれも中断してイタリアに行きました。

MEL,Gulliver,Edisonなどの書店で特価書籍を扱つてゐるのと、古典叢書が沢山出てゐるのに改めて驚きました。MondadoriではPleiadeと同型版の普及版が新刊でも12.90ユーロで出てゐて、それが10ユーロ以下ですし、
ギリシアやローマも古典対訳も同じです(これは赤の表紙)。
以前Einaudiから出てゐたホメロスなどは定価が7.90ユーロですが4ユーロ以下で売られてゐました。
Bonpianiで出てゐのは、英・仏・独語、チェコ語(パトチカ)アラビア語の対訳もあり、プロチノス、プロクロス、カルキディウス、スアレス、アヴィケンナやギリシア教父など多彩です。
今まではペーパー・バックのBUR(「Biblioteca Universale Rozzoli)しか買つたことがなかつたのですが、ハードカヴァーは重いのですが少し荷物に入れました。





No.1372
Re:1929年冬のダヴォス
ig(2007-06-01 14:56:33)

>>ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」(…)次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

ここ、補足しておきます。<BR>
<blockquote>
C「ハイデガーは新カント主義という名のもとに何を理解しているのか。ハイデガーが立ち向かった相手は誰なのか。思うに、新カント派という概念ほど明瞭に記述されることが少なかった概念は他には殆どない。(……)ひとは「新カント主義」という概念を実体的にではなく、機能的に規定しないければならない。重要なのは、独断的な教説体系としての哲学ではなく、問題定立の方向である。」<br>
H「まず名前を挙げよということであれば、コーヘン、ヴィンデルバント、リッケルト、エルトマン、リールの名を挙げよう。(……)フッサールでさえ、1900年から1910年の間は、或る意味では新カント主義の手の中に落ちてしまった。<br>私が新カント主義ということで理解しているのは、『純粋理性批判』の次のような把握、すなわち「超越論的弁証論」に至る純粋理性の部門を自然科学との関連において認識の理論として説明するような把握である。」(岩尾龍太郎訳『ダヴォス討論』15-16頁)
</blockquote>
フーコーは『啓蒙主義の哲学』の書評にあたって、上のカッシーラーの記述に敬意を払う形で、機能主義的に新カント派を捉えて見せた、というのは読み込みすぎでしょうか。


>現象学的な存在論が伝統的な新カント派的な認識論に勝利を納めたものと思つてゐたのですが、
>反対にカッシーラーのハイデッガー批判が的外れではなかつたことが、その後の政治状況の推移や、Hが自らのカントの暴力的な解釈を認め、転回をしたので証明されたことになるのでせうか。

カントの本当に深いところを私がつかみきれていないのと、ボルノーとリッターの記録は要約であり完全な再現でないと言われているので、私には容易に判断が下せないとしか言えません。でも、論争という場がその人の主張の本質的なものを露呈するものだとすれば、ダヴォスの討論は、表面的な勝ち負けの問題ではなくて、より深く掘るべき事象、解釈を要請する事象であるといえましょう。周囲の若い世代のその後の思想方向も含めて、興味深いものです。ハイデッガーを研究している人は日本にも多いですが、このあたりのことを一大精神史的なスケールで描いている人はいるのでしょうか?

ちなみに、パノフスキーの『イコノロジー研究』の「序論」前半部分の原型となった、「造形芸術作品の記述と内容解釈の問題」は、雑誌『ロゴス』に掲載されたものですが、ハイデッガーによる暴力的なカント解釈への批判が彼の解釈論、とりわけ解釈の矯正法についての議論のきっかけになっています。ここにもダヴォスの波紋が及んでいるのです(英語版ではなくなりましたが)。


>(彼は討論よりスキー目的で来たのでせうか)

両者が対峙して写っている写真の背景には、スキー板が並べてありますね。
カッシーラーはスキーはしなかったようですが(熱を出していたということもありますが、そもそもスポーツする人ではないみたい)。

>現場には双方の信奉者が従つてゐて、C側にはJ.リッター、K.グリュンダー、E.レヴィナスが、HにはO.F.ボルノウやE.フィンク、K.リーツラー(彼はユダヤ人ですが、講師として参加してゐた)がゐた。(後にアリストテレスの権威になつた、フランスのP.オーバンクはどちらの側だつたのでせうか?)
>当時の政治的状況によるユダヤとゲルマンの対決の様相も呈してゐたやうですし(レヴィナスが思想から云へばH側のやうなのにC側と見做されたのはユダヤ人だからでせうか?)

ハンブルクにいた由良哲次も、リッターの報告を参考にまとめていますね。P・オーバンクが書き残したものがあるようですが、見たことがありません。レヴィナスの件、彼は現象学の側だけれども、たしか、学生たちがおふざけで再現劇をしたときに、レヴィナスがカッシーラーの役をさせられた、という話ではないでしょうか。どこで聞いた話か忘れましたが。


>フランクフルトで病床のF.ローゼンツワイクもそれについて書いてゐるさうですから。

「取り替えられた戦線」の話でしょうか。ローゼンツヴァイクは、ハイデッガーこそがコーエンの継承者であるとする逆説的主張をしていたと思います。むかし『現代思想』か何かに訳が出ていました。

もう一人、注目すべき証人にカルナップがいて、三者のかかわりについては、フリードマン『道の分かれ目』(Friedman:A Parting of the Ways, Carnap, Cassirer and Heidegger)という本が明瞭な視界を与えてくれそうです(これさえ読了せずにほうりだしてありますが)。


No.1371
パウル・カッシーラー
ig(2007-05-30 05:30:17)

>従兄弟と云ふのはBruno Cassirerで出版をしてゐた人ですか?

エルンストにもブルーノにも従兄弟に当たる、パウルのほうです。カッシーラー画廊を構え、印象主義以降のフランス絵画を紹介したり、分離派運動を推進してベルリンのアートシーンの牽引者となっていました。

<blockquote>
「『パンの会』のことは誰でも知っていると思うがあの名は伯林でマイヤー・グレーフェがやって居た雑誌の名に因んで太田君がつけたものである。マイヤー・グレーフェの雑誌は文学・美術・政治等の綜合評論雑誌で表紙にはシュトゥックの描いた大きな牧神の顔がついて居た。美術史家のヴェルフリンなども其主要な寄稿家の一人であった。夫を出版して居たパウル・カッシラーは有名な画商で僕もよく知って居たが後に細君の恋愛事件の為に気の毒な死に方をして了った。ブルノー・カッシラーの弟である。之は余談だ。」(児島喜久雄「太田君の雑然たる思い出」『ショパンの肖像』255頁)
</blockquote>


ベルリンのブランデンブルク門の傍、画家マックス・リーバーマンのアトリエ跡が整備されて小美術館になっています。そこで以前、ベルリンの分離派運動を推進したパウルの諸活動が紹介されていました。俳優がパウルを演じたドラマ仕立てのビデオが映じられていました。
<a href="http://www.stiftung.brandenburgertor.de/kultur/ausstellungen/cassirer/index.html">http://www.stiftung.brandenburgertor.de/kultur/ausstellungen/cassirer/index.html</a>

引用文中では兄弟とありますが、実際は従兄弟です(でも義理の兄弟でもあるらしい)。「細君」というのは、女優のTilla Durieuxのことです。太田君というのはもちろん木下杢太郎。

ブルーノのところでも『芸術と芸術家』なんて雑誌を出していたりしたのだから、児島も知己であったかもしれませんね。

二つの「パン」の開始時期ですが、ベルリンでのPan-Presse設立が1908年なのですが、雑誌の創刊は1909年にはいってのことです。これに対して、太田らのパンの会は1908年(明治41年)12月にはもう始まっているのです。驚くべき同時代性といってよいかと思います。(と書いたのですが、マイヤー=グレッフェのほうの「パン」は先行していて、創刊号(1895年)〜終刊号(1900年)のようなので、カッシーラーのものとは一応別雑誌と見たほうがいいのかもしれません。現物を見ないことには、二つのパンのつながりは確かめられません。)


No.1368
Re:直観的判断力
あがるま(2007-05-27 03:13:14)

>学位をとり、副論文ともども刊行まで成し遂げた由良は、この掲示板でも議論になった「外国語での発信」という点で、すでに高い意識を持っていた人物の一人であると言えるのではないでしょうか。<

慥かに2つとも自費出版ではなくドイツのきちんとした出版社からですね。『意識論と仏教』の方は東亜細亜研究の叢書で第2版も出てゐるやうですし。もう一つの『精神科学と意志法則』のPan-Verlagと云ふのはその頃(Kant-Studienを出してゐた?)有名な出版社だと思ひます。

>あと、児島喜久雄ですが、画集が用美社というところからでています。
ちなみに、児島は従兄弟のほうのカッシーラーとも親しかったようです。

画集も出てゐたのですか!
児島は『古代彫刻の臍』しか読んだことがありませんが,矢崎美盛と並んで岩波で重宝されてゐたやうですね。
さう云へば雑誌『図書』の表紙の解説もさうだつたか?

従兄弟と云ふのはBruno Cassirerで出版をしてゐた人ですか?


No.1367
1929年冬のダヴォス
あがるま(2007-05-27 02:38:16)

>ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」(…)次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

1929年冬のダヴォス論争について少し見てみました。
よく1924年公刊のTh.マン『魔の山』での非合理主義者ナフタと啓蒙主義者セッテムブリニとの対話を思ひ出させると云はれるこの論争は、 
現象学的な存在論が伝統的な新カント派的な認識論に勝利を納めたものと思つてゐたのですが、
反対にカッシーラーのハイデッガー批判が的外れではなかつたことが、その後の政治状況の推移や、Hが自らのカントの暴力的な解釈を認め、転回をしたので証明されたことになるのでせうか。

結核療養中の学生の発案で欧州統合を目指した2週間の各種ゼミナール(学生200人、講師30人が参加)での、この関連の講義は2日間に渉り、午後カッシラーが人間学について、午前中ハイデッガーはこの後一気に書き上げられたカント本のスケッチをした。
Cは常に『存在と時間』の現存在分析を有限性の観点から問題にしたが、Hは自分のカント解釈だけを述べたらしい。
その頃、基礎存在論は人間学の書と思はれてゐたので、役割が反対になつた格好になるが、
Hは伝統的な実体形而上学を組み替へる試みをしてゐたし、Cは新カント派と云ふよりも、それを包むゲーテ的な人文主義の伝統に立ち、伝統的形而上学ではなく機能概念(象徴=構想力)によるその克服を考へてゐたとするなら、
Hは直感の悟性に対する優先を図式論の助けを借りたそれ自身時間性である超越論的想像力により綜合に齎さうとするのですから、
図式を象徴(像)と考へると二人の間に余り径庭はなささうです。

Cと握手もしなかつたHが歩み寄れば、もつと有意義な討論になつたものと思はれますが、討論を翌日の持ち越すことはHにより退けられたため曖昧になつてしまつたやうです。
(彼は討論よりスキー目的で来たのでせうか)

現場には双方の信奉者が従つてゐて、C側にはJ.リッター、K.グリュンダー、E.レヴィナスが、HにはO.F.ボルノウやE.フィンク、K.リーツラー(彼はユダヤ人ですが、講師として参加してゐた)がゐた。(後にアリストテレスの権威になつた、フランスのP.オーバンクはどちらの側だつたのでせうか?)
当時の政治的状況によるユダヤとゲルマンの対決の様相も呈してゐたやうですし(レヴィナスが思想から云へばH側のやうなのにC側と見做されたのはユダヤ人だからでせうか?)、チューリッヒ新聞やフランクフルト新聞が大いに書きたてたので当時一般の話題にもなつたやうです。
フランクフルトで病床のF.ローゼンツワイクもそれについて書いてゐるさうですから。









No.1364
Re:直観的判断力
ig(2007-05-23 20:55:37)

prospero様

>解説をお願いしておきながら、反応がすっかり遅くなってしまいました。

とんでもないことです。ここには通俗的で性急な時間感覚は似つかわしくないでしょう。


>ちなみに、『新潮』の例の文章、やはりあの教師論のくだりで辟易されたようですね。

ある種の防衛線を張らないと語りにくい主題であるというのは十分わかっているのですけれども。

それにしても、由良ゼミについての記述を読むと、学生のころに戻ってそれこそ自分の知が根底から試されるようなゼミに参加してみたくなったりします。日本の人文知の青春時代だったと言えましょうか。


>さて、問題のSkopeologieですが、引用を拝見して、何となく思い起こしたのが、カントの判断力でした。カントの判断力も、規定的判断力・反省的判断力の両者はともに、「目的」に関わる能力でしたね。しかもそこにある種の直観が認められるとなると、これはさらに一歩を進めて、カントからゲーテの線との繋がりも見えてきそうな気もします。ゲーテの目指したのは、カント的な反省的判断力をある種の直観によって捉えるということだったように思えるからです。
>
>自己理解を遂行する実体という点では、ライプニッツ的なモナドロギーも想起されます。ライプニッツ的な多元主義も「歴史主義」の成立に力を貸したものと理解できますから(マイネッケ『歴史主義の成立』)、この辺の問題意識との関係も面白そうです。
>
>ライプニッツ、カント、ゲーテという線を考えると、やはりそこには紛れもなく、カッシーラーの問題意識が潜んでいるように思えます。カッシーラーも初期のモノグラフが「ライプニッツ論」でしたし。

たしかに、実証主義的な記述以上の意味を歴史に求める由良の念頭にあったものは、特殊から普遍を発見しようとする「反省的判断力」なのかもしれません。さらに御指摘なされた思想形象の系譜は、おそらく、由良の歴史哲学の背後にあるものへの精確な洞察であると感じます。一方で、由良は、カッシーラーが歴史そのものをあまり論じていないことには飽き足らないところがあったように見うけられます。(由良にはゲーテ論の著作もあります。また、山口等樹の論考中に、ライプニッツとの関係に言及して、「由良君のアルバイトに期待」という記述があります。唐突に書かれていて「由良君」って誰?って感じですが。)


>あがるまさんが仰るように、『人間』と『国家の神話』は、私もがっかりした覚えがあります。両方ともアメリカ亡命、あるいは亡命後、最晩年の著作ですね。カッシーラーはもう少し前の思想史的著作が、歴史と思想の緊張溢れる展開をしていて私は好みです。とりわけ『啓蒙主義の哲学』、『個と宇宙』(ルネサンス論)あたりでしょうか。

晩年については、構造主義についての論考などのほうがまだしも面白いと思います。『国家の神話』については、昨今では、そのマキャヴェリ解釈が論題となっていますね。

バフチンによる『個と宇宙』アプロプリエーションの話題でさえ、バフチンの「スキャンダル」としてしか捉えられず、カッシーラー再考の契機になかなか結びつかないのは、同年代のラスク、シェーラーよりは長生きしたこの哲学者の、今日におけるある種中途半端な位置づけを物語っているのかもしれません。

このスレッド(?)の冒頭に話を戻すことになりますが、ブルーメンベルクを精読することで、カッシーラーも含めた、あらたな精神史的鉱脈が開拓されるのではないかという可能性もあるのでしょうか?(クーノ・フィッシャーメダルの講演以外に両者の接点を知りませんけれども)

ところで、フーコーによる「『啓蒙主義の哲学』書評」は、雑誌『ロゴス』の目次が示されているこのサイトにとっても意味深いものではないでしょうか。次のくだりなどは、ハイデッガーの例のダフォスでの発言を受けているかのように感じられます。

<blockquote>
カッシーラーは「新カント派」である。この新カント派という言葉で示されるものは、哲学上の「動向」とか「流派」である以上に、カントがつくりだした断絶を西欧思想が乗りこえられなかったということなのである。新カント派とは、−−この意味では私たちはみな新カント派だ−−この断絶をよみがえらせるようにたえず命じ、断絶の必要性を再認識すると同時にその全体の規模をつかまえようとするもののことである。(鷲見洋一訳、『エピステーメー』II、0号から)
</blockquote>


>あがるま様

学位をとり、副論文ともども刊行まで成し遂げた由良は、この掲示板でも議論になった「外国語での発信」という点で、すでに高い意識を持っていた人物の一人であると言えるのではないでしょうか。

あと、児島喜久雄ですが、画集が用美社というところからでています。たしか、限定本だったと思います。児島の手によるレオナルドの絵の研究模写の図版が口絵についています。これには驚きます。彼の素描で、比較的眼にすることがあると思われるものとして、岩波文庫の『九鬼周造随筆集』の表紙にある九鬼の肖像が挙げられます。ちなみに、児島は従兄弟のほうのカッシーラーとも親しかったようです。


No.1363
直観的判断力
prospero(管理者)(2007-05-20 21:35:49)

ig さま
解説をお願いしておきながら、反応がすっかり遅くなってしまいました。ちなみに、『新潮』の例の文章、やはりあの教師論のくだりで辟易されたようですね。

さて、問題のSkopeologieですが、引用を拝見して、何となく思い起こしたのが、カントの判断力でした。カントの判断力も、規定的判断力・反省的判断力の両者はともに、「目的」に関わる能力でしたね。しかもそこにある種の直観が認められるとなると、これはさらに一歩を進めて、カントからゲーテの線との繋がりも見えてきそうな気もします。ゲーテの目指したのは、カント的な反省的判断力をある種の直観によって捉えるということだったように思えるからです。

自己理解を遂行する実体という点では、ライプニッツ的なモナドロギーも想起されます。ライプニッツ的な多元主義も「歴史主義」の成立に力を貸したものと理解できますから(マイネッケ『歴史主義の成立』)、この辺の問題意識との関係も面白そうです。

ライプニッツ、カント、ゲーテという線を考えると、やはりそこには紛れもなく、カッシーラーの問題意識が潜んでいるように思えます。カッシーラーも初期のモノグラフが「ライプニッツ論」でしたし。

あがるまさんが仰るように、『人間』と『国家の神話』は、私もがっかりした覚えがあります。両方ともアメリカ亡命、あるいは亡命後、最晩年の著作ですね。カッシーラーはもう少し前の思想史的著作が、歴史と思想の緊張溢れる展開をしていて私は好みです。とりわけ『啓蒙主義の哲学』、『個と宇宙』(ルネサンス論)あたりでしょうか。


No.1362
ハンブルク
あがるま(2007-05-18 05:27:06)

傍系ですが、安部民雄と云ふ(安部磯雄の息子?)デヴィスカップ日本代表のテニス選手がハンブルクでカッシーラーに学んだと聴いたやうな気がします。

戦前の日本留学生は物見遊山ばかりのやうですが、由良哲次はきちんと学位を取つたのですね。

児島喜久雄は絵の方の腕も大したものだつたさうで、ブルックハルトやウェルフリンなどは全くの素人だと云つてゐたさうですから − 一度見てみたいのですが、学習院か東京大学に残つてゐるのでせうか?

カッシラーは『人間』と『国家の神話』と云ふのを眺めただけですが、何だか魅力に乏しく、弟子のS.K.ランガーの方が断然面白かつた。



No.1361
Re:スコポロジックな直観
ig(2007-05-14 19:51:09)

>が飛躍的な本質essentia salientalisと実体を認識するなら、それは知的直観とでも云ふべきものになりさうですね。
>また慌てて早とちりしてるのでせうか。

「原因―結果」に基づいて(しかし実証的な論証を超えて)根源に迫るという議論が中心で、モレルリ的な意味での「部分(細部)―全体」の関係にはあまり論及しないという印象です。その意味では、極めて「知的」な直観と言えるかもしれません。

>由良哲次の本は良く古本屋に並んでましたが手に取ることもありませんでした。

筋のいい読書人はあまり手を出さないものだと思います。ヴァールブルク、カッシーラーなど、ハンブルクの知的空気につながる記述を期待して読んでも、なかなかうまくいきません。ただ、新カント派の原書を読むのは大変なので、彼の研究はいろいろと助けになる、という具合です。


さて、ようやく四方田氏の新潮の文を読むことができました。
由良ゼミの描写などは心を揺さぶられるものがあります。
でも、師弟論のようなものをさしはさむあたりでウンザリしてしまいました。

細かいことですが、四方田氏は見あたらないと述べていますけれども、『歴史哲学研究』にカッシーラーの名前はちょっぴり出てきます。また、「象徴形式」を論じた箇所もあります。(ただし、四方田氏の見解の大枠は揺るぎません。)

さらに細かいことですが、カッシーラーのところに留学した日本人は由良だけではありません。山口等樹(「きへん」は「さんずい」に)という、東京帝大の伊藤吉之助の弟子がカッシーラーについています。あと、これは留学とは言えませんが、美術史家の児島喜久雄が、1920年代初期にハンブルクに滞在し、カッシーラーの講義を聴いています(そしてパノフスキーのゼミに参加しています)。「ハンブルクの思い出」というエッセイが、『ショパンの肖像』という本に収められています。このエッセイには、たしか、日本人がドイツで本を片っ端から買い求めるという、当時の状況の描写もあったように記憶しています。

ちょっと話題がずれてきてしまいますのでこれくらいで。

No.1359
スコポロジックな直観
あがるま(2007-04-23 00:56:22)

が飛躍的な本質essentia salientalisと実体を認識するなら、それは知的直観とでも云ふべきものになりさうですね。
また慌てて早とちりしてるのでせうか。
由良哲次の本は良く古本屋に並んでましたが手に取ることもありませんでした。






No.1358
『歴史哲学研究』より
ig(2007-04-22 22:36:02)

>もちろん、由良氏の考えはどういうものなのかわかりませんか。もしよろしければ、一端なりともご教示を。

prosperoさま、あがるまさま、皆様

igです。不躾に引用が長いのは、当方の要約力の欠乏によるものです。
<blockquote>
[Skopologische Anschauungについて]<br>「蓋しプラトーが直観する素料に対して、すべてこれを目的々に生かし、意味的統一をもつものとして認識することを言へる用法に従つたものである。」(由良哲次『歴史哲学研究』目黒書店、昭和12年、三九八頁)
<br><br>
「歴史的認識の真理性に到達するに完全なる<U>再現</U>の認識が必須のものであるならば、歴史的真理は絶望さるべきであらう。しかして歴史的真理は歴史的現実の完全なる再現描写によつてのみ成立すると考へるこの思想は、認識論上の<U>模写説</U>の上に立つてゐる。歴史的認識論に於ける模写説の成立しえざることは、自然認識に於ける以上に明瞭なること上述の如くである。(中略)しかし又他面、歴史的認識の真理は単なる観念論的見地、主観的理解にても成立し得ざることも既に上に見た。(中略)歴史的認識の対象は、即ち歴史的現実を作る実体は、如何様にでも構成され解釈されうべきものではなく、それ自ら一の意思決定態、自らに生産と綜合を持つ根源的本質 essentia salientalis であり、個性的なる実体 substantia individualitas である。それは無限定のものではなくして、既にそれ自身一の意味をもつ実体であり、意思決定態である。吾等は歴史的認識にては単なる模写説によることも出来ず、又単なる観念論によることも出来ず、歴史的認識の真理性は、現実と理解との合致の基礎たる歴史的実体の本性に於てのみ、その妥当性を求め来らねばならぬ。かくしてのみ歴史的対象の特有の性質上、及び歴史的認識主観の個性的多様に基づく、歴史的認識の相対主義より免るゝことをえるであらう。<br><br>
然らば、歴史的真理の成立する現実と理解との一致とは如何なるものであらうか。それは究極に歴史的実体が歴史的実体を把捉することに帰する。即ち実体と実体とが合一することである。先に歴史とは畢竟根源の<U>自覚</U>であると言つた。歴史の認識は、一般に根源の自覚を通して実体が実体と合一することによつて成立する。しかしてかかる実体把捉、実体の自覚には、その根底に一つの<U>直観</U>がある。そは、実体の根源的創造始原に於ける総合的直観力である。言はゞ実体的構想力の直観である。私はかつてこれをスコポロギッシュな直観と名づけた[註7]。(中略)かくして歴史的認識は畢竟一の<U>直観論</U>によつて基礎づけらるゝの外ない。」(四二四頁〜)
</blockquote>

[旧漢字はあらため、傍点は下線にしました。]

プラトンが挙げられているところから見ても、Skopologieの語義上の起源は、あがるまさまのおっしゃる方向なのでしょう。いま手元の希独辞典を引きましたが、skopos→Ziel, Zweckとあるのに目がいきました。この語はskeptomaiという形に関係するようですが。「目的的に」というのは、そうした含みなのでしょうか?プラトン著作中の具体的典拠については、当面宿題とさせてください。

ちなみに「註7」には、由良自身の学位論文が挙げられています。Geisteswissenschaft u. Willensgesetz.1931(『精神科学と意志法則』)、III. Teil. S.99、Skopologie als Methode der geisteswissenschaftlichen Erkenntnis.

もう少し先には、具体例を示しつつ歴史の方法について議論している箇所もあるのですが、うまく切り出せません。この叙述をさらに解釈するには私の力が及ばず、ただ、現象学の空気を感じ、さらに、由良の学位記に署名のあるエルヴィン・パノフスキーがかの『イコノロジー研究』の「序論」で述べるところの「総合的直観」を連想するものであると言うにとどめるしかありません。

肝心の学位論文のほうも複写をしたものがあるはずなのですが、室内整理が行き届かずすぐには見当たりません。首尾よく発見できましたらまた報告させていただきます。副論文の Die idealistische Weltanschauung und moralische Kausalitaet --- Einfuehrung in die Psychologie, Erkenntnislehre und Metaphysik des MAHAYANA-BUDDHISMUS(『唯識論世界観と善悪因果律』)のほうはすぐに出てきたのですが、仏典の知識が無いゆえに、こちらはさらに歯が立ちません。

No.1357
鑑識と徴候
prospero(管理者)(2007-04-22 10:19:34)

igさま

投稿を見落としていました。遅くなって済みません。
スコポロギィ(or Spokeologie?)とは耳慣れない言葉ですが、由良哲次の歴史哲学のキーワードになっているとは興味を惹かれます。

あがるまさんが仰るように、「鑑定」に由来するのだとすると、まさに「神は細部に宿る」という精神の実践のようにも思えてきます。実際に、フロイトが「モーセと一神教」にも徴候の識別の例としてモレッリがあがったり、それを現代でギンズブルグが評価したりと……、「鑑定」ということ自体が面白い主題になっていますね。

もちろん、由良氏の考えはどういうものなのかわかりませんか。もしよろしければ、一端なりともご教示を。


No.1356
Skopeologie
あがるま(2007-04-22 01:25:55)

とはσκοπεωから来て
鑑定学と云ふことでせうか?
モレッリやビーズレーを思ひ出すやうな。
美術品の蒐集もされてゐたのでせうね。

下村寅太郎も古美術品を集めてゐたさうで、コレクシヨンが小冊子になつて関係者に分けられたさうですが。

>高等師範学校から京都大学という系譜を想定したとき、由良哲次とともに思い起こすべきは先輩の土田杏村でしょう
戦後文理科大学の学長をされた務台理作と云ふ方も居られましたね。
犬田四方彦も関係なくはないですね。


No.1354
Re:「先生とわたし」
ig(2007-04-13 18:16:02)

はじめて書き込みさせていただきます。

>父哲次についての記述はそれなりに面白い。彼が利殖の達人で、数億に及ぶ資産を遺し、それを遺言ですべて古墳保護や橿原考古学研究所などに寄付していったこと、由良君美の曽我蕭白への趣味などが父譲りであったことなど、驚くようなこともあります。


わたくしは由良哲次に関心を抱いている者です。四方田氏の記事は未見ですが、参照してみようと思います。
基本は、非売品ですが、『由良哲次博士を偲ぶ』(由良大和古代文化研究協会発行)でしょうか。由良哲次が整えた『叡知的世界』の独訳の刊行を断る西田の手紙なども紹介されております。木村文彦「由良先生の金銭哲学」なる記事もありますね。

もちろん、由良の本領は歴史哲学でしょうが、中心概念である「スコポロギィ」についてはちょっと捉えあぐねております。独文で書かれたハンブルク大学での学位論文はかなりしっかりしたもので、途中まで読んで投げ出しております。仏教哲学について書かれた副論文もあります。

後年、日本史上、諸説紛糾する二つの謎である「写楽」と「邪馬台国」の両方にエントリーしているところなど、思わずニヤリとしてしまいますね。自身の解釈学の実践なのでしょうけれども。

高等師範学校から京都大学という系譜を想定したとき、由良哲次とともに思い起こすべきは先輩の土田杏村でしょう。『土田杏村とその時代』(上木敏郎編、こちらも非売品)に、由良哲次の文章が見られます。杏村の依頼で、由良哲次は一度自由大学に出講しています。


最後に別の話題ですが、『われらが風狂の師』、わたくしはそれなりに楽しく読むことができました。ちょっと長いですが。
お邪魔いたしました

No.1346
「先生とわたし」
prospero(管理者)(2007-03-01 10:37:55)

いままでもしばしばこの掲示板でも話題になった由良君美・由良哲次について、四方田犬彦が「先生とわたし」という長文(400枚)の思い出話を書いています(『新潮』3月号)。だらだらと長く、師である由良君美との後年の(不本意な)確執を自分なりに整理するというような動機に貫かれているので、全体としてしまりがなく、書き物としては上等ではありませんが、情報的にはそれなりのことはわかります。由良君美については、本人が書いていること以上の収穫はありませんが、父哲次についての記述はそれなりに面白い。彼が利殖の達人で、数億に及ぶ資産を遺し、それを遺言ですべて古墳保護や橿原考古学研究所などに寄付していったこと、由良君美の曽我蕭白への趣味などが父譲りであったことなど、驚くようなこともあります。

ただ、由良君美を語るのに、四方田氏ほどの人がなぜ一編の「喜劇」を草さず、こうした凡庸な「評伝」スタイルを取ったのかが不可解でなりません。草葉の陰で由良氏ご本人も歯がみしていそう……

ちなみに、由良君美の英語力の検証ということで、彼の書いた文章が引用され、それが絶賛されているのですが、私にはごく普通の英文に思えて、何がどう凄いのがさっぱり分かりませんでした。physical, metaphysicalの並列などが、「ギリシャ語に基づく語呂合わせ」などと言われたり、Werkeというドイツ語が出てくるからといって、「英語を母国語としない外国人が執筆した文章とは思えない」と言われても、唖然とするばかりです。

No.1343
先師先人
あがるま(2007-01-12 13:46:38)

あるサイトでDiscoursと云ふ言葉について頼まれもしないのに素人解説をしながら連想したのは、
デカルトの本を『方法叙説』と最初に訳したのは誰か?他ならぬ落合太郎ではないかと思ひ付き、筑摩書房の竹之内静雄が彼に就いて書いてゐたこと、さらにその本には土井虎賀壽のこともあつたと思ひ出しました。同じ頃読んだのですがそちらの方が青山光二より遥かに印象的でした。

河野與一にも『形而上学叙説』(ライプニッツ)などがありますが、出所は落合だと勝手に想像します。『落合太郎集』を買ひ損ねたことも苦い思ひ出です。

折角『叙説』と云ふエレガントな日本語があるのに『言説』などと云ふ下品な言葉を使ひ始めたのは一体誰でせう。私には(事業を)『立ち上げる』と並んで、使ひたくない日本語の最右翼です。特に女性には使つて欲しくない!

個人的には京都学派は好きではないのですが、周辺に興味深い連中が居るので、三宅正樹などに思ひ出を語つて貰へば面白いことがあるかも知れません。


No.1332
いいものを
prospero(管理者)(2007-01-08 22:12:22)

YouTubeにはこんなものもあるんですか。良いものを教えてもらいました。

件のビデオに出てくるハイデガーの山小屋は数年前に知人に連れられて訪ねたことがあるので、懐かしく見ました。あのちょうど向かい側に、ロープウェイが建てられていて、連れていってくれた知人は、ハイデガーはあれを見て「技術論」を思いついたのだなどと、冗談ともつかぬことを言っていました。

一瞬芸のようなHeidegger & Benjaminもちょっと笑いました。


No.1331
哲学者たち
あがるま(2007-01-08 10:30:29)

YouTubeを彷徨つて居たらこんなのがありました
http://www.youtube.com/watch?v=d6KsSp43rhg&mode=related&search=
J.B.Lotz,W.Schulz,O.F.Bollnow,J.Beaufretなども出て来ますね。
古いお話です




No.1328
岩波文庫創刊書目復刊
prospero(管理者)(2007-01-03 19:36:48)

今年は岩波文庫創刊80周年だそうで、<a href="http://www.iwanami.co.jp/hensyu/bun/">創刊書目復刊</a>という企画があるそうです。思想関係で、カント『実践理性批判』を始め、リッケルト、ポアンカレといった書目選定が時代を感じます。ストリンドベリ『令嬢ジュリ』が、ストリンドベルク『令嬢ユリェ』とドイツ語読み風になって、茅野蕭々が訳者になっているので、これはドイツ語からの重訳でしょうね。岩波文庫創刊の1927年というのは、ハイデガー『存在と時間』が出た年でもあります。創刊80年という刻み方がよく分かりませんし、いずれにしても何だか的を外した企画のような印象は拭えません。苦戦しているという焦りのみが感じられてしまう企画とでもいいますか。ただ、最近は大人が古典を見直しているようなところもあるらしいので、団塊の世代の定年に合わせた企画なのかもしれませんね。


No.1327
貧乏臭い……
prospero(管理者)(2006-12-29 18:05:35)

>安藤は別に変人でもないと思ひますが、骨董の蒐集など趣味が沢山あり、貧乏臭い大学教授とは一線を画してゐたのでせう。

笑いました。そう、大学教員というのは、経済的な意味で貧乏なはずはないのに、なぜか「貧乏臭い」……。自分が好きでやっているはずのことを、いちいち「研究費」やら「科学研究補助費」などを申請して、ちまちましていることの現れなのでしょうか。あらゆるものを、どうしたら公費で落とせるかなど画策しているさまは、なかば憐れですらあります。

一昔前の「文士」というのも、意図的に「貧乏臭い」ところもあったようですね。谷崎がそんな気風を嫌って、できるだけ文士臭く見えないように振る舞っていたら、生意気だということで小山内薫などに疎んじられたとか。


No.1326
Re:『われらが風狂の師』
あがるま(2006-12-26 22:36:52)

投稿した後少しネットを見てゐたら、この下巻(新潮文庫では一冊です)に北森嘉蔵のことも出てゐたさうです、北森にも関心を持つてゐたはずですが丸で覚えてゐませんでした。
『神の痛みの神学』は田辺哲学の種の論理の焼き直しのやうですが、彼の『神学的自伝I』は面白かつた(IIは出なかつたのでせうか?)。

安藤は別に変人でもないと思ひますが、骨董の蒐集など趣味が沢山あり、貧乏臭い大学教授とは一線を画してゐたのでせう。
田辺の弟子でありながら弁証法など問題にもしなかつたので変人扱ひされたのでせうか。それともM.ナイホフと云ふ一流出版社から本を2冊も出し国際的な学者になつたので嫉妬されたのかも知れません。




No.1324
『われらが風狂の師』
prospero(管理者)(2006-12-26 22:00:06)

『われらが風狂の師』は新潮社の元版で上・下二分冊でした。華厳経の独訳を始め、彼の著作名などもそのままのタイトルで触れられていて、いったいこれは小説なのか何なのか首を傾げるようなものでした。同時代の田辺やら天野貞祐やらも実名で言及されていて、その点では、信頼できる内容なのかもしれません。しかし評伝でもないので、なんとも不思議な書物です。

土井氏はニーチェについての『ツァラトゥストラ ―― 羞恥・同情・運命』などを見て、そのセンスに驚き、それ以来、少しずつ彼の書物を漁っています。少し時間ができたら、まとまって考えてみたいと思っているのですけど。

安藤孝行は、アリストテレスなどを中心にした著作がありましたっけ。奇行で知られている人だったようですね。ただ、著作は割合にまっとうだったような記憶があります。それに比べると、土井虎賀壽の場合は、残している著作、扱った問題そのものが奇矯というか、意表を衝くところがあって、面白いと思っています。


No.1323
Re:土井虎賀壽
あがるま(2006-12-26 21:38:39)

青山光二のその本は新潮文庫で読んだことがありますが、すつかり忘れてゐて高橋英夫の『偉大なる暗闇』岩本禎に関する本と混同して居ました。
長かつたことだけ覚えてゐます。

白崎秀雄『当世畸人伝』には安藤孝行に一章が割かれてゐました、短いものですが私の贔屓の哲学者なので記憶に残つてゐます。


No.1299
ハイフェッツ
prospero(管理者)(2006-10-28 21:49:22)

ハイフェッツの魔法のような<a href="http://youtube.com/watch?v=Mag2mc5Vva0">Hora Staccato</a>を映像でみることができます。これなどをみると、やはりヴァイオリンは大道芸だと思えてきます。尤も、ハイフェッツのスタイルそのものは、G 線を弾くときに腕が綺麗に水平になるなど、まるで教科書のようなのですが。同じところに沢山の演奏が収められていて、ヴェンゲーロフのカルメン幻想曲など、画質は悪いですが、かなり笑えます。


No.1298
フィンランドの
あがるま(2006-10-28 05:29:23)

サイトですね、同じ場所にあるディルタイの『ヘーゲルの青年時代』もエス・ツェットの替りに大文字のBが使はれてゐたり、それが抜けてゐたりするやうです。フィンランドのスキャナーでは読み取れないのでせうか?
でもここから辿つて、ヘーゲルやCharles Taylor関係の資料が出てきました。


No.1297
R. シュトラウス
prospero(管理者)(2006-10-21 20:49:04)

以前に書いた作文をご覧いただいたようでありがとうございます。岡田暁生『<バラの騎士>の夢』は、書物としてやはりかなりよく書けていると思っています。ただ、おそらく彼の視点には、純粋に音楽的な分析と音楽社会史とでもいうような部分が同居していて、それが時に混乱を招くことがあるのかもしれません。「現代のポピュラー音楽がロマン派の音楽の正統的な後継者」という理解も<small>(それ自体がどの著作のことかわかりませんが)</small>、おそらく社会史的に見れば、とりわけ19世紀のオペラは一部の特権階級のものではなかったという意味でそういう言い方になっているのではないでしょうか。音楽的な内容がポピュラー音楽と同じという、「質」の問題ではないような気がします。

『薔薇の騎士』自体は私も好きです(だいたいR・シュトラウスは結構好きな部類です)が、岡田氏の評価で、それをある種の折衷的作品としているのも、『薔薇の騎士』を貶めているわけではなく、むしろ意識的に換骨奪胎を行った技倆を讚えているのだと思います。だいだいR・シュトラウスは既存のものを採り入れながら、それを複雑かつ巧妙にする技にきわめて長けていた人だったのではないでしょうか。私としては、個人的に『ナクソス島のアリアドネ』なども好きですが、これなどもWagnerへの当てこすりなどとも言われるように、この作曲家、およそ一筋縄ではいかないようです。その点では、まさに音楽におけるさまざまな要素の相対化や自己の対象化というような意識が伺えそうです。


No.1296
岡田暁生
あがるま(2006-10-21 08:56:03)

は全く読んだことがないのですが、
プロスペロさんの岡田暁生『<バラの騎士>の夢』感想を改めて読んで見て、少し反感を持ちました。

私の貧しい音楽体験ではウィーンで見たこのオペラが最高でした。
Bプロで私の知つてゐるのは指揮者のL.ハーガーくらいなものでしたが、とにかくアンサンブルが良いし、ホフマンスタールの台本もよく出来てゐて、若い人も老人も聴衆が一緒になつて楽しめる最高の雰囲気を満喫しました。J.シュトラウスのワルツも効果的に使はれてゐるしこれがウィーンの社交界(或は夜の世界)だと納得してしまひます。
多分年配の聴衆は若い時から何度も見てゐても飽きないのでせう。
勿論ウィーン・フィルの『マシュマロのやうな音』もそれに調和します。

岡田氏の言はれるやうにポピュラー音楽との折衷的な妥協だとはとても思へません。台本もフィガロの結婚の焼き直しだと往々非難されるやうなものではなく哲学的な反省に富んだ立派なものです。

私はモーツァルト(と同じやうにか寧ろそれよりも)チマローザのオペラが好きなのですが、『秘密の結婚』は『フィガロ』を十分に研究した傑作で(音楽は素晴しいけれど、舞台を見ると筋が単純で面白くありませんが)、それに匹敵するのが『ロゼン・カヴァリエ』だと云ふ意見です。(こちらは見ても聞いても面白い)。
勿論両者とも大衆に妥協してゐると云はれればそれまでですが。それならば既にモーツァルトも迎合してゐるのです。

岡田氏に一番賛成出来ないのは(これは他の感想文から拾つたのですが)現代のポピュラー音楽がロマン派の音楽の正統的な後継者だと云ふ話で、私見ではポピュラー音楽はダンス音楽が基盤でそれと同化するしかないものですし、クラシック音楽は聴きながらその聞いてゐる自己を対象化出来ることに大きな違ひがあると思つてゐるからです。



No.1295
イコノロジーなど
prospero(管理者)(2006-10-21 00:17:46)

エクフラーシス・エンブレム・インプレーザというものは、おそらく正確に再現してその意味を厳密に読み取るということはかなり難しいとは思います。しかし、これはやはり何といっても、いまのわれわれの思考のあり方とは決定的に異なる感覚を示しているという点ではきわめて面白いと思っています。また、従来の文字資料だけに頼っていてはわからないことが見えてくるというのも新鮮な驚きだと思います。

ただ、イコノロジーなどを通じて復権したこれらの思考は、いまではやや通俗化されすぎて、その衝撃力を失いつつあるのも事実のようです。図像と言葉を一対一対応で繋ぐだけではたいした面白味はないわけで、問題となるのは、そうした組み合わせを作っていく過程の一種の力学のようなものだと思います。その点で、ディディ=ユベルマン『残存する形象』<small>(人文書院)</small>は非常に刺戟にになりました。記憶術もその点では似ているかもしれません。イエイツは『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』の翻訳が待たれます。

そういえば、最近、上村忠男氏の訳でプラーツ『バロックのイメージ世界 ―― 綺想主義研究』<small>(みすず書房)</small>が出ましたね。これは元本は、ありな書房からすでに翻訳がある『綺想主義研究』と同じものでしょう。翻訳の中身を見ていないので、なんとも言えませんが、差し当たり、あれだけ大冊でおそらくは読者も少ないものを複数の翻訳で出すより、『生の家』や『家族の肖像』などを早く訳して欲しいところです。

ちなみに岡田温司さん、加えて岡田暁生さん、ともに良いですね。中公新書はこの二大岡田氏を抱えたこともあって、雨後の筍のような新書業界の中では、クオリティを保っていますね。岡田暁生さんの『オペラの運命』はとりわけ面白かった。『西洋音楽史』のほうは若干食い足りない思いが残りましたが、それでも良い本であることにかわりはありません。知り合いの中公新書の編集者に聞くところ、まだまだ今後も期待できそうです。


No.1294
Re:エンターテイメント三題
あがるま(2006-10-20 03:27:17)

>イエイツの歴史物などのほうが、ヴィジョンもいかがわしさもよほど強烈です。<
最近やつと彼女の記憶術を見たのですが、何だか良く分りませんでした。
勿論記憶が良くなる訳もありません。
薔薇十字団など、実在もしなかつた団体について書く大胆さにも恐れ入ります。

エクフラーシス・エンブレム・インプレーザなどにもプロスペロさんは興味を
お持ちのやうですが。これらの膨大な集積から個人が何かを読み取ることが果たして出きるのでせうか。

同じ時に岡田温司の『マグダラのマリア』(中公新書)を借り出しました、
『ダヴィンチ・コード』とはさすがに違ひますね。



No.1293
エンターテイメント三題
prospero(管理者)(2006-10-18 21:08:34)

最近、知人との遣り取りの中で、テッド・チャン『あなたの人生の物語』を思い出す機会があったので、SF絡みの旧いスレッドをサルベージして追加を。

『あなたの人生の物語』でも扱われていた言語関係を主題にしたSFで、飛浩隆『象<small>(かたど)</small>る力』(ハヤカワ文庫)、その表題作。複数の惑星の文明を理解する手がかりとして「図像」が用いられ、とりわけそのクリエーターが「イコノグラファー」として登場します。図形が、言語や音楽と同様に、人間の感情や思考を呼び出すためのコマンドとして使用される世界の中、すべての機能の「強制終了」のコマンドとなる「見えない図形」をめぐって話が展開されます。ライプニッツ的普遍言語構想と現代のイコノロジーを取り混ぜたような発想で、ちょっと考えさせられます。尤も、テッド・チャンの思弁的なテイストに比べれば、はるかに活劇風ですが。

瀬戸川猛資『夢想の研究 ―― 活字と映像の想像力』<small>(創元ライブラリー)</small>が、軽く読めるにもかかわらず、きわめて面白いものでした。活字と映像を関わらせながら語るとなると、意外と似たり寄ったりのものになりがちですが、これは活字メディアの側の質が高いのが特徴。そのために、連想が思いきり拡がるのが気持ちいい。最初文庫で読んだものの、より図版の收録が多い元版もネット古書店で入手してしまいました。

全体の中では瑣末なエピソードですが、『スターウォーズ』を東洋との関係で読んでいったくだりでは、目から鱗が落ちるような思いを。ヨーダが「老子」をイメージしているというのは兎も角としても、「ジェダイ」の騎士が、Jidai-gekiとして輸出された日本映画(しばしばJidaiとだけ呼ばれたりするとか)が影響しているというのも面白い。その傍証に、彼らがフェンシングふうに片手で剣をもつのではなく、日本刀のように両手で構えて立ち回りを演じている点を挙げていたりもする。オビ・ワン・ケノービーが、obi-one kuroobi(黒帯初段)とか。よく知られたネタなのかもしれませんが、私は気に入ってしまいました。

イコン、活字と映像という点では、ついでに今年の前半に読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』。あれだけ騒がれていたので、ついつい読んでしまいましたが、まあ何ということはない。ごくありきたりな歴史ネタのミステリー。あれだけ浅い蘊蓄にもかかわらず、仰々しく飾り立てたのにむしろ感心したくらいです。キリスト教や異端などに多少でも一般の関心が拡がるなら悪くはないでしょうが、物の分かっている人に薦める本ではない。有名になった分、いろいろと毀誉褒貶もあるようですが、言ってみれば、考古学者が『インディー・ジョーンズ』をどう思うかを想像してみればよろしいかと。「まあ、あれはあれ」といったところでしょうね。イエイツの歴史物などのほうが、ヴィジョンもいかがわしさもよほど強烈です。


No.1288
ヴァイオリンのことなど(続)
prospero(管理者)(2006-09-15 12:46:54)

大蟻食いのサイト、やはりそういう印象をおもちでしたね。日常的に見るには少々灰汁が強すぎて……。小説の文体はきわめて硬質で美しいのに、地声になるとちょっと。福田和也などと書評をした『皆殺しブック・レヴュー』は、本を人にあげることのない私が珍しく友人にあげてしまいました。批評というのは悪口である必要はないと思うのですけどね。

閑話休題。ヴァイオリンの話に戻ると、<a href="http://violinmasterclass.com/mc_menu.php">violin masterclass</a>というサイトでは、ヴァイオリンのテクニックを動画・音声入りで解説し、レッスン風景を公開しています。ただ動画が重いので、私のマシンでは、なかなかすべてを見る気にはなれませんが。

最近は、ブリリアントに限らず、とにかくBoxもののCDが安いですね。Masters of the Stirngsといった往年のヴァイオリニストの演奏を収めた10枚のボックスなども入手しました。これには、イーダ・ヘンデル、エネスコ<small>(最近は「エネスク」と表記するようですね)</small>、フーベルマンなどが入っています。

DVDで面白かったのは、『アート・オブ・ヴァイオリン』。これはついつい繰り返し見てしまいます。パールマンが案内役になって、古いフィルムをいろいろと紹介しています。音声ナシのイザイの映像とか。若い頃のハイフェッツが凄まじい。若きシゲティも長身で直立不動、「電話ボックスの中で弾いている」と言われたその端正な容姿が見られます。こういうのを見ると、やはりヴァイオリンは、視覚に訴えるものが大きく、まさに大道芸の延長だと思えてきます。とりわけ、昔のヴァイオリニストは個性が強く、運指からボーイングに至るまで画一化された現代の演奏家と違って、まるで一人一人が違う種類の楽器を弾いているかのようです。エルマンなど、よくあんな格好であれだけの音が出るなと、変な意味で感心してしまいます。聴かせるだけでなく、見せる技術というのも、プロには必要なのかも知れませんね。


No.1286
Re:ヴァイオリンのことなど
あがるま(2006-09-14 00:39:04)

佐藤嬢の頁は、殆ど喧嘩腰だし、その後の展開が面白さうだと思つてゐたのですが、さすがに品がないと思つて中止したのでせうか。
出版社との間でトラブルがあつたのも始めてそこで知りました。

ルーマニアの楽器もスカランペッラの音も聞いたのは『弦楽器ストラッド』でした。

ダマーズのフォレは勿論ピアノ(プレイエル?)ですし、Accordでブリリアントからではありません。弁解ばかりですが念のため。






No.1285
ヴァイオリンのことなど
prospero(管理者)(2006-09-12 23:47:55)

佐藤亜紀さんの作品は、『鏡の影』を読んだことがあり、これはなかなか面白かった記憶があります<small>(これは、平野啓一郎『日蝕』とのあいだで問題になった作品でしたね)</small>。HPは大蟻食い云々というやつですね。そのヴァイオリンの記述は以前見たことがあるのですが、あまりに首を傾げてしまうような記述が多かったように思います<small>(いまもう一度見てみましたが、やはり印象は同じでした)</small>。

ヴァイオリン関係は<a href="http://www.strad.co.jp/index.html">ストラッド</a>のページを見ています。これは新入荷のヴァイオリンを試奏した音も聴けて面白かったりします。ヴァイオリンは本当にいろいろな要素で変化します。やはり右手の役割、そして弓は大きいでしょうね。まだまだ選択には時間がかかりそうです。ストラッドのトップで宣伝している新作発表会にも出かけてみたいとは思うのですが、なにぶんにも出不精なもので。

ブリリアントは、ロカテッリの『ヴァイオリン協奏曲全集』も手に入れました。バロックのパガニーニと言われるだけあって、その超絶技巧ぶりは思わず笑ってしまうほどです。

ダマーズも機会があったら聴いてみたいと思います。


No.1284
Re:難しいものです
あがるま(2006-09-11 23:08:59)

佐藤亜紀と云ふ小説家のHPにヴァイオリンについて書いてあつたのです
が、彼女が何処かの大学の教師になつたら、更新されなくなり残念です。

ルーマニア製の楽器も良ささうですね。

20万円の楽器に10万円の弓では納得しないからでせうか、
入門セットには楽器の四分の一くらいの価格の弓が付いてますね。
良く楽器より弓の方が大切だと云ふのですが、大分上達してからのことなのでせう。

ブリリアントのフォレ歌曲集(アメリング・スゼー、4枚)は前に花山さんが言及されてゐたEMIの原盤だと云ふので買つてみたのですが、LPから移したのかスクラッチ音がします。私には初期の方が魅力的です。
他のところにも投稿したことがあるのですが、ダマーズ演奏の舟歌(全集)と夜想曲(4ー6番)は75分も這入つてゐて、録音(モノラル)も演奏も秀逸でした。


No.1282
難しいものです
prospero(管理者)(2006-09-06 20:25:14)

ヴァイオリンも少しずつ練習を重ねるに連れて、難しさを実感します。弦楽器の場合は、上達度がダイレクトに音に跳ね返ってくるので、同じ曲を「弾ける」といっても、その完成度は千差万別です。鍵盤を押せばその音が出るピアノ<small>(などというと、ピアノをやっている方には怒られそうですが)</small>と違って、その楽器の音がよく鳴るようになるまでに時間がかかるのが、弦楽器の難しさと楽しさのようです。ピッチを若干高めあるいは低めに取るなどというのも、弦楽器ならではですし。

楽器選びも、そうそう簡単にはいきません。何か情報でもいただければと思っていたので、話題に乗っていただき、ありがとうございます。ヴァイオリンは、個体差が非常に大きなものなので、制作者の名前や値段よりも、現物を確かめるのが大事だとはよく言われることです。しかし、その楽器の作りの善し悪しなど、素人がそんなに簡単に分かるものでもなく、ここはやはり専門家に頼るほかはなさそうです。だいたい、楽器が真作かどうかということさえ、決定的なことが言えるのはストラディヴァリウスの場合だけ(データが比較的よく分かっている)で、あとはプロの目でも予測にとどまるとか。ファニョラなども真作だと相当の価格になりそうです。仰るように、中国製というのが最近はリーズナブルなもので出回っているようですね。

この前はドイツ製、ハンガリー製の現代楽器を試奏させてもらってきました。弓も含めてとなると、まだまだ時間はかかりそうです。フランス製をみてみたいと思っているのですが。家の近所にも、ヴァイオリンの工房が何件かあるので、近々覗いてみようと思います。あとの情報は、いま教えてもらっているプロの方にお願いして、口をきいてもらうというかたちになりそうです。

ヒラリー・ハーンは、最近パガニーニを出しましたね。これが期待外れでした。前回のモーツァルトといい、どうも優等生的な面が目立ってきて、面白みに欠けます。最初の頃のバッハやショスタコーヴィチには感心したのですけど。

Brilliantは頑張っていますね。Boxものの価格破壊ぶりは頼もしい限りですし、内容的にも立派なものが多く楽しみです。最近はレオニード・コーガンのBoxものを手に入れました。フランクのソナタのオーケストラ伴奏版などというのも収録されていました。

モーツァルトは、ホ短調のソナタを練習しています。これは素人が弾きたがり、プロは避けるという曲のようです。一見簡単だが、仕上げるのは難しいということのようです。まあ、気長に愉しみたいと思いますが。


No.1281
ヴァイオリンを
あがるま(2006-09-06 04:51:36)

お弾きになるのを忘れてました。
10年ほど前に楽譜も読めないのに − 楽器があれば読めるやうになるのではと思つて − 
買つたものの、押入れにつつこんだまま最近は触れることもなくなりました。

さう云へば、ブリリアントのモーツァルト全集を求めてからCDも滅多に買ふことがなくなりました。

H.ハーンはヴィョームを使つてゐるとのことですが、
ファニヨラとかスカランペッラなどと聞くと自分にも買へさうに思へるのが不思議です。
出来立ての楽器でも良いものがありさうですが。
情報は何処から仕入れるのですか?

クレモナに行つたことはありませんが、何処にでも中国人沢山来てがゐるので、
将来は彼らが中心になるのかも知れませんね。
日本人にも頑張つて貰はなくては!


No.1280
惑星
prospero(管理者)(2006-08-28 14:19:43)

冥王星がなくなりましたね。結局は、ホルスト『惑星』通りに戻ったわけです。こんな話題のせいか、このところHMVなどでも、<a href="http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=1273701">ラトルの惑星</a>がよく売れているようです。このエディションは、お節介なことに、のちにコリン・マシューズなる別人が、「冥王星」を作曲して、ホルストの曲につけ加えたというもの。しかし、もはやそんな必要もなくなったわけで、別人の曲を知らない間に追加されて鬱陶しかったであろうホルストも、これで一安心というわけです。

音楽関係では、先日東京音楽コンクール(弦楽器の部)なる催しに出かけてきました。20代の人たちの気迫に満ちた演奏は頼もしい限り。会場も予想以上に盛況で、日本のクラシック界も裾野が拡がっている実感があります。

私の方も、最近ヴァイオリンの交換を考えていて、少し調査を始めました。国による個性など、楽器そのものも結構面白いものですね。決まるまでにはまだ時間がかかりそうです。

No.1262
Re:『千夜千冊』その他
prospero(管理者)(2006-07-01 21:43:16)

なるほど、なかなか手厳しいですが、そういう面はありますね。ただ一つ、認める点があるとすれば、松岡正剛氏自身は、自ら「編集工学」と名乗って、さまざまな知識のエディティングをしているというのを明記している点です。やたらに独創性を掲げる底の浅いものが幅を利かしている現状では、それも一つの解毒作用があるのかと思ってみたりもします。私も彼の書物でまともに読んだのは『フラジャイル』くらいしかありませんので、あまりよく分かりませんが、確かにさほど強固な思想性のようなものは感じません。ただ、『情報の歴史』<small>(NTT出版)</small>という巨大な年表は面白く、わりあいよく眺めています。こういうものには、編集者としての利点が出るような気もします。

それにしても、『千夜千冊』は、なぜああいう値段になるのでしょうね。澁澤龍彦のようなタイプの書き手なら、図版や装幀に凝った愛蔵版という線も考えられるでしょうが、松岡氏はそういうタイプでもなさそうですし。確かに分量はかなりあるようですが、それでもせいぜい3万くらいが関の山でしょう。

ちなみにウェッブの扱いという点ですが、確かに海外(特に欧米)では、公共機関やプロの研究者がかなり本格的なサイトを作っていますね。古典テクストのweb化などもハイスピードで進んでいますし。その点は、日本の場合、むしろ素人のほうが余程力の籠ったサイトを作っているような現状でしょう。きちんとした発表場所として認知されている感じでもありませんし。英語でかなり専門的なwebを立ち上げている人に対して、海外から学会発表のオファーがあったということを又聞きで知りましたが、その真偽も定かでありません。大学の紀要などは一応電子化が進み始めているようですが、まあ紀要論文というものは、産業廃棄物のようなものですからね。

松岡正剛と云ふとどうしても松岡映丘、松岡静雄そして柳田國男
との連想なしには考へられません。

ウェッブ上で見ただけですが、彼には独自の思想や個性を形づくる
上昇志向が余り見られず、既存のものを適当につまみ食ひして、
アレンジする、またそれが同時に創造的だ、と云ふ姿勢は、
既に親の代で最高レヴェルを達成してしまつた2代目(或は3代目)
の態度でせうか。

つまり何にも意見を持つ(持ち度い)と云ふ意味での『解釈家』
と云ふことで、誰でも良い他人の意見を知り度い時に、ウィキペディア
のやうな百科事典の替りには役立ちますが、書物 −それも個人が
買ふことが出来ない価格で − にする理由は分かりません。

外国ではきちんとした学者が自分のサイトで公表するのに、
日本の学者は(恥をかくのを懼れて)出し惜しみしますから、
その代用でせうか?

今まで彼の本を買つたことはありませんから、
どんな人が買ふのか私も興味があります。




No.1259
『千夜千冊』
prospero(管理者)(2006-05-31 13:19:18)

松岡正剛の<a href="http://www.kyuryudo.co.jp/">『千夜千冊』</a>が来月発売になりますね。web上に連載してたものを編集して7巻本にしたもので、編集上の新たな工夫もある(年表も別巻でつくらしい)とのこと。興味はあるのですが、88,200円というその値段は強気ですね。書店では覧られるのでしょうか。ご覧になられた方はお教えいただければと思います。


No.1258
送料の事情
prospero(管理者)(2006-05-30 22:01:31)

確かに海外からの輸入の際に、送料は大きなネックになりますね。

以前は、紙ベースのカタログを作っているところからまとめて買うことが多かったので、一冊辺りの送料がかなり割安でしたが、最近ではABEで個別に引っかかるもので用を足しているので、どうしても送料が割高になってしまいます。Amazonなども見るようにしていますが、あまり変わりはないようですね。

何よりも、ABEなどの場合はメールの返信もすべて自動化されていて、個別に何かを対応してくれるということがなく、寂しい限りです。個々の古書店と付き合いの多かった頃は、関心のありそうな書目のリストを別途に送ってくれたり、いろいろとサービスがあったものですが。

便利になった分、交流が失われるというのは、ネット古書の場合も同様のようです。ただそうなると、稀覯書類の値の張るものを少々買いにくくなってしまいます。やはり見ず知らずの書店で、コンディションの記述なども制約があり、個別の対応をしてくれないとなると、なかなか発注するまでにいきません。しかも紙のカタログのように、そうそう書影の画像があるわけでもありませんし。

そういう意味では、最近再び国内の洋古書店も使うようになってきています。流石に以前の遠隔地貿易のような暴利を貪っていては成り立たないことが明らかになってきたので、レート換算もずいぶん安くなってきて、送料を考えると国内の古書店の方が安い場合さえも出てきたようです。これはこれで、ネットがもたらした怪我の功名というものでしょうか。


No.1255
Re:ネット書店事情
あがるま(2006-05-20 04:46:02)

>その他、皆さんがお薦めのネット書店などがありますでしょうか。

イタリアは送料が高く時間がかかるのが有名のやうですが。
最近偶然にIBS(Internet Bookstore Italia)に注文する機会がありました。

そこの50%オフの本だけ(ヴァッティモ、P.ロッシ、スレザク『プラトンを読む』など)
を試しに取り寄せてみたのですが、約1万8千円の本代に1万2千円の送料。
DHL便で日本まで3週間で着きました。
基本約14ユーロプラス品代の何%と云ふ送料計算ですから、
5割引きでもないと間尺に合ひませんね。




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