口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ


No.1000

史的觀念論の誘惑
投稿者---森 洋介(2003/07/06 17:37:38)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


蒐書記新着分、拜見。 
この観念史において何を単位観念とするかということが、方法論としては問題になるだろう。ユング的な「原型」が孕むのと同種の問題が、ここには存在する。
 この邊、折あらば詳しくおうかがひしたいところです。
 或る時代・文化の産物に對して外からの視點でもって恣意的に「單位」を切り取ってしまひがちなことを懸念されてゐるのでせうか。emicなアプローチで内在的了解を得るべきではないのか、と。
 ユング流元型論の普遍めかしたいかがはしさは慥かに氣になります。それでジョセフ・キャンベルの神話論も讀まずじまひです。いつぞやのアドラーのシントピコンもさうですが、アメリカ人っていまどきプラトンのイデア論の信奉者みたいなのが多いんでせうか。
 一方、例へば同じく蒐書記で前回取り上げてをられたフーコーのパレーシア講義は歴史的イーミック・アプローチと言へませうか。あれは、現代では樣々に譯し分けられる語が古代ギリシア語・ギリシア人に内在的な視點からは「パレーシア」といふ同一の語意識のもとに捉へられることを示したものでした。またこの講義でフーコーは、自分の方法に對する史的觀念論だといふ批難をしりぞけてゐました。
 觀念史 history of ideas の魅力も危險も、この(史的)觀念論(=イデア論)の魅力と危險に存するとは言へませんか。古今を貫くコンティニュイティーを發見する愉悦と、特殊な地域・時代に屬する概念が普遍を僭稱する傲慢と。

 餘談――ニコルソンの『想像の翼』は共著ではありませんでしたっけ。

発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事>アレゴリー感覚1001prospero(管理者)2003/07/07 21:51:34



No.1001

アレゴリー感覚
投稿者---prospero(管理者)(2003/07/07 21:51:34)


更新もまばらで、掲示板のほうも放置したままで失礼しました。

>森さん

そうそうに更新に反応していただき、ありがとうございます。

さて、件の「観念史」ですが、ユング的な「元型論」がはらむ問題と同種のものとして考えていたのは、まさにご指摘の通りの論点です「或る時代・文化の産物に對して外からの視點でもって恣意的に<單位>を切り取ってしまひがちなこと」を問題として感じていたというのは仰られる通りです。これはいわゆる類型論を取る文化史全般にも当てはまるでしょう。シュペングラー『西洋の没落』などを代表とする「文化の観相学」などもそうした部類に属すものだと思います。バシュラールのイマージュの類型論、あるいは「バロック」という概念をある種の歴史的類型である「アイオーン」として語ったドールスなどについても同様です。これらは、機械的な因果論ではなく、形態(ゲシュタルト)の生成として思想や文化を論じるという点ではきわめて魅力的なのですが、やはりその類型の切り取り方が恣意的であるという批判はこれまでもさんざんに繰り返されている通りで、その点では私も同じような懸念を抱いてしまいます。

ただ、おそらくそのような反論をすると、「観念史」論者、ないし「元型論」論者たちは、自分たちのやっていることこそは、eticどころか、究極のemicな議論なのだと言うことでしょう。そこで、もう少し踏み込むなら、次のような疑問を挙げることもできます。「観念史」ないし「元型論」で用いられるそれぞれの単位はけっして静止したものではなく、歴史や文化の変動にともなって移り変わっていくものであるはずだが、その変化そのものを、「観念史」や「元型論」はどう説明するのかという疑問です。ユングの場合はそれを「変容の象徴」という仕方で語るわけですが(同名の著作あり)、ここには大きな問題があると思います。果たして、元型間の変化・変容それ自体は、もう一度象徴化されるべきものなのか(それが可能なものなのか)、むしろ本当に問題なのは、もはや象徴として意味化できない次元で起こる変化なのではないか。要するに、「象徴の変容」を「変容の象徴」として語ってしまうところに、ユングの問題がありはしないかという疑問です。象徴どうしの変容を、さらにまた変容を類型化する象徴によって語るというのは、無限後退を起こす議論のような気がするのです。いわば、プラトンのイデア論を反論するために用いられる「第三人間論」のように。

さて、そうした問題点があるにしても、あるいはそのようないかがわしさがあるからこそ、「観念史」や「元型論」は魅力的だったりもします。「古今を貫くコンティニュイティーを發見する愉悦と、特殊な地域・時代に屬する概念が普遍を僭稱する傲慢と」と仰るのは大いに共感するところでもあります。これはおそらく、観念そのものが実在し、そのもの自体としての生命をもつかのような思い入れに発している独特の感性だろうというふうにも思います。観念そのものを具体物、ないし極端な場合には「人格」とみなすような実念論がそこには働いているようです。観念を具体的な女性像などで寓意的に表現していた中世的感覚にならって、これを「アレゴリー感覚」とでも呼んでみましょうか。そんな具合に考えると、ベンヤミンなどが考える「死んだ」アレゴリーとは異なった、別の風景が現れてきそうです。

フーコーの場合はなかなか微妙ですね。パレーシア講義の「史的観念論」の部分は、私も欄外に目印などをつけた個所でありました。「精神疾患」などのさまざまな「問題構成」は、因果論的に生じるものではなく、「創造」であると言ったあとで、フーコーはこんな風に語っていました。「特定の<問題構成>」は、「特定の状況に示された回答、独創的で、具体的で特異な思想による回答の歴史として分析できる」と。思想とは、ある特定の現実的状況に応じた応答であるため、現実との関係を離れては考えられないが、かといってそれは現実から一対一対応によって算出されるわけではなく、そこには回答を与える複数のヴァリエーションが認められるということでしょう。フーコーは「パレーシア」の解明を通じて、「真理と現実の間の特有の関係を分析しようとした」と言っているわけですが、この戦略もなかなか心憎いところがあります。何しろ、「パレーシア」というのが、そもそも「真理を語る」という問題である以上、そこにはあらかじめ、真理と現実の関係が内包されているわけですから。議論の対象の内に議論の枠組みが入れ子式に組み込まれているフーコー独特の問題設定というところですね。

まとまりもなく、思いつくままを書き連ねました。何らかの議論の手がかりにでもなればと思います。

>ニコルソンの『想像の翼』はご指摘の通り共著です。後ほどデータを追加しておきたいと思います。ご指摘、ありがとうございます。

No.1002

觀念生物學
投稿者---森 洋介(2003/07/08 17:51:16)
http://profiles.yahoo.co.jp/livresque


 アレゴリー感覺、といふのは面白いと思ひます。「観念そのものが実在し、そのもの自体としての生命をもつかのような」「観念そのものを具体物、ないし極端な場合には「人格」とみなすような」センス――なるほど、これには惹かれるものがあります。
 マルクスの有名な(?)比喩が想起されます。「それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他のすべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである」――初版『資本論』、一般的等價形態(貨幣形態)を論じたくだりださうです。私はこの〈動物)といふ名の動物の、あり得ない姿を想像するたび、ユーモラスな氣分になるのです。どこかの動物園では、ライオンやら象やらペンギンやらの檻が竝ぶ中に「動物」といふ名札のついた檻もあって、そこには、得體の知れない姿でうずくまったりうろつきまはったりしてゐる〈動物〉が……。
 つまり、「動物」といふやうな一般的觀念が個物の形態をまとって化現してゐる。こんなものがゐたら現實界でこそ珍獸になりますが、プラトンの謂ふイデア界とやらにはきっとこの種のをかしな〈動物〉が澤山棲んでゐるにちがひありません。dead metaphor に對して「生きた隱喩」とリクールが言った場合の「生きた」はなほ比喩でしたが、こちらの場合、「動物」なら「動物」といふ觀念が、比喩ではなく文字通り「生き」てゐる。ひところ柄谷行人氏がこれを、クラス(メタレベル)がメンバー(オブジェクト・レベル)に降り込んでくるパラドックスとして、論じてゐましたっけ。別の例で示せば、かの愉快な支那の百科事典(『言葉と物』參照)が動物についての分類項目を列擧する中に、「h. この分類自體に含まれるもの」と記してあるやうなものでせう。或いは、あのパイプを描いた繪の中に插入された「これはパイプではない」といふ文字、とか。
 ともあれ、觀念論のいかがはしさが持つ魅力とは、一つには、このシュールなをかしみから來るのだと思ひますが如何です? 何らかの觀念乃至概念が「生き」てゐるといふこと――即ち抽象的一般性を獲得しながら且つ個々の人々の間に根づいてゐるといふこと――の奇妙さ。多分これはクソ眞面目一方な觀念論者(=理想主義者)では感知できないことかもしれませんが。
 西歐中世のアレゴリー感覺は、恐らくギリシア−ローマ神話に顯著な抽象名詞の神格化=擬人化 anthropomorphism に淵源するのでせうか。しかし觀念に物格・人格を認める如き在り方は、それとは對極にある近代の唯物論的思考によっても照らし出されるわけです。現代の日常も、中世のやうなあからさまなアレゴリーの形をとらないだけで、實はさうした奇妙な生き物どもによって取り圍まれてゐるのではありますまいか。我々は自ら知らずに中世的世界を生きてゐるのだとすれば?
 『真理とディスクール パレーシア講義』を讀み返してみたら、フーコーは「歴史的な観念論の分析と、問題構成の分析はまったく異なる」と述べた後で、「特定の問題構成は、[……]特定の個人たちが示した回答だ」「なんらかの集団的な無意識から生まれた集団的な回答ではない」と説いてゐます。ユング流集合無意識説への批判?(いかにも史的唯名論者らしい……) が、そこには留保として「(もっとも、さまざまな文章に同じ回答が示されていて、あるところからこの回答があまりに一般的なものとなり、回答の主体がわからなくなることもありますが)」とも付け加へてゐるのでした。できればその先を聞きたかった。「あるところから」とはどのところなりや。或る問題への回答が個々特定の主體から遊離して一般觀念としての生命を持つ(=「生き」たイデアとなる)のは、如何にして、如何なる反復を經てなのか。「一般的なもの」はどのやうに誕生し、育ち、生き、死ぬのか、その生態如何。等々、それを哲學的一般論としてではなく歴史的具體に即して語って貰へたらさぞや面白かったらうに、と思ひます。
 以上、取留めなき感想でした


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No.1122

擬人論の復活
投稿者---森 洋介(2004/06/25 11:51:04)
http://y7.net/bookish


 「蒐書記」六月九日追加分で取り上げられた 『文献学とメルクリウスの結婚』に絡めて、ちょっと。 
 そこに見られる擬人論 anthropomorphism はなるほど珍妙です。正に、以前prosperoさんが「観念そのものを具体物、ないし極端な場合には「人格」とみなすような実念論がそこには働いているようです。観念を具体的な女性像などで寓意的に表現していた中世的感覚にならって、これを「アレゴリー感覚」とでも呼んでみましょうか」(No.1001)と書かれたのに該當しませう。 
 「これが「教科書」であったという事実が、学問観の決定的な違いを如実に物語っていて面白い」――いかにも。しかし、教科書であるがゆゑに擬人論が好まれるといふこともあるのではないでせうか。ここで想起するのは、やや位相は異なりますが、古典SF研究家・横田順彌氏が『理科讀本 炭素太功記』(1926)を代表に擧げるやうな、元素や細菌を擬人化して語る科學解説書です。特に夏目漱石を眞似た『吾輩は淋菌である』式の擬人化小説が續々簇生したさうで(横田「吾輩がいっぱい」『探書記』本の雑誌社・1992.12)、それを研究した論文さへあります日比嘉高「吾輩の死んだあとに──〈猫のアーカイヴ〉の生成と更新──。 
 問題は、横田氏も言ふ通り、今となっては笑ってしまふやうな珍作としか思へないこの種の綺想物語を「当時の人々がどう受け止め、どう読まれていたのか」です。何と、物によっては本氣で學校がこれで學ばせようとしてゐたらしく、一九一一年に京都府立第一高等女學校の出した小册子では課外讀物書目に理學博士戰々道人(久原躬弦)戲著『化學者の夢』(冨山房・1906)といふのを擧げてゐるとのこと。これがどんな本かは横田順彌『明治時代は謎だらけ』(平凡社・2002.2)に紹介されてゐます。「狩雨霧(かりうむ)と名取雨霧(なとりうむ)といへる二人は、双子の如くよく似たる兄弟なるが、いづれも其挙動は活発にして敏捷の人物なり」といった鹽梅。 
 これで學習の手引きになるとは到底思へないのですが、普通に説明すれば濟むものをわざわざ擬人化した方がわかりやすいといふ思ひ込みは今なほ教育者にはありがちかもしれません。とりわけ子供向けに思考すると擬人論になるといふのは、或る意味では先祖歸りなのでせうか――中世的寓意、乃至は野生の思考(レヴィ=ストロース)・未開社會の思惟(レヴィ=ブリュル)への回歸、と言へば大袈裟でせうが。 
 以上、お笑ひぐさまでに。


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No.1125

観念の経験論
投稿者---prospero(管理者)(2004/06/26 23:38:07)


この『文献学とメルクリウスの結婚』は、その後、中世ドイツ語版が日本語に翻訳されていることを見つけて、現在注文を出してあります。なぜラテン語原典ではなく、中高ドイツ語訳を邦訳したのか、その辺りも気になるところなので、手に入ったところでまたご紹介したいと思います。

それにしても、「元素や細菌を擬人化」して語る教科書とは、良いものを教えていただきました。「狩雨霧」くんと「名取雨霧」くんというのも、何ともご愛嬌で笑えます。こんなことが、われわれのごく間近なところでなされていたのですね。擬人化という発想が、教化的な入門という意味合いで使われるという点では、今も昔も、あるいは洋の東西を問わずに共通するところがあるということでしょうか。

しかしその一方で、古くはボエティウス『哲学の慰め』以来、「哲学」そのものが擬人化される確たる感性が、いわゆるハイ・カルチャーの中でも継続して現れるというのも面白い現象だと思います。これはこれで、なかなか侮れない独自の感覚なのではないかと思います。それこそ、観念をリアルなものとして実感する実念論の末裔として、かなり尖鋭な感覚を背景としているようにも思えます。ニーチェのツァラトゥストラや、ヴァレリーのテスト氏なども、その系譜で考えることができるかもしれません(というか、私などはかなり本気でそう考えています)。この流れの極端な形態として、ヘーゲルの『精神現象学』を位置づけるといったら、冗談がすぎるでしょうか。「主体=実体」という彼の基本的着想は、実体としての観念をなまなましい(艶かしい)「主体」として感じ取ることではなかったのでしょうか。観念の官能性の享受としての哲学……。こう考えてみると、リラダンのヘーゲル愛好などが、意外とすんなりと呑み込めてしまうようなところもありそうです。

ご指摘の「野生の思考」や「未開社會の思惟」などをも考え合わせると、何やらとてつもない広がりをもった思考のようにも見えてきます。

さらに調子に乗って付け加えるなら、ドゥルーズが『哲学とは何か』(河出書房新社)の中で語っていた「変容態」(アフェクト)などもここに重ねることができるかもしれません。それによると、『白鯨』のエイハブ船長は、それ自体としては何ものでもなく、作品の中でまさに自らの宿敵たる「モービー・ディック」に「変容」していくというのです。エイハブとは、ずばり「鯨への-生成」(240頁)そのものだというのです。こんなところにも、くだんの「アレゴリー感覚」を指摘できるかもしれません。


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No.1129

反ヒューマニズムとして
投稿者---森 洋介(2004/07/03 02:21:28)
http://y7.net/bookish


 私も「やや位相は異なりますが」と斷わりを入れておきましたが、擬人論といっても入門書におけるごとき擬人論だけでは「観念をリアルなものとして実感する実念論」には至らない場合も多々あります。そこで「いわゆるハイ・カルチャーの中で」といふ留保をつけられたのでせうね。 
 しかし例に擧げられたツァラトゥストラやテスト氏(最近の「ムッシュー・テスト」といふ譯題にはどうも抵抗がある)も、今ひとつ私の「アレゴリー感覺」には感應しないのです。なぜか。 
 例へば日本では、空海『三教指歸』や中江兆民『三醉人經綸問答』のやうな、各種の思想を擬人化させた人物に議論させる對話篇があります。また、名詮自性を旨とする馬琴の『南總里見八犬傳』のやうな創作もあります。それゆゑ近代リアリズムからは八犬士は「仁義八行の化物」(坪内逍遙)扱ひされる。これも儒教的な八種の徳の擬人化だったわけです。さらには『八犬傳』を「〈言葉〉のアレゴリー」と讀む評論さへあります(川村湊「戯作のユートピア」『異様の領域』国文社・1983.3)。しかし、やはり私のアレゴリー感覺には合致しません。 
 これらは、或る人格(キャラクター)が何らかの思想の代表(=表象)として設定されてゐるにしても、なほそれぞれは生身の肉體を持った人間であり、特定の人間が觀念を體現してゐるやうに感じられます。主語(主體)は人間なのであり、その限りで、擬人論(anthropomorphism)ではあるが人間中心主義(anthropocentrism)でもある。さうではなく、形の無いはずの「觀念」が手足を持った個物として具現してゐるといふこと、つまり主述を顛倒し觀念が主語となること、この奇妙な實念論的錯覺を、アレゴリー感覺と呼ばせていただきたいのです。だから「ある種の観念の具現化を願う感性の現われ」(No.1126)と云った場合、「具現化」と「観念」のどちらにアクセントを置くかが氣になります。觀念を具現化するのか、觀念が具現化するのか。 
 ところで『華氏451度』では人間が、プラトンの『國家』や『種の起源』やらの書物と化します。寺山修司は、「ブラッドベリー=トリュフォーは、「書物になった人間」を描くことで、書物を生かしたのではなく、人間を死物化してしまったのだ」と言ひ、書物人間を「生きていながら、身体性を停止している男」(寺山修司「書物になった男」『叢書文化の現在10 書物―世界の隠喩』岩波書店・1981.9)と云ひます。たしかに、この書物人間といふ發想からは人間ではなく觀念が生きてゐる感覺をおぼえます。が、これだと理窟に合ひません。「私は『君主論』です」――この主語は人間であり、書物は述語にすぎないはずですから。なぜ主語の位置にある人間が死物化されるのか。擬人化されたのが書物だからなのでせうか。書物には格別の觀念性がある……? 


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No.1131

概念的人物
投稿者---prospero(管理者)(2004/08/01 23:41:02)


随分と間が空いてしまいましたが、気になりつづけている話題ではあるので、若干の追加を。

 「ツァラトゥストラやテスト氏も、今ひとつ私の「アレゴリー感覺」には感應しない」と森さんの仰られるのは、感覚として分かります。私としても多少無理があるのを承知で、あえてそう考えてみると、それぞれが新しいかたちで見えてくるのではないかという、提案の意味合いがありました。

アレゴリー的な「観念実在論」にはどういう実例が考えられるのか。これは結構難しいところです。アレゴリーをめぐって古典的な議論を提出したノースロップ・フライやアンガス・フレッチャーなどを見ても、今一つ判然としません。ご指摘にあるように、ある人物に観念を託すというやり方だと、どうしてもその「人格」に引き摺られて、肝心の観念がその人物の所有物(死物)になってしまうような傾向は避け難いようです。それなら、いっそのこと、中世のアレゴリー文学そのままに、「美徳」や「悪徳」が人物としてそのまま現れてくるというのはどうでしょう。まさしく、ギヨーム・ド;ロリスとジャン・ド・マンの『薔薇物語』の世界です。もしかすると、『華氏451度』はその感覚に近いのかもしれませんね。ちなみに、映画の最後では、同一の書物を暗誦する双子がいて、『高慢と偏見』の「上巻」と「下巻」と名乗っていて、これは笑いました。

 ここでは、「反ヒューマニズム」としての「観念実在論」が、抽象的な「絶対的観念論」とどのように区別されるのかというのが、一つには問題なのだろうと思います。私としても、ヘーゲルの『精神現象学』こそ、観念が生きて実在化する最高のアレゴリーと言ってしまいたい思いは山々なのですが、それにもやはり抵抗があります。おそらく、アレゴリー感覚にとって一番問題なのは、観念が「実在化する」という、その領域の横断なのではないかという気もします。具現化され終えた観念は、いはば実在としての命を失って、ある「人格」に転じたり、悪い意味での「寓意」に堕してしまうのではないかとも思います。その点では、ドゥルーズが『哲学とは何か』の中で、メルヴィル『白鯨』に触れたくだりはいささか示唆的でした。「海の知覚を有しているのはもちろんエイハブであるが、しかし彼がその知覚を有しているのは、かれがモービー・ディックとの関係のなかに移ってしまい、この関係が彼をして<鯨への-生成>たらしめ、こうしてもはや人称を必要としないひとつの<諸感覚の合成態>、つまり<海洋>を形成する、という理由だけにもとづいている」(p. 240)。エイハブという「人格」は、海を目指す熾烈な探索の意欲というかたちでモービー・ディックとの関係を生きるときに、人格を脱して、海への探求の実在化として、観念を生きるというようなところでしょう。人物が観念に憑依され、乗っ取られるというところでもありましょうか。

 それからもう一つ、同じ『哲学とは何か』の中心概念として、「概念的人物」なるものがあります。そこにはこんなことが。「概念的人物は哲学者の代理ではない。その逆でさえある。哲学者は、彼の主要概念的人物の、そして他のすべての概念的人物の外被にすぎず、それらの人物こそが、彼の哲学の仲介者、その真の主体である。概念的人物は哲学者の「等価語」であり、哲学者の名前は彼の人物のたんなる偽名である」(p. 93)。こんなことを語りながら、その概念的人物の例としてドゥルーズが挙げるのが、「プラトンにとっての「ソクラテス」、ニーチェの「ディオニュソス」、クザーヌスの「白痴」(ただしこれは誤訳。Idiotはクザーヌスにとっては「素人」、「無学者」の意味)」でした。これも私には、アレゴリー感覚に共振する理解と受けとめられるのですが、いかがなものでしょう。


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過去ログ
カントと自然法など

No.1081

カントと自然法
投稿者---如月(2004/04/11 10:16:27)
http://www.furugosho.com/


prosperoさん、こんにちは。リンクの件ありがとうございます。当方からも貴サイトのURL変更しておきました。

また、カントについてのご教示も、どうもありがとうございます。18世紀に興味をもつからにはカントも当然考え合わせなくてはならないのですが、私はドイツ語がだめなので、つい敬遠しがちです。これからもいろいろお教え下さい。
昨日図書館でざっと調べたところ、自然法思想史のなかでのカントの位置づけは、どちらかといえば実定法尊重派で、法への抵抗権にも否定的とありましたが…。

(突然の書き込みで内容が把握しにくいという方、この書き込みは小掲示板↓から続いておりますので、そちらも合わせてお読み頂ければ幸いです。
http://www.furugosho.com/cgi-bin/bbs/yybbs.cgi)


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発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事>適法性と道徳性1082prospero(管理者)2004/04/11 12:48:39


No.1082

適法性と道徳性
投稿者---prospero(管理者)(2004/04/11 12:48:39)


如月さん、こちらにまで出向いていただき、ありがとうございます。また、URLが変更になったのことも報告せず、失礼いたしました。

「新・網上戯論」での議論、舌足らずで申し訳ありませんでした。法思想の流れには疎いのですが、カントの場合では、法と道徳の区別というのがまずは大前提になろうかと思います。いわゆる「適法性」(Legalitaet)と「道徳」(Moralitaet)の区別です。前者が法に対する外的な遵守(守ってさえいれば良いという態度)を指すのに対して、カントがより積極的に評価するのが、理性の自立にもとづく「道徳性」です。これは、理性による自己立法と、それに対する服従ということになろうかと思います。要するに、理性が自分で自分が従うべき法則を樹立するという、まさに啓蒙の理性主義の頂点をなす理解でしょう。これに対比すると、法に関わる「適法性」のほうは、理性の自律ならぬ他律であって、外面的な合法性にすぎないとされます。そうなると、法の場面では、直接に理性の自己立法が問題にはならなくなるので、法思想としては、むしろ実定法を中心とした法実証主義に傾くという次第です。そういう事情なので、カントが法実証主義に一定の基盤を与えたとされるのは、カント自身の理論の積極的な成果というよりは、その副産物といったほうが当たっているのかもしれません。

以上は、カントの実践哲学(『実践理性批判』や『道徳形而上学』)に関する問題ですが、実念論・唯名論という流れの中で私が念頭に置いていたのは、むしろ『純粋理性批判』のカントでした。事典風に整理すると、唯名論の流れを汲むイギリス経験論と、ある種の実念論(生得観念を重視する合理論)との「中間領域」の揺らぎを問題にしたのが『純粋理性批判』だからです(この件は、また項を改めてでも)。

法思想に関しては、あまりきちんと意識していなかったので、見当違いのお返事になっているかもしれません。またいろいろお教え願えればと思います。


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過去ログ
『ロゴス』など


No.1137

『ロゴス』
投稿者---prospero(管理者)(2004/08/05 21:07:54)


新着図書に入れておいたように、雑誌『ロゴス』の揃いを手に入れたので、追々紹介していきたいと思っています。ヴァイマール期をまたいで公刊された雑誌で、リッケルトやグロックナーの投稿が一番多いのですが、カッシーラーなども寄稿しています。それにしても、この執筆人は壮観です。こちらで第一巻の目次を紹介しました。この号の一番の注目は、何と言ってもフッサール「厳密な学としての現象学」です。ハイデガーの『存在と時間』は、フッサールが主幹を務める『現象学年報』が最初の発表誌でしたが、現象学自体のマニフェストはこの『ロゴス』に発表されたわけで、『ロゴス』こそが現象学が産声をあげた場所だったことになります。それから、『ロゴス』第一巻には、「智恵の学園」を主催していたヘルマン・カイザーリングなどが寄稿しているのも目を引きます。


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発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事>新カント学派と過去ログ1140prospero(管理者)2004/08/08 00:36:29


No.1140

新カント学派と過去ログ
投稿者---prospero(管理者)(2004/08/08 00:36:29)


以前もこの『ロゴス』の話題を出したと思って、蓄積してある過去ログを探してみました。あらためて皆さんの読み応えのある書き込みのため、今読んでも新鮮です。というわけで、関連する辺りを、久しぶりに過去ログとして追加しました。書式など、不体裁も多いのですが、そんなことを言っているといつまでもアップできないので、その点はご容赦下さい。この作業をやると、少し負債を返したような気分になります。いくらか大きめのスレッドを三つほど、アップしてみました。カッシーラー・新カント派、バフチン、翻訳論といったラインナップです。よろしければ、ご覧下さい。


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過去ログ・リスト:21, 20, 19, 18, 17, 16, 15, 14, 13, 12, 11, 10, 9, 8, 7, 6, 5, 4, 3, 2, 1