No.1000 | 史的觀念論の誘惑 投稿者---森 洋介(2003/07/06 17:37:38) http://profiles.yahoo.co.jp/livresque | |||||||||||
蒐書記新着分、拜見。 この観念史において何を単位観念とするかということが、方法論としては問題になるだろう。ユング的な「原型」が孕むのと同種の問題が、ここには存在する。この邊、折あらば詳しくおうかがひしたいところです。 或る時代・文化の産物に對して外からの視點でもって恣意的に「單位」を切り取ってしまひがちなことを懸念されてゐるのでせうか。emicなアプローチで内在的了解を得るべきではないのか、と。 ユング流元型論の普遍めかしたいかがはしさは慥かに氣になります。それでジョセフ・キャンベルの神話論も讀まずじまひです。いつぞやのアドラーのシントピコンもさうですが、アメリカ人っていまどきプラトンのイデア論の信奉者みたいなのが多いんでせうか。 一方、例へば同じく蒐書記で前回取り上げてをられたフーコーのパレーシア講義は歴史的イーミック・アプローチと言へませうか。あれは、現代では樣々に譯し分けられる語が古代ギリシア語・ギリシア人に内在的な視點からは「パレーシア」といふ同一の語意識のもとに捉へられることを示したものでした。またこの講義でフーコーは、自分の方法に對する史的觀念論だといふ批難をしりぞけてゐました。 觀念史 history of ideas の魅力も危險も、この(史的)觀念論(=イデア論)の魅力と危險に存するとは言へませんか。古今を貫くコンティニュイティーを發見する愉悦と、特殊な地域・時代に屬する概念が普遍を僭稱する傲慢と。 餘談――ニコルソンの『想像の翼』は共著ではありませんでしたっけ。
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