口舌の徒のために

licentiam des linguae, quum verum petas.(Publius Syrus)
真理を求めるときには、舌を自由にせよ



No.1085

哲學者は匿名がお嫌ひ?
投稿者---森 洋介(2004/04/24 03:23:06)
http://y7.net/bookish


 以前prosperoさんがNo.955でキェルケゴールの僞名癖のことを觸れてゐました。ところが、そのくせ他人から匿名で批判されるのは許せなかったやうで、例へば著作では『現代の批判』(『文藝批評』第三章、1841)に匿名を難じた文が見られます。 
 このことは最近、江口聡「キルケゴールのメディア批判と著作活動」といふ報告を讀んで、知りました。この人は論文として「キェルケゴールの大衆メディア批判」といふのも書いてゐて、掲載誌『新キェルケゴール研究』創刊號はウェブにてPDF形式で以て公開されてゐるのですが、肝腎の本體である紙の雜誌の方が見つかりません。國會圖書館でもNacsis Webcatで調べても、所藏してゐる圖書館が全く無いのです。「新」を冠さない舊『キェルケゴール研究』はちゃんと所藏されてゐるのに。キェルケゴール協會は二〇〇〇年五月に再發足したさうですが、さういふ事務の引繼ぎがまだうまくいってゐないのでせうか……何か事情を知ってゐたら教へて下さい。 
 それはさておき、匿名批評がお嫌ひといふことではショーペンハウアーも、『餘録と補遺(パレルガ・ウント・パラリポーメナ)』の「著述と文體について」(岩波文庫版『読書について』、邦譯全集14卷所收)で、匿名批評家たちを口を極めて罵ってゐます。原著一八五一年、キェルケゴールの『現代の批判』とほぼ同じ時代。いづれも當時のジャーナリズム、即ち新聞といふニュー・メディア、殊に、文藝欄(フィユトン feuilleton)の興隆といふ新しい事態への對應として語られてゐるのが興味あるところ。キェルケゴール曰く、「新聞(印刷物)がこの公衆(公共)といふ抽象物を作り出す」。 
 時代はもう少し後でせうが、カール・ビュッヒャー(邦語表記ビュヒァー多し)といふ經濟學者(?)も、新聞は無記名(匿名)で墮落した、すべて署名記事にせよ――とか何とか論じてゐたのを見た憶えがあります。
 この邊、十九世紀の讀書環境といふか、ドイツ新聞史と絡めた背景を知りたいのですが、日本語でいい本はありませんか。マックス・フォン・ベーン『ビーダーマイヤー時代 ドイツ十九世紀前半の文化と社会(飯塚信雄ほか譯、三修社・第二版2000)は、分厚い本文以上に譯者解説(高橋吉文氏の)が面白いといふスバラシイ本ですが、そこで言はれてゐる匿名批評性云々は本文だとあまり觸れられてゐず一八四八年革命の前は檢閲制度で匿名が禁じられてゐたとある程度でした。 

No.1086

スクリブリーラスの子孫たち
投稿者---prospero(管理者)(2004/04/25 19:50:07)


匿名性という問題、森さん自身のご論考でも日本のケースについて展開されているように、「公共性」や書き手の「主体性」(あるいは「非主体性」というべきでしょうか)をめぐって、面白い問題になりそうです。キェルケゴールについての江口聡氏の報告も、問題の所在の指摘としては刺激的ですね。『現代の批判』はハイデガーの『存在と時間』での「世間人」(das Man)の議論の先取りとも言えるものでしょうが、ハイデガーの場合でも、この種の公共性を「非本来的」と捉える論調が圧倒的に強く、匿名性を積極的に評価する余地はなさそうです。ヘーゲルなどにも、「匿名」とは限りませんが、ジャーナリズム批判がありますし、やはり「哲学」は、「修辞学的」公共性をとはどうも反りが合わないようですね。これはやはり、ソクラテスとゴルギアス以来の対立を引き摺っているというところでしょうか。

しかし、キェルケゴールの場合などは、本人の偽名・変名愛好癖と、くだんの匿名批判とのあいだにはどういう繋がり(あるいは緊張)があるのか、考えてみたいところです。江口氏への質疑応答でその件に触れられていないのは残念です。
キェルケゴールの場合は、責任を伴わない匿名批評に対する批判と同時に、いわば複数の主体を「成型」していくような偽名・変名のあり方を積極的に捉える姿勢とが同時に存在しているような気がします。

そういえば、イギリスの18世紀では、スウィフトなどが関わっていた「スクリブリーラス倶楽部」Scriblerus Clubなどというのがありましたっけ。これは複数のグループで一人の人名を使いまわしにして、創作をしようという試みだったようですね。のちのポオのFolio Clubの企画のように、一人で複数の名前を騙った連作を作るというのも、なかなか人を喰っていてよろしい。

ところで、ドイツの出版状況ですが、いま18世紀関係のものを少し漁ったら、グリミンガー編『ドイツ文学の社会史』(R. Grimminger, Hansers Sozialgeschichte der deutschen Literatur, Muenchen/Wien 1980)という論文集が出てきました。そのなかに、こんな一節があります。「18世紀ほど多くの作品が、匿名ないし偽名で公刊された時代はない。新聞の論評や、取り分け書評に関して、影の執筆者や匿名著者が誰であるのかを読み解くことが、一つの技法とさえみなされていた。18世紀においては、匿名で文章を書くということは、著者が<ディレッタント>ないし<アマチュア>とみなされることを望んでいるということの印となっていた」(S. 171)。具体的には、「メナンテス」を名乗ったクリスティアン・フノルド、タランダーを名乗ったアウグストゥス・ボーゼなどなどの例が指摘されていました。そこに参考文献として挙がっていたのが、ゼーン『仮面をかぶった文学 ―― 文学における偽名の考察』(G. Soehn, Literatur hinter Masken. Eine Btrachtung uber das Pseudonym in der Literatur, Berlin 1974)でした(日本語のものでなくてすみません)。これは知らない書物ですが、ちょっと面白そうですね。

キェルケゴール協会もどうなっているのでしょうね。不案内にして、現在の活動を知りませんが。

No.1088

我が名はレギオン
投稿者---森 洋介(2004/04/27 07:01:52)
http://y7.net/bookish


 なるほど、十八世紀にはむしろ匿名が當り前で別段問題視してなかったやうです。ジュラール・ジュネット『スイユ――テクストから書物へ』第二章「作者名」(水声社・2001.2)にも「古典主義時代の匿名の実践」の例が多々擧がってゐました。恐らくそれは貴族的サロンなど、「共同体の遊戯としての匿名批評」(「とくこさんとめいこさんの匿名対談」『図書新聞』一九九二年五月三十日・2103號)と評されるやうな、互ひに知った同士である狹い文壇の垣に支へられるものでせう。しかし出版の量的擴大によって、文藝共和國には本來縁無き筈の度し難き衆生も參入してくる。匿名は、既に名の有る者が假名を記すのと違ふ眞の無名氏どもの無名性を發揮し、質的にも變化してゆく。かくて十九世紀には、『現代の批判』に見る如き「匿名の問題化」が起こった――といふのが今の所の見取圖なのですが如何。 
 だとすれば同時に、敢へて匿名を驅使する戰略的匿名(といふより僞名か)もそこに現れてくるわけで、實際、カール・ミラー『分身の研究』といふ本によると匿名嗜好の普及はロマン主義時代からのことだとか(富士川義之『きまぐれな読書』みすず書房・2003.4、155頁、289頁)。自己顯示と自己隱蔽との二重身。 
 ミラーは英文學者、では佛文學だと? テオフィル・ゴーチエ『青春の囘想 ―ロマンチスムの歴史―』「八 ジェラール・ド・ネルヴァル」(渡邊一夫譯、〈冨山房百科文庫〉1977.4)が想起されます。曰く、「スタンダールのやうに、彼も樣々な匿名を使つて自分を隱すことを好んでゐた。彼は假面を見拔かれると、それをかなぐり棄てて、別な假面、別な覆面をしたものであつた」。名聲を博さんよりは無名のまま埋もれてあることを欲するとは「――變つた幸福感もあるものである!」云々。恰度このくだり、蓮實重彦『物語批判序説』が取り上げて、その「匿名的複数性」を、「作者の死」(バルト)の先驅けとして論じてゐました(中公文庫版、100頁〜)。 
 但しネルヴァルで修士論文を書いた人に以前教はった話では、「劇評・記事を新聞に投稿するときに、ネルヴァルは数々の筆名を用いる」が「ネルヴァルの名は彼にとっての本来的活動である文学活動にしか用いない」のだとか。すると我が關心は非本來的エクリチュールの方に、フィユトニスト達の複數的無名性の方に、向いてゐるわけです。『青春の囘想』譯者解説で、渡邊一夫が新約聖書から引いてゐます――「わが名はレギオン(=軍團・大集團)我ら多きが故なり」。文學者はレギオンに對立する反時代的少數者なり、と。が、むしろロマン主義者と雖もレギオンとして考察したがる傾きが私にはあります(ヴィリエ・ド・リラダンを眞底トリビュラ・ボノメと見做すこと!)。 
 なほゴーチエが先例に擧げたスタンダールの僞名癖に就ては、ヴァレリーやスタロバンスキーの論がある由。それらをもとに僞名論の擴張を圖ったものとして、西川長夫「偽名とロマネスク――スタンダールの変名趣味をめぐって(作田啓一・富永茂樹編『自尊と懐疑 文芸社会学をめざして』筑摩書房・1984.7)參照。日本語では、これ位しか知りません。 
 ミラーもスタロバンスキーも未邦譯ですが他にも、歐米では僞名論の蓄積があり、先の佛文科出身者はネルヴァル論を「ニコラ・アブラハム/マリア・トロックの精神分析における「クリプト」、「クリプトニミー」の概念に依拠して」書いたとのこと。この共著はジャック・デリダ序文、英譯もあります。で、その英譯者ニコラ・ランドがまた“Le cryptage et la vie des oeuvres”といふ本を出して、作家たちの僞名の徴候學を試みてゐるさうな。しかし日本語しか讀めない者には、鰻の匂ひだけ嗅がされるやうなものです。デリダ『名を救って/名を除いて』も未來社から刊行豫定だと言ひますし、この邊り、まとめて飜譯してくれる出版社でもあると面白くなりさうですが。
 しやうがないから日本語文獻を漁ってゐますが、近代日本での「匿名(批評)の問題化」はいつからか、雅號廢止論からペンネーム制への移行は如何になされたか、等々、署名論の前提となる知識からしてこれまで殆んど調べられてゐず、まづは一次資料の探索から始めねばなりません。渡邉正彦『近代文学の分身像』(〈角川選書〉1999.2)とか山下武『20世紀日本怪異文学誌 ドッペルゲンガー文学考』(有楽出版社・2003)とか分身論は色々あるのに、なんで誰もやらないんでせうかネ……。 


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No.1089

Re:我が名はレギオン
投稿者---花山薫(2004/05/01 23:21:27)


この呪文のような言葉の意味がよくわからないのですが、要するに「われは有象無象なり」といっているのでしょうか。さらに、無名の多数者であることはじつはノーボディであることにひとしい、と。

それはそれとして、ことさらそうと「見倣」すまでもなく、ヴィリエという人はやはりボノメ博士的な面をいっぱいもっていたのでしょうね。彼は日本ではずいぶんりっぱな文学者ということになっているようですが、ほんとうのところはボノメ博士のような、カリカチュアにされやすい人だったような気がします。

最近、ゴーチエの娘のユディットが書いた「ワーグナー訪問記」という本を読みましたが、そこにもヴィリエの奇行がいっぱい紹介されていておもしろかったです。とても爵位をもっている人とは思えないような道化ぶりで、まさにトリビュラ・ボノメ博士そのものですね。

ジュール・ルナールの「日記」に、マルセル・シュオッブが「僕は「トリビュラ・ボノメ」だけじゃなく、ヴィリエの書くものすべてが馬鹿げていると思う」といったのに対して、レオン・ドーデが「とんでもない、これは傑作中の傑作だよ」と弁護するくだりがあります。これはまあ極端な二人の意見ですが、私としてはどちらかといえばシュオッブの意見に賛成ですね。もっとも、馬鹿げているからつまらない、というのではなくて、それだからこそおもしろいという意味でですが。

どうも本来の話題とはずれたレスになってしまいましたが、ご容赦を。



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No.1092

レギオン/リラダン
投稿者---森 洋介(2004/05/03 21:16:16)
http://y7.net/bookish


 手持ちの文語譯『舊新約聖書 引照附(日本聖書協会・1974)で「わが名はレギオン」の出典であるマルコ傳福音書第五章を見ると、「羅馬の軍隊にて、六千人をレギオンといふ」と註がついてゐます。たぶん當時は當り前の普通名詞だったのでせうが、「わが名は聯隊」では固有名詞らしくないので敢へて譯さずにその儘「レギオン」としたのではないかと思ひます(詳しいことはこばさんが御專門では?)。これは惡靈憑きの話ですから、それが「我ら多きが故に」と名乘るといふことは、今日の「解離性同一性障害」、いはゆる多重人格だったのかもしれません。イエスはサイコ・セラピストでもあったといふ説は時々見かけますし。 

 ヴィリエ・ド・リラダンが「日本ではずいぶんりっぱな文学者ということになって」しまったのは、渡邊一夫もさることながら、齋藤磯雄の紹介の所爲だと思ひます。齋藤磯雄譯リラダン全集は名譯の譽れ高いわけですが、それもものによっては怪しい。といって私はフランス語は全然解しませんが、昔『リイルアダン短篇集』上下(岩波文庫・1952)の辰野隆門下の譯文と對照したら、どうも「二人山師」とか反語的な諧謔味のある作品では齋藤譯の方が分が惡いやうでした。きっと齋藤磯雄はまじめな人なので、笑ひも嘲罵か冷笑に走りすぎ、どちらともつかないアイロニーの妙味を解さなかったのではありますまいか。 

 伊藤敬といふ人が言ふには「さる高名な文学者は、リラダンのことを「漢文のようなフランス語を書く人」と評したが、じつは、これは斎藤磯雄氏の訳文からの印象にすぎず、原文は意外とやさしいフランス語なのである」とか。また「リラダンの「二人の占師」「栄光製造機」「ヴィルジニーとポール」といった系列の作品を山本夏彦ふうの文体で新たに訳してみた」いとも述べてゐました(伊藤敬「覚書から」『幻想文学 22』1988.4)。なるほど、山本夏彦はレオポール・ショヴォ『年を歴た鰐の話』(櫻井書店・1941)の譯者でしたっけ。




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No.1096

学風と翻訳
投稿者---prospero(管理者)(2004/05/05 21:43:20)


花山さんと森さんの「リラダン」に触発されて、いま>『リイルアダン短篇集』を引っ張り出してきました。しかしなぜか「二人山師」の入っていた(はずの)下巻が見つからない(そろそろ部屋のエントロピー増大が、整理の限界に近づいているのかもしれません)。辰野門下というのは、具体的には鈴木信太郎や伊吹武彦・渡辺一夫ですね。やはりここには、学風の違いというのも大きく効いているのではないでしょうか。彼らは文学を「道楽」としてやっていた最後の世代のような気がします。もちろん「道楽」だからこそ入れ揚げて、「学問」が逆立ちしても望めないような雰囲気を醸し出したりもするのでしょう。その点、花山さんの「馬鹿げているから面白い」という感覚とも通じるところがあるのかもしれませんね。

花山さんの触れられた「ワーグナー訪問記」というものを、私は知りません。よろしければ、データをお教え願えますか。さらにできたら、その面白いエピソードのなかから、とっておきのものなども含めて。

翻訳によって印象が違うということでは、私はオスカー・ワイルドに強くそれを感じた覚えがあります。日本語だと、あの畳み込むような形容詞が、絢爛豪華な漢語を用いて訳される傾向がありますが、原文は思ったよりもシンプルです。『サロメ』などは、翻訳ということもあって、英語としてはさらに簡単です。

それに対して、ゲーテなどは逆に、翻訳がなぜあれほど滑らかな日本語になるのかと感心したものです。大山定一訳のリルケなどもそんな面があります。ただし、リルケの場合がはたして、その読みやすさがリルケ理解にとって逆効果になる場合も考慮しないといけないのでしょうけど。

脱線に輪をかけてしまいました。元の話題が何だったのか、すっかり忘れてしまうところでした。そうそう、「匿名」の問題でした。これについてはまた改めて。


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No.1117

無名になりたい望
投稿者---森 洋介(2004/06/12 07:33:52)
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 書棚から『同時代』48「特集*齋藤磯雄 追懐」(黒の会・1987.2)が出てきました。所載の岡部正孝「深刻亭磯雄のパリ滯在の思ひ出」が可笑しかったので、引用します。齋藤磯雄は「深刻亭」と渾名されたさうな。文中「セイバン」とは佐藤正彰のこと。 
 「深刻亭」はボードレールの墓の前でも、リラダンの墓の前でも、意を決して、目をつぶり、沈思默考、數分間じつと立ちつくす。マラルメの家の前では、「あゝステファーヌ・マラルメ」と叫んで、溜息をつき、マラルメの詩を唸り出した。仝行のわれわれが吹き出しても、彼は何を笑はれたか氣がつかない。彼の隨筆「ピモダン舘」には、彼がリラダンの墓前で花を捧げるポーズをとつて、オペラ歌手の木内清治に撮らせた寫眞が出てゐる。セイバンさんはこれを見て笑つた。「深刻亭、やつてるな!」
 
 ついでに『リイルアダン短篇集』上下も出てきました。「二人山師」(伊吹武彦譯)はやはり傑作です。
 作中、原稿持ち込みの青年に應待する某紙主幹のセリフより。
「なに《無名の男》だと?――どうせ大法螺吹きが拜顏の榮を賜はらうと思ひあがつてのことだらう。今日では猫も杓子もみんな有名だ、はやりッ兒だ。」
「文學的才能がないといはれるのか。若いのに思ひ上がつた人だね、君は。」 
「どうも君、こんなことをいう〔ママ〕のは何だが、これは才能だらけだよ! 稿料は一行三文、――それも君が無名だからです。一週間たつたらロハになる、二週間たつたら、變名でも使はない限り、君の方からお金を頂戴しよう。」 
「地道な文學者が今日採用すべきモットーは、平凡なれ! ただこれ一つです。吾輩はこのモットーを選んだればこそ有名となつたのです。」……等々。 
 この短篇がロマン主義的な天才信仰を顛倒させたところから發想されてゐるのは見やすいことです。しかし、ただひっくり返して通念の逆を言はせてゐると取るだけでは解釋しきれない、二重三重に反轉したアイロニーが籠められてゐると讀めるところが面白味だと思ひます。「このような、真面目で辛辣な悪ふざけ」(ユイスマンス『さかしま』)
 たぶん齋藤磯雄のやうな藝術至上主義者だと、これを、ジャーナリズムや民主主義に支配されたブルジョワ社會の凡庸さへのフローベール式批判と重ねて讀解しがちでせう。しかし標題の「二人」とは、編輯者だけでなく文學青年をも含めてゐるはずです。その青年は、最後に「私を《天才》呼ばはりしようとなさいました!」と本氣で怒り、捨て臺詞を殘して歸ってゆくのでした。
 私としては、この一篇から、先にネルヴァルの例で觸れたやうな、誰でもない無名のノーバディであることへの願望を酌み取りたい。恐らくその志向は、種村季弘氏が楜澤厚生『「無人」(ウーティス)の誕生』(影書房・1989)を引きながら江戸川亂歩の隱れ蓑願望を論じたやうに(「江戸川乱歩、あるいは無人文学」『綺想図書館 種村季弘のネオ・ラビリントス8』河出書房新社・1999)、しばしば活字嗜好と結びつくものであり、それと同樣にして「二人山師」がジャーナリズム論へとつながってゐるわけでせう。


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No.1126

偽名の感性
投稿者---prospero(管理者)(2004/06/27 15:22:33)


匿名に関して、その名も「七篠五平」(=「名無しの権平」!)氏の「『未來のイヴ』を讀む」は、筆名自体が内容をトレースしている面白いものでした。引用されている石川淳その他の闊達な語り手たちを思わせるその書き振り自体が実に読ませます。リラダンという「知る人ぞ知る」「知られざる作家」の「名前」をめぐる議論から、観念小説としての『未来のイヴ』へ向かうその展開もきわめて刺激的です。

「匿名」の問題と「観念の擬人化」を繋ぐ感性について、少々思うところを。匿名ないし筆名というのは、実のところ、それ自体がある種の観念の具現化を願う感性の現われではないのかということを、ふと考えます。筆名とは、それ自体が架空の人格であり、いったんそれを創作した以上、その名を騙ってものを書こうとするなら、その現実の作者が、筆名の人格によって支配されるということがあるわけです。ヘーゲル的な主人と奴隷ではありませんが、そこにはまさに筆名と現実の作者とが入り組んだ事態が形成されるようです。

早い話、この掲示板でprosperoとして語ろうとする場合でさえ、できる限り現実の世界が流入しないように、あるいはその流入の仕方にある種のバイアスをかけるように心がけるようなことがあります。架空の人物であるからこそ、そこには盛り込みたい観念だけを盛り込んで、人物を造形することができるわけです。ささやかな例ではありますが、ここでもやはりある種の観念の束をprosperoという名の下に寓意化しようという感覚が働いているのかもしれません。

匿名には、韜晦の意味合いがある一方で、ことによるとそれとはかなり方向の違った、観念の具体性への意欲が働く場合があるのではないでしょうか。

と、七篠氏の文章を読んでそんなことを考えていた矢先に、もうひとつの「擬人論の復活」の書き込みがあったので、少々驚いたような次第です。



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No.1128

假面の告白
投稿者---森 洋介(2004/07/02 19:57:05)
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 prosperoさんは最初から「複数の主体を「成型」していくような偽名・変名のあり方」(No.1086)の方に關心がおありのやうですね。“prospero”といふ名も亦そのやうに造られた主體の一つである、と。以前も「「prospero氏の生活と意見」という見立てであって」(No.1071)とおっしゃってゐましたが、それと同じ構へで「prosperoとして語ろうとする場合でさえ、できる限り現実の世界が流入しないように」心がけてゐるものとお見受けします。すなはち伊藤整の小説論によれば、「逃亡奴隸」として規定された日本の文學者に對比して「假面紳士」とよばれる、西欧的な類型に該當しませう(伊藤整も「生活と意見」式の小説やエッセイを書いたのでした)。 
 また「その現実の作者が、筆名の人格によって支配されるということがある」とおっしゃるのは、その假面が肉付きの面となるわけで、平野謙の分類に謂ふ「破滅型」の私小説作家に見られるやうな危機でもあります。これは林達夫の語る、反語家の危險に通じます。「反語家は時とするとヂキル博士とハイド氏のやうなものである。彼の仮面が第二の性質となり、それがあまりに「彼の役割の皮膚」に穿入しすぎて、その第一と第二の性質の間を往復してゐるうちに、どつちがよりほんものであるかがわからなくなつてしまふ」(「反語的精神」)。……「演技」の失敗、「素顏」の喪失。 
 このやうな假面による現實世界の遮斷は、その裏に確保される素顏のためのものでせう。謂はば假面は不在證明(アリバイ)です。假面紳士でありたいと望むのは、匿名状態への志向に通じるが、匿名性を手段として固有の自己を護ることでもある。しかしここで惟ふに、逆に、固有名を手段として匿名性を目指すこともできるのではありませんか。 
 「こんど単なる匿名評論ではなく、「猿取哲」なる新しい人間を創造して、陰からこれを人形のようにあやつる、というよりも、自分がこれになりきることだというふうに考えた。」――これは、大宅壯一「無思想人宣言」の一節です。「そのうちに、「猿取哲」は大宅壮一だということが世間に知れてしまった。かわって大宅壮一が再登場することになった。」……しかし「戦後の私は、大宅壮一ではなくて「猿取哲」でありたい、あらねばならぬと、意識的に努力しているのである」。とすれば、その理想的な状態においては、大宅壯一の署名はあっても、そこには大宅某といふ個人は最早ゐなくなって匿名性のうちに溶解してゐるはずです。 
 ところで匿名願望と云っても、フーコーがしばしば語ったやうに既に有名になった人が匿名性への願望を述べるなら恰好もつきますが、敢へて匿名を使用するまでもなく無名である凡庸人には、名を匿すための僞名を必ずしも要しません。「「匿名」は本人が選ぶものだが、「無名」は他人や世間の評価がもとになっている。」「選択的「匿名」より非選択的「無名」の方を、私は評価したいのだ。」(五月「現代思想の最前線 箸休め」。知られてゐない實名(無名の實名)は、使っても匿名と變りないわけです。それを變に匿すと、時に自意識過剩な氣負ひになりかねない。むしろ積極的に實名を假面(匿名)とすること、そしてそれによって、假面の裡に想定されるやうな私的生活や眞の自我などは蒸發せしめ撥無せしめること、固有名から固有性を剥奪すること、主體の完全な不在證明……。そんな匿名論を、ボンヤリ夢想してゐます。 


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No.1168
学者の実力
投稿者---prospero(管理者)(2004/09/14 23:53:01)


近頃、鷲田小彌太『学者の値打ち』(ちくま新書)などという「印刷物」が出たので、ついつい覗いてしまいました。まあ、結局のところ、学者は書いたものが勝負で、大学という制度も学者の質の保証にはならないというごく当たり前のところに落ち着いているようで、特に驚くようなことはありません。「インヴィジブル・カレッジ」という章で、在野の著者などにも触れられているのですが、何ですか、全体に感覚が古くて、もともとが古臭い私でさえ辟易してしまいます。Invisible Collegeということでは、今なら当然、インターネットの可能性なども考えていいはずなのに、それもまったく言及なし。書評に関して、丸山真男・山口昌男・谷沢栄一の仕事が触れられているのですが、例えば、松岡正剛氏の「千夜千冊」のような試みを、著者は果たしてご存じなのかしらん。「紙」の業績でなければ認めないとはっきり言ってくれれば、それはそれで肩を持ちたい気にもなるでしょうが。いずれにしても、何を批判し、何を擁護し、何を押し進めたいのか、まるでわかりません。まあ、著者自身も本気で書いていないのでしょうから(まさかね)、むきになることもないのですけど。

しかし、学者は書いたものが勝負という点では、最近は大学が教員の業績表などをネット上で公開するようになって、部外者でもその気になるとかなり事情がわかるようになってきました。例えば、30年大学に席を置く定年まぎわの「教授」が、その30年のあいだに論文発表が20本に満たないなどという極端なケースも発見できます。しかもそのすべてが学内の紀要だったりする(そのつもりで探せば、その記録はもっと更新しそうですが)。尤も、『文学部唯野教授』以来、こんなことも世間的には周知のことでしょうが。

ネット上のサイトというのは、(公式HPは別として)肩書きも地位も関係なく、その内容だけが評価対象になるという点では、ある意味で、最も厳しい評価が可能なものかもしれませんね。出版物のように、売れる売れないというファクターとも無縁ですし。


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発言に関する情報 題名 投稿番号 投稿者名 投稿日時
<子記事>Re:学者の実力1219森 洋介2005/05/25 00:54:47


No.1219
Re:学者の実力
投稿者---森 洋介(2005/05/25 00:54:47)
http://y7.net/bookish


 ご無沙汰してをります。フーコー讀書會でコメントすべきことがありますが、間を空けてしまひましたし、まづは古い文から返信をつけてみます。 

>例えば、30年大学に席を置く定年まぎわの「教授」が、その30年のあいだに論文発表が20本に満たないなどという極端なケースも発見できます。

 無論、怠け者の教授連が多いといふ事實は否定できません。けれども一方で、人文學といふものは年ごとの業績評價では量れない面もあります。最近(になって)、中務哲郎『饗宴のはじまり 西洋古典の世界から』(岩波書店・2003)を手に取りました。そのあとがきで、莊子を引きながら、長いスパンで少しづつ學識を積み重ねる分野ではアメリカ流の業績査定は馴染まないことを述べてをり、いま手元になく引用できませんが、中々いい言葉がありました。これが怠け者の言ひ譯に採られやすいことは百も承知で、しかし、一理あると肯かされます。惟ふに、人文學者は長生きも實力のうち、といふところがありませんか。年月を經て生き殘った者だけがやうやく「堂に升り室に入る」ことができるのです。これは年功序列の老害とは別のことで、です。まあ初出から三十年も經ってから論文を本に收めて纏める例など珍しくもなく、理科系の日進月歩に比して餘りに遲々たる歩みには時々業を煮やしてネヂを卷いてやりたくなるにもせよ。
 とはいへ學問は何も大學のみに宿るものに非ず、大學を離れてアマチュアとして執筆するならば、三十年に二本であれ二十本であれ、責められる謂れは無いわけです。「職業としての學問」に留まるのか、職業以上としての學問なのか、といふことになりますか。いや、さう單純でもありませんか。 

 ついでに。 
 「蒐書記」拜見、パオロ・ロッシ『哲学者と機械』に就て「念のため発注してみたら」と書いてをられるのは、版元の学術書房がまだ存在し、在庫が殘ってゐるといふことなのでせうか。いままで古書店では數年前に一度見たきり、その時買ひ控へて以來遂にお目にかかりませんので、在庫があるなら諦めて定價購入すべきなのかもしれないと思ひまして。 
 それから、「リンク集」のページ下部、「研究サイト」の「ヴォルテール協会」以下がちょんぎれて見られなくなってゐます。また「ブルーメンベルク著作目録」も、表紙からのリンクだと、擴張子“.html”を落してゐるために、Not Foundで行き着けません。 
 


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No.1220
Re:学者の実力
投稿者---こば(2005/05/25 14:20:13)


私もご無沙汰しております。

>森さん

>一方で、人文學といふものは年ごとの業績評價では量れない面もあります。

確かに仰る通り「人文学というもの」は業績評価では量れない面がありましょう。例えば、私の師匠などは「法学部の教授は一日で900ページの英文を読んだと威張っていたが、プラトンのギリシャ語は1ページが2500年かけて読まれてきたのだ」と言っていました。人文学は読むにも書くにも熟成が必要なのは確かです。

ただ、外部から見た学者の評価という点はどうでしょう。森さん自身も仰るとおり、じっくり時間をかけてよい仕事をしてきた学者と、30年間ひたすら怠けてきた学者とは、外から見て区別が難しいと思います。

思うに、人文学にとってのよい仕事の基準と大学にとってのよい学者の基準は別にあります。前者の基準において、「大学」や「業績」の升に収めきれない、時間に拘束されない、長い目で見た「よい仕事」と見なされるものを残した学者でも、後者の基準において駄目だと評価されることもあり得ます。森さんが「人文学者は長生きも実力の内」と言うとき、その実力とは「人文学」者としての実力であって、人文「学者」としての実力ではないと考えます。大事なのは、後者の基準でダメだと見なされた仕事の中から、前者の意味での「よい仕事」を発掘できる視野の広さを持つことではないでしょうか。

>プロスペロウさん
リンク集キリスト教・中世関係で上から数えて1・3・6・9・10がリンク切れです。




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No.1221
駄作の量産
投稿者---prosper(管理者)(2005/05/26 19:10:19)


森さん、こばさん、お久しぶりです。

フーコー読書会も再開したいと思いながら、状況がもう一息というところなので、いましばらく。尤も、何かを言っていただくことで、弾みがつくということもあるかもしれません。

さて、人文学関係の「業績評価」という点ですが、理工系や社会学系のものと違って、人文系の学問は、かならずしも量で評価できるものではないというのは、まことに仰る通りで、私も全面的に賛成するところです。「三十年に二本であれ二十本であれ」関係はないというのも同感です。それが良いものであるならば。―― そう、この最後の条件が一番重要なことなのです。十年・二十年とかけて自分の学問を寡黙に積み上げていくというのは、人文学の一つのあり方だと思いますが、それが地道な積み上げであるなら、その重みはおのずとどこかに現れるはず。三〇年かけて二〇本程度、しかもそのすべてが駄作とあっては、およそ立つ瀬がないわけです。たとえば、林達夫にしても仕事の量からしたらきわめて寡作だと言えますが、その「精神史」の註の一つでも見れば、その背景に蓄積された知識とセンスとがわかるはずで、数が少ないだけで「怠けている」と断じることはできないはず。

最初の書き込みで言いたかったことは、数が少ない上に、内容的にもあまりに情けないものばかりが横行していませんか、ということでした。かならずしも量産の薦めを説こうとしたものではありません。しかし、これ以上を語ろうとすると、では具体例をということになるので、いささか憚られます。ただこれはプライバシーや名誉が云々ということではなく、取りあげるにも値しないほどくだらないものが多いという理由によります。具体的には、世の「紀要」なるものをご覧くださいとでも言っておきましょうか。

こばさんの仰る複数の基準というのも賛成です。しかし、「じっくり時間をかけてよい仕事をしてきた学者と、30年間ひたすら怠けてきた学者とは、外から見て区別が難しい」ということはないと思います。それこそ、その違いは悲惨なほどに歴然たるものがあるのではないでしょうか。もちろん、いわゆる制度的な業績ということだけではなく、評価というものはさまざまな面から可能であるという前提に立ってのことですが。しかも今の場合、なんの公表の手段ももたない市井の人が問題になっているわけではなく、業績の公開が「仕事」になっている大学人の話なのですから、その人のもっている能力は(無能力も含めて)、残酷なまでに表に現れると思いますよ。その表に出たものが優れたものであるなら、たとえその数が少なくても、それを十分に尊重すべきだというのは、人文学の本筋は違いないでしょう。

しかし、現況を見ると、ますます実学化が進む大学では、こうしたごく健全な常識すら通用しなくなる恐れがあります。くだらないものを少数だけ公表しているのはまだ罪が少ない方であって、これからはくだらないものがひたすら量産されるという恐ろしい時代になるかもしれません。「プラトンのギリシャ語は1ページが2500年かけて読まれてきた」とは至言ですね。

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それから、現実的なお返事を。私もまず古書店で探してから、やむを得ない場合に新刊でという発想は同じです。ロッシ『哲学者と機械』ですが、さんざん古書で探しながらも出会えないので、あきらめて紀伊国屋書店のオンラインで注文しました。版元に直接にではありません。かなり汚れていたので、紀伊国屋に在庫として残っていたのではないかと思います。同じシリーズのカッシーラーも同時に注文したのですが、これは入手不能という返事が返ってきました。試しに発注されてみてはいかがでしょうか。

リンク切れのご指摘もありがとうございます。部分的に修正しましたが、これから折にふれて手を入れたいと思います。


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