蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ

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薗田宗人『ニーチェと言語 ―― 詩と思索のあいだ』(創文社 1997年)
 副題にあるように、ニーチェの思考とその表現としての詩的言語のありようを、一方をどちらかに還元してしまうのではなく、あくまで「あいだ」に徹して論じようとする試み。ニーチェをいたずらに文学化したり、一方的に形而上学的に読むのではなく、思考と表現のあいだの往還に取り組もうとしている点で共感がもてる。そのような読解の姿勢が幸いして、本書の第二部では、『ツァラトゥストラ』第三部の終結部での「声なき声」(沈黙)をめぐる解釈がとりわけ優れたものになっている。ただ、全体的に哲学的な「思索」の部分にもう少し踏み込んでもらいたいという印象は残る。

酒井健『絵画と現代思想』(新書館 2003年)
 バタイユ研究者の著者が、絵画作品と現代哲学との接点に関して書いたエセーをまとめた。主題としてはなかなか魅力的だし、カンディンスキーとその甥のコジェーヴとのやり取りなどはなかなか面白いのだが、全体的には、一つ一つの主題の掘り下げ方が足りずに不満が残る。

ヴァインリヒ『<忘却>の文学史』(白水社 1999)
 「歴史上存在しなかっただけでなく、理論的にもありえない学問分野」という「お題」の下に、かのエーコが「忘却術」(ars oblivionalis)という答えを出したそうだが、本書はその遊びを受けて書かれたものだそうだ。文学・思想の領域で「忘却」に関する言及を集めた、いわば「<忘却>の<忘備録>」
(帯のコピーに使えそう)。諍いを起こして閑を出した従僕ランペのことを忘れるために、「ランペのことは忘れよう」と「忘備録」に書きとめるカントなど、逸話も満載。ヴォルテールに忘却と記憶をめぐる寓意小説『メモリア夫人の冒険』なるものがあることを知る。これはちょっと探してみたい。

M. Sommer, Identitat im Ubergang: Kant, Suhrkamp 1988.
(ゾンマー『過程における自己同一性)
 自己同一性を実体の同一性としてではなく、プロセスとして捉えるという理解は、現代において定着した流れになってきた。第二章は、「理性的原理としての自己保存」として「弁証論」を扱い、第三章では、「成年」(Mundigkeit) ―― 『啓蒙とは何か』のキーワード ―― をめぐるメタファー論になっており、なかなかセンスがよさそう。


田中隆尚『呉茂一先生』(小沢書店 1993年)
 
『イーリアス』、『オデュッセイア』などの翻訳で知られる呉茂一氏と交流のあった著者による回想。ただし、その種の翻訳がすでに終わってからの付き合いということになるので、期待していた翻訳そのものの内情についての記述はない。しかし、古典古代の詩には晩年まで関わっていたので、『花冠』や、私家版『エジプト詩集』の成立事情についてはいろいろと書かれている。とりわけ『エジプト詩集』については、著者が献本した知人のリストまで載っており、付き合いの幅が分かって面白い。西脇順三郎、矢代幸雄、鈴木信太郎から、今道友信、金子武蔵などなど、錚々たる名前が並ぶ。専門分化というのは人間関係にも響いていて、現代ではこれだけ多様な分野の人々と付き合いのある学者・文学者も少ないのではないだろうか。
 それにしても、この書物の版元はすでになき小沢書店だが、本書も実に瀟洒で良い造り。

ボルツ『世界コミュニケーション』村上淳一訳(東京大学出版会 2002)
 インターネットによる「グーテンベルク銀河系の終焉」を語っていた著者が21世紀の最初に出した著作。あいかわらず底抜けに呑気で、とにかく現代のハイパーメディアの世界の礼讃に終始する。ルーマン、ハーバーマス、ギデンズといった現代社会学から、ベンヤミン、ハイデガー、ニーチェなどなど、息つく暇もないほどに、「ブランド」としての固有名詞が並ぶ。確かに才気煥発で面白いし、気の効いた言い回しに富んではいる。しかしあれこれと理論武装をして現状を肯定していく議論というのはかなり虚しいものがある。思想家が理論武装を重ねたうえでどれほど愚かになれるかという実験を、わざわざ買って出てくれているかのよう。何よりも問題なのが、現代の「世界コミュニケーション」が所与の動かしがたい事実のように扱われている点。つまり、時代が目の前で作られているのを、ただただ傍観して拍手しているかのようなのだ。「哲学者は現実に教えを垂れるのではなく、現実から学ぶ必要がある」というのはその通りだだろう。しかし「現実から学ぶ」ということは、「現実に阿る」こととは違うはずなのだが。
 そうした論旨はともかく、本書の特徴は翻訳の方針にある。比較的前提が多く、一般読者には意外と読みにくい本文を補うために、随所に〔  〕による訳者の補足がなされている(訳注の域を越えて、本文の解釈やパラフレーズまでしてある)。まるで教師が脇にいて、一つ一つの文章に註解をつけてくれているよう。全面的に賛成ではないが、本書の場合、この処置がかなり成功しているように思える。

W. S. Howell, Logic and Rhetoric in England, 1500-1700, Russel & Russel. Inc. 1956.
(ハウウェル『英国における論理学と修辞学 1500-1700』)
 16・17世紀におけるイギリスの修辞学の展開。具体的にはイギリスでのラムスの影響史。従来の修辞学、ないし伝統的な三学を論理学的に一本化するのがラムスの「一なる方法」であったが、その経緯をイギリスを中心に追った研究書。いささか古いものだが、その分野では古典的な著作。

Th. Leinkauf (Hg.), Dilthey und Cassirer. Die Deutung der Neuzeit als Muster von Geistes- und Kulturgeschichte, Cassirer-Forschungen Bd. 10 (Meiner 2003).
(『ディルタイとカッシーラー ―― 精神史・文化史のサンプルとしての近代解釈』)
 雑誌「カッシーラー研究」の2003年度号。主題が主題だけに、書き手は解釈学関係の比較的著名な人々。ステファン・オットーや、ディルタイ研究者マックリーリ、ホルツァイなどなど。

田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢 ―― 『方法序説』を読む(岩波書店 1989年)
 デカルトを「近代哲学の創始者」とみなす一面的な理解から解き放ち、同時代の中に置き入れて読み直そうというなかなか大胆な試み。薔薇十字との関係や、アンドレアエの『化学の結婚』などの錬金術的知との関係が強調されて、イエィツ『薔薇十字の覚醒』
(工作舎 1986年)の線に沿う魅力的な議論になっている。(この点では、後の谷川多佳子『デカルト研究』〔岩波書店 1995年〕も同様)。中心となるのは、有名な「夢」(1619.11.10の夢)の解釈である。バイエやライプニッツによって伝えられ、デカルトにとってきわめて大きな意味をもつものとされるこの「夢」は、従来ジルソンなどによって、デカルトが「幾何学的方法」を確信をもって受け容れるようになったことの暗示とされているが、著者はこうした「合理的」解釈に真っ向から反対し、ここでデカルトが強調しているのは、夢の中で夢を改釈するという「アレゴリーの方法」だと主張する。こうした主張もきわめて魅力的であって、こちらとしても肩を持ちたい気は十分にあるのだが、やはり全体としていささか説得力を欠いているように思える。仮に著者の言うように、ここで「アレゴリー的解釈」が重要なのだとしても、それによってこの「夢」の解釈にとってどれほど明確な利点があるのかが今一つはっきりしないからである。デューラーの『メレンコリア I』などが引き合いに出されているが、どれも状況証拠にとどまっている。デカルトの「夢」に対して、目の覚めるような解釈が提示されれば、この「アレゴリー的解釈」というのも俄かに重要性を増すことだろうが、どうやらそこにまでは至っていないようだ。

R.P. ハリスン『森の記憶 ―― ヨーロッパ文明史の影金利光訳(工作舎 1996年)
 才気溢れる著者の書きぶりに圧倒される。ヴィーコの『新しい学』で提起された、文明の循環理論(「始めに森、次に小屋、そして村、さらに都市を経て、最後にアカデミー」)を出発点として、「森」というキーワードでヨーロッパの思想史を読み解いていく。「環境問題」に関する凡百の著作がたばになっても敵わないような力量をもっている。「森」に象徴される「環境」とはまさしく人間にとっての文明の一部分であり、「環境問題」というものも、「自然」の保護などという単純な話ではなく、人類が文明を築き上げる過程で影のように寄り添いながら、けっして離れることがない文明の要素であるというところから考えられなければならない。そうしたごく当たり前のことを、鮮やかな手並みで見せつけてくれる。扱われている著者や著作はほぼ古典的なものばかりなのだが、その解釈が実に斬新で目を見開かされる思いを幾度も味わう。とりわけニーチェ、ダンテ、アリオスト辺りの記述が良い。さすがに中盤のワーズワース、ソーロー『ウォールデン』を扱った部分は、主題からしても目新しくなりようがないので、中だるみの感があるが、最後のフランク・ロイド・ライト辺りでまた盛り返してくる。フランク・ロイド・ライトの「落水荘」についての記述は、ハイデガーの『芸術作品の根源』の現代版のよう。全体として、「ヴィーコ」という装置を、「ハイデガー」という強力なエンジンで回しているかのような趣がある。文章が実に良いし、それを実感させる翻訳がまた素晴らしい。巻末のエッセー風文献表も楽しめるし、ほぼ申し分のない仕上がりになっている。このハリスンは『ベアトリーチェの身体』(法政大学出版局)の著者で、以前こちらも読んだが、そのときには、ここまでの力量の書き手とは思わなかった。改めて読みなおしてみたくなる。

H. Blumenberg, Ein mögliches Selbstverständnis, Reclam 1997.
(ブルーメンベルク『自己理解の可能性』)
 ブルーメンベルクの遺稿論文集(相変わらず標題の翻訳一つで躓いてしまう)。なかで真っ先に興味を引かれたのが、Affinitäten und Dominanzen(類似と優劣)と題された、ダヴォスでのハイデガーvsカッシーラーの論争に関する文章。面白いのは、「基礎的存在論」と新カント学派的「認識論」との対立を、実在と形式、実体と機能(関数)の対立と捉えて、それをルターvsツヴィングリの論争と比較しているくだり。こういう突拍子のなさと歴史的スパンの長い連想がブルーメンベルクの醍醐味でもある(同時に、あまりに大袈裟に見える点でもあるのだけれども)。

D. Kaegi/E. Rudolph (Hg.), Cassirer - Heidegger. 70 Jahre Davoser Disputation, Cassirer-Forschung Bd. 9, Felix Meiner Verlag 2002.
(カッシーラーとハイデガー ―― ダヴォス討論七〇年』)
 
カッシーラー研究という雑誌がすでに9巻も出ているのを発見して、最新刊を手に入れたら、まさにダヴォス討論の特集だった。序文では上記のブルーメンベルクの文章にも触れられている。この論文集に収められたSchwemmerの論文、Ereignis und Form(生起と形式)というのも、ブルーメンベルクに似たような論旨のようだ。もうひとつ、最近クリヴァンスキーの回想録が出て、これにもダヴォス討論のことが書かれているというふうにもあった
(Klibansky, Erinnerung an ein Jahrhundert, Frankfurt a. M. 2002)ので、これは手に入れたい。

『世界大思想全集 哲学・文芸思想編21』(河出書房新社 1960年)
 かなり以前のものだが、内容は「アリストテレス『詩学』、ホラチウス『詩人の心得』、ボワロー『詩法』、ポウプ『批評論』、ディドロ『美学論文集』」。とりわけポープ『批評論』が珍しいので入手。下手な詩作よりも下手な批評のほうが始末が悪いというのがその主旨。「愚者は時として自分だけの正体をさらけだすこともあろうが、詩作において一人の愚者が出るのに対して、散文の批評においてははるかに多くが出るのである」。

A. v. Bormann (Hg.), Vom Laienurteil zum Kunstgefühl. Texte zur deutschen Geschmacksdebatte im 18. Jahrhundert, M. Niemeyer Verlag 1974.
(『一般人の判断から芸術感情へ ―― 十八世紀ドイツの趣味論をめぐる文献』)
 
十八世紀の美学は、「趣味」(taste; Geschmack)を中心に展開されるが、カントに至るまでのその文脈を押さえるためのアンソロジー。イギリス美学とは違って、ドイツ美学はカント以前が軽視されて紹介もまばらな状況にあるので、その辺りを補うには便利な資料。ゴットシェットから、スイス派のボードマー、ブライティンガー、ゲオルク・マイヤー、クリスティアン・ガーヴェと、入手しずらいテクストが抜粋されている。

H. Eto, Philologie vs. Sprachvissenschaft. Historiographie einer Begriffsbestimmung im Rahmen der Wissenschaftsgeschichte des 19. Jahrhundert, Nodus Publikationen 2003.
(江藤裕之『<文献学>対<言語学> ―― 十九世紀学問史における概念形成の歴史的叙述』)
 
古代の文献学(アレクサンドレイア学派やストア学派)からの伝統を概観しながら、十九世紀のベックやヴォルフの文献学を考察した論考。このような主題を扱ったものとして、日本語で読めるまとまったものは、中島文雄『英語学とは何か』
(講談社学術文庫)といったものがあったが、日本人がドイツ語でこのような研究書をドイツの出版社から出すというのは頼もしい。しかもこのNodus Publikationenという出版社は、言語思想の研究の泰斗Helmut Gipperなどが自分の著作集を出しているようなところなのだから、ますます悦ばしい。

R. Grimminger, Die Ordnung, das Chaos und die Kunst. Für eine neue Dialektik der Aufklärung. Mit einer Einleitung zur Taschenbuchausgabe, Suhrkamp 1990.
(グリミンガー『秩序・混沌・芸術 ―― 啓蒙の新たな弁証法のために』)
 啓蒙主義からロマン主義に対する思想史的考察を通して、「近代」の多様性を探ろうとしたもの。一つの原理の下に一切合財を包括しようとする強い意味での「近代的」思考に対して、多様性を多様性のままに認めようとする方向性が、同じく近代思想の中に求められる。「小説」といった近代的装置も、実は雑多な多様性をそのままに承認し、自由に展開させる一つの方途だとみなされる。とりわけ十八世紀的な解釈学の内に、そうした多様化の理解の原型が見出される。トマジウスなどに代表される「失われた」解釈学である。緩やかな統一性の下で多様性を許容していくトマジウス的な十八世紀解釈学と対比するなら、二〇世紀のガダマーの哲学的解釈学は、やはり変種のヘーゲル思想であって、「地平融合」という弁証法的な統一性を強く志向するものだということは明らかだろう。

『中世思想研究』第45号(2003年)
 中世哲学会の学会誌。今回はシンポジウム「古代末期からカロリング・ルネサンス ―― 知の断絶か連続か」の記録が載っており、ボエティウスの写本の伝承史などが扱われていて興味深い。雑誌ということでは、同じく本日落掌した10月号の『思想』
(岩波書店)は、「物語り論の拡張に向けて」と「フレーゲ ―― 現代哲学の起源」という、特集の二本立てになっていて少々珍しい。

村上淳一『仮想の近代 ―― 西洋的理性とポストモダン(東京大学出版会 1992年)
 上記のグリミンガーの著作なども用いながら、モダン・ポストモダン論争に一定の見通しを与えようとしたもの。ここでも、近代の中に潜んでいる別の可能性が探求されている。キーワードを挙げるとすると「偶然」といったところだろうか。法則性の下での均一化が図られる近代に対抗して、むしろ「偶然」や「多様性」を承認するポストモダン的な思考が描き出される。トゥールミンやマルクヴァルドの著作、そしてとりわけボーラーのロマン主義論を使って、おおむねその紹介(ないし要約)というかたちを取っているので、あまり読みやすいものではないが、論争状況を見定めるには有益。著者はドイツ法制史が専門だが、思想史的関心も相当に強いらしく、ボルツの翻訳などもしている
(さきほど注文を出した)

土場学『ポスト・ジェンダーの社会理論』(青弓社 1999年)
 「ジェンダー」という、一冊の「理論」を書くには息切れのしそうな主題でありながら、なかなか巧く論じ切っているので感心した。フーコーを使いながらも微妙に距離を取り、フロイトを踏まえながら、ウィニコットらの対象関係論によってそれを相対化していくといった、バランスの取れた議論を展開している。基本的にはルーマンの思想が根底になっているようだが、卑近にならない程度に「現実」を巻き込んだ議論になっているような気がする。そういう意味では、同じく社会学関係でしばらく前に評判になった菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』
(NHKブックス 2003年)よりも良いかもしれない。実を言うと、本書は最初あまり期待していなかったが、なかなか面白く読めたし、「青弓社ライブラリー」というシリーズにも興味をもったのでご紹介。

E. Rothacker, Das "Buch der Natur". Materialien und Grundsätzliches zur Metapherngeschichte, Bourvier Verlag 1979.
(ロータカー『<自然の書物> ―― 隠喩史の資料と原則』)
 いわゆる「象徴としての書物」の系譜を具体的な資料によって跡付けた引用集。「言語としての自然」や「暗号としての自然」といった主題ごとに主に中世からロマン派くらいまでの引用が集められている。それほど膨大な数ではないが、クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン中世』のなかの「象徴としての書物」の章と平行するような内容になっている。ブルーメンベルクも『書物としての世界』
(Die Lesbarkeit der Welt〔邦訳は法政大学出版局より刊行予定〕の序文でこの資料集について触れている。しかし、この資料でも「書物としての世界」という着想はロマン派辺りを最後に急速に衰えていくように見える。「万物照応」の世界が崩れると同時に、世界は意味を失って、「読む」ことを拒むようになるのだろうか。

C. F. Gethmann, Verstehen und Auslegung. Das Methodenproblem in der Philosophie Martin Heideggers, Bourvier Verlag 1974.
(『了解と解釈 ―― ハイデガー哲学における方法論の問題』)
 ハイデガーの『存在と時間』を「方法論」という観点から、一貫して読み解いた古典的研究書。400頁を越す大著。以前図書館で全文をコピーして愛読したが、当時すでに入手困難だった。ドイツ語圏でハイデガーがまだ「実存主義」として「内容的に」読まれていた時期に、方法という「形式」にこだわって解釈していった点に大いに共感をもった。そのような点では、O. Pugliese, Vermittlung und Kehre.Grundzüge des Geschichtsdenkens bei Martin Heidegger, Alber 1986(『媒介と転回 ―― ハイデガーの歴史思想の基本的性格』)なども、少しあとのものだが好きな研究書。ゲートマンのものは、現物が欲しいと思って長いこと捜していたが、今回ネット書店で落手。この種の地味な研究書は、カタログ販売の古書店ではなかなか目録に載らないので、これまで手に入らなかったが、ネットだとこのようなものも探し出せるのが嬉しい。
 ちなみに今回手に入れたこの版には、タイプ打ちの紙片が二枚貼り込まれている。この書物は元々は博士論文なのだが、その貼り込まれた一枚には、博士論文の口頭試問の日程(1971年6月8日、主査ハラルト・ホルツ、副査オットー・ペゲラーとなっている
〔どちらも有名人〕)が記され、もう一枚には、著者ゲートマンのギムナジウム卒業時点からの履歴が書かれている。これはもしかすると、「その筋」に配られたコピーなのかもしれない。

池田善昭編『自然概念の哲学的変遷』(世界思想社 2003年)
 
「自然」理解の思想史的展開を時代順に追ったもの。古代から現代まで、いわゆる大思想家のなかで「自然」についての理論を展開した人々が、バランス良く取り上げられている。教科書風だが、概観のためには便利。エリウゲナなどがきちんと入っている辺りに、見識を感じる。さらに贅沢を言えば、十二世紀のシャルトル学派周辺の自然主義的な宇宙論、時代が下ってロマン主義の自然理解のようなものも欲しかったところ。ちなみに編者の池田氏はライプニッツの専門家。

D. フランク『現象学を超えて』本郷均・米虫正巳・河合孝昭・久保田淳訳(萌書房 2003年)
 フランスの現象学は80年代半ばくらいから活況を呈し、現在では、ミシェル・アンリやジャン=リュック・マリオンなどが代表者として挙げられるが、このフランクも、レヴィナスの弟子として始まって、ハイデガーやニーチェについての研究を通して、独自の展開を始めているようだ。この翻訳書を出した萌書房というのは初めて知ったが、こういう書物を出す意気込みに感謝したい。

新田義弘・山口一郎・河本英夫他『媒体性の現象学』(青土社 2002年)
 日本の現象学がきわめて高い水準で活動することを可能にした最大の功労者とも言える新田義弘氏に捧げられた記念論文集(そのため巻末に新田氏の業績一覧などが付されている)。海外からの寄稿も多く、実に読み応えのある内容になっている。現象学のもっている可能性を、フッサール一人にとどまらず、ハイデガー、レヴィナス、オート・ポイエーシスなど、さまざまな局面から照射する。現代の現象学を、高水準でサーヴェイするには、恰好の論文集だろう。ここ数年は、現象学誕生100年(正確には『論理学研究』公刊100年)ということもあって、現象学関係の企画が相継いだ。『思想』2000年10月号『現象学の100年』、『現代思想』2001年12月臨時増刊『現象学 ―― 知と生命』などもその一連の流れだが、これらもまた本書『媒体性の現象学』と連動する議論として理解することができる。執筆者なども部分的に重なっていて、議論の展開の様子を窺い知ることができる。

J. Neubauer, Bifocal Vision. Novalis' Philosophy of Nature and disease, U. of North Carolina Press 1971.
(J・ノイバウアー『二重焦点のヴィジョン ―― ノヴァーリスとの自然と疾病の哲学』)
 
Symbolismus und Symbolische Logik(『象徴主義と記号論理学』〔邦訳は『アルス・コンビナトリア』ありな書房〕)の著者のノヴァーリス論。自然哲学の文脈の中でノヴァーリスを理解しようとするものであり、関連付けられる思想家も医学・自然学関係の人々、医学者ジョン・ブラウン、自然哲学者バーダー、シェリングなどである。この種の傾向の書物としては、日本でもその後中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想 ―― 自然学から詩学へ』(創文社 1998年)が出た。この書物も、情報量が多いうえに読みやすい良書だったが、その文献表の中でも、当然このノイバウアーは挙がっている。

星野徹『ダンの流派と現代』(沖積舎 2000年)
 エリオットによる再評価以来、俄然現代詩の震央に踊り出た観のある十七世紀の形而上詩人についての論考集。この手のものはほかにもいくつかあるが、本書で面白いのは、日本の形而上詩という括りのあるところである。自ら形而上詩を名乗った和田徹三は当然のことだが、日本の形而上詩の系譜として、山村暮鳥、田中清光、武子和幸などが挙げられている。

A. ラヴジョイ『観念の歴史』鈴木信雄・内田成子・佐々木光俊・秋吉輝雄訳(名古屋大学出版会 2003年)
 「観念史」History of Ideas の始祖ラヴジョイの論文集 Essays in the History of Ideasの待望の翻訳。ヨーロッパ思想における「自然」の観念の分類や、ロマン主義の概念規定など、ラヴジョイの名とともに語られる有名な論文が収められている。原書はペーパー・バックで安価に入手できるが、日本語で読めるようになったのは悦ばしい。ラヴジョイが創設した「観念史」というものは、思想史の中の「単位観念」を設定して、その変遷を通史的に追うといったものであり、その集大成が、『観念史事典』
The Dictionary of the History of Ideas 邦訳『西洋思想大事典』平凡社ということになる。この観念史において何を単位観念とするかということが、方法論としては問題になるだろう。ユング的な「原型」が孕むのと同種の問題が、ここには存在する。

M. H. ニコルソン/N. M. モーラ『想像の翼 ―― スウィフトの科学と詩(山口書店 1981年)
 上記の「観念史」に属するニコルソン ―― 『暗い山と栄光の山』
(国書刊行会)『円環の破壊』(みすず書房)の著者―― のガリヴァー論。とりわけ第三部の「ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」!)で展開される擬似科学を中心に論じた、十八世紀科学論。科学と文学の接点を扱うニコルソンお得意の主題である。『ガリヴァー旅行記』には、当時の新しい科学や言語論が翳を落としていているため、単なるユートピア小説としてだけでなく、そうした新知識のドキュメントとしても扱える側面を持っている。A. C. Kelly, After Eden: Gulliver's (Linguistic) Travels (ELH 45 [1978])(「エデンの後で ―― ガリヴァーの(言語論的)旅行記])などという論文もあったが、これは『ガリヴァー旅行記』を、それぞれの架空の国で用いられる言語に注目して論じるものだった。

H. Schmidt, Kunst des Hörens. Orte und Grenzen philosophischer Spracherfahrung (Collegium Hermeneuticum 2), Bohlau Verlag 1999.
(シュミット『聴取の技法 ―― 哲学的言語経験の場所と限界』)
 
Collegium Hermeneuticum(解釈学叢書)シリーズのの第二巻。ラインナップがなかなか魅力的なので、結局全巻付き合うことにした。著者のホルガー・シュミットはニーチェ論に邦訳があり『ニーチェ ―― 悲劇的認識』国文社、これはなかなか良いものだった記憶がある。本書はウィトゲンシュタインとハイデガーを叩き台として、言語論を手初めに、ハイデガーの芸術論やフンボルト批判などを経ながら、18世紀的人間論・歴史論へと舵を取る、なかなか良いセンスの設定になっている。

M. Riedel, Kunst als >Auslegungerin der Natur<. Naturästhetik und Hermeneutik in der klassischen deutschen Dichtung und Philosophie(Collegium Hermeneuticum 5), Böhlau Verlag 2001.
(リーデル『<自然の解釈者>としての芸術 ―― ドイツ古典哲学における自然美学と解釈学』)
 ライプニッツから始まって、カント美学、ゲーテ、ヴィンケルマン、ヴォルフ文献学、ニーチェ、フンボルト、ハイデガー、最後はファイヒンガーに至るまで、実に多彩な材料を主題とした論文を集めている。リーデルは、それぞれの思想家のテクストに密着しながらも、かなり大胆で創造的な解釈を打ち出してくるので、個別の論文も相当に面白い。ただ、出典表記などが甘くて、原典の指定の箇所を見ても、引用されている文章が見当たらないなどということが、しばしばあるのが難点なのだが。ハイデガーを使って「自然解釈学」を論じた論文は、ずいぶんと昔のことだが、著者自身から抜刷(論文一本だけを別個に印刷したパンフレット)を送ってもらっていた。そんなこともふと思い出して懐かしかった。

大川勇『可能性感覚 ―― 中欧におけるもうひとつの精神史(松籟社 2003年)
 ムージル論として、『特性のない男』の「可能性感覚」を論じた450頁あまりの大冊。副題にある通り、ムージル論という枠組をはるかに越えて、ライプニッツの「可能世界論」から18世紀のユートピア小説群、20世紀のオーストリア思想、ハンガリー思想(要するに、著者のいうところの「中欧」精神史)、とりわけマッハの感覚論から、マイノングの「対象論」、最後はマンハイムの『イデオロギーとユートピア』とぐあいに、とにかく扱っている範囲が広大。それも文学から、哲学、社会学へと跨っていて、一見すると破綻しそうに豊富な材料ではあるが、著者の書きぶりはなかなかに見事で、ある種強引な「結合術」をさほどの抵抗なく読ませてしまう。どの現実にもコミットせずに、複数の可能性の中での宙吊りに耐え続けようとする「可能性感覚」の思想的背景と可能性を追った議論として、内容的にもきわめて刺戟的。名著と言って良いだろう。巻末の文献表も食欲をそそる

カッチャーリ『必要なる天使』住本元彦訳・岡田温司解説(人文書院 2002年)
 中世哲学以来、その位置づけが難しい「天使」であるが、この中間的で曖昧なありかたが、現代の思想の中でにわかに関心を呼びつつあるようだ。その着想源はベンヤミンということになるが、本書はただ流行のトピックスを追いかけたようなものではなく、キリスト教思想のみならず、イスラム思想にまで目を配りながら、「天使」という問題群を浮彫りにしてみせる。それはいってみれば、どの領域にも属さないながら、それぞれの領域を仲立ちする「媒介」という問題である。キリスト教の中でその「仲立ち」の役割は何と言ってもキリスト
(文字通り「仲保者」と呼ばれる)だが、そのような救いの確実性をもたらすキリスト以上に、現在では「天使」という曖昧な存在が、媒介の問題をよりリアルに見せてくれるようだ。そのために、著者カッチャーリは、救い自体の反復を意味するオリゲネスの「アポカタスタシス」の問題なども視野に収めている。小著であるが、ここからさまざまに着想が伸びて行きそうなエネルギーに満ちている。翻訳のほかに長文の「解説」を付した作りも丁寧。

M. Riedel (Hg.), >Jedes Wort is ein Vorurteil<. Philologie und Philosophie in Nietzsches Denken, Böhlau Verlag 1999.
(リーデル編『<いかなる言葉も偏見である> ―― ニーチェ思想における文献学と哲学』)
 
Collegium Hermeneuticum(解釈学叢書)というシリーズの立ち上げの第一巻。まずは、ニーチェ思想を、永劫回帰や力への意志といった大仰な概念ではなく、文献学あるいは言語という点から論じているのが特徴。ガダマーも歿する直前に論考を寄せている。ニーチェ自身の著作タイトル『音楽の精神からの悲劇の誕生』をもじった「パロディーの精神からの抒情詩の誕生」なる論文も所収。邦語では、サラ・コフマン『ニーチェとメタファー』
(朝日出版社)ギルマン『ニーチェとパロディ』(青土社)が、言語という側面からニーチェ思想を論じているが、深さと同時に、仮面という「表面」を好んだニーチェの思想は、言語表現という表層を抜きにしては語れない。

M. Beetz, G. Cacciatore (Hg.), Hermeneutik im Zeitalter der Aufklärung, Bohlau Verlag 2000.
(ビーツ、カッチャトーレ編『啓蒙主義時代の解釈学』)
 同じく
Collegium Hermeneuticumの第三巻。解釈学というと、どうしてもシュライエルマッハー以降のロマン派の解釈学が中心となってしまうが、これはそれ以前の十八世紀解釈学を主題としたもの。十八世紀解釈学という主題に関しては、A. Bühler, Unzeitgemässe Hermeneutik(『反時代的解釈学』 ―― これもニーチェの『反時代的考察』のもじり)があるくらいで、その後の進展がなかったので、これはそうした欠を埋めてくれる悦ばしい一書。

A. Borst, Der Turmbau von Babel. Geschichte der Meinungen uber Ursprung und Vielfalt der Sprachen und V&omullker, 6 Bde., Deutscher Taschenbuch Verlag 1995.
(ボルスト『バベルの塔 ―― 言語と民族の起源と多様性をめぐるさまざまな見解の歴史』)
 全六巻で総頁数が2320頁。古代から現代に至るまでの、言語起源論、言語相対主義の歴史を網羅した百科全書的著作。索引も強力で、150頁を越す。天を摩する巨大な塔を建造しようとした人間の奢りに対して、神は建造に関わる人間たちの言語をバラバラにして、互いの意思疎通を不可能にする形で罰を与えた。それ以来、人類は多様な言語に分割され、コミュニケーションの疎外に苦しむことになった。こうしたバベルの塔の神話が、ヨーロッパの言語思想にどれほど深く入り込み、一種のトラウマとなっているかが痛感させられる。その裏側には、バベルの塔の災害を人工的な言語によって乗り越えようとする「普遍言語構想」がある。

L. Damrosch, Fictions of Reality in the Age of Hume and Johnson, The University of Wisconsin Pr. 1989.
(ダムロッシュ『現実の虚構 ―― ヒュームからジョンソンに至る時代における』)
 イギリス十八世紀におけるリアリティの感覚を、自我の解体や認識論の危機といった問題を背景に横断的に論じた著作。「ここでの主張は、簡単に言うと、主題とした著述家たちは、現実を堅固なものであると同時に相対的なものとみなしていたというものである。彼らは認識論上の危機の時代に生きてはいたものの、いまだ伝統的な堅固な存在論から離れてはいなかった」。懐疑論や蓋然性の議論、ヒュームにおける自己の問題などが俎上に乗る。ヒュームにおいて、いわゆる「知覚の束」として理解された離散的な自己は、このような文脈で考えるとまた新たな問題を提起してくれそう。

M. フーコー『真理とディスクール ―― パレーシア講義中山元訳(筑摩書房 2002年)
 1983年にカルフォルニアのバークレー校で行った連続講演の記録。原題は
Fearless Speech(臆せずに語る)。この「パレーシア」なるギリシア語は、それほど特殊な表現ではないため、日本語では、「自由にものを言う」、「放言する」など、文脈によって訳し変えられるために、元の語が術語として目立つということがない。それは欧米の言語でも同じらしく、この語に注目してその変遷を追うのは、やはりフーコー独自の関心によるもの。権力者に阿ることなく真理を語るという意味での「パレーシア」、対話の中で相手のプライドを傷つけてまで真理を自覚させるソクラテス的「パレーシア」、さらにはギリシア民主制の堕落に伴って、単なるお喋りに堕していく「パレーシア」、そして最後に、自己の内面に対する自己内対話としての「パレーシア」といった具合に、その変遷の過程が見事に炙り出されて行く。自己吟味という意味での最後の「パレーシア」は、キリスト教的な告解の文脈にも繋がって行く。普通は術語として意識されない語を中心に据えることで、思想史の異なった切り取り方ができるという好例になっている。翻訳も読みやすく、訳註にはよくこのようなものまで調べたと思えるようなデータが入っており、訳者の技倆を随所にうかがわせるものになっていて立派。

『ライプニッツ著作集』(全10巻 工作舎)
 『人間知性新論』などはみすず書房の単行本でも読むことができるが、地質学・中国学・普遍学などは、日本語ではこの著作集でしか読むことができない。ただし、工作舎独特のエディトリアル・デザインが、国書刊行会本以上に灰汁の強いかたちで表に出ているので、入手を躊躇っていた。しかし、あの無用とも思える版面の工夫は、ライプニッツのバロック的知性をそれなりにトレースしようとしているのかもしれない。それを考えても、矢鱈に余白の多いこの著作集、一次文献の翻訳書としてはやはり首を傾げたくはなる。

佐々木能章『ライプニッツ術』(工作舎 2002年)
 上記の『ライプニッツ著作集』とは異なり、これは凝ったデザインがプラスに働いた好例。「モナドは世界を編集する」という副題と見事に重なり合って、本文自体の「編集」が書物の記述を重層化していて、ライプニッツの多元的・統一的世界観を如実に伝えている。従来、ライプニッツの「哲学」を論じる文章ではあまり注目されていなかった彼の実践面での活躍 ―― 図書館長とのしての活動や、ハルツ鉱山の開拓、保険の理論化など ―― が論じられている後半が、とりわけ興味深い。さまざまなものを「リンク」していく連想の繋がりでライプニッツを捉えるという着眼は魅力的。『モナド論』なども、論文というよりは、さまざまな主題を他の繋がりへと開いていく「リンク集」なのではないかという指摘も面白い
(尤も、ここには「出来の良くない」リンク集だったという注記がつくのだが)

C. G. Jung, Jung's Seminar on Nietzsche's Zarathustra, Abridged edition, edited and abridged by James L. Jarret, Bollingen series XCIX, Princeton U. Pr. 1998.
(ユング『セミナー:ニーチェ<ツァラトゥストラ>(縮約版)』)
 オリジナルは1988年に公刊された二巻本の大著だが、本書はそれをおよそ半分程度に圧縮したいわばダイジェスト版。とはいっても、これ自体が400頁近くはあるのだが。1934-39にかけて行われたセミナーの記録。書名の記載を見ればわかるように、これは「ボーリンゲン財団」を支援者として公刊された「ボーリンゲン叢書」の一冊。アメリカのメロン銀行を基盤に設立されたこの財団は、ユングゆかりのエラノスの経済的支援を行い、ケレーニィ、アウエルバハなど、多くの研究者のパトロンとなり、「ボーリンゲン叢書」という大規模な出版活動を支え続けた。シングルトン翻訳・註解のダンテ『神曲』もこの「ボーリンゲン叢書」のもの。この財団の活動は、エラノス叢書別巻『エラノスへの招待』
(平凡社)で、高山宏「すべてはエラノスに発す ―― エラノス会議、そしてボーリンゲン財団」に縷説されている。

今道友信『ダンテ『神曲』講義』(みすず書房 2002年)
 上記のユングのセミナーと同じく、これもセミナー形式の講義をまとめたもの。講義の記録と毎回の質疑応答を収めており、読み物としてなかなか面白い。専門家を対象にしたものではなく、あくまでも『神曲』に関心のある一般読者(聴衆)を念頭においているので、記述はいたって平易。400頁を越す分量でも楽に通読できてしまう。『神曲』の解説は、どうしても地獄ばかりが中心になり、「煉獄・天国」が疎かになりがちだが、この講義はその不満をある程度かわしている。むしろ「地獄」の解説などはあっさりとしすぎているくらい。「天国編」でのキリスト教関係の解説はなかなか読み応えがある。全体の話しぶりは諄々と説いて聞かすものなので、多少じれったいところがあるが、さすがに長年哲学・美学に携わっている著者だけのことはあって、触れられるエピソードに登場する人物も大物ぞろいで、それだけでも得をした気分になれる。
 ユング=エラノスを支えたボーリンゲン財団に対して、このダンテ講義の支援を行ったのが、「エンゼル財団」。あの「エンゼル・マーク」の「森永」である。イタリア関係で言えば、『Spazio』というなかなか高度な雑誌を出しているのが「オリベッティ」。しかも、この『Spazio』本体には、「オリベッティ」の名前は表立っては表記されていない。清々しいものである。一般企業の篤志によって支えらえるこうした試みが増えることを願うばかりである。

H. ブルーメンベルク『コペルニクス的宇宙の生成 I』(法政大学出版局 2002年)
 最近翻訳の世界でようやく認知度をあげてきたブルーメンベルクの新刊。法政大学出版局がこのところ立て続けにブルーメンベルクの怪物的大著を公刊する計画をもっているのは心強い限り。しかし、何と言っても、難解さの権化のようなブルーメンベルクのこと、その翻訳の質が気になるところ。今回の翻訳は、その点かなり配慮が行き届いていて、日本語として面妖な箇所は稀で、かなり良く練られていると言える。さらに特筆すべきはその装幀である。叢書「ウニベルシタス」はこれまで装幀には同一の図案をかたくなに貫いてきたが、今回は表紙・帯ともにこれまでにない冒険が見られる。点数があまりに増えてしまった「ウニベルシタス」にはこのようにして差別化をはからないともはや限界にきているように思える。編集者の意気込みが伺える。

高山宏『<表象>の芸術工学』(工作舎 2002年)
高山宏『エクスタシー』
(松柏社 2002年)
高山宏『殺す・集める・読む
―― 推理小説特殊講義(創元ライブラリー 2002年)
 最近の高山宏のものは、一まとめにしてしまって良いかと思えてしまうところが少々悲しい。『<表象>の芸術工学』は、神戸芸術工科大学での集中講義を起こしたもの。後者二冊も既出のものを編集して一緒としたもの。『エクスタシー』は、以前の『ブック・カーニバル』
(自由国民社)の系譜に位置づけられている。どれももちろんそれなりに面白いのだが、やはり繰返しと自己宣伝が目に付いて、新味には乏しいし、新しいジャンルを切り開こうとしていたかつての気迫はなくなっている。それにしても『エクスタシー』は、図版もないのに、アート紙で500頁に及ぶので、とにかく重たい。建石修志の装幀は素晴らしいし、扉はとりわけ素敵だが、この重さだけは勘弁してもらいたい。上述の話題との関連で一つ触れておくと、「変換文化と翻訳」という文章では、法政大学出版局の叢書「ウニベルシタス」の話題を枕に、エラノス=ボーリンゲン財団のことが語られている(しかも翻訳文化という主題の展開で、トレドの翻訳学院までが触れられているのはなかなかご愛嬌)。

Athenäum. Jahrbuch für Romantik. 2002, Ferdinand Schonig 2002.
(『アテーネウム ―― ロマン主義年報』)
 ロマン派研究の年報の新刊。フランクの「<自己感情> ―― 18世紀における先反省的自己意識」、ミュラー=フォルマーの「『精神現象学』における言語論」、ザネッティ[カントの真理理解」、レーメ=イッフェルト「Fr. シュレーゲルにおける開放・愛・婚姻」などなど、この年報はますます哲学色を強めてきているようだ。

R. A. Lantham, A Handlist of Rhetorical Terms. A Guide for Students of English Literature, U. of California Pr. 1968
(レイナム『修辞学用語便覧 ―― 英文学徒のための手引き』)
 
「キアスムス」、「カタクレシス」、「エクフラシス」……と、修辞学用語は舌を噛みそうな難語に溢れているが、それを部分的には実例とともに定義したハンドブック。150頁程度の簡単なものだが、修辞学関係は、あまりに詳しくなってしまうと手におえなくなるので、この程度のもののほうが実用的。ドイツで進行中の『歴史的修辞学事典』
(Historisches Wörterbuch der Rhetorik)は、ドイツ語原題からも分かるように、『歴史的哲学概念事典』(Historisches Wörterbuch der Philosophie)の姉妹編だが、この『歴史的修辞学事典』は、大項目主義なので、具体的な修辞学用語を引こうとしてもほとんど役に立たない。索引や付録の巻でその点を補って欲しいと思うが、これは完結自体がまだまだ当分先だろう(毎巻1500頁のもので第5巻まで既刊。しかしこの第5巻でやっと"Musik"の項目まできたばかり。気が遠くなりそう。『歴史哲哲学概念事典』のほうは、既刊11巻で、"Vulkanismus"の項目まで公刊されて、先が見えてきた)。因みに『修学用語便覧』の編集者レイナムは、『雄弁の動機』(ありな書房)の著者。

G. Moldaenke, Schriftverständnis und Schriftdeutung im Zeitalter der Reformation: Teil 1: Matthias Flacius Illyricus, Verlag W. Kohlhammer 1936
R. Keller,
Der Schl
üssel zur Schrift. Die Lehre vom Wort Gottes bei Matthias Flacius Illyricus, Lutherisches Verlagshaus 1984
(モルデンケ『宗教改革時代の聖書理解と聖書解釈 ―― 第一部:フラキウス』
ケラー『聖書の鍵 ―― フラキウスにおける神の言葉の理論』)

 
宗教改革時代のプロテスタント神学は、「ただ聖書のみ」(sola scriptura)といういわゆる「聖書原則」ゆえに、近代の解釈学の礎を築くことになった。そのために、解釈学の歴史を祖述するときには、かならず名前くらいは挙がる人物だが、これはそのフラキウスに関するモノグラフ。前者のモルデンケのものなどは、630頁に及ぶ大冊。出版社コールハンマーは、エックハルトの全集なども出している神学関係の老舗。後者の『聖書の鍵』という標題は、フラキウス自身の著作『聖書の鍵』
(Clavis scripturae sacrae)から取られたもの。この2冊の大部の研究書を見るに、文献表からも、その神学的背景の厚みが伺える。これを思うと、ガダマーが「解釈学」という語を神学から独立させて、哲学の領分に脱・文脈化するのがいかに力技だったかが逆に見えてくるような気がする。

中川久定『転倒の島 ―― 18世紀フランス文学史の諸断面(岩波書店 2002)
 ディドロ研究者の中川久定氏によるユートピア文学に関する論考集。社会秩序の転覆の装置としての架空の「島」が18世紀が進行するに連れて現実の場面に移行し、ついにフランス革命という現実の「転倒」に至るという流れは、18世紀という時代の性格を浮彫りにするものでもある
(「四つの転倒の島」「世紀末の転倒の島」)。「ルソーと『エミール』」は、教育論としての美点ばかりが強調されがちな『エミール』を、その暗黒面の側から読解していて刺戟的。『エミール』はこれまで「教育者」の側からのみ読まれ、一度として「生徒」の側から読まれていないとしたうえで、「私が試みるのは、エミールのように教育されることを望まぬ一読者の立場からする、ルソーの教育法に対する批判である」と言挙げする。ここから炙り出されるのは、ルソーの構想する教育者が、生徒の下位意志に絶対的に優越する不可視かつ善意の上位意志として構想されていること、そしてこうした上位意志こそが、フーコー的な「監視」を産む近代的システムにほかならないという見事な結論である。
 さらに著者は、不可視の上位意志を自ら進んで内面化し、自己陶冶に励む「啓蒙主義」のプログラムをここに重ね合わせる。そして、そうした超越的意志の内面化の仕組みを、半ばフーコーに拠りながら、「ユダヤ・キリスト教的」伝統に遡ってみせるのだが、この最後の方向は俄かには肯首しがたい。超越的意志の内面化の証左として、著者はクザーヌスのテクストを引き合いに出している。確かにクザーヌスには、人間の認識能力(観ること)は神によって「観られる」ことによって構成されるという議論があるが、これは超越的視点の「内在化」ではなく、むしろ内在的視点の「超越化」なのである。そのような点で、やはり中世と近代との断絶は無視することはできないと思うのだが。


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