蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ

New 12/1

Ph. Stoellger, Metapher und Lebenswelt. Hans Blumenbergs Metaphorologie als Lebenswelthermeneutik und ihr religionsphänomenologischer Horizont, Mohr Siebeck 2000
(シュテルガー『隠喩と生活世界 ―― 生活世界の解釈学としてのブルーメンベルクの隠喩論、およびその宗教現象学的地平』)
 ブルーメンベルクのMetaphorologie(隠喩学)を主題にした500頁に及ぶ大冊。カッシーラーのシンボル論のみならず、デリダの隠喩批判、それに対するリクールの応答など、現代哲学の中での隠喩論を踏まえたうえで、ブルーメンベルクの意義を検討する堅実なアプローチ。クザーヌスの「憶測」論をブルーメンベルクの方法論と重ねて論じる辺り、着眼も面白い。ちなみに最終章の標題が「神学の再隠喩化と隠喩の再神学化」。このフレーズはブルーメンベルクの思考の傾向をかなりうまく表しているかもしれない。文献表も充実していて愉しめる。ちなみに、ブルーメンベルクの論考「隠喩学のパラダイム」については、初出(Archiv für Begriffsgeschichteのもの)とズールカンプ版のコンコーダンスが付いていて、これには少し吃驚した。


E・カッシーラー『シンボルとスキエンティア』佐藤三夫・根占献一・加藤守道・伊藤博明・伊藤和行・富松保文訳(ありな書房 1995年)
 カッシーラーの思想史関係の論文集。なかでも「ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ ―― ルネサンス観念史の一研究」が力作。アヴェロエス主義とプラトン主義、異教とキリスト教の「悪しき混淆主義」としてしばしば混乱したものとみなされがちなピコの思想を、中世から近世への転換期の中にしっかり置き入れ、クザーヌス、ブルーノなどに繋がる側面を取り出すとともに、彼の自由論の内にカントの「感性界」と「叡知界」の区別に至る思想の萌芽を見るなど、地下茎のように走る思想史の連繋を浮彫りにしていくところに、カッシーラーの真骨頂がある。当時としてはきわめて稀な、占星術に対する徹底した拒絶も、このような文脈の中では必然的に思えてくる。アヴェロエス主義を介した自然科学との繋がりなども、大きな問題として取上げ直すと面白いだろう。
F・ジュリアン『勢 効力の歴史 ―― 中国文化横断』中島隆博訳(知泉書館 2004年)
 「勢」というキーワードによって西洋思想とは異なった中国文化のあり方を浮彫りにしている。西洋的・アリストテレス的な「可能態・現実態」によっては捉えきれない「勢」を、政治(軍事)、書、歴史という分野をまたいで描いてみせる文化の形態学。厳密な中国学という点からはいろいろと異論が出るのだろうが、大胆な構図をまずは描いてみるという試みに共感を覚える。主体や因果関係を中心にしたヨーロッパ思想が、現代では差異性や運動を強調し始めているのを見ると、中国思想の中にそうしたことを考えるヒントが見出せるという期待ももてそう。原著が、フーコーらが創始したデ・トラヴォ叢書に収められているというのも、その辺りに理由がありそう。中国思想においては、「勢」(運動性)と「理」(法則性)が一致しているという点では、「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」というヘーゲル的構想が観念論抜きに実現しているというような指摘は面白い(p. 215)。しかもそこには、そうした中国的思想は、逆に「否定性」という概念を曖昧にしてしまう怖れがあるといった指摘もなされており、単なる贔屓の引き倒しになっていないところに好感を持つ。

J. Goldstein, Nominalismus und Moderne. Zur Konstitution neuzeitlicher Subjektivität bei Hans Blumenberg und Wilhelm von Ockham, Alber 1998
(ゴルトシュタイン『唯名論と近代 ―― ブルーメンベルクとオッカムにおける近代主観性の構成』)
 ブルーメンベルクの近代論、とりわけ『近代の正統性』におけるオッカムの評価を中心に、中世末期から近代初頭の転換を再検討する研究書。中世末期の主意主義と、認識論上の唯名論に、近代の世界観の端緒を求めるというのは、教科書レベルでも多く見られる整理だが、ブルーメンベルクの議論は、そうした転換の図式に対して、「自己主張」、「自己保存」という近代独特の「生存の理論」を組み合わせたところに特徴がある。中でもオッカムの「絶対的権能」と「秩序づけられた権能」の区別の内に、主観性の危機と、その反動としての「正統化」の要求を見出している。オッカムの専門家であるゴルトシュタインは、オッカムそのもののテクストの検討を踏まえて、そのような解釈の訂正を図っていく。しかし、そうした実証的な検証はかならずしもブルーメンベルクの議論そのものの反駁にはならないという点も自覚して、バランスの取れた記述になっているようだ。


M. Brelage, Studien zur Transzendentalphilosophie, de Gruyter 1965
(ブレラーゲ『超越論哲学研究』)
 現象学・解釈学の議論が展開されていた時期に比較的よく言及されていながら、図書館などにも意外と収蔵されていなかったので、現物を見たことがなかった。時期はずれになって、今ごろになってようやく入手。ハイデガーと超越論哲学という問題をかなり早い時期に提起していた。それと並んで、ヘーニクスヴァルト、ハルトマンと超越論哲学という、現在ではやや忘れられている思想家が主題となっているのも、興味深い。カッセルの造形芸術大学の放出本。


M. A. Williams, Rethinking "Gnosticism". An Argument for Dismantling a Dubious Category, Princeton U. Pr. 1996
(ウィリアムズ『グノーシス再考 ―― 疑義ある概念の解明のために』)
 「グノーシス」という概念は、昨今の再評価にも関わらず、相変わらずその輪郭が定まらないことに変わりがない。グノーシス主義者たちの自己理解、後世の影響史など、多角的にグノーシス概念を点検する試み。

P. Sloterdijk, H. H. Macho (Hg.), Weltrevolution der Seele. Ein Lese- und Arbeitsbuch der Gnosis von der Späantike bis zur Gegenwart, 2 Bde., Artemis & Winkler 1991
(スローターダイク ? マホ編『魂の世界革命 ―― 古代末期から現代までのグノーシス主義。資料と研究』)
 上記とは正反対の試み。「トマス福音書」などの古代の基本的資料を第1巻、シオラン、バタイユ、タウベス、ケレーニィ、ベンヤミンなど、「グノーシス的なもの」をめぐる文章のアンソロジーが第2巻。これなどは、何でもグノーシスの中に入れられてしまいそうなところがあって、危うさを感じないでもないが、広がりを示すためには意味のある力技だろう。編者は、「あの」スローターダイク。


E・ペイゲルス『禁じられた福音書 ―― ナグ ・ ハマディ文書の解明』松田和也訳(青土社 2005年)
 グノーシス主義、とりわけ「ナグ・ハマディ文書」の研究で有名なペイゲルスが、初期キリスト教の成立を個人的な体験と絡めながら語った一冊。純然たる研究書ではないが、正統キリスト教の魅力と違和感などを語りながら、それを歴史的に裏づけていく過程が読み物として興味深い。迫害の中で生まれたキリスト教は、それ自身の延命のために、自らが多くの要素を内部から排除することで歴史的な勢力として確立した。そのなかでも本書の最大の問題は、なぜ『ヨハネ福音書』が正統に取り込まれ、『トマス福音書』が排除されたかという一点である。共観福音書と『ヨハネ福音書』は相当に性格が異なり、それに比べると、『ヨハネ福音書』と『トマス福音書』はきわめて似通っている。にもかかわらず、なぜ『トマス福音書』は排除され、異端文書とみなされるのかという問題である。イエス一人を神とする『ヨハネ福音書』と、すべての人間に「神化」の可能性をみとめる『トマス福音書』のうち、採用されたのは『ヨハネ福音書』のみであった。ちなみに、『ヨハネ福音書』の正当化に努めたエイレナイオスには、殉教したポリュカルポスという師がいるが、このポリュカルポスなどは『ヨハネ福音書』を知らなかったらしいという記述があり、これには少々吃驚した。殉教者もすべてがすべて同じものを信じて死んでいったとは限らないのである。

E. Grassi, Die zweite Aufklärung. Enzykopädie heute. Mit lexikalischem Register zu Band 1-75, Rowohlt Hamburg 1958
(グラッシ『第二の啓蒙 ―― 百科全書の今日(1-75巻総索引付き』)
 ホッケ『迷宮としての世界』、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、ユクスキュル・クリサート『動物と人間の環境世界』、グラッシ自身の『芸術と神話』など、一級の書物を収めたローヴォルト叢書の全貌を見渡せる一書。この叢書がグラッシによって「百科全書」として、そしてまた思想運動としては「第二の啓蒙」として企画されたことが、その序文に謳われている。何よりも驚くのが、この巻のほぼすべてを占める総索引。シリーズ全体にわたる事項・人名索引(両者は別立て)になっている。これは言ってみれば、「ちくま学芸文庫」や「法政ウニベルシタス」に全冊を通した総索引が別巻で付いているようなもの(あるいは、実現しているものでは、『中世思想原典集成』全20巻の別巻総索引)。索引や文献表は、見ているだけで嬉しくなる。ちなみに、ふと思い立って、当の「百科全書」という事項などを引いてみると、オルテガ『大衆の反逆』、ホッケ『迷宮としての世界』、サルトル『文学とは何か』、マルロー『空想の美術館』などが引っかかってくる。これを眺めただけでも、現代の「百科全書」の広がりというものが何となく感触できるのは面白い。やはり索引とは、編者が意図していない「思想」の宝庫である。しかもこのローヴォルト叢書では、各卷に「基本概念の解説」という用語集がグラッシの手によって書かれていた。こんな点からも、この叢書がいかに「百科全書」を目指して企画されたかということが理解できる。グラッシという人物の底力をあらためて感じる一冊であった。


Y・ボヌフォア『バロックの幻惑 ―― 1630年のローマ』阿部良雄監訳・島崎ひとみ訳(国書刊行会 1998年)
 1630年のローマという一点に絞って記述されたバロック美術。客観的な美術史というよりは、美術史を通じての思弁(詩的思索)といった性格を強くもっている。ルネサンスでの表象の合理性から、マニエリスムにおける動揺、その新たな克服としてのバロックという多重性が一面かなり思弁的に論じられている。パノフスキーの『象徴形式としての遠近法』と『イデア』の着想を併用するとこういう方向が生まれるのかもしれない。いずれにしても、「バロック」という概念は、「近代」思想内部の多面性を考察するには格好のアイテムになるのかもしれない。それを考えると、ニーチェの『悲劇の誕生』なども「バロック」として語られることと意外と無縁ではないとも思えてくる。

坂部恵『モデルニテ・バロック――現代精神史序説』(哲学書房 2005年)
 現代とバロックの思想史的な通底を主張するという点では、主題そのものはきわめて魅力的。しかし、同じ著者の『ヨーロッパ精神史入門 ―― カロリング ・ルネサンスの残光』にもまして羊頭狗肉。やはり、この種の主題を提示するには、それ自体がバロック的な知識の大盤振る舞いを期待したいところ。おいしい主題だけをつまみ食い的に書き散らされても、なかなか共感しづらいところがある。ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』を、同時代のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』、ハイデガー『存在と時間』と並ぶ20世紀哲学の代表作とする評価にしても、これだけではただの判官贔屓のように見えてしまう。「シェリングと岡倉天心」という意表を衝く標題にしても、内容を見ると、シェリングとは申し訳程度の関係しかない。エリウゲナと空海という対比にしても、これだけでは思い付きの域を出ない。主題が主題だけに、全体としてなんとも残念な出来栄え。本書で最大の美点は、ラトゥールの絵をあしらった装幀と、「霊性と創造する言葉の形而上学に汲む」という帯のフレーズだろう。


M・ジェイ『暴力の屈折――記憶と視覚の力学』谷徹・谷優訳(岩波書店 2004年)
 「エセー」というものの可能性を存分に活用したかのような感がある優れた論文集。過去の出来事、とりわけ戦争といった災禍に関して、象徴的な完結や物語的な全体化を拒み続ける冒頭の「慰めはいらない」は、ベンヤミンを中心に論じて、全体の基調をなす見解を提示している卓抜な論考。最近ドイツでホロコーストの記念碑が完成したというニュースと合わせると、フランス・スペインの国境で自害し、その墓所さえわからないベンヤミンは、まさに象徴的・記念碑的行為を拒絶し続けているようである。最後に収められた「恐怖のシンメトリー」は、著者がチリのある人物にから語られたことをもとに9/11の意味を語る。チリにとってはその同じ9/11は、アメリカの支援の下で流血のクーデターが起こった記念日でもあるということから、「世界史に残る9/11はひとつだけではない」という印象的な結論に至る。そうした時事的論考以外にも、ブルーメンベルクを使いながら、「傍観者」という思想史的問題を考察した「難破船へ潜る」、光速の確定によって、それまで瞬間的に思われていた視覚現象の中に時間差が介在するようになるという事態を思想史的に辿った「天文学的な事後見分」、「正義」の図像がしばしば目隠しをして描かれることの意味を図像学的に追った「正義は盲目でなくてはならないのか」など、アイディア満載。本書は、ジェイと訳者との対応のなかで生まれたということだが、訳文もセンスが良いし、訳者の功績が大。ただし、ブルーメンベルク関連の翻訳データが脱落している。『見物人のいる沈没船』とぎこちなく訳されているものは、『難破船』の邦題で翻訳あり。ちなみにSchiffbruch mit dem Zuschauerは、より正確には、「鑑賞者のいる難波」という意味と、「観照者の破綻」という二つの意味がかけられている。私なら、『破綻の観照者、あるいは観照者の破綻』とでも訳すだろう。


『現代詩手帖 ―― 特集:ダンテ』(思潮社 1987年7月号)
 日本では、ダンテは言及されることのみ多く、「論じられる」ことの少ない古典の代表格のような趣がある。多少とも踏み込んで論じた日本語の著作としては、矢内原忠雄『ダンテ神曲講義』(みすず書房)や、最近では今道友信『ダンテ『神曲』講義』(みすず書房)があるくらいだろうか。浦一章『ダンテ研究 I』(東信堂)は詳しいとはいえ、『新生』のみの研究である。そんななか、20年近く前の雑誌特集とはいえ、なかなか力の籠ったものだったので、図書館でコピーをしてもっていたが、ようやく現物を手に入れた。慶賀。


K. Hammacher, A. Mues (Hgg.), Erneuerung der Transzendentalphilosophie: im Anschluss an Kant und Fichte. Reinhard Lauth zum 60. Geburtstag, Frommann-Holzboog 1979
(ハマッヒャー、ミューズ編『超越論哲学の刷新 ―― フィヒテを継承して(ラウト還暦記念論文集)』)
 フィヒテ研究で著名なラウトの60歳記念論文集。60年代から80年代は、大物研究者の記念論文集というものが、研究の一つの里程標になっていたような観がある。この論文集そのものはさほどではないが、例えば、ヘンリヒ還暦論文集、クラーマー還暦論文集などは、一時代を画するような決定的な論文が収められていた。クラーマー記念論文集Subjektivität und Metaphysik, Vittorio Klostermann 1966(『主観性と形而上学』)には、ヘンリヒのFichtes ursprüngliche Einsicht(「フィヒテの根源的洞察」)(法政大学出版局に邦訳あり)が収められていたし、その当のヘンリヒの記念論文集Theorie der Subjektivität, Suhrkamp 1987(『主観性の理論』)は、自己意識論ということで、ドイツ系の伝統的意識論から、ストローソン、カスタネーダという英米圏の議論まで包括した立派な論集だった。今見ても惚れ惚れするようなこれらの論文集に「学統」というものを感じたものだ。


J. Ritter, K. Gründer, G. Gabriel, Historisches Wörterbuch der Philosophie, Bd. 12, Schwabe AG Verlag: Basel 2004
(リッター、グリュンダー、ガブリエル編『歴史的哲学概念事典』第12巻)
 祝・全巻完結!『歴史的概念事典』が全12巻をもっていよいよ完結した。掉尾を飾るのはZynismus(キュニコス派)。「シニカル理性批判」(スローターダイク)が語られる現代にふさわしい最終項目かもしれない。送られてきた最終巻には出版社からの挨拶状が付されていた。それによると、項目数は全体で3670項目、各頁コラム数2で、総コラム数17144(つまり訳8,500頁)に及んだとのこと。私などが曲がりなりにも哲学を学び始めた頃からずっと伴走するように続いてきた企画だけに、いささか感慨がある。しかし、まだ最後の大仕事「索引巻」が残っている。挨拶状によると、100,000項目にも及ぶとのこと。これもまた楽しみ。


E. Lask, Gesammelte Schriften, 3 Bde., J. C. B. Mohr: Tübingen 1923
(ラスク『著作集』全3巻)
 新カント学派のラスクの著作集を古書で入手。ボン大学の除籍本だった。一巻目に「フィヒテの観念論と歴史」を収める。ハイデガーがフィヒテに馴染んだのは、ラスクのこの著作を通してだったのではないかという指摘がなされていたりするので、そうした方向からも関心がある。ドイツ観念論を歴史哲学という線で見ようとする観点には、文化科学を構想した新カント学派の発想が明確に現れている。ラスク自身の思想としては、超越論哲学と論理性というものの関係を徹底しようとしていたところがあるので、これはこれで読み直す値打ちがありそう。


P・ロッシ『哲学者と機械 ―― 近代初期における科学・技術・哲学』伊藤和行訳(学術書房 1989年)
 書店で一度も現物を見ないまま、いつのまにか品切れになっていたが、念のため発注してみたら、わずかな在庫とおぼしき若干汚れたものが手に入った。『普遍の鍵』やベーコン論で著名なロッシの著作。近代初頭の職人的な手作業が、近代科学の成立にいかに決定的な役割を果たしたかを論じる。その点ではヴァイグル『近代の小道具たち』(青土社)などに通じるが、本書の記述の仕方そのものはかなり地味。『普遍の鍵』もそうだが、ロッシは、挑戦的なテーゼを手堅く地味な外見をまとわせて提起するというスタイルを持っているようだ。それにしても、この「科学史研究叢書」というのはたいへんに期待していたシリーズだが、本書がシリーズ一巻目で、その後。カッシーラー『現代物理学における決定論と非決定論』(山本義隆訳)、ジェイコブ『ニュートン主義者とイギリス革命』が出たきりで後が続いていない。ミッテルシュトラース『近代と啓蒙』、ギルバート『ルネサンスにおける方法概念』、オング『ラムス・方法・対話の衰退』といった具合に、そのラインナップは目映いような書目が並んでいただけに残念。


R・ヴィッガースハウス『アドルノ入門』原千史・鹿島徹(平凡社ライブラリー 1998年)
 ごく普通の意味の「入門書」。特に鮮烈な印象はなく、無難に全体を概観しているという印象。記憶に残るキャッチコピーの名人だったベンヤミンに比べると、アドルノの場合、思想上のキーワードはたいていの場合は伝統的な概念なので、その点でも解説が難しいということはあるのかもしれない。巻末の文献表は、雑誌掲載の短文も拾ってあって親切。

細見和之『アドルノの場所』(みすず書房 2004年)
 アドルノの思想の急所を押さえるという意味では、いわゆる「入門書」スタイルのものより、こちらのほうが有益かもしれない。全体として読みやすい。とりわけ、第一論文「アドルノにおける自然と歴史」が卓れている。より正確には、思想的には本書はこれに尽きるとも言える。他の論考は、さっと流して読めてしまう。最後に「<自然史>の理念再考」が加えられ、最初と最後を取り囲むようになっているが、内容的には取り立てて深まった印象はない。いずれにしても、「自然史」という理解を、ルカーチ、ベンヤミンといった典拠との関係を含めて考察した第一論文だけは一読の価値あり。ここから、『否定弁証法』などのおおまかな筋道も見えてくるので、かなり立派な論考だと思う。


『ニーチェは、今日?』森本和夫・本間邦雄・林良雄訳(ちくま学芸文庫 2002)
 1972年にスリジー=ラ=サールで開催された有名なコロキウムの記録。ただし、原著の完訳ではなく、デリダ、ドゥルーズ、リオタール、クロソウスキーの発表のみを訳出し、それぞれに詳細に訳註と解説をつけた「日本語版」。中途半端なかなちで部分訳をされるより、なかば現代思想入門のようなスタイルを意識しながら、解説付きで公刊するというのも積極的な試みだと思う。解説、訳註共になかなか使い出があって、単に卒読するというより、あとあとまで利用したくなる一書。もちろん、本来原著に収められていたフィンクのものも読みたいなど、言い出せば切りがないが、これはこれで持っている価値はありそう。それにしても、解説の中で伝えられるデリダの質疑応答というものが何とも言えない。例えば、哲学的概念と詩的・隠喩的語りの対比をめぐって提起された、「詩から逃れたところには、概念の執拗な転用のほかに、何が残るのでしょう」という質問に対するデリダの答え。「それは、おそらく、残りでしょう」。こんなやり取りを会場はどのように受け止めたのだろうか。日本の学会なら失笑が漏れそう。そしてそれはおそらく正しい反応だと思う。


ノートカー・デア・ドイチェ『メルクリウスとフォロロギアの結婚』斎藤治之訳著(大学書林 1997)
 この書物はいろいろと説明が必要。標題のつけ方が誤解を招きやすいが、この書物の原著はマルティアヌス・カペラによるラテン語著作で、七自由学芸の基礎となったもの。その原著を10/11世紀のザンクト・ガレン修道院で、ノートケルが古高ドイツ語(アレマン方言)に翻訳している。本書はそのドイツ語原文を左頁、日本語訳を右頁に配した対訳。ただし、ノートケルの翻訳は、原著9巻のうちの2巻のみであり、本書の対訳で取り上げられているのは、さらにそのうちの三分の一ほど。古高ドイツ語の学習のための、詳細な語学的欄外註と、巻末に変化表までが付されていて、これで一応古高ドイツ語のあらましが分かる仕組みになっている。これで慣れておくと、エックハルトくらいは見当がつくようになるのだろうか。本書は語学的配慮もさることながら、何よりも著作の選択が好適。解説の中に、ライプニッツがやはりマルティアヌス・カペラに多大な関心をもっていて、出版を企画したことさえあるという一節があった。エイトン『ライプニッツの普遍計画』(工作舎)などには言及がなかったが、これは裏を取りたい。普遍学構想の中で、七自由学芸が統合されていくのはかなりスリリングである。もちろんその集大成はディドロ・ダランベールの『百科全書』だが。


渡辺裕『マーラーと世紀末ウィーン』(岩波書店:岩波現代文庫 2004)
 『文化史の中のマーラー』(筑摩書房 1990)の改題・再版。マーラーを世紀末の同時代環境の中から捉えようとする試み。いまとなってはそれほどの新鮮味はなく、一つ一つの主題もさほど掘り下げてあるわけではないので、マーラーの音楽をキッチュとして捉える本書の理解も、今となってはなかば常道化した感があり、特に目新しいことはない。しかし、従来の音楽伝統を縛っていたソナタ形式などの形態からマーラーがいかに逸脱しているかという問題を具体的に検証した最後の数章は興味深い。著者はそれを「音楽の論理の解体」、あるいは音楽の「ポスト・モダン」と呼ぶのだが、確かに交響曲第三番の第一楽章など、学生歌が朗々と鳴り響く主題となったり、途中で軍楽隊が通り過ぎたりと、相当に悪ふざけがひどい。カフカは朗読会で自作を読みながら爆笑していたというが、マーラーも大笑いしながらこんな曲を書いていたのではないだろうか。そんな破綻ぶりを、テンポの振幅という面から細かく追った最終章「ワルター神話を超えて」は一読の価値あり。交響曲第四番に関して、20種類くらいの演奏の各部分のテンポを一覧表にして比較するという力業。そんな単純な比較の中から、マーラー演奏のスタンダードと言われるワルターの演奏が、その実かなり古典的で伝統的な音楽観によっている「単調な」ものであり、テンポを大きく揺らして、悪い意味でロマン主義的と言われるメンゲルベルクがむしろマーラーの作品に忠実であるという点、さらに現代のインバルは、メンゲルベルクふうのロマン主義とは別の意図でまた大きくテンポを弄っているというような経緯が、かなり鮮やかに浮かび上がってくる。インバルのマーラー全集が欲しくなってくる。


M. Teeuwen, The Vocabulary of Intellectural Life in the Middle Ages, Brepols 2003
(ティーウェン『中世における知的生活の語彙集』)
 archivum(文庫), scriptorium(写字処), codex(冊子), glossa(辞典), disptatio(討論)などなど、中世の学問の世界を作り成した諸々の語彙がどの時代にどのように現れたかを追った一種の事典。200項目くらいで、全体として450頁ほどなので、一つ一つの項目は一頁から二頁程度なので、さほど詳しいわけではないが、いろいろと連想が拡がって、拾い読みするだけでも楽しい。それぞれの項目の参考文献を使いながらさらに展開すれば、中世の精神生活についての思想史が構想できそう。


 2004年

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