Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ
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佐藤信夫企画・佐々木健一監修『レトリック事典』(大修館書店 2006年)
日本語による本格的なレトリック事典。馴染みにくい修辞学用語を項目に立てていながら、その具体例はほとんど日本の文学作品から録っているという労作。なかなか日本語の術語として確立していない修辞学用語が、過去の日本語の事典・辞書類でどう訳されてきたかといったサンプルを用語毎に整理しているのも立派。例えば「列挙」という意味のenumelatio.「算列・詳悉・枚挙・列記・羅列・括叙」など、こんな訳語の「列挙」を見ているだけで、各訳者・編集者の苦労が偲ばれる。各項目も、単なる機械的な解説ではなく、読める事典として成立しているのも頼もしい。もちろん欧文からの総索引もあるので、修辞学関係の問題を考えるには、当座の指針となりそう。佐藤信夫氏が構想しながら、自身では果たせず亡くなってしまったので、その遺志を継いで佐々木氏らが完成させたという経緯も、なかなか清々しい。6500円という定価も納得できる線。
宮下誠『20世紀絵画 ―― モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書 2005年)
新書での20世紀美術史入門という体裁を取っているが、その内容はかなり野心的。抽象絵画のみならず、とりわけ東独の具象画が、20世紀美術の動向の中で論じられるのが新鮮。すでに触れた『迷走する音楽』と同一の著者だが、認識を改めた。「抽象」を論じる視点にしても、ヨーロッパ以外の文化(イスラム、ビザンツ、ロシア、エジプト)にとってはむしろ「抽象」という思考の方が優位にあり、ヨーロッパ絵画はその中では、古代ギリシアに発した「人間性」とキリスト教(人間=神)に依拠することできわめて特殊なポジションを占めているのだといった発想(150ページ)は、目から鱗が落ちるようなところがある。タイトルだけで売ろうとする、週刊誌の中吊り広告のような箸にも棒に掛からない新書が飛躍的に増大する一方で、新書に身をやつしたこうした野心的な試みが含まれているのも、いまの出版のシーンの特徴なのかもしれない。「選書」という古典的な入れ物が四苦八苦するなか、その出口が新書に向いているような気もする。
デリダ『名を救う ―― 否定神学をめぐる複数の声』小林康夫(?)・西山雄二訳(未来社 2005年)
否定神学に関するデリダのテクスト。否定神学の複数化ということから、このテクストそのものが疑似対話風に書かれている。しかし、ディオニュシオス・アレオパギテスやクザーヌスのテクスト、トマスの『神名論註解』を一度でも覗いたことのある人には、何の新味もないだろう。否定神学は一つの学説として総称できるものではなく、そこに複数のあり方が響きあっており、言語表現の可能性の限界を精査しようとしているのだといったことは、彼らの考えていることそのままで、解釈とも言えない。そもそも、複数的で体系化しえないものだから対話篇にする、あるいは言語的に表しえないから×印をつける(ハイデガーの「存在」の×印)などは、およそ哲学的訓練を受けたとは思えない幼稚さである。むしろ、ディオニュシオスとその註解を行ったトマス、さらにその影響を受けながら「知ある無知」という否定神学の特殊ヴァージョンを構想したクザーヌスなどを、「体系的」かつ「概念的」に語っていくことのほうが、よほど意味があると思えるのだが。ただしそうした点では、訳者のひとり西山雄二氏が書いた解説は立派。それに比べて、自分は何もしておらず、「名だけ救われた」とくだらないことを書いている小林康夫氏は情けない。
土井虎賀壽『生の祈願と否定の精神』(八雲書店 1948年)
京都学派の「異端児」土井虎賀壽の評論集。この土井氏、ニーチェの翻訳・紹介と並んで、ラスクの大部の翻訳、さらに仏典の「独訳(!)」までもこなした実に魅力的な思想家。それらが単に気ままに選ばれた主題ではなく、本人の中で内容的に繋がっているのだとしたら、その思想の射程は相当なものだと思う。そんな関心から、少しずつ土井氏のものを眺めている。この論集に収められた「思想の実體性について」は、西田幾多郎が谷崎の『春琴抄』について言ったとされる評言、「<人生如何に生くべきか>という問題が描かれていない」という桑原武夫伝の言葉に即して、それが実は文学に人生論を求めるとする通例の理解の逆を志向している点を描き出そうとしている。「人生如何に生くべきか」が欠如し、小説作品の内に生身の人間ではなく、「概念」が剥き出しになってしまう点を西田はむしろ積極的に評価したのだという、思いがけない結論を、ゲーテのミニヨンの描き方を引き合いにしながら導き出す。その感覚はまるでベンヤミンのよう。土井氏の内には、どうもただの「異端児」という評価には収まらない感性が光っているような気がするのだが。
宮下誠『迷走する音楽』(法律文化社 2004年)
現代音楽を論考とレコード批評を取り混ぜながら扱った一冊。法律文化社という、この手の書物としては珍しい版元から出たが、装幀がいかにも現代芸術的な雰囲気を漂わせていて、なかなか素敵。ただし書物としては、頁が開きにくかったり若干難がある。内容も丁度そういった感覚で、評論なのか、論考なのか、レコード批評なのかが判然とせず、読者としては戸惑ってしまう。現代音楽においては「大きな物語」が失効して、音そのものへと関心が集中するようになるというが大筋の流れ。「<遅い>演奏は基本的に<クレンペラー>と<非クレンペラー>という二つのカテゴリーに分けることができる」(p. 120)というのには笑ったが、言わんとすることは分からないでもない。あるいは音楽批評の中ではほとんど主題として扱われないティンパニの表現だけで一章を組んでみるなど、その野心は分かるのだが、叙述がいかにも散漫。これも「物語の死」(まさに「迷走する音楽」)の一つの表現というつもりかもしれないが、やはり書物の作りとしては納得しにくい。特にレコード批評の部分がゴチックで組んであるので、これがまた読みづらい。趣旨は共感できるので、同じ著者の『逸脱する絵画』は買い控えて、かわりに新書本でも読んでみようかと思う。
M. Heidegger, Geschichte der Philosophie von Thomas von Aquin bis Kant,
(Gesamtausgabe Bd. 23) Klostermann 2006
(ハイデガー『哲学史 ―― トマス・アクィナスからカントまで』)
マールブルク時代の講義で唯一未公刊だったものがついに全集23巻として公刊された。1926/27年という、まさに『存在と時間』を書いていた時期の講義で、しかも中世哲学を扱っているという点で、何が語られたのかと期待していたが、なんのことはない、ごく普通の「哲学史」だった。大学教師として、こういう普通の講義もやっていましたという感じ。細かく言い出せば、ハイデガーらしいところも見つかるが、全体像を塗り替えるようなものではない。やはりさすがに、『哲学への寄与』も出て、新資料の公刊といっても落ち穂拾いのような時期に入ってきたのかもしれない。
I. Ahion, et al.(eds.), Gods and Heroes of Classical Antiquity. Flammarion Iconographic Guids,
Flammarion 1994
(『古典古代における神々と英雄 ―― フラマリオン・図像学案内』)
図像学関係で、神々と英雄に限定した古代の図像事典。原本はフランス語で、比較的定評のあるものらしい。各頁3点から5点くらいのペースで図像資料が紹介されているので、それなりの情報量ではある。しかし図版の選択が魅力に乏しく、期待外れの項目も多い。オルフェウスやピグマリオンといった有名なもの(エピソードの派手なもの)にその傾向が顕著で、こういったものに付された図像がなぜが不思議と陳腐。ついついもう少し他の図像はなかったのかと思ってしまうことがしばし。
A. Aurnhammer, et al. (Hgg.), Documenta Mnemonica I, 1: Gedächtnislehren und Gedächtniskünste in Antike und Frühmittelalter [5. Jahrhundert v. Chr. bids 9. Jahrhundert n. Chr.], 1440-1750,
Max Niemeyer 2003
(アウルンハンマー他編『記憶術論集 I, 1:記憶理論と記憶術 I, 1 ―― 古代および初期中世』)
以前紹介したFrühe Neuzeit(初期近代)のシリーズ(第79巻)。記憶術をめぐる理論と実践のテクストを、ギリシア語・ラテン語原典と独訳で対訳にしたもの。古代から中世初期までの有名なテクストのアンソロジー。プラトン、アリストテレスから始まり、クィンティリアヌス、アフロディシアスのアレクサンドロス(アリストテレスのテクスト編纂で有名な人)、アウグスティヌス、ベーダ、アルクイヌス、エリウゲナといったところ。序文をみると、すでにDocumenta Mnemonica II が公刊されているらしく、これが近代初期を扱っている模様。これは手に入れないと。
W. J. Hanegraaff (ed.), Dictionary of Gnosis & Western Esotericism,
Brill 2006
(ハーネグラーフ編『グノーシス事典 ―― ヨーロッパの秘教』)
グノーシス主義を含め、ヨーロッパ異端を総覧する2段組1000頁以上の事典。善し悪しはしばらく使ってみないと分からないが、カタリ派やボゴミル派などを含め、グノーシス主義を全体的に抑えるには願ってもない事典。周辺の問題として、「動物磁気」や「パラケルスス」、「記憶術」など、一般の哲学・宗教事典では肩身の狭い思いをしていた項目がここでは主役。「アウグスティヌス」などはグノーシスやマニ教のソースとしてのみ扱われている。この種の異端は、面白可笑しく書かれてしまうことが多く、信頼の置けるものを探すのが難しいが、こうしてかのBrillが事典として編集し、参考文献なども項目ごとに挙げられているので、何を調べればよいのかのガイダンスとして大変に心強い。2万円ほどと、値が張るのが玉に瑕だが。
岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎 ―― 彼はいかにして或る種の本を書いたか』(国書刊行会 1998年)
日本語で書き下ろされた数少ないルーセル論。さまざまな機会に書かれたものを集めたという面があって、繰り返しも多いが、それなりに愉しめる。副題は、ルーセル自身の遺著(死後公開の著作)『私はいかにして或る種の本を書いたか』を踏まえている。それにしても、ブルトンら、シュールレアリストから熱い尊敬を受けながら、彼自身はひたすらオペレッタに入れ揚げ、崇拝する作家といえばジュール・ヴェルヌという、そのアンバランスさが何よりも面白い。自意識過剰な現代文学の中の清涼剤のようだが、それによって生み出された作品が、『ロクス・ソルス』や『アフリカの印象』であるのが、また不思議である。ちなみに、外界に無関心なルーセルの逸話としてこんなことが紹介されていた。「彼は晩年、特殊なキャンピング・カーを作らせ、それに乗ってあちこち旅したが、……風景には何の関心も示さず、火除けを下ろしたまま、車内でひたすら読書を続けたという」(P. 232)。まさにルーセルの面目躍如といったところ。
G・ディティ=ユベルマン『残存するイメージ ―― アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』竹内孝宏・水野千依訳(人文書院 2005年)
700頁を超す大冊。ヴァールブルクの仕事を「残存」、「幽霊」といったキーワードで語っていくきわめて魅力的な大著。「イコノロジー」を美術史の「方法」としたザクスルやパノフスキーから、ヴァールブルクを奪還する試み。イコノロジーを一個の方法論に仕立てたとき、イメージの力動性やダイナミズムを捉えようとしたヴァールブルクの野心は捩じ曲げられてしまった。著者は、ニーチェ・フロイト的な感覚によって再びヴァールブルクのイメージの力動論を発掘しようとしている。そのため、精神を病んだヴァールブルクをクロイツリンゲンで診察したビンスヴァンガーとの交流が丹念に考察されている。カッシーラーとの関係なども丁寧に押さえられたうえで、カッシーラーのカント的なアプローチが最終的にはヴァールブルクの試みを歪めかねない点なども明確に指摘されている。さらには、カッシーラーの内部で、カント的な要素が脅かされる「プレグナンツ」といった思想にも触れられており、論旨は実に丁寧。
何よりも訳が素晴らしい。さまざまな造語を、自然さとそれなりの違和感とが調和したかたちで編み出していった訳者の力量は大したものだと思う。人名索引には簡単な解説がつき、全体の解題を田中純氏が寄せるなど、書物作りとしてできる限りのことはしてある点も好感がもてる。註が使いづらいが、これだけの分量の註になると、どう工夫してもそれは避けがたいところかとも思う。ヴァールブルク論としてはまず必見といったところ。あるいはニーチェ論として読むことさえできるかもしれない。
曽田長人『人文主義と国民形成 ―― 19世紀ドイツの古典教養』(知泉書館)
ドイツの新人文主義とドイツの国家形成を論じた大冊。ヴォルフなどのドイツ文献学を始め、ベック(本書では「ベーク」と表記。なぜ?)とヘルマンの論争など、邦文ではなかなか類書がない記述をおこなっている。ただし、事柄としてはさほど難しい問題ではなく、事は歴史的事実に関わることであるはずなのに、全体が妙に読みづらい。難解な文章というわけではないのだが、繰り返しが多く、その叙述が整理しきれていない印象が残る。新人文主義の最後にニーチェに関する一章を設けるなど、かなり斬新な点もあるのだが、その意味合いがもう一つ伝わってこない。叙述のメリハリがないなど、やはりこれは学位論文というものの性格が反映してしまっているのかもしれない。もう少し、叙述にはっきりしたラインが浮き出るようにしてもらいたかった。
フラウィウス・ヨゼフス『ユダヤ古代誌』秦剛平訳(全6巻、ちくま学芸文庫 1999年)
かつて山本書店から公刊されていた原本の普及版。本文は全編収録されているが、註が省かれている。訳者は、同じくヨゼフスの『ユダヤ戦記』(同じく、ちくま学芸文庫に収録)やエウセビオス『教会史』(山本書店)など、大部の古典を訳している立派な方。今回の『ユダヤ古代誌』のちくま学芸文庫版は、山本書店の学術的なアプローチと異なり、本文を通して読めるようにという原則に貫かれている。山本書店版は、原本にない言葉を〔 〕で区別して挿入するという、古典の翻訳によく見られるスタイルを取っていたが、今回はそうした補足も訳者の判断でそのまま原文に組み込んでいる。固有名詞表記も、山本書店版はギシリア語原典の原音重視(例えば、アブラハムがアブラモス)だが、今回は通例の表記で通している。山本書店版が研究者向け、ちくま学芸文庫版が一般読者向けという明確な相違が出たわけで、一つの原典に対してこうした二つのアプローチで翻訳が出せるというのは理想だろう(そうそう可能なわけでないが)。なお、この『ユダヤ古代誌』は、すでに第一巻が入手困難になっていて、古書店で入手。残り5巻を大急ぎで発注した。ちくま学芸文庫の大きなセットもの古典はとにかく早く入手すべきという教訓。
川口洋『キリスト教用語独和小辞典』(同学社 1996年)
このような辞典が出ているとは知らなかった。使用する人はきわめて限られているとは思うが、翻訳にとっては常に頭の痛い問題だけにありがたい。400頁に満たない小さな辞典ではあるが、キリスト教関係の用語が集められている。語句の説明がただの翻訳ではなく、内容的な解説を含むので、気の向くままに読んでいても結構面白い。
岡田温司『芸術(アルス)と生政治(ビオス) ―― 現代思想の問題圏』(平凡社 2006年)
美術史・現代思想の分野で、翻訳・著述と大活躍の岡田氏の新刊。フーコーの「生政治」の議論を核として、近代初頭の美学上の議論を政治・医学との平行関係の中で論じていく刺戟的な論考集。絵画の修復が身体の治療との平行で、観相学における議論が、芸術における身体と法学(とりわけ犯罪学)における身体との平行で論じられる。観相学は、性格の表現として、美学の中の人物描写に用いられると同時に、精神の正常・異常を弁別するための解剖学、あるいは人種の判別のための手段として用いられるさまが一繋がりに見えてくる。観相学が建築のファサードの記述に用いられるという指摘は予想外だった。芸術を「有機体」として語る、まさに生と芸術の共謀をかたどる言説に関しても、その歴史的変遷とともに検証がなされて興味深い。著者は現在の「オートポイエーシス」の議論などに、ふたたび有機体のメタファーが復権しているさまを見ている一方で、有機的な結合を拒むベンヤミンなどへの共感も伺えて、その両義性が魅力的。さまざまな主題を一挙に理論化してしまわずに両義性のままに留めおくというのがこの著者の特質のように思える。ただそれが時とすると、事実の列挙に流れて叙述が単調になる部分があるのが、欠点といえば欠点だろうか。
麻生建・黒崎政男・小田部胤久・山内志朗『羅独ー独羅学術語語彙辞典』(哲学書房 1989年)
近世初期のラテン語とドイツ語の哲学用語を対比した貴重な辞典。明治期の日本人がヨーロッパの学術用語を翻訳し、場合によっては漢語の造語を作っていったのと同様のことが、17・18世紀のドイツでなされていた。ドイツ語はラテン系の言語ではないので、ラテン語を簡単に自国語と対照できるフランス語やイタリア語とは違った苦労があったわけだ。この辞典はそうしたラテン語ードイツ語の対応を双方から検索できるようにした労作。例えば、intelligibile(可知的)というラテン語一つにも、ドイツ語ではbegreiflich(概念把握可能), immateriell(非物質的), verständlich(理解可能)など、複数の訳語が並ぶ。いま、近世初頭に関する翻訳作業をしているので、思い立って入手した。古書店で手に入れたのだが、これにはなんと献本のスリットが入っていた。曰く、「謹呈 廣松渉先生 ―― 黒崎政男・山内志朗」。廣松渉旧蔵本が遺族によって売りに出されたのだろう。ちなみに使われた形跡は一切なく、ほぼ新本の状態だった。
J. J. Berns, W. Neuber (Hgg.), Ars memorativa. Zur kulturgeschichtlichen Bedeutung der Gedächtniskunst 1440-1750,
Max Niemeyer 1993
(ベルンス・ノイバー編『記憶術 ―― 1440-1750年の記憶術の文化史的意義』)
イエイツ以降の記憶術に関する論文集。ニーマイアーからシリーズで出されている「初期近代」という叢書の一冊、本書はその第15巻。このシリーズの最新巻はHeterodoxie in der Frühen Neuzeit(初期近代における異端)。すでにこれで117巻目となっている。遅まきながら知ったので、全体の書目を確認したい。
A. Henkel, A. Schöne (Hgg.), Emblemata. Handbuch zur Sinnbildkunst des XVI. und XVII. Jahrhunderts,
J. B. Metzler 1996
(ヘンケル・シェーネ編『エンブレム集 ―― 十六・十七世紀の図像芸術の手引き』)
1976年に初版が出て、この分野では有名な著作。しかしかなり高価だったために手が出なかったが、ありがたいことにTaschenbuch版が出た。1800頁にわたって、各頁に図版が2点から3点掲載されている。16/17世紀の38人の著者による47のエンブレム・ブックから4000点の図像が取られ、そのうちの2250点は初版から図像を復刻したとのこと。とはいえ図版そのものが小さく、物によっては黒く潰れてしまっているという難点はあるが、これだけ大部のエンブレム辞典は実にありがたい。索引は、エンブレムに付されたモットーの索引、図像の索引、意味(象徴内容)の索引といった三本立て。こうでないとエンブレム辞典は役に立たない。Taschenbuch(ポケット版)とはいっても、厚紙表紙で、判型もA5版2000頁、紙質もアート紙なので、かなり重たいのが欠点。
木村三郎『名画を読み解くアトリビュート』(淡交社 2002年)
日本語で読めるエンブレム辞典。「アトリビュート」とは、寓意画の中に用いられる道具立て。「天秤」は「公正」を表し、「砂時計」は「時間」を表すといった具合。それほど大部のものではないが、索引の付け方などは本格的だし、図版の印刷も綺麗なうえ、何よりも参考文献表が素晴らしい。
O. Müller, Sorge um die Vernunft. Hans Blumenbergs phänomenologische Anthropologie,
Mentis 2005
(ミュラー『理性への配慮 ―― ハンス・ブルーメンベルクの現象学的人間学』)
このところ、ブルーメンベルクもその全体像を論じる研究書が多くなってきた。タイトルに見られる「憂慮」(Sorge)なども、キーワードの一つ。あれだけ大規模な思想史を構想したブルーメンベルクの影響源として、ハイデガーがかなり大きな役割を果たしているということが見えてくる。もちろん、ブルーメンベルクのフィールドは、ハイデガーがあまりにも易々と跳び越えてしまう中世末期の微妙な機微だったりするわけだが。
水垣渉・小高毅『キリスト論論争史』(日本キリスト教団出版局 2003年)
ニカイア公会議の「同一本質」論から、東方での「テオトコス」論、宗教改革から近代プロテスタントのキリスト論、20世紀のバルト、ブルトマンなど、550頁に及ぶ大著。基本的には史料集という性格をもち、原典の翻訳抜粋を収めているので、かなり貴重なもの。日本のキリスト教理解の中で意外と欠落しているこうした教義の原理的側面が日本語で読めるのはありがたい。デンツィンガーの公会議史の他には邦語で類書がないという意味でも存在意義は大きいのでは。
『西田幾多郎全集』第17・18巻(岩波書店 2005年)
新版『西田幾多郎全集』も先が見えてきた。後半に入ってのこの二巻は「日記」。新版全集は、文字遣いを現代風に改め、出典註・校訂を加えた点を特徴としている。正直なところ、これだけだとあまり大きな魅力とは言いにくいが、この「日記」の巻は、巻末に膨大な人名解説がついた。西田の「日記」に登場する人物に関する相当に詳しい解説的索引で、この部分だけで80頁以上に及ぶ。『物語 京都学派』の著者である竹田篤司氏ならではの仕事ぶり。竹田氏が17巻公刊の後に亡くなられたのは残念(しかし、18巻の作業もおおむね終わっていたらしく、18巻も同様の人名註が付されている)。
2005年
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