言説的出来事の場


   歴史における連続性を拒否することは、これまでさまざまなかたちで当然のこととみなされていたある種の想定を覆すことになる。それは領域・分野の連続性、学説の連続性への信憑、あるいは最も微小で最も強固なものとして、一人の思想家・著者の連続性に対する臆見である。文学史や思想史を規定してきた一連の操作がここではまず一旦棚上げにされなければならない。大きくは、例えば「ルネサンス思想史」であるとか、「…主義の歴史」といったたぐいがそれである。「…思想」や「…主義」なるものが、領域としてあらかじめ存在するように前提したうえでその変化を論じるというのでは、既成の枠組みを強化し確証するだけのことであって、そこから何か新しいことが見えてくるわけではない。

 しかし、既存の思想史といえども、「…主義」といった名称を新たに作り出し、その歴史を語ろうとしたその最初の段階では、おそらく思想的にきわめて創造的な作業を行っていたはずである。例えば、美術史の分野での、「マニエリスム」という概念の創造などを考えてみてはどうだろうか。ルネサンスとバロックのあいだに、何かそれら両者に汲みつくせないような美術的感性を嗅ぎ取り、そうした新たな感性を確認するために、実証的な手続きを踏み、一つの様式としての「マニエリスム」概念を確立していくというのは、従来の美術史に見られなかった、ある種の未知の感性を導入することでもあっただろう。こうした場面では、フーコーがすでに指摘している三種の「非連続性」が機能していたものと考えれられる。つまりは、ルネサンスとバロックに入りきらない独自の感性の発見(第一の非連続性)、具体的・実証的操作を裏づけとした「マニエリスム」の発見(第二の非連続性)、美術史の中への新たな感性の導入(第三の非連続性)という具合である。つまり、歴史記述が、既存の歴史観の追認ではなく、創造的な思考の営みであるべきなら、こうした非連続性の思考はかならずどこかで機能しているはずなのである。「非連続性の概念は、たんに歴史学の言説のなかに現存している概念であるというだけでなく、歴史学の言説のほうで密かにそれを前提している」(p. 104)と言われるのはそのためだろう。

 歴史の「時代」概念からは、非連続性の思考が比較的容易に看て取れるが、同じようなことが、歴史上に展開される各分野、各領域に関しても考えられなければならない。「マニエリスム」という時代概念にとっては、「美術史」というものがある種の上位概念のようになっているが、この「美術史」という枠組み自体も、他の領域との区別によって初めて生じるものであり、それ自体が不動の範疇として固定されているわけではない。しかも、「…史」という見方は確かに便利なツールではあるが、それは逆に、われわれの視野狭窄を惹き起こすものともなる。とりわけ、分野の境界領域に当るようなところでは、分野の垣根に邪魔をされて、物事がよく見えなくなるということは、われわれのしばしば経験するところである。例えば、ボエティウス『哲学の慰め』を扱うのは、哲学史なのか文学史なのか、あるいは寓意を多く含んだその影響史はむしろ美術史の領域ではないのかといった問題が、そこでは頻繁に生じてしまうのである。このような事実を一例としても、「…史」という見方自体が十分に恣意的であるということが見えてくる。「こうした区分それ自体が、反省的なカテゴリー、分類の原理、規範的な規則、制度化されたタイプであることをよく自覚しなくてはならない」(p. 108)。

 そのように考えるなら、われわれが素朴に前提してしまいがちな最後の連続性、つまり著者や思想家の連続性・一貫性というものも疑わしくなってくる。それどころか、「作品」という統一体さえ、あらかじめ前提することはできないということにもなるだろう。言説がどこで区切られ、どこで何と繋がっているかは、その事実上の存在形態から推し量ることはできないのである。一つの「作品」として発表されたものも、その中には無数の亀裂が走り、あるいは作品を超えた無数の言説と繋がり合っている可能性があるからだ。「いかなる本もそれ自身では存在できない。……一冊の本はネットワークのなかのひとつの点であり、明示的であるにせよないにせよ、他の諸々の本、他の諸々のテクスト、他の諸々の文へと送り返す参照指示のシステムを備えている」(p. 108)。

 ここから一挙に、「作者の死」を語ることもできるだろう。しかしここでは、ある程度慎重でなければならない。言説のネットワークとしての作品という見解から導き出されるのは、作者の不在に関する積極的な主張ではなく、むしろ「作者」なるものも、「時代」や「学問分野」と同じく、構成されたものだという結論である。われわれはもちろん、アルトー全集なり、カント全集なりを作ることはできる。そこには、その著者が発表した刊行物だけでなく、手紙類、のちには破棄するはずだった日常の書きつけなどの断簡零墨類も収められることになるだろう。しかし、この全集作成あるいはその読解という作業の中で、われわれは、同一の主体に由来しながら、さまざまな局面で多彩な現れ方をする同一の「精神」に触れているわけではない。むしろ、全集とは「作者」という言表の総体を作為的に構成した集合体なのである。その内部にはさまざまな緊張が生じ、葛藤すらが起こりうる言説の統一を、「作者」という切断で切り取ってみせるというのが、ここでなされる作業なのだ。それはちょうど、ある時代の、ある傾向の言説をひたすら蒐め収蔵するというのと同じことである。ある時代の文書を蒐集する際に、そこにかならずしも「時代精神」なるものを想定する必要がないのと同様に、ある作家の全集作成の際にも、作者の「人格」や「主体」というものを前提する必要はない。ただそこには、カントならカント、アルトーならアルトーと呼ばれる、言説の活動体が存在したという想定だけで十分なのである。(この問題は、かつて「作者の意図」などをめぐって掲示板過去ログ後半部分参照〕にてなされた議論にも重なっている)

 こうして、言説についてのフーコーの分析は、言説の背後にある「思考」の分析とは区別される。「言表それ自身を超えて、語る主体の意図、かれの意識的活動、かれが言おうとしたこと、あるいはまた、かれが述べたことやかれの顕在的な言葉のほとんど知覚しえない割れ目のなかに姿をあらわした無意識の作用などを見いだそうとするやり方」(p. 113)が拒絶されるのだ。こうして、一切の人間主義が棚上げされるだけでなく、「思考」や「精神」を根柢に据えるドイツ流の「思想史」、「精神史」、あるいはその20世紀版である「解釈学」との距離が定められる。言表を、それを発した潜在的な主体の内面に遡って解釈し、それによって総合的な理解を獲得するということが目指されるのではなく、むしろある「思考」を独自なものにしているその非連続性を、顕在的な言表そのもののから提示することが問題になる。「なぜその言表がそれ以外ではありえなかったか、どのような点においてその言表が他のすべての〔言表との〕排除的関係にあるのか、その言表が、他の言表たちの間で他の言表たちとの関わりにおいて、他のいかなる言表も占めることのできない場所をもつのはどのようにしてなのか、を示さねばならないのである」(p. 113)。

 このようにフーコー的な考古学は、「思考」の歴史、ないし精神史から区別される一方で、「言語」の分析からも区別される。言述とは、同時に一つの出来事でもあり、いわゆる「言語」(ラング)の形式的な法則性とは異なっている。言語の分析の場合は、有限な語から無限の文を作り出す特定の規則性が問題となり、一貫した法則性というものが分析の最重要課題になるのに対して(チョムスキー的な生成文法を想起しよう)、フーコーの考古学で鍵を握るのは「相互排除」の関係である。つまりここでは、「このような言表が出現した、しかも、他のいかなる言表もその代わりには出現しなかったのは、どのようなわけなのか」(p. 112s.)が問われることになる。言語の分析が、可能条件という伝統的な思考に乗っているのに対して、言表の分析は、「排除」という「非連続性」の関係を中心に据えるのである。

 そこで、こうした「排除」の関係によって切断され、区切られるひとまとまりの言表とその規則が「古文書=記録態(アルシーヴ)」と呼ばれる。「私は、古文書=記録態(アルシーヴ)という言葉で、ひとつの文明によって保存されてきたテクストの全体をではなく、また人びとが災厄から救い出すことができた痕跡の総体をでもなく、ひとつの文化において、言表の出現と消失を決定づけ、言表の残存と消去を決め、出来事にして物であるという言表の逆説的な存在を規定している規則のゲームを呼ぶことにする」(p. 116)。この「古文書=記録態(アルシーヴ)」こそが、「知の考古学」の対象なのである。


 ご意見・討論は掲示板「口舌の徒のために」へお願いします   
 Scriptorium top
 HOME