蒐 書 記

Libris novitas lenocinatur 新奇さは書物に魅力を與ふ

New 12/18更新

E. Ellis, C. Seebohm, Ch. S. Sykes, Mit Büchern leben. Buchliebhaber und ihre Bibliotheken, Gerstenberg Verlag: Hildesheim 1995 (7. Aufl. 2008)
(『書冊らとともに生きる ―― 愛書家たちとその蔵書』)

 原著は英語(At Home with Books)。実に個性的な約50名の個人蔵書(一般に公開しているものもあるようだが)とその書斎。基本的に個人の蔵書なので、単に大量の書物があるというだけでなく、インテリアのセンスを始め、主人の個性が強烈に窺えるし、適度な生活感も面白い。大量のカラー写真で構成されているが、気軽なエセーも添えられていて愉しめる。各章の標題もBezaubernde Bücherlandschaften(魅了する書冊の風景)やら、Raumumschliessende Regale(空間を囲む書棚たち〔「四面書架」といったところか〕)、Bücherhölen(書籍の洞窟)、Häusliche Leseinseln(部屋の中の読書の島)など、やはり書斎を語るには、「島」や「洞窟」という比喩が好まれるらしい。デュラスが序文を書いているDichter und ihre Häuser, Knesebeck: München 1994(文学者とその住い』)(原著フランス語)も、書斎の写真集・エセー集として面白い。こちらは、ユルスナール、ヴァージニア・ウルフ、ヘッセ、ヘミングウェイなど、超一級の人々の書斎や家の写真で、これもかなり愉しめる(ダヌンツィオの寝室など、キッチュなることラブホテルのごとし)。最近、エーコが序文を寄せたC. Höfer, Bibliotheken, Schirmer/Mosel 2005(『図書館』)が一部で話題になっていたようだが、これはエーコの短文を除けば、完全に写真集。各国の公立図書館が被写体なので、書物の量は圧倒的。閲覧室ともども、かなり威圧的な雰囲気を漂わせる。お国柄や歴史の違いなどもあって、それぞれに個性的ではあるのだが、あくまでも公共の施設なので、その幅には多少制限がある。大量の写真を眺めていると、段々どれも同じように見えてくる。『書冊らとともに生きる』が牧歌的で個人的な「知の工房」だとすると、こちらは生産と効率をめざす「知の工場」といったところか。私はそもそも図書館という施設を好まないので(本を借りることはあっても、そこで読むことはない)、お薦めするなら、断然『書冊らとともに生きる』のほう。 ( → Books)


11/18更新

M. Wald, Welterkenntnis aus Musik: Athanasius Kirchers "Musurgia universalis" und die Universalwissenschaft im 17. Jahrhunderts, Kassel etc.: Bärenreiter 2006
(ヴァルト『音楽による世界認識 ―― アタナシウス・キルヒャー<普遍音楽>と十七世紀普遍学』)

 キルヒャーの『普遍音楽』を、十七世紀の普遍学構想の文脈の下で理解する試み。これを見ると、キルヒャーの音楽論がいかにルネサンス的な万物照応の世界観を体現し、十七世紀にあってもなおも「宇宙の音楽」の理念を展開し続けたものであったかが理解できる。音楽における協和・不協和の緊張に満ちた共存を、クザーヌス的な「対立物の一致」によって理解するあたり、その音楽論が同時にきわめて思弁的なものであったことが伺える。それは同時に、光と闇を激しくぶつかり合わせたバロックの絵画にも通じるものである(本書でも、一ヶ所カラヴァッジョへの言及がある)。本書は、楽譜出版で有名なベーレンライター社で刊行されているのも面白い。ちなみに同じベーレンライター社では、本書と前後して、この著者ヴァルトの編集によって、キルヒャーの『普遍音楽』のドイツ語版(1662年版)のリプリントが出されている。これも入手したが、髭文字の小型本の復刻だが、それほど読みにくくはない。( → II-2)


8/17更新

ケールマン『世界の測量 ―― ガウスとフンボルトの物語』瀬川祐司訳(三修社 2008年)

 副題の通り、数学者ガウスと探検家フンボルト(弟)を主題とした「小説」。『ダ・ヴィンチ・コード』などと並んで世界のベストセラーになったとか。18世紀後半の知的状況を踏まえながら、ガウスの数学上・天文学上の業績やフンボルトの探検の様子を物語として語っていく。その情報はかなり正確で位置づけも的確だが、「小説」としてそれほど面白いかどうかは疑問。ほぼ終わり近くで、フンボルトが『コスモス』(ただし小説の中では、書名は明示されていない)を書く決心を語ったくだり。「……とてつもない本を書こう。世界のすべての事実が、たった一冊に収められているな。……全宇宙について語っているが、誤謬や想像、夢や曖昧なことをいっさい含んでいない書物」(318頁)。それに続けて、語られるガウスとの対比が印象的。「しかし、……ガウスはいまこの瞬間も望遠鏡で天体を見ているだろう、そしてその軌道を単純な公式で把握できるのだろうと考えたとき、もはやフンボルトには、ガウスと自分のどちらが旅をしてきた者であり、どちらがずっと家にいたのかわからなくなっていた」(同上)。実証的な探検の時代が去り、抽象的・数学的理解に取って代わる境目をそれとなく語っている。( → II-2)


7/21更新

ベルマン『他者という試練 ―― ロマン主義ドイツの文化と翻訳』藤田省一訳(みすず書房 2008年)

 ハイデガーのヘルダーリン論から取られた「他者という試練」の語を標題とする「翻訳学」の提唱。ドイツでもすでに論集『翻訳と脱構築』(A. Hirsch [Hg.], Übersetzung und Dekonstruktion, Suhrkamp 1987)が出ていたように、ここ十年来「ベンヤミン産業」の一環として翻訳論が盛んになってきたが、本書の著者ベルマンは、それらの動向と平行して、メショニックを継承するフランス系の議論を踏まえている。とはいえ、かならずしも「現代思想色」を全面に推し出すというよりは、翻訳をめぐるドイツ文化史の状況を丹念に追っている。思えばドイツ文化は、ルターの聖書翻訳から始まり、ゲーテの「世界文学」の理念、シュレーゲルのシェイクスピア翻訳、ヘルダーリンのギリシア翻訳など、翻訳とは切っても切れない関係にある。これまで「翻訳」という観点から本格的なドイツ文学史が書かれていないことが不思議なくらいである。ベルマンは、「他者を介しての自己認識」というドイツ的「教養」(Bildung)の系譜と、ドイツ人文主義やロマン派による言語理論とを突き合わせ、文学的かつ哲学的な翻訳論を展開していく。同時代の翻訳を他者との対話的関係として重視するゲーテや、翻訳を言語に対する反省的契機と理解するロマン派など、引用も豊富に丁寧な論が展開される。
 ただしその方向はやはり大きくベンヤミンから規定されていて、ヘルダーリンの逐語的ソフォクレス翻訳を翻訳論の頂点にもってくるその論旨も、おおむね最初から想像できるものではある。ヘルダーリンの翻訳は、ロマン派が主張するモノローグ的な反省の累乗化ではなく、作品の生成そのものを経験させる点で、翻訳の運動を具現するものと理解されるのである。「ただ翻訳の運動だけが、原典において繰り広げられていた闘争を出現させうる……。その闘争がひとまず収斂した均衡、それこそが翻訳なのである」(350頁)。「翻訳はこうして節度と適度、融合と文化とが衝突しあうひとつの場所として立ち現れる ―― 危険が待ち受ける場所として、だが同時に豊饒の期待される場所として」(352頁)。まさにニーチェの『悲劇の誕生』の図式である。前出のヤンポリスキー『隠喩・神話・事実性』の文献学の議論などをここに取り込むと、さらに生産的な展開が予想できそう。また、翻訳とドイツ語という点では、例えばエックハルトなどを主題に、ラテン語とドイツ語の交差を考察するという方向も考えられそうだ。
 いずれにしても、本書で考えられているのは、あくまでも「翻訳可能性」であるという点は押さえておかなければならないだろう。現代思想の中には、やたらと「ディスコミュニケーション」や「翻訳不可能性」を強調する趨勢があるが、そうした姿勢はともすると思考の放棄に繋がりかねない。事実的な翻訳不可能性に対して、超越論的な翻訳可能性とでも言うべきものが考えられなければならないだろう。「翻訳」という活動には、差異と同一性を対立させるのでなく、むしろ両者のあいだの運動を、弁証法とは異なった仕方で考えさせるモデルが見出せるのではないだろうか。
 本書はそうした「翻訳学」のマニフェストとして、具体的な引用も多く、いろいろなことを考えさせられる好著。加えて、何よりもこの著書の翻訳そのものが、「翻訳学」を論じる本書に相応しく、実に優れたものになっている。それぞれの章毎に、原註の他にかなりの量の訳註が付されている。しかもこの訳註が、単に辞書を引き写したような人名解説などではなく、著者と張り合いながら、それを内容的にも補足・展開していくような見事な註解になっている。もちろん、こういう性質の訳註になると、ある程度訳者の好みのようなものが反映するのはやむを得ないことだが、それにしてもこれほど質の高い訳註を見るのは久し振りである。原註の中にもさりげなく訳註が差し挟まれており、引用の出典の多くのものには、引用個所の前後の文脈をさりげなく説明していたりと、心憎い処置を行っている。訳者の実力の並大抵でないことが伺える。訳註という仕事の一つの模範を見せられたような気がする。( → II-3)


7/17更新

ヤンポリスキー『隠喩・神話・事実性』平松潤奈・乗松享平・畠山宗明訳(水声社 2007年)

 ロシアのポスト記号論を代表するヤンポリスキーの日本講演集。ロシア・フォルマリズムの伝統を踏まえながら、現代フランス思想を取り入れて、創造的な思考を展開している。前出の現代イタリア思想もそうだが、現代思想は、ドイツ・フランスからやや距離のあるところで豊かな展開を始めているにも見える。これまでの思想の主流からするとむしろ辺境にも見えるような地域が、ハイデガーやヘーゲルを独自に取り込んで思弁性を深めていったフランス思想に加え、新歴史主義やニュー・アート・ヒストリーなどの成果を取り込んで、かなり自由な思考を展開しているような印象がある。本書のヤンポリスキーの講演も、そうした思考の一例のようだ。「ストア派のいう非物体的な存在者は、実存しない対象に関するアレクシウス・マイノングの理論において復活し、ドゥルーズの『意味の論理学』のなかでよみがえる。観念的な本質が地平から消えゆくにつれ、世界は事実と出来事の世界へと変容しはじめたが、その出来事の事実性は意味と不可分だ」(17頁)。明らかに『意味の論理学』の圏内にある魅力的な見通しである。
 第一講演の「隠喩・神話・事実性」では、神話理解という点に絡めて、カッシーラーとハイデガーの論争が言及され、記号と現実性との一致を象徴として捉えるカッシーラーと、あくまでも意味から独立した存在に固執するハイデガーとが対比されている。第二講演「文献学化」は、「文献学」が元々は意味の統一に逆らい、無理解(非理解)を肯定するという前提から出発する。「この学問が志向するのは、ロゴスの物質性やロゴスの顕現のみであって、ロゴスの意味ではない」(73頁)。本来は哲学と背馳する文献学は、その後アスト、シュライエルマッハー以降、文献学と神学が結託することで近代の解釈学へと姿を変え、これがディルタイなどを通して、現代ドイツ哲学に流入する。こうした流れに対しては、シュレーゲル、ニーチェに見られる非理解の解釈学が、本来の文献学を継承するものとして対置され、言語の物質性、媒体性を強調することで、ラディカルな文献学の復興が予感される。それは考えてみると、ヘルダーリンの意図した「翻訳」、ベンヤミンの翻訳論などとも接する論点のように思える。
 本書では、巻末に訳者をも交えた鼎談が収録され、これもなかなか面白い。紹介されることの少ないロシア現代思想の詳細な事情を自由かつ詳細に語っていて感心する。尤も、下記の『イタリア現代思想への招待』にも通じて、事情通同士の世間話のような閉じた性格も拭い切れないが、鼎談という形式のために、それもあまり気にならない。確かにこうしたものでも収録しないと、一冊としての体をなさないという事情もあるだろうが、いろいろと手のかかった楽しい論集になっている。( → II-3)


7/10更新

岡田温司『イタリア現代思想への招待』(講談社 2008年)

 なんとも評価しにくい書物。著者の岡田氏は、アガンベン『スタンツェ』『開かれ』やテヴォー『不実なる鏡』、マイオリーノ『コルヌコピアの精神』など、現代思想・美学の翻訳(ほとんどが共訳であるが)や、『芸術と生政治』などの著書、さらには中公新書の数冊によって、その実力は疑う余地がない。しかし、期待が大きかっただけに、本書はいささか当てが外れたような思いが強くなる。情報量は圧倒的で、その位置づけも的確なのだが、肝心の思想的な意味が掘り下げられていない憾みがある。紙幅の制約というよりは、やはり書き振りの問題だろう。個々の問題や思想を矢印やラインだけで結んだ剥き出しのチャートを見せられているような味気なさがある。データが豊富なので、通読するよりカタログとして利用すべきなのかもしれないが、それにしては文献表も索引も付されていない(この種の書物としては大きな欠陥と言わざるをえない)。大量に紹介される書目も、読書欲を掻き立てることなく、淡々と流れて行ってしまう。これだけ美味しい(はずの)書目が列挙されていても、すぐに注文しようという気が起こらないのはどうにも不思議である。著者には、カッチャーリ『必要なる天使』やアガンベン『中身のない人間』に見事な「あとがき」があるので、むしろ直前に取り上げた梅木達郎『支配なき公共性』のように、「あとがき」類をまとめたうえで加筆し、それに例えば本書の第一章のような見取図を加えるかたちで編集されたら、もう少しメリハリのある紹介になったように思える。
 かつて、近藤恒一『ルネサンス論の試み』(創文社 1985)に、イタリア哲学の紹介があったが、日本語ではなかなかイタリア哲学のまとまったものが書かれることがない。それを踏まえて、クローチェ、ジェンティーレ辺りから、もう少し大文脈を造ったうえで、現代思想の紹介がなされないものだろうか。( → II-2)


7/9更新

梅木達郎『支配なき公共性 ―― デリダ・灰・複数性』(洛北出版 2005年)

 著者歿後にまとめられた論集。著者が翻訳した書物の「訳者あとがき」を前半に、後半に『現代思想』などに発表した論考が配されている。前半に収められた、ドゥギー編『崇高とは何か』、ドゥギー『尽き果てることなきものへ』、デリダ『火ここになき灰』の「訳者あとがき」は、それぞれ「論文」として通用する充実したもの。やはり訳者たるもの、当の書物を自分の中でどのように位置づけ、どういう意味で紹介するのかを明確にする「あとがき」を付けるのは、なかば義務のようなものだと思う。それを煩く感じる読者もいるだろうが、それは読まなければよいだけの話なので、個人的な成立事情やら(ひどいものになると)弁明でお茶を濁すような訳者は許しがたい。その点、本書を見ると、著者がいかに自分の翻訳の仕事を選び、日本語にしていったかが窺えて、頼もしい思いがする。「訳者あとがき」を一書にまとめることで、それが個々の翻訳書をパーツとして含むメタ書物のようなものとなるのは、一種の理想かもしれない。本書は、著者自身の意思の及ばない歿後の編集だが、結果的にそうしたメタ書物を部分的に実現することになった。
 著者が訳した書物同士を繋ぐ隠れた問題系は、「反弁証法」である。フランスでかつて流行した「崇高論」や、デリダの議論、ドゥギーの「喪」の思想が、「終わることなき脱構築」の論理として、一貫して見えてくる。さらに後半の共同性をめぐるハイデガー、アーレントの議論もまた、一なる支配の共同体に組み込まれることのない、「反弁証法的な」共同体論として理解することができる。


7/4更新

H. Belting (Hg.), Bilderfragen. Die Bildwissenschaften im Aufbruch, München: Fink 2007
(ベルティング編『図像の諸問題 ―― 形象学の芽生え』)

 このところ相継いで公刊されるBildwissenschaft関連書の一冊。冒頭にベームとミッチェルの往復書簡が掲載されるなど、とりわけ綱領的な性格が強い。ベームとミッチェルは、それぞれ『像とは何か』(1994)『図像学(イコノロジー)』(1986)といった代表的な論集によって、Iconic turnあるいはPictorial Turnといった方向性をほぼ同時代に呈示している。ミッチェル編『イコノロジー』は翻訳が出たが、『像とは何か』に連なるドイツ・フィンク社の一連の「像とテクスト」(Bild und Text)叢書はいまだ紹介がないので、この辺りで何か欲しいところ。像論(図像論)は、カッシーラー辺りから始まるいまだ十分に汲み上げられていないドイツ哲学の伝統が関わるだけでなく、ポストモダン的なロゴス中心主義批判、あるいは英米圏の批評理論などが上手く絡み合う分野であるだけに、論点が拡散する危険は避けられないが、相互の対話が可能になる場所でもある。本書もそうだが、ベームの新著『図像はいかに意味を産出するか ―― 提示の力』(前出)など、ドイツ系の哲学書はいまや図像が入っているものが当たり前になってきた。本書では、ベルティングの論考で、「文字と身体」という主題の下で、グリーナウェイの『枕草子』(The Pillow Book)などが用いられるなど、主題や素材の裾野も拡がっている。一昔前なら、哲学書と言えば、「概念」や「言葉」しかツールがないものと理解されていたが、それもこの数年でずいぶん変わってきたように思う。日本の哲学書がビジュアル化されるのも時間の問題だろう。 ( → III-1)


6/6更新

上田閑照『経験と場所』(岩波現代文庫 2007年)

 エラノスの関係者でもある上田閑照のコレクションの一冊で、西田幾多郎をめぐる論考を集めた巻。最近『私とは何か』(岩波書店 2008)が出たこともあり、振り返ってみた。宗教哲学を正面に掲げるタイプというのはいささか苦手なので、エックハルト論以外、実はあまり本気で読んだことがなかったのだが、本書に収められた「経験と自覚」は圧巻。『私とは何か』は内容的にこの論考に言い尽くされていると言ってもよい。「純粋経験」という一点に絞って、「純粋経験の事実」と「純粋経験に対する反省」との区別を執拗に追跡する。経験の基盤とされる純粋経験は、時として俗流解釈にあるように、無自覚の経験のことではない。無自覚といっても、そこに通常の意味での経験が成り立つ限り、それは「純粋」経験とは言えないのである。上田氏は、この経験以前の経験とも言うべき「純粋経験」を、西田後期の「場所」論とも接合しながら、「始まり」「始源」ということの意味をかなり高度な反省を踏まえて論じていく。
 ドイツ哲学や現象学の用語などはほとんど用いられることなく、稀に触れられるのは唯一ハイデガーくらいだが、ここに展開されているのは、紛れもなく、ドイツ哲学正嫡の超越論哲学である。しかも後期フィヒテなどが考えていた超越論的反省そのものの限界に触れるようなきわめて高度の考察が開陳されている。「われは、われならずして、われなり」という西田の文章を踏まえて次のように語られる。「それは、<われ>と<われなし>との質的な差異が<われ>にほかならないということです。あるいは自己定立と自己解脱との交通そのものが<われ>にほかならないということです」(109頁)。  また「純粋経験即<是>」という表現を踏まえ、この「是」に対して「是れ何ぞ」と問われるとしたら、その「何」は哲学的「何性」(quidditas)以前の「何」と言われ、次のように述べられる。「このような<是れ何ぞ>はそれが発せられる現発動としては意識の言葉とはいえません。意識が打撃されて無 – 意識となり、無 – 意識の意識として意識と無 – 意識との間が震動するその震動の ―― というよりここに間となるその動的な間の直接表現です。しかも、何と何とのあいだではなく、すべてのものの<於ある場所>である開けの震動です。……<是=何>は、現前によって言葉世界が破られる原音であるとともに、そのように言葉世界を破る現前が言葉になる原始語であると」(136頁)。日本語による高次の超越論哲学の可能性を感じさせる。( → II-3)


6/2更新

H・コルバン他『エラノスへの招待 ―― 回想と資料』(平凡社 1995年)

 コルバンで思い出して、再び引っ張り出して再読。平凡社の黄金時代に出た一連の画期的企画のひとつ「エラノス叢書」の別巻に当たる。この「エラノス叢書」は、最初の段階で出た企画がそのままでは実現しなかったらしく、叢書のなかに「欠番」というのがあるのが残念だが、それでも十分に刺激的な叢書。本書でのコルバンは、「秘儀伝授譚とイランのヘルメス主義」ということで、イスラーム思想家スフラワルディーの『西方流謫譚』を中心に、コルバンいうところの「想像界」(mundus imaginalis: 言葉は同じでもラカン的な「想像界」とは全く違う)の議論を追い、錬金術における「黒化」「白化」「赤化」の過程が、イメージ産出の段階に対応するありようを具体的に示そうとしている。その際に、コルバンはそのユング的な錬金術解釈が「現象学」を前提していると言って憚らない。その一節に付している現象学の定義が面白い。「あらゆる研究に先立って、いかなる条件下に現象が顕現するか、いかなる現象を主体は自分に対して課すか、どのようにして主体はみずからにものを示しうるのかということを、ギリシア語の動詞「みずからを顕現する」の厳密な中動相の形態で示すところに従って要求する」というもの(176頁)。中動相的な自己関係性と、自らを示すという産出的能動性を対で考えるというところに、コルバンのイメージ論=現象学の問題意識があるようだ。そしてこの現象学の定義はハイデガーそのままでもある。ちなみにコルバンは、ハイデガーの最初の仏訳者でもある。
 本書では、井筒俊彦が「エリアーデ追悼」という文章を寄せており、晩年のエリアーデがエラノスから手を引いた理由が記されている。「どうしてエラノスをやめる気になったのか。自分の主導する国際宗教学会の仕事に専念したいから、と彼は答えた。毎年のエラノス講演は決して容易なことではない。準備のために何ヶ月もの時間が取られる。……<要するに、私も歳を取ったということさ>と、茶目っぽく彼は笑った」(63頁)。あの多作なエリアーデにして、このように言わしめるということは、逆にエラノスにどれだけのエネルギーが注ぎ込まれたのかということでもある。大家の講演といえば二番煎じ三番煎じが普通のどこかの学会との差に愕然とする。それにしても、あれだけ多くの領域の第一級の人物たちが交流したエラノス、その運動を出版という形に連動させたボーリンゲンは何といっても魅力的である。高山宏が本書の中で熱をこめて紹介しているマグワイア『ボーリンゲン』の邦訳が早く実現してくれることをひたすら願う。( → III-3)


5/30更新

中野美代子『綺想迷画大全』(飛鳥新社 2007年)

 飛鳥新社というのは聞かない出版社だが、これは実に良い。中国学の中野美代子が、いかにも好みのバロック的・マニエリスム的図像を、ヨーロッパ、中国、イスラーム圏を含め、エセーとして連載していたものをまとめた一書。その点では、田中優子『江戸百夢』(朝日新聞社)と似たような成立事情で、本文の軽さも似ているが、こちらのほうが文章としての読み応えはある。何よりも本書は図版の取り方が卓抜。細部を執拗に描き込んだ図像が大半を占めるが、その全体像を見せたうえで、さらにクローズアップで部分だけを拡大した図版を随所に挟むという方式は、この種の図像にはきわめて効果的。細かい部分をさらに拡大することで、さらにそこに書き込まれた膨大な細部が見えてくるため、二度驚くことができる。有名なアルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」なども、下3分の1の戦闘場面を拡大することで、そこを埋め尽くして戦う無数の兵士たちが克明に描き込まれていることが確認できて、驚きを新たにする。こうしたやり方は、大著J. Cray, Romanticism(クレイ『ロマン主義』)でも、ユベール・ロベールなどの絵画に適応されていて、ずいぶんと愉しんだものだが、本書はさらに主題の面白さも相俟って、画集としても愉しいものになっている。多くの図像を踏まえたこの種の書物が各分野で増えてきたことも時代の現れだろう。 ( → III-1)


5/29更新

井筒俊彦『意識の形而上学 ―― 『大乗起信論』の哲学』(中公文庫Biblio 2001年)

 『大乗起信論』の根本構造を、とりわけ唯識と対比しながら論じた好著。いつもながら、神秘思想を「明晰に」論じ切ってみせるというところから、著者の力量が推し量れる。「いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、……その全体を構造的に捉えなおすこと ―― そこにこそ形而上学の本旨が存する。そしていま、『大乗起信論』は、まさにそれを試みようとするのである」(22頁以下)。こう述べられる姿勢は、『大乗起信論』のみならず、それを論じる著者の態度でもある。
 『大乗起信論』の興味深いところは、阿頼耶識が絶対無区別の真実在への通路であると同時に、分節された経験的世界への下降でもあるといったダイナミズムをもって論じられる点である。その点で、この阿頼耶識は、イメージが消失する零点へ向かうと同時に、そこから一切のイメージが湧出する源泉でもある。いわば意識論と存在論の接点にこの阿頼耶識が位置していることになる。問題は、無差別の一者からなぜ分節が起こるのかという点だが、それについては、「心、心を見ざれば相として得べきなし」と語られる。自己反省による分節化という点で、プロティノス『エンネアデス』で、一者が一者を振り返ることによってヌースが生じると語られるのと同じ事態が指摘されているようである。「三細六麁」と呼ばれる意識のメカニズムは現象学とも通じる要素を多分にもっている。この意識の展開を支えるのが、「薫習」(移り香)と「逆薫習」の論理であり、それはまさに発生論的現象学の「連合」などをも思わせる。
 ちなみに中公文庫Biblioは、カバーの材質などが良くて、心地よい。本書のカバー・デザインも、「薫習」を図式化した本文の図表が上手く組み合わせられていて、なかなか素敵なデザイン。( → III-3)


5/28更新

南原実『極性と超越 ―― ヤコブ・ベーメによる錬金術的考察』(新思索社 2007年)

 ユングや、ポスト・ユンギアンがしばしば神秘思想に関心をもつように、神秘思想では独自のイメージの技法が展開されている。ベーメなどもその代表的なもので、著者の南原実は日本語での数少ないベーメの論者。その新著ということもあって期待したが、この著作はかなり落胆した。四元素(土・水・火・風)と三原質(塩・水銀・硫黄)が火を挟んで対峙し、さらにそれぞれ残りの三項のうち土と風、塩と水銀が対峙するというかたちで、その相互の変換が行われるというベーメの図式が、「極性と超越」という魅力的な標題の意味合い。しかし、本書はほとんどが旧著『ヤコブ・ベーメ ―― 開けゆく次元』(哲学書房 1991年)の焼き直し。そのことは本書の冒頭に断り書きがあるし、手に入りにくくなったやや大きめの旧著の代わりに、コンパクトで概略が得やすい新著として再編したというのなら問題はない。しかし本書の場合、記述がかえって分かりにくくなっており、ベーメの解説書なのか、ベーメを元にした著者の独自の展開なのかもはっきりせずに、かなり混乱した書き方になっている。引用なのか解釈なのかも判然とせず、典拠となった書目も挙げられずに、ベーメの神話的議論が紹介されているので、相当に理解しにくいものになってしまっている。関心のある方も、古書ででも『ヤコブ・ベーメ ―― 開けゆく次元』を探された方がよいと思う。
 したがって、この書物そのものに新味はないので、今回関心を新たにした部分を。ベーメがAm Anfang schuf Gott Himmel und Erde(はじめに神は天と地を造った)のある種カバラ的な解釈を展開しているといった部分について。始めの前置詞Amがすでに、口を開くAと口を閉ざすMによって、始まりと終焉の円環を示している云々といったもの。この議論と、下記の永井晋『現象学の転回』の第四章「秘密の伝承」を比べると興味深い。ヘブライ語で「はじめに」に相当する「ベレシート」が、Aに当たるアレフではなく、Bに当たる「ベイト」で始まっており、ユダや神秘思想では、これを根源の欠如、根源の隠れと理解する。そこからイサク・ルリアのカバラーに見られる「ツィムツム」(神の収縮・退去)のヴィジョンが生まれる。ベーメの理解は(それ自体奇妙とは言え)なおも通常の解釈学の範囲に収まっているとすると、ルリアのカバラーは、その解釈学の不可能性の次元にも一歩足を踏むこもうとしているように見える。( → III-3)


5/26更新

R・エイヴァンス『想像力の深淵へ ―― 西欧思想におけるニルヴァーナ』森茂起訳(新曜社 2000年)

 ポスト・ユンギアンのヒルマンやバーフィールド、そしてコルバンなどを用いて、イメージと象徴の理論を説いた啓蒙書。フロイトがイメージや夢を「解釈」しようとするのに対して、ユングはイメージを「還元不可能で完全な形式と内容の統一体とみなし」、「イメージは構造の内容でもあり内容の構造でもある」と理解するため、イメージ論との親近性が強い。「元型」なるものも、ある固定したイメージ群のようなものよりは、むしろイメージの発生のメカニズム(コルバン流のmundus imaginalis)に近いのだろう。本書そのものは、さほど優れたものではないのだが、ユング心理学とカッシーラーを繋げようとしている点が興味深い。
 もちろん著者自身も両者が同じ「象徴」ということを語りながら、理論の組み立てとしては水と油であることを自覚している。そのため、カッシーラーを論じるにも、『象徴形式の哲学』の第二巻「神話」に依拠して、神話的融即の理論などを導入している。「神話的にイメージは、あるものを表現するのではなく、ものの直接的現前にとってかわる。つまりイメージがものなのである」(91頁)。この理解はやはりあまりにユング的であって、おそらくカッシーラー自身は受け容れないだろう。そもそもユングとカッシーラーという取り合わせは、エラノスと新カント派の接合というかなり大きな溝を超えなければならない。しかし、例えばディディ=ユベルマン『イメージの残存』(人文書院)が提示した力動的なヴァールブルク解釈を仲介項として挟むと、あながち考えられない組み合わせでもないように思えてくる。新カント派・ヴァールブルク・エラノスという20世紀初頭の知的黄金期の遺産が、もういちど甦るという点では、エイヴァンスの方向性も悪くないような気がする。 ( → III-3)


5/23更新

永井晋『現象学の転回 ―― <顕現しないもの>に向けて』(知泉書館 2007年)

 後期フッサール研究や、マリオンらのフランスでの現象学の新展開(いわゆる「神学的転回」)を踏まえながら、現象学の独自の転回を模索する新鮮な試み。良い意味でも悪い意味でも、「研究書」という枠に収まらない大胆な展開がなされている。ここでは、フッサール的な志向性モデルの延長にとどまらない現象性の次元(志向的対象を現象性の規範とする限りでは、「顕現しないもの」=「目立たないもの)がアンリの「反還元」「実質的現象学」やマリオンの「顕現しないもの」に即して論じられるばかりか、何よりもユダヤ神秘思想、イスラーム神秘思想の知見を導入して、これまでにない現象学=形而上学=神学の路線が追求される。そして著者自身が十分に自覚しているように、それはハイデガーの言う「存在=神論」や素朴な形而上学の後退や、特定の実定宗教への帰依とは徹底して区別されなければならない。著者の狙いは、フッサール現象学が本来目指していた現象性の根拠を、あくまでも「現象学」として解明することに尽きる。
 「不可視性」や「顕現しないもの」という次元が、いわゆる「脱構築」を通じて、形而上学的思考によっては表現しえないものとして示唆されるというのは、従来の現象学の議論の中でも行われてきた。これに対して、この著作では、その「顕現しえないもの」を、そのものとして表現する「像化」の動向が模索されている。そこで導入されるのが、井筒俊彦によって創造的に解釈されたイスラーム神秘思想(イルファーン)であり、井筒もしばしば言及していたアンリ・コルバンである。イコン性や現代美術の動向(とりわけキーファーの「新表現主義」)を通じて、顕現しえないものの顕現が論究されるその見事な一節。「<見えるもの>はまなざしによって≪見られたもの>、構造的に地平として<見えないもの>をはらんで、それに支えられて初めて成立する<見えるもの>であることをやめ、完全に現れ切ったもの、現れるためにまなざしに見られ、地平に媒介される必要はなく、おのれ自身から顕になるものと化す」(200頁)
 第1章「内在領野の開示」は理論的な展望の提示という点で過不足なく、第8章「絵画の終焉と像の救済」は上述のキーファー論も含む卓越した論考。差し当たりこの2編で、大方の骨子は掴めるだろう。最終章の「神と妖怪の現象学」は、本書に加えなくても良かったかも知れない。難点を言うなら、現象学とユダヤ性ということを通路として、互いに異なった文脈に属している議論が、あまりにたやすく接合されてしまっている点が挙げられる(悪い意味で、研究書でないという面)。像の理解に関しても、ユダヤ的という繋がりだけで、ベンヤミンのアレゴリー論などがユダヤ神秘思想の「ツィムツィム」(退去)と並べられているが、その関連の議論はさほど容易なものではないだろう。そうした課題を残しながらも、果敢な試みは十分評価に値すると思う。 ( → III-3)


5/22更新

安藤礼二『近代論 ―― 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版 2008)

 南方熊楠、柳田国男、鈴木大拙、西田幾多郎、井筒俊彦ら5人の思想家についての5編の論集。明治43(1910)年頃に定位して、日本の近代を論じる。個々の論考は別々に成立したものを再編集したり、加筆するなりしてまとめられたものであるため、書物としての全体の統一はある程度整っている。その際に、一つのストーリーになっているのが、「富の分析、博物学、一般文法」が「言語、労働、言語」へと転回するというフーコー『言葉と物』の図式。ヨーロッパでは18世紀から19世紀に生じたこの転換が、日本の場合、1910年頃の近代化とあいまって急激に生じたという見通しから、章立ても「生命、労働、無限、場所、戦争」という、それとなくフーコーを暗示する組み立てとなっている。ただこの主張はあくまでも作業仮説にすぎないので、それ自体が議論に堪えるような性質のものではない。それよりもむしろ一篇一篇の論述の面白さが光る。
 個々の議論はかなり粗いのだが、読みやすさは抜群で、読者を先に引っ張っていく筆力にはかなりのものがある。それぞれの思想家を扱うにも、網羅的・教科書的ではなく、焦点をかなり絞って論じられているので、印象の強いものになっている。ただ西田幾多郎の章は、元々『道の手帖:西田幾多郎』(河出書房新社)に収録されたインタビューを利用し、形式もそのままなので、かなり違和感がある。議論の水準も突然に変わってしまい、それまで愉しく読んでいた読者の興味を削ぎかねない。これは書き換えて欲しかった。最終章の井筒俊彦論で、スーフィズムの「神人合一」を語っている最後のくだりは、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』のようなSF的な感動がある。緻密な議論ではないが、さまざまに言及される書物群も適度に意外で、新鮮さがある。未読のものは読んでみたくなるし、すでに読んだこともあるものは再読したくなるという点で、読書案内として秀逸。 ( → IV-4)


5/21更新

G. Boehm, G. Brandstetter, Achatz von Müller (Hg.), Figur und Figuration. Studien zu Wahrnehumug und Wissen, München: Fink 2007
(ベーム他編『形象と形象化 ―― 知覚と知についての研究』)

 Bildwissenschaft(形象学)の路線を邁進するBild und Text叢書の一冊。例によってG・ベームが編者に加わっている。「知覚と知」という副題から見て、認知心理学のようなアプローチかと思ったのだがそうではなく、やはりメタファーや非言語的メディアに関する論考群。ベーム自身の論考Die ikonische Figuration(図像的形象化)でも、扱われているのが、アウエルバハのfigura論であったりするように、全体に修辞学的傾向が強いように見える。ブルーメンベルクやベンヤミンの編者でもあるHaverkampなどが名を連ねる。ちょっとした発見なのだが、1990年頃に『情動と表現』(Affekt und Ausdruck)という大著で、18世紀の修辞学・言語論と感情論を繋げようとした魅力的な著作を公刊したRüdiger Campeの名前をこの論集で久し振りに見た。当然、いまのこういう思想状況では、彼などが注目されて良いと思っていたので、旧友に会ったような気がする。 ( → III-1)


尾崎彰宏『レンブラントのコレクション ―― 自己成型への挑戦』(三元社 2004年)

 商業都市アムステルダムで画業によって財を成したレンブラントは、絵画コレクションのみならず、初期近代のヴンダーカマーを思わせるコレクションを蒐集した。レンブラントの破産後、それらのコレクションは競売にかけられ散逸したが、本書はそうしたレンブラントのコレクションの痕跡を、彼自身の絵画(とりわけその自我像)に見られる自己意識と平行して論じていく。標題にも「自己成型」という語が用いられているように、グリーンブラット『ルネサンスの自己成型』を念頭において、作品や自己表現を通じて、個人が社会的自己イメージを形成する過程を、コレクションと自我像という二つの表現に重ねていく。そのような論旨の点で、実に興味深い書物になっている。
 ネーデルラント美術を牽引するマンデルのアカデミーの成立史から始めて、「ダナエ」の分析を通して、女性像の変遷を辿り、レンブラントの自我像に近代的なメランコリーの痕跡を見届ける。後半が、何といっても魅力的な、レンブラントのコレクションにまつわる議論の中で、東洋幻想(オリエンタリズム)の論点をも巻き込んでいく。
 元々は個別の論文として書かれた論文集だが、その一点一点が実によく描けている。データの渉猟はもちろんのこと、単に歴史的な事実確認に終わらず、背景の文脈への言及なども適切で、その遠近感が素晴らしい。書物としても実に丁寧に造られていて、特に美術論では欠かせない図版が、本文の議論のすぐそばに配列されていて、ストレスを感じない。かなりの点数の図版の挿入も、単調にならないように工夫されており、相当の手間がかかっただろうと想像される。ただし、やはり論文集という制約が残る点は触れておかないといけない。折角、自我像とコレクションという二つの主題が絡み合う場を作りながら、その肝心の接点そのものの議論が結局なされていないからである。この点がもう一歩深められていたら、第一級の名著になっていただろうに。もちろんいまのままでも、群を抜いた秀作にはちがいないのだが。( → III-1)


田中優子『江戸百夢』(朝日新聞社 2000年)

 江戸学におけるiconic turnの現れともいえる江戸の図像学。すべての図版がカラーということもあって、目を楽しませてくれる。元は『朝日ジャーナル』のコラムとして書かれたものなので、一篇一篇の文章はかなり短い(見開きで完結)。気楽な読み物としては肩が凝らないともいえるが、それにしてもそれほど密度の高い文章でもないうえに分量が少ないので、欲求不満が残る。江戸のバロック的感覚という印象からか、突如ベルニーニに一回を割いてみたり、フェルメールが使われたり、連想の飛び方としては理解はできるが、あまりにも説明がなさすぎる。iconic turn、あるいはBildwissenschaft(形象学)は、創造的な連想を育む反面、方法的な意識が欠落した場合は、いたずらに主観的な印象批評に近づいてしまう。 ( → III-1)


K. Sachs-Hombach (Hg.), Bildwissenschaft. Disziplinen, Themen, Methoden, Suhrkamp: Frankfurt a. M. 2005
(ザクス=ホンバハ『形象学 ―― 学科・主題・方法』)

 ここ15年くらいを中心に、20世紀初頭のlinguistic turn(言語論的転回)になぞらえて、iconic turn(図像的転回)ということが語られる。美術史の中での図像学iconologyやヴァールブルクの業績を踏まえながら、美術史にとどまらない創造的な文化論が提案されつつある。その名称が、まさに本論集の「Bildwissenschaft(形象学)」である。認知心理学からコミュニケーション論、哲学、歴史学、教育学などなど、30篇近くの論考によって、各分野でのiconic turnの現況報告をした論集。私などの理解では、「哲学」よりも、むしろ「美術史/芸術学」についての論考が一番理解が早い。ここではすでに触れたベームやブレーデカンプを踏まえ、ベルティングBelting(またしてもB!)などが紹介されている。20世紀初頭では、『ロゴス』が学科を超えた学際的文化論をプログラムとして立ち上げたが、1933年のナチズムの台頭によってその方向は大きく歪められてしまった。iconic turnという言語からより自由なメディアによって開かれる光景に期待したい。こうした動きが、何よりも言語への信頼の厚いドイツでなされ始めていることにも、重要な意味があるような気がする。( → III-1)


G. Boehm, Wie Bilder Sinn erzeugen: Die Macht des Zeigens, Berlin University Press 2007
(ベーム『図像はいかに意味を産出するか ―― 提示の力』)

 ここ数年、ドイツでは「図像」をめぐる議論が盛り上がりを見せているようだ。美術史での図像学(Iconology)には限定されない、哲学的なイコン的思考(Ikonisches Denken)が、現象学・解釈学の一つの展開として議論されているためである。そうした方向で先鞭をつけたのが、おそらくはこのベーム辺りだろう。もはや古典的名著といえるStudien zur Perspektivität. Philosophie und Kunst in der Frühen Neuzeit, 1969(『遠近法研究』)は現在入手困難となっているが(しかし翻訳があってもよい著作)、名論集Was ist ein Bild?, W. Fink 1994(『像とは何か』)などはすでに四版を重ねている。この『像とは何か』を皮切りに、Bild und Textという叢書がFink社で企画され、それは現在も続いている。
 本書『図像はいかに意味を産出するか』は、ベーム自身の論文集。彼の言うところの「イコン的差異」といった問題を中心に書かれた論考が集められている。古くはフッサールの「射影」、そして「地平」といった主題に集約される可視性と不可視性という問題が、メルロ=ポンティの「見えるものと見えないもの」、ハイデガーの「隠蔽性」といった議論を経て、イコン的思考の内に取り込まれている。それはまた、現象学における「明証性」という議論と、解釈学の「地平性」「文脈性」といった問題が交差する地点でもある。これはまた同時に、宗教的な文脈では、「聖像」と「像画像破壊」(イコノクラスム)といった議論にも繋がり、本書でも形象化の限界としてのイコノクラスムが取り上げられている。グラッシ『形象の力』から始まる路線の創造的な展開として、邦訳されてもよい論集だと思う。ちなみに、本書に収められた100点に及ぶ図版は、そのほとんどがカラーというのも、哲学書として異例である。ドイツの哲学書の形態が少しずつ変わりつつあるのが感じられる。
 つまらないことだが、最近のドイツのメタファー的・図像的思考を考えると、ブレーデカンプBredekamp, ブルーメンベルクBlumenberg, そしてこのベームBoehmと、なぜかその名がBild(像)のBで始まっている。ドイツBild論の3Bとでも呼んでみようか。 ( → III-1)


大林信治・山本浩司編『視覚と近代 ―― 観察空間の形成と変容』(名古屋大学出版会 1999年)

 クレーリー『観察者の系譜』(十月堂;以文社)フォスター編『視覚論』(平凡社ライブラリー)などを前提にしながら、近代における視覚の議論を、哲学・科学史・美術史などを通して通覧する論集。論文集(しかも科学研究補助費の報告書)というのものは、おおむね玉石混交と相場が決まっているが、最近ではそうした中でも意欲的な論集を目にすることが多くなってきた。本書『視覚と近代』などは、本当に粒ぞろいで、一篇一篇読み応えのある論考が揃っていて感心する。スタフォード『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会)などが論じていた、近代初頭の望遠鏡・顕微鏡といった「近代の小道具たち」が視覚経験と世界観に及ぼす変革を、かなり至近距離から丁寧に追った編者二人の力のこもった論考が含まれる。その他の論文も、甲乙つけがたい出来栄え。三谷研爾「街衢へのまなざし」は、近代の大都市の経験をその言語化である紀行文の変化から炙り出し、ニコライ、リヒテンベルク、シュティフターに即してそのディスクールの違いを示し、大都市経験を潜り抜けて美的モダニズムを形成するボードレールなどへの流れを実に鮮やかに分析している。生越利昭「視覚の社会化」も、視覚中心の近代というありがちな議論を、イギリス哲学の文脈を挿入することで、生産的に展開している。それぞれの論考が、冒頭に、当該主題についての見通しのよい研究史を述べ、参考文献も列挙していたりと、大著ではないが使い勝手の良い優れた論文集になっている。( → IV-4)


B. M. スタフォード『ボディ・クリティシズム ―― 啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』高山宏訳(国書刊行会 2006年)
B. M. Stafford, Body Criticism: Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine, MIT Press: Cambridge, Massachusetts, London 1993 (1. ed. 1991)

 原著・翻訳ともども、何重もの意味で特筆に値する書物。標題だけから見ると、18世紀の医学・科学上の進歩と芸術との「相関関係」を扱って、そこから身体理解を炙り出すという穏当・篤実な研究書とも見えかねないが、稀代の怪物的大著で、内容的にも並の思想史の書物十冊以上にも相当するであろうといった濃厚な「作品」。現代にまで連なる近代的メディア戦略が、アーリーモダン期に芽生え、文字と図像、実在と虚構といった二分割を流動化し、そこに視覚と理論の新たな経験を生み出していくという次第が、ハイアートとローアートの別もなく、哲学と芸術の敷居もなく、縦横無尽に博捜されていく。メスメルとガリヴァーニが、挿絵画家グランヴィルや、哲学者バークリと同列に論じられ、ショイヒツァーとチェインバーズとベールとディドロが「百科全書」の繋がりで連鎖するなど、凡百の「実証的」思想史などが及びもつかないところで議論が展開されていく。
 それに加えて、翻訳の高山宏氏がまさに本領発揮、スタフォードの怪物ぶりに引けを取らない役者(訳者)のケレンを見せて猛進する。『グッドルッキング』や『ヴィジュアル・アナロジー』などの場合は、この訳者の味付けが濃すぎて、半ば綱領的な簡潔さが失われ、主張が文体の陰に隠れてしまうような気がしたし、プラーツ『ムネーモシュネー』でも、原著の文体との相違が露骨すぎて、気になったが、本書は高山氏の訳の力業が最大限プラスに働いたような気がする。言葉遊びに関しても、抜群の語彙力で嵌まった訳をびしびし当ててくるのが心地よい(conceptを「着床」と「着想」と訳すなどなるほどと思う。これまでの懷念/概念より、はるかにスタフォードの議論にも合っている)。多少なりとも翻訳に携わるような人は、評価はともかく、一度は検討してみる必要のある訳文スタイルだと思う。自由闊達でいながら、原典のスタイルまでも実演しようというこのような翻訳を見ると、直訳か意訳かなどというつまらない翻訳論は吹き飛んでしまうだろう。ちょっとした瑕疵を挙げると、原著ではギリシア語がラテナイズされているものを、翻訳ではわざわざギリシア文字に戻していて、その志は立派なのだが、そのほとんどが間違っている。語尾のシータがゼータになっていたり、ミューとニューが混同されていたりと、いかにもギリシア語に不慣れなのが歴然としてしまうのだが、これはまあご愛嬌。ちなみに原著はサイズが一回り大きいので、図版も大判でさらに威力が大きい。( → IV-3)
 本書の提示する感性が、視覚と理論をアナロジーの感覚で横断する見立ての美学、曰くThe Aesthetics of Almost(邦訳では「<もさながら>の美学」だが、流石にこれは分かりづらい)。仮象と実在のプラトン的対立を乗り越えるAls-Obの感覚というところだろう。いわばヴァーチャル感覚である。芸術論を知覚論として理解し直すことで、概念とイメージ、思想と芸術の「対応関係」という平板な理解を越えて、むしろ概念とイメージが同時に組み上げられ生成する観念=イメージの発生学が問題となる。多元的で多角的な知覚や観念をひとつのまとまりとして把握するのは、概念の仕事ではなく、イメージやメタファーの役割である。これはは、哲学的な文脈で言うなら、カント的な「構想力」の再評価にも繋がるだろうし、ニーチェ的な仮象理解の展開でもある。そうなると、カントとニーチェをともども取り入れようとしたファイヒンガーのPhilosophie des Als-Ob(「かのように」の哲学)などが補助線になるようにも思えてくる。( → IV-3)


B. Burberl, M. Dückershoff (Hgg.), Palast des Wissens: Die Kunst- und Wunderkammer Zar Peters des Grossen, 2 Bde. Hirmer Verlag: München 2003
(ブルベル、デュカースホフ『知の宮殿 ―― ピョートル大帝のクンストカマー、ヴンダーカマー』)

 ドルトムント芸術・文化史博物館の展覧会カタログだが、欧米の展覧会カタログの例に漏れず、圧倒的な大冊。しかもこのカタログは大判ハードカバーで各冊300頁ほどの2分冊。一巻目がカタログでフルカラー、二巻目が論考集だが、これにも大量の白黒図版が投入されている。ライプニッツも謁見して、その科学振興のプログラムなどを提供したピョートルだけのことはあって、圧倒的なヴンダーカマー(クンストカーメラ:通称「人類学博物館」)を造っている。ライプニッツの関与に関しては、ライプニッツとヴンダーカマーという主題で著作をものしたブレーデカンプが寄稿している。
 寄稿者の一人ヘムケンが、「解き放たれた知 ―― 「デジタル時代」のクンストカマーとヴンダーカマーの理念」という論考で、インターネット上の百科全書の可能性をかなり楽天的に示唆している。しかしかつてのヴンダーカマーが「表象」システムという文化史的構造と切っても切れない関係にあったように、インターネットが新たな「百科全書」たらんとするなら、それを支える知の枠組みが反省されなければならないだろう。「大きな物語」が終焉し、知の断片化が進行する中で、果たして「全知」を夢見るヴンダーカマーの理念は行き続けることができるのだろうか。 ( → III-1)


R. Konersmann, Wörterbuch der philosophischen Metaphern, Wissenschaftliche Buchgesellschaft: Darmstadt 2007
(コナースマン『哲学メタファー辞典』)

 『哲学概念史辞典』が索引巻を含めて昨年完結したと思ったら、そのあとを継ぐように、この『哲学メタファー辞典』が出た。尤も『哲学概念史辞典』のような大規模な企画ではなく、500頁ほどのそれなりのヴォリュームとはいえ、一巻ものの辞典。序文「形象的思考」では、ヴィーコから始まりブルーメンベルクに至るメタファー的思考の系譜が概略されている。リッターは『哲学概念史辞典』の序文で、言語を中心にした『哲学概念史辞典』では、形象的・メタファー的要素を排除せざるをえなかったと語っているが、今回の『哲学メタファー辞典』は、その際に取りこぼされたメタファー的思考を中心に辞典を作ろうとしている。「大地」「雷」「鏡」「生」「十字架」「海」「読むこと」「聴くこと」「眠り」「深さ」などの、主要メタファー40について、各項目10頁(2段組)程度で歴史的な概略を行っている。
 折角のメタファー・形象辞典なのだが、図像などは一切入っていない。ヴィジュアルの欠落は、この種の辞典にとっては、見逃すことのできない欠陥のように思える。しかし、この企画が今後どのような影響を及ぼしていくかを期待して見守りたい。『観念史辞典』(Dictionary of the History of Ideas)の方向に向かうのか、結局は『概念史辞典』の補足のような位置にとどまるのか、あるいはヴィジュアルをも巻き込んだ新たなKulturgeschichteの展開の呼び水になるか、この選択は結構大きな意味をもつと思う。( → III-2)


H. Bredekamp, Antikensehnsucht und Maschinenglauben: Die Geschichte der Kunstkammer und die Zukunft der Kunstgeschichte, Wagembach: Berlin 2003(3. Aufl.)
(ブレーデカンプ『古代憧憬と機械信仰 ―― クンストカマーの歴史と芸術史の未来』)

 またまたブレーデカンプで、しかもすでに邦訳を取り上げたものだが、気になっていたところが確かめられたので、あらためて紹介。フーコーの議論との対比を論じた最後の部分だが、邦訳はここでワープロが悪戯をしていた。次の個所(邦訳156頁、原典S. 99)。「しかしながら、フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、無情のトポスへのネオバロック的な操作を支えることができない」。ここの「無情」はVergänglichkeit、「はかなさ」、要するに「無常」。これが「無情」と誤変換されていた。翻訳も指示関係がはっきりせずに、何が批判されているのかよくわからない。少し手を加えてみる。「フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、<歴史の移行>(時の儚さ)のトポスに対するフーコーのネオバロック的な取り組みを支持するものではない」。要するに、クンストカマーの実情は、それ自体がフーコーの分析から逃れ、それを反駁してしまう側面をもっているということを語っているのだろう。この一文の理解によって、この個所の文脈全体が大きく変わってくる。しかし、肝心な結論部分は分かるように訳されているので、非難するほどでもない。その結論部分の邦訳。「フーコーが収集館を<構造の書>と解釈するとき、彼は視覚的なものを文法によって読んでいるのである。クンストカマーはさまざまなコレクションを視覚的なものに変えることによって、マテリアの変身能力を強調する。まさに自然物と、人工物や技術品を融合することで生まれるのは、言語的な命名法の歴史なき言語中心主義などではまったくなく、マテリアの歴史性だった」(157頁)。フーコーの「構造」や「言語」理解に対して、「質料性」や「視覚」を言挙げする宣言のような一文。現代思想(20世紀思想ではなく)の一つの方向性を明瞭に示しているように思える。( → II-2)


藤田實・入子文子編『図像のちからと言葉のちから ―― イギリス・ルネサンスとアメリカ・ルネサンス』(大阪大学出版会 2007年)

 エンブレムやイコノロジーを中心に、イギリスとアメリカを出会わせる興味深い試み。文学におけるイコノロジーの展開は、エリザベス朝研究者の独占市場かと思いきや、それがアメリカ文学にも飛び火して、創造的な論集に結集した。『シェイクスピアのイコノロジー』(三省堂 1994年)の岩崎宗治や、去年ここでも触れた『第三帝国のR・シュトラウス』(世界思想社 2004年)の山田由美子などが参集している。論文集というものは、どうしても雑多な印象を与えてしまうものだが、これは「科学研究費補助金」の「報告書」という、滅多に面白いものにはならない「文書」を元に、「公開促進補助費」を取って大阪大学出版会から出版されながら、エンブレムやイコノロジーという長い伝統のある背景に共通点を求めているために、一定のまとまりを獲得している。
 和光大学総合文化研究所・松枝到編『象徴図像研究 ―― 動物と象徴』(言叢社 2006年)も、エンブレム・象徴という観点からの論文集だが、こちらは30編と論考も多く、地域もヨーロッパに限らず、中東・アジアなど多方面にわたっているので、どうしても雑然とした印象を受ける。10年以上続いた象徴図像研究会というものの集大成となった論集らしい。元となった論集も冊子のかたちで10冊以上出ているようだ(未見)。松枝氏は『ヴァールブルク学派』(平凡社)の編訳者でもある。この種の図像関係の議論というものもすっかり定着した感がある( → III-1)


H. Bredekamp, Die Fenster der Monade. Gottfried Wilhelm Leibniz' Theater der Naur und Kunst, Akademie 2004
(ブレーデカンプ『モナドのさまざまなる窓 ―― ライプニッツの自然と人工の劇場』)

 ブレーデカンプのライプニッツ論という主題に関心をもって手に入れたところ、これはまさに下記『古代憧憬と機械信仰』の続編とも言えるものだった。ライプニッツが17世紀に企画した「自然と人工の劇場」はまさに一個のクンストカマーであり、キルヒャーにも繋がるヴンダーカマーの構想であった。この構想の推移を軸にライプニッツ哲学を追うというのは、従来の「モナド論」の哲学者という枠を大幅に超え、「普遍学」というものの具体的な展望を豁然と開くものだろう。その辺の意図が、標題にも現れている。通常、「モナドには窓がない」という言葉が独り歩きをしているライプニッツ理解に対して、むしろ「モナドの窓」を突きつけ、それどころかその「窓」がdas Fenster(単数形)ではなく、die Fenster(複数形)となっているところに、ライプニッツの普遍学への意欲が籠められているようだ。佐々木能章『ライプニッツ術 ―― モナドは世界を編集する』(工作舎 2002年)などとも接する刺激的な論題。『古代信仰と機械信仰』との関連で言うと、ライプニッツの場合は、「自然・古代・人工・機械」という流れが、「自然」対「人工」という対比項に置き換えられた17世紀的な学知が浮彫りになるというところだろうか。

( → II-2)


H・ブレーデカンプ『古代憧憬と機械信仰 ―― コレクションの宇宙』藤代幸一・津山拓也訳(法政大学出版局 1996年)

 タイトルから少々想像しにくいのだが、本書は珍奇博物館(ヴンダーカマー、クンストカマー)を主題とした論考。ヴィントの関係でも触れたブレーデカンプのもの。自然・古代(遺産)・人工・機械という流れを設定し、自然の中に発展史を見出していくという着想がクンストカマーの基本的構想を支えているという主張。自然の無時間的な列挙から、人間を介した発展史という意味では、自然理解と歴史理解が交差する場所としてクンストカマーを位置づけるというもの。最後がピラネージにおける人工物幻想であるのも面白い。そういう意味で、かなり生産的な思想史的見通しを提示してはいるのだが、本書は元々小著であるし、叙述もまったくけれん味のない淡々した記述なので、その辺のダイナミズムが少々掴みづらい。主題が刺激的なだけに少々惜しい気がする。最終章(ただしほんの数頁)では、フーコーの『言葉と物』と著者自身の見解の対比を行っているのだが、これが何を云っているのか、いまひとつよくわからない。これは著者のせいなのか訳のせいなのかも判然としない。追って原本も入手できるはずなので、その際に検討してみたい。
 ちなみに、ブレーデカンプは、カッシーラーゆかりのハンブルク大学所属であり、この著作の元型となった論文で、ヴァールブルク賞を受賞している。ヴンダーカマーに対しては一貫した関心をもっているようで、各種展覧会カタログなどにも寄稿している。それらのいくつかも今後手元に届くはず。 ( → II-2)


E. Przywara, Analogia Entis. Metaphysik: Ur-Struktur und All-Rhythmus, Johannes Verlag: Einsiedeln 1962
(プシュヴァーラ『存在の類比 ―― 形而上学:原構造と万有のリズム)
L. Bruno Puntel, Analogie und Geschichtlichkeit I: Philosophiegeschichtlich-kritischer Versuch Über das Grundproblem der Metaphysik, Herder: Freiburg/Basel/Wien 1969
(プンテル『類比と歴史性』)

 40年ほど前の著作(前者はこれ自体がリプリントで、初版は1932年)だが、「存在の類比」を主題にして、プロテスタント的=否定神学的な否定性と飛躍の思考に対して、ある種の肯定性と連続性を救い出そうとしたもの。この否定神学的な状況は、現代の脱構築的な思考にも通じるものである。あまりにも断片化した思考を再び構築的な方向へと向けるのに、「存在の類比」の理解は見直されてもいいのではないか。最近、スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』高山宏訳(産業図書, 2006)でもプシュヴァーラの名前を眼にして、あらためてその感を強くする(ちなみに、このスタフォードの訳書では、類比の二種類が「述語構造」と「均衡」と訳されているが[p. 123]、これは「述定」と「比例」のこと。また繰り返される「参加」participationは、「分有」でなければ意図が伝わらないはず)。スタフォードの書物では、ティリッヒについての文献を元に論じられているが、その大元の著作がおそらくこの『存在の類比』だろう。
 『存在の類比』の後半では、「万有のリズム」として、「像論」、「象徴論」、「神の似姿」の議論が展開されているし、プンテルの『類比と歴史性』では、さらにプシュヴァーラを下敷きにして、その方向をハイデガーにまで拡張しようとする。考えてみれば、1960年代は、現代思想の転換期であるのみならず、第二バチカン公会議を含めて、カトリックがきわめて精力的だった時期でもある。ドイツのラーナーやフランスのド・リュバクなど、神学者や研究者も生産的な仕事を展開している。その点で、この時期には、同時代のハイデガー哲学に対するトミスト側からの生産的な応答も多数見られた。「キリスト教と現代思想の60年代」などという主題は、これだけで結構面白い論集が組めるほどではないだろうか。この辺りは、まだ十分に開拓の余地のある問題に思える。( → II-3)


『バロック・アナトミア ―― 佐藤明写真集』(河出書房新社/トレヴィル 2005年)

 プラーツ『官能の庭』でも一章を割いている17世紀後半の蝋人形作家ズンボの写真集が出ていた。正確には、ズンボやスシーニの解剖学的蝋人形を蒐めたイタリアの博物館ラ・スペコラの展示品を写真に収めたもの。身体を捌き、内臓を剥き出しにするばかりか、子宮に踞る胎児や血管組織をあまりに正確に造形した人形群は、猟奇的殺人の惨殺死体のよう。下記の『世界の没落』が世界の終末を描いたものだとすれば、本書はまさに人体の廃墟というべき写真集。これもやはり近代の産物であり、医学への貢献というにはあまりにも陶酔的な感覚に満ちている。ズンボの作品はwebでも一部見ることができるが、かなりグロテスクなのでそのおつもりで。この写真集は、これだけ異様なものを紹介する割には、解説や考察なども少なくいささか物足りない。これだけだと単なる際物好きのようになってしまいかねない。( → III-1)


E. Halter, M. Müller, Der Weltuntergang, Offizin: Zürich 1999
(ハルター、ミュラー『世界の崩壊』)

 洪水、黙示録、地獄の風景など、終末論的光景を集めた画集。世界崩壊の図像は、もちろん中世などにも存在するが、圧倒的な迫力をもって終末を描ききるのは、むしろ近代、それも18世紀以降の図像群である。そのような意味で、終末論や黙示録が宗教的領域を離れて、美的経験として全面的に展開されるというのは、きわめて近代的な現象なのかもしれない。20世紀以降は、シュルレアリスムや表現主義が、この危機的表現にさらに拍車を掛けて行く。これと主題的に重なるものとして、1996年のウィーン美術史美術館での展覧会カタログ『芸術原理としての綺想画(カプリッチョ) ―― 近代形成の前史:アルチンボルド・カロからティエポロ・ゴヤ』(Capriccio als Kunstprinzip: Zur Vorgeschichte der Moderne von Arcimboldo und Callot bis Tiepolo und Goya. Malerei-Zeichnung-Graphik, Zürich 1996)が、論集として画集としても充実していて素晴らしい。


H. Bredekamp, B. Buschendorf, F. Hartung, J. M. Krois (Hgg.), Edgar Wind. Kunsthistoriker und Philosoph, Akademie Verlag: Berlin 1998
(ブレーデカンプ他編『エドガー・ヴィント ―― 美術史家・哲学者』)

 美術史家ヴィントをめぐる論文集。カッシーラーに就いて哲学を修め、学位論文『実験と形而上学』を著すと同時に、パノフスキーの最初の弟子になるという経歴をもったヴィントは、自然科学と人文科学(精神科学)という新カント派風の問題設定を、現代的な問題へと橋渡しした人物のように思える。この論集でも、具体的な美術研究やルネサンス論より、むしろ『実験と形而上学』がかなり大きく扱われ、哲学としての側面が強調されている。とりわけVerkörperung(具有化)という術語によって象徴の現実化・イメージ化が論じられ、experimentum cruciis(決定実験)によって実証主義的な自然観が展開される。ヴィントが、ドイツにおける最初のパース紹介者であり、その一方で『ロゴス』誌上でホワイトヘッド批判を繰り広げているというのも興味深い。
 『実験と形而上学』の本文も再刊され、いくつかの有益な小論と合わせて編集されたため(Das Experiment und die Metaphysik, hg. B. Buschendorf, Suhrkamp 2001)、ヴィントの「哲学」がだいぶ近づきやすくなってきた。論集の編者ブレーデカンプも彼自身が、ヴンダーカマーなどに関しての創造的な議論を展開している。( → II-2)



リスト:2007年, 2006年, 2005年, 2004年, 2003年, 2002年(2), 2002年(1)